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小 林 多 喜 二 と 「三 ・一 五 」 の こ ろ

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(1)

小 林 多 喜 二 と 「三 ・一 五 」 の こ ろ

は じめ に

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森 と古 川 た こ寅 事件

海上 生活 者新 聞』

森 良玄 と多喜二

一九二 八 年三 月十五 日」

付 録

一 九二八 年三 月十 五 日」読 者評

倉 田 稔

は じ め に

これ は,小 林 多 喜 二 伝 ⑳ で あ る。

1森 と古 川

森 良 玄(1)が小 林 に初 め て 会 っ た(2)翌 日,鈴 木 源 重(3)は,森 を古 川 友 一(4)の 家 に連 れ て 行 っ た 。4月10日 三 団体 解 散(5)と同 時 に解 散 届 を強 要 され,バ ラ バ ラ に され た小 樽 合 同 労 働 組 合 の後 身 とし て創 立 を進 め て い る新 組 合 の 宣 言

と綱 領 起 草 を,頼 み に行 っ た の で あ っ た 。

古 川 友 一 は,当 時 小 樽 の マ ル ク ス 主 義 文 献 に 関 し て は右 に 出 る者 が い な い 権 威 と 目 され て い た 三 五 ・六 歳 の男 で あ っ た(6)。や や横 ふ と りで 少 し腹 が 出 て い る古 川 を見 た 時,森 は軽 い 失 望 を感 じた 。 マ ル ク ス主 義 の研 究 者 だ とい う の で,学 者 的 風 貌 を描 い て い た 森 の予 想 とは全 く違 った の で あ る。 玄 関 で鈴 木 が 古 川 と顔 を会 わ せ た瞬 間 の 態 度 で,森 は二 人 が 相 当頻 繁 に会 合 し て い る

こ と を察 し た。

(2)

古 川 に宣 言 綱 領 の起 草 を依 頼 す る こ とに な った の は,鈴 木 と坂 本 と,労 働 農 民 党 北 海 道 支 部 連 合 会 書 記 の大 西 喜 一(7)と,森 を加 えて,四 人 の協 議 で 決 定 した 。 四人 で 協 議 した 時,坂 本 は古 川 を,山 川 派(8)(共産 党 解 党 派)だ か ら 不 適 当 だ と強 く主 張 した が,言 い 出 した の は鈴 木 で,大 西 は中 立,森 は古 川

に つ い て何 も知 らな か った 。 結 局,古 川 に依 頼 す る こ と にな っ た が,古 川 の 顔 を見 た とた ん に,「 これ は え らい こ とに な るか も知 れ ん ぞ」と,森 は思 っ た 。

古 川 は 当 時 失 業 して い た 。 妻 が女 髪 結 い をや っ て い て,な か な か 繁盛 し て い る様 だ っ た 。 森 た ち を書 斎 に通 した 古 川 は,森 た ち が座 る のが 待 ち 遠 し い 様 に,日 本 共 産 党 を罵 倒 し は じ め た 。

極 左,小 児 病,第 三 イ ンタ ナ シ ョナ ル 盲 従,分 裂 主 義 者 」。

い ろ い ろ の レ ッ テ ル が 張 られ て行 った 。 小 樽 合 同 労 働 組 合 の太 い親 柱,日 本 共 産 党 北 海 道 地 方 の 中 心 的 組 織 者 で あ っ た武 内 清(9)や渡 辺 利 右 衛 門(10)も, 古 川 にか か る と,「 無 学,没 理 論,小 児 病 の 典 型,ブ ラ ン キ ス ト」等 々,散 々 で あ った 。 古 川 は森 を説 得 す る た め に,彼 の理 論 の うん ち くを傾 けて い る こ と は,森 も分 か っ て い た 。 だ が 森 は,鈴 木 と玄 関 で 顔 を 見 合 わ せ た二 人 の態 度 を見 た 瞬 間 か ら,特 高 刑 事 の前 に 引 き 出 され た 時 と同様 の 心 理 武 装 を し, 心 の 蓋 を閉 じて いた か ら,彼 が 何 と言 お う と,ポ ー カ ー ・フ ェ ー ス を持 ち続

け た 。 古 川 は何 を言 っ て も反 応 を示 さ な い森 の 態 度 が 不 愉 快 で,日 本 共 産 党 罵 倒 に拍 車 が か か っ た の だ ろ う が,一 面 で は 古 川 は 内心 嬉 し い よ うだ った 。 組 合 の 宣 言 綱 領 の 起 草 を依 頼 し た こ とは,森 た ちが 彼 の 学 識 に敬 服 し,彼 の 理 論 に屈 服 した こ とを,示 す こ とに な るか らで あ っ た 。 しか し彼 の書 いた 宣 言 と綱 領 は,あ ま りに ひ どい もの だ った の で,森 は[鈴 木]源 重 を う ま く口 説 き落 し,森 が 起 草 して 組 合 の創 立 大 会 を行 な った 。

労 農 派 山川 イ ズ ム の信 者 で あ る 古 川 の 理 論 をつ き つ め る と,日 本 共 産 党 は 弾 圧 され た か ら悪 い,弾 圧 され る様 な 綱 領 を掲 げた か ら悪 い とい う こ とだ っ た 。 森 は,で は弾 圧 した 官 憲 は悪 くな い の か と反 論 した か った が,反 論 も賛 成 も し な い 決 心 を して い た の で,沈 黙 を守 っ て いた 。2時 間 余 り も一 人 で ま

くし立 て て い た 古 川 が,と ん で もな い こ と を言 い 出 した 。

(3)

小 林 や 寺 田(11)もね,わ れ 等 の側 に 来 た よ,猪 俣(津 南 雄)の(12)農 業 理 論 に 降 参 して ね 。 カ ーペ ー(共 産 党)批 判 を は じ めた ん だ 。 小 樽 の 研 究 グ ル ー プ は,今 や す べ て 我 が 同 志 さ」

「そ うか,そ れ は よか っ た な あ 」

源 重 は即 座 に共 鳴 して 喜 ん だ が,森 に は シ ョ ッ クで あ っ た 。 昨 日見 た ばか りの,あ の た の も し気 な イ ンテ リ青 年 が,山 川 派 に な っ て い た とは シ ョ ッ ク で あ っ た 。 ま さか と思 い な が ら も古 川 の 言 葉 を否 定 す る根 拠 が なか っ た 。 古 川 が ビー ル を 出 させ て 源 重 と呑 み始 め た の を しお に,森 は帰 っ た 。

昼 間 っ か ら酒 な ぞ飲 み や が っ て 何 だ,ダ ラ幹 メ,そ れ に して も あ の小 林 が 山川 派 と は,た ま げた な あ。 勝 手 に しや が れ,畜 生 」

森 は,花 園 公 園 の 下 の 中小 路 を,独 り言 を ブ ツ ブ ツ言 い な が ら帰 っ た。 こ の 日 か ら1カ 月 余 り,森 は小 林 を誤 解 し,一 目惚 れ して い た だ け に一 層 強 い 反 感 を持 ち 続 け た。 森 もず い ぶ ん 単 細 胞 で あ っ た。(13)

(1)森 につ い て は,前 号 参 照 。 (2)1928年6月

(3)鈴 木 。 小 樽 合 同 労 組 執 行 委 員 長 。

(4)地 元 ・小 樽=では,ふ る か わ ・ゆ うい ち,と 言 う人 が い るが,違 う。

そ の 後,古 川 一 家 は,小 樽 か ら東 京 に行 き,友 一 は,同 盟 通 信 社 に勤 め, 活 動 を続 け た 。 友 一 は,社 会 科 学 だ けで な く,自 然 科 学,歴 史 な ど に も, 造 詣 が あ っ た とい う。1945年1月,友 一 は,治 安 維 持 法 違 反 で再 び 逮 捕 さ れ,府 中 刑 務 所 に収 監 さ れ た 。 手 塚 に よれ ば,小 樽 署 に送 られ た とあ る。

友 一 は,言 語 に 絶 す る 拷 問 に よ っ て 発 病 し,9日 後 死 去 し た 。 昭 和 20(1945)年1月12日 で あ った 。56才 だ っ た 。 死 亡 場 所 は小 樽 病 院(小 樽 市 量 徳 町 一 番 地),死 因 は脚 気 衝 心 で あ る。戦 争 の 終 る直 前 で あ っ た(阿 部 誠 也 「古 川 友 一 と小 林 多 喜 二 」(『弘 前 民 主 文 学 』第86号,1995年9月, 58‑61ペ ー ジ)。

