バフレーン調査報告書
研究代表者 高橋 和夫
URL http://id.nii.ac.jp/1509/00000891/
パフレーン調査報告書
夫 橋 和
高
1
1.序
1987年の夏、8月7日から8月31日まで3週間にわたり文部省の海外学術 研究費の補助を受けてパフレーンにおいて現地調査を行なった。以下はその 調査報告書である。調査は、国立民族学博物館教授、片倉素子を研究代表者 とする共同研究、「湾岸地域における文化融合と文化摩擦に関する比較研究」
の一環として行なった。
本研究の主要な目的は1985年に完成し、1986年11月から一般の使用に供さ れているサウジ・アラビアとパフレーンを結ぶ架橋のパフレーンへの文化的 インパクトを調査することであった。全長25kmのこの橋、コーズ・ウェイは、
5年の歳月と12億ドルの巨費を投じて建設されたものであり、この完成によ ってパフレーン島とサウジ・アラビア、つまりアラビア半島を結びつけると いう30年来の構想が実現された。なお建設費用は全額サウジ・アラビアが負
担した。
禁欲的なイスラム教ワッハーブ派の国サウジ・アラビアとペルシャ湾岸で は珍しくコスモポリタンな雰囲気を有するパフレーンが地続きとなったわけ だ。またサウジ・アラビアが大産油国であるのに対し、パフレーンの石油資 源は既に枯渇しており、同国は金融・サービス、観光といった部門へその将 来を託そうとしている。こうした対照的な社会・経済体制下の両国民が橋を 通じて直接に交流を始めた。橋の開通以来、日平均3千台の車がこの橋を渡っ ている。1987年度にはのべ450万人がこの橋を利用した。それぞれの車が、
それぞれの文化接触のドラマを演じている。この文化接触のパフレーンにお
ける実態に、通関統計やその他のデータ収集、さらに聞き取り調査によって
アプローチすることが本調査の主要眼目であった。さらに考古学の分野を除
いてはパフレーンに関する研究が我が国では皆無な現状に鑑み、パフレーン
の文化、社会、政治について、貧欲に可能な限りの調査を行なうこともその
目的の一つであった。第三の目的は、ペルシア湾岸地域と日本との文化交流 推進の一一環として、また今後の研究継続の足場を固める上からも、パフレー
ンにおける人的コンタクトのネットワークを確立することであった。
2.パフレーンの社会構成
パフレーンはペルシア湾に浮かぶ大小33の島からなる国で、その総面積は 670平方キロメートルである。これは日本の淡路島とほぼ同じ面積である。
このパフレーンの中心をなすパフレーン(マワル)島とサウジ・アラビアが コーズ・ウェイで結ばれたわけである。この橋の開通のインパクトを探るた めには、まず開通以前のパフレーン社会について若干説明する必要があろう。
パフレーンの人口の大半は元来シーア派であり、彼らは伝統的にはなつめ やしの栽培に代表される農業従事者であった。ペルシア湾岸には珍らしくパ フレーンには泉が湧いており、このオアシスの水が古来よりパフレーンの農 業を支えてきた。また水産業も盛んであり、殊に天然真珠の採取は、1930年 代に世界市場に日本の人工養殖真珠が姿を現わすまでパフレーンの主要産業 であった。
伝統的にイラクやイランのシーア派の人々との結びつきが深く、特にイラ ンは古代アケメネス朝ペルシア帝国の時代より、しばしばパフレーンを支配
してきた。
このパフレーンを18世紀後半に征服したのがハリーファ家に率いられた部
族オトゥーブであった。オトゥーブはアラビア半島からやってきたスンニー
派の部族であり、シーア派先住民の激しい抵抗を排してその支配権を確立し
た。この体制が基本的には今日まで続いているわけである。現在パフレーン
におけるスンニー派とシーア派の比率は、スンニー派30パーセント、シーア
派70パーセントぐらいと推定されている。つまり少数派が多数派の上に君臨
しているわけである。これがパフレーン社会の構成上の最重要なポイントで
ある。
事実スンニー派は自らをパフレーニーと呼ぶのに対し、古来からパフレー ンに在住してきた人々、つまりシーア派は自らをパフラーニー(複数形バハ ルナー)と呼んでアラビア語では区別している。その体形も前者は概して大柄 であり、体躯堂々といった印象を与えるのに対し、後者は往々にして小柄な 場合が多い。
またスンニー派、特にハリーファ家を中・じ・とする支配層は、少なくとも戦 前においてはバハルナーをアラブとはみなしていなかったようだ。長年に渡 りパフレーン政府の顧問を勤めたイギリス人の記録によると、支配層は自ら のみをアラブと規定し、後者にはバハルナーとしてのみ言及しており、アラ ブとは考えていなかったふしがうかがえる。
