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いかにして実践的知識を伝えるか?

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Academic year: 2021

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1 はじめに

1)実践的知識を語ることの意義

知識というと、我々はつい言葉で表現可能なものを思い浮かべがちである。しかし、実際に はあらゆる知識が言葉で完全に表現できるわけではない(そして、それゆえに、あらゆる知識 が言葉によって伝達可能なわけではない)。たとえば、ワサビを食べたことのある人は「ワサ ビの味」をある程度まで言葉にすることができるだろうが、それを聞いた人がワサビの味につ いて完全に理解するわけではない。また、ある人物を知っている人は、その人物の外見的特徴 をやはりある程度まで言葉にすることができるだろうが、それを聞いた人が、その人物の外見 的特徴について完全な理解を持つわけではない。

これらの事例において言葉による伝達が完全ではないということは、言葉によってワサビの 味なりその人物の外見なりを「知った」人が、複数の候補の中から、ワサビなりその人物なり を実際に選び出すことができるであろうか、と考えてみれば明らかだろう。誰もがそのテスト にパスすることはできないであろうし、仮にパスしたとしてもそれは単なるまぐれだというこ とになるであろう。ワサビの味を知ることやある人物の外見を「知っている」ことには、言葉 による表現をはみ出てしまう部分が存在するのだ。

同様に、言葉によって伝えることが困難な知識として、実践的知識を挙げることができよう。

実践的知識とは、料理の作り方や自転車の乗り方など、あることを「できる」人に帰属させら れる知識のことである。つまりその人は「やり方を知っている」のである。しかし、こうした 知識を伝える際にも、先ほどの事例と同様な困難がある。料理の作り方にせよ、自転車の乗り 方にせよ、手順やコツを教わって、ただそれを言うことが出来るだけでは、その「やり方を知 った」とは言えない。いざ実際に取りかかってみると「できない」のであれば、その人はやは り「やり方を知った」とは言えないのである。

そして、実践的知識の伝達には、ワサビの味や人物の外見について伝えるのとは別種の困

竹 内 聖 一

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難が存在する。というのも、ワサビや人物の外見についてならば、その人を実物に触れさせる ことで、その知識を伝えることが出来るが、実践的知識の場合、その実物にあたるものが存在 しない、という点である。もちろん、「やり方を知っている」人が、実際にやってみせるとい うことは出来るだろう。しかし、それはワサビや人物の外見の場合とは決定的に異なってい る。実際にやってみせられても、直ちにそれが出来るようになるとは限らないからである。教 わる側は、教える側がまさに目の前で経験していることを、いわば外側から推測せねばならな い。見よう見まねでやってみたとしても、その点は変わらない。自分がやっていることが、自 分が学ぼうとしているものと同じかどうかということについて常に不確実性があるのだ。つま り、この場合、ワサビや人物の外見の場合とは異なり、実物は言葉の足りない部分を埋めるに はいたらないのである。ではどうするかといえば、やはり言葉に頼らざるを得ないということ になる。実際われわれが、自らのもつ実践的知識を他人に伝えようとするときには、もどかし い思いを抱えながらも言葉によって何事かを伝えようとしているはずである。

かくして、実践知を言葉にする努力が重ねられることになる。わたしのみるところ、その努 力は少しずつ異なる課題の解決に向けられている。思いつくままに挙げるとしても以下の三つ の課題を挙げることが出来よう。まず第一に、教育の視点からは、自らの実践的知識をいかに して他者へと伝達していくかという課題である。これについてはすでに述べた。第二に、実践 の視点からは、自らの実践的知識をいかにして改善していくかという課題があるだろう。なぜ なら、実践者がすでにもっているコツは「なぜそれがうまく行くのか」という根拠を伴わない ことがあり、それゆえに状況の変化に対応できないことがあるためだ。自分が知らずに会得し ているコツが機能しなくなれば、実践者は否応なしに、なぜうまく行かないのか(これまでは なぜうまく行ってきたのか)という視点から、自らの実践的知識を言語化するよう迫られるこ とになるだろう。そして第三に理論家の視点からは、個人のもつ実践的知識をいかにして普遍 化するかという課題がある。これは第一の視点と似ているが、厳密に言えば異なる。なぜなら、

伝達は必ずしも理論化(なぜうまく行くのか)を必要としないからだ。自転車の乗り方や料理 の作り方を教える際、教える側は、なぜうまく行くのかを把握していなくとも伝えることは可 能である。

