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バフレーン調査報告書

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バフレーン調査報告書

研究代表者 高橋 和夫

URL http://id.nii.ac.jp/1509/00000891/

(2)

パフレーン調査報告書

夫 橋 和

1

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1.序

 1987年の夏、8月7日から8月31日まで3週間にわたり文部省の海外学術 研究費の補助を受けてパフレーンにおいて現地調査を行なった。以下はその 調査報告書である。調査は、国立民族学博物館教授、片倉素子を研究代表者 とする共同研究、「湾岸地域における文化融合と文化摩擦に関する比較研究」

の一環として行なった。

 本研究の主要な目的は1985年に完成し、1986年11月から一般の使用に供さ れているサウジ・アラビアとパフレーンを結ぶ架橋のパフレーンへの文化的 インパクトを調査することであった。全長25kmのこの橋、コーズ・ウェイは、

5年の歳月と12億ドルの巨費を投じて建設されたものであり、この完成によ ってパフレーン島とサウジ・アラビア、つまりアラビア半島を結びつけると いう30年来の構想が実現された。なお建設費用は全額サウジ・アラビアが負

担した。

 禁欲的なイスラム教ワッハーブ派の国サウジ・アラビアとペルシャ湾岸で は珍しくコスモポリタンな雰囲気を有するパフレーンが地続きとなったわけ だ。またサウジ・アラビアが大産油国であるのに対し、パフレーンの石油資 源は既に枯渇しており、同国は金融・サービス、観光といった部門へその将 来を託そうとしている。こうした対照的な社会・経済体制下の両国民が橋を 通じて直接に交流を始めた。橋の開通以来、日平均3千台の車がこの橋を渡っ ている。1987年度にはのべ450万人がこの橋を利用した。それぞれの車が、

それぞれの文化接触のドラマを演じている。この文化接触のパフレーンにお

ける実態に、通関統計やその他のデータ収集、さらに聞き取り調査によって

アプローチすることが本調査の主要眼目であった。さらに考古学の分野を除

いてはパフレーンに関する研究が我が国では皆無な現状に鑑み、パフレーン

の文化、社会、政治について、貧欲に可能な限りの調査を行なうこともその

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目的の一つであった。第三の目的は、ペルシア湾岸地域と日本との文化交流 推進の一一環として、また今後の研究継続の足場を固める上からも、パフレー

ンにおける人的コンタクトのネットワークを確立することであった。

2.パフレーンの社会構成

 パフレーンはペルシア湾に浮かぶ大小33の島からなる国で、その総面積は 670平方キロメートルである。これは日本の淡路島とほぼ同じ面積である。

このパフレーンの中心をなすパフレーン(マワル)島とサウジ・アラビアが コーズ・ウェイで結ばれたわけである。この橋の開通のインパクトを探るた めには、まず開通以前のパフレーン社会について若干説明する必要があろう。

 パフレーンの人口の大半は元来シーア派であり、彼らは伝統的にはなつめ やしの栽培に代表される農業従事者であった。ペルシア湾岸には珍らしくパ フレーンには泉が湧いており、このオアシスの水が古来よりパフレーンの農 業を支えてきた。また水産業も盛んであり、殊に天然真珠の採取は、1930年 代に世界市場に日本の人工養殖真珠が姿を現わすまでパフレーンの主要産業 であった。

 伝統的にイラクやイランのシーア派の人々との結びつきが深く、特にイラ ンは古代アケメネス朝ペルシア帝国の時代より、しばしばパフレーンを支配

してきた。

 このパフレーンを18世紀後半に征服したのがハリーファ家に率いられた部

族オトゥーブであった。オトゥーブはアラビア半島からやってきたスンニー

派の部族であり、シーア派先住民の激しい抵抗を排してその支配権を確立し

た。この体制が基本的には今日まで続いているわけである。現在パフレーン

におけるスンニー派とシーア派の比率は、スンニー派30パーセント、シーア

派70パーセントぐらいと推定されている。つまり少数派が多数派の上に君臨

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しているわけである。これがパフレーン社会の構成上の最重要なポイントで

ある。

 事実スンニー派は自らをパフレーニーと呼ぶのに対し、古来からパフレー ンに在住してきた人々、つまりシーア派は自らをパフラーニー(複数形バハ ルナー)と呼んでアラビア語では区別している。その体形も前者は概して大柄 であり、体躯堂々といった印象を与えるのに対し、後者は往々にして小柄な 場合が多い。

 またスンニー派、特にハリーファ家を中・じ・とする支配層は、少なくとも戦 前においてはバハルナーをアラブとはみなしていなかったようだ。長年に渡 りパフレーン政府の顧問を勤めたイギリス人の記録によると、支配層は自ら のみをアラブと規定し、後者にはバハルナーとしてのみ言及しており、アラ ブとは考えていなかったふしがうかがえる。