(5)労 農 党,評 議 会,全 日本 無 産 者 青 年 同 盟 の 三 団体 。

(4)

(6)『文 芸 北 見 』1980年12月 第22号,森 良 玄 の遺 稿 一 小 林 多 喜 二 との 思 い 出 一,277ペ ー ジ 。

(7)大 西 喜 一(1895‑),小 樽 出 身,特 要 乙号 共 産 主 義 と され た 。 労 農 党 北 海 道 支 部 連 合 会 書 記,三 一 五 に連 座 。 全 協 の組 織 化 に つ とめ る。 新 聞外 交 で生 計 を立 て る。

(8)山 川 均(1880‑1958)。 日本 共 産 党 の 創 立 に参 加 。 しか しす ぐ解 党 を主 張 した。

(9)武 内 清(1902‑47)。 函 館 生 まれ 。 特 要 甲号 共 産 主 義 と され た 。 労 農 党 小 樽 支 部 執 行 委 員 。1921年,函 館 水 電 の車 掌,1923年 の ス トで 解 雇 。1924 年,函 館 合 同労 組,函 館 無 産 青 年 同 盟 を組 織 。1925年,第 一 次 水 電 争 議 の 指 導 。結 成 され た 小 樽 合 同 労 組 の 常 任 に な る。9月,日 本 労 働 組 合 評 議 会 北 海 道 地 方 評 議 会 の 争 議 部 長 に な る。1926年,小 樽 運 送 は し け会 社 の解 雇 反 対 闘 争 を指 導 し,勝 利 させ る。磯 野 小 作 争 議 に小 樽 合 同労 組 の幹 部 と し て 指 導 す る。1927年,磯 野 争 議 に勝 利 す る。小 樽 港 湾 争 議 を指 導 。共 産 党 に入 党 。1928年,共 産 党 北 海 道 地 方 委 員 。三 ・一 五 事 件 で検 挙 され た 。 懲 役6年 。1935年,非 転 向 で 満 期 出獄 。1936年,全 小 樽 労 働 組 合 の組 織 争 議 部 長 。 日本 労 働 組 合 全 国 評 議 会(全 評)の 中央 執 行 委 員 。1937年,全 北 海 道 地 方 評 議 会 結 成,委 員 長 に な る 。12月,「 人 民 戦 線 事 件 」で検 挙 。 1942年,非 転 向 で満 期 出 獄 。1944年,釈 放 。1945年,共 産 党 の初 代 北 海 道 地 方 委 員 会 書 記 長 。1946年,中 央 委 員 候 補 。 文献 『武 内 清 の 思 い 出 』同 刊 行 委 員 会 発 行,1977年

⑩ 渡 辺 利 右 衛 門(1903‑)。 特 要 甲号 共 産 主 義 と され た 。 小 樽 生 ま れ 。 小 樽 合 同労 組 組 織 部 長,三 ・一 五 事 件 に連 座 。 北 海 道 地 方 評 議 会 組 織 部 長 。 労 農 党 小 樽 支 部 員 。 東 京 で亡 くな っ た 。 『一 九 二 八 年 三 月十 五 日』 の 渡 の モ デ ル と な っ た。

(ID寺 田行 雄(1905‑1944)。 青 森 う まれ 。1924年,小 樽 高 商 社 会 科 学 研 究 の創 立 に参 加 。軍 教 反 対 事 件 で停 学 処 分 を う けた 。小 樽 高 商 卒 業 。北 海 タ イ ム ス小 樽 支 社 に 勤 務 。 労 働 農 民 党 に 参 加 した。 新 聞 記 者 。 三 ・一 五 事 件

(5)

に 連 座 。四 ・一 六 事 件 で 検 挙 さ れ,全 協 活 動 。12月1日 事 件 で 起 訴 さ れ た 。 1931年10月 上 京,1937年11月 反 戦 運 動 で 検 挙 さ れ た が,1944年6月, 大 阪 で 病 死 。 思 想 要 注 意 共 産 主 義 と さ れ た 。

(12)猪 俣(1889‑1942)。 経 済 学 者 。 共 産 党 の 解 党 派 に 賛 成 し,そ の 後,共 党 に 批 判 的 に な っ た 。

(13)『文 芸 北 見 』278ペ ー ジ 。

2た こ 寅 事 件

風 間 六 三(14)は,1928年6月 末 に,い わ ゆ る 「た こ寅 」 事 件 を ひ き起 こ し た 。 小 樽警 察 か ら札 幌 へ 送 られ,柿 本 予 審 判 事 の 取 調 べ を う け,不 起 訴 処 分 を 受 け る に い た った 。

3月 末 に,風 間 の寄 寓 す る石 山 町 の 若 林 善 松(浜 の労 働 者 で 三 ・一 五 で 警 察 に ひ っ ぱ られ た 。 ガ ン張 り通 し,釈 放 後 す ぐ樺 太 へ 積 み 取 り人 夫 と し て 出 稼 ぎ に行 っ た)の 家 の2階 は,小 樽 合 同 の渡 辺 利 右 衛 門 の ア ジ トの一 つ と し て使 わ れ て い た の で あ っ た 。 そ こに 日本 共 産 党 中 央 機 関紙 「赤 旗 」 や 「運 動 組 織 テ ー ゼ」 美 濃 紙 ガ リ版 刷 りの文 書 が,風 呂敷 包 に一 杯 残 して あ る の を[風 間 は]見 つ け,そ の 家 が警 察 に探 知 され や す い場 所 で 危 険 が あ る の で,何 処 か へ か くさ ね ば な ら ぬ義 務 の よ う な もの を感 じた 。 渡 辺 は 緑 町 の ア ジ トか ら 逮 捕 され た か ら,こ の 家 は わ か ら なか っ た 。3月 初 め の夜,風 間 は こ の家 で, 渡 辺 と若 林 とで一 緒 に,牛 もつ で 飯 を食 った こ とが あ る が,風 間 は ア ジ ト と は知 らな か っ た 。 それ で[風 間 は文 書 を]あ ち ら こ ち らへ持 って 回 っ た 末, 稲 穂 町 妙 見 河 畔 の お で ん屋 「た こ寅 」 の2階 に下 宿 し て い た ア ナ ー キ ス トの 印 刷 工 ・斉 川 民 二 郎(詩 人 で ペ ン ネ ー ム 太 宰 紀 一)の 室 へ移 し,あ る一 定 の 時 期 まで 保 管 を頼 ん だ 。中味 は 見 て も よい と言 っ た 。「た こ寅 」 に は警 察 の 特 高 が し ば し ば呑 み に くる と は,風 間 は 知 ら な か っ た 。 斉 川 は,中 を み て,だ

ら しな く室 へ 文 書 を ち らか した ま ま,5月 こ ろ,郷 里 の函 館 へ 帰 省 した 。「 こ寅 」 の ば あ さ ん が,あ ん ま り室 が 汚 い の で,あ る朝 掃 除 に きて,散 ら ば っ

(6)

て い る文 書 を便 所 のオ トシ紙 に使 用 す る よ うに な り,た また ま呑 み に きた 特 高 が便 所 に入 り,こ れ を み つ け,こ りゃ 大 変 な もの が あ る と,斉 川 を函 館 で 検 挙 し,か れ の 口か ら風 間 の 名 が 出 て,風 間 の逮 捕 とな っ た 。

札 幌 の 地 方 裁 判 所 で 柿 本 判 事 は,三 ・一一五 事 件 の 担 当 者 で,風 間 と渡 辺 利 右 衛 門 と対 決 した 。

渡 辺 は,鉄 の鎖 の 手 錠 を は め られ て室 へ 入 っ て きた 。 そ して風 間 を み て,

「こ ん な人 は知 らぬ,何 処 の 人 で す か 」 と,ガ ン強 に知 らぬ 存 ぜ ぬ で,言 い 張 り通 した 。 風 間 は,そ の時 共 産 党 員 の 姿 を見,鉄 の規 律 を守 り続 け る姿 に う た れ た 。 そ の強 烈 な シ ョ ッ ク は,そ れ以 来,長 く風 間 の脳 裏 にや き つ き,自 責 の念 と と もに,そ の傷 は仲 々 癒 え が た い もの に な っ て し まっ た 。

風 間 は,は っ き り書 い て い な いが,つ ま り,捕 ま っ て,渡 辺 の と こ ろか ら 持 っ て きた と,言 って し まっ た の で あ る。

