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意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカ ティヴな英語教育のために

著者 北村 文, ソーントン, ピーター

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 3

号 1

ページ 187‑198

発行年 2009‑03‑24

その他のタイトル Potentials of Content‑Based Learning: Towards

a Communicative Approach to EFL Instruction

URL http://hdl.handle.net/10723/3209

(2)

意味内容にもとづく言語習得の可能性:

コミュニカティヴな英語教育のために

北 村 文 ピーター・ソーントン

1 .はじめに CLT ・CBI とは何か

グローバル化する(globalizing) あるいは

「グローバル化されてしまった(globalized)」と 言われることもある 現代社会において,英語 をはじめとする外国語習得への需要と熱意は高ま るばかりだ。しかも多くの人が実際に海を渡り直 接に外国人と接する自分を思い描くこの時代に,

外国語習得は,記憶された文法や語彙の集積をも はや意味しない。何かを知り伝えるための手段と して役に立つ,コミュニケイションのための外国 語運用能力が求められている。本論文は,そうし たなかで注目を集めるコミュニカティヴ言語教育 法 (CommunicativeLanguageTeaching,以 下,CLT)を,理論的かつ実践的に論じる試み である。

それでは具体的にどのような方法で,私たちは コミュニカティヴな英語教育を達成できるだろう か。たとえばアメリカ社会において移民の子ども が,彼あるいは彼女の家庭で使うのとは異なる言 語の話される学校に通い,理科や体育の授業のな かで英語を習得していく様子,あるいは,オース トラリアの大学で日本人留学生が文学や社会学と いった授業を受講し,クラスメイトたちとのディ スカッションやレポートの作成などを通して英語

力を向上させる様子を想像してみよう。彼ら彼女 らは,英語で教員が言うことやクラスメイトが話 すこと,そして教材に示されていることを理解し,

そして自らも英語で質問を発したり意見を述べた りする必要に迫られる。そうでなければサヴァイ ヴすることができないという逼迫した状況のなか で,言語能力が高まっていくことは想像に難くな いだろう。このように,言語そのものを主題とし た授業を通してではなく,ある特定の意味内容

(content)を通じて外国語を習得する,という 方法がある。これが,CLTのなかでも本論文が 特に注目する,「コンテント・ベース言語教授法

(Content-BasedLanguageInstruction,以下,

CBI)」のエッセンスである。

それはたしかに望ましいことで,私たちの多く がそのように英語を学びたかったと考えるにちが いない。しかしながら,上の例がいずれも第二言 語としての英語 (English asaSecond Lan- guage,ESL)という状況であることには注意が 必要だ。移民の子どもや留学生は学校の内でも外 でもつねに英語環境に身を置いていて,隣人や友 人だけでなくメディアからも英語でメッセージを 受けている。いわば,「英語漬け」の状態にあっ て英語を習得していくのである。それに対して日 本にいて英語を学ぶ者の多くは,外国語としての 英語(EnglishasaForeignLanguage,EFL)

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の状況に置かれている。ひとたび教室を出れば あるいは教室のなかにおいても 周囲は日 本語を話すし,メディアが用いるのもまた自分の 母語である,というように。このとき,「英語漬 け」の状況を教室内につくりだすことは可能でも,

そこで培われる能力の維持を容易に期待すべきで はないだろう。ただ学生を90分間,英語にさら せばいいというわけではない。以下にも述べられ ているように,より効果的で戦略的な,CBIの導 入が必要となる。

「英語が出来た方が良い」というレベルと,「英 語が出来ないと暮らしていけない」というレベ ルには,大きな違いがある。……こうした違い を踏まえ,ESLの分野で成果をあげた研究結 果をそのまま日本の英語教育に導入しようとす るのは避けるべきであろう。(高桑2004:4647)

本論文では,まず,日本の英語教育という文脈 においてなぜこの方法論が重要であるかを再確認 し,次に,より深くCBIを理解するために,応 用言語学の分野でなされてきたいくつかの定義と 分類を参照する。と同時に,理論ばかりを先行さ せ具体的な授業運営に関する面を軽視しないよう,

ひとつの実践例として,本学EFLプログラムを 分析の俎上にのせる。ここで掲げられる「英語を 学ぶ」から「英語で学ぶ」というパラダイム変換 にあたっては,CBIが重要な位置を占めるが,そ の実践面での可能性と問題性について議論を重ね ていく。

