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雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

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空海『秘蔵宝鑰』を読む ―十の心の段階に合わせ た教えとしての体系的仏教理解

著者 吉村 均

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 10

号 1

ページ 1‑21

発行年 2016‑03‑25

その他のタイトル On Kukai's Hizo Hoyaku (The Precious Key to the Secret Treasury): The systematic

understanding of Buddhism in the Ten Stages of Mind

URL http://hdl.handle.net/10723/2726

(2)

はじめに近代仏教学と伝統仏教

すでに指摘があるように、今の日本の仏教の説明は、伝統的なもの

とは基本発想が違ったものになってしまっている (1)。近代的な仏教研究

は、明治にはいって多くの学問が西洋からはいった際に、ヨーロッパ

の研究を取り入れるところからはじまった。今のようにアジアとの行

き来が容易ではなく、当時のヨーロッパの研究は経典を蒐集して持ち

帰って翻訳、研究する、文献中心のもので、何が書いてあるかは理解

できても、その根底にある仏教の発想、彼らの宗教であるキリスト教

やユダヤ教とどう違うのかはよく理解されていなかった。それが学問

的な仏教の捉え方とされ、さらに日本仏教の各宗派も近代的な大学を

つくってそこで僧侶の養成をおこなうようになったため、明治以前と

今では、基本発想の部分がまったくといっていいほど違ってしまって いるのである (2)

西洋の一神教は、神が世界を創造し、その創造主の命に従うことを

基本発想としている。宗教は教義によってなりたち、教えに従うこと

が求められる。それに対して仏教は、伝統的な説明では古代インドの

王国のひとつ(現在はネパール領)の王子だった釈尊が地位や家族を

捨てて修行の道にはいり、さとりを開いて仏陀になったという。釈尊

がさとったのは苦しみの真の原因であり、仏陀は苦しみから完全に解

放された存在である。仏教徒とは、釈尊の発見した方法で自分も苦し

みから解放されることを望む者で、その基本発想は医学にたとえられ

る(阿含経典『良医経』ほか)。創造主の命令に従うことと、病気を

治すために医師の指示に従うことでは、同じ実践でもまったく意味が

違う。仏教には膨大な経典があり、異なる内容が説かれているが、それは

伝統的には対機説法、相手に合わせて異なる教えが説かれたことで説

吉村 均 空海『秘蔵宝鑰』を読む

十の心の段階に合わせた教えとしての体系的仏教理解

(3)

明されてきた。それに対し、近代的研究においては、それぞれが時代・

成立の異なる別の思想と見なされ、釈尊その人の教えからの変質ない

し展開、他思想の混入として捉えられた (3)

伝統的な言い方では言葉は「月を指す指」であり、言葉を通じて言

葉を超えたさとりの境地を理解、体験することが目指され、理解のた

めには、すでに理解を得ている師の指導と、自ら実践することが不可

欠とされていた。近代的な日本仏教の思想的研究の道を開いたと評さ

れる論文「沙門道元」で和辻哲郎は、ではなぜ道元は多くの著作を残

したのか、書かれたものである以上読んで理解することが可能である

と、伝統的な理解のあり方を否定している (4)

乱暴に言えば、富士山を異なる角度から撮った写真を、同じ富士山

を撮ったものと理解するのが伝統仏教で、別々の写真として捉えるの

が近代的理解である。日本の寺院では伝統的に、各宗派の固有の教え

のほかに、共通の仏教学として倶舎・唯識などが学ばれ、その理解に

は「桃栗三年、柿八年」をもじって「唯識三年、倶舎八年」と言われ

るように、長い年月がかかるとされていた。それは単に理解すべき内

容が膨大・複雑だからではなく、異なる複数の平面図から立体的な全

体像を理解するような理解の仕方が必要とされたためである。

言葉を思想として捉える近代的な研究では、専修を説く鎌倉仏教、

なかでも他力の信を説く親鸞の教えこそが一神教の救済信仰に近いも

のとして高く評価され、密教は呪術的な低い段階のものと見なされが

ちだった (5)。空海の教えについて、ヘーゲル思想に比される体系性 (6)、比

較思想の先駆的存在 (7)などと高く評価する声もあったが、印象論にとど まり、それに基づいて主著である『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』を読み解くには至らなかった。宗派の内部の研究者による、近代以前の伝統的解釈を踏まえた註釈、解説も存在するが (8)、そこでは異な

る視点からの教えがひとつの仏教をなすことが自明の前提となってい

る。それに対して近代的な仏教理解では、それらは別々の思想であり、

それをひとつの仏教と見ることは、非学問的な信仰の立場、あるいは

せいぜい他派に対して自らが持ち帰った密教の優位性を説いたもの程

度の認識にとどまることになる。実際には異なる観点からの教えが空

海の仏教理解のなかでどう関連しているのか、あるいは関連していな

いのかは、少なくとも宗派の外の人間にはよくわからないままだった。

このような状況を打破する手がかりになると筆者には感じられたの

が、高野山大学の学長をつとめた生井智紹師による研究 である。十住

心の分類は密教経典である『大日経』住心品およびその註釈書『大日

経疏

』に基づくが、それと並んで重視されているのがナーガールジュ

ナ(真言宗では龍猛という新訳を用いる)の著とされる『菩提心論』

で、『秘蔵宝鑰』では、『大日経』『大日経疏』と並んで典拠として引

用されているほか、密教を説く第十住心は全篇ほぼすべてがその引用

文から成り立っている。チベットに類似したナーガールジュナ『菩提

心釈

』などが伝わっていることは以前から知られていたが、生井師は

それらが『大日経』の菩提心句の解釈という形で仏教の諸学派倶

舎・唯識・中観などの教えを段階的に位置づける、同系統の階梯的な

菩提心修習次第書であることを明らかにしたのである。

空海が授かった密教の系譜は、大日如来―金剛薩

―龍猛―龍智―

(4)