このスンニー派、シーア派の差異はしばしば名前によって判断できるし、
居住地区によっても歴然としている。スンニー・シーアの混住地区は、首都 マナマ、そして新たにベッド・タウンとして人工的に砂漠に建設されたイサ・
タウン等に限定されている。宮殿のあるリーファ、そしてコーズ・ウェイの パフレーン側からの入り口のあるブダイア等がスンニー派の主要居住地域で あり、他の大多数の地域、特に農村部はシーア派地域となっている。こうし たスンニー派、シーア派の居住地域は外部の者にとっても区別の容易なほど である。それは、一般的にスンニー派地域の方が高級かつ近代的な外見を有 している点、またモスクの装飾様式の相違によっても一目瞭然としている。
さらにマナマやムハッラクのような混住地域でも、地域内を細かく見れば、
やはりスンニー派地域とシーア派地域が別れているのが普通である。「混住」
とは言っても決して両者が渾然一体となっているわけではない。
私の調査を行なったマナマ市内でもそれは明らかであった。ことにシーア
派地域では、シーア派の指導者フセインの殉教を追体験する行事アシュラの
際に使われるマアタムと呼ばれる建物の存在がそのメルク・マールとなる。
マアタムとは「葬儀の家」を意味する公民館的な建物で、一般にはどうもア シューラの時にだけ集会の場として使われるようである。そのコミュニティ の成功者が寄進するのが普通であり、もしそのコミュニティがマアタムをも たない際には、普通の民家の一部がその代用として使われている。
このシーア派人口も実は一枚岩なわけではない。その大半をしめるバハル ナーの他に、イラン系の人々マジャミーとパキスタン系の人々バーキスタニー という二つのシーア派のコミュニティがある。つまりシーア派はバハルナー、
マジャミー、バーキスタニーの三つに区分できるわけだ。バハルナーが伝統 的には、なつめやし栽培農民であり、また漁民であったのに対し、マジャ
ミーにはまたバーキスタニーには商人が多い。
バハルナーの大半が農村に居住しているのに対し、マジャミーやバーキス タニーはマナマのような都市に集中している。
シーア派の三コミュニティーの区別はアシュラの際に明白となる。それは アシュラの行進にそれぞれのコミュニティーが別々に繰り出すからである。
最も激しく、胸打ち等の儀式を行なうのが人数的には最も少ないバーキスタ ニーと言われている。
パキスタンのシーア派はその大半が市民権をもたない出稼ぎであるが、マ ジャミーの場合、イランとパフレーンのパスポートを二重に有している場合 が多いようだ。またバハルナーが一般的には伝統的なペルシア湾岸アラブの 衣裳ディスダーシャを着るのに対し、マジャミーは洋服を着用している場合 が多く、服装からも区別が可能である。
ちなみにマジャミーが多数パフレーンに住みつくようになったのは、1930 年代の石油開発により労働力需要が高まったためと言う。
パフレーンでは、この他にも多数の外国人出稼ぎが働いている。ホワイト・
カラー出稼ぎである日本人ビジネスマン、欧米系の技術者群、さらには単純
肉体労働者としてインド亜大陸からのモスレムと非モスレムの出稼ぎの人々
が目につく。さらにホテル等のサービス部門にフィリピン人が多く見られる。
これはその英語力を買われての事であり、ペルシア湾岸アラブ諸国全体に見 られる現象である。
ホワイト・カラーが出稼ぎで目立つのは、かつての宗主国らしく2万人の イギリス人である。日本人が数百人しかいないのと比較すればその存在の大
きさが想像できよう。
またペルシア湾情勢の緊張時であったため、パフレーンを基地とする米軍 関係者の数も増えていた。さらにはホワイト・カラーと単純肉体労働者群の 中間的な位置を占める韓国人、台湾人の数もかなりにのぼっていた。
フィリピンやインド亜大陸出身者の大半がマナマに在住するのに対し、欧 米、日本からのホワイト・カラーはマナマとブダイヤを結ぶハイウェイ沿いの コンパウンドと呼ばれる高級住宅地に家族とともに住んでいる。一方単身者 はマナマ市内にアパートをあるいはホテルの一室を借りるようだ。また石油 技術者の大半はマワリーという名の石油の街に居住している。
パフレーンの社会構成でどうしても言及しておかなければならないのが、