風 間 は,予 審 廷 で は 「探 偵 小 説 的 な猟 奇 趣 味 で や っ た 」 と言 い逃 れ を した 。 柿 本 判 事 は風 間 を文 学 青 年 とみ て か,6月 中 旬 の札 幌 祭 りの 日 に,風 間 は斉 川 と と も に釈 放 され た 。

風 間 が 小 樽 へ 帰 る と,ナ ップ の 連 中,伊 藤 や 小 林 が,「 ど う した ん だ,ど う した ん だ 」 と,真 面 目顔 に 心 配 し て き き こ ん だ。 事 件 が 商 業 新 聞 に発 表 され ず に す ん だ の は,風 間 の母 方 の 親 戚 に あ た る北 海 タ イ ム ス の警 察 詰 め記 者 ・ 青 地 行 一(寺 田行 雄 の上 司)が,そ れ とな く地 元 新 聞 紙 上 を 押 さ え た か らで

あ っ た 。(15)

(14風 間 六 三(1907‑),特 要 乙 号 共 産 主 義 と さ れ た 。 四 ・一 六 に 連 座 。1933 年2月,全 協 小 樽 地 区 協 議 会 準 備 会 を 結 成 。

(15)風 間 「思 い 出 」。

3『 海 上 生 活 者 新 聞 』

1928年1月,総 同 盟 系 海 員 組 合 の刷 新 派 組 織 の た め に北 方海 上 属 員 倶 楽 部

(7)

が 創 立 され た 。 海 員 組 合 と別 の と こ ろ に,船 員 の た ま り場 が あ っ た 。 こ の倶 楽 部 だ っ た 。 北 方海 上 属 員 倶 楽 部 は,『 海 上 生 活 者 新 聞 』を発 行 す る こ とに し た 。 北 方 海 上 属 員 倶 楽 部 は 当時,小 樽 市 稲 穂 町 東 五 の 一(旧 番 地)に あ っ た 。 海 上 生 活 者 新 聞 発 行 は風 間 か ら言 い 出 して 実 現 し た。 建 物 の2階 の 事 務 所 を 貸 し て ほ しい と頼 み,受 け入 れ られ た 。『海 上 生 活 者 新 聞 』 の 事 務 室 は,木 造 建 物 の まん 中 の 部 屋 で あ った 。 海 員 組 合 は総 同 盟 の右 派 で あ る。 多 喜 二 は こ れ を統 一 戦 線 派 に 引 き入 れ よ う と した(琴 坂)。 北 方 海 上 倶 楽 部 は,刷 新 会 系

とい わ れ る。

当 時 高 等 船 員(海 員 協 会)は,属 員(日 本 海 員 組 合)と 雇 用 条 件 も違 い, 船 員 社 会 で の 身 分 差 は厳 とした もの が あ っ た 。 職 長 と一 般 船 員 の 間 に し て か

ら頭(か し ら)と 船 夫 の 関 係 だ っ た 。(16)

この 倶 楽 部 員 が600人 い た 。 倶 楽 部 に い た人 に,松 尾 武 義 が い る。 当 時, 三 河 丸 航 夫 で あ った 。 航 夫 とは,後 の 操 舵 手,甲 板 手 の こ とで あ る。 彼 は そ の後,中 央 汽 船 船 長 に な り,後 に名 古 屋 で 自営 業 を す る。 宗 武 五 郎 もい た 。 海 員 刷 新 会 指 導 者 の1人 で,検 挙 後 獄 死 した 。木 下 は,当 時,写 真 師 だ っ た 。

よ く訪 船 して い た 。 の ん べ えだ っ た 。 新 聞 第1号 に 出 て い る海 員 ホ ー ム 社 の 写 真 は,木 下 が 撮 っ た も の だ ろ う。 風 間 は,1928年9年 当 時,無 産 者 新 聞 の 小 樽 支 局 の責 任 者 だ っ た か ら,海 上 生 活 者 新 聞 の ニ ュ ー ス 記 事 も風 間 の もの で あ る。(17)

風 間 六 三 は この 倶 楽 部 に 宿 泊 し,業 務 の手 伝 い を した 。 そ の か た わ ら新 聞 発 効 の 準 備 に と りか か っ た 。 一 九 二 八 年 の一 二 月 の 中 ご ろ,倶 楽 部 の 二 階 で 小 林 と伊 藤 と風 間 が 会 合 を もっ た。

ナ ッ プが 今 度,全 日本 無 産 者 芸 術 団体 協 議 会(略 称 は 同 じ く,ナ ップ)に な っ て,一 回 り大 き くな った こ と を,小 林 が報 告 した。

戦 旗 』 一 二 月号 に載 っ た 多 喜 二 の 「三 ・一 五 」 の 後 半 につ い て,小 林 が 意 見 を 求 めた 。

伊 藤 は こ うい う よ う な こ とを 言 った 。 「作 品 は東 京 で 大 き くク ロ ー ズ ア ッ プ され,小 樽 ナ ッ プ支 部 の 存 在 が た しか に な っ た の は喜 ぼ し い。 評 価 は中 央

(8)

の 偉 い人 た ちが や るだ ろ うか ら,ま ず 差 しお き た い 。 オ レ は,あ の 作 品 に 出 て 来 る人 物 の素 材 が,オ レ や寺 田,古 川 な ど と思 わ れ る のが 出 て くる の で,

こ の点 お か し な奇 妙 な 錯 覚 した感 情 を まず 作 品 か ら受 け る。」

風 間 は こ ん な こ と を言 っ た よ うだ 。

小 説 の 内容 は今 進 行 中 の 党 の事 件 で あ る の で

,ま だ 海 の もの と も山 の もの と も分 か って い な い 。 作 者 の勇 気 に は感 心 す る。 あ れ は こ し ら えた 小 説 で は な く,あ ま り に も事 実 に 近 い の で,こ の 点 若 干 文 章 か ら 目 を そむ け た くな る。

警 察 は君 に対 し て ど うい う態 度 を とっ て くるか 問 題 だ 。 ま たKP[=共 産 党]

の 組 織 に つ い て ふ れ て は い な い が,今 書 くの は無 理 とい う もの か 。 小 林 は 「ウム 」 と言 って,大 き な息 を した 。 多 分 に二 人 の作 品 批 評 に は不 満 で あ る ら し い様 子 が 見 えた 。 だ が そ れ以 上 何 も言 わ な か っ た 。 そ れ か ら議 題 を新 聞 発 行 に切 り替 えた 。 主 筆 格 の笹 谷 金 吾 と会 計 担 当 の木 下 卯 八 を交 え て 相 談 した 。題 名 は風 間 が 出 した 『海 上 生 活 者 新 聞 』 に,小 林 が積 極 的 に賛 意 を示 し,こ れ に決 ま った 。 主 張欄,海 員 ニ ュー ス,経 済 法 律 文 化,発 行 部 数 が それ ぞ れ 決 め られ て,笹 谷 と木 下 は 階 下 へ 去 っ た 。

こ こに 出 て 来 る笹 谷 は,放 逐 され た 後,ス パ イ に な った 。 風 間 は,そ の時 期 を4・16直 前 と推 測 した 。

風 間 が,「 文 芸 欄 は小 林 に 担 当 して も ら いた い 」 と述 べ た ら,「 喜 ん で 書 く よ,オ レ は実 は今,大 作 に取 り組 ん で い る の で そ れ と も関 連 が あ る か らだ 。 伊 藤 君 も何 か 書 け よ」 と言 っ た ら,伊 藤 は こ う返 事 し た よ うだ 。「ま あ,オ ブ ザ ー バ ー で ゆ くよ」

小 林 は,拓 植 銀 行 の ビル の 記 者 ク ラ ブ で北 海 道 タ イ ム ス 小 樽 支 局 の 寺 田行 雄 と も し ょっ ち ゅ う会 うか ら,経 済 法 律 欄 に 何 か 頼 ん で み る,と 言 っ た 。

一 九 二 九 年 一 月 五 日付 けで

,『海 上 生 活 者 新 聞 』 第 一 号 が で きた 。定 価 は一 部 十 銭 で,発 行 部 数 は二 千 部 く らい で あ っ た 。

そ の 号 の小 林 の 文 芸 欄 へ の エ ッセ イ は,郷 利 基 のペ ンネ ー ム で書 い た 「 員 は何 を読 まな けれ ば な ら な い か 」(18)であ っ た 。そ こで は葉 山嘉 樹 の小 説 「 に 生 くる人 々 」 を推 賞 して いた 。