2 .分析的アプローチと経験的アプローチ 日本における英語教育の趨勢

どんな方法論も,その適用される文脈を抜きに

して語ることはできない。ここではまず,「読む ことはできても話せるようにはならない」とか

「実際のコミュニケイションには役に立たない」

とか長く言われてきた,日本の英語教育の動向を 把握しておこう。

言うまでもなく,伝統的に行われてきたのはい わゆる「文法訳読式」の教授法である。より専門 的に言えば, 日本の教室では分析的 (analyti- cal)アプローチ,すなわち英語の文を要素に分 解しコードとして理解していくという方法がとら れてきた。これは,言語を実際に教室のなかで使 用して習得していくという経験的(experiential) アプローチと対極をなすものに他ならない。

その背景についても,すでに多くの推察がなさ れてきている。ひとつには,高校入学時および大 学入学時の試験がもっぱら,大人数の学生が一斉 に標準化された筆記試験を受けるというスタイル で行われる点がある。このとき,試験に合格する ために学生に求められるのは,意思疎通の能力で あるよりは,問題用紙上の英文を文法的に分析し 日本語に翻訳する能力であり,彼あるいは彼女の 英語の習熟度は排他的にこの方法によって判断さ れることとなる。GregoryPoole(2003)は,言 語能力を測る標識に「規則参照型」と「基準参照 型」のふたつがあることを指摘し,前者に日本の 英語教育,特に入学試験において用いられる標準 化されたテスト形態を分類する。彼によれば,そ の結果,学習者そして教員の志向はもっぱら対象 言語の言語学的特性へと向かうことになり,CLT で重視されるところの「パフォーマンス」,すな わち実際のコミュニケイション状況で言語を使い こなす能力は軽視されることとなる。

同様に重要なことに,日本の学校においては授 業運営が教員を中心にするかたちでなされてきた ことも挙げられる。MiguelManteroとYuko 意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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Iwai(2005)は,Pooleと同様に,日本の英語教 育においては試験に合格することが伝統的な目的 とされてきたと述べ,さらに,学生に表現や発言 の機会が与えられることがほとんどないいっぽう で,教員には会話スキルではなく文法と読み書き の能力ばかりが求められる,と指摘する。教員が 壇上に立ち教科書を読み上げ,次に黒板上で英文 を講釈する,というふうに一方向的な講義が行わ れるとき,学生たちは教科書を目で追い,板書を 写し取り,教員が提示する文法項目を記憶してい く。これは,RebeccaIrwinFukuzawa(1996) が言うように,一教室にともすれば40人もの学 生が座ることもある授業環境においては不可避的 な事態だとも考えられるだろう。そして最後に,

そうした教室環境において学習者に促されるのは,

実際の言語運用ではないという点を再度強調して おこう。生徒たちは相互に英語を用いて会話や議 論および問題解決にあたることはなく,あくまで も個人レヴェルでの反復練習に従事する(Wray 1999)。

こうした伝統的な,私たちの多くになじみ深い 文法訳読の教授法に加えて,日本の英語教育の現 場では,音声教材を導入しようとするアプローチ

(audio-lingualapproach)や語彙の習得を促す アプローチ(lexicalapproach)もとられてきた。

しかし注意しなければならないのは,前者に関し て言えば,その多くが教員やCDのあとにリピー トする反復練習によってリスニングやスピーキン グを行おうとしており,その結果,学習者は紋切 り型の会話を練習することしかできないという点 である。また後者においても,日英の単語リスト の記憶が中心となり,ここでも翻訳が中心的位置 を占めているという点,そして言語を文法項目と 単語に「分析」してパズル的に解読しようとする 点に,依然として問題が残る。さらにいずれにお

いても,教員を中心とした授業運営で一方的な知 識伝達しか行われないという弊害は残されている。

これら諸問題が「英語の話せない日本人」を量 産しているというのもまた,私たちが多く見聞き するところだ。事実,文部科学省は「21世紀教 育新生プラン」(文部科学省 2001)のなかに大学 入試の多様化や,教科に応じた少人数指導(一ク ラス20名以下)といった内容を盛りこんでいる し, 外国語教育に関しても日本人の教員には TOEFL PBTで550,TOEICで730といったス コアを課すこと,そしてALT(AssistantLan- guageTeacher)としてのネイティヴ・スピー カーを増員することなどを掲げている。さらに,

新学習指導要領のもとで実施される小学校におけ る「外国語活動」に関しても,以下のように,伝 統的に行われてきた英語教育とは一線を画する内 容,すなわちコミュニカティヴな授業内容が想定 されている。

外国語活動においては,音声を中心に外国語に 慣れ親しませる活動を通じて,言語や文化につ いて体験的に理解を深めるとともに,積極的に コミュニケーションを図ろうとする態度を育成 し,コミュニケーション能力の素地を養うこと を目標として様々な活動を行います。(文部科 学省2008)