その治安・軍事面である。パフレーンの指導者シェイブ(君主)の親衛隊は ヨルダン軍であり、また警察にはイエメン人、パキスタンの少数民族バルー チ等が雇用されている。さらに多数のパキスタン軍が自動小銃を手にした姿 でマナマ市内外に配置されている。
最後に数字の面から見てみると、人口42万のうち12万人が外国人労働者と 言われている。
他の湾岸アラブ産油国に比べると、外国人の比率は低いのであるが、大き
な存在であることには変わりがない。こうした複雑な構成の社会によって新
たな文化的衝撃が加えられるようになったわけである。
3.コーズ・ウェイの影響
(a)経済的インパクト
最も顕著なのはサウジ・アラビアから車で乗りつける観光客の急増でホテ ル、レストラン業が潤っていることである。言うまでもなくサウジ・アラビ アは禁酒国であり、一方パフレーンでは飲酒が許されている。
多数のサウジ・アラビア人の目的はこの飲酒にあるようだ。ただサウジ・
アラビアからの客を良く観察すると、彼らは二つのグループに大別できる。
一・ ツは若年層であり、他はサウジ・アラビア社会でも最底辺に位置する人々 である。後者の場合、英語力も十分ではない(パフレーンのホテルの従業員 にはインド人、フィリピン人、ベンガリー、つまりバングラデシュからの出 稼ぎが多く、アラビア語が通じない場合が多い)。一族郎党を車に乗せてやっ
てきたという風1青で、さあ今から罪を犯すそという、罪悪感と緊張感にふる えながらカタコトの英語でビールを注文しているのがパフレーンのバーで見 受けられる。つまりヨーロッパやアメリカに旅行できる層ではなく、これま で海外旅行にもアルコールにも無縁だった人々がパフレーンへ、アルコール を求め、刺激を求め、罪を求めてやってきているわけである。パリやロンド ンやニューヨークがサウジ・アラビアの金持ち階級の訪れる銀座の高級クラ ブであるとすれば、パフレーンは貧乏人が酒を飲むペルシア湾岸の「赤提灯」
としての機能を果たし始めたようである。
ちなみに二流ホテルのバーでのビールの値段がハイネケンの小瓶が1パフ レーン・ディナールをちょっと切るぐらい。つまり今の円にすると300円ぐ らいであろうか。日本人の感覚としては、まずまずの値段であるが、たとえ ばインド人のボーイなどの手取りが月100パフレーン・ディナール程度であ
ることを考えると、出稼ぎ肉体労働者にとっては大変な値段であろう。
とは言え、橋の開通直後のレストランやバーの爆発的なブームは峠を越した
ようである。たとえばホテルの客室使用率も開通時の100パーセントから60
パーセントぐらいにまで下がってきている。開通前は30パーセント程度と言 われていたそうであるから、言わば高い所で安定したと言えそうである。こ の客室使用率の低下の一要因は、サウジ・アラビアからの客が日帰りをする ようになり、ホテルに宿泊しなくなったからだという。後に述べるような政 府の努力にもかかわらず、パフレーン自体には訪問客の足を長く留め得る観 光資源がまだまだ乏しいわけだ。
レストランのボーイの話によると、最も多忙なのは水曜日の夜で、その夜 は宿泊して木曜あるい,は金曜の朝にサウジ・アラビアへ帰るというのが宿泊 組の訪問パターンのようである。
いずれにしろ多数のサウジ・アラビアからの旅行者は、パフレーンの経済 を着実にサウジ・アラビア経済へ巻き込みつつある。街で買い物の際、釣銭 を受けとると、その中にサウジ・リアルが当然のような顔をして含まれてい ることがしばしばであった。
人々は両替というわずらわしい手続きを省略し、サウジ・リアルをそして クウェイト・ディナールをパフレーンで正々堂々と直接に流通させているわ けである。首都マナマはサウジ・リアルとパキスタン兵に占領された観さえ ある。またアラビア半島と陸続きとなったということは、サウジ・アラビア とばかりでなく、パフレーンがアラブ世界全体と陸続きとなったことを意味
している。
事実サウジ・アラビアへばかりでなくヨルダンへ、あるいはオマーンへ、
アラブ首長国連邦へ、休日にドライブしてきたといったような会話が日常的 に聞かれるようになっている。殊にサウジ・アラビア、クウェイト、アラブ 首長国連邦、オマーンといった湾岸協力機構の加盟国との交流は一層密接化 してきている。安ホテルのフロントの係員の客との宿泊料の交渉を観察して いても、パフレーン・ディナールならいくら、サウジ・リアルならいくら、
あるいはクウェイト・ディナールならいくらと言った会話がかわされており、
パフレーンが通貨の面ではサウジ・アラビアを中心とする湾岸協力機構に吸
ト