(9)

風 間 は,寄 贈 を思 い立 ち,「 乞 御 高 覧 」の 印 を押 し て,「 戦 旗 社 」を筆 頭 に, 東 京 に あ る各 労 農 団 体,出 版 社,知 名 の 進 歩 的作 家 へ あ わ せ て 百 部 以 上 郵 送 した 。 葉 山嘉 樹 や 中 野 重 治 へ も個 人 宅 へ 送 っ た。 風 間 は忙 しか った の か,葉 山 へ送 った こ と を小 林 に話 さ なか っ た 。

そ の 月 の一 月 の 末 ころ か,海 上 生 活 者 新 聞 社 気 付 郷 利 基 宛 に,在 東 京 の 差 出人,葉 山嘉 樹 と し て,封 書 が 届 い た 。 ち ょ う ど小 林 が 『戦 旗 』 を持 っ て き て,風 間 も何 か 出版 物 を手 渡 した あ と,「い い も のが きた よ,気 付 け とな っ て い た の で,悪 い け ど封 を切 って し まっ た が 」 と言 っ て渡 した 。

多 喜 二 は裏 の差 出 人 の名 を見 て,「 ホ ホ ー,お れ に か … … 」と,う れ し気 に, 全 く予 期 し な か っ た とい う顔 を し て受 け取 っ た。 そ れ は うぶ な顔 だ っ た 。

多 喜 二 は 「三 ・一 五 」 を発 表 した ばか りで,蔵 原 惟 人 な ど の紹 介 も あ っ て, 文 壇 で は認 め られ て い た が,葉 山 の全 国 的 な 人 気 に く らべ た ら まだ ま だ の 感 が あ っ た 。 葉 山 か ら手 紙 を貰 った こ と は,彼 に と っ て た しか に大 き な喜 び で あ っ た 。

これ以 後,多 喜 二 と葉 山 の 間 に文 通 が され た。

ま もな く葉 山 は,郷 利 基 とい う の は 「三 ・一 五 」 の 作 者 小 林 多 喜 二 だ とい う こ とが 分 か っ た 。 そ の うち,葉 山 は 自分 の 属 して い る文 戦 に入 らな い か と 多 喜 二 に勧 め た。 しか し,葉 山 か ら手 紙 が 来 た こ とだ け で あ ん な に喜 ん だ 多 喜 二 が この 勧 誘 を は っ き り断 わ った 。 支 部 で は あ るが 自分 は ナ ッ プ に入 っ て い る の だ 。 文 戦 とナ ッ プ とで は指 導 精 神 が 全 然 ち が っ て い る 。 自分 は これ か

ら もナ ッ プ の活 動 を続 け て行 く。 多 喜 二 は葉 山 に そ う書 い た 。(19) 多 喜 二 は葉 山 の 手 紙 を母 セ キ に見 せ た 。 字 の読 み 書 きが で きな い母 は,葉 山 の手 紙 が 原 稿 用 紙 に達 筆 で 続 け て書 き下 して あ る の を 見 て,「 枡 目の 中 へ 入 っ て お ら ぬ,こ れ で い い の か 」 とい う の で,多 喜 二 は,よ く見 て ご らん

「この 字 は この 画 で 」 と手 を とっ て教 え た ら,な る ほ ど と母 親 は合 点 した 。 母 は,息 子 多 喜 二 の 原 稿 用 紙 の 字 しか 知 ら な い の で そ う言 っ た の で あ ろ う。 小 林 は,き ち ょう め ん す ぎ る ほ ど,銀 行 員 風 に字 を しっ か り枡 目 に 入 れ て 書 い て いた か らで あ る。(20)

(10)

⑯ 小 倉 喜 代 志 『小 樽 船 員 と海 上 生 活 者 新 聞 』 手 稿 本1991年5ペ ー ジ 。 (17)文献 『海 上 労 働 運 動 一 不 屈 の 歩 み 』;『 不 屈 の海 上 労 働 者 』;『 無 産 者 新

聞 』;谷 口善 太 郎 『評 議 会 史 』;海 員 組 合 『海 員 組 合 四 十 年 史 』;西 巻 敏 雄

『日本 海 員 組 合 運 動 史 』;笹 木 弘 『船 員 政 策 と海 員 組 合 』;海 員 組 合 『国 際 海 上 労 働 条 約 及 び 勧 告 』。

(18)『全 集 』。

⑲ 山野 千 衛,文 学 評 論,昭 和10年

⑳ 風 間 『北 方 文 芸 』7

4森 良 玄 と多 喜 二

7月 の 終 りか8月 に入 っ て か らか,小 林 が,風 間 六 三 を訪 ね て組 合 の 事 務 所 に 来 た 。風 聞 は,小 林 の文 学 仲 間 だ った 。小 林 は,先 日 出会 っ た 時 と同様, カ ラ リ と して こだ わ りが な か った 。 人 なつ こい 笑 顔 に つ り こ まれ て,森 も笑 顔 で迎 えた が,腹 の 底 に 「この 山川 イ ズ ム 野 郎 メ 」 と思 っ て い る の で,何 言 わ れ て も い い 加 減 に返 事 を し て い た 。 し ぼ ら く して 小 林 は,風 間 と連 れ だ っ て 出 て 行 っ た 。

そ の 晩,森 は風 間 に こっ ぴ ど く とっ ち め られ た 。 風 問 と森 は,組 合 の 事 務 所 に 同 居 し て幾 日 もた っ て い な いが,2人 は同 年 で,20歳 に な っ た ばか りで, 同志 な の で,容 赦 しな か っ た。 「小 林 が 折 角 来 た の に,何 だ い 今 日 の態 度 は」。

森 に 喰 っ て か か った 風 間 の 様 子 か ら,小 林 が風 間 等 の グ ル ー プ か ら少 なか らず尊 敬 され,敬 愛 さ れ て い る こ とが,森 に分 か った 。

だ っ て,あ い つ 山 川 イ ズ ム だ っ て い うん じ ゃ な い か 」

ナ ニ イ,バ カ な,誰 か ら聞 い た 」

古 川 友 一 」

「ア ノ野 郎,と ん で も な い こ と を い うや ろ うだ 」

た ち ま ち激 論 に な っ た が,森 が 小 林 を 山 川 派 だ と断 ず る材 料 は,古 川 が 言 っ て い た とい う こ と しか な か っ た。 風 間 は反 証 を持 っ て い た 。 小 林 が プ ロ

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レ タ リア 芸 術 連 盟 の機 関誌 『戦 旗 』 の 支 局 を や り,発 売 禁 止 を く ぐっ て,巧 み に雑 誌 の配 布 を続 け て い る とい う。 これ に は森 も一 言 もな か っ た。 発 禁 続 き の 『戦 旗 』 を守 る こ とが,ど ん な に や っか い で 困 難 な もの か,分 か っ て い た 。 そ れ を三 ・一 五 弾 圧 の あ と,何 ヵ月 もや っ て い る こ と は,山 川 派 の人 間 に で き る こ とで はな い と,森 は思 っ た。

そ うか,あ の 男 が 山 川 イ ズ ム とは変 だ とは 思 った よ,そ う とわ か っ た ら万 歳 だ」

森 は,風 間 の説 得 に簡 単 に脱 帽 した 。 論 争 の勝 ち 負 け は 問題 で な か っ た 。 1人 の た の も し げ な イ ン テ リ青 年 が,弾(21)圧 に 抗 して 自分 の部 署 を守 り, 戦 っ て い て くれ る こ とが,何 よ り も森 に は嬉 しか っ た 。

脱 帽 の つ い で に,そ の夜,森 は風 間 か ら 「お前 は人 間 的 に単 純 で 軽 率 で あ る」 と指 摘 され,降 参 し た。

翌 日,風 間 は伊 藤 信 二(22)を連 れ て き た 。伊 藤 信 二 も,風 間 同様,小 林 と文 学 仲 間 で,風 間 と小 樽 中学 校 の 同 級 生 だ った 。 この 頃,伊 藤 は風 間 よ り小 林

