著者 伊波 洋一
雑誌名 PRIME = プライム
号 23
ページ 63‑73
発行年 2006‑03
URL http://hdl.handle.net/10723/608
*本稿は、 2005年10月17日に開催された公開授業・
公開講演会 (総合科目 現代世界と人間 「平和・
開発・人権②」) の講演記録をもとに、 講演者 により加筆訂正されたものです。
みなさん、 こんにちは。 沖縄から参りました宜 野湾市長の伊波洋一です。 本日は、 明治学院大学 国際平和研究所の公開授業において沖縄の米軍基 地問題について語る機会を与えていただき、 あり がとうございます。
1995年の少女暴行事件、 10・21県民大会、 SACO 合意
私は県外の大学で講演をするのは初めてです。
「米軍ヘリ墜落、 辺野古、 日米安保」 というテー マをいただいていますので、 これらのテーマを軸 にしながら、 沖縄の抱える米軍基地問題について お話していきたいと思います。
昨年、 2004年8月13日に起きた、 宜野湾市在の 沖縄国際大学本館ビルへのヘリ墜落炎上事故は、
沖縄の米軍基地問題を改めて全国に問うきっかけ になりました。 ヘリ事故後に大学本館ビルや市道 などを米軍が封鎖して日本側の立ち入りを拒否す るなど、 色々な角度から日米安保の実態を明らか にする契機になりました。 辺野古で続いている海 上基地建設阻止の取り組みは本当に長く続いてい ます。 5箇所のやぐらで座り込みを行い、 やぐら は先日台風のため撤去されましたが、 海岸での座
り込みは続いています。 他にも都市型訓練による 被害などが起こっています。 ヘリ事故への対応を 含めて、 宜野湾市の取り組みを紹介しながら、 沖 縄の基地問題についての、 みなさんの理解を深め ていければと思います。
さて、 来週の10月21日は国際反戦デーの日でも ありますが、 1995年10月21日に宜野湾市の海浜公 園で開催された県民総決起大会からちょうど満10 年目になります。 8万5千人が参加した95年の県 民総決起大会は、 3名の米海兵隊員が小学生の少 女を拉致し暴行を行ったという痛ましい事件に対 する抗議大会でした。 10年を経て沖縄でも大学生 になろうとする皆さんが、 そういう事件があった ということを必ずしも知らない状況です。 当時、
8万5千人もの県民が集会を行ったということは、
今回の事件よりも大きな衝撃を日米政府に与えま した。 当時の沖縄県政は大田知事で、 米軍基地の 用地の使用に反対していた契約拒否地主の代わり に署名することで強制使用を正当化する、 いわゆ る代理署名を拒否しました。 「象の檻」 と呼ばれ た読谷村の巨大な電波受信施設内に土地を持つ契 約拒否地主の土地明け渡しの取り組みなど、 怒涛 のように米軍基地に対する反対運動が沖縄で起き ていました。 知花昌一さんという地主が拒否し、
全国的にも基地の強制使用問題が知られるように なりました。 沖縄の基地は60年前の沖縄戦の最中 に建設されました。 沖縄戦では米軍が上陸し20万 人の住民や兵隊が亡くなりました。 日本軍が建設
米軍ヘリ墜落・辺野古・日米安保
伊 波 洋 一 (沖縄県宜野湾市市長)
した飛行場は6箇所ありましたが、 米軍は上陸後、
本土決戦に備えてさらに8箇所の飛行場を建設し たのです。 これら飛行場が今日まで続く米軍基地 になっています。 50年代には再度の土地強制接収 が行われ、 米軍は必要なだけ土地を取り上げ、 米 軍基地を建設しました。 現在ある35〜6箇所の米 軍基地や施設の成り立ちです。
このような基地状況の沖縄で戦後50年目に起き た少女暴行事件は、 県民に怒涛の怒りの行動を起 こさせました。 そのために、 日米両政府は、 沖縄 米 軍 基 地 問 題 特 別 行 動 委 員 会 い わ ゆ る SACO (Special action committee on OKINAWA) を 設置しました。 少女暴行事件を受けて、 怒涛の怒 りの運動が沖縄の中で起こりましたがそれに対す る答えとして SACO ができました。 住宅密集地 にある普天間基地の5乃至7年以内の全面返還を 1996年4月12日に、 橋本首相とモンデール駐日大 使が夜中、 記者発表しました。 最終的には、 1996 年12月2日に SACO 最終報告として、 11施設の 返還を発表しました。 同時にさまざまな沖縄県民 の負担軽減策が打ち出されます。 2003年までに普 天間を含め、 基地は返されるはずだったが、 完全 に返ったのはひとつもありません。 9年たっても 普天間基地の返還を含めて、 1施設 (北谷町キャ ンプ桑江) の一部が返還されただけで、 10の施設 の返還は実現していないのです。 返還を困難にし ている理由は、 10施設については代替施設の建設 が条件となっているからです。 返された面積は、
