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『銅御蔵御掛物御歌書極代付之帳』の翻刻と解題

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『銅御蔵御掛物御歌書極代付之帳』の翻刻と解題

著者 小野 真由美, 恵美 千鶴子

雑誌名 美術研究

号 425

ページ 21‑23

発行年 2018‑07‑02

URL http://doi.org/10.18953/00008930

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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『銅御蔵御掛物御歌書極代付之帳』の翻刻と解題

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二一     概要

  が あ り、 「 昭 和 四 年 二 月 購 入 」 と 記 さ れ る。 内 表 紙 に は、 中 川 忠 順 ( 一 八 七 三 ~ 一 おり、 その見返しには、 「中川文庫」 (朱文長方印 ( 、「美術研究所所蔵」 (朱文長方印 (   とつである。縦二六・六㎝ 横一八・八㎝、二十二丁。浅葱色の表紙が装丁されて   『 銅 御 蔵 御 掛 物 御 歌 書 極 代 付 之 帳 』は、東京文化財研究所が所蔵する貴重書のひ

どうのおんくらおかけものおうたしょきわめだいつけのちょう

九 二 八 ( の 蔵 書 印 で あ る 白 文 方 印「 月 在 天 心 」 が 捺 さ れ る

((

。「 中 川 文 庫 」 と は、 東 京帝国大学で東洋美術史を学び、 帝室博物館学芸委員などを歴任した中川の蔵書を、 美術研究所の創立(一九三〇 ( 前年に購入し成ったものである。

  ま た、 内 表 紙 見 返 し に は、 朱 文 長 方 印「 花 迺 家 文 庫 」 を 捺 し た 蔵 書 票 が 貼 ら れ、 奥扉には朱文長方印「隅坂十一代主写蔵記」を捺した蔵書票があり、かつては須坂 藩主 ・ 堀直格 (一八〇六~八〇 ( の蔵書、 花迺家文庫に収められていたものとわかる。 直格は、 文人大名として知られ、 画史『扶桑名画伝』を著したことでも知られるが、 後世にその蔵書の一部が中川の手にわたったものとみられる。

  本資料の成立は、 内表紙に 「元禄四辛未年正月」 とあり、 元禄四年 (一六九一 ( に、 狩野益信 (洞雲 ( 、狩野常信 (養卜 ( 、古筆了珉、 古筆了仲らが、 柳営御物の「極め」 (鑑 定 ( と「 代 付 」 ( 金 銭 評 価 ( を 行 っ た 際 と 考 え ら れ、 そ の と き の 帳 面 を 祖 本 と す る も のとみられる。よって、徳川将軍家コレクションの名物集である「柳営御物集」諸 本のひとつと位置付けられ る

((

  そもそも「柳営御物集」は、若年寄の前身とされる六人衆のひとりで、御数寄屋 支 配

((

で あ っ た 松 平 信 綱 ( 一 五 九 六 ~ 一 六 六 二 ( が、 寛 永 二 十 一 年 ( 一 六 四 四 ( に 御 道 具 帳 を 編 み、 三 代 将 軍 家 光 ( 一 六 〇 四 ~ 五 一 ( に 献 じ た の が は じ め と い う

((

。 そ の 御 道 具 帳 の 写 し が『 御 数 寄 道 具 之 帳 』 ( 東 京 大 学 附 属 図 書 館 ( と し て 伝 わ り、 そ れ に よ ると、寛永二十一年の時点での柳営御物は、茶道具・書画あわせて一四五点で構成 されており、そのうち書画は四十五点であった。

  し か し、 そ う し た 家 康 以 来 の 道 具 類 の 多 く は、 明 暦 の 大 火 ( 一 六 五 七 ( に お い て 江戸城本丸・二の丸・三の丸が焼失した際に罹災し、焼け残ったものも格下げとな っ た と い う 。 明 暦 の 大 火 後 、 寛 文 五 年 ( 一 六 六 五 ( 十 一 月 八 日 に 、 片 桐 貞 昌 ( 石 州

一 六 〇 五 ~ 七 三 ( が 柳 営 御 物 の 鑑 定 を 行 っ た と 伝 わ る が

((

、 詳 細 は 明 ら か で は な い。 い ず れ に せ よ、 昌 平 坂 学 問 所 旧 蔵 の『 諸 家 遺 物 得 物 献 上 記 』 ( 国 立 公 文 書 館 ( に は、 徳 川 将 軍 家 へ の 献 上 品 が 慶 長 十 六 年 ( 一 六 一 一 ( か ら 記 録 さ れ て い る が、 そ れ を み ても、大火直後から諸大名の献上品によって、柳営御物の再構築の兆しがみえつつ あったと推測される。