金剛智―不空―恵果―空海と伝わったとされている(付法の八祖)。

人間ではない大日如来と金剛薩

を除き、『大日経』とその解釈を伝

えた善無畏と一行を加えたのが、空海がまつった七人に空海自身を加

えた真言八祖である。僧侶が倶舎、唯識・中観などを学ぶのはインド

のナーランダー僧院に由来するもので、空海『付法伝』には、金剛智

がナーランダーで中観を学んだことが記され、また(それをどう理解

するかはともかくとして)中国を訪れていたインド僧やバラモンから

聞いた話として、龍智(ナーガボーディ)が数百歳で今なお存命で南

インドで教えを説いているという説が紹介されている

。空海は恵果の

許を訪れる前、インド出身の般若や牟尼師利からサンスクリットなど

を学んでいる。『菩提心論』の訳者の不空はインドやスリランカを訪

れており、空海の師である恵果の直接の師である。当時はまだインド

で仏教が生きており、空海は中国で、インドからチベットに伝わった

のと同様の、倶舎・唯識・中観などを階梯的に理解し

、密教の実践を

それと表裏一体なものとして捉える仏教理解

に接していたのである。

チベットでは(インドやネパールなどの亡命先に再建された寺院も含

めて)そのような伝統が今なお生きている

また、加藤純隆・精一訳『空海「秘蔵宝鑰

」』は、空海自身は言葉

として説いていないが伝統的に受け継がれてきた実践ではおこなわれ

てきたことについて、説明的に言葉を補って現代語訳を行なっており、

宗派の外の人間である筆者の理解の助けになった(本稿の引用では読

み下し文のあとにその現代語訳を添えてある)。

本稿では、外の価値観を当てはめるのではなく、内在的にテキスト の文脈を読み解く倫理思想史の方法

を用い、十住心それぞれの関連性

に留意して『秘蔵宝鑰』を読み解いていく。空海の中心思想と見なさ

れている第十住心で説かれている密教の実践については具体的に扱わ

ないが、それは内容が『菩提心論』の長文の引用であるうえ、空海自

身が『秘蔵宝鑰』の中で、灌頂を受けていない者に解説することを禁

じているためである 。しかし本稿によって、なぜ密教が秘密の教えな

のか、言いかえると、灌頂の体験のない者が言葉によって理解するこ

とが不可能な教えとされているのかは、理解できると思う。

結論を先取りして言うと、仏教では苦しみの原因を我執、自分と自

分が捉える対象の実体視に求める。それは根拠のない習慣性でしかな

いので、実践によって変えることが可能である。しかし、それは単な

る思想信条ではなく、今この瞬間も不断に私たちの心がおこなってい

る、対象を捉える働きそのものに関わっているため、仏がなくしてあ

げることはできず、一人一人が実践することによって心を変えていく

ほかない。それが修行である。しかしそれはその人自身が行なわなけ

ればならないものであるため、本人に動機づけ、それをおこなう必然

性が自覚されていなければ、修行法を説いたとしても、実行されるこ

とはない。しかも、自分と自分が捉える対象の実体視は、大半の人に

とっては疑うことすらない「現実」で、それが苦しみの原因であると

か、それを変えなければならないものとは考えられていない。相手に

合わせて異なる教えが説かれたのはそのためで、その人その人に理解

可能な目標設定をし、心を訓練していくことで、次の段階の目標設定

が理解、実践できるようになる。これが『秘蔵宝鑰』から読み取るこ

(5)

とのできる、空海の仏教理解である。

一伝統仏教の概観

伝統仏教は釈尊のさとりから始まるが、アジアのさまざまな地域に

伝わる伝統で共通して釈尊のさとりの際の出来事として伝えているも

のに、梵天勧請の故事がある。さとりを開いた釈尊は、自分がさとっ

た内容は他の人には理解できず、喜ばれないため、教えを説くのはや

めておこうと考え、そこにインドの神ブラフマン(梵天)が現われて、

人々のために教えを説くことを請い、考えを改めて教えが説かれるこ

とになったという。

これは伝統的な仏教理解において、さとりというものをどのような

ものかを考えるうえで、きわめて重要な意味を持つ。大乗仏教を確立

した古代インドの高僧ナーガールジュナ(龍樹)は『中論』二四章で、

仏教の教えは二つの真理(二諦)―相対的な真理(世俗諦)と究極の

真理(勝義諦)から成り立っており、そのわかりにくさが教えをため

らった原因だと説いている。

「二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろの仏陀の法(教え)

の説示〔がなされている〕。世間の理解としての真理(世俗諦)

と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。およそ、

これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、

仏陀の教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。〔世間の〕 言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、涅槃は証得されない。誤って見られた空であること(空性)は、智慧の鈍いものを破滅させる。あたかも、誤って捕えられた蛇、あるいはまた、誤ってなされる呪術のように。それゆえ、鈍い者たちには、法が体得され難いことを慮って、法を説示しようとする、牟尼の心は、押しとどめられた

。」

相対的な真理とは、言葉による認識の世界で妥当する真理で、それ

に対して究極の真理は、言葉を越えた境地である。言葉を超えた境地

を指し示すためには言葉を用いるほかないが、苦しみから解放される

ためには、その言葉を理解するのではなく、言葉を超えた境地に到達

する必要がある。この通常とは異なる言葉の用い方を理解していない

と誤解に陥る危険があるため、さとりを開いた釈尊は教えを説くこと

をためらった、というのである。

二つの真理は、仏教が瞑想をおこなうことと対応している。深い瞑

想の境地において体験されるのが究極の真理であり、相対的な真理は

瞑想をしていない、意識が対象を捉えている世界において成り立つ真

理である。インドのシャーンティデーヴァは、智慧が主題の『入菩薩

行論』九章で次のように述べている。

「世俗と勝義、これらは二諦として認められる。勝義は意の対象

ではない。意は世俗であると言われる。それには二種類の世間が

見られる。瑜伽行者と普通の人である。それに関して、普通の人

(6)