返還合意面積の0.75%に過ぎません。 (5002ヘク タールのうち38ヘクタール)
返還が実現していない SACO 合意施設の中で の一番象徴的なものが普天間基地です。 1995年の 怒涛の反基地運動への日米政府の最大の負担軽減 として12月の最終合意に先立った4月に合意され たのが普天間基地でした。 当初、 4月に代替ヘリ ポートと表現されていた代替施設建設は、 12月の 最終報告で撤去可能な1300m×700m の海上ヘリ
施設になり、 1999年の閣議決定では、 2000m 滑 走路を持つ巨大な海上埋め立ての軍民共用空港に 変貌していきました。 なぜ、 9年も経過している のに SACO 合意の実施が進んでいないのかとい うと、 先ほども述べましたように、 返還を約束し た11の施設のうち10施設については、 代わりの施 設を新たに沖縄本島内につくらなければならない からです。 そのことが県民の反対を生む一方、 こ れらの代替施設建設は、 米軍にとっては古い施設 を最新鋭の施設にリニューアルする意味を持って います。 規模は小さくなっても機能は強化される ことをめざしているのです。 それを日本政府がやっ てくれるのですから、 米軍にとって、 こんな都合 のいい話はないわけです。
しかし、 そう簡単に実現できる話しではありま せんでした。 というのは、 すでに沖縄には全国の 75%の米軍専用施設が集中しています。 沖縄本島 の20%が米軍基地で占められています。 宜野湾市 も市面積の33%を米軍基地が占めています。 嘉手 納町では83%を占めています。 沖縄本島中北部の 市町村のうち10市町村は面積の30%以上を米軍基 地が占めているという状況なのです。 その中で新 たな基地を作っていくことは極めて困難であり、
住民の理解を得られるはずがないというのが現状 です。 辺野古の海上基地は面積では普天間基地の 約四分の一だが、 現実にはさきほど映像にあった ように、 環境調査も充分に行えず、 建設もまった く着手されていない状況です。
移設施設で最大のものが宜野湾市の中央に居座 り続けている481ヘクタールもある普天間基地で す。 市面積の約25%を占める米海兵隊のヘリコプ ター基地です。 宜野湾市は全域が市街化区域であ り、 米軍飛行場は、 住宅地域に囲まれています。
大型、 中型、 小型の米軍ヘリ部隊の50数機のヘリ と KC130空中給油機など合わせて約70機が所属 しています。 これらの所属機が、 毎日、 旋回飛行 訓練を普天間基地で行うため、 多いところで一日
あたり200回を超える住宅地域での飛行が繰り返 されるのです。
SACO 合意は日本政府の予算で古い施設を最 新施設にして移してくれるのですから、 米軍にとっ てはこんなにいい話はありません。 しかし実際に は実現していないということです。 どういうこと が現実に起こってきたのかというと、 普天間に関 しては、 ますます騒音や飛行回数が増え、 墜落の 危険が増えました。 嘉手納の危険も増えています。
先日、 金武町で、 住宅地から300メートルしか離 れていないところに、 実弾の訓練場が建設されて しまったということがあります。 沖縄の基地問題 は基地削減という全体の流れの中で逆の方向に動 いています。 少女に対する重大事件を受けて、
SACO 合意で11施設を返すことになったのに、
現実には返っていません。 特に普天間基地は最大 の目玉と言われたのに、 辺野古沖に2000メートル の軍民共用の施設を建設することになり、 これか らでも十数年以上かかります。 環境アセスに3年、
埋め立て工事9年半、 埋め立て後の施設建設に2 年、 部隊を移動するのに1年半、 合わせて10数年 はかかります。 普天間の負担軽減は今のままでは 1996年の SACO 合意から20数年もかかることに なるのです。
普天間返還への宜野湾市の取り組み
このような普天間飛行場に対して宜野湾市がど のように取り組んできたのかについて報告します。
私は市長になる前の7年間、 県会議員として県議 会で普天間基地問題に取り組んでいました。 前の 市長は大田県政のときには普天間基地の県内移設 に反対でした。 ところが稲嶺県政になって、 県や 名護市の同意の下で1999年に軍民共用海上基地建 設が閣議決定されました。 ダム建設などもそうで すが、 わが国では閣議決定したということはくつ がえらないということに等しいのです。 閣議決定 は拘束力を持ちます。 基地受け入れに伴う地域振
興費なども制度化されたため、 県内の多くの市町 村長がそういったことに抗しきれなかったように、
前宜野湾市長も県内移設反対の立場から、 県内移 設を容認するようになったのです。 その方法しか 普天間基地の移設はできないと判断したのだと思 います。 そのために宜野湾市からも、 名護市から も、 どこからも行政的な立場からは政府がやって いることへの異議申し立ては出てきませんでした。