 このスンニー派、シーア派の差異はしばしば名前によって判断できるし、

居住地区によっても歴然としている。スンニー・シーアの混住地区は、首都 マナマ、そして新たにベッド・タウンとして人工的に砂漠に建設されたイサ・

タウン等に限定されている。宮殿のあるリーファ、そしてコーズ・ウェイの パフレーン側からの入り口のあるブダイア等がスンニー派の主要居住地域で あり、他の大多数の地域、特に農村部はシーア派地域となっている。こうし たスンニー派、シーア派の居住地域は外部の者にとっても区別の容易なほど である。それは、一般的にスンニー派地域の方が高級かつ近代的な外見を有 している点、またモスクの装飾様式の相違によっても一目瞭然としている。

 さらにマナマやムハッラクのような混住地域でも、地域内を細かく見れば、

やはりスンニー派地域とシーア派地域が別れているのが普通である。「混住」

とは言っても決して両者が渾然一体となっているわけではない。

 私の調査を行なったマナマ市内でもそれは明らかであった。ことにシーア

派地域では、シーア派の指導者フセインの殉教を追体験する行事アシュラの

際に使われるマアタムと呼ばれる建物の存在がそのメルク・マールとなる。

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マアタムとは「葬儀の家」を意味する公民館的な建物で、一般にはどうもア シューラの時にだけ集会の場として使われるようである。そのコミュニティ の成功者が寄進するのが普通であり、もしそのコミュニティがマアタムをも たない際には、普通の民家の一部がその代用として使われている。

 このシーア派人口も実は一枚岩なわけではない。その大半をしめるバハル ナーの他に、イラン系の人々マジャミーとパキスタン系の人々バーキスタニー という二つのシーア派のコミュニティがある。つまりシーア派はバハルナー、

マジャミー、バーキスタニーの三つに区分できるわけだ。バハルナーが伝統 的には、なつめやし栽培農民であり、また漁民であったのに対し、マジャ

ミーにはまたバーキスタニーには商人が多い。     

 バハルナーの大半が農村に居住しているのに対し、マジャミーやバーキス タニーはマナマのような都市に集中している。

 シーア派の三コミュニティーの区別はアシュラの際に明白となる。それは アシュラの行進にそれぞれのコミュニティーが別々に繰り出すからである。

最も激しく、胸打ち等の儀式を行なうのが人数的には最も少ないバーキスタ ニーと言われている。

 パキスタンのシーア派はその大半が市民権をもたない出稼ぎであるが、マ ジャミーの場合、イランとパフレーンのパスポートを二重に有している場合 が多いようだ。またバハルナーが一般的には伝統的なペルシア湾岸アラブの 衣裳ディスダーシャを着るのに対し、マジャミーは洋服を着用している場合 が多く、服装からも区別が可能である。

 ちなみにマジャミーが多数パフレーンに住みつくようになったのは、1930 年代の石油開発により労働力需要が高まったためと言う。

 パフレーンでは、この他にも多数の外国人出稼ぎが働いている。ホワイト・

カラー出稼ぎである日本人ビジネスマン、欧米系の技術者群、さらには単純

肉体労働者としてインド亜大陸からのモスレムと非モスレムの出稼ぎの人々

が目につく。さらにホテル等のサービス部門にフィリピン人が多く見られる。

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これはその英語力を買われての事であり、ペルシア湾岸アラブ諸国全体に見 られる現象である。

 ホワイト・カラーが出稼ぎで目立つのは、かつての宗主国らしく2万人の イギリス人である。日本人が数百人しかいないのと比較すればその存在の大

きさが想像できよう。

 またペルシア湾情勢の緊張時であったため、パフレーンを基地とする米軍 関係者の数も増えていた。さらにはホワイト・カラーと単純肉体労働者群の 中間的な位置を占める韓国人、台湾人の数もかなりにのぼっていた。

 フィリピンやインド亜大陸出身者の大半がマナマに在住するのに対し、欧 米、日本からのホワイト・カラーはマナマとブダイヤを結ぶハイウェイ沿いの コンパウンドと呼ばれる高級住宅地に家族とともに住んでいる。一方単身者 はマナマ市内にアパートをあるいはホテルの一室を借りるようだ。また石油 技術者の大半はマワリーという名の石油の街に居住している。

 パフレーンの社会構成でどうしても言及しておかなければならないのが、

その治安・軍事面である。パフレーンの指導者シェイブ(君主)の親衛隊は ヨルダン軍であり、また警察にはイエメン人、パキスタンの少数民族バルー チ等が雇用されている。さらに多数のパキスタン軍が自動小銃を手にした姿 でマナマ市内外に配置されている。