の世間は、瑜伽行者の世間によって否定され、行瑜伽者も、優れ

た者それぞれが優れた意によって否定する。…世間の人は、もの

ごとを見て「真実である」と分析し、幻のようだとは見なさない。

ここに、瑜伽行者と世間の人との論争がある

。」

「勝義は意の対象ではない」とは、究極の真理は言葉や対象認識に

よって捉えられるものではないことを表わしている。それは深い瞑想

の境地によって体験されるもので、空とかさとりというのは、何かそ

の言葉に見合った内実があるわけではない。真言宗では阿字本不生と

いうが、ア

とは、サンスクリットの否定辞である。今の私たちは意

識が対象を捉え、意識が捉えている対象が「ある」と思い込んでいる

が、そうではない、と気づくことが、ア

の意味である。

瞑想中に言葉を超えた境地を体験しても、瞑想を終えれば意識はふ

たたび対象を捉えるが、その際、瞑想中に空を体験していると、意識

が対象を捉えても実体としては映らなくなるといわれている。経典で

幻とか夢、水泡、蜃気楼といった比喩で説かれているのはそのことを

指している。

そのようにして瞑想中と瞑想後を行き来しながら修行をすすめてい

き、修行が完成した仏陀の境地においては、瞑想中と瞑想後の差がまっ

たくなくなる、といわれている。そのことを表わしているのが、『般

若心経』の「色即是空、空是即色」である。

『般若心経』には短いもの(小本)と少し長いもの(大本)の二種

類があり、サンスクリットテキスト、漢訳ともに両者が存在している。 日本でよく知られている「観自在菩薩……」で始まるものは小本で、大本は「如是我聞……(このように私は聞いた)」ではじまる経典の

体裁が整ったもので、小本の内容の前後に状況説明がある。チベット

大蔵経にはインド僧による『般若心経』の註釈書がいくつか翻訳され

収録されているが、いずれも大本に対するものである。敦煌から小本

のチベット語訳が見つかっており、かつては両者が存在したが、現在

は、読誦、解説ともに大本を用いている。

大本によれば、釈尊はインドの霊鷲山で瞑想中で、その境地を観自

在菩薩(観音さま)が理解し、舎利子(シャーリプトラ。釈尊の高弟。

舎利弗とも)に説明しているのが、小本で説かれている内容である。

「色」(形)を捉えているのは瞑想していない時で、「空」を体験する

のは深い瞑想中においてだが、それは捉える側の心のあり方の違いで

あって、別々のものではない。さとりの境地は実際には言葉で表わす

ことができないもので、「羯諦羯諦……」という陀羅尼によって表わ

されて小本は終わるが、その後、大本では、瞑想を終えた釈尊が、

「善哉、善哉」と観自在菩薩の説明をほめたたえ、その通りであると

承認し、聴衆が喜んだことが記されて、経典は終わる。釈尊は二人の

会話をすべて聞いていたのであり、それは修行中であれば、瞑想に集

中できず散乱していたことになるが、仏陀は深い瞑想の境地にありな

がら、同時に外でおこっている出来事を知ることができるのであり、

『般若心経』は釈尊が一切智者であることを示している

このようなものが伝統的な仏教理解で、この境地に人々を導くため

に様々な教えが説かれ、インド、中国から伝わった教えを、十の心の

(7)

段階に対応するものとして体系化したのが、空海の十住心である。

二空海とその十住心・第一~第三まで

空海(七七四~八三五)は真言宗の開祖で、若き日に厳しい山林修

行を行ない、留学僧として唐に渡り、恵果阿闍梨から胎蔵(『大日経』)・

金剛界(『金剛頂経』)両部の灌頂を授かり、体系的な密教の教えをも

たらした。弘法大師の諡号を贈られ、「お大師さま」として今も盛ん

に信仰されている。

十住心については、主著の『秘密曼荼羅十住心論』のほか、その内

容を踏まえて略述した『秘蔵宝鑰

』で説かれている。十住心それぞれ

の名称と内容は、以下の通りである。

・第一異生羝羊心(自分の欲望のままに振舞う凡夫の心)

・第二愚童持斎心(世俗道徳を守る凡夫の心)

・第三嬰童無畏心(輪廻を厭い天界の安楽を望む凡夫の心)

・第四唯蘊無我心(五蘊などの諸法のみ実在し、我は実体ではな

いと理解する声聞の心)

・第五抜業因種心(十二支縁起を観じて自分のみの解脱を果たす

独覚の心)

・第六他縁大乗心(対境は実在せず心のみあると悟り、衆生のた

めに利他をなす唯識の心)

・第七覚心不生心(不生を悟る中観の心)

・第八如実一道心(三乗が一乗に帰すと悟り主客が融合する法華 の心)・第九極無自性心(あらゆる微細なものにも自性はないことを悟

る華厳の心)

・第十秘密荘厳心(すべての徳を兼ね備えた密教の心)

十住心の体系は、欲望のままに振舞い悪をなす第一異生羝羊心には

じまり、悪をやめ善をなす世俗道徳の教えに相当する第二愚童持斎心、

天界の安楽を願う第三嬰童無畏心を経て、仏教固有の段階にはいって

いく。第二愚童持斎心と第三嬰童無畏心に相当する教えは、経典では

阿含経典で主に在家の者に対する教えとして説かれているもので(人

天乗)、それぞれ中国では儒教と道教に相当する教えとされている

第四以降の仏教固有の教えは、伝統的に三乗(声聞乗・独覚乗・菩

薩乗)とされているもので、僧院教育では、前二者に相当する内容が

『倶舎論』、菩薩乗に相当する内容が唯識と中観(中国では三論宗)と

して学ばれる。経典では、前二者の内容が阿含経典の主に出家に対す

る教えとして、後者は大乗経典で説かれている。中国で『法華経』に

基づく天台宗、『華厳経』に基づく華厳宗が草創され、論宗に対する

経宗の優越が主張されたが、十住心では、それらが第八如実一道心・

第九極無自性心として位置づけられ、最後の第十秘密荘厳心として、

密教(真言乗)の教えがおかれている。

伝統的な説明でも、釈尊は一律の教えを説いたのではなく、相手に

合わせて異なる教えが説かれた(対機説法)とされているが、空海は

『秘蔵宝鑰』で、なぜヒンドゥー教の教えと共通する天界の安楽を目

指す教えが仏陀によって説かれたのかについて、問答形式で次のよう

(8)