国にゲタを預けて、 宜野湾市や沖縄県は普天間基 地についての問題提起をすることなく、 「粛々と」
10数年かかる辺野古移設を待っているだけでした。
そのような市や県の対応を受けて、 米海兵隊は着 実に普天間基地での旋回飛行訓練を増やし、 市民 の騒音被害や住宅地上空飛行による墜落の危険性 は増加していました。
そのような中で、 2003年3月、 前市長の後援会 が市内建設業者から違法献金を受けていたことが 明らかになり、 前市長も逮捕され辞職したため、
当時、 沖縄県議会議員だった私を市長候補にとい う声が市民集会であがっていました。 そのため、
私は周囲と相談をして、 県議を辞して市長選に出 ることになりました。 立候補を決めたのが3月23 日で、 告示が4月20日と1ヶ月もない超短期の市 長選挙でしたが、 選挙公約として掲げたのが、
「5年以内の普天間基地返還実現に取り組む」 で した。 相手候補は、 「粛々と辺野古海上沖の軍民 共用空港を進める」 との立場でした。 相手は自公 候補で、 すべての業界 (建設業から医師会まで) が応援し、 政府も稲嶺県政も相手候補を応援して いましたが、 結果的に私が当選しました。 1998年 の稲嶺県政がスタートして以来続いてきた自公の 連勝にストップをかけた選挙となりました。 稲嶺 県政が初めて負けた選挙だったのです。
日米両政府にとって極めて想定外のことでした。
私にとってみれば、 普天間基地の早期返還のこと を県議会で毎回訴えていたので、 稲嶺県政とは違 う新しい方向を示さなければなりません。 翌日か
ら普天間基地の早期返還に向けて取り組むことに なりました。
普天間基地の飛行実態、騒音被害、住宅地上空飛行 私の宜野湾市長就任は投票日の翌日の2003年4 月28日でした。 最初にやったことは、 1996年の返 還合意以後、 普天間基地では飛行訓練回数が増大 し、 住民の騒音被害と墜落の危険性が限界に来て いることを肌身に感じていましたので、 普天間飛 行場の騒音激化の状況を具体的に説明できる資料 を作ることでした。
私も普天間の近くに住んでいるので、 長年の感 覚で、 普天間の飛行回数の増大、 墜落の危険性の 限界に来ていると肌で感じていました。 普天間の 飛行回数、 騒音の激化が具体的にどうなっている のか、 それを知らせる仕組みをつくらなければな らないと思ったのです。
普天間基地の周囲には、 1995年から1日24時間、
年365日を通して、 航空機騒音の自動騒音測定、
飛行回数測定をする計測器が7箇所設置されてお り、 宜野湾と沖縄県による運用で、 1996年当時か らのすべての数値データがデジタルで記録されて います。 そのデータを基にしてプログラムを組み、
わかりやすい表やグラフを作り、 細かく検討して、
具体的な資料を作りました。 その資料をもって、
早速5月には、 外務省や防衛庁に行き、 「市民の 危険がいかに限界に来ているか」 を訴えました。
普天間飛行場は、 1996年の SACO 合意では5年 ないし7年以内に全面返還することが約束されて いました。 私は2003年に就任したので、 SACO 合意の7年の期限がその年の12月に迫っていまし た。 それまで宜野湾市から指摘や抗議がなかった ということは、 宜野湾市自体もこの問題を放置し ていた部分があったのです。 そして、 返還されず 7年が過ぎる間に、 ますます騒音被害と住宅地上 空での飛行訓練による墜落事故の危険性が増え続 けていたわけです。 政府が進める辺野古沖の海上
基地建設では、 さらに十数年も放置されることは 確実でした。 というのは、 海上基地建設には、 環 境アセスや手続きに3年、 埋め立て工事に9年半、
滑走路や建物建設工事に2〜3年、 部隊移動に1 年半と合計で16年もかかるのです。
1996年と2003年を比較すると、 飛行回数は1.5 倍に増え、 年間で1万回以上も増えていました。
96年では1日あたり一番多いところで64回でした が、 02年で97回になっていました。 これは訓練の ない日曜日も含めた平均回数です。 飛行訓練が集 中する火、 水、 木だけをとると、 96年には95回、
02には193回になっていました。 02年には1日あ たり200回以上の日も多くなっていました。 03年 には1日あたり300回を越える日も出てきました。
現実にこういうことがあるにもかかわらず、 日 本政府も、 沖縄県も、 宜野湾市も放置していまし た。 これらの資料をもとに、 「住宅地上空の飛行 訓練回数の多さと墜落の危険性によって96年に SACO 合意で返還することが決まったにもかか わらず、 飛行訓練回数がますます著しく増えてい る」 という実態を指摘しました。 そして解決策と しては、 米国が進めている世界的な米軍再編の中 で普天間基地の返還を実現すべきだと思ったので す。
