小林 多喜二 伝 補遺1
倉 田 稔
も く じ
は じめに
1小 林 多喜 二 につ いて の本 2高 松 勤
3山 宣,武 内,園 井,九 津見,葉 山,福 本 和夫,松 崎濱 子,新 井 紀一, 小畑 達夫
4多 喜 二 は なぜ 主義 者 にな った のか 5七 沢 温泉
61932年 の情勢 7補 遺 と訂 正
8こ れ までの私 の小林 多 喜二伝(続)
は じめ に
これ は,小 林 多 喜 二 伝 の(21)で あ る。 今 まで 小 林 多 喜 二 伝 を書 い て きて, また そ の途 中 で もあ る が,こ れ まで で 洩 れ た 点 を記 す 。
1小 林 多 喜 二 に つ い て の 本 1‑1三 浦 綾 子 『母 』
小 林 多 喜 二 に つ い て の 書 と して,現 在,も っ と も薦 め た い の は,三 浦 綾 子
『母 』(角 川 書 店1990年 初 版)で あ る。
と にか く大 変 よ い もの で あ る。 標 題 か ら明 き らか の よ う に,多 喜 二 の 母 ・ セ キ が 多 喜 二 に つ い て物 語 る とい う形 式 を とっ て い る。
これ は,三 浦 さん の ご主 人 ・光 世 さん が ど こか で 書 い て い ら っ しゃ っ た が, ほ とん ど ノ ン ・フ ィ ク シ ョ ンで あ る,と い う。 小 生 は,葉 書 の類 の や り と り を,ご 夫 妻 と した が,そ れ に よ る と,こ の 小 説 で は2つ を除 い て,事 実 で あ る と,お 手 紙 で 知 らせ て い た だ い た 。 母 ・セ キが 夢 を見 る場 面 で,そ の 内容 が 一 つ 目,タ ク シ ー に乗 っ た 時 の 運 転 手 の話 が 二 つ 目で あ る,と 。 そ うい う わ けで,こ の 小 説 は小 林 多 喜 二 伝 の 材 料 と して 使 っ て も よ い こ と にな る。
こ の本 に は参 考 文 献 が 巻 末 に っ い て い るか ら便 利 で あ る。 もち ろ ん,三 浦 綾 子 さ ん は これ ら以 外 に膨 大 な 資 料 を用 い た の だ ろ う と,推 測 さ れ る。
本 書 は,三 浦 綾 子 さ ん の才 能 が 十 分 発 揮 され た もの で あ り,や は り彼 女 は た だ もの で は な い,大 変 な 文 学 者 な の だ と,実 感 さ せ られ る。読 ん で い て も, 涙 が こ ぼ れ そ うで あ る。 名 作 で あ る。
それ に また こ の小 説 は,劇 化 され た 。 前 進 座 が,脚 色 ・田 島栄,演 出 ・十 島 英 明,主 演 ・今 村 い ず み で,二 度 に わ た って 全 国公 演 を した 。 そ の た め, 小 説 を読 まな くて も この 劇 を見 た とい う人 は多 くお られ るで あ ろ う。
1‑2小 笠 原 書
小 笠 原 克(ま さ る)『 小 林 多 喜 二 とそ の 周 圏 』(翰 林 書 房1998年 初 版)が 出 た 。 著 者 は,か つ て藤 女 子 大 の教 授 で あ っ て,小 樽 文 学 館 館 長 も勤 め,さ き ご ろ亡 くな られ た 。 小 樽 生 まれ で もあ り,小 樽 の こ と を よ く知 って い る立 派 な 多 喜 二 研 究 家 で あ る。
この 書 は,ほ とん ど既 発 表 作 品 を ま とめ た もの で あ るが,丁 寧 な 考 察 で あ り,年 季 の入 った 好 書 で あ る。 立 派 な問 題 提 起 も して い る。
た だ し,多 喜 二 の生 涯 につ い て 小 生 は詳 細 な 調 べ を して い て,小 樽 商 大 の 紀 要 な どで提 出 し て い るの だ が,そ う い う もの が 利 用 され て い な い 。 研 究 と い う の は そ ん な もの で あ ろ うか 。
1‑3琴 坂 書
琴 坂 守 尚 『ガ イ ドブ ッ ク 小 林 多 喜 二 と小 樽 』 新 日本 出版 社1994年
単 に ガ イ ドブ ック に は と ど ま らな い 。 良 書 で あ る。 小 樽 につ い て詳 し い著 者 ゆ え に,立 派 な もの で あ る。
1‑4そ の他
『読 本 秋 田 と小 林 多 喜 二 』(同 刊 行 会2001年)が 出 され た。 副 題 が 「秋 田 県 多 喜 二 祭 の 記 録 」で あ り,第1回 か ら第19回 まで の記 録,そ の 他 で あ る。
『火 を継 ぐ もの』 石 井 大 三 郎 遺 稿 集(2001年)も 出 た。
2高 松 勤
小 樽=高等 商 業 学 校(以 下,小 樽 高 商)に,高 松 勤 が 勤 め て いた 。 か れ の 存 在 は か な り重 要 だ った こ とが 分 か っ た 。
小 樽=商科 大 学 所 蔵 の 『職 員 履 歴 元 綴 庶 務 課 』,無 表 紙 の職 員 履 歴,お よ び
『緑 丘 五 十 年 史 』を合 成 して セ レ ク トして,高 松 の履 歴 を示 せ ば,こ うで あ る。
()内 は,補 い で あ る。
原 籍 埼 玉 県 入 間 郡 川 越 町字 川 越 廓 町134番 地 士 族 明 治24年1月1日 生 まれ 。
住 所(小 樽 高 商 に赴 任 す る直 前)京 都 市 上 京 区 岡 崎 町福 ノ川44番 地 明 治43年7月9日 東 京 府 立 青 山 師 範 学 校 本 科 第 一 部 卒 業
同 小 学 校 本 科 正 教 員 免 許 同 東 京 市 立 誠 之 尋 常 小 学 校 訓 導
明 治44年9月16日 休 職 を命 じ られ る。 小 学 校 令 施 行 規 則202条3号 に よ り。
明 治44年9月11日 東 京 高 等 商 業 学 校,商 業 教 員 養 成 所 入 学 。 大 正4年7月9日 卒 業 。
大 正5年4月11日 同,専 攻 部 経 済 科 入 学 。 大 正7年3月31日 卒 業 。
大 正7年4月6日 京 都 市 立 第 一 商 業 学 校 教 諭 。
大 正7年7月1日 京 都 市 立 商 工 補 習 学 校 特 科 講 師 を嘱 託 さ る。
大 正8年3月31日 公 立 実 業 学 校 教 諭 。
大 正8年5月16日 小 樽 高 等 商 業 学 校 助 教 授 。商 業 学 を教 え る と して 。 大 正9年4月8日 保 険 論 及 び交 通 論 研 究 の為 満2力 年 問 イ ギ リ
ス,ア メ リカ,フ ラ ン ス へ 留 学 を命 ぜ られ る。
大 正9年7月5日 出発 。 大 正10年8月16日 教 授 。
5月12日 商 業 学,商 業 実 践,の 担 当 とな っ て い る。
大 正12年6月15日 帰 朝 。
大 正12年9月11日 商 業 実 践 室 主任(学 内)。
大 正13年4月28日 産 業 調 査 会 常 務 委 員(学 内)。
大 正13年5月1日 学 則 調 査 委 員(学 内)。
大 正14年11月25日 高 等 官 五 等 。 大 正14年12月15日 従 六 位 。 昭 和2年4月6日 退 官
高 松 は大 倉 高 商 に移 った 。(以 下,東 京 経 済 大100年 史 編 纂 委 員 会 の資 料 に よ る)
大倉高商 時代
昭和2年 度4月1日 講 師 を嘱託 す 年俸2千8百8拾 円 従六位
4月11日 任 教授 〃 講 師
昭和3年 度 教授
商業 通論,交 通,税 関倉庫,外 書購読 従六位商 学士 埼 玉 教務課 主任教授
昭和4年 度4月1日 給 年俸3千 円 教授