に説いている。

「問う、若し是れ仏説ならば、宜しく直ちに仏乗等を説くべし。

何ぞ天乗等を説くことを用いるや、と。機根契当の故に。余の薬

は益なきが故に。」(問う、もしこれらの生天の教えも仏説というなら

ば、仏教は仏乗を説けばよいのですから、なぜそんな必要があるのでしょ

うか。答う、人それぞれに能力が違っているわけで、その人たちには、

こうした生天の教えが合っていたからです。たとえ、その外の教えを伝

えても結局、役に立たないのです。)

教義によって成り立っている一神教の発想で経典の教えを捉える近

代的研究では、仏教に相異なる教えが存在するのは、様々な教えが仏

教にとりこまれた結果と解釈するのだが、伝統的な説明で、衆生の心

のあり方に合わせて異なる教えが説かれたと説明することは、釈尊が

発見した苦しみの真の原因が何であるかということと密接に関連して

いる。第一異生羝羊心は、欲望のままに振舞う凡夫の心だが、なぜ彼らが

悪をなすのかについて、『秘蔵宝鑰』は次のように説明している。

「空華眼を眩 くるめかし、亀毛情を迷わして、実我に謬着し、酔心封執 す。渇鹿・野馬塵郷に奔 はしり、狂象・跳

識都に蕩かるが如きに至っ とら

ては、遂使じて十悪心に快うして日夜に作り、六度耳に逆うて心

に入れず。人を謗し法を謗して、焼種の辜 つみを顧みず。酒に耽り色 に耽って、誰れか後身の報を覚らん。」(眼病をわずらっている人の

目には、実在には存在していない華が空中に見えたり、あるいは、水に

つかっている亀を見て、苔や藻がついているのを見て、ふさふさとした

毛がはえていると錯覚することがありますが、恰度 ちょうどそのように、人々は、

実我という固定した霊魂(自我)が実際に存在しているものと錯覚して

それにこだわり、その自我に執われてしまいながら生活しています。彼

らは、喉の渇いた鹿や馬が水を求めて走りまわるように、象があばれ狂っ

たり、猿が飛び廻るように、本能のまま、欲望のおもむくままに行動し

ているのです。こうしてあらゆる悪事にしたしんでゆき、人のための善

行など少しも考えないのです。他人の悪口をいい、法をののしって、そ

のことが仏となる種子を焼きほろぼしてしまう重大な罪であることを考

えてもみないのです。酒におぼれ、愛欲にふける毎日を過ごしています

から、後の世に応報 むくいを受けることなど気づくわけはありません。)

空華(白内障で眼の水晶体が濁り、実際には存在しないもや状のも

のが見えること)や亀毛は、実際には存在しないものを存在するもの

と思い込むたとえとして、仏教で用いられているものである。仏教で

は、ここで空海が説いているように、「我」を実体視することが苦し

みの真の原因で、私たちが殺人や盗みなど、様々な悪をなす原因も、

この誤った実体視にあると考えている。

私たちは対象をそのままの形で認識することはできず、五感が捉え

た情報を他と区別し、いいもの/わるいものなどと概念的に把握す

る。私たちの心にはそうやって区別したものがありありと映るため、

(9)

いいものと捉えれば、欲しいという欲望が反射的に沸き起こり、わ

るいものと対象を捉えれば、嫌だ、なくなってほしいという嫌悪の

気持ちが沸き起こり、それらを満たすことが苦しみをなくし、幸せを

得る道だと誤って考えてしまう。

しかし、それらは実体ではないので、実際には欲しいけれど手に入

らない、嫌だけれどなくすことができないことで、逆に苦しみを増や

してしまううえ(仏教の説く四苦八句の、求不得苦や怨憎会苦に相当)、

仮に思い通り手に入れる・なくすことができたとしても、今度は別の

ものを、心は欲しいもの/嫌なものとして捉えてしまう。私たちが

普通疑っていない、自分が捉えたとおりの対象物が実在すると思うこ

とが、苦しみの真の原因で、欲しいものを追いかけ続ける限り、いつ

まで行ってもこれで終わりということはなく、実体視から解放されな

い限りは苦しみからの解放はない、というのが仏教の考えである。

悪をなす人は、欲しいものを手にいれるもっとも手っ取り早い手段

として盗みをなし、嫌な人間を排除するためにその人を殺してしまう。

悪をなす人も、主観的には苦しみをなくし幸せを得るために悪をなし

ているのであり、結果として自分自身も苦しみに陥っている。

第一異生羝羊心の「異生」や第二の「愚童」、第三の「嬰童」は、

いずれも仏教のいう「凡夫」の別名である。凡夫とは、私が実在し、

私が捉えている通りの世界が実在することを疑わない、私たち「普通

の人」のことである。

この実体視こそが苦しみの真の原因であることを理解し、それから

解放されることを目指すのが仏教の苦しみからの解放の道だが、その ためには実際に自分の心の捉え方を変えていく必要がある。

仮に仏教を信仰したとしても、多くの場合、心にいいもの/わるい

ものがありありと映っていることは変わらない。そのため、まずは実

体視を前提として、欲しいけれど盗まない、嫌な奴だけど殺さない、

と自分の強い感情(煩悩)に引きずられることを抑えることから、仏

教の実践ははじまる。これは病気の治療でいえば、症状を抑える段階

に相当する。

自分の心の認識のメカニズムに苦しみの真の原因がある以上、単に

教えを信じるだけでは苦しみから解放されず、それぞれの心のあり方

に合わせて教えが説かれ、それを理解し心を変えるよう訓練すること

によって、次第に苦しみが減ってくる。医師は診断し薬を処方するこ

とはできるが、患者自身が薬を飲まなければ病気が治ることはない、

これが伝統的な仏教の考え方と実践法である。

「大覚の慈父此れを観て何ぞ黙したまわん。是の故に種種の薬を

設けて種種の迷いを指さす。意 こころこれに在るか。」(すべてを覚られ

た、慈父の如き如来が、このような人間の生活を見て、どうして黙って

おられましょう。そこで種々の教えを用意されて、それぞれの人を救済

しようと思われたのです。世の中に多くの教えがあるのはそのためなの

であります。)