とのi接触 が 深 か っ た よ う だ。

伊 藤 信 二 は,作 品 「三 ・一 五 」 に つ い て の話 や,小 林 が 貧 窮 の 中 に育 ち, 弟 が バ イ オ リニ ス トで あ る こ と,母 親 が 南 小 樽(23)でパ ン と餅 を売 る小 店 を出 し て い る こ と,店 で 売 る餅 は 自家 製 な の だ が,弟 に 餅 を っ か せ る と,バ イ オ リン の稽 古 に さ わ るの で,小 林 が 毎 朝 餅 をつ い て か ら,銀 行 に 出 て 来 る こ と, な どを,森 に話 した 。 伊 藤 の 小 樽 ナ マ リの 一 言 一 言 か ら,小 林 の さ わ や か で た の も し げだ っ た第 一 印 象 が さ らに鮮 明 に な り,深 ま って い っ た 。森 は言 う, ま じ り けの な い若 者 た ち の心 の ふ れ 合 い とい う もの は,ま こ と に率 直 で 柔 軟 な もの だ,と 。

そ の週 の 日曜 日,森 は風 間 に連 れ られ て 森 田 の 家 に行 っ た 。 小 林 等 イ ンテ リグ ル ー プ に会 うた め だ っ た 。 小 林 と寺 田 を 中 心 に七,八 人 集 ま っ て い た 。 森 が誤 解 し て い た こ と,そ れ が 風 間 と伊 藤 の説 得 で 氷 解 した こ とは,既 に小 林 等 は 知 っ て い た の で,甚 だ 愉 快 に歓 迎 し た。

グ ル ー プ の み ん なか ら質 問 ぜ め に会 った3時 間 余 り とな っ た 。

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労 働 組 合 の組 織 再 建 の進 行 状 況 に つ い て の 突 っ込 ん だ 質 問 に は,な か な か 答 え づ らい 一 面 が あ った 。「港 湾 労 働 者 数,現 場 数,組 合 員 数,工 場 労 働 者 数, 工 場 若 干,組 合 員 数 何 名 」 と い う位 の こ とで は承 知 し な い 人 も い る か らで あ っ た 。 港 湾 労 働 者 は比 較 的 組 織 率 が 高 か った か らい い が,小 樽=合同 労 働 組 合 の工 場 組 織 率 は 高 くなか っ た 。 それ で い くっ か の工 場 か ら生 まれ て 来 た小 数 の組 合 員 を,敵 前 に暴 露 す れ ぼ,ひ どい場 合 は首 にな る し,首 にな らな い まで も見 せ し め に迫 害 され て,組 織 を伸 ば す 障 害 に な る。 そ れ で 隠 して お か ね ば な らな い 。 た と え ば三 馬 ゴ ム 工 場 何 名 とい う よ うな 一 見 莫 然 とした こ と も,な る べ く公 表 した くな い。 しか し善 意 に解 釈 す れ ば,マ ル ク ス 主 義 研 究 に は げ ん で い る イ ンテ リゲ ン チ ャ諸 君 に とっ て は,聞 きた くて な らな い こ と で あ ろ う。 だ が 森 は公 表 す る わ け に は ゆ か な い 。 森 が矛 先 を か わ しか ね て い た 時,(24)

「そ れ は組 織 防衛 上,森 さん に言 わ す の は無 理 だ ろ う」

と,小 林 が か ば っ て くれ た 。森 の 口 か ら組 織 防 衛 上 な ぞ と言 え ば,「 お 前 等 を信 頼 で きな い か ら,明 か す こ とが で き な い の だ 」 とい う こ とに な って,カ ドが 立 つ。 さ ら に組 織 防 衛 とい う こ と も,露 骨 に見 せ た くは な か っ た 。 小 林 が 言 っ て くれ た の で,会 話 は角 が立 た ず に進 め られ た 。

そ の 月 の 末,8月 の終 りの 日曜 日,今 度 も寺 田 の 家 で 小 林 等 の グル ー プ に, 森 は会 っ た 。 要 件 の1つ は,小 林 等 の グ ル ー プ が,古 川 グル ー プ と合 同 で, 資本 論 の研 究 会 をや る こ との 是 非 につ い て,森 の 意 見 を求 めた 。 この 日,森

は小 林 の深 い 人 間 に触 れ,終 生 忘 れ られ な い 思 い 出 とな った 。 小 林 は,森 が 座 に つ くの を待 ち か ね る よ う に,問 い か けて 来 た。

森 さん,北 日本 の 争 議,勝 利 解 決 した そ うで す ね 」

ハ ア,勝 利 とい うほ どで もな い の で す が,五 百 円 と り ま した 。遺 族 は それ を持 っ て 国 に 帰 りま した 」

五 百 円 か … …,よ か っ た な あ」

小 林 は,深 く吸 い込 ん だ 息 を吐 き出 し な が ら,嘆 息 す る よ う に言 っ た 。 心 配 で 心 配 で た ま らな か っ た こ とが や っ と解 決 し た とい う よ うな 喜 び 方 だ っ

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た 。森 は,彼 が そ ん な に もそ の 争 議 を気 にか け て い た の か と,び っ く りした 。 北 日本 の争 議 は,そ の年 の7月 の終 り,北 日本 汽 船 会 社 の 持 ち 船 で,荷 作 業 を して い た労 働 者 が,船 の ハ ッチ ロ か らダ ンプ ロ に落 ち て 死 んだ 。 直 接 の 雇 用 主 で あ る荷 役 会 社 が,弔 慰 金 を75円 と ど けて よ こ した 。い く ら当時 で

も75円 の 弔 意 金 は少 な す ぎ,半 端 な 額 だ っ た の で,森 は覚 え て い る。

遺 族 は60歳 す ぎ の父 親 と,妻 君 に幼 い子 ど もが2人 。75円 で は途 方 に暮 れ て し ま う。 老 父 は リウマ チ で働 け な か っ た 。 葬 式 の 世 話 は組 合 員 に して も

ら っ て,死 亡 弔 慰 金 請 求 の争 議 に入 っ た 。 相 手 は組 合 が 弾 圧 され た 弱 み に も つ け こん で い た 。

手 書 き の ポ ス タ ー を は りめ ぐ ら した り,ビ ラ を撒 い た り し て1月 余 り, や っ と五 百 円 とっ た 。

「よか っ た な あ 」 と言 っ た そ の時 の 小 林 の 声 は,47年 た っ た森 の耳 の 底 に 残 って い る。 そ の声 は,貧 乏 の苦 し みが ほ ん と うに わ か り,働 き手 に死 な れ た 労 働 者 の遺 族 の行 く末 を,真 剣 に心 配 して い た 者 で な けれ ば,出 て こな い 声 だ った 。 小 林 の嘆 声 に驚 い た森 は,一 瞬 呆 然 と して小 林 の顔 に 見 とれ た。

小 林 も森 の 態 度 に気 が付 い て,チ ョ ッ トて れ た 様 な顔 を した 。 しか し二 人 の 心 は熱 っ ぽ く通 じ合 っ た 。 森 は小 林 の 深 い人 間 愛 に打 た れ た 。

森 は,多 喜 二 の タ キ との 話 は(25)当時 知 ら な か っ た 。

争 議 の話 は2人 の 間 だ けで 終 り,研 究 会 に 関 す る検 討 に移 っ た 。 森 は1時 間 で 帰 っ た が,そ の 日か ら小 林 と森 は急 速 に親 し くな っ て い っ た 。 ど ち らか

ら誘 う と もな く,小 林 と森 は グ ル ー プ を は な れ,2人 で し ば しば会 合 した 。 時 に は風 間 が加 わ り,伊 藤 も加 わ った こ とが あ った が,も う澗 れ か か った 森 の胸 中 が 熱 くな る よ うな 楽 し い会 合 で あ っ た 。 森 は多 喜 二 か ら,マ ル ク ス主 義 文 献 や 文 学 運 動 論 文 の疑 問 点 を教 え て も らい,多 喜 二 は森 か ら労 働 組 合 の 実 際 闘 争,実 際 活 動,労 働 者 諸 君 の職 場 や,家 庭 の生 活 実 態 を聞 くの が 通 例 だ っ た が,そ れ が 何 と も言 えず 楽 しか っ た。(26)

と こ ろが 二 人 だ け の会 合 に,少 し都 合 の悪 い こ とが で きて い た。 森 は小 林 の人 間 愛 に打 た れ る数 日前,中 央 か ら来 た オ ル グ(27)の推 薦 を受 け て,日 本 共

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産 党 に 入 党 の手 続 き を とっ て い た 。 入 党 手 続 き とい って も,血 書 血 判 な ぞ を す る の で は な か っ た 。 自分 の 略 歴 を書 い て オ ル グ に渡 す だ け で あ る。 そ の外