この10年間の飛行回数の増加は米国内の基地閉 鎖によるものと考えています。 米国内では89年か ら4回にわたり閉鎖再編が行われています。 ハワ イ、 グアム、 カリフォルニア州などの西海岸で多 くの米軍基地が閉鎖され、 そのあおりで宜野湾市 の普天間飛行場や山口県の岩国基地への新たなヘ リ部隊配置につながっています。 米本国では市街 地から遠く離れた米軍基地周辺の住宅のない荒野 の上空で行われていた旋回飛行訓練が沖縄に持ち 込まれ、 宜野湾市民の住宅地の上空で毎日行われ るようになったのです。 結果的には日本の思いや り予算の潤沢さが日本国内で米軍基地が維持され 続け、 新たな部隊を引き寄せているわけです。 沖
縄や本土の米軍基地の維持コストを日本政府が負 担してくれることが大きいのです。 フィリピンか ら米軍基地がなくなり、 パナマでも米軍基地が閉 鎖されましたが、 それぞれの一部が沖縄に来てい ます。 米軍再編によって世界の他の地域では米軍 基地の閉鎖 (ヨーロッパ、 韓国) が開始されよう とする状況があります。 米国内でも2005年から第 五次の国内基地閉鎖再編 (BRAC05) が開始され ることは決まっていたので、 私はこのままでは沖 縄の基地負担はさらに増えると考えていました。
米軍再編への日本政府の対応のまずさ、 明確な対 応ができてないということから、 沖縄の負担軽減 どころか、 さらに負担が増え続けているというこ とを訴えてきました。
普天間飛行場返還に向けた市のアクションプログ ラム
私は、 宜野湾市として5年以内の返還を具体化 するために、 普天間基地返還アクションプログラ ムを策定ました。 就任3ヶ月後の7月に宜野湾市 基地対策協議会を立ち上げて、 アクションプログ ラム策定を諮問し、 8月に中間報告、 翌年2月に 最終答申を受け、 2004年4月に 「普天間飛行場返 還アクションプログラム」 を策定しました。
宜野湾市が具体的に基地返還のアクションをす ることには、 政府を含めいろいろと圧力がかかり ました。 市長就任のとき市議会には30名の議員が いましたが与党は5名しかいませんでした。 市長 選挙のときの 「5年以内返還をめざす」 という公 約は、 野党議員や政府からは選挙に勝つためのポー ズだと思われている面もあり、 5年以内という案 に対して、 政府からは10年で辺野古建設というこ とも示唆され、 5年以内返還に向けて具体的に行 動することをけん制されました。 市長が喧嘩すれ ばするほど、 部下がいじめられるというようなこ ともあります。 市議会6月定例会で圧倒的数の野 党 (保守系) が、 私に具体的なアクションプラン
を作れと主張したので、 9月定例会までに示すこ とを答弁し、 アクションプログラム作りを始めま した。
内容は、 米国の防衛戦略の把握、 米国内及び国 外の米軍基地の閉鎖再編がどのように進んでいる のか、 宜野湾市としてどういうことをターゲット にして普天間基地の返還実現をしていくのかを分 析したものです。 ターゲットは、 第一が世界的な 米軍基地再編、 第二が米国内の基地閉鎖再編の 2005ラウンド、 第三が米国連邦議会による海外基 地見直し委員会の設置の三つの流れです。
この三つの流れへの取り組みとして、 一つ目の 世界的な米軍再編に関係する日米の二国間協議に 対して普天間基地の早期返還と沖縄の基地負担軽 減を直訴の訪米行動も行いながら日米両政府に強 く求めてきました。 国防総省が進める世界的米軍 再編に対して米国連邦議会が海外基地見直し委員 会を作りました。 米国において基地閉鎖は地元経 済に大きな影響を与えます。 カリフォルニア州だ けでもこれまでの基地閉鎖によって職が失われた 人数は30数万人と言われています。 米国内で基地 閉鎖は地域経済にとっては大変な問題です。 たと えば基地のある地域内の小中高の学校教育予算に は国防総省から予算が入ります。 様々なことが地 域経済に大きな影響を与えます。 軍人はもちろん 税金も払います。
これまで米国内では4回の閉鎖再編が行われま したが、 5回目となる今回は前の4回を全部足し たものより大きな規模になるという触れ込みでし た。 425ある米国内主要基地のうち、 100は過剰で あるという国防総省の見解の下で、 基地閉鎖の 2005ラウンドが検討されていました。 米国議会は、
これに対抗するために、 連邦政府に海外の基地か ら見直せと注文をつけました。 そのために海外基 地見直し委員会の設置が2003年1月ごろ提案され ます。 最終的に2003年11月に可決され、 2004年4 月ごろから委員会がスタートしました。 普天間基