  本資料をみると、元禄四年には、柳営御物は寛文五年の鑑定時よりも、いっそう 充実したものとなっており、 書画あわせて七十二点が記されている。 よって、 この 『銅 御蔵御掛物御歌書極代付之帳』は、大火を経た柳営御物の変遷を確認しうる貴重な 資料といえる。また、当時の書画に対する価値観や鑑定内容などを明記した数少な い資料のひとつといえよう。ただし、本資料には、柳営御物のうち書画のみが抄出 されており、道具類の記載がない。これは、当時、書画の鑑定が制度上確立してい たことを示唆する。すなわち元禄年間頃までには、古筆家と狩野家は幕府によって 権威付けられ、制度上の地位も保証されていたことと密に関わるといえよ う

((

  本 資 料 は、 「 御 掛 物 」「 御 歌 書 」 の 二 部 構 成 に な っ て い る が、 「 御 掛 物 」 で は、 書 は墨蹟、和歌、ふたたび墨蹟、という順に列記され、つづいて絵画は宋元画のあと に狩野元信の三幅対で締められ、さらに小倉色紙と無準師範自画賛が添えられてい る。 「御歌書」では、 定家の伊勢物語を筆頭に、 和歌集などが列記されるが、 耕作図、 研   究   資   料

『銅御蔵御掛物御歌書極代付之帳』の翻刻と解題

小 野 真 由 美 恵 美 千 鶴 子

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(3)

美   術   研   究    四   二   五   号

22

二二

三十六歌仙図、土佐派絵画がそこに加えられ、さらに書と絵画が不規則に添えられ て 終 わ る。 よ っ て、 「 御 掛 物 」 す な わ ち 掛 幅 形 式 と「 御 歌 書 」 す な わ ち 巻 子 や 冊 子 形式という分類はなされてはおらず、編者には、形式や主題などを峻別する意図が 薄かったとみられる。

  な お、 宝 永 元 年 ( 一 七 〇 四 ( に「 本 庄 因 幡 守 」 よ り 献 上 さ れ た 和 漢 朗 詠 集 や、 元 禄十四年 (一七〇一 ( に「丹羽玉峰」より献上された元信の三幅対、 元禄十五年 (一 七 〇 二 ( に「 本 庄 安 芸 守 」 よ り 献 上 さ れ た 無 準 師 範 自 画 讃 の 記 載 は、 成 立 年 以 降 の 情報であることに留意すべきであろう。ただし、書写された時期の情報が加筆され たとはいえ、 祖本の鑑定内容を忠実に伝える希少な伝本であるといえよう。 (小野 (

    古筆家について

  書の筆者の鑑定は、古くより行われていた。平安時代中期の能書で「三跡」の一 人 で あ る 藤 原 行 成 ( 九 七 二 ~ 一 〇 二 七 ( も、 日 記『 権 記 』 に 筆 者 を 見 極 め た こ と を 記 し て い る ( 長 保 二 年〔 一 〇 〇 〇 〕 八 月 九 日 条 ( 。 室 町 時 代 以 降 に、 茶 の 湯 の 流 行 も 重なって、巻子本や冊子本だった古筆が分割され断簡となり、その筆者を鑑定する こともさかんに行われるようになった。

  平沢弥四郎 (一五七二~一六六二 ( は、 古筆鑑定を家業とし、 古筆了佐を名乗った。 了佐の時代には、 烏丸光廣 (一五七九~一六三八 ( や松花堂昭乗 (一五八四~一六三九 ( なども極書を残している。光廣は、 「本阿弥切」 (巻十四巻末、 寛永十四年〔一六三七〕 極 ( 、 昭 乗 は「 竹 生 島 経 」 ( 方 便 品 巻 末、 寛 永 四 年〔 一 六 二 七 〕 極 ( な ど で あ る。 そ の ような時代に了佐は古筆見を本業とし、その子孫が古筆本家と古筆別家としてそれ ぞれで代々古筆見を続けた。