「孝慈心に切なり。教えに非ずんば何ぞ済 すくわん。薬を投ずること

此に在り、服せずんば何ぞ療せん。徒らに論じ徒らに誦すれば、

(10)

医王呵叱したもう。」(慈しみぶかい如来のお心は切なるものがありま

す。しかし、教えをもって彼らを救う以外に方法は無いのです。種々の

教えを並べているのはこのためなのです。しかし、いくら薬がいろいろ

あっても、それを服用せずにいたずらに議論したり、いたずらに諷誦 そらよみ

たりなどして時を無駄に過ごしているならば、如来は必ずこれをお叱り

になります。)

第二愚童持斎心では、欲望のままに悪をなしていた心に、何かのきっ

かけでいいことをしようという心が生じる。それに慣れていくと、そ

れまでとは反対に、悪を見ると目をそむけ、すばらしい行ないの人を

見ると、到底及ばないと自己を恥じる気持ちが生じてくる。

「……本覚内に薫じ、仏光外に射して、

爾に節食し数数に檀那 こつ

す。牙・種・疱・葉の善相続して生じ、敷花・結実の心探湯・不

及なり。」(自分の本性として持っている菩提 ほとけごころがおのずから内心に育っ

て行って、さらに仏の光が外から照らして加護してくれれば、本能のま

まの心にも、突然に、節食してそのあまりの食料を他の人々に施したい

という心が生じてくるのです。私たちの善心の種は『大日経疏』に記さ

れているように、まず芽を出し、次にふくらんで、やがて葉を繁らせ、

善心は次第に成長して、華をひらき、実を結ぶようになります。そして

悪事を見ては、熱湯に手を触れた時のように急いで離れるようになりま

すし、善事を見ては、ああ私などとても及ばない、と深く反省するよう

にもなっていきます。) いいことも、悪いことも、慣れによるもので、悪いことをやりがちでいいことをおこなうのが億劫なのは、それまで悪いことに慣れてきたからで、いいことに慣れるよう心を訓練していけば、心は変わっていくのであり、今の私たちにとっては到底実感を持って捉えることができない無我や空も、そうやって心を慣らしていくことによって実感できるものになっていく。これが仏教の実践の基本的な発想である

そうやって心が慣れてくると、この世界のよりも遥かにすばらしい

天界の存在を聞くと、それに憧れ、そこを目指して修行しようという

心が生じる(第三嬰童無畏心)。

自分自身が心を変えていく必要があるため、自分にその動機がなけ

れば修行をつづけることは困難で、そのために教えが段階的に説かれ

るのである。

しかし、そうやって憧れた天界の安楽も永遠のものではない。それ

を理解することによって、輪廻の中にいる限り永続的な幸せはなく、

その根本である「私」の実体視を断ち切らなければならない、という

動機づけが、修行者に生じる。

「然りと雖も、道究竟に非ざるが故に、生死を出でて涅槃を得る

こと能わず。上非想を射すれども、還って地獄に墜つること、譬

えば箭を虚空に射るに、力尽きて即ち下るが如し。」(しかしなが

ら、この人々の道は究極のものではないのです。生死の迷いの世界を脱

出して悟りの涅槃を得ることはできないのです。上に向かって登っていっ

て、最高の非想非非想処に進んでいくのですが、後にはまた地獄へも墜

(11)

ちることになるのです。考えてみれば、矢を空に向けて射ると、はじめ

は高く上りますが、やがて上昇力を失って下へ落ちてくるのと同じです。)

三仏教固有の教え(第四以降)

私たちがありありと感じている私や私の捉える世界が実体ではない

ということは、単に無我や空を信仰して理解できるものではなく、自

分が実体視している「私」が本当にあるかどうか、自分で調べて納得

する必要がある。伝統的説明では阿含経典は、釈尊の入滅後、教えを

受けた弟子が集まって編纂したものとされているが、そこでこの段階

の教えが比丘や比丘尼といった出家者に向けた教えとされているのは、

集中して考え理解することが、家族を持ち生活のために働きながら仏

教を信仰する在家者には困難だからである。

空海は、阿含経典のみならず大乗経典も仏説と認める、いわゆる大

乗の流れに属しているが、『秘蔵宝鑰』で、仏教固有の教えを、仏陀

の三身の教えとして整理している。

「大いに之を論ずるに二種あり。一つには顕教の法、二つには密

教の法なり。顕教の中に又二つ。言わく、一乗・三乗別なるが故

に。一乗とは如来の他受用身十地より初地に至るまでに現じたま

う所の報身所説の一乗の法、是れなり。三乗とは応化の釈迦二乗

及び地前の菩薩等の為めに説きたまう所の経、是れなり。密教と

は自性法身大毘盧遮那如来自眷族と与 ともに、自受法楽の故に説きた もう所の法是れなり。所謂る真言乗とは是れなり。」(大きく分け

て二種類あります。一つには顕教の法であり、二つには密教の法です。

この顕教の中にまた二つあります。一乗の教えと三乗の教えです。一乗

教というのは次のようです。如来の他受用身(他の者を導くお姿)が第

十地の菩薩から初地の菩薩までを教化するために現れたもので、この報

身の仏がお説きになった教えを指します。また三乗教というのは、応化

身である釈迦牟尼仏が二乗(声聞と縁覚)と及び初地以前の菩薩等のた

めにお説きになった教法のことです。これらに対して密教とは、自性法

身である大日如来がお説きになった教えです。この如来が御自分の眷属 みうち

とご一緒に、自受法楽のために(御自分の法楽のために)説かれた教え

なのです。いわゆる真言乗(真言密教)がこれです。)