地返還について日本の政府としては閣議決定とい うことで態度を決めています。 要するに、 SACO 合意というものが日米二国間の問題だから沖縄だ けでは変えられない中で、 日米再編協議が新たに 始まりました。 協議は二国間で互いに話し合って 同意したものを実行するというのが本来の協議で す。 日米安保は形としては事前協議制ですが、 今 まで多くの場合アメリカは自分たちで決めて日本 政府に押し付けてきました。 今回の米軍再編は二 国間協議というプロセスを必ず経ます。 そして世 界的再編だからかなりドラスチックな再編になり ます。 ブッシュ大統領は、 全世界から7万人の兵 隊を引き上げることを2期目の選挙前に発表しま した。 ドイツから4万、 韓国から1万2500人、 残 りの1万7500人を沖縄にあてはめると、 沖縄にい る1万6千の海兵隊を全て削減することができる のです。
今回の米軍再編は極めて大きな基地再編です。
トランスフォーメーションというアメリカの戦略 転換に伴うものです。 世界大戦からベトナム戦争 を経て今日まで、 米軍は前線に部隊の拠点を置き、
何十万の兵を展開するという戦略をとっています。
しかし、 これからの戦争の相手先は必ずしも国で はありません。 テロ集団であり、 そのため各基地 には小さい部隊で全世界に展開する能力を持たせ ることが今回の新しいトランスフォーメーション の考えであり、 兵力数ではなく、 能力で対抗する という考えであります。 動きの悪い基地は役割を 変えるべき、 閉鎖すべきというのが米国の今回の 戦略です。 私は2004年の7月に第一回目の訪米を して、 60年も続く沖縄の米軍基地こそトランス フォーメーションの課題にして閉鎖すべきだとい うことを米国政府に強く言ってまいりました。 同 じことを日本政府にも言っていますが、 政府はな かなか再編協議に踏み込もうとしません。 政府は 再編協議で地元負担の軽減と抑止力の維持を実現 するとは言っています。
二年連続の訪米要請行動
普天間基地の危険性は限界にきています。 普天 間基地の基地司令官も、 できるなら明日にでも出 て行きたいと言っています。 ラムズフェルド国防 長官も2003年11月に普天間基地をヘリから見て
「墜落事故が起こらない方が不思議だ。 2、 3年 以内に閉鎖しなさい」 と同行者に言ったと報じら れました。 米軍は普天間基地がいかに危険かよく 知っているのですが、 日本政府はよく知らないの です。 日本政府のこれまでの対応は、 米軍基地は 米軍にまかせてあるということで、 具体的に考え ようとしないのです。 そういう中で、 私は2004年 7月11日〜21日まで訪米して普天間基地の危険性 を訴えたのです。 そして訪米の翌月に沖縄国際大 学本館への米軍大型ヘリ墜落炎上事故が起こりま した。 ヘリ墜落事故は普天間基地の危険性を証明 し日米両政府を動かすことになりましたが、 宜野 湾市はヘリ墜落の前から墜落の危険性を指摘しな がら取り組んできました。
第二の米国内基地閉鎖再編ラウンドでは、 最初 425の主要基地のうち100を閉鎖すると報じられま したが、 2005年5月に米国防省が発表した諮問案 は主要基地33の閉鎖でした。 諮問委員会から9月 に最終答申が出て、 主要基地閉鎖は33から22に減 りました。 10は大規模再編に移りました。 米国内 基地の閉鎖と再編については、 かなりの反対があ ります。 連邦議会内でも議論の最中です。 今年の 訪米では、 基地閉鎖のある地域へ沖縄の海兵隊を 受け入れてもらおうとカリフォルニア州の南にあ る軍港都市サンディエゴ市周辺にも行き、 サンディ エゴ市と海兵隊師団の拠点ペンドルトン基地に隣 接するオーシャンサイド市の2箇所を訪ねました。
両市に対しても、 沖縄の基地を受け入れてもらえ ないかということを要請しました。 両市とも喜ん で受け入れたいと言ってくれました。
ワシントンでの要請行動でもカリフォルニア州 やハワイ、 グアム選出の連邦議会議員14名の事務
所を訪ね、 主に政策責任者と会って要請しました。
基地閉鎖があるところはなんとか自分たちのとこ ろで受け入れたいという意向があります。 沖縄に は普天間基地だけではなく、 いろいろな基地があ り、 国防総省は削減を計画していることを伝えま した。
第三の海外基地見直し委員会は、 2003年7月に 最初の公開委員会がワシントンで開かれました。
訪米中でタイミング良く参加することができ、 委 員長に普天間基地を含め沖縄の基地について書面 で証言をしたいと申し出て了承され、 11月に証言 書面を提出しました。 証言書面は二つのことを盛 り込みました。 一番目は、 普天間基地の閉鎖を勧 告することです。 二番目は、 沖縄の基地負担を軽 減するため大幅な基地削減を勧告することでした。