昭和5年 度4月27日 給 年俸3千4百 円 教授
同 昭和6年 度
依願 退職
在職 中勤務勉励 に付退職手 当 金7百5拾 円給与
同
元 教授
小 樽 高 商 軍 教 事 件 の 直 前 の こ とで あ る。高 松 勤 教 授 を 中心 と して,読 書 会(1) な る も のが あ った 。
当 時 の 高 商 生 ・高 橋=石 田與 平 は書 く。 「高商 二 年 の春 に な っ て,[高 橋 の]
学 問 的 関 心 が再 び マ ル クス に 向 きか け て い た 矢 先,M.S.S(MarxianStudent Society)の 名 で 社 会 科 学 研 究 教 程 が は り出 され,そ こ に は マ ル クス の資 本 論, 経 済 学 批 判 は勿 論,英 訳 のAnti‑Dueringか ら,レ ー ニ ン の帝 国 主 義 論State andRevolution,更 に ク ノー の 「マ ル ク ス,歴 史 ・社 会[・]国 家 学 説 」 の
ドイ ツ 語 原 本 な ど,十 数 冊 の 書 名 が あ げ られ て い た 。 … … 指 定 の 日,指 定 さ れ た場 所 に行 っ て 見 た ら」(2),「私 な ど よ りだ い ぶ 年 上 の三 年 生 が お りM.S.S に入 る よ う勧 誘 を受 け た 。 勿 論,私 も入 っ た し山 本 安 次 郎 君(後 の滋 賀 大 や 京 大 の 経 営 学 教 授)や 手 島 恒 二 郎 君(後 の千 代 田 火 災 の社 長),合 田 正 巳君, そ の ほ か 数 名 入 った 。M.S.Sの リー ダ ー は右 に述 べ た 年 上 の 斉 藤 磯 吉 君 で あ っ た 。」(3)・
当 時,M.S.Sが 高 商 に あ っ た の だ っ た。 これ は正 式 に はMarxianStudent Societyで,そ の 略 称 で あ るが,社 会 科 学 研 究 会 との 関 連 が は っ き りし な い 。 当時,明 らか な存 在 に しに くか っ た の だ ろ う。 しか し む し ろ,こ れ は社 会 科 学 研 究 会 だ っ た の か も しれ な い 。 そ れ に,読 書 会 とい うの も これ だ っ た の で は な い か 。 北 海 道 地 区 は東 北 連 合 会 に 属 し,… … そ れ が 結 成 され た の は大 正 13年(1924年)9月 で あ る。 この時 代 に学 連 本 部 お よ び東 北 連 合 会 の連 続 委 員 と して 活 躍 した も の は,… … 大 正14年 度 で は,… … 小 樽 高 商 は斎 藤 磯 吉 で あ っ た 。
こ こ に軍 事 教 練 反 対 運 動 が 起 き た 。
「学 校 当局 は大 変 ろ う ば い した。そ の様 子 は,高 松 先 生 を通 して わ れ わ れ(高 橋=石 田 ら)の 耳 に入 っ て くる。 や が て 首 謀 者 は誰 か とい う事 に な っ た 。 こ
の 年 の夏 頃 か らで あ っ た ろ う か,斉 藤 君 は一 身 上 の つ こ うで 休 学 とい う事 に な って い た 。休 学 の彼 を表 面 に 出 す事 は出 来 な い 。上 級 生 の黒 田 君 や 寺 田君, そ れ に私 ど もが 次 々 と学 生 部 に 呼 ばれ た。 学 生 主 事 の先 生(倫 理 学 の先 生) は,斉 藤 君 が 扇 動 した の だ ろ う,と か ま を か けて く る。 こ の事 は だ れ も否 認 した 。 そ して 自分 た ち み ん な で や った の で,特 別 に首 謀 者 な どは な い と 答 えた 。」
「と こ ろが
,十 一 月 の は じ め高 松 先 生 か ら連 絡 が あ っ た 。お訪 ね す る と,文 部 省 か ら断乎 処 分 せ よ,と の 通 達 が 来 た の で犠 牲 は まぬ が れ な い とい う。 た だ誰 を どの よ う に処 罰 して い い か,そ の軽 重 に当 局 が 困 っ て い る,と い う の で あ る。 そ れ で 同 志 が み な あ つ まっ た 。 合 計 四 十 七,八 名 だ った と思 う。 話 し合 い の結 果,み ん な そ れ ぞれ の事 情 が あ る だ ろ うか ら,処 分 を う け る もの が,志 願 す る こ とに し よ う とい う こ とで,十 一 名 が 学 校 に 自分 た ち の 責 任 だ と申 し 出 た 。 十 一 月 三 日頃,こ の十 一 名 に無 期 停 学 が い い わ た さ れ た 。 この 中 に は,後 に 千 代 田火 災 の 社 長 に な った 手 島恒 二 郎 君,元 滋 賀 大,京 大 の 教 授 に な っ た 山 本 安 次 郎 君 も,そ して 私 も入 っ て い た 。
斉 藤 君 は休 学 中 で,は じ めか ら この 事 件 に か か わ っ て はい な い,と い う建 前 で,勿 論 処 罰 を う け る こ と もな か った 。 わ た くし た ち 同 志 で,彼 を非 難 す る もの は一 人 もい な か っ た 。 あ とで 彼 は,高 松 先 生 や 南 先 生 と相 談 の 上,自 発 的 に退 学 した 。」(4)
南 亮 三 郎 は 書 く。 「こ うい う事 件 で は,必 ず 『思 想 的 背 景 』が 問題 に さ れ た 。 教 師 の側 で は高 松 勤 教 授(今 は亡)と 私 とが嫌 疑 をか け られ,学 生 の側 で は 幾 人 か の 『首 謀 者 』 が 処 分 を受 け た 。 黒 田,寺 田,高 橋,山 本 一 そ うい う 名 の 学 生 の犠 牲 者 一 処 罰 に つ い て 学 校 当局 が 一・番 手 を焼 い た の は,斎 藤 磯 吉 君 とい う学 生 で あ っ た(5)。」
境 一 郎 は 書 く。(テ ン を入 れ て お く)
社 研 グ ル ー プ の リー ダ ー で あ っ た 高 松 教 授 は,追 放 せ られ て 東 京 へ 去 り, 学 生 の うち残 った の は寺 田 君 一 人,他 は全 部 退 学 せ しめ られ て,そ の後 の 高 商 は い わ ゆ る「赤 」が い な い こ とに な って 今 日に い た っ て い る。 い わ ゆ る「赤 」
を な くす る教 育 の大 方 針 を堅 持 し て,あ ら ゆ る学 生 善 導 とい う手 段 方 法 を駆 した 民 主 主 義 者(6)が,後 に代 議 士 に な った し,今 は い な い 南 博 士 も あ る意 味 で は一 人 の 被 害 者 で も あ っ た とい え る だ ろ う。 高 商 の 社 研 は この事 件 で 表 面 は あ とか た もな く消 滅 し去 っ た が 学 生 の社 会 主 義 に対 す る研 究 は しか もな お 続 け られ た こ とは,そ の後,僕 の と ころ に絶 えず や っ て 来 た学 生 達 が い た こ とで も,若 い 学 生 の理 想 主 義 の旗 は単 な る善 導 で は 消 え去 らな い こ とを証 明 して い る(7)。… …
問 題 は,私 の 書 い た 「小 樽 高 商 軍 教 事 件(上)」(『 商 学 討 究 』47,2・3) 52ペ ー ジ6行 か らで あ る。「この 事 件 で 学 校 を追 放 とな り,東 京 の巣 鴨 高 商 時 代 に亡 くな られ た 高 松 教 授 」,と 毎 日新 聞(小 樽 版)か ら引 用 して あ る。 しか し,同 じ く私 の 「小 樽 の 三 ・一 五 事 件,お よび 補 遺 小 樽=高商 軍 教 事 件 続 」 (『商 学 討 究 』49,2・3号)54ペ ー ジ7〜8行 で,「 高 松 が大 倉 高 商 に い た と, 高橋=石 田 は書 くの で,高 松 は巣 鴨 高 商 か ら大 倉 高 商 へ 移 っ た の で あ ろ う。」