本稿では、これら三つの課題のうち、第一のものを取り扱う。

2)本稿の概要

本稿のあらましを述べておくことにしたい。我々が実践的知識を伝達する際には、言葉に頼

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らざるを得ない。もちろん、どのような活動もある程度までは手順に分割して言語化すること が出来る。ただし、手順自体は理論的知識である。他方、こうした手順以上のもの、すなわち 実践的知識を言葉によって伝えようとすると、我々は困難に陥るのである。

その際、言葉によって、実践的知識のどのような側面が伝達されているのだろうか。また言 葉では伝わらない側面とはどのようなものなのだろうか。本稿で考察するのは、これらの問い である。

こうした問いに対して、本稿では以下のような解答を与える。

なぜ手順(言葉で表現されたもの)は実践的知識そのものであるとは言えないのだろうか。

現実は様々でありうる。その現実に対して、手順をどのように適用するかということを伝える 上で、言語は不十分な役割しか果たさない。手順の現実への適用を伝える際に、我々が言語に よって伝えようとすることの一つは、現実のどの側面に注意を向けるべきか、ということであ る。そこでは言語は情報を伝えるというよりは、相手が既に触れている情報に注意を促すため の合図のような役割を果たしている。ただし、そうした合図を通じて注意を向けるべきものが 何かを知るだけでは十分ではない。というのも、それが「注意すべきものである」と言えるの は、ある特定の状況を背景にしてのことであるからだ。あらゆる場面に対応可能な実践的知識 を身につけるには、すでに実践的知識を身につけた人から繰り返し合図を受け取ることを経て、

目の前の現実のどこに注意を向けるべきか、自ら探り出す能力を身につけることが必要である。

こうした能力そのものは言語的に伝えられるものではなく、合図を受け取ることを通じて、初 心者の内部に次第に育ってくるものであるように思われる。

2 概念の整理

1)実践的知識と理論的知識

実践的知識を言語化するという企ての狙いを明らかにするために、まず、実践的知識にかん するライルの議論を見ておくことにしたい。

ライルによれば「あの人は冗談の言い方、チェスの指し方、つりの仕方……を知っている」

ということで意味されているのは、その人がそれらの作業を遂行する際に、それをいつも巧み にやる傾向があるということである。そしてそれはその人の作業が一定の基準を満たしている というだけでなく、当人がその基準を自らの行為に適用し、絶えず行為を調整しているという ことをも意味するという。(Ryle 28;邦訳 28)

つづけてライルは、実践的知識に対する我々のこうした直観は「実践的知識は結局のところ

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理論的知識と同一視できる」という見方を支持すると考えられがちであるが、そうではないと 指摘している。ここで、理論的知識とは、言語で表現することが可能な知識のことを指してい る。例えば、「日本の首都は東京である」とか「冬は空気が乾燥している」というのは理論的 知識である。また、料理の手順を言葉で表現したものや自転車の乗り方のコツを言葉で表現し たものもまた理論的知識であると言えるだろう。

ライルの議論に戻ることにしよう。彼によれば、実践的知識を理論的知識と同一視しよう とする人々は、巧みに行為している人について以下のような描像をもっているという。(Ryle 29;邦訳 28-29)すなわち巧みに行為している人はいつも、何がなされるべきかということに ついて述べる命題(すなわち、言葉で表現された規則や基準)をまず頭に思い浮かべ、しかる 後にその命題の指示するところに従って行為しているのだというのである。つまり、こうした 人々は、巧みに行為するということはつねに思考することと行動することという二つのことを 行うことなのだ、と考えるのである。

こうした描像に対してライルは次のようにして反論している。(Ryle 30-31;邦訳 30-32)

まず、我々が「巧みである」とみなす行為の中には、それがいかなる規則や基準にしたがっ ているのかということが明示化されていないようなものが存在する。たとえば冗談を言うこと や洋服をセンスよく着こなすことなどがそれにあたるだろう。彼によれば、実践を言語化する こと(理論化すること)に先立って巧みな実践が存在するのであってその逆ではない。したが って、巧みな実践をするために、まず言語化された理論が必要であるという見方は誤りだとい うことになる。