この、仏身を法身・報身(応身とも)・化身の三身に分類するのは、

大乗仏教の分類法である

。仏身と教え、住心の関係を整理すると、次

のようになる。

・化身の仏の教え

三乗

声聞乗(第四)・独覚乗(第五)・菩薩乗

(第六・第七)

・報身の仏の教え

一乗

法華経(第八)・華厳経(第九)

・法身の仏の教え

真言乗(第十)

法身とは、形のない仏陀のさとりそのもののことを言う。報身は修

行の結果得られた仏陀の姿で、仏像に表わされる三十二相八十種好

(大小の体の特徴)を備えている。仏陀が形ある姿を必要とするのは、

利他をなすためだが、この修行によって得られた報身の姿は、実体視

(12)

に捉われた凡夫の目では見ることができない。歴史上の釈尊は、人々

の苦しみを救うために人間に合わせて姿を現わした化身として、大乗

の伝統では説明する。

その化身の仏陀の教えが、相手に合わせて説かれた三乗(声聞乗・

独覚乗・菩薩乗)で、十住心では、第四から第七までに相当する。

それらに対して三乗が一乗に帰すことを説く『法華経』と、釈尊が

人々に教えを説く前、ブッダガヤでのさとりの体験を描く『華厳経』

は、報身の仏陀の教えで、すでに空性を体験した、初地から十地に至

る聖者の菩薩たちのための教えとされている。

密教経典『大日経』は法身説法を説くが、言葉を超えたさとりの境

地を言葉を介さずダイレクトに伝えるのが、密教の教え(金剛乗)で

ある。それまでの教えが苦しみからの解放のための、教育的配慮の教

えであるのに対して、密教は仏の境地を仏自身のために説いたもの

(自受法楽)で、密教の教えを伝える時、師も弟子も仏として教えを

伝え、受ける。密教が秘密の教えで相手を選ぶとされるのは、そのた

めである。

第四唯蘊無我心

第四唯蘊無我心で説かれているのは、アビダルマを集成した『倶

舎論』の教えである。

釈尊は阿含経典で、出家の弟子に対して、五蘊(色・受・想・行・

識。私たちが実体視している私と私の捉えた世界を、認識とリアクショ

ンの一連の過程として再構成したもの)や十二処(眼・耳・鼻・舌・ 身・意、色・声・香・味・触・法。感覚とその対象)、十八界(十二

処の感覚を、感覚器官とそこで働く心の働きに分けたもので、三×六=

十八となる)を挙げ、そのどこに「私」があるか探してみなさい、と

説いた。私たちは普通、「私」があることを疑っていないが、もし「色」(形。

人間でいえば身体が「色」に相当)が「私」だと答えれば、怪我や事

故で手や足を切断した時、「私」も減ってしまうことになる。私たち

は手や足を失っても、「私」が減ったとは考えていないから、「色」が

「私」ということは成り立たない。また「受」(感受)が「私」だとす

るならば、何も感じずボーっとしている時、たしかに「私」という意

識は存在していないが、ハッとした時、そこではじめて「私」が生じ

るわけではなく、ボーっとしている時もその前からもずっと「私」だっ

たと考えているので、これも当てはまらない。熟睡している時や気絶

を考えるなら、同様に、「想」「行」「識」が「私」であるということ

も成り立たない。

では、五蘊を離れた、現象世界とは無関係の抽象的な「私」がある

(インドの思想にはそのように唱える教えも存在する)のかというと、

もしそうであれば、「私」は疲れた、とか、「私」は年をとった、とい

うことができないことになってしまう。現象世界とは無関係の私は、

変化しないはずだからである。

……こうやって考えていくと、「私」が実在していることは疑いな

かったはずなのに、どこを探しても、これが「私」だというものを見

つけることができない。自分の思い込みがそうではなかったと、自分

(13)

自身が気づくことによって、無我の理解は果たされるのである

このような阿含経典の教えを理論化したアビダルマの集成が『倶舎

論』であり、そこで中心となっている説一切有部の説は、三世実有を

説くもので、五蘊などの諸法は過去・現在・未来を通して実在だが、

それが未来からやってきて、瞬間現在し、過去へと去っていく。その

ような映画のフィルムの一コマ一コマを連続した「私」という映画と

して見ているのが私たちであり、それを実体ではないことを理解する

のを理解するのが、さとりである

(ただし、著者のヴァスバンドゥ

(世親)は、経量部の立場から、説一切有部の説に批判を加えている)。

このような説明は、無我、空を理解する手段としては有効だが、

「私」の実体視からは解放できても、諸「法」の実体視は残ってしま

う。また、この段階では、苦しみからの解放の境地は、私たちの「現

実」の外に想定されている。

第五抜業因種心

第五抜業因種心で説かれているのは、十二支縁起を観じて輪廻か

らの解脱を果たす独覚の教えである。十二支縁起は、苦しみの原因で

ある無明(物事を正しく捉えることができないこと)から老死に代表

される私たちの感じる様々な苦しみが生じる過程を十二の段階で瞑想

するもので(順観

無明~行~識~名色~六処~触~受~愛~取~有

~生~老死)、原因を取り除けば症状が治まるので、これも十二の段

階で瞑想していく(逆観

無明尽~~老死尽)。

この十二支は、釈尊がさとったものではあるが、釈尊がさとろうと さとるまいと、苦しみのメカニズムとして変わることはないので、仏教の教えが存在しない時代においても、これを観じてさとりを開くことが、理論的には可能になる。そのようにしてさとるとされるのが独覚で、十二支縁起を観じてさとるので縁覚とも呼ばれる。