と あ る。
石 井 和 佳 氏 は,こ の た め,矛 盾 して い る,と 指 摘 して 下 さ っ た 。 東 経 大 の 資料 提 供 に よ っ て,高 松 が 小 樽 高 商 か ら大 倉 高 商 へ行 った こ とが 分 か っ た。
そ の 後,死 亡 した の か,大 倉 高 商 か ら,新 聞 の通 り,巣 鴨 高 商 へ 行 っ た の か 。 巣 鴨 高 商 は現 在 の千 葉 商 科 大 学,大 倉 高 商 は現 在 の東 京 経 済 大 学 で あ る。 千 葉 商 科 大 学 に問 い合 わ せ た 結 果,法 人 秘 書 課 の 調 べ で は,見 あ た らな い との 返 事 で あ っ た 。 こ う して 高 松 先 生 は,小 樽 高 商 を や め て か ら,大 倉 高 商 へ ゆ き,た ぶ ん そ の 後 は巣 鴨 高 商 へ は行 か な か った 。 巣 鴨 高 商 とさ れ た の は,新 聞 記 者 の誤 記 で あ ろ う。
軍 教 事 件 で は,高 商 生16名 が 何 等 か の処 分 を受 けた 。処 分 の た め に一 番 頑 張 っ て,強 硬 だ っ た の は,苫 米 地 教 授 だ っ た と思 わ れ る。 当時,苫 米 地 は, 軍 教 事 件 の 時,内 部 の 教 官 が 外 部 と呼 応 した,と 考 え た 。 つ ま り高松 教 授 の
こ とで あ ろ う。 しか し,そ れ はな か っ た だ ろ う。 高 松 教 授 は小 樽 高 商 を追 わ れ た 。 高松 勤 は,小 樽 高 商 で の 教 官 側 のM.S.Sの リー ダ ー で あ っ た 。小 林 多
喜 二 も彼 と接 触 は あ っ た だ ろ う。
3山 宣,武 内,園 井,九 津 見,葉 山,福 本 和 夫,松 崎 濱 子,新 井 紀 一, 小 畑 達 夫
山本 宣 治
山本 宣 治 一 以 下,山 宣 とす る 一 は,1889年5月22日 に 京 都 で 生 まれ た 。 両 親 は ク リス チ ャ ン だ っ た 。 彼 は神 童 とい わ れ た が,躰 は虚 弱 だ っ た 。 彼 は神 戸 一 中 を退 学 した 。 そ して 自家 の別 荘 「花 や し き」 で,植 物 育 成 を し た 。
安 田徳 太 郎(1983=昭 和58年,亡 くな る)は,山 宣 の い と こで あ る。 伯 母 の 別 荘 「花 や し き」 に 住 ん だ。 そ こ に 山宣 もい た 。 山 宣 は東 京 へ 出,カ ナ ダ へ 行 っ て,苦 学 した 。 山 宣 は,小 学 校 とハ イ ス ク ー ル で4年 間,自 由主 義 教 育 を受 け た 。 そ して ダ ー ウ ィ ン を読 ん だ 。 山 宣 は,1911年 に帰 国 し,キ リス ト教 を捨 て,社 会 主 義 を もっ て きた 。 彼 は 同 志 社 の 中 学 に編 入 した 。 そ して 生 物 学 者 た らん と した 。 山 宣 は,三 高(京 都)に 入 っ た 。 そ して 東 大 の動 物 学 科 へ 進 ん だ 。 一 方,安 田 徳 太 郎 は,三 高 の 医 学 進 学 課 程 に入 っ た 。 山宣 は 東 大 を出 て か ら,同 志 社 の 講 師 を し,京 都 大 の研 究 室 に 入 った 。 そ して 京 大 の講 師 に さ せ られ た 。 山 宣 は,父 の 店 の女 店 員 ・美 人 の 千 代 と結 婚 した 。 そ して そ の長 女 が 障 害 を も って 生 まれ た 。 これ を き っ か け に,彼 は極 度 に 同情 深 い 人 に な り,著 述 と実 践 に む か っ た 。
1922年3月,山 宣 と安 田 は,産 児 調 整 運 動 家 ・サ ンガ ー(MargaretSanger) 夫 人 に会 っ た 。 彼 女 は若 くて き れ い だ った 。 山 宣 は,京 都 ・都 ホ テ ル で 彼 女
の講 話 の 通 訳 を し,サ ンガ ー 夫 人 の講 演 要 旨 を,『 山 峨 女 子 家 族 制 限 法 批 判 』 と して 翻 訳 し,自 費 出版 した 。 これ は5万 部 以 上 出 た。 役 人 た ち は,こ れ は 一 般 庶 民 に教 えて は な らな い
,と 考 えた 。だ が 彼 ら は これ を読 ん だ の だ っ た 。 山宣 ら は,大 阪産 児 制 限研 究 会 を設 けた 。 有 島 武 郎 は非 常 に山 宣 に敬 服 し て い た 。
『小 樽 新 聞 』 に よ る と,山 宣 が1927年 に 山 懸 の 応 援 に 小 樽 に 来 た,と 。 山 宣 は 非 常 に 頭 が 大 き く,亡 く な っ て か ら,そ れ を 計 る と1,716グ ラ ム あ っ た 。
武 内 清
武 内 清 は,1902年(明 治35年),函 館 で 生 まれ た 。 あ ち こ ち職 を か え,英 語 の勉 強 を した り,最 後 に,1922(大 正11)年 に,函 館 水 力 発 電(=水 電) の電 車 の 車 掌 とな り,ス トライ キ を や っ て,首 に な っ た 。
武 内 に か か わ っ て 函 館 で2つ 不 敬 罪 事 件 が あ っ た 。1つ はわ か らな い が, 2つ 目 は こ うだ っ た 。1923年(大 正12年)に,関 東 大 震 災 が あ っ て,社 会 主 義 者 が虐 殺 され た 。1924年(大 正13年)9月 に 函 館 で,大 震 災 当時 の 虐 殺 の 記 念 の た め に,ビ ラ を 出 し,そ の 中 で 官 憲 の暴 圧 を訴 え よ う とし た。 原稿 を 執 筆 した の は,鈴 木 治 亮 で あ った 。 ビ ラ3千 枚 を刷 る こ と にな っ て,市 内 の 印 刷 屋 へ も っ て い った 。 袴 田 里 見 が 函 館 に い て,武 内 と2人 で,印 刷 屋 か ら ビ ラ を受 け取 ろ う と した と こ ろ を,刑 事 が 待 ち か ま え て い た 。 袴 田 は逮 捕 さ れ,武 内 は素 早 く逃 げて,東 京 へ3カ 月 ほ ど行 っ て い た 。
こ の ビ ラの 見 出 し は,「 民 衆 ヨ,九 月 一 日,流 血 の記 念 日ガ 来 タ」。内 容 は,
「官 憲,軍 閥,ア ル イ ハ 国 体 ノ 美 名 ニ ー 人 ノ偶 像 ヲ楯 二 防 止 セ ン トス ル ノ 愚 ヲ 演 ジ テ イ ル 」。 「一 人 」 とい うの は,天 皇 の こ とで あ る。 これ が 悪 い とい うの
だ った 。
武 内 は東 京 で,東 部 労 働 組 合 の 渡 辺 政 之 輔(渡 政)に 指 導 を受 け て,労 働 運 動 の基 本 を き っ ち り学 ん で,3カ 月 た っ て ほ とぼ りが 冷 め た こ ろ に,函 館
へ 戻 っ た 。逮 捕 状 が 出 て い た が,起 訴 猶 予 で 終 わ っ た 。