 最後に数字の面から見てみると、人口42万のうち12万人が外国人労働者と 言われている。

 他の湾岸アラブ産油国に比べると、外国人の比率は低いのであるが、大き

な存在であることには変わりがない。こうした複雑な構成の社会によって新

たな文化的衝撃が加えられるようになったわけである。

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3.コーズ・ウェイの影響

  (a)経済的インパクト

 最も顕著なのはサウジ・アラビアから車で乗りつける観光客の急増でホテ ル、レストラン業が潤っていることである。言うまでもなくサウジ・アラビ アは禁酒国であり、一方パフレーンでは飲酒が許されている。

 多数のサウジ・アラビア人の目的はこの飲酒にあるようだ。ただサウジ・

アラビアからの客を良く観察すると、彼らは二つのグループに大別できる。

一・ ツは若年層であり、他はサウジ・アラビア社会でも最底辺に位置する人々 である。後者の場合、英語力も十分ではない(パフレーンのホテルの従業員 にはインド人、フィリピン人、ベンガリー、つまりバングラデシュからの出 稼ぎが多く、アラビア語が通じない場合が多い)。一族郎党を車に乗せてやっ

てきたという風1青で、さあ今から罪を犯すそという、罪悪感と緊張感にふる えながらカタコトの英語でビールを注文しているのがパフレーンのバーで見 受けられる。つまりヨーロッパやアメリカに旅行できる層ではなく、これま で海外旅行にもアルコールにも無縁だった人々がパフレーンへ、アルコール を求め、刺激を求め、罪を求めてやってきているわけである。パリやロンド ンやニューヨークがサウジ・アラビアの金持ち階級の訪れる銀座の高級クラ ブであるとすれば、パフレーンは貧乏人が酒を飲むペルシア湾岸の「赤提灯」

としての機能を果たし始めたようである。

 ちなみに二流ホテルのバーでのビールの値段がハイネケンの小瓶が1パフ レーン・ディナールをちょっと切るぐらい。つまり今の円にすると300円ぐ らいであろうか。日本人の感覚としては、まずまずの値段であるが、たとえ ばインド人のボーイなどの手取りが月100パフレーン・ディナール程度であ

ることを考えると、出稼ぎ肉体労働者にとっては大変な値段であろう。

 とは言え、橋の開通直後のレストランやバーの爆発的なブームは峠を越した

ようである。たとえばホテルの客室使用率も開通時の100パーセントから60

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パーセントぐらいにまで下がってきている。開通前は30パーセント程度と言 われていたそうであるから、言わば高い所で安定したと言えそうである。こ の客室使用率の低下の一要因は、サウジ・アラビアからの客が日帰りをする ようになり、ホテルに宿泊しなくなったからだという。後に述べるような政 府の努力にもかかわらず、パフレーン自体には訪問客の足を長く留め得る観 光資源がまだまだ乏しいわけだ。

 レストランのボーイの話によると、最も多忙なのは水曜日の夜で、その夜 は宿泊して木曜あるい,は金曜の朝にサウジ・アラビアへ帰るというのが宿泊 組の訪問パターンのようである。

 いずれにしろ多数のサウジ・アラビアからの旅行者は、パフレーンの経済 を着実にサウジ・アラビア経済へ巻き込みつつある。街で買い物の際、釣銭 を受けとると、その中にサウジ・リアルが当然のような顔をして含まれてい ることがしばしばであった。

 人々は両替というわずらわしい手続きを省略し、サウジ・リアルをそして クウェイト・ディナールをパフレーンで正々堂々と直接に流通させているわ けである。首都マナマはサウジ・リアルとパキスタン兵に占領された観さえ ある。またアラビア半島と陸続きとなったということは、サウジ・アラビア とばかりでなく、パフレーンがアラブ世界全体と陸続きとなったことを意味

している。

 事実サウジ・アラビアへばかりでなくヨルダンへ、あるいはオマーンへ、

アラブ首長国連邦へ、休日にドライブしてきたといったような会話が日常的 に聞かれるようになっている。殊にサウジ・アラビア、クウェイト、アラブ 首長国連邦、オマーンといった湾岸協力機構の加盟国との交流は一層密接化 してきている。安ホテルのフロントの係員の客との宿泊料の交渉を観察して いても、パフレーン・ディナールならいくら、サウジ・リアルならいくら、

あるいはクウェイト・ディナールならいくらと言った会話がかわされており、

パフレーンが通貨の面ではサウジ・アラビアを中心とする湾岸協力機構に吸

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収されつつある状況が良く見て取れた。こうした結果、パフレーンの通貨当 局は、国内での通貨の流通量をもはやコントロールできない事態に立ち至っ ているのではと推測される。この点に関する質問に対しては、BMA(Bahrain Monetary Agency,パフレーン通貨庁)のあるエコノミストは言葉を濁し、

その置かれている苦しい立場を逆に浮き彫りにしてみせた。

 だが多数のサウジ・アラビアの訪問客と彼らがもたらすサウジ・リアルに もかかわらず、一部商品を除けば物価の上昇は目立っていない。やはり数字 をあげると1986年にパフレーンを訪れた人数が26万人に過ぎないのに、コー ズ・ウェイ開通後の1987年度は上半期だけで140万人という訪問客があった。