こうした大きな転換期にあって私たちは,現実 には,期待よりも混乱のほうに多く直面している よ う に お も わ れ る 。 前出のManteroとIwai

(2005)は,こうした「改革」が唱えられてはい るものの 少なくとも2005年の時点では 文法を中心とする反復的かつ記憶的学習法が未だ に支配的であり,また,教員中心でなおかつ入試 を目的とした授業運営がはびこっている,と厳し 意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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い判断を下す。続けて彼らは言う,必要なのは英 語教育の「真の目的」を理解すること,すなわち,

ただ言語学的スキルを身につけさせようとするの ではなく「学習者たちがアイデンティティ,パー スペクティヴ,そして文化的意識をかたちづくっ ていく過程」に注目することだ,と。

誰もが話せるようになりたいと願いながら,教 わる側は言うまでもなく,教える側さえもが,ど うすればそこに到達できるのかはよくわかってい ない。それが私たちの現状だと言えるだろう。こ こで,先に示した分析的アプローチとそれに対抗 するとされる経験的アプローチの議論に戻ろう。

日本の英語教育は今,前者から後者への移行を企 てているようにみえる。しかし,先述のように日 本の英語教育はEFLの状況にあり,ただ英語を 使って授業をすればよいという単純なことも言え ない。実のところCLTの領野では近年,このふ たつのアプローチは対立するものではなく,互い に補完しあうものだという合意がなされてきてい る(WescheandSkehan2002)。だとすれば,

ただむやみに英語を読みあげるとかランダムに英 会話レッスンを行うとかいうのとは異なる,より 実質的な意味内容に即して英語を経験的に使う状 況,すなわちコンテント・ベースの状況を提供す ることが望ましいはずだ。ここにこそ,私たちは 英語教育の新たな方向性を見いだせるのではない か。

3 .意味,運用,コミュニケイション CBI の定義と意義

ここからはより詳細に,CBIについて論じてい こう。MarjorieBingham WescheとPeterSkehan の定義によれば,CBIにおいては「学習者が,自 らの運用能力に限界がある言語を通じて新しい概

念や概念的スキルを身につけようとする」(Wesche andSkehan2002:220)。それはつまり,冒頭で 示した例のように,その場で必要な知識 実験 のやり方や試合のルール,課されたレポートに盛 りこむべきこと を,自らの母語でない言語で 獲得し同時にそれを通じて表現するという作業を 指す。そのなかでは,第一に,言語の型(form)

よりも内容(content)が重要となる。学習者は コードとしての言語を解読するのではなく,その 意味をじかに把握する必要に迫られる。ひとつの 英文があるときに,その構文を見抜き,それぞれ の単語の意味を調べ,日本語訳をつくりあげ,そ してその和文をもとに意味を理解する,という手 続きをふむ従来の文法訳読式と,CBIが目指すも のの違いは明らかだろう。

第二にCBIの利点として多くの研究者が合意 するのは,学習者がただ対象言語を使うようにな るというだけでなく,彼ら彼女らが触れる対象言 語が量的に増大するという点である。言語習得に おけるインプットの重要性は往々にして強調され るが,なかでもStephenKrashen(2005)は,教 室の外で英語を話す学習者と話さない学習者,そ して読む学習者と読まない学習者のTOEFLス コアを比較する実証的データを用い,後者のあい だにのみ有意の差があることを指摘する。すなわ ち,話す/話さないというアウトプットではなく,

読む/読まないというインプットのほうが,学習 者により高いスコアをもたらすのである。これを ふまえてKrashenは言う。

言語習得は,私たちが人の言うことや読んだこ とを理解するときに起きる。意図的な記憶の必 要はない。むしろ,学習者が「理解可能なイン プット」,すなわち音声あるいは文字の言語で その意味がわかるものに触れるにしたがって,

意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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文法的規則(正しさの感覚)と語彙についての 知識が確立していくものなのだ。(Krashen 2005:12)

この意味でCBIは,文法や語彙そのものに照 準することこそしないが,そうした面に貢献しな いわけでは決してない。学習者は理科や体育や文 学や社会学を学ぶなかで,「とある言語の型や構 文に,コミュニケイションを通じて繰り返し出会 う」(WescheandSkehan2002:220)。彼ら彼 女らは,たとえば関係代名詞や仮定法を意識的に 教えられることはないが,しかし,外国語で幅広 い主題を扱う授業のなかで不可避的にそれらに触 れることになる それもたびたび,きわめて実 用的なかたちで。そうした経験の蓄積は,CBIの 学習者に第一には具体的な理解を促すし,第二に,