さらに、次のような反論も示されている。行動に先立って頭に思い浮かべられるとされる規 則や基準は言語で表現される以上、一般的なものであらざるを得ない。それゆえ、行為者は頭 に思い浮かべたそれら基準や規則を現実に適用するためにもまた考えなくてはならない。この 思考自体を支配するような規則や基準を言語で表現することは出来ないのではないか1)

いずれの場合も、ライルの反論のポイントは、巧みな行動が従っているとされる規則や基準 を言語化することの不可能性を指摘することにある。では、こうしたライルの指摘は、実践知 を言語化しようとする私の企てを否定するものなのだろうか。必ずしもそうではない、と私は 考える。

これらの実践知について、言語を媒介にして伝達可能かどうかを考察することは、必ずしも 1) ライルは他に、行動に先立つとされる思考自体も巧拙のある活動であり、この活動自体が巧みなものであ

るためにも思考が必要であるとすると、無限後退に陥る、という批判も提示している。

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ライルの警告に背くことにはならない。ライルが実践的知識を理論的知識と同一視することを 批判したのは、実践的知識の行使を言語的なプロセスと捉えることを危惧したためであって、

実践的知識の伝達においてはその限りではないと考えるからだ2)

この点を明らかにするために、次節ではショーンの議論を見ることにしたい。

2)行為の中の省察と行為についての省察

ショーンは、われわれが行為する際に行う思考を「行為の中の省察」と「行為についての省 察」とに分けている。(Schön 49-63;邦訳 76-108)

まず「行為の中の省察」とは、行為の最中に、これからどうしたらよいかを反省するモード である。ショーンによれば、こうした反省は非言語的に遂行される。たとえば、ジャズミュー ジシャンは「音楽の感じ」に導かれてどのようなフレーズをどのように演奏するかを決断する という。ミュージシャンになぜあのように演奏したのかとたずねても、何となくそんな気がし たのだとか、状況によりけりだ、というような要領を得ない答しか返ってこない。同様なこと は我々が料理をするときや冗談を言うとき、今日着る洋服を選んでいるときにもあてはまるだ ろう。我々もまた、「なぜそうしたのか」という問いにさほどうまく答えることはできないの である。

他方、「行為についての省察」とは以下のようなものであるとされる。反省は行為のさなか に行われるだけではない。われわれはしばしば、行為が済んでしまった後に、その行為につい て「あれでよかったのだろうか」とか「なぜうまくいったのだろうか」などと反省することも ある。あるいは行為の最中であっても、行き詰まりを感じれば、ひとまずは立ち止まり、なぜ いまやったことがうまく行かなかったのかと反省することもある。このような場合、行為の中 の省察ではなく、行為についての省察が始まっていると言える。そして、こうした省察におい ては、行為の中の省察において適用された規則や規準、また行為者が一定の判断を下す契機と なった出来事や状況の特徴が言語化されることとなる。

以上二つの反省のモードを区別するならば、我々はさきに言及したライルの議論における、

巧みな活動と思考の関係を以下のように解釈することが出来るだろう。

ライルが非言語的な過程であるとしていたのは、ショーンの言う「行為の中の省察」の方で あって、「行為についての省察」の方ではない。それにもかかわらず、我々が「行為の中の省 2) ただし、3節で論じるように、伝達の場面においても、言語が実践的知識そのものを表現しているという

発想は拒否しなくてはならないだろう。

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察」もまた、言語的なプロセスであると考えてしまうのは、我々がときに「行為についての省 察」を行っており、こちらの方は言語的に遂行されているからである。「行為についての省察」

がもつ言語的性格を不用意に、「行為の中の省察」へと拡張することが、後者もまた言語的な ものであるという誤解の源泉なのではないか。

以上のことは、実践知の言語化という現象を論じようとする我々の企てが一体どのようなも のなのかということも明らかにしてくれる。我々が目指すのは、実践的知識を伝えようとする 者が行う「行為についての省察」の内実を明らかにすることである。

3 行為について語る

実際には、どのような言葉を通じて、実践的知識を伝えようとする努力が行われているので あろうか。また、それはどのような仕方で行為についての省察と結びついているのであろうか。

塚本は、言語化できない技能が、それにもかかわらず言葉で語られ、伝えられていると指摘 した上で、声楽や能といった芸能の稽古の例などを引きつつ、技能の伝達の場面で言語がどの ように用いられているかを論じている。(塚本 184)