 その大半はサウジ・アラビアからの人々であった。パフレーンの総人口の 3倍以上の人々が、しかもパフレーンよりも所得水準の高い国から流入すれ ば、インフレは不可避のように考えられる。この物価安定の秘密は何であろ

うか。

 その理由は、訪問客の大半が低所得層で、しかもホテルのバーの探険をそ の目的としており、その他のショッピング等は余り行なっていないからであ る。このショッピングが限定されているのは、サウジ・アラビアにはなくて パフレーンにのみあるという商品はアルコール以外には少なく、しかも物価 水準が一般的にはサウジ・アラビアの方が低いからである。(その例外はコー ズ・ウェイ開通後大きく値上りしたエビ等の一部海産物である。エビの場 合キロ・グラムあたり60円程度であったものがコーズ・ウェイ開通後は400円 から500円にまで価格が急騰したとのことであった。)

 従って、買い出しの流れは逆にパフレーンからサウジ・アラビアへと向かっ

ている。

 通関時間を入れても片道2時間のドライブで、サウジ・アラビアの東部地

区に到着することができる。今や両国は日帰り圏をなしており、物価の差は

人の流れを呼び起こすのである。パフレーンに比べるとマーケットとして遙

かに巨大なサウジ・アラビアでは商品のユニット・プライス、特に電機製品

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等の輸入製品の価格は低くなっている。また基礎生活物資などのようにサウ ジ・アラビアでは、政府の補助金によって人為的に安くなっている物資の存 在もパフレーン人にとっては大きな魅力のようだ。さらに両国間での間接税 率の違いも、価格差を大きくしている。たとえば自動車の税率はパフレーン では17パーセントなのに、サウジ・アラビアではわずか3パーセントにしか

過ぎない。

 この橋の開通のインパクトの予想に関しては、サウジ・アラビアからパフ レーンへの人の流ればかりが注目されていたきらいが強かった。しかし実際 には逆方向の流れが同じように大きな影響を及ぼしているのだ。これがパフ レーンの物価を引き下げる要因として作用していることは想像に難くない。

ちなみに通行料は片道2パフレーン・ディナール(660円ほど)である。

 こうしたサウジ・アラビアへの買い出しに直面したパフレーンの商人たち は、バーゲンセールをするなど客の足の引き止めに躍起になっている。とて

もおいそれと価格を引き上げられないのが現状のようだ。それどころか、逆 に価格の下落を経験している。卵の価格は60パーセント、肉は20パーセント、

オリーブ、果実、野菜類、鶏肉はそれぞれ5パーセントから10パーセント下 落したと言われている。

 また売り上げもサウジ・アラビアの商人との競争に曝されて低下した。そ の代表例が繊維類で、売り上げが40パーセントも落ちたとの情報もある。パ フレーン商人すらが月平均2回サウジ・アラビアを訪れているという統計も 発表されている。

 経済規模にしてその百倍以上もあるサウジ・アラビアと結ばれたパフレー ン経済がその自立性を失ないつつある状況の反映であろうか。実際の所、島 が大陸部と陸続きになる場合、島の経済力が大きな経済単位である大陸部に 吸収されてしまう事実はこれまでもしばしば指摘されてきた。我が国の例を あげるならば、たとえば下関と門司を結んだ関門架橋の経済的メリットは、

本州の下関の方により強く実現され、門司は以前よりも衰退したと言われて

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いる。

 本四架橋の経済的効果を考える際には、コーズ・ウェイの例ともども参考 になる前例であろう。

 ただコーズ・ウェイが本四架橋や関門架橋と決定的に異なるのは、繰り返 すまでもなくそれが二つの国を結ぶ橋である点であり、しかもその両国がか なり違った体制を維持している点である。前述の如く、サウジ・アラビアは 禁酒国であり、女性は顔をべ一ルで覆うことが一般的に行なわれている。一 方、パフレーンでは、飲酒が可能であり、女性の服装も自由度が高いと言え る。こうした制度の違いゆえ、パフレーンは決してサウジ・アラビアに吸収 され、その文化に埋没させられてしまうことはないであろう。パフレーンの 存在価値は、パフレーンがパフレーンである所に存しているからである。禁 欲的体制下にあるサウジ・アラビアの庶民の息抜きのスポットとしてのパフ

レーンの引力は今後とも衰えることはないであろう。

 飲酒、服装といった表面的な現象以外にも、パフレーンがサウジ・アラビ アと異なる故に繁昌している分野もある。その代表例が交通傷害保険である。

サウジ・アラビアの現体制は、保険制度はイスラム法(シャリーア)に反す るとの判断からこれを許可していない。一方、パフレーンでは保険業は合法 である。従って、サウジ・アラビアからパフレーンに入って、交通保険をか ける人々は相当数になっている。コーズ・ウェイのパフレーン側入り口近く には、多数の保険業者が軒を並べて、サウジ・アラビアからの客を待ち受け