この十二支縁起の順観と逆観は、阿含経典でも説かれている重要な

教えだが、『倶舎論』では私たちの捉える世界(実際には当時のイン

ドの世界観。須弥山を中心に東西南北の大陸が取り囲み、須弥山の周

りを月と太陽が周っている。須弥山の上には神々の世界が広がる)と

その成り立ちを説く「世間品」のなかで、私たちの輪廻を説明するも

のとして、十二支縁起を前世・現世・来世の三世に渡るものとして説

明する解釈(三世両重)が説かれていて、苦しみを滅する方法として

は位置づけられていない。

それは十二支縁起では理論上、無明を滅すればあらゆる苦しみがす

べて滅してしまうことになり、段階的な修行階梯(知的理解に勤める

資糧位・準備な修行の段階である加行位・瞑想中に無我を体験する見

道位・さらに修行を深める修道位・苦しみから解放されてもはや実践

の必要のなくなった無学位)が成り立たなくなってしまうためで

『十住心論』では、『大日経疏』の所説を引用して

、苦しみをなくそう

という思いが先行して、苦しみの真の原因にまで十分至っていないの

が第四、苦しみの真の原因を突き止めてそれを滅するのが第五、とい

う位置づけがなされている。

(14)

第六他縁大乗心

第四・第五は人空法有の教えで、それに対して人法二空を説くのが、

第六他縁大乗心で説かれる唯識の教えで、そこでは『倶舎論』で説

かれている過去や未来のフィルムや映像が投影されるスクリーンを、

すべて心の中の出来事として説明する。

私たちは暗闇で縄を見て、蛇だと思って恐怖しているのだが(遍計

所執性)、しかし実際には縄をそう捉えているものであり(依他起性)、

それを理解することによって苦しみから解放される(円成実性)。唯

識では、この三性説を中心に、苦しみからの解放のプロセスを、心の

メカニズムの転変として説明する。

苦しみからの解放の境地は深い瞑想の中で体験されるもので(無分

別智)、瞑想を終えたときには対象を実体として捉えることがなくな

り(後得智)、私の苦しみと他の苦しみの違いはなくなるために、一

切衆生の苦しみを解放するために実践することが可能になる。

「無分の正智は真常の凾に等しく、後得の権悲は諸趣の類に遍ず。」

(無分別の正智は、真如という不変の対象を把握して、函の身と蓋のよう

にぴたりと一致いたします。その直後に続く大慈悲の活動は、あまねく

六趣のあらゆる世界に行きわたります。)

このことを理解して、自分一人の解脱ではなく、一切衆生を苦しみ

から解放するために仏陀の境地を目指すのが、第六住心以降の大乗の 教えである。

第七覚心不生心

第七覚心不生心は、『般若経』の空の教えを説くナーガールジュ

ナの『中論』に基づく中観の教えで、中国・日本では、ナーガールジュ

ナの著とされる『中論』と『十二門論』、およびナーガールジュナの

直弟子アールヤデーヴァ(提婆)の『百論』の三つのテキストに基づ

く三論宗として学ばれた。第四・第五・第六では苦しみからの解放を

目指す実践が説かれているが、苦しみからの解放というのは、それま

での実体視から解放されるということであり、輪廻の世界とは別にさ

とりの世界があるわけではない(輪廻と涅槃の無別)。「色即是空、空

即是空」であり、さとりは新たに生じるものではなく、滅するもので

もない(不生、不滅)。それを理解することが目指される。

一切衆生に仏性が備わっていると説く如来蔵説は、正しく理解する

ことが容易でなく、仏性が備わっているのだから修行する必要はない

などと誤解されることも少なくない。空海は、すべてが空であること

を理解する中観の教えと矛盾するものではなく、不生不滅をさとった

境地を描いているのが、『勝鬘経』のような経典で説かれ、『宝性論』

などで理論化されている如来蔵説であるという、『大日経疏』の説を

引用している

「是の如きの無為生死の、縁・因・生・壊の義は、『勝鬘経』『宝

性』『仏性論』等の中に広く明かすが如し。」(こうした無為の生死

(15)

の縁・因・生・壊等のことがらについては『勝鬘経』『宝性論』『仏性論』

等の中に詳しく説かれています。)

第八如実一道心

第八如実一道心では『法華経』の世界が説かれるが、中国や日本

の伝統で『法華経』が特別な教えとされてきたのは、『法華経』が、

釈尊がそれまで説いてきた教えはすべて方便の教えであって、実際に

は違うのだ、と宣言して弟子の間に波紋が広がる、というところから

始まる、教えのネタばらし的な内容の経典であるためである。

「是の故に、三七に樹を観じ、四十に機を待つ。初めに四諦・方

等を転じて、人法の垢穢を洗い、後には一雨の円音を灑いで、草

木の芽葉を霑す。」(このようなわけで、釈尊は、菩提樹のもとで初め

て悟りを開いた時に、この正法がどうしたら人々に理解され信受される

かと心を配られて、成道ののち三・七、二十一日間、この樹の下で深く

思いをこめられ、聴聞している人々の能力の未熟なのを見て、これをど

う育てるかに思いをめぐらしたのです。そしてこの『法華経』は説かず

に、時期を待たれたのです。こうして釈尊は、まずはじめに四諦を中心

とした小乗仏教の教えを説いて、自我中心の執着を除かれ、ついで方等

の教えを説いて、一切法に対する執着を洗い清められました。そしてそ

の後に、大自然の中で雨がすべてのものに降りそそぐように、『法華経』

の教えを説かれたのです。) 『法華経』によれば、釈尊は実際にはインドの王国のひとつの王子

として生まれた生の修行によって仏陀となったわけではなく、遥か昔

にさとりを開いて仏陀となっているのであり(久遠実成)、修行して

仏となり、教えを説き、涅槃に入る様を見せるのは、人々に無常を感

じさせて急いで修行の道にはいることを促すためで、実際には霊鷲山

に存在し続け、教えを説いているのだが、そのことは実体視に捉われ

た凡夫は眼にすることができない。

『法華経』は広大なストーリーが展開する経典で、内容も膨大だが、

空海は『秘蔵宝鑰』で次のようにその概略を紹介している。これは現

代の私たちが『法華経』に何が説かれているのかを知るためにも役立

つ。

「蓮華三昧に入って性徳の不染を感じ、白毫の一光を放って修成

の遍照を表するが如きに至っては、会三帰一して仏智の深多を讃

し、指本遮末して成覚の久遠を談じ、宝塔謄踊して二仏同座し、

婆界震裂して四唱一処なり。髻珠を賜ひ、瓔珞を献ず。利智の

子は、吾が仏の魔に変ぜるかと疑い、等覚の弥勒は、子の年の父

に過ぎたることを径 あやしむ。一実の理、本懐を此の時に吐き、無二

の道、満足を今日に得。爾れば乃ち、羊鹿斃れて、露牛疾し。竜

女出でて、象王迎う。二種の行処は身心の室宅に宿り、十箇の如

是は、止観の宮殿に安ず。寂光の如来は、境智を融して心性を知

見し、応化の諸尊は、行願を顧みて、分身相に随う。」(長文にわ

たるため、現代語訳は省略する。角川ソフィア文庫を参照されたい。)