は,森 が オ ル グ に 出 す 通 信 の ア ドレ ス を 暗 記 す る こ と,森 の通 信 ア ドレ ス を 定 め,森 の 党 名,党 内 だ け で使 う名 前 を定 め る だ けで あ っ た。 そ れ が 入 党 手 続 きで あ った 。 入 党 手 続 き と同 時 に,小 樽 地 区 と,札 幌 函 館 を の ぞ く,全 道

にわ た っ て 党 員 を発 見 す る こ と を,任 さ れ た 。

日本 共 産 党 に入 党 した 森 は,特 定 の人 と二 人 き りで し ば しば会 合 す る こ と を,特 高 警 察 に嗅 ぎ付 け られ て は な らな い 。 弾 圧 が あ っ て万 一,森 が 党 員 で あ っ た こ とが 発 覚 した 場 合,森 と特 に親 しか っ た者 は党 員 の嫌 疑 を受 け て拷 問 に さ ら され ね ば な ら な い。 そ れ に小 林 は党 員 の 目標 人 物 で は な か っ た。

弾 圧 で組 織 を破 壊 され た 党 は,党 の 再 建 に 当 た っ て,「党 員 は 労働 者 農 民 の 中 か ら獲 得 し,工 場 細 胞,農 民 細 胞 の建 設 を第1に す る こ と,イ ン テ リゲ ン チ ャ は特 定 の人 物 以 外 党 員 に採 用 し な い 。 街 頭 細 胞(=居 住 党 員 支 部)は, 作 らな い 」 とい う基 本 方 針 で あ った 。 特 定 の イ ンテ リゲ ン チ ャ とは,北 海 製 缶 の よ うな 会 社 で,工 場 労 働 者 と密 接 な 立 場 に お り,党 と労 働 者 の 接 点 にな り う る人 物 で あ っ た 。 北 海 道 拓 殖 銀 行 に は労 働 者 はい な い。 従 っ て 小 林 は, 党 員 の 目標 人 物 に はな れ な い わ けで あ る。 そ の小 林 に森 が しば し ば接 触 す る の は,党 の 地 区 オ ル グ と して 少 し逸 脱 行 為 だ と も考 え られ た が,一 週 間 も小 林 の顔 を見 な い と,会 い た くて な らな くな った 。(28)

小 林 が 「一 九 二 八 ・三 ・一 五 」 を脱 稿 し,戦 旗 社 に送 っ た こ と,新 し く 「 工 船 」 の構 想 に か か って い る こ と も聞 か され て い た の で,十 月 な ぞ は,多 喜 二 の要 求 で1週 間 に三 度 も会 合 した こ とが あ っ た 。9月 中旬 に森 が 指 導 した 小 印刷 工 場 の ス トラ イ キ の(29)経過 につ い て 細 か く問 い た だ す た め だ っ た 。

蟹 工 船 」 を 書 き始 め て い た 小 林 は,労 働 者 が た ち あ が る シー ン描 写 の 参 考 に した と思 い合 わ せ られ る。 こ ん な時,森 は特 高 の 眼 ば か りで な く,仲 間 の 眼 も警 戒 した 。 森 は さ りげ な くふ る まっ て い る心 算 で あ っ た が,敏 感 な小 林 が 感 ず か な い は ず は な い。 そ の 上 十 月 末 に会 っ た 時,風 間 が北 方 海 上 属 員 ク

ラ ブ か ら,新 聞 を出 す 計 画 を し て い る か ら,編 集 上 の 援 助 を して くれ る よ う

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小 林 に依 頼 した り した の で,小 林 は森 が 党 の 中 心 に お り,北 海 道 の労 働 運 動 の 指 導 に 当 た っ て い るの だ と察 した よ うだ っ た が,何 も言 わ な い で,森 の乏

しい 実 践 運 動 の 経 験 を 問 い た だ し,森 の文 書 上 の 頼 み を 引 き受 け た 。(30)

『文 芸 北 見 』279ペ ー ジ 。

伊 藤 信 二(1907‑1932)。 小 樽=出 身 。 特 要 乙 号 共 産 主 義 と さ れ た 。 全 日 本 無 産 青 年 同 盟 小 樽 支 部 長 。 三 ・一 五 に 連 座 。 作 家 。 全 協 活 動 に 従 事 し た 。

小 樽 築 港 で あ る 。

(24)『文 芸 北 見 』280ペ ー ジ 。

森 は,多 喜 二 の 田 口 瀧 子 と の 恋 愛 の 話 は 当 時 知 ら な か っ た 。多 喜 二 の 恋 愛 に つ い て は,倉 田 稔 「小 林 多 喜 二 の 恋 」(『人 文 研 究 』90輯,1995年8月), 同 「小 林 多 喜 二 の フ ェ ミニ ズ ム 。小 林 多 喜 二 と 田 口 瀧 子 の 愛 」(『世 界 文 学 』 78,世 界 文 学 会1993年12月)を 見 よ 。

(26)『文 芸 北 見 』281ペ ー ジ 。

杉 本 で あ ろ う。

文 芸 北 見 』282ペ ー ジ 。

同,282ペ ー ジ 。

同,283ペ ー ジ 。

5「 一 九 二 八 年 三 月 十 五 日」

多 喜 二 は社 会 科 学 研 究 会 で 変 わ っ て い っ た。 多 喜 二 は 後 輩 に影 響 を 与 え た。 そ の 例 と して,東 海 林(在,釧 路,高 商 最 後 の社 研 の リー ダ ー,1934年 卒),お よび 全 協 へ 行 った 人 々 が い る。

多 喜 二 は完 成 して い た 「防 雪 林 」 を惜 し げ もな く見 捨 て た 。 そ して 「一 九 二 八 年 三 月 十 五 日」 を執 筆 した 。 仲 間 か ら実 態 を聞 い て で あ っ た 。

3・15事 件 後,多 喜 二 は島 田 に 「い ま,最 も必 要 な の は,天 野 屋 利 兵 衛 の よ うな 人 間 だ」 と,2度 ほ どい っ た 。

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風 間 が 美 術 部 を受 け持 つ よ う に な っ た の は,28年 の2月 に行 わ れ た第1回 の普 選 で 労 働 農 民 党 か ら立 候 補 した 山本 懸 蔵 の選 挙 応 援 に プ ロ芸 派 と して 参 加 し ポ ス タ ー 描 きや 版 下 描 き をや っ た こ とが き っ か けだ った 。

山本 懸 三 が 落 選 して 東 京 へ 帰 った あ と,組 合 の 武 内 清 か らの依 頼 で,共 産 党 北 海 道 地 方 委 員 会 の 機 関紙 にの せ る の だ か ら と,小 樽 合 同労 組 の誰 もい な い2階 で 夜8時 こ ろ,(武 内 は 一 引 用 者)静 か に風 間 に話 し た。図 柄 は,「 北 海 道 労 働 者 」 に 「台 湾 の労 働 者 と北 海 道 の 労 働 者 が 握 手 して い る カ ッ ト」 と い うの で2日 か か りで 自宅 で 描 き渡 した 。 風 間 は 武 内 は仲 々 の政 治 家 で あ る と思 った 。 そ れ を模 刻 した 号 が や が て武 内 か ら渡 さ れ た 。 風 間 は の 事 は秘 して 誰 に も語 ら な か った 。 模 刻 者 は 久 津 見 房 子 だ っ た と 後 で 分 か っ た 。

風 間 は 柳 瀬 正 夢 に私 淑 して お り,当 時 の プ ロ 芸 の 画 家 大 月 源 二 や 稲 垣 小 五 郎 等 と同 郷 で 中 学 校 の 白 潮 画 会 に属 し て お り,親 しい 間 が ら に あ っ た の が 原 因 で あ る。

風 間 はす で に,す ぐ運 動 に 役 立 つ ア ジ プ ロ芸 術 に共 鳴 して い た もの の,そ れ が マ ル ク ス主 義 芸 術 の本 流 とは考 えて お らず,暗 中 模 索 は し ば しば で あ っ た 。

そ の 日 の ナ ップ の 会 合 が終 わ っ て,4月 に風 間 の 一 身 上 の 変 化 が お きた 。 両 親 と妹 が 小 樽 の 住 居 を た た み,釧 路 の 教 員 を して い る長 兄 の と ころ へ 引 き 上 げ,風 間 は石 山 町 の若 林 善 松 の と こ ろへ 寄 寓 した 。