ている。

  (b)文化的・社会的インパクト

 コーズ・ウェイを通って多数の下層階級のサウジ・アラビア市民がパフレー ンに押し寄せたため、深刻とも言える風紀上の問題が発生した。多数の外 国人が飲酒のために訪れたのだから当然とも言える結果であった。

 しかもその大半が飲酒経験に乏しく、ついつい度を越した飲酒に走り、バ

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フレーンの風紀を乱すこととなった。特にイスラム諸国の週末にあたる木曜 の夜は、酔った人々の騒ぎに眠りを妨げられるといった経験を私自身が味わっ た。統計的にみると週日のコーズ・ウェイ利用数は3千台だが、これが週 末の木曜日と金曜日には5千台にはねあがり、人数としては1万人が両国間

を往復する計算になるという。

 また旅行者が女性を冷やかすといったパフレーンでは前代未聞の事例も発 生したようだ。さらにフィリピンや白人の出稼ぎ女性が売春を行なっている との眸も流れるなど、パフレーンの風紀が大いに乱されたのは間違いのない 所のようだ。これに対しホテル側は、保安委員の増員や、男性客ばかりのグ ループの拒否、さらには、風袋のよろしからぬと判断された客には満室を言 い訳に宿泊を拒絶するなどして秩序の維持にあたっている。一方、当局も私 服警官を各ホテルに配置するなどして、こうした状況に対応している。また 飲酒運転の取り締まり強化もそうした対応策の一環として進められている。

すでに、そのためにパフレーンの刑務所と罰金刑を経験した日本人の数も少 なくないようである。飲酒運転の罰金は、かつては100パフレーン・ディナー ル(3万円ほど)であったが、コーズ・ウェイ開通後は、初犯が200〜300 パフレーン・ディナールで、再犯になるとこれが500パフレーン・ディナー ル、三回目には750パフレーン・ディナールと引き上げられている。こちら は完全なインフレ傾向を示しているわけだ。また飲酒で逮捕された場合は、

留置所での一泊は免れ難くなっているとか、しかも、その留置所も満員御礼 の状態にあると伝えられている。

 余談になるが、こうした状況のパフレーンへ、大韓航空機爆破事件の容疑

者二人が宿泊し、たちまち当局にマークされたのであった。およそ日本人と

言えばビジネスマンとその家族しか住んでいない、パフレーンに日本人風の

老人が娘らしき女性を伴っていれば、当局の疑惑を招かない方が不思議と言

える。かくして日本名「真由美」という女性がパフレーン当局に逮捕された

わけであった。1987年の12月のことであった。

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 こうしたサウジ・アラビア人のパフレーンでの御乱行の様子が噂としてし か伝わっていないのは、この問題についてはマス・コミ報道に制限が加えら れているせいのようである。特にサウジ・アラビア政府は神経質になってお り、北海道の地方新聞のこの件に対する報道に関してさえ在京のサウジ・ア ラビア大使館が抗議を申し入れたと言う。

 治安当局が最も神経を尖がらせているのは、実はこうした風紀上の問題で はない。それはパフレーンのシーア派とサウジ・アラビアのシーア派間の交 流である。サウジ・アラビアは既に触れたようにスンニー派が人々の大多数

を占め、そのスンニーの中でも禁欲的と言われるワッハーブ派の国である。

しかし、このサウジ・アラビアにも少数ながらシーア派が存在している。し かもこのシーア派の居住地区ハサは、サウジ・アラビア東部、つまりコーズ・

ウェイによって結ばれたパフレーンとの対岸地域に位置しているわけである。

このサウジ・アラビアのシーア派は、イラン革命以降、一度大きな暴動を起 こしており、その動向が注目されている。それは、ハサにサウジ・アラビア の油田地帯が集中しており、従って石油関係の労働者にシーア派が多いから である。つまり彼らの動向がサウジ・アラビアの石油政策を、さらには極端 な言い方をすれば石油を通じて世界の経済の動向を左右しかねないからであ

る。

 パフレーンにおいてもシーア派過激勢力のクーデター未遂、サボタージュ 等の事件がイラン革命後発生しており、両国のシーア派の結びつきが注目さ れてきたわけである。

 特に調査年度のアシュラは、調査のための滞在の終了する直後の9月初旬 にあたっていた。そのため残念ながら、アシュラそのものを観察することは できなかったが、アシュラへ向けて緊張感が高まって行くのは街を歩いてい て、また現地の人々との会話を通じて感じ取ることができた。シーア派の熱 狂が最高頂に達するアシュラでの混乱を恐れ、アシュラにはコーズ・ウェイ

を閉鎖するのではないかとの噂をシーア派のドライバーから聞いた。恐らく

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橋の補修をその名目にするであろうと言うものであった。また通関時にシー ア派の利用だけを制限するのではないかとの噂も流れていた。多くの場合、