さらに沖縄に来て調査をして欲しいと要望しまし た。 委員会の沖縄視察は2月に実現しました。 海 外基地見直し委員会は国防総省の国内閉鎖案諮問 に合わせて5月に中間報告を出しました。 見直し 委員会は普天間の閉鎖を勧告しました。 勧告書の 中で基地名が出たのは普天間基地だけです。 勧告 書は同時に沖縄の基地をそのままにしておくべき だと勧告しています。 2005年7月の訪米では、 カ リフォルニア選出の副委員長ファインスタイン上 院議員とテキサス州選出の委員長ハチソン上院議 員の政策補佐官に、 沖縄の基地はもっと削減する べきだということを訴えました。 勧告がこのよう になった背景には、 この委員会は元軍関係者で構 成されており、 海兵隊などの声が反映されたもの と思います。 8月15日に出た最終勧告でも委員会 の結論は変わりませんでした。 しかし、 中間報告 には、 SACO が実現されていないことや、 国防 総省が8,000人の沖縄からの海兵隊削減を予定し ていることが書かれていました。 これをもとに、
国防総省に8,000人削減プランがあることを訴え ています。
訪米では普天間周辺に住宅が密集している資料
やパソコンを使ってビデオを見せました。 宜野湾 市の上空からの写真を見せると、 皆驚きました。
海兵隊航空基地と住民がフェンス一つで隣り合っ て暮らしているようなことは、 米国では絶対にあ りえないことなのです。 米軍基地が市民生活に悪 影響を与えて存在するということはできない、 あっ てはならないことなのです。 だから、 日本の米軍 基地の状況はいかに異常であるか彼らにはすぐわ かります。
ワシントンで会ったファインスタイン上院議員 は同席していたスタッフを振り返り、 普天間飛行 場の上空からの写真を見て、 「私はこんなことは 聞いていない、 私も市長だったけれど、 あなたが 言っていることをしっかり応援します。 ラムズフェ ルド国防長官にも手紙を書きましょう」 と言って くれました。
サンディエゴ市の基地政策責任者フェルナンド 氏は、 2年前から予定されていた国内基地閉鎖再 編 BRAC05に対するロビーを行い、 自分たちは 守りきったと誇らしげに言っていました。 自分た ちは米軍基地を愛している。 約60の軍艦がいて軍 関係者が約25万人いるが米軍基地が住民生活に影 響を与えてはならないというのがルールであると 説明していました。 米軍基地にも国内法が適用さ れるが、 それだけでは不十分であり、 基地を受け 入れる時に米軍に規制を作らせて住民への影響が ないようにしなければならない、 とのことでした。
サンディエゴには80箇所くらいの基地や施設があ ります。 基地関係生産額は2兆円くらいの規模に なるようです。
アメリカの中では航空機騒音訴訟が出ています。
住民地域が基地を侵食することが問題になってい ます。 もともと基地は住民が住んでいないところ に作られますが、 町は発展するので、 基地まで及 ぶようになります。 そうすると侵食されそうになっ た基地をどう解決するかということで、 自治体と 基地とで都市計画上の利用制限を協議しています。
また、 年間飛行回数が5000回以上の米軍航空基 地には空域利用評価の仕組みがあります。 旋回訓 練などのコースが基地におさまらない部分や、 新 しい部隊が展開して飛行範囲が広がることになれ ば、 新たな規制措置を地元自治体との協議の中で 決めています。
今回、 サンディエゴ市の近くのミラマー海兵隊 航空基地の 「航空施設共存可能ゾーン (AICUZ)」
の図を入手してきました。 旋回コースは墜落危険 地帯とゾーニングされています。 もちろん、 ミラ マー基地では基地区域内にほとんどが入っていま すが、 一部基地の外にはみ出している部分につい ては住宅利用が出来ないよう規制しています。 こ の図によると宜野湾市の全域は、 墜落危険地域に 入ることになり、 昨年の大学への墜落事故は起こ るべくして起こったことがわかります。
普天間基地周辺ではいつ事故が起こっても不思 議ではないということが見過ごされています。 日 本政府が見過ごしているということが大問題なの です。 イタリアやヨーロッパなどはどうでしょう か?イタリアでの米軍基地について沖縄タイムス と神奈川新聞が共同でプロジェクト連載した記事 がありました。 日本の場合は、 米軍の活動には NO と言えない関係があります。 地位協定の中で 米軍の活動を認める形になっているからです。 米 軍が飛行を必要とすれば認めざるをえません。 イ タリアの基地では、 イタリアの将校が許可書を出 して初めて飛行訓練ができます。 イタリアには昼 寝の習慣があり (1時〜4時まで) その間は飛行 を許可しません。 わが国の自衛隊はどうなってい るかというと、 地元自治体との協議で決めている ようです。 今回の米軍再編の中で、 普天間基地の 部隊や嘉手納基地の訓練があちこちに行くという 話しも出ているので、 本土で米軍基地や自衛隊基 地を抱える自治体の市長さんが宜野湾市まで来ま す。 日本の場合は米軍に対してどうしてこうなの か?日本とアメリカは対等じゃないのか?と米国
内で沖縄の状況を説明すると言われます。 日本は 第二の経済大国と言われながら、 米軍に従属して いるのがいつも疑問視されます。 地位協定は米軍 に専用施設を与え管理権も含めて提供しています。