1925年(大 正14年),函 館 に合 同 労 組 が で き た 。 当 時,総 同 盟 と評 議 会 と の 分 裂 直 後 だ っ た が,す か さ ず 渡 政 の指 導 の も とに,評 議 会 加 盟 を函 館 で 決 定 した 。 武 内 は水 電 を首 に な っ て い た 。 小 樽 で 組 合 結 成 の動 きが あ り,1925 年(大 正14年)8月 に小 樽 で初 めて 組 合 が 生 ま れ た 。 これ が 小 樽=総労 働 組 合 で あ り,組 合 長 は境 一 雄 が な っ た 。 武 内 は函 館 か ら招 か れ て,す ぐ争 議 部 長
に な っ た 。 彼 は最 初 か ら渡 政 と太 い パ イ プ を も っ て小 樽 に きた 。
小 樽 の組 合 が,上 部 団 体 と して 総 同 盟 か 評 議 会 か の どち らに 加 盟 す る か が, 問題 に な り,中 央 か ら誰 か 呼 べ とい う こ とで,組 合 長 の境 一 雄 は総 同 盟 の松 岡 駒 吉 を小 樽 に呼 ん だ 。 武 内 は そ れ を見 て,こ れ は い か ん と思 い,渡 政 に来 て も らお う と,個 人 の判 断 で 評 議 会 に至 急 連 絡 を とっ た 。 渡 政 は,都 合 が 悪 い こ とに,他 ヘ オ ル グ に ゆ く予 定 が あ り,「 代 わ り に俺 が 行 こ う」と,来 た の が,山 本 懸 蔵 だ っ た。 松 岡 と山本2人 が 鉢 合 せ を し,し か し2人 そ ろ っ て い
るか ら,立 会 い 演 説 会 をす る こ と に した 。 こ う し て1925年(大 正14年)の 9月 に,小 樽=の繁 華 街,妙 見 川 の神 田 館 とい う映 画 館 を貸 切 りに して,組 合 の 演 説 会 を行 った 。小 樽 の 労 働 者 は 山 本 懸 蔵 の演 説 を聞 い て,「評 議 会 はた い した もん だ 。 それ に 引 き換 え総 同 盟 は な ん だ 」 とい う こ とで,こ の 演 説 会 で 一 発 で 評 議 会 加 盟 が 決 定 す る こ と に な っ た。 正 式 加 盟 は翌 年 で あ る。
磯 野 小 作 争 議 で,合 同 労 組 は,あ るい は武 内 は,1,000人 か らの 労働 者 の動 員 をか け た 。 これ は合 同 労 組 の メ ンバ ー の全 員 に近 か った 。 集 め た の は,本 願 寺 の説 教 所 で あ っ て,磯 野 商 店 とほ ん の 一 町 ほ どの距 離 もな い 。 そ こで場 外1,000人 か ら の人 が あ ふ れ て,闇 に怒 号 と雪 玉 が 飛 び 交 い,こ れ は磯 野 の 店 に丸 見 えだ っ た。 そ う い う戦 術 的 な効 果 を武 内 は計 算 し た し,た くさ ん の ビ ラ を まい た 。 当時 の ビ ラ は ガ リ版 印 刷 で,上 手 に ガ リ を切 っ て刷 っ て も, ぜ いぜ い2,000枚 な の で,4千,5千 とは刷 れ な い 。 そ こで版 を変 え て何 回
も刷 っ て い る。 彼 は,ガ リ も う まい し,絵 も う ま い。 い ろ い ろ な 闘 争 戦 術 に た け て い た(8)。
園 井 恵 子
園 井 恵 子 は,岩 手 出 身 で,小 学校 高 等 科 にい た 。 盛 岡 か ら,祖 母,伯 父 の い た小 樽 へ,一 家 で 移 住 した 。[姓 不 明]た す け,の 元 へ で あ っ た 。 そ こ は, はか まだ さ ん とい う,入 船 町 の お 菓 子 屋 だ った 。園 井 は,庁 立 小 樽 高 女 に入 っ た 。 小 樽 に築 地 小 劇 場 が 来 て,園 井 は そ れ を見 た。 これ は,多 喜 二 らが 呼 ん だ もの だ った 。 園 井 は,新 劇 をや りた か っ た 。だ が 小 樽 か ら,宝 塚 へ い った 。
経 済 的 に新 劇 はや れ な い か らだ っ た 。 彼 女 は 昭和4年6月 まで,高 女2年 生 まで 小 樽 に い た 。 彼 女 は 宝 塚 へ 行 った が,そ の 試 験 日 に 間 に合 わ な か った 。 受 験 させ て と,3日 聞,学 校 の前 で ス トを した 。 通 りか か った 小 林 一 三 に,
「そ ん な熱 心 な子 な ら」と
,入 れ て も ら った 。 だ か ら昭 和4年 に入 っ た 。 小 林 一 三 は阪 神 電 鉄 の 創 業 者 で,社 長,慶 応 出 の大 経 営 者 で あ り,宝 塚 を創 っ た 。 園井 は,月 給10円 で,7円 を母 に送 っ た 。彼 女 は昭 和10年 に宝 塚 の大 ス ター に な っ た 。 宝 塚 に それ まで い な い タ イ プ だ っ た 。 彼 女 は母 を宝 塚 へ 呼 ん だ 。 小 林 一 三 が,宝 塚 映 画 を作 っ た 。そ れ は園 井 の た め だ っ た 。園 井 は主 役 を や っ た 。 そ の 後 や め て,新 劇 に移 った 。 そ して 丸 山定 夫 を師 と した 。 彼 女 は丸 山 の劇 団 で 客 演 した 。 そ の後,東 宝 映 画 「無 法 松 の 一 生 」 の ヒ ロ イ ン とな り, 坂 東 妻 三 郎 と共 演 した 。坊 や 役 は,長 門裕 之 で あ,監 督 は稲 垣 で あ った 。 「無 法 松 の一 生 」 は 当 時,戦 前 な の で 軍 部 に に ら まれ,一 部 カ ッ トされ た 。軍 人 の妻 に 懸 想 す る と は け しか らん とい うの だ っ た 。 この 映 画 は戦 後 はGHQに も に ら まれ,カ ッ トされ た 。 軍 人 が 出 て い る か らで あ っ た。 さて ま た丸 山 と 園 井 が,劇=芝 居 「無 法 松 の 一 生 」 を演 じた 。 そ の 後,新 劇 は解 散 した 。 彼 ら は戦 争 で 大 政 翼 賛 会 に入 っ た 。 班 が で き て,北 海 道 へ は滝 沢 修 が 回 っ た 。 丸 山 と園 井 らは広 島 中心 で,中 国 地 方 を丸 山が まわ った 。 桜 隊 とい う名 で で あ っ た 。広 島 に は三 発 の焼 夷 弾 が落 ち た だ けで,変 だ と考 え られ た 。園 井 は, 東 京 へ稲 垣 監 督 を訪 れ,映 画 に出 して も らお う と した が,不 運 に も会 えず, 広 島 へ 戻 って 行 っ た 。8月6日,そ れ は彼 女 の誕 生 日で あ っ た 。 そ の 日の た め に赤 飯 をつ く ろ う と して,後 援 者 を訪 れ,小 豆 と もち米 を も ら っ た。 そ し て 広 島 に 戻 り,誕 生 日 に赤 飯 を作 っ て2階 に上 が る瞬i問,原 爆 に あ っ た 。 丸 山 も広 島 で 原 爆 死 した 。 彼 女 は,同 じ場 所 で 倒 れ た 薄 田研 ニ ジ ュニ ア を 介 護 し た。 た だ し彼 は死 ん だ。 園 井 は,「 小 樽 へ 帰 ろ う」と母 に手 紙 を書 い た 。 だ が 原 爆 症 で ほ どな く亡 くな っ た の で あ る(9)。園 井 の 人 生 に,若 き 日 の小 林 多 喜 二 の活 躍 が 係 わ っ た こ とに な る。
九 津 見 房 子
九 津 見 房 子(1890‑1980)は,岡 山県 生 まれ で,福 田 英 子 の と こ ろで 働 い た 。 宗 教 人 ・高 田集 蔵 と結 婚 し,子 ど もを2人 生 み,離 婚 し た。 彼 女 は上 京 し,暁 民 会 で 働 い た 。1921年,赤 欄 会 を樹 立 した 。三 田村 四 郎 と結 婚 す る。