名前あるいは住所によって、その人物がシーア派であるかあるいはスンニー 派であるかを特定できるからである。こうした事情はサウジ・アラビアにお

いてもパフレーンと似通っているようだ。

 こうした噂の背景となっているのは、パフレーンでのアシュラの行進にサ ウジ・アラビアのシーア派が参加したがっているという判断であり、サウジ・

アラビアではシーア派の宗教行事が厳しく制限されているという認識である。

こうしたシーア派のコーズ・ウェイを通じての連帯の高まりと、その暴走が 1987年のアシュラに起こるのではと懸念された裏には、この年の7月、メッ カでシーア派の巡礼団が多数死亡するという悲劇が発生した事実があった。

実際の所、旅行者の話では通関の際の荷物検査は、サウジ・アラビアからパ フレーンに入国する時の方がより厳重であるとのことであった。

 こうした懸念とは逆に、事態を楽観視する人々もいた。これはインテリ層、

在欧米経験のある層に強い意見のようであった。この「楽観論」と言うのは、

サウジ・アラビアのシーア派はアシュラの宗教行事参加を口実にパフレーン に乗り込み、行事後はビールに酔っ払って引き揚げるだろうと言うもので

あった。

 時間的制約からアシュラの寸前に調査を打ち切り、帰国せざるを得なかっ たため自らの目でアシュラの実態に関する両説の優劣を確認することはでき なかった。ただマスコミ報道によれば、コーズ・ウェイの閉鎖、利用制限と いった措置は取られなかった。またアシュラの行進が暴動化する事態も発生 しなかった。最後にアシュラ後にビールの売り上げが伸びたかどうかについ ては情報を得ていない。

 元来コーズ・ウェイの建設動機としてあげられてきたのは、その軍事的用 途であり、政治的意義であった。コーズ・ウェイの完成によって有事の際に

はサウジ・アラビア軍が直接パフレーンへ介入できるようになった。片道2

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車線の十分な幅と、戦車や大型車輌の通行を考慮した強度設計の橋がそのた めに架けられたわけである。また政治的にはパフレーンとアラビア半島を結 びつけることによってパフレーンのアラブ性をイランに対し強く主張する目 的をこの橋は果たしている。パフレーンには伝統的にペルシアの影響力が強 いことは既に触れた。ペルシアは、しばしばこの島を実効的に支配してきた し、ハリーファ家の支配の確立後もその領有権主張を取り下げることはなかっ た。イランがパフレーンに対する領有権を撤回したのは、ようやく1970年 代に入ってからであった。しかも、この措置は、イラン国内の一部の強い反

対を制してシャーによって採られたため、イラン革命後のイランの対パフレー ン政策に不安定要因を生み出すこととなった。イランがパフレーンに対す る領有権を再度主張することが心配されたわけである。パフレーンにとって 幸いなことには、イラン革命政府はパフレーンとの外交関係を引き続き維持

し、その大使館を存続させた。

 つまりパフレーンの独立と主権を承認し、領有権の主張を政府としては行 なわなかったわけであった。しかし、イラン国内では有力な宗教指導者がパ フレーンへのイランの領有権問題を蒸し返すなど、アラブ側の神経を逆撫です るような発言も行なわれた。さらに前述のようにパフレーンのシーア派によ るクーデター騒ぎや、在パフレーンのイラン大使館がサボタージュを操って いるとの嫌疑をかけられる事件などが続出し、パフレーンが、そしてその背 後のサウジ・アラビアが、革命後対イラン警戒心を強めてきた。こうした状 況のもとでコーズ・ウェイが建設され、パフレーンのアラブ性の断固たる主 張のシンボルとなったわけである。

 こうした政治的、軍事的目的で竣工したコーズ・ウェイが両国のシーア派 問のパイプとしての役割りを果たし、両国の治安当局者の頭痛の種の一つと なったことは皮肉としか言いようがない。

 文化面に限ればコーズ・ウェイの衝撃は恐らくパフレーンにおいてより、

サウジ・アラビアの方が強く受けたのではと推定される。サウジ・アラビア

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からの旅行者はパフレーンではその文化を脱ぎ捨て、パフレーンの文化をま とって活動するようだ。つまり女性が顔を見せる、あるいは酒を飲むといっ た行動をとるようである。彼らの目的はサウジ・アラビアの生活様式を持ち 込むことではなく、一時的ながらも、その規制から逃れることにあるからで あろう。言わばワッハーブ派的禁欲主義からの一時的な「無重力状態」をパ フレーンで経験するわけである。長期的に見れば、これがサウジ・アラビア の現生活様式の変化につながるのか、あるいは一時的息抜きの場を得て、ワッ ハーブ的規制は増々強められるのかは興味のある所である。パフレーンを 経験するサウジ・アラビアの人々の大半がシーア派であるゆえに、コーズ・