彼女によれば、こうした芸能の稽古や練習の場面においては、分かる人には分かるという「通 の言葉」が用いられることが多く、かつその言葉は他の補助手段(図、道具、自分や弟子の身 体動作)と併せて用いられることが多い。(塚本は具体例をさほど挙げていないが、少し調べ るだけでも、例えば声楽の世界では「頭から声を出す」、「うなじに当てる」、「あくびののどの かたち」など、実に様々な表現が用いられているようである)こうした「通の言葉」は、声楽 のような芸事の練習において、「聴覚的にイメージされた歌い手の理念」と、自らの「身体的、

生理的感覚」との間の橋渡しとなるのだという。(塚本 188)

また、スポーツの練習であれば、コーチは選手の悪いところを指摘するために「あなたのは こうなっている」と言いながら、その動作を誇張してやってみせる。(塚本 194)

このような状況では、言語は事実を述べるというよりは、弟子の身体感覚や見聞きしている もののどこに注目すべきなのか、それを指し示す合図やヒントのような役割を果たしている、

と塚本は指摘する。すなわち、伝えられるべきはあくまで弟子が非言語的な仕方で経験してい る事柄の方なのであり、言語は弟子がその事柄に適切な仕方で注意を向けるよう促す働きをし ているに過ぎないのである3)

塚本が指摘するような伝達の工夫は、どのような実践知の伝達の場面においても見られるは ずだ。しかしうまく伝えるためには、実践知が実際に行使される状況が多かれ少なかれ多様性

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をもっていることを考慮に入れておかなければならない。こうした状況の多様性に対応可能な 仕方で実践的知識を伝えるために、たとえば、看護の領域では事例研究という手法が使われる。

通常それは、一人の看護師が自らのかかわった事例について報告し、それを皆で検討すること を通じてその事例において実際に行われたことの意味や価値を見いだし、次の実践に生かせる ものを探すことである。

看護師が自らの経験について語ることは、単なる看護手順や、看護において守るべき原則の 説明とはどう違うのだろうか。違いは、一般的な手順や原則とは異なり、語られる事例は常に 現実の、個別的な具体例であり、看護師が置かれていた状況の全体や出来事の前後関係を含む という点にある。この点で、語られる事例は手順や原則よりも多くの情報を含んでいる。問題 は、ある程度の経験がなければ、その情報の中で特に何が重要なのか、よくわからないという ことである。そこで、エピソードを概念的に分析し、重要な部分、すなわち判断の手がかりと なったものを浮かび上がらせる必要がある。

たとえば、つぎのような事例はそうした概念化がなされ、重要な部分が焦点化されたものだ と言うことが出来る。

時刻は夜の二時、食道がんの手術前の患者がコップを落とした。看護師は、そのコッ プを拾おうとして、いつもと違う患者の口臭を「何か変」と感じた。その看護師は、口 臭から大出血を予測し、夜半であることなどかまわずに医師を呼び出した。医師が駆け つけるまでに患者は吐血してしまうのだが、一命を取りとめることが出来たのは、彼女 の的確な判断のおかげに他ならない。(勝原 207)

言うまでもないことであるが、ここでは、「いつもと違う患者の口臭」が判断の重要な手が かりとして焦点化されている。すると、実践的知識の伝達において、概念化されたエピソード が果たす役割の一つは、その事例を聞く上で我々が追体験した事柄(そして、今後出会うであ ろう同種の体験)において、注意を向けるべきものを焦点化することだと言えるだろう。それ はたとえ初心者であっても、熟達者と同じ状況に置かれれば経験しているはずのものである。

3) こうした場面においては、初心者が適切な仕方で自分の経験に注意を向けることが出来てはじめて、合図 として用いられている言葉の意味が理解される。ここに、通常の言葉の使用法とは異なる、「合図としての 言葉」の特徴があると思われる。初心者ははじめからその言葉の意味を理解していて、それゆえに伝達が成 功するのではなく、伝達が成功したときに初めてその言葉の意味が理解されるのである。

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しかし初心者には、見方が分からないために「見えていない」。このように、実際には見えて いるのに「見えていない」ものを見えるようにすることが、焦点化されたエピソードが果たす 役割であると言えよう。