森 良 玄 は書 く。

小 林 多 喜 二 の 「一 九 二 八 ・三 ・一 五 」 は,伊 藤 信 二 の 話(31)に触 発 さ れ た も の と も言 え る。 当 時 の北 海 製 缶,の ち の 東 洋 製 缶 の 職 工 だ っ た 伊 藤 信 二 は, 三 ・一 五 事 件 で も っ て行 か れ,手 ひ どい 拷 問 を 受 けた が,証 拠 物 件 が な く釈 放 され た 。釈 放 さ れ た 伊 藤 か ら拷 問 の話 を聞 い た小 林 は,そ の残 虐 に憤 激 し, 更 に調 査 を す す め て,あ の名 作 に ま とめ あ げた 。だ か ら伊 藤 は,小 林 が 「三 ・ 一 五 」 の筆 を す す め て い る こ とを知 っ て い た。(32)

文 芸 戦 線 」 の読 者 会 が あ っ て,伊 藤 信 二 も出 席 して い た 。加 藤 美 樹 夫 とい

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う プ ロ芸 派(日 本 プ ロ レ タ リア芸 術 連 盟)の 論 客 が い て,多 喜 二 と果 て し な い 論 争 を や った 。 プ ロ 芸 派 と労 芸(労 農 芸 術 家 連 盟,機 関 誌 が 文 芸 戦 線)に 別 れ,ど ち ら を と るか,そ して正 し い か が 主 題 で あ っ た 。 大 半 は プ ロ芸 派 に 傾 い た 意 見 だ っ た が,多 喜 二 は労 芸 派 の1人 と して お お い に論 陣 を張 った の で あ る。 しか し実 践 す るた め に は,労 働 者 の 中 に入 っ て い くべ きだ と い う こ とが 基 本 で あ っ た か ら,そ この と こ ろで は一 致 し て い た 。 ま た実 践 とい う の は,労 働 組 合 と も関 係 し,ひ い て は警 察 の 要 注 意 人 物 に な る こ とで もあ っ た 。 これ の た め か ど う か,プ ロ芸 派 と して 多 喜 二 とや りあ った 加 藤 美 樹 夫 は,そ の 後 は姿 を見 せ な くな り消 え て し ま っ た。 昭 和3年 の1月 か ら3月 にか け て の 時 期 で あ った 。(33)

三 ・一 五 」 の 批 評 会 が,花 園 町 の 当 時 の丸 文 の 向 い の そ ば屋 の 二 階 で ら し い が,行 な わ れ た 。

立 野 信 之 が,小 林 多 喜 二 の名 を初 め て知 っ た ゐ は,彼 の 親 戚 の者(=伊 藤) が 発 行 して い て,山 田 清 三 郎 が編 集 し て い た 『新 興 文 学 』 で で あ る。 小 林 は そ れ に小 説 を投 稿 して きて,当 選 した の だ 。 立 野 は,多 分 「薮 入 」 で,宮 新 三 郎 の選 で 「老 巧 云 々 」 の選 評 が つ い て い た の を覚 え て い る 。

飯 坂 が 高 崎 か ら聞 い た 話 だ が,高 崎 徹 は,東 京 外 語 で 蔵 原 惟 人 と同 期 だ っ た 。 「あ の男 が左 翼 に な る と は思 わ な か った 。 お とな しい男 で ね 。」(34)

あ る 日蔵 原 惟 人 が分 厚 な原 稿 を持 っ て,立 野 の所 に きた 。 「これ を読 ん で, よか っ た ら 『戦 旗 』へ 載 せ る よ う に して くれ 。」 とい って,原 稿 を渡 した 。 そ れ が 『一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』 だ った 。

立 野 は 言 う。

僕 は小 林 多 喜 二 の名 を一 目見 て,「あ ・,こ れ は古 い作 家 だ よ。」 とい っ た 。 原 稿 を見 て,僕 は驚 い た 。 い か に も銀 行 員 ら し い く几 帳 面 な書 体 で 一 字 も消

して い な い の で あ る 。 ま るで 上 手 な プ リ ン ト刷 りか な ん か の よ うだ った 。 立 野 は あ とで 聞 い た の だが,小 林 は決 して 小 説 をい き な り原 稿 紙 に は書 か な い で,最 初 は ノ ー トに書 い て い た 。

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多 喜 二 は,小 説 で 時代 の 先 端 を掴 ま え た 。 『三 ・一 五 』 が それ で あ る。 彼 に は ジ ャ ー ナ リス テ ィ ッ ク な才 能 が あ っ た。『三 ・一 五 』 に は,カ メ ラ感 覚 が あ っ た 。 「シナ リオ だ 」とい っ た 人 もい る。 これ は,映 画 的 で あ る。 彼 は い き な り 社 会,事 件 を と りあ げ る。 そ して大 衆 文 学 的 要 素 が あ る。(35)これ は多 喜 二 が 映 画 好 き で あ った こ とに も原 因 が あ る ので は な い か 。

そ れ に,彼 はテ ン ポ の速 い 文 体 で 「三 ・一 五 」を書 い た 。(36)新感 覚 派 にか ぎ らず,昭 和 の新 文 芸 の ス タ イ ル に共 通 して い る の は,「速 度 感 」 で あ る。速 い 思 考 の 回転 に よ る テ ム ポ の 速 い文 体 が 流 行 し,そ の流 行 に作 家 た ち は遅 れ ま い と した 。志 賀 直 哉 の文 章 に ま な び,写 実 の 骨 法 を身 に つ け た 小 林 多 喜 二 は, この 年,大 正 時 代 の"の ろい"レ ア リズ ム の文 体 を捨 て ね ば な らな い と考 え は じ めて い た 。(37)

多 喜 二 は,「 三 ・一 五 」で 彗星 の よ うに デ ビ ュ ー した 。 これ は,『 戦 旗 』1928 年11月,12月 に発 表 され た 。 人 々 は,三 ・一 五 事 件 を甘 く見 て い た 。 これ が 出 て初 め て知 っ て,が くっ とし た。 「三 ・一 五 」 につ い て は,中 野 重 治 の 「 さ きの 風 」 が 『戦 旗 』1928年8月 号 に で た 。 谷 ロ善 太 郎 の 「三 ・一 五 事 件 挿 話 」 が 『戦 旗 』1931・6,7月 合 併 号 に出 た 。 須 井 一 のペ ンネ ー ム で あ っ た 。 し か しな ん とい っ て も小 林 の 小 説 が,最 高 で あ る。

そ の 後 「蟹 工 船 」 が 出 た の だ が,こ の2作 で シ ョ ック ・大 事 件 で あ った 。

三 ・一 五 」 で,多 喜 二 文 学 の 最 も本 質 的 な もの が 現 れ て い る。 これ で 重 要 な 時 代 と背 景 を っ か ん だ。 手 で さわ れ る よ う に描 い た 。 徹 底 的 に形 象 化 した 。 国民 的 名 作 で あ る。 時 に多 喜 二,24才 で あ っ た 。 時 代 は,山 東 出兵 の 時 で, 田 中 義 一 の 時代 で あ っ た 。多 喜 二 の,普 通 の意 味 の 努 力 と積 極 性(38)が現 れ て い る。

小 林 の 小 説 に は,擬 声 語 ・擬 態 語(オ ノ マ トペ)が 多 い 。 一 般 に は これ を 使 う と下 手 だ と され る が,小 林 は意 識 的 に これ を使 っ て い る,労 働 者 ・農 民 に わ か りや す い の で あ っ た 。

三 ・一 五 」 の献 辞 「プ ロ レ タ リア 前 衛 の 闘 士 に さ さ ぐ… … 」 の句 は,当 初 で て い な い 。 鈴 木 源 重 は,三 ・一 五 の 後,ぶ る った 。 作 品 で は鈴 本,と な っ

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て い る 。(39)イン テ リの 龍 吉 は,古 川 で あ る 。 英 雄 的 な 渡 は,渡 辺 利 右 衛 門 で あ る 。 坂 西 は,大 西 で あ る 。 斉 藤 は,鮒 田 で あ る 。 佐 多 は,寺 田 で あ る 。 蔵 原 が 『三 ・一 五 』 の 終 章 の 部 分 を カ ッ ト し た 。

三 ・一 五 」 を読 ん で

,古 川 は 島 田 に話 した 。 「小 林 が 俺 の事 を書 い て い る が,全 くよ く見 て い る。 身 体 は小 さ い が,理 論 的 に も明 解 だ し,素 晴 ら しい 頭 を持 って い る 。