そのために日本側が立ち入ることができません。
米軍の飛行機が飛んで被害が生じても、 米軍の飛 行訓練に文句を言うことができません。 1996年に 普天間基地でも嘉手納基地でも騒音防止協定を作 りましたが、 米軍は守っていません。 市長に就任 して初めて外務省に行った時に、 外務省担当者は、
普天間基地については96年に騒音防止協定を作っ たので対処済であるかのように話しました。 私は、
騒音防止協定どおりに守られていれば外務省まで 要請には来ないといって、 まったく守られていな いと指摘しました。 飛行回数の資料等を見せて、
いかに飛行回数がひどくなっているかを訴えまし た。 外務省は飛行訓練の実態を知りませんし、 検 証をしません。 なぜイタリアは違うのかというと、
イタリアの基地は米軍基地ではなく NATO 軍の 基地であって、 イタリア政府は基地の管理権まで は米軍に渡していないからです。 日米地位協定と いうときの地位は、 米兵の地位のことを指してい ます。 本来の地位協定は、 基地使用協定であり、
イタリアではきちんと分離されています。 平時に 基地使用協定は地域住民が優先されます。 戦時中 だと軍が優先されるのです。
市長になって国の官僚の皆さんに会って話をす ると、 1950年代に小学校に入った人たちは、 アメ リカの基地は日本本土にたくさんあった時代を知っ ています。 金網の中と外の生活の差が根底にあっ て、 その差をずっと引きずっているように思いま す。 敗戦国ということをひきずり、 米軍に対して モノが言えない。 米軍が日本国憲法よりも優先さ れるものとして、 日米安保がまかりとおっていま す。 プエルトリコのビエケス島では例えば1999年 に、 射爆撃場の監視員が誤爆で亡くなり、 住民の 反対運動が起こり、 全面返還になりました。 在日
米軍のあり方について問い直すべきです。 日本の 国民を害してまで米軍基地をおく必要はありませ ん。 私は、 国に基地を置くのなら国民に危険のな いようにしなければならないということを強く言 い続けています。 私たちは目を醒まさなければな りません。 日本政府は自分の国民をないがしろに し、 米国の国益のために奉仕するということを日 常的に行っています。 日本は密室の国なのでしょ うか。 今回2回にわたり訪米をして感じているの は、 アメリカ政府や連邦議会は聞く耳を持ってい るということです。 そのことをふまえながら、 宜 野湾市として主張すべきことは主張していく、 そ のような取り組みを継続することによって日米両 政府を動かすことができると思っています。 また、
米国に行って沖縄や本土の米軍基地の現状を受け 入れてはならないことを痛感しました。 むしろ米 国の視点で沖縄の米軍基地を見つめなおすべきと 感じました。 米国での常識を沖縄でも実現しなけ ればなりません。
米軍基地による人権侵害に自治体が先頭にたつの は当然
市町村長が沖縄で反基地運動の先頭に立たなけ ればならない理由は、 米軍基地が住民の人権を大 きく侵害していることが、 わが国政府の下で許さ れているからです。 もちろん、 そんなことが許さ れていいはずはありません。
実際には、 日米地位協定の第三条 (施設・区域 に関する措置) 第三項には 「合衆国軍隊が使用し ている施設及び区域における作業は、 公共の安全 に妥当な考慮を払って行わなければならない」 と 定められています。
ここでいう作業の中に当然、 米軍の訓練などの 活動が入るわけで、 米軍の活動を規制しているイ タリアなどの措置に通ずるものです。 住民被害を 放置している国に対して、 住民を守るために自治 体が取り組むことが求められていると考えていま
す。
沖縄の場合は多くの市長村長が復帰前 (1945−
1972) の米軍統治下で日本国憲法が及ばず基本的 人権が守られない中、 基地や米軍にたいする抵抗 運動を行ってきました。
日本復帰によって、 日本国憲法のもとにはいり 日本国憲法によって沖縄の住民の権利も守られる と考えていたわけですが、 残念ながらそうなって いません。
わが国政府は米軍基地に 「日本国憲法は及ばな い」 という見解です。 最高裁も同様の判例で、 住 民の飛行差し止めを求める爆音訴訟の訴えをしり ぞけているわけです。 全くおかしいことです。
沖縄もそうですが、 神奈川県の厚木基地で米軍 NLP (夜間離着陸訓練) が周辺住民に大きな被 害を与えても、 国として何の対処もしないという のは、 他の国々ではあり得ないことです。 嘉手納 基地や普天間基地での住民生活を破壊している爆 音被害についても同様です。 国は米軍の側に立っ て、 基地被害を少なく見せようとします。
ですから住民の生活を守るためには、 地方自治 体がしっかりとした権利の主張を行い、 問題解決 を強くもとめて、 市町村長が住民の先頭に立たな ければならないと考えています。