ウェイはサウジ・アラビアのシーア派を堕落させるための陰謀であるといっ たうがった解釈すら開陳する人々さえもいなくはない。

 陰謀説は別にしても両国の社会規範の違いへの懸念といったものが、1985 年には完成していたといわれるコーズ・ウェイの開通を1986年の末まで延期 させた決断の裏にあったことは広くささやかれている通りである。いずれに しろ橋の開通以来まだ余りに日が浅く、このコーズ・ウェイのインパクトに ついて結論を今出してしまうのは早急と言えよう。中国にとっての香港や江 戸時代の日本にとっての長崎の出島にサウジ・アラビアとパフレーンの関係 はしばしばたとえられている。コーズ・ウェイによってサウジ・アラビアが パフレーン化するのか、パフレーンがサウジ・アラビア化するのかを見極め るためには定期的かつ長期的な調査の必要が強く感じられる。またサウジ・

アラビア東部地区の調査の必要性も将来的な課題として指摘しておこう。

4.パフレーンの文化政策について

 パフレーンが飲酒の許容等の一連の政策を採用している背景には、石油資

源の枯渇が指摘される。1930年代から生産を始めたアラブ世界最古の産油国

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パフレーンの資源は、既に底をついている。従って同国としては、石油以外 の生きる方途を探求せざるを得ないわけである。そこでパフレーンが目指し ているのは、一に金融立国であり、二に観光立国である。

 ペルシア湾岸のフィナンシャル・センターとしての好条件をパフレーンは 備えている。

 それは東京とヨーロッパの時差の狭間にパフレーンが位置している点であ る。つまり東京の金融市場が閉鎖し、ヨーロッパの市場がオープンするまで の間にパフレーン市場が、取り引きを行なえるわけである。この時間的好立 地を補強し、その地位を一層堅固なものにするために、金融産業の労働者に とって働きよい環境を整備する必要がある。そうでなければ、欧米や日本の 銀行マン、証券マンに敬遠される恐れがあるわけだ。そうなればパフレーン の金融立国の政策も足元から崩れ去ることになろう。ペルシア湾岸のオイル・

ブーム、それにかつての金融センター、ベイルートの混乱等を背景としてパ フレーンの金融業は成長してきた。しかしクウェイトやアラブ首長国連邦も 類似の政策をとっており、パフレーンの金融立国への野望は激しい競争に曝

されている。パフレーンとしては外国人に住み良い環境を整えることで自ら の差別化をはからざるを得ないわけである。

 もう一つの道である観光の振興も、同じような配慮から出てきている。つ まり石油以外の収入源を求めての方策なのである。その一環としてパフレー ンは出入国手続きの簡便化をはかってきた。予め査証を取得していなくとも 72時間あるいは一週間の滞在ビザが空港で取得できるという制度になってお

り、通関手続きも中東としては異例のスピードで済ますことができる。

 ただ単に入国が容易と言うばかりでなく、入国する理由のある国にしよう

とパフレーンは努めている。言い換えるならば観光資源の開発に力を入れて

いるわけである。ポルトガル人の残した古い砦跡の発掘、古い宮殿や真珠商

人の豪邸の修復などが島内各地で進められている。また博物館の建設も進行

中であり、パフレーンの過去の保存に政府が熱心になっているのがうかがわ

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れる。もちろん観光資源としては、これらの施設の魅力はイランの壮大なペ ルセポリス宮殿やエジプトのピラミッドとは比すべくもない。しかし、飲酒 以外にはすることもないといった状態からパフレーンが脱脚しつつあること

もまた事実である。

 こうした流れには、つまり自らの過去を保存しようとする動きには、観光 資源の開発以外の意味も見てとれる。個人が自らのルーツを求める余裕を経 済的に成功した後は始めて持てるようになるように、ペルシア湾岸のアラブ 諸国も石油ブームによって物質的な充足が得られた今、より高級な商品、つ まり非物質的な商品を求め始めているわけである。それは、自らのルーツで あり、アイデンティティーである。その現象面が、博物館や古文書館の建設 である。1980年代以降、あるいは1970年代以降、オイル・ブームによって火 をつけられた急激な近代化に突入したクウェイトやサウジ・アラビアあるい はアラブ首長国連邦とは若干違った経験をパフレーンはしてきた。

 それはパフレーンの石油生産が1930年代から始まったからである。しかも 石油収入は激増したものの、決して爆発的なブームは味わってこなかったから である。従ってパフレーンの近代化は比較的緩やかに進められてきた。それ ゆえ他の湾岸アラブ諸国よりも、その文化遺産を保持しつつ近代化を進める 時間的余裕があったと言える。これは古い街並を既にほぼ完全に失っている クウェイトなどとは著しい対照を成している。