異なる文脈間の関係性の構築を可能とする。した がって,CBIは「知的な作業と練習を継続させ,

新たな獲得とその長期的な維持のための能力を助 長する」(ibid.)。

4 .異なる方向性,異なるモデル CBI のヴァリエイション

CBIのなかには,しかしながら,上のような一 般的な定義を共有するものの多種多様な方法論が 含まれる。Myriam Met(2008)が参照するふた つの定義をみてみよう。まずいっぽうには,「外 国語を教えるという文脈のなかに,他の科目の授 業(たとえば数学や社会など)のトピックやタス クを提示した内容を盛りこむ,言語教育のアプロー チ」(CrandallandTucker1990:187)という定 義があり,そこでは「言語教育」という面が強調 される。それに対し,CBIとは「外国語を通じて カリキュラム内容を教えることであり……初等教

育レヴェルに適している」(CurtainandPesola 1994:35)と,「カリキュラム内容」のほうに重点 をおく定義もある。このふたつの対照的な定義に 代表されるように,多種多様なCBIの運用のなか には「弱い」ものと「強い」ものがあると言うこ とができる(Brinton,Snow andWesche1989)。

「弱い」CBIは,上でCrandallとTuckerが言う ように,実質的な情報やスキルを学ぶカリキュラ ムのなかで学習者の第二言語でのコミュニケイショ ン能力を向上させようとするものである。移民や 留学生を多く受け入れる学校が,正規の授業とは 別に設ける補習的な言語コースの授業を思い起こ せばよい。それに対して「強い」CBIは,言語に 関連しない領野の内容を,第二言語話者に対して 教授するものである。このとき,主要な目的は言 語習得ではなく,あくまでも教えられる教科内容 を理解し身につけることである。一例として,

「没入(immersion)」と呼ばれる,すべての教科 内容が外国語で,そして主にネイティヴ・スピー カーによって教授されるというカリキュラムを挙 げることができる。

また,Myriam Met(2008)は,この「弱い―

強い」という分類に並行するかたちで,CBIに

「言語重視」と「内容重視」というふたつの極を 置く。まず「言語重視」のプログラムでは言語習 得こそが目指されるので,学生が教科内容を理解 しなかったとしても問題にはならない。内容はあ くまでも,対象言語を用いたディスカッションや 考察,批判的思考のために利用されるものに過ぎ ない。日本でも多くみられるような,文学作品あ るいはメディア記事などの内容を頻繁に利用する かたちで対象言語の使用を促そうとするクラスが ここに位置づけられるだろう。他方,「内容重視」

のプログラムでは,そこで教えられている内容や スキルを理解し習得することが最優先され,教員 意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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も学生もともに言語習得に対する責任を負わない。

言語習得はあくまでも「おまけ」「副産物」なの であって,優先順位は教科内容の把握,その次に 言語の習得,ということになる。そのもっとも徹 底したかたちをMetは「完全没入(totalimmer- sion)」と呼ぶが,その次にはより和らげたかた ちの「部分的没入(partialimmersion)」も想 定している。

さらにMetは,この「言語重視」と「内容重 視」を両極におく線上のうえに,異なる三モデル を見出してもいる(図1参照)。

まず,「完全没入」および「部分的没入」が外 国語の使用を教員と学生の双方に課し,正規の科 目内容の教授を目的とするのに対し,「シェルター 式(shelteredcourses)」はそのさらにより穏当 な適用法だといえるだろう。すなわち,シェルター 式においては,ネイティヴ・レヴェルに満たない 学習者でも内容を理解できるよう,言語学的配慮 がなされるのである。しかしその一義的な目標は 内容の教授であり,学生の評価もやはり内容の習 熟を重視して行われるということに注意しておこ う。次に,「内容重視」と「言語重視」の中心に おかれている「補助モデル(adjunctmodel)」

では,内容と言語の両方に重きがおかれ,双方が 目的であるとされる。第一言語話者と第二言語話 者が混在する教室で,教科担当の教員と言語担当 の教員がともに授業にあたる場合を考えてみれば よい。第二言語話者に求められるのはその教科内 容の把握とともに言語能力の向上であり,それぞ れの教員によってそれぞれの観点からの評価がな されることとなる。ここからさらに「言語重視」

に傾向するのが「テーマ・ベース(theme-based)」

のコース,すなわち,言語能力の向上のために実 質的内容に基づくテーマが選別され用いられるモ デルである。教員は言語教育を専門とする者とな り,言語能力に沿った評価が行われる。内容の理 解は偶発的なものとしか見なされない。学習者の おかれた環境や第二言語レヴェルによって,この 連続線上のいずれかのCBIを採用すればよい,