三 田 村 に は女 の 子 が1人 い た 。 そ れ を王 仁 三 郎 に あ ず けた 。 彼 ら は大 阪 へ 出 て,労 働 運 動 に参 加 す る。浜 松 楽 器 争 議 に2人 で 参 加 した 。彼 女 は1928年 に 逮 捕 され,1933年 まで 入 獄 した 。 一 方,三 田村 は,小 泉 保 太 郎 のペ ンネ ー ム で執 筆 す る。彼 女 は1933年 に集 団 転 向 に加 わ り,共 産 党 か ら離 れ た。後 に彼 女 は,ゾ ル ゲ ・グル ー プ を助 け た 。1941年6月 に逮 捕 され,1945年10月 ま で入 獄 した 。1964年 に 三 田 村 が 亡 くな る まで,彼 と暮 ら し た。
葉 山 嘉樹
葉 山 嘉 樹 は,福 岡 県 豊 津 村(現,豊 津 町)生 まれ,早 大 を 中退 した 。 海 上 労 働 者 に な り,1916(大 正5)年,北 海 道 炭 鉱 汽 船 の室 蘭 ・横 浜 航 路 の石 炭 船 「万 字 丸 」 に乗 船 し,働 い た 。 大 正 末 年 に,「 淫 売 婦 」 「海 に生 くる人 々 」 を 出 した 。 昭 和 の 初 め こ ろの プ ロ レタ リア文 学 運 動 は,比 較 的 穏 健 な 「文 戦 (文 芸 戦 線)」 派 と非 合 法 活 動 を い とわ ぬ 「戦 旗 」 派 の2つ に分 か れ,鋭 く対 立 した 。 多 喜 二 は,「 葉 山 の 『海 に生 くる人 々 』一 巻 は僕 に とっ て剣 を擬 した
『コー ラ ン』 だ っ た 」 と書 い た。 葉 山 と多 喜 二 は会 っ た こ とが な い 。
福 本 和 夫
福 本 和 夫 は,東 大 法 科 を 出 て か ら,山 口 高 商 と小 樽 高 商 に就 職 口が あ っ た 。 結 局,山 口 に した の だ が,も し小 樽二に来 て い た な ら ど うな った だ ろ うか 。
松 崎濱 子
松 崎 は1913(大 正2)年 生 ま れ 。1931(昭 和6)年,東 京 地 下 鉄 道 会 社 に 入 社 し,運 輸 課 出札 係 に な っ た 。17歳 だ った 。浅 草 か ら万 世 橋 まで の 営 業 で, 東 武[鉄 道]と の連 絡 切 符 を 売 っ て い た 。18時 間 ぶ っ つ づ けで2人 で1日 お
きの 勤 務 だ った 。 地 下 に入 っ て電 車 の 轟 音 と,ム ッ とす る空 気 の 中 で 交 代 者 が きて も便 所 に行 くだ け,と い う職 場 だ っ た 。3カ 月後 に賃 下 げ され,あ る 女 性 が 急 病 死 した 。 全 協 の オ ル グ の 下 で,12月 に組 合 を作 り,周 到 に準 備 し て,1932年3月,有 名 な も ぐ ら争 議=ス トラ イ キ を4日 間 闘 った 。 そ の 準 備 の 中 で 共 産 青 年 同 盟 か ら共 産 党 に入 党 し た。 ス トラ イ キ は成 功 し,要 求 を か ち取 っ た が,1カ 月 後 に,家 に特 高 が 踏 み込 み,検 挙 さ れ た 。椅 子 に腰 掛 け, 後 手 に縛 りつ け られ,殴 る蹴 る の拷 問 を う け た 。しか し思 想 は変 え な か っ た 。
松 崎 濱 子 は,1932(昭 和7)年 に 多 喜 二 を 見 た 。
1931年 暮 れ に 「プ ロ レ タ リア文 化 連 盟 」 が で き て,左 翼 劇 場 に よ る,も ぐ ら争 議 をモ デ ル に し た 「逆 立 つ レ ー ル 」 とい う芝 居 が1932年11月,築 地 小 劇 場 で 上 演 さ れ た 。宇 野 重 吉 の初 舞 台 だ った 。松 崎 は,芝 居 の 中 味 が 不 満 で, 演 出 の 久 保 栄 に後 で 書 き直 して 貰 う約 束 を して い た 。
貴 司 山 治 が 小 説 に した い,と い うの と,松 崎 も資 料 を残 して お きた か っ た の で,資 本 論 の勉 強 を しな が ら集 まっ た 。 資 本 論 は そ の 頃 学 術 書 と して 本 屋 で も買 えた 。 あ る 日,貴 司 山 治 が,浅 草 の汁 粉 屋 「梅 園 」 に一 緒 に行 くよ う 言 わ れ た 。 原 稿 料 の 一 部 を共 産 党 へ の 資 金 カ ンパ にす る た め だ っ た。 半 分 ほ ど汁 粉 を食 べ て い た ら,和 服 に角 袖 の コ ー トを着 た 人 が入 って き て,貴 司 と な に や ら話 し,松 崎 に は 目 も合 わ さ ず,自 分 も汁 粉 を食 べ る と茶 封 筒 を受 け 取 っ て店 を 出 て行 っ た。 あ わ て て松 崎 が 勘 定 をす ませ 外 に 出 た 時 に は そ の人 の姿 は 消 え て い た 。 賑 や か な 仲 見 世 通 りを雷 門 の 市 電 停 留 所 に出 た こ ろ,貴 司 は,「 い まの 人 が 小 林 多 喜 二 さん だ 」と話 した 。 松 崎 は 多 喜 二 を尊 敬 して い た の で,話 が した か っ た と貴 司 を な じ った 。
多 喜 二 の非 合 法 時 代 の こ とだ っ た 。20分 もい なか っ た 。「逆 立 つ レ ー ル 」の シ ナ リア の 出来 る こ ろ だ っ た 。 地 下 鉄 争 議 の女 子 組 合 員 を 多 喜 二 が 見 た か っ た の か も しれ な い,と 松 崎 。 多 喜 二 の服 装 も浅 草 にふ さ わ しい 下 町 風 の も の だ っ た(10)。
新 井 紀 一
新 井 は,明 治23年 に群 馬 県 に生 まれ た。四 男 二 女 兄 弟 の総 領 で あ っ た。上 京 し,四 谷 第 一 尋 常 高 等 小 学 校 を卒 業 した 。東 京 砲 兵 工 廠 の 少 年 見 習 工 と な っ た 。 明 治42年 か ら45年 まで2年 間(1910‑12)兵 役(陸 軍)を し,職 工 と して14年 勤 め た。
作 品 に,短 編 「怒 れ る高 村 軍 曹 」(『早 稲 田 文 学 』1921年=大 正10年8月 号),
「雨 の八 号 室 」(『中央 公 論 』1923年3月 号)
,『 闘争 』1923年,が あ り,転 向 した 。 昭 和8年 に結 婚 した 。 そ の他 の 作 品 に,「 蘇 州 河 」,「敗 走 千 里 」陳 登 元 の名 で,1928年,『 父 い ず こ』昭 和18年 忠 文 館 書 店,が あ る。 空 襲 で 池 袋 か ら千 葉 県 五 井 町 へ ゆ き,文 筆 へ 戻 らな か った(11)。
小 畑 達 夫
小 畑 達 夫 は,北 秋 田郡 二 井 田村(大 館 市)で,1907(明 治40)年7月7日 に生 まれ た 。 教 員 の 長 男 だ った 。 彼 が 小 学 校 の 時,1918(大 正7)年11月 に 父 が亡 くな っ た 。 県 立 大 館 中 学 在 学 中,同 級 生 の種 市 健 ら と共 に,社 会 主 義 研 究 会 を組 織 した 。1925(大 正14)年3月 同 校 を4年 生 で退 学 した 。 の ち上 京 し,働 き,中 央,本 所,浅 草 等 の郵 便 局 に勤 め,全 協 加 盟 の 日本 通 信 労 組 に所 属 し,31(昭 和6)年 こ ろ,同 労 組 の 常 任 委 員 と して 活 動 した 。32年 に 日本 共 産 党 に入 り,同 年5月 帰 郷,種 市 健 と話 し あ い,秋 田 県 の 全 協 組 織 確 立 の た め 活 動 した 。全 協 中 央 常 任 委 員 をへ て,33年6月 こ ろか ら,全 協 中 央 常 任 委 員 長,共 産 党 中 央 委 員,の ち に 共 産 党 中央 委 員 会 組 織 部 長,同 年10月 下 旬 こ ろ同 党 中央 財 政 部 長 等 を歴 任 した 。 同 年12月23日,当 時 の共 産 党 中 央 委 員 会 を作 っ て い た 宮 本 顕 治 ら に束 縛 され た う え,ス パ イ 容 疑 で査 問 され, 同 日,査 問 中 に急 死 した(12)。共 産 党 で は,シ ョ ッ ク死 だ とした 。 一 方,彼 は