  本資料で、 徳川将軍家の書の極めと代付を行っている古筆見は、 次の三人である。

  古筆了珉 (一六四五~一七〇一 (   古筆本家五代。

  古筆了仲 (一六五六~一七三六 (   古筆別家三代目。 (二代了任の養子 ( 。

  古筆了音 (一六七四~一七二五 (   了珉の子。六代。   了珉と了仲は、古筆家の中でも初めて幕府の古筆見となった二人である。その仕 事を明らかにするものとして、この『銅御蔵御掛物歌書極代付之帳』が存在してい る こ と は 貴 重 で あ る。 ま た、 例 え ば「 千 載 集 」 を み る と、 「 為 明 筆 」 と さ れ て い る も の を、 「 世 尊 寺 定 成 」 と し て「 代 金 十 枚 」 と し、 た だ し「 為 明 」 な ら ば「 代 金 十 五枚」とするなど、当時の古筆の価値・格付けがわかることは非常に珍しい。この 鑑定 ・ 代付は、当初は了珉と了仲で行われたものが、 「歌書」の鑑定は宝永三年 (一

七 〇 六 ( の 記 録 ま で 続 い て お り、 途 中 か ら は、 了 珉 に 代 わ り、 そ の 子 息・ 了 音 が 引 き継いでいる。         (恵美 (

    狩野家について

  狩野家による古画の鑑定については、狩野探幽による鑑定控え「探幽縮図」をは じ め、 狩 野 安 信 の 鑑 定 書「 狩 野 安 信 添 状 留 帳 」 ( 東 京 藝 術 大 学 所 蔵 ( な ど、 さ ま ざ ま な 例 が 知 ら れ て い る。 狩 野 家 に よ る 鑑 定 は、 幕 府 御 用 か ら 諸 家 所 蔵 品 の 鑑 定 ま で、 幅広く行われた。しかし、幕府御用の鑑定については不明な部分が多かった。本資 料 で は 探 幽 の 養 子・ 益 信 ( 洞 雲   一 六 二 五 ~ 九 四 ( が 筆 頭 と な り、 常 信 ( 養 卜   一 六 三 六 ~ 一 七 一 三 ( と と も に 鑑 定 を 行 っ て い る。 柳 営 御 物 の 鑑 定 は、 当 時 の 最 高 位 の 絵師があたったとみてよく、元禄四年頃の狩野家が、益信、常信を上位者としてい たことがわかる。また、益信没後にあたる先述の加筆された部分では、常信を筆頭 と し て、 探 信 ( 一 六 五 三 ~ 一 七 一 八 ( と 探 雪 ( 一 六 五 五 ~ 一 七 一 四 ( が 鑑 定 し て お り、 益 信 亡 き 元 禄 七 年 ( 一 六 九 四 ( 以 降 は、 常 信 の 格 付 け が 最 上 位 と な っ て い た こ と が わかる。

  鑑 定 さ れ た 御 物 の な か で、 も っ と も 注 目 す べ き は、 「 阿 部 備 中 守 」 こ と 阿 部 定 高

(一六三五~一六五九 ( 献上の 「竹雀   牧 渓

(ママ(

筆」 である。これを益信は 「ぬれ雀名物」 と 鑑 定 し て お り、 上 が り 所

どころ

か ら み て も、 伝 牧 谿 筆「 竹 雀 図 」( 根 津 美 術 館 所 蔵 ( の 伝来と一致する。先論をみると、これまで「竹雀図」が柳営御物であったことは指 摘されていない。献上・下賜されることで揺れ動く徳川将軍家コレクションは、そ れゆえ実態を捉えがたいのだが、その一端を示す事例といえよう。

  また、 当時の絵画の価値観を示す例としては、 酒井忠勝 (空印   一五八七~一六六二 (

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二三 『銅御蔵御掛物御歌書極代付之帳』の翻刻と解題 献上の「二十八祖図」四巻を、益信は「右、明朝末の唐絵、代及ばず」としている ことである。常信も「右、新らしき唐絵、筆知らず、代付に及ばずと申し候」とし ており、明代末期の絵画への金銭評価の低さを示す具体例として特筆すべきであろ う。   ま た「 百 鬼 夜 形

(ママ(

  土 佐 筆 」 と 鑑 定 さ れ て い る 徳 川 光 圀 ( 一 六 二 八 ~ 一 七 〇 一 ( の 献 上 に な る 百 鬼 夜 行 図 に つ い て は、 同 本 の 写 し と み ら れ る 作 例 が 伝 わ る。 「 百 鬼 夜 行 図 」 ( 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 所 蔵 ( が そ れ で、 水 戸 家 ゆ か り の 儒 者・ 人 見 竹 洞 ( 一 六

三 八 ~ 九 六 ( の 織 語 が あ り、 益 信 の「 右 百 鬼 夜 行 御 古 画 写 之   狩 埜 洞 雲 筆 」 の 款 記 が あ る。 年 紀 の「 甲 子 之 夏 」 と は、 お そ ら く は 天 和 四 年 ( 貞 享 元 年〔 一 六 八 四 〕( の ことであろう。献上以前、あるいは献上時に写されたものかもしれない。