 このパフレーンの伝統を守ろうとする姿勢を象徴する政策が、人工真珠の 輸入禁止であろう。もちろん、パフレーンへ人工真珠を大量に輸出しようと する業者が存在するとも考えにくく、余り実質のない法令ではある。しかし 1930年代の石油の発見までパフレーン経済を支えてきた天然真珠採取産業を 保護しようとするパフレーンの意固地なまでの心意気がこの法令によくあら われているのも確かであろう。

 こうした伝統重視の政策のもう一つの要因は、これもアラブ湾岸諸国に共

通の傾向ながら、多数の出稼ぎ労働者の流入により、パフレーンのパフレー

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ンとしてのアイデンティティが脅かされているとの認識を指摘することがで

きる。

 パフレーンの観光開発に話を戻すと、短期的な物見遊山の客ばかりでなく、

パフレーンに比較的長期滞在する客のための施設の建設計画も進んでいる。

はやり言葉を使うとリゾート・ホテルの建設の青写真が議論されているわけ

である。

 パフレーンの博物館の担当官との意見交換では、新しい博物館の展示につ いて日本の技術協力を希望しているとの話が出た。つまり、パフレーンの伝 統的食物等をロウ模型で展示したいとのことであった。こうした分野では、

日本の技術が大いに貢献できるのではないかと思われる。

 しかしパフレーンの文化遺産保護には、ある種の選択性が見て取れる。為 政者が不都合と見なす過去は研究、調査保護の対象とはならないようだ。端 的に言えば、ペルシアの支配期の歴史は、言わば無視され放置されているとの 印象を受ける。旧都ムハッラクの博物館におけるパフレーンの歴史を示す展 示には、何らペルシアの支配期については触れられていない。

 またパフレーンの農村地帯ではペルシア伝来の地下用水路設備カナートが 使われていたのだが、少なくとも私の訪れたある村では、既にこれが埋めら れており、保存されていなかった。これには、もちろんその維持に大量な労 力を要するカナートよりもポンプによる水の吸い上げの方がはるかに効率的 であるとの理由が考えられる。しかし、こうした貴重な文化遺産が放置され、

まさに埋没されて行く姿には、パフレーン政府の積極的な対応が見て取れな

いのも確かである。現在のイラン・パフレーン間の微妙な関係のなせる技で

あろうか。つまりイランの一部の人々の領有権主張を考慮すれば、自らの歴

史や文化の中のペルシア性を直視しにくい立場にパフレーン政府はあるわけ

だ。またパフレーンに関する出版物の多くが特に優れた研究の同国への持ち

込みが禁止されている点を指摘しておきたい。さらに論文が当局の不興を

買って、パフレーンからの追放処分にあった研究者の例もあるという。

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逆に、同国を讃美する、いわば御祝儀的な著作は政府の歓迎されないろで あり、政府が2万部程度の大量の買い上げをするため、お金儲けのための「研 究」すら出版されている。

 こうした知的環境が現地のまた外国人研究者のパフレーン研究上の大きな 制約となっている。しかし、それ故になおさらのこと、そうした必ずしもパ

フレーン当局に歓迎するない研究が重要性を帯びてくるのである・

5.結びにかえて

 1987年度の現地調査は、季節的には最も条件の悪い真夏に行なった。連日 40℃を越す蒸し風呂のような、ハエも飛べなくなるような環境下での調査は、

体力的には非常に厳しいものであった。パフレーンにおいても記録的な暑さ の夏であった。しかし現地の生活を実感するには最適な時候であったのかも 知れない。また政治的には非常に緊張した時期にめぐりあわせた。先述のよ うにメッカでシーア派の巡礼者が多数死亡するという悲劇の直後であったか らだ。またクウェイト・タンカーの護衛を口実にアメリカの大艦隊がパフレー ンを基地としつつ、ペルシア湾の内外に展開し、アメリカとイランとの衝 突の危機の高まっていた時期でもあった。

 こうした状況にもかかわらず幸いにして、無事に調査を完了することがで きた。調査にあたっては在パフレーンの日系企業やパフレーンの友人達の心 暖まる力添えがあった。以下に列記して謝意を表したい。

 パフレーン大学、パフレーン文化省、パフレーン通貨庁、パフレーン統計

省、パフレーン博物館、パフレーン弁護士会、パフレーン・ゾロアスター協

会、在パフレーン日本大使館、日本経済新聞、神戸製鋼、三井物産、日商岩

井、日本債券銀行(OCS)その他の在パフレーン支局、支社及び駐在員事務

所、また東京においては中東調査会、中東経済研究所、三井物産調査部から

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資料、人的コンタクト、ヴィザの取得の面で援助を受けた。

 なお上記以外についても、テレビ・ラジオ報道の内容、スークの実態、出

稼ぎ労働者のインタヴュー、ゾロアスター教徒のコミュニティ等々多くの調

査を行なった。ここでは紙幅の制限もあり、それらについては稿をあらため

て報告したいと思う。

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