スパ イ で は な か っ た とい う説 も 出 て い る。
4多 喜 二 は な ぜ 主 義 者 に な っ た の か
多 喜 二 は,な ぜ 主 義 者(当 時,社 会 主 義 者 や 共 産 主 義 者 は こ う言 わ れ た) に な っ た の か 。
昔 の,戦 前 の社 会 は歴 然 た る階 級 差 が あ っ て,社 会 矛 盾 に 気 が 付 く こ とが 容 易 だ っ た 。 しか し,人 間 に は個 性 が あ っ て,主 義 者 と して は 向 か な い人 と 向 く人 が い る。 彼 は政 治 社 会 の あ り方 に気 が 付 い た 。 ま た彼 の 家 は貧 乏 だ っ た,と い う一 般 説 が あ る。 多 喜 二 の家 が 貧 乏 だ っ た とい う こ と につ い て,す で に論 じた が,赤 貧 で は な い 。 社 会 主 義 に は,概 して 貧 しい人 が 向 か う もの で あ る 。母 の 人 間 性 と家 族 の温 か さ,思 い や りの 深 さ,明 る さ,庶 民 的 で あ っ た こ とが,理 由 と して は大 き い 。多 喜 二 に は 高商 時 代 に猪 突 猛 進 さが あ っ た 。 性 格 が こせ こせ して い な い。 そ う い う と こ ろ も理 由 の 一 っ で あ る。 当時 の情
勢 と,学 習 か ら,彼 は主 義 者 に な っ た 。
多 喜 二 は,は じ め,主 義 に た い して は 自信 が な か った 。 友 人 の 存 在 が大 き か っ た 。 友 人 で は寺 田行 雄 が 存 在 と して 大 き い 。 そ し て社 会 科 学 研 究 会 で 学 んだ こ とが 大 き い 。 彼 は書 斎 の 中 の社 会 主 義 者 で あ った 。 磯 野 争 議 まで は そ うだ っ た 。
彼 が な ぜ 入 党 した の か は,一 般 的 に は,レ ー ニ ン共 産 主 義 の 魅 力 つ ま りコ ミン テ ル ン の魅 力 だ っ た。
5七 沢 温 泉
既 出 の 拙 稿 「多 喜 二 の拓 銀 解 雇 か ら上 京 まで 」(『商 学 討 究 』52の1)で, 多 喜 二 が 七 沢 温 泉 へ 行 っ た こ とを,私 は数 行 書 い た が,い っ そ う詳 しい調 べ が 近 年 行 わ れ て い る の で,結 論 だ け を こ こ で記 そ う。
多 喜 二 は,1931(昭 和6)年1月22日 夜9時 に,保 釈 で豊 多 摩 刑 務 所 を出 獄 した 。 翌 日,「 不 二 や 」で,宮 本 百 合 子 た ち と合 い,お 茶 会 を し て い る。 多
喜 二 は そ の後,田 ロ タ キ に結 婚 を 申 し込 ん だ が,断 わ られ た 。 そ して3月3 日,小 林 多 喜 二 は 「オ ル グ 」 の ノ ー ト稿 を書 き終 え,3月 中 旬 に七 沢 鉱 泉 に 行 っ た 。4月8日,作 品 を書 き終 えた(13)。彼 は そ こ に1カ 月 ほ ど泊 ま った 。 去 っ た 日 は分 か ら な い。
多 喜 二 は福 本 館 に逗 留 した 。 そ の離 れ で あ っ た 。 宿 で は専 属 の女 中 さ ん な ど をつ け て丁 重 に預 か っ た 。 そ の離 れ は ま だ(2002年 現 在)残 っ て い る。 そ の離 れ は,三 畳,六 畳,八 畳 の 三 間 あ って,多 喜 二 は,入 口 に近 い三 畳 と六 畳 に い た 。 多 喜 二 は,母 屋 の お 風 呂 に 行 く と き は,番 ゲ タ を は い て カ ラ ン コ ロ ンい わ せ な が ら,丹 前 を懐 手 に して,ま る で と ん び凧 の よ うだ っ た 。 こ の 離 れ は大 正8(1919)年 に宮 大 工 が作 り,釘 一 本 使 わ ず に建 て た 。 お 蔭 で 関 東 大 震 災 に も ビク と も しな か った 。 離 れ は本 館 の 向 い で道 一 本 隔 て,急 な階 段 を登 っ て小 高 い 丘 の上 にあ る。 庭 先 か ら下 はす ぐ崖 で,近 くの 山 々 が 一 望 で き,谷 川 も流 れ て い る。 離 れ の北 側 は裏 山 で,草 深 い坂 道 が 通 じて い る。
旧大 山 道 で 今 は使 わ れ て い な い 道 が家 の 後 に続 い て い る 。 特 高 ら しい 男 が 来 た とい う と,多 喜 二 は書 きか け の原 稿 を便 所 に捨 て て この 道 を逃 げ た,と い う言 伝 えが あ る。 そ の た め に,見 晴 ら しの き く廊 下 に テ ー ブ ル を 出 して 外 を 見 張 りな が ら,小 説 を書 い た,と 。 庭 に は 当時 の ま ま の梅 の 木 が あ る。 平 屋 木 造 建 て で,小 さ な入 口 に三 畳 が っ い て い て そ の横 に廊 下 と一 緒 に六 畳 が あ り,障 子 の貼 っ た 格 子 戸 が あ る。 縁 側 に座 る と 目の 前 に 山 が せ ま り手 前 に は 里 へ続 く道 が 見 渡 せ る。
古 根 村 憲 司 が この 宿 を復 興 した 。 母 の ヤ エ(小 田 原 藩 の 没 落 藩 士 の 娘)と 嫁 つ ま り憲 司 の 妻 の フ ク と と も に で あ った 。 そ の 娘 ・初 子 は多 喜 二 を見 た 。 彼 女 は女 学 校 を で て 家 に い た 時 だ っ た 。多 喜 二 と口 を きい た こ と はな か っ た 。
だ が 多 喜 二 が 毎 日の よ う に風 呂場 で歌 って い た 唄 が あ ま り に も哀 し くお ぼ え て し ま った 。 そ れ は,
折 らず に お い て 来 た 山 か げ の小 百 合 人 が み つ け た ら手 を 出 す だ ろ う
風 が な び い た な ら露 を こぼ そ もの を 折 れ ば よか っ た 遠 慮 が す ぎた
(折 れ ば よか った 遠 慮 が す ぎ た)
初 子 が 女 中 さ ん に聞 く と,「離 れ の お 客様 で す よ 小 林 様 で す 」(14)と教 わ っ た 。
こ の 「折 れ ば よ か っ た 」の 曲 は,ブ ラ ー ム ス の作 品47の3,宗 教 曲 「日曜 日」 が 原 題 で,中 学 の 教 科 書 にの っ て い た こ とが あ る。 この歌 詩 は正 確 に は 次 の よ うで あ る。
折 れ ば よか っ た
高 野 辰 之 詞 ブ ラ ー ム ス 作 曲
一,折 らず にお い て きた 山蔭 の 早 百 合 人 が 見 つ けた ら手 を 出 す だ ろ う 風 が な った な ら露 を こぼ そ もの を 折 れ ば よか っ た え ん り ょが す ぎ た
二,昨 夜 も夢 に み た 山 蔭 の早 百 合 星 が 訪 ね た ら宿 貸 す だ ろ う
虫 が す が った な ら う な ず こ う もの を 折 れ ば よか っ た え ん り ょが す ぎ た