ということになる。

このようにCBIの異なる実践形態を体系的に とらえたところで,しかしながら,いくつかの点 を指摘しておかなければならない。第一に,ここ でもまた「分析的アプローチ」と「経験的アプロー チ」の問題が浮上する。図1の右端では,言語習 得を目指すあまり,内容 そこに含まれる意味 がともすれば軽視されかねない。それは,文 型練習や構文解読に没頭してしまうという分析的 アプローチに基づく文法訳読の弊害を招くだろう。

いっぽう左端においては,「意味さえわかればい い」という読み方が「意味さえ通じればいい」と いう話し方につながるのではないかという危惧を ぬ ぐ え な い 。 こ の 点 に つ い て は Allen etal.

(1990)が,学習者たちの犯す間違いが必ずしも コミュニケイションを阻むものではないこと,し たがってコミュニカティヴな状況では,学習者た ちは自らの誤用を意識することがないという問題 を指摘している。学習者は「内容」に即しすぎる がゆえ,不完全な言語使用を続けてしまいかねな い。そう考えると,伝統的に行われてきたコード としての言語把握も,学習者がネイティヴ・レヴェ ルの言語能力を身につけるためには必要におもわ 意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

完全没入 部分的没入 シェルター式 補助モデル テーマ・ベース 内容を用いた言語練習

(Content-内容重視Driven) 言語重視

(Language-Driven) 図1 CBIにおける内容と言語の統合度(Met2008から抜粋)

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れてくる。「強い」,「言語重視の」CBIが,より 文脈に即した言語運用の機会を学習者に与えるこ とは疑いをいれないが,同時に,言語を流暢に使 えること(fluency)は身についても正しく使え ること(accuracy)がおざなりになるという危 険性は消えないのである。「言語重視」も「内容 重視」も,極端な偏向をみせてしまうと問題が生 じる。

第二に,この点に関連して,図1にある連続体 の考え方にも問題を指摘することができる。言う までもなくこうしたモデル化や分類は理論上の展 開のためには有益だが,「言語」と「内容」とい う二極化が覆い隠してしまう側面もまたある。こ の二項対立には,「言語」 とはすでに存在する

「内容」を示すための道具に過ぎない,という含 意があるが,しかし,「言語」そのものが「内容」

だということを私たちは忘れてはならない あ る単語の意味や用法を理解するためには,そこに 含まれる概念そのものを知る必要があるのだから。

ある概念とその表現形態が不可分の関係にある以 上は,「言語」と「内容」を明確に区別すること は難しい。たとえば冒頭に示した「グローバル化

/globalization」という語は,ただその対訳語 を知っているだけでは何の役にも立たない。この 語を正しく さらには,globalizingとかglo- balizedとかいうかたちでも 使いこなすため には,やはりその「内容」を知る必要がでてくる。

このとき,純粋に「言語」だけ,あるいは「内容」

だけに注意を払うことがどれだけ可能だろうか。

以上の点は,ただ哲学的・理論的な問題である というだけでなく,実際にCBIを実践しようと する者であれば必ず直面する困難に違いない。学 習者Aが「ThesunrisesintheWest.(日は西 から昇る)」という文を,学習者Bが「Thesun risesattheEast.(日は東に昇る)」という文を

表したとき,教える者としての私たちはどう評価 を下すべきだろう。「言語重視」の授業であれば 学習者Aを正解とし,「内容重視」の授業であれ ば学習者Bを正解とすればいい,などという容 易な判断はできないはずだ。

5 .本学 EFL プログラムのデザイン CLT の実践例として

理念型が現実と齟齬をきたすのは珍しいことで はない。私たちが今すべきは,以上のような理論 的ツールを,いかに効果的かつ戦略的に用いるこ とができるかを考えることだろう。ここからは明 治学院大学教養教育センターのEFLプログラム をひとつの具体例として例示し分析しながら,

CLT,なかでもCBIのさらなる可能性を探って いこう。

本学外国語教育においては2004年度にカリキュ ラム改革が実施されたが,その特徴として,第一 に,1年次に英語と初習外国語の2言語(各言語 4単位)が必修となったこと,第二に,英語教育 においてはオーラシー重視のプログラム提供がな されるようになったことが挙げられる。旧カリキュ ラムでは,1年次と2年次の二年間にわたって8 単位を修得することが課されていたが,そうした なかではともすれば「必修単位を消化するために,

やる気のない学生までもが2年間にわたって英語 科目に拘束され,英語リーディングにいたっては 平均50名を超過するような劣悪な環境での授業 を余儀なくさせられていた」(嶋田2004:31)と いう事態が起きてしまう。必修単位が量的に減り,