ただし注意すべきは、概念化されたエピソードは、あくまでも、ある特定の状況で注意すべ き事柄を強調したものに過ぎないということである。このエピソードにおいて強調された同じ 事柄が、他のタイプの状況では全く意味を持たないかもしれない。あるいはたとえ意味を持つ としても他にもっと注意すべき事柄があるということになるかもしれないのである。エピソー ドを通じた語りは、つねに一定の状況を前提している。そしてエピソードが示すのは、そうし た特定の状況において、実践的知識の持ち主がどのような判断を下したのか、ということであ る。すなわちエピソードに現れているのは、実践的知識そのものではなく、むしろ実践的知識 の痕跡、とでも言うべきものであろう。他方、実践的知識とは、こうした特定の状況に縛られず、

様々な状況に応じて、何に注意を向けるべきかを判断する能力なのである。以下の4節ではま ず、概念化されたエピソードがどのようにして生じるかを考察する。ついで、5節では、そう したエピソードがもつ状況拘束性という制約を超えて、実践的知識を獲得するとはどういうこ となのかを論じることとしたい。

4 伝達において、「失敗」という現象が果たす役割

ここまで、「通の言葉」や概念化されたエピソードが現象のある特定の側面を焦点化すると いう役割を果たすのを見てきた。

これについて塚本は実践的知識を獲得する過程で、失敗が重要な手がかりになっていると指 摘している。彼女によれば、「失敗したことについてはしばしば計量可能であり、何を間違っ たかを示す基準のデータとなりやすい」と指摘する一方で、「うまく行った実例や成功例は手 本としての機能を持つが、しかしそれは「こうすればよい」を特定するものではない」とも指 摘する。(塚本 275-6)

さらにこうした失敗例がヒントとなって進むべき方向がわかり、初心者の判断力が研ぎすまさ れ、さらにその研ぎすまされた判断力によって次の実践において、より優れた仕方で技能が発揮 される……というように螺旋状の上達が見られる、と塚本は論じる。(塚本 276;281-2; 293-7)

以降の箇所でもこの論点は強調されている。(塚本 304-9)そこでも、「失敗例のほうが成功 例よりもその意味するところが明確である分、上達に寄与する」という議論の趣旨は変わらな いが、失敗例の方がどのような点で成功例よりも明確であるのか、明快に述べられているとは

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言いがたい。以下では、塚本のこの論点をいくらか掘り下げてみることにしたい。

まず、成功例にせよ、失敗例にせよ、それが具体例である限りにおいて、その事例が経験さ れた特定の状況と結びついており、その限りにおいて完全な普遍性を持つわけではないという 点は確認しておきたい。それらが価値を持つのはあくまでも特定の状況と結びついてのことな のである。(ただし、その状況が一定の普遍性を持つのであれば、その状況を含む具体例にお いて示されている実践的知識もそれに応じた普遍性を持つであろう)

私がオムレツを焼く練習をしていて、いつも決まったところでうまく行かないとしよう。フ ライパンに広げた卵を半月状にまとめるところまではうまく行くのだが、フライパンを動かし てそれを返すところでいつも卵のかたちが崩れてしまうのである。確かに私はその状況がオム レツを焼く上で望ましくないということは理解するだろうが、それをふまえてさらに上達の道 を辿ることはできないかもしれない。というのも、私にはいくら自分の行為を振り返ってみて も(すなわち、行為「について」反省してみても)なぜうまく卵を返すことができないのか、

分からないからである。(もし独力でうまく行かない理由を発見できるのならば、私はすでに、

オムレツの達人となっているであろう)

かといって、オムレツの達人の門を叩いてみても、事態がすぐに改善することはないかもし れない。その理由を明らかにするには、まず、ベナーが描き出す、達人レベルに達した看護師 像を見てみるのがよいだろう。

達人になると、自分の状況把握を適切な行動に結びつけるのに、もはや分析的な原則

(規則、ガイドライン、格率)には頼らない。達人看護師は膨大な経験を積んでいるので、

多くの的外れの診断や対策を検討するという無駄をせず、一つ一つの状況を直感的に把 握して正確な問題領域に的を絞る。(ベナー 26)

 

同様なレベルに達していると思われる看護師のインタビューを引用しておこう。

 

全体を見た後で顔を見て、「あ、ますます大丈夫」とか、「あ、ますますやばい」とか。で、

大丈夫なら大丈夫だし、[そうでなければ]顔を見て「やばそうだ、何がやばいんだろ う」みたいに[考える]。「それじゃあとりあえず血圧?」とか、「脈は触れる?測ろうか」