当 時 お風 呂 は焚 き 口 とお風 呂 釜 が 戸 を一 枚 隔 て て あ るだ け で,焚 口 の上 に もお 湯 が 沸 い て い て,そ こに お 芋 な どふ か して,溜 り場 に な っ て い た 。
多 喜 二 は,ゴ ー ル デ ン ・バ ッ トが 好 きで,女 中 ・ウ メ は 日に三 箱 も と ど け た 。 彼 女 は 後 に飯 山温 泉 の お女 将 に な っ た 。
離 れ に は,徳 利,あ ん か,火 鉢,テ ー ブ ル,桜 の 花 び らの 紋 様 の彫 金 され て い る鉄 び ん,本 箱 等 が残 され て あ る。丹 前 は絹 の 光 沢 をみ せ て,う ち ポ ケ ッ
トに は タバ コ を入 れ る よ う にで き て い る。 柱 の 下 に うめ込 まれ て い る呼 び リ ン,こ の ベ ル で梅 さ ん とい う専 属 の女 中 さ ん を 呼 び,食 事 を運 ん で も ら った
り,監 獄 で 痛 め つ け られ た傷 あ との手 当 を して も ら った 。 お 風 呂 に毎 日入 っ て い る う ち,日 一 日 とそ の傷 が 良 くな って い っ た 。
裏 山 に散 歩 に で た り して も,ほ とん ど部 屋 で 書 き物 を して い た。 初 子 に は
「目立 つ 人 」 に見 え た。
多 喜 二 は,厚 木 女 学 校(現 ・厚 木 東 高)の 奈 良 女 高 師 出 の 女 教 師 ・三 島 み さ お の紹 介 で 来 た 。「難 儀 を して い る若 い 作 家 を し ば ら く預 か っ て も ら え な い か,宿 代 は払 うか ら」 と頼 まれ た 。 初 子=憲 司 の 長 女,そ して そ の妹 が お 世 話 に な っ て い た か ら,ヤ エ,憲 司 そ して フ ク は,も し頼 まれ た ら引 き受 け る だ ろ う,と(15)。 彼 女 は,郷 里 が 松 本 で あ る。 この 先 生 に頼 ん だ 人 物 は不 明 で あ る が,そ の人 が 宿 泊 代 を す べ て払 っ た とい う。 蛎 崎 は,宮 本 百 合 子 か 出 版 社 で は な い か と推 測 し て い る。 私 は 多 喜 二 本 人 で は な い か と推 測 す る。
憲 司 は 当 時40歳 く ら い で あ っ た。 小 林 多 喜 二 を1カ 月 も預 か る とい う の は,当 時 なか な か で き な い こ とで あ る,と さ れ る。 しか し正 確 に い え ば,ま だ そ れ ほ どで もな い 。 彼 は まだ 共 産 党 員 で は な い,そ れ に地 下 に潜 っ て い る 時 代 で は な い。 彼 の 合 法 時代 で あ る。 だ か ら過 大 評 価 は で き な い 。 次 に述 べ る よ う に,弾 圧 が 強 ま っ た の は1932年 で あ り,こ れ は1931年 の物 語 で あ る か らで あ る。
61932年 の 情 勢
「満 州 事 変 」(1931年9月)開 始 の後 な お しば ら くは
,軍 部 の この新 し い 冒 険[=「 満 州 事 変 」]は,知 識 人 の 間 で きわ め て 不 評 で あ った 。 日本 帝 国 主 義 の 中 国 侵 略 絶 対 反 対 を 叫 ぶ 共 産 主 義 者 た ち は もち ろ ん,穏 健 な 自 由 主 義 者 た ち の 周 囲 で さ え そ う で あ っ た 。 だ が,1932(昭 和7)年 の 「五 ・一 五 」 事 件
の あ た りか ら風 向 き が 変 わ り始 め た 。 国 家 主 義 者 た ち の 「非 常 時 」 の か け声 が しだ い に 国 民 を と ら えだ し た。
当 時 の プ ロ レ タ リア文 化 団 体 の幹 部 は,次 の よ う な人 々 で あ っ た 。 文 化 連 盟 で は,作 家 同 盟 が,中 野 重 治,壷 井 繁 治,中 条 百 合 子,川 口浩,演 劇 同盟 が,村 山 知 義,土 方 与 志,小 野 宮 吉,写 真 家 同 盟 が,土 井 栄 二,貴 司 山治, 美 術 家 同 盟 が,大 月 源 二,岡 本 唐 貴,プ ロ レ タ リア科 学 が,小 川 信 一(大 河 内信 威),寺 島 一 夫,風 早 八 十 二,で あ り,団 体 は これ 以 外 に,映 画 同 盟,音 楽 家 同 盟 プ ロ エ ス 同 盟,戦 闘 的 無 神 論 者 同盟,新 興 教 育,無 産 者 産 児 制 限, プ ロ レタ リア ー ト図 書 館 で あ っ た 。 書 記 局 は,小 川 信 一,小 野 宮 吉,窪 川 鶴 次 郎,な どで あ った 。
1932(昭 和7)年3月 初 め か らプ ロ レ タ リア 文 化 運 動 へ の 集 中攻 撃 が 始 まっ た 。 これ は そ う した 状 況 転 換 の な か で,巧 み に仕 掛 け られ た 知 識 人 弾 圧 の一 番 手 で あ っ た。 狙 わ れ た の は,も っ ぱ ら急 進 的 イ ン テ リゲ ン チ ャで あ っ た。
当 時,共 産 党 は 「三 ・一 五 」(1928年)「 四 ・一 六 」(1929年)の 大 弾 圧 以 来, 困 難 な 地 下 活 動 をつ づ け て い た 。 左 翼 文 化 運 動 は,こ れ と合 法 的大 衆 運 動 を っ な ぐ唯 一 のパ イ プで あ っ た 。 プ ロ レ タ リア文 化 団 体 の 中 心 者 た ち の 全 国 一 斉 検 挙 は,400名 以 上 に お よん だ(16)。 ・
1932(昭 和7)年,日 本 プ ロ レ タ リ ア作 家 同 盟 の新 聞紙 法 違 反 事 件 が 起 こ さ れ た 。 中央 委 員 長 江 口 換,機 関 誌 編 集 長 立 野 信 之,機 関 誌 編 集 部 員 宮 本 顕 治,同 盟 員 野 上 厳,同,山 口礼 子 の5名 が,機 関 誌 に の せ た 記 事 で 違 反 とな っ た。
3月7日 に,警 視 庁 は プ ロ レ タ リア 科 学 同盟 内 の 党 フ ラ ク シ ョ ン責 任 者 岡 田時 定 を検 挙 し,そ の 取 調 べ の 結 果,3月24日 か ら党 フ ラ ク シ ョ ン を検 挙 し て取 り調 べ た。
作 家 同 盟 で は,3月28日 に,築 地 小 劇 場 で プ ロ レ タ リア 文 学 講 演 会 を開 催 した 。 聴 衆 が 約150名 集 ま った 。
4月4日,蔵 原 惟 人 が検 挙 さ れ た 。
文 化 連 盟 内 の フ ラ ク シ ョ ンで は,3月21日 に,キ ャ ップ ・波 多 野 一 郎,3
月26日 に,大 河 内信 威(ペ ンネ ー ム 小 川 信 一),壷 井 繁 治,窪 川 鶴 次 郎 が, 検 挙 され た 。
プ ロ レ タ リア科 学 の フ ラ ク シ ョン で は,3月24日 に,キ ャ ッ プ ・平 田良 衛, 小 椋 広 勝 が,そ して,河 野 意 弘 が 検 挙 され た 。 波 多 野 一 郎,大 河 内 信 威 も,
こ こに属 した 。
作 家 同 盟 フ ラ ク シ ョン で は,4月4日 に,キ ャ ップ ・中 野 重 治 が検 挙 さ れ, 壷 井 も こ こ に属 した 。
演 劇 同 盟 フ ラ ク シ ョン で は,4月4日 に,キ ャ ッ プ ・生 井 健 次,村 山 知 義, 3月26日 に,小 野 宮 吉,4月9日 に,笈 川 武 夫 が 検 挙 され た 。