またそれにかけるべき期間も短縮されたことで,

2年次以降の選択外国語科目には「学生が自らの 判断と責任において教室に参集することになる」

(ibid.:32)。

意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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EFLプログラムにおいては,この「自由意志 による外国語科目の積み上げ構造」(嶋田2004: 33)の確立に加え,大教室での英文テキスト講読 に代表されるようなリテラシー重視の英語教育か らの脱却が目指された。英語をひとつひとつ日本 語の訳語に対応させていき,その結果奇妙な日本 語訳をつくりあげ,それをとおして原文の意味を 理解する,という伝統的な方法においては,「『正 解』というものを教師の側が握っていて,学ぶ側 はそれに従うしかなく,そうした受身の学習環境 の中では,内容の理解・把握はもちろん,英語圏 の文化の理解など望めることではありません」

(石渡2004:39)という点が見直された。この

「内容伝達型」を脱し,学習者を伝達された内容 の記憶装置としてではなく,積極的に意義を見出 していく主体として考える「意義構築型」のカリ キュラムモデルが新しく導入され,そこでは,オー ラシーとリテラシーの関係に均衡のとれた英語教 育の構築が目指された(高桑2004)。

以上を踏まえて現在のEFLプログラムは,図 2で示すカリキュラムデザインを擁している。

一年次必修科目である「英語コミュニケーショ ン1」および「英語コミュニケーション2」は,

段階的学習過程の底辺をなし,すべての学生が通 過する「入り口科目」である。ネイティヴ・スピー

カーが担当する「英語コミュニケーション1」は,

各回,ロール・プレイングやゲームなどの活動を 通じて基礎的な文法項目にとりくむ。当然ながら,

ペアを組んだ学生どうしが互いの趣味について情 報を交換したり,あるいは架空のジョブ・インタ ヴューを応募者と雇用主の役をとって行ったりす るとき,学生は,第一に英語でなされる教員のイ ンストラクションを理解しなければならないし,

第二にペアやグループ内で相互に英語で意思疎通 を図らなければならない。ここでは主に「タスク・

ベース教授法(Task-BasedInstruction)」の方 法論に基づく言語習得が目指されている。加えて

「英語コミュニケーション2」は日本語を母語と する教員が担当し,音韻単位の認識を促し分節能 力に働きかけるものである。学生の既習事項のほ ぼすべてがリテラシーに傾いている現状を鑑みる と,日本語には存在しない英語の音韻上の差異と 規則を改めて導入することが必要となる。これは 学生の第一言語を話す教員によって,彼ら彼女ら が明確に理解できるかたちで行われなければなら ない。

このようにオーラシー教育を徹底したうえで,

二年次以降の選択科目として置かれているのが,

まず,EFLプログラムの三角形の主幹部をなす

「英語研究」である。2008年度について言えば,

意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

図2 EFLプログラムのデザイン

Ⅰ群科目 英語研究

英語コミュニケーション 必修科目 選択科目

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ネイティヴ講師が担当する英語研究には,ディス カッションやディベートといったアカデミック・

スキルの向上を目指すものから,旅行や映画,イ ンターネットといった学生が日常的に経験する場 面での英語に焦点を当てたものがある。なかでも 映画は多くの教員が共通して用いる題材のひとつ だが,ここで目指されているのはストーリーや登 場人物,さらには作品内で用いられている技法,

そして作品間の関連性といった「内容」を英語で 学ぶことである。そのなかでも,作品を鑑賞しそ の内容について学生間で意見を述べあうという

「テーマ・ベース」に近いかたちのものから,映 画批評や映画史の授業を「没入」のかたちで行う ものまで幅広い。学生は自身の興味と能力に応じ て異なるCBIを経験することができる。

さらにEFLプログラムの頂点,すなわち,よ り高い英語力を有しさらなる発展を求める学生を 対象とする科目に,「Ⅰ群科目」がある。これは 実は他の外国語科目とは異なり,明治学院大学で 学ぶ留学生を主たる対象として提供されている科 目である。担当教員はネイティヴ・スピーカーだ けでなく日本人教員のこともあるが,学生は北米,

ヨーロッパ,オセアニアおよびアジアの諸国を出 身としており,その共通語とされる英語で授業は すべて行われる。2008年度には,JapaneseArts andCulture,JapaneseHistory,JapaneseSoci- ety,CurrentIssuesといった分類のもとに,人 文学系・社会科学系の科目とともに日本の伝統文 化に触れる実技科目も設けられている。そこで教 わる内容が,日本文学やジェンダー論といった学 術的なものであれ,あるいは茶道や墨絵といった 伝統文化であれ,日本人学生たちは留学生たちと 同じ教室で英語の講義を聴き,英語でディスカッ ションやプレゼンテイションを行い,英語で課題 を提出しなければならない。あるいは授業の前後