とか「お腹みようか」とか、何か全体から焦点化されていくような感覚がすごいあります。

(西村 133、*[ ]内は西村による補足)

 

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この看護師の語りと、先ほど紹介した「いつもと違う口臭」に言及する看護師の語りとを比 較してみよう。後者の語りが、判断の根拠を焦点化しているのに対して、前者の語りはそうで はない。つまり、「できる」人が、なぜ自分がそれをできるのかを「知らない」ということが あり得るのだ。(このことは、優れた選手が優れたコーチであるとは限らないというよく知ら れた事実によく表れている)

とは言え、前者の語り手である看護師も、もし初心者にその判断のやり方を伝えようとすれ ば、自分の下した判断の根拠が何であったのか、「行為についての省察」を行う必要に迫られ るだろう。ひょっとしたらそれは「独特な雰囲気」としか表現できないようなものなのかもし れないが、ともかく看護師は「何か」を感じているのである。行為「の中の」反省ではなく(問 題の看護師はこの能力ならすでに有している)、行為「についての」反省を通じて、そうした ものを焦点化するよう、達人を促しているものはいったい何だろうか。

もし達人が判断するのと同じように皆が判断するのであれば、達人は自らの判断の根拠が何 であるか、反省を促されることはなかったであろう。自分と同じように判断しない(できない)

人がいるからこそ、達人は、なぜ自分の判断が正しいのか説明したり、教えたりする必要に迫 られるのである。そしてそこに、自分の技能を向上させるためではなく、もっぱら他人のため に、みずからの行為について反省する必要が生じてくる。

では、達人の行う行為についての反省において、初心者の失敗はどのような役割を果たして いるのだろうか。これは私の単なる推測であるが、初心者の失敗は、達人の成功との比較対象 になっているのではないかと思われる。達人は初心者の失敗を眺め(あるいは初心者が自らの 失敗について語るのを耳にして)自分が注意を向けていて、初心者が注意を向けていないもの はいったい何なのかと考え始めるのである。

そしてまた、適切に伝えるためには、目の前の初心者がどの段階で詰まっているのかを探ら なくてはならない。というのも、私がオムレツを焼くのに失敗する理由は、他の初心者が失敗 する理由と同じであるとは必ずしも言えないからである。

もちろん、初心者の失敗を自らの成功と比較しても、達人は、自らの行為についてうまく反 省できない、ということはあるだろう。だが、きわめて微妙な種類の判断でもなければ、達人 による成功と失敗の比較は、行為についての反省に対して、有力な手がかりを与えることだろ う。実際、スポーツのコーチが、「あなたのはこうなっている」という言葉とともに示す誇張 された動きは、こうした比較の結果、コーチによって発見されたものであろう。

ショーンが指摘するように、総じて、達人は自らの判断や行為がどのような規則や基準に従

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っているのか、積極的な仕方では述べることができない。しかし、ある行為が、その規則や基 準から外れていれば、それを認識することはできる。(Schön 52-3;邦訳 83-4)初心者の失敗は、

達人が暗黙のうちに従っている規則や基準からの逸脱例として、そのような規則や基準の存在 を明らかにし、運がよければ4)、反省によって、そのような規則や基準を言語化するきっかけ となるのだ。

このように、失敗例は初心者自身に、進むべき方向を示すばかりでなく、達人にとっても、

自らの従っている規則や基準を言語化するきっかけを与えるものであると言える。

まとめておこう。初心者の失敗は、暗黙の基準や規則からの逸脱例として、熟達者による、

行為についての反省を促す機会となる。達人がこうした反省に基づいて、自らの基準や規則を 言語化することができれば、それを手がかりとして初心者に自分のもつ実践的知識を伝える可 能性が生じる。そして、伝達が成功すれば、初心者のもつ実践的知識はその分だけ向上するこ ととなる。

5 言語化できるもの、できないもの

これまで何度も強調してきたように、概念化されたエピソードは、ある特定の状況のもと で、その状況のどのような特徴に反応して、達人の判断なり行為が生じたのかを示すもので ある。そうした事例から、一定の基準や原則が取り出され、言語化されることもある。しかし、