私たちは、 プエルトリコのビエケスの基地撤去 運動に学ぶべきでしよう。 ビエケスの米海軍射爆 撃場で、 1999 年3月に米海軍の F18ジェット戦 闘機の誤爆事故があり一人の基地監視員の住民が 死んだことを契機に、 実弾演習の反対行動が取り 組まれ、 2003年4月末に60年続いた演習場が閉鎖 されたのです。 住民の声を受けて地元の市長やプ エルトリコの知事が即時閉鎖を頑として譲らなかっ たのです。
県内移設ではなく海兵隊の撤退を
辺野古への長期間に及ぶ代替基地建設は普天間 基地にとって何の解決にもなりません。 逆に、 普
天間基地の危険を放置するものとなっています。
美しい辺野古の海を埋め立てて新たに米軍基地を 建設するべきではありません。 普天間基地のへリ 部隊の大半 (46機) と約5,000人の海兵隊が8ケ 月も沖縄を離れてイラクに行ったことは、 沖縄に 必ずしも海兵隊を駐留させる必要がないことを米 軍自身が示したことになります。 もう海兵隊が沖 縄からも日本全体からも撤退していくべき時代に 入っています。
これ以上、 辺野古のオジィー (御爺)、 オバー (御婆) に負担をかけるべきではありません。 90 歳を超える方々が連日座り込みを続けているので す。 ジュゴンも棲む美しい辺野古の海に新たな米 軍基地を造らせてはなりません。
戦争から60年の節目を迎え、 沖縄でも、 米軍基 地という戦争の衣を脱ぎ捨てて、 新しい衣を身に 着けたいという思いが県民の中に大きく芽生えて います。 私は、 これからも一つ一つ基地を脱ぎ捨 てる取り組みを継続していきたいと思っています。
なお、 へリ墜落事故の模様や訪米報告、 市民大 会の報告、 基地返還アクションプログラム、 米国 委員会への証言書等の資料は宜野湾市ホームペー ジで入手することが可能です。 また、 ホームペー ジのウェブカメラでいつでもどこからでも普天間 基地を見ることができます。 どうぞ、 日本がどの ような道を歩もうとしているかを知るためにも、
沖縄の基地への関心を日常的に持つことをお勧め します。
<追記> 「新ガイドライン」 に関連して
私は、 1997年頃、 沖縄県議会議員として米軍基 地問題に取り組んでおりましたので、 日米のより 緊密な軍事一体化へのスタートとなる日米防衛協 力のための指針、 いわゆる 「新ガイドライン」 が 策定されたことを受けて、 1997年に 「新ガイドラ インに異議あり全国キャラバン」 を全国各地の皆 さんと取り組み、 沖縄から各地に米軍基地問題を
伝える人を送りだす役割をしました。
その後も、 県議をしながら反戦・反基地運動や 市民平和運動に関わってきましたが、 2003年4月 末に宜野湾市長に就任し、 今は、 宜野湾市の抱え る普天間基地の返還問題を行政の立場から取り組 んでいます。
改めて1997年当時の資料や状況の変化を振り返 りますと、 わが国政府が、 この間に如何に深く米 国の軍事戦略の中に組み込まれていったかが、 よ くわかります。
その当時のことに関してはインターネットでも 検索できる鹿児島大学平和学教授の木村朗さんの
「新ガイドライン安保体制と九州・沖縄一地域か ら問う平和戦略の構築に向けて」 という論文によ くまとめられています。
その中では、 木村教授は1997年9月の新ガイド ラインの特徴として、 次の四点を挙げています。
第一に 「防衛型安保 (5条安保) から 「攻撃型 安保」 (6条安保) へ
第二に 「地域限定安保」 から 「地域無限低安保」
へ、
第三に 「自衛隊安保」 から 「総動員安保」 へ、
第四に 「事前協議制」 から 「自動参戦体制」 へ、
つまり、 1997年の新ガイドラインによって日本 が主体的に米国の行う戦争協力へ歩みだすことに なり、 集団的自衛権の事実上の行使による日本国 憲法の平和原則の全面否定につながるとされまし た。 その後の周辺事態法やイラク特措法などの有 事法制、 国民保護法制などの日本の動きは、 そう なっています。
今日、 これらの四つは仕上げに入っており、 各 都道府県で行なわれようとしている国民保護基本 指針に基づく措置体制の整備は、 準備されつつあ る9条改憲と合わせて、 政府が備えの必要を強く 説いている戦争への総動員体制の仕上げになると 思われます。
このように我が国で進んでいる戦争ができる国
づくりは、 9・11テロから始まったのではなく、
日米安保を広くアジア・太平洋に拡大した1996年 の日米安保共同宣言から始まっているのです。 そ して、 今も拡大し続けています。 今回の米軍再編
協議は、 仕上げになっていくものと思われますか ら、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域だけの 問題ではなく米軍再編問題が全国民的課題なのだ ということを知って欲しいのです。