にクラスメイトたちと雑談するときにも英語を使 うことがあるだろう。さらに重要なのは,日本人 学生にとってⅠ群科目の授業は,ただ英語にさら される時間であるだけでなく,単位を修得しよい 成績を収めるためにはそこで教えられている「内 容」 戦前日本の小説と映画の関係,日本にお けるジェンダー関係の複雑性や多義性,あるいは 薄茶の点て方や墨の濃淡の出し方 を正確に把 握し,それを試験やレポート,実技の場で表現す ることが必要となる,ということだ。授業内の 90分に限っていえば,アメリカやイギリスの大 学で行われる日本研究の授業と何ら変わりのない この科目は,図1の連続線上ではかなり左端に位 置することになるだろう。

以上から明らかなように,EFLプログラムの デザインは,CLTの考え方を背景としている。

教員が中心となって知識を伝達し,学生がそれを 記憶していくというかたちではなく,教員と学生 のあいだの,そして学生と学生のあいだのコミュ ニケイションを通じて,立体的に意味が構築され ていく過程をこそ,英語教育と呼んでいる。さら に,必修科目を経てなお前進を望む学生に対して は,難解なテキストの「分析」を課すのではなく,

より徹底したCBIを通じての「経験」の機会を 設けている。ここで目指されるのは「『英語を学 ぶ』から『英語で学ぶ』というパラダイムの転換」

(高桑2004:54),すなわち言語をよりコミュニ カティヴなものとして用いるスキルの研鑽である。

もちろん,すべての学生がこの軌跡をたどる必要 はない。コミュニケイションを軸に英語の基礎を 導入しなおす必修科目を「入り口」としたうえで,

そこからどこを「出口」とするかは個々の学生の 興味と意欲に任せられている。その点においても また,学生の主体性を重んじる構成だということ ができるだろう。

意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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6 .Ⅰ群科目の孕む問題 CBI の実践として

さて,明治学院大学で学ぶ学生にとってはもっ とも高レヴェルな英語科目として位置づけられて いるⅠ群科目だが,その理念上の特質と実際の教 室で起きることのあいだには,やはり齟齬がある ことを述べておかなければならない。その起因す るところのひとつとして,Ⅰ群科目に付されたふ たつの 必ずしも互いに親和的とはかぎらない 意味がある。EFLプログラムはこの科目を あくまでも英語科目として位置づけ,「学習者が,

自らの運用能力に限界がある言語を通じて新しい 概念や概念的スキルを身につけようとする」

(WescheandSkehan2002:220)というCBIの 定義に合致するものと見なす。いっぽう留学生プ ログラムにおいては,これらは留学生たちが自国 にいるときと同様の通常授業に他ならず,特に英 語圏の学生にとっては言語の問題が意識されるこ とはない。「言語」のためのⅠ群科目と「内容」

のためのⅠ群科目というふたつの側面があるとい うことになる。

図1に立ち返ろう。Ⅰ群科目はこの連続線上の 左端,「完全没入」の方法論をとるようにみえる。

ここでの目的は「内容」の習得であり,教員も学 生も「言語」に関する責任を負わず,日本人学生 の英語力が向上したとしてもそれは「おまけ」に 過ぎないということになる。しかしこの理念的前 提は,Ⅰ群科目を履修する日本人学生のニーズか ら大きく隔たっていると言わざるをえない。彼ら 彼女らは,たとえば夏目漱石や谷崎潤一郎の文学 作品を高校生のときに既に読み学んだかもしれな いし,ジェンダー研究で必ず話題にされる「専業 主婦と兼業主婦」とか「総合職と一般職」とかに

ついても常識として知っているかもしれない。つ まり,日本人学生にとってⅠ群科目は「内容」の レヴェルよりも「言語」のレヴェルで挑戦を迫ら れるものなのである。そのとき「言語」にまったく 関心の払われない授業運営や評価の方法は,彼ら 彼女らにとって望ましいものだといえるだろうか。

それでも学生の英語力が留学生に交じって意思 疎通がとれるレヴェルであればよいが,自分の意 見を言おうとしているうちに話題が変わってしまっ てついていけない,さらには教員やクラスメイト が何を言っているかわからない,という段階にあ る学生のニーズを満たすことはさらに困難となる。