具体的経験に表れていた達人の判断を、何らかの基準や原則へと移し替えることで、元々の判 断がもっていた状況との結びつきは(少なくとも部分的には)みえなくなってしまう。もちろ ん、移し替えにあたって、達人にしか認知することのできなかった状況の微妙な特徴は、そう した繊細な感受性がなくとも認知可能な仕方で定式化されているかもしれない(たとえば、計 器で計測することによって誰にでも認知可能な数値として表現されているかもしれない)だが、

そもそもそのような微妙な特徴に重要性を与えていた状況そのものの特徴の方はどうだろうか。

概念化されたエピソードは、状況の全体を語るものではあり得ない。語られる内容は、語る 側の関心に応じて取捨選択されている。この場合、自分の注目した特徴Aの重要性を示すのに 十分なだけ、状況の細部Bが語られることだろう。しかし、このAとBの関係に重要性や妥当 性を与えていたより大きな文脈Cの方は、「当然のこと」として語られないかもしれない。す ると、受け手が、このCに関しては無知なまま、実践的知識の受け渡しが行われるということ 4) これは塚本が繰り返し強調する点である。(塚本 282-6)

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はあり得るだろう。

実践的知識を知識として共有可能なものとするためには、情報の取捨選択はきわめて重要で ある。既に述べたように、実践的知識の伝達において言語が果たす役割は、初心者がさらされ ている膨大な情報の中から、重要な情報のみに注意を向けさせることにあった。しかし、その ことにより、その規則なり基準なりが成り立たないような例外的な状況(先の例で言うと、そ もそもCが成り立っていない状況)があることが見えにくくなる恐れはある。

もちろん、こうした事態を避けるために、できるだけ具体的状況に即した基準や原則を立て ようとすることは可能だろう。しかし、そうはいかないという事情がある。まず第一に、そう した規則はむやみに煩雑になり、基準や規則というものが本来もっているはずの単純さや一般 性という利点を失う恐れがある。次に、基準や規則をいかに詳細に書き下しても、その背景に あるより大きな文脈が完全に言語化されることはないだろう。こうした文脈自体は言語化され ないため、少なくともその伝達の場面においては、暗黙のものにとどまる。

実は我々にとってこうした状況は目新しいものではない。具体的な状況において、複数の 倫理原則が衝突した場合、どのような判断を下すのが正しいのか、という問題はこれと似た ような状況であると言える。いずれの倫理原則も、多くの場面で正しいとされているような ものである。しかし、いずれの原則にも、実際には、その原則を単純に適用することのでき ない例外的な状況というものがある。そうした場面では、我々はもはや元の原則(群)に頼 ることはできない。いわば「その場で」従うべき基準なり原則なりを見つけ出さなくてはな らないのである。

したがって、実践的知識の核心をなすのは、自分のもつ実践的知識がどのような状況では適 用可能(あるいは不可能)なのか、また、それが適用できなくなったときにはどのように判断、

行為したらよいのかを自ら考える能力であり、これ自体は、(すくなくとも)当の基準や規則 を教える場面では伝えることができない。今のところ、私には初心者がどのようにしてこの能 力を身につけるのかを論じる用意がない。ただ、見通しだけを示しておくことにしたい。私の 見るところ、こうした能力は規則や基準を達人から教わる際に、達人との間でかわすやり取り が、初心者のうちに習慣化・内面化されることによって習得されるものである。すなわち、行 為についての反省自体は、言語を媒介とした伝達の蓄積から、非言語的なものとして生まれざ るを得ないのではないかという見通しをもっている。

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文献

ベナー , P.(2005)『ベナー 看護論 新訳版』、医学書院

勝原裕美子(2012)「看護師」、金井壽宏、楠見孝編『実践知 エキスパートの知性』、有斐閣、194-222.

西村ユミ(2007)「動くこととしてのみること」、石川准編『身体をめぐるレッスン3』、岩波書店、127-52.

Ryle, G.(1949)

The Concept of Mind

, The University of Chicago Press.(邦訳 坂本百大他訳『心の概念』、

みすず書房、1987)

Schön, D.(1983)

The Reflective Practitioner. How Professionals Think in Action

, Basic Books.(邦訳 佐藤学、

秋田喜代美訳『専門家の知恵 反省的実践家は行為しながら考える』、ゆみる出版、2001) 

塚本明子(2008)『動く知 フロネーシス』、ゆみる出版

(2013年12月25日受理、2014年1月15日採択)

参照

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