作 家 同 盟 は,こ れ ら の検 挙 に よ っ て,幹 部 が 江 口 漢,立 野 信 之,川 口浩 に か わ っ た 。
学 生 間 で 購 読 さ れ て い る左 翼 出 版 物 が,だ い た い学 生 消 費 組 合 を通 じて 入 手 され て い る こ と を,警 視 庁 は発 見 し,4月7日,そ の 一 斉 取 締 りの た め, 都 下 の各 大 学 や 専 門学 校 の学 消 を臨 検 した 。
日本 プ ロ レ タ リア文 化 連 盟 は,昭 和7年6月19日,築 地 小 劇 場 で 第3回 拡 大 中 央 協 議 会 を開 く こ とに した 。 前 述 の検 挙 に よ っ て 指 導 者 を 失 い,活 動 が 阻 害 さ れ た が,残 留 の人 々 は再 建 活 動 を行 い,書 記 局 に大 月 源 二(書 記 長), 鹿 地 亘,村 田,池 田 寿 夫,そ の 他 を あ て て い た 。警 視 庁 は,6月14日,大 月, 村 田,池 田 を検 挙 し た。連 盟 側 は,当 日の 協 議 会 が 解 散 さ れ るの を見 越 し て, 実 質 上 の拡 大 中 央 協 議 会 を前 日18日 に 非 合 法 に 開 催 し た 。
7補 遺 と訂 正
「小 林 多 喜 二 と 『不 在 地 主 』 の こ ろ 」 つ ま り,小 林 多 喜 二 伝 ㈲(『 人 文 研 究 』 101輯,2001年3月)で,誤 りが あ っ た 。43ペ ー ジ13行 目 で,佐 藤 千 代 子 と あ る が,「 小 林 多 喜 二 の 東 京 時 代 」 つ ま り,小 林 多 喜 二 伝(35)(『商 学 討 究 』 第 52巻2・3号,2001年12月)の4か ら5ペ ー ジ で 訂 正 し た 。 そ の 佐 藤 千 代 子 は,正 し く は,千 夜 子 で あ る 。 し た が っ て,後 者 「小 林 多 喜 二 の 東 京 時 代 」
の5ペ ー ジ,の 佐 藤 千 代 子 も,佐 藤 千 夜 子 と訂 正 す る。 田 中 光 雄 氏 提 供 の,
『写 真 で 見 る昭 和 の歌 謡 史 』[1]戦 前 ・戦 中編 に よ れ ば,佐 藤 千 夜 子 は,映 画 主題 歌 第1号 で,西 條 八 十 作 歌 中 山晋 平 作 曲 の 「東 京 行 進 曲」を歌 っ て, レ コー ドに した 。 そ の他,「 紅 屋 の 娘 」 「愛 して 頂 戴 」 もあ る。
同 「小 林 多 喜 二 の 東 京 時代 」 で,壁 小 説 に つ い て 触 れ た 。 これ は,工 場 や 街 頭 の 壁 に,壁 新 聞 を貼 り,そ の 中 に読 み切 りの 小 説 を 印刷 して,入 れ,労 働 者 た ち に短 時 間 で 読 ん で 貰 お う と した 試 み で あ る。 要 す る に,超 短 編 小 説 の こ とで あ る(17)。人 々 は小 説 をた だ で 短 時 間 で 読 め る こ とに な り,文 学 の 大 衆 化 に 寄 与 す るだ ろ う と,考 え られ た 。 し か し実 際 は そ れ ほ ど貼 られ た わ け で は な い 。
「多 喜 二 の逮 捕 そ して スパ イ 」(『商 学 討 究 』52の4)で ,誤 記 が あ っ た 。 9ペ ー ジ6行 目 ク ー トペ → ク ー トベ
そ れ 以 外 に も,16ペ ー ジ下 か ら4行 目, 17ペ ー ジ7行 目2カ 所,20行 目,24行 目, 18ペ ー ジ下 か ら8〜9行 目 あ た → あ っ た
20ペ ー ジ3行 目3版 →3判
24ペ ー ジ下 か ら1行 目 三 部 作 → 全 三 冊
8こ れ まで の私 の小 林 多 喜 二 伝(続)
私 の公 表 した 小 林 多 喜 二 伝 にっ い て,リ ス トを,「 伊 藤 整 の直 筆 原 稿 「日露 開 戦 課,小 林 多 喜 二 の 新 記 事,お よ び大 正 時 代 末 の 小 林 多 喜 二 の 小 説 」(『人 文 研 究 』97輯,1999年3月)の 追 記 に あ げ て お いた 。 こ こで は そ の続 き を, 公 表 の順 序 で は な く,時代 的 に読 み手 が 読 み や す い 順 番 に よ っ て記 して お く。
「小 林 多 喜 二 と伊 藤 整 」(共 著。 小 樽 商 大 ・高 商 史 研 究 会 編 『小 樽 高 商 の 人 々 』 北 海 道 大 学 出版 会2002年3月)
「多 喜 二 が 「東 倶 知 安 行 」を書 い た ころ 」㈱(『 人 文 研 究 』98輯1999年8月)
「小 林 多 喜 二 と 「三 ・一 五 」 の こ ろ 」 ⑳(『 人 文 研 究 』99輯2000年3月)
「蟹 工 船 お よ び 漁 夫 雑 夫 虐 待 事 件 」⑳(『 商 学 討 究 』53巻1号 ,2002年7 月)
「「蟹 工 船 」 へ 」 ⑳(『 人 文 研 究 』100輯2000年9月)
「小 林 多 喜 二 と 「不 在 地 主 」 の こ ろ 」(33)(『人 文 研 究 』101輯2001年3月)
「多 喜 二 の拓 銀 解 雇 か ら上 京 まで 」(34(『商 学 討 究 』52巻1号 ,2001年7月)
「小 林 多 喜 二 の 東 京 時 代 」(35)(『商 学 討 究 』52巻2・3号 合 併 号,2001年12月)
「多 喜 二 の逮 捕 お よ び ス パ イ」 ㈲(『 商 学 討 究 』52巻4号 ,2002年)
註
(1)こ れ は 社 会 科 学 研 究 会 の こ とで あ ろ う。
(2)『 い し だ ゼ ミ の友 』No.30。 昭 和62年1987年,4ペ ー ジ 。 (3)『 い し だ ゼ ミ の友 』No.26。 昭 和58年1983年,2‑3ペ ー ジ。
(4)同,No.30,6ペ ー ジ 。
(5)南,『 小 樽 商 大 緑 丘 新 聞 』278号 。 (6)苫 米 地 の こ と。 む ろ ん 皮 肉 で あ る 。
(7)境 一 雄 「軍 教 反 対 に立 っ た 頃 」(『緑 丘 新 聞 』)。境 か ず お は,戦 前 に 小 樽 市 会 議 員 と な っ た 。 戦 後,小 樽 市 議 会 副 議 長 と な る 。
(8)琴 坂 守 尚 「武 内 清 と小 林 多 喜 二 」(『北 海 道 経 済 』2000・5)。
(9)井 上 ひ さ し講 演,1997年2月14日 小 樽=商大 お よ び 市 民 大 学 。
⑩ 「多 喜 二 ゆ か りの 七 沢 を知 らせ 歴 史 を ひ ろ め る 会 通 信 」No.3,01.02.22。
⑪ 沢 地 久 枝 『昭 和 ・遠 い 日 近 い 人 』 文 春 文 庫2000年 。
⑫ 小 沢 三 千 雄 編 『秋 田 県 社 会 運 動 の百 年 』36ペ ー ジ か ら。
(13)手 塚 英 孝 。
(14古 根 村 初 子 『あ ん な こ と こ ん な こ と』 昭 和60年21ペ ー ジ の 蛎 崎 利 用 か ら。
(15)蛎 崎 澄 子 「七 沢 温 泉 と多 喜 二 滞 在 の こ と」(『治 安 維 持 法 と現 代 』No。2.1,2001 年1月)。
蛎 崎 澄 子 「「多 喜 二 の 隠 れ 宿 」発 見 そ の 後 」(『治 安 維 持 法 と現 代 』No.2.2,2002 年 秋 号)。
蛎 崎 「七 沢 温 泉 「福 元 館 」 と小 林 多 喜 二 」(『不 屈 』2年7〜9月)。
⑯ 明 石 ・松 浦 編 『昭 和 特 高 弾 圧 史 』1,太 平 出 版 社1983年,28ペ ー ジ 。
⑰ 阿 部 誠 文 『小 林 多 喜 二 』 は る ひ ろ社1977年,134ペ ー ジ 。