そうした学生は,より「シェルター式」あるいは

「テーマ・ベース」に近いかたちのCBIで,あく までも第二言語話者を対象としたかたちでレヴェ ル調節の施された授業に留まるしかない。そう考 えてくると,図2で示した「英語研究」と「Ⅰ群 科目」のあいだの移行は,それほどに容易なもの ではなくなるだろう。

さらに重要なのが,評価の問題である。Ⅰ群科 目を純粋な「内容重視」のクラスと考えれば,た とえ言語的にはネイティヴ・スピーカーには及ば ない学生でも「内容」の理解ができていればよい,

ということになる。しかし,先述のように,日本 人学生にとってはその「内容」が既習あるいは既 知の事項であることは少なくない。また,たとえ ば日本の近代小説を読む授業であれば,試験では 各作品を正しく要約したりその内容を分析したり することが求められるし,また,ジェンダー研究 の授業では自身の経験や意見を学術的な術語を用 いて表現することが求められる。このとき彼ら彼 女らは,たとえ完璧に「内容」がわかっていたと してもそれを教員に伝えるための「言語」に不足 が生じざるを得ない。ネイティヴ・スピーカーよ りも言ったり書いたりするのに長い時間を費やす 意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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ことになるだろうし,それでもすべてを表しきれ るとは限らない。教員の側は,その不足が「内容」

と「言語」のどちらに起因するものかを測らなけ ればならないが,しかし,第一にそれはきわめて 困難な作業だし,第二にそれができたとして,今 度は英語の母語話者と非母語話者のあいだにダブ ル・スタンダードを設けることとなる。それがネ イティヴ・スピーカーらに不公平感をもたらすと いう新たな問題が生じてしまう。

そして最後に,週に90分のⅠ群科目の授業で 得たものが,日本人学生にどれほどの英語力向上 とその維持を可能とするかも疑問の残るところで ある。CBIが強調するインプットの重要性を鑑み ると,授業外でなされる準備や課題においても大 量の英語にさらされることが理想的だろう。しか しこれが学生にとっては多くの履修科目のうちの ひとつである以上,やはり「没入」の度合いは低 くならざるをえないのも事実だろう。英語科目と してのⅠ群科目には,矛盾とともに多くの困難が 孕まれている。

7 .終わりに 今後の課題

言語はコミュニケイションの道具でなければな らない こうした言い方が,日本の伝統的な英 語教育への批判として,そして現代的ニーズの現 れとして,繰り返されるようになって久しい。以 上で検討してきたCLTもまたその問題意識を共 有し,対象言語を運用するなかで習得することを 目指すものであった。なかでもCBIの方法論は,

コミュニケイションにおいて交わされる「内容」

を,「言語」よりもあるいはそれと同等に重要視 し,具体的実質的な理解による言語習得をもたら そうとする点で,有益な方向性をみせた。

しかし本論文では,その適用にかんする実際的

困難についても論じてきた。第一に,日本の教育 現場の現状は, 研究者や政府がおもうよりも CLTから隔たっている。第二に,EFL環境にお ける効果的なCBIの導入のためには,ただ英語 環境に学生を放りこむだけではなく様ざまな工夫 と配慮が必要となる。本学のⅠ群科目を例にとっ て論じたように,その実施される状況によっては,

その理念は妥協や挫折を迫られることも少なくな い。また,CBIが前提として置く「言語」と「内 容」の区別が,実践の場においてはそれほど明確 ではないという点も重要だ。言語はコミュニケイ ションの「道具」であると同時に,そのあり方を 規定するものでもあるから。

しかしながら,CBIをそのように批判するだけ では性急にすぎるだろう。そのエッセンスを確認 したうえで柔軟に活用することができるはずだ。

FrancisMangubhai(2005)は,たとえ初級か ら中級レヴェルの学習者に対してでも,質問の組 み立て方や学生の解答への反応のし方によって,

意味内容を強調する外国語学習環境をつくりだす ことはできる,と言う。だとすれば,EFLプロ グラムの「英語コミュニケーション1」にもまた CBIの要素を含ませることは可能であり,そして,

より意識的にⅠ群科目にCBIを導入することも できるはずだ。そうすることで「積み上げ構造」

の根幹により一貫した軸をもたらすことができる だろう。

本論文は,EFLプログラムのさらなる発展を 目指すプロジェクトの端緒となるものである。今 後は,実際に各科目を担当する教員と履修する学 生へのインタヴューを通じ,より具体的な事例の 収集と分析にあたる。その成果をフィードバック することで現状の把握と改善を図ると同時に,

CLTやCBIの分野における理論的貢献も目指し ていきたい。

意味内容にもとづく言語習得の可能性:コミュニカティヴな英語教育のために

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参照

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