  以上、数例を示したにすぎないが、江戸時代の鑑定の実例として、コレクション の流動性を示すものとして、そして古筆家と狩野家の身分を考えるうえで、示唆に 富んだ資料であるといえよう。       

(小野 (

註 (

  (( 東 京 文 化 財 研 究 所 情 報 調 整 室 資 料 閲 覧 室 編『 東 京 文 化 財 研 究 所 蔵 書 目 録

( は六人部克典氏(東京国立博物館 ( にご教示いただいた。   東 洋 古 美 術 関 係 和 文 編 』 二 〇 〇 三 年、 一 四 頁 お よ び 一 八 ~ 一 九 頁。 印 文 に つ い て   ( 日 本

―― 柳 営 御 物 絵 画 の 和 物 へ の 傾 斜 」『 日 本 美 術 全 集 勉 誠 出 版、 一 九 九 九 年、 二 四 七 ~ 二 三 八 頁。 同「 将 軍 御 成 の「 し つ ら い 」 に つ い て     (( 矢野環 『君台観左右帳記の総合研究――茶華香の原点 江戸初期柳営御物の決定』

( 図』小学館、二〇一四年、一九六頁。 ((     江 戸 時 代 Ⅰ 狩 野 派 と 遊 楽

  『 ((

徳 川 実 紀 』 寛 永 十 年 四 月 十 九 日 条 に「 こ の 日、 稲 葉 丹 後 守 正 勝、 太 田 備 中 守 資 宗 は 猿 楽 等 を 所 属 と し、 松 平 伊 豆 守 信 綱、 堀 田 加 賀 守 正 盛 は 数 寄 屋 及 諸 工 人 所 属 と し、 阿 部 豊 後 守 忠 秋、 三 浦 志 摩 守 正 次 は 腰 物 方 刀 工 所 属 と し、 万 事 査 検 す べ し と 仰 付 ら れ 」 と あ る( 傍 線 は 著 者。 『 新 訂 増 補   徳 川 実 紀 』 第 二 篇、 吉 川 弘 文 館、 一 九 七六年、五九六頁 (。 (

御前へ差上之留也/松平伊豆守」とある。 京 大 学 附 属 図 書 館 ( 奥 書 に も「 寛 永 廿 一 年 申 八 月 十 八 日 / 右 之 御 数 寄 道 具 注 帳 面、     (( 高 木 文『 校 訂 柳 営 御 物 』 好 日 書 院、 一 九 三 三 年、 三 頁。 『 御 数 寄 道 具 之 帳 』( 東 (

  (( 前 掲 註

( 六年、 五五〇頁 (。ただし、 このとき柳営御物の鑑定を行ったのかは明らかではない。   茶 を 献 じ た こ と が 記 さ れ る( 『 新 訂 増 補 徳 川 実 紀 』 第 四 篇、 吉 川 弘 文 館、 一 九 七 を 陳 設 し て 退 く( 後 略 (」 と あ り、 片 桐 貞 昌( 石 州 ( が、 船 越 永 景 と と も に 将 軍 に き も の ゆ へ に か く め さ れ し と ぞ、 ( 中 略 ( 貞 昌 今 朝 茶 室 に 入 て 掛 幅 を か ゝ げ、 茶 器 見 守 貞 昌 并 に 普 請 奉 行 船 越 伊 予 守 永 景 を 召 れ、 茶 技 を 御 覧 ぜ ら る、 此 両 人 そ の 名 高 (、 高 木、 三 頁。 『 徳 川 実 紀 』 寛 文 五 年 十 一 月 八 日 条 に は、 「 こ の 日 片 桐 石 の拝領をうけるなど禄をえていた。 を 与 え ら れ た の を は じ め、 宗 家 の 安 信 も 代 々 の 知 行 を 安 堵 さ れ、 十 五 人 扶 持 と 屋 敷 領、 寛 永 五 年( 一 六 二 八 ( に 二 十 人 扶 持、 寛 文 四 年( 一 六 六 四 ( に 二 〇 〇 石 の 知 行 僧 位 叙 任 に よ っ て 奥 絵 師 な ど の 職 格 を え て い た。 ま た、 探 幽 が 元 和 年 間 に 屋 敷 を 拝   (( 古 筆 家 は、 江 戸 幕 府 の 職 制 で は 古 筆 見 と し て 寺 社 奉 行 下 に 置 か れ た。 狩 野 家 は、

(おの

 

まゆみ・文化財情報資料部主任研究員 ( (えみ

 

ちづこ・東京国立博物館百五十年史編纂室長 (

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