(16)

『法華経』は真の釈尊(報身の仏)ははるか昔にさとりを開いてい

て、歴史上の釈尊は方便として現れた化身であると説き、すぐれた資

質の者だけが、釈尊のさとりの世界と方便として現れる世界をひとつ

のものとして体感できると説いている。それが、空海が『法華経』を、

報身の仏による聖者の菩薩たちのため教えと位置づけている理由だろ

う。このことは次の『大日経疏』の説を踏まえている。

「行者此の心に住する時、即ち釈迦牟尼の浄土毀せず、と知り、

仏の寿量長遠本地の身上行等の従地涌出の諸の菩薩と、一処に同

会す、と見る。対治道を修する者は、迹補処に隣ると雖も、然れ

ども一人をも識らず。」(行者がこの心に住する時に、次のことがわか

るのです。即ち釈迦牟尼仏の浄土を毀せずして、そのままが、仏寿長遠

の本地の仏身と、上行等の従地涌出の諸菩薩とが、一処に同じく会して

いる世界なのです。対治道を修行する者には、たとえ位の高い補処の菩

薩に並ぶようなかたでも、このことのわかる者は一人もおりません。)

法華一乗とは、有名な三車の比喩で示されるように、燃え盛る長者

の家の中で火事に気づかず遊んでいる子供を助けるために、一計を案

じて、三種類の車(羊車・鹿車・牛車)を与えると誘い出し、大白牛

車を与えた、と説明されている。三乗と一乗の違いは、それを衆生の

側から見るか、仏の側から見るかの違いで、それまでの教えでは苦し

みの真の原因である実体視からの解放が目指されていたが、第七を転

機として、山頂を目指して登っていた登山家が、いつのまにか平地を 見下ろしているように、教えを仏の側の視点から捉えるようになってきている。

第九極無自性心

第九極無自性心は、大乗経典である『華厳経』の教えで、教えを

ためらった釈尊がブラフマンに請われて始めて教えを説く前、釈尊自

身にとってのさとりの世界が描かれている。ここでも空海は膨大な経

典の概略を紹介している。

「盧遮那仏始めて成道の時、第二・七日に普賢等の諸大菩薩等と、

広く此の義を談じたまえり。是れ即ち所謂る『華厳経』なり。爾

れば乃ち、華蔵を苞ねて以て家と為し、法界を籠めて国と為す。

七処に座を荘り、八会に経を開く。此の海印定に入って法性の円

融を観じ、彼の山王の機を照らして、心・仏の不異を示す。九世

を刹那に摂し、一念を多劫に舒 ぶ。一・多相入し、理・事相い通

ず。帝網を其の重重に譬え、錠光をその隠隠に喩う。遂んじて覚

母に就いて以て発心し、普賢に帰して証果す。三生に練行し、百

城に友を訪う。一行に一切を行じ、一断に一切を断ず。初心に覚

を成じ、十信に道円 まどかなりと云うと雖も、因・果異ならずして、

五位を経て車を馳せ、相・性殊ならずして、十身を渾けて同帰す。」

(現代語訳は省略)

『華厳経』は、さとりを開いた釈尊自身にあらわれたさとりの世界

(17)

であるから、仮に私たちがタイムマシーンに乗ってブッダガヤのさと

りの現場に行くことができたとしても、木陰で瞑想する中年男の姿を

眼にするだけだろう。しかしその内面においてどのような世界が展開

されたのか、それを描く経典である。私と私が捉えた世界、という認

識から解放された者にとって、私は宇宙であり、宇宙は私である。実

体視に捉われた私たちの認識に現れた釈尊やその教えではなく、その

解放されたさまを描くのが『華厳経』で、東大寺の大仏はそのさとり

の姿を表現しようとしたものである。

実体視から解放された存在にとっては、現実こそがさとりの世界で

あり、それが描かれる。

「近くして見難きは我が心、細にして空に遍ずるは我が仏なり。

我が仏思議し難し、我が心広にして亦大なり。……声・縁の識も

さとらず、薩

の智も知らず。奇哉の奇、絶中の絶なるは、其れ只

だ自心の仏か。自心に迷うが故に、六道の波鼓動し、心源を悟る

が故に、一大の水澄静なり。澄静の水、影万像を落し、一心の仏

諸法を鑒知す。……大覚の慈父その帰路を指ししめしたもう。」

(自分のごく近くにありながら見きわめにくいものはわが心であり、また

微細でありながら宇宙に遍在しているものは、わが心の仏なのです。「わ

が仏」こそは思議しがたいとらえにくいものであり、「わが心」もまた広

くかつ大なるものであります。……声聞や縁覚という小乗仏教の知識で

はとうてい理解できませんし、菩薩の智慧をもってしてもすべて知ると

いうわけにはいきません。不思議なものの中の、いと不思議なものであ り、一切の思慮を超えたものの中の真の超絶したものこそ、この「自心

の仏」というべきでありましょう。この自心の仏をつかめないばかりに、

人々は迷いの生活を続けなければならないのであり、この心の根源を悟

りさえすれば、自心の広大な水は澄みわたって、その水面に万象が映る

ように、一心の仏は一切の事象をつかみ知ることができるのであります。

……慈父