小 林 の友 人 の 細 君(40)が,小 林 さ ん て ま る で大 き な子 供 ね,と い っ た 。女人 の 眼 の す る どさ で あ る。 まっ た く小 林 の わ れ わ れ を離 さ な か っ た 人 間 的 な魅 力 とい う もの は,せ ん じ つ め れ ば小 林 は い つ ま で も大 人 に な り きれ な い童 心 で あ っ た か らで あ ろ う。 小 林 の 仕 事 は大 きい 。 しか し,そ の仕 事 とい うの は 大 人 が 大 人 ぶ っ て で き る よ うな 仕 事 で は な か っ た。」(41)

藤 森 成 吉 は書 く。

三 月 十 五 日』が は じ め て雑 誌 へ 発 表 され た 前 後,小 林 多 喜 二 か ら手 紙(か ハ ガ キ)を 貰 っ た。 ど うか 遠 慮 な い意 見 を きか せ て くれ,と 云 つ た 意 味 の も の だ っ た。 シ ッ カ リ した 書 き方 に感 心 した 。 み ん な が 評 判 して い る,な お大 い に書 い て くれ,と ぼ くは云 っ て や っ た よ う に思 う。 や は りそ の 時 蔵 原 に彼 の 「シ ッ カ リ さ」を話 した ら,「 や つ ば り文 学 で 苦 労 した 作 家 で な い と駄 目 で す ね 」 とい つ もの蔵 原 ふ うな微 笑 を もっ て う なず い て み せ た。(42)

「多 喜 二 が 「東 倶 知 安 行 」 を 書 い た こ ろ 」9ペ ー ジ,で 述 べ た よ う に,小 樽 ナ ッ プ の 会 合,高 崎 の 家,1928年5月,で の 伊 藤 の 話 。

(32)『文 芸 北 見 』280ペ ー ジ 。

(33)笠 井 「小 林 多 喜 二 と風 間 六 三 」。

(34)飯 坂 久 男 「多 喜 二 文 学 と あ の 頃 の 学 友 達 」(『 緑 丘 』42)44ペ ー ジ 。 (35)日 高 昭 二 講 演 か ら。1994年10月,小 樽 。

桶 谷 秀 昭 伊 藤 整 』 新 潮 社1994年

同,96ペ ー ジ 。

(20)

(38)松 田 解 子,1995年2月20日,小 樽 講 演 。

琴 坂 。

古 川 の 細 君 。

(4D武 田 「大 き な 子 供 」(『 緑 丘 』42)26ペ ー ジ 。

(42)「小 林 多 喜 二 の こ と」(『 小 林 多 喜 二 の 肖 像2』 小 樽 文 学 館)。

6付 『一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』 読 者 評

最 近 の 若 い学 生 た ち は,小 林 多 喜 二 の 名 作 「一 九 二 八 年 三 月 十 五 日」 を, どの よ う に読 ん で い る だ ろ うか 。 小 樽 商 大 の学 生 の 感 想 を 紹 介 し よ う。 三 ・ 一 五 事 件 か ら65年 後

,主 に大 学1年 生 で あ る。

私 は こ の本 を読 ん で,共 産 主 義 とは 何 か,レ ー ニ ンの 目指 し た も の は 何 だ っ た か,改 め て 詳 し く知 りた い と思 った 。

組 合 員 た ち の 自己 犠 牲 の精 神 に一 番 驚 か さ れ た 。 … … この よ う な す ば ら し い考 え を持 っ た人 間 が,今 の 日本 に は どれ ほ どい るだ ろ うか 。

自 分 の 無 関 心 な 態 度 を す ご く恥 ず しい 」

信 じ られ な い。 … … 多 喜 二 の 思 い は物 語 全 体 を通 じ て 私 の胸 に迫 っ て く る」

今 で は 考 え られ な い こ とが 昔 あ った とい う こ とを深 く考 え た い。… … 今 こ うい った 人 達 に感 謝 し な け れ ば い け な い と思 う。 この 住 み や す い 世 の 中 を 作 っ て くれ た の も,沢 山 の人 が 努 力 を して 犠 牲 を払 っ て きて くれ た お か げだ

か ら」

「読 書 嫌 い の 私 は,… … 初 め て,本 に の め り込 ん だ 。 … … 衝 撃 を 受 け た 。

(21)

Sさ ん 労 働 組 合 の人 々 が 何 を思 い,し よ う と し て い た か とい う こ と よ り も,警 察 で の 拷 問 の惨 た ら しさ の 方 が 印 象 に残 った 。目 の前 で そ れ が 起 こっ て い る か の よ うな衝 撃 を受 け た 。 そ こに は正 義 も何 も な い だ ろ う。 権 力 を カ サ に着 た人 た ち が,団 結 し な け れ ば声 も届 か な い よ うな 人 々 を踏 み つ け に し て い い は ず が な い。」 「今 現 在 こ うい う生 活 が で き て い るの は,以 前 命 を張 っ て,『 踏 み 台 』とな っ て くれ た人 々 が いた お か げだ とい う こ とを決 して 忘 れ て

はな らな い の だ … … 」

読 者 は一 般 に,こ の 小 説 の拷 問場 面 に シ ョ ッ ク を受 けて い る。

S君 彼 ら[組 合 員 た ち]の 意 志 の 強 さ に 一 層 驚 き,ま た こ こ まで 必 死 で が ん ば る人 達 の 思 い を す べ て の 国民 にわ か っ て も らい た い 」「この 物 語 は,私 の よ う な世 代 に は 本 当 の と こ ろ は理 解 しか ね る こ とが 多 い 」 「自 分 の 国 を よ

くし よ う とす る情 熱 を感 じた 」。 「現 代 の 日本 は裕 福 だ し,改 革 す る こ とは な い の か も し れ ま せ ん が,彼 ら の も っ て い る よ う な あ つ い 思 い は 大 事 な こ と だ」。

A君 「日本 警 察,そ して 政 府 は この 話 を読 ん で,自 分 が この 労 働 者 に な っ た と思 っ て一 考 して ほ しい 」

U君 三 ・一 五 事 件 に つ い て 何 も知 ら なか っ た 。 高 校 で 日本 史 の授 業 を受 け て い た に もか か わ らず」。 今 後 「商 大 生 と して だ けで な く,学 問 を志 す 者 と し て も っ と もっ と こ の偉 大 な 先 輩 の作 品 を読 ん で い き た い 」

1君 今 こ う し て住 ん で い る小 樽 が,日 本 史 で あ ま り深 く理 解 し て い な か っ た が,あ の三 ・一 五 事 件 に関 わ っ て い て,し か も この よ う な惨 事 が行 わ

れ て い た こ とを知 り,驚 き と と もに何 か 寒 気 を感 じた 」。

Nさ ん た い て い,読 書 の 後 に は余 韻 が 残 る も の で あ るが,こ れ は格 別

(22)

だ った 。 私 は これ まで この よ う な プ ロ レ タ リ ア文 学 を読 ん だ こ とが な か っ た 」。 「細 か い 歴 史 の真 実 を知 らさ れ た よ うで シ ョ ック だ っ た 。」

Eさ ん 読 ん で い て せ つ な か った 。」 「なぜ 当 時 思 想 家 や 党 員 を こ こ ま で 弾 圧 し な け れ ば い け な か った の か,疑 問 に感 じ る。」

1君 恥 か しな が ら,こ の本 は今 ま で そ の 名 さ え知 ら なか っ た 。」「この 本 で描 か れ て い る警 察 の行 動 が す べ て本 当 で あ るな ら,何 とお そ ろ しい 時 代 で あ った だ ろ う。」 「こ の作 品 で は そ の悲 惨 さ を訴 えて い る … … 」

1さ ん 私 は 小 林 多 喜 二 の 作 品 を初 め て読 み ま した 。 私 は今 まで プ ロ レ タ リア 文 学 とい う も の を読 ん だ こ とが な く,そ の 上,プ ロ レタ リア とい う言 葉 の 意 味 も よ く知 りませ ん で した 。」 「毎 日食 べ て ゆ くの が や っ と とい う貧 し い生 活 の 中 で 芽 生 えた 力 強 い 思 想 が そ こ に は存 在 して い る … … 」 「何 か 多 喜 二 の 気 合 い が感 じ られ る 。」 「小 説 の舞 台 が 小 樽 で あ る こ とか ら,… …現 実 味

も増 す 」 「この 小 説 が 存 在 す る とい う こ との 大 切 さ を感 じ ま した 。」(43)

『ら ぶ 小 樽 』142号 の 再 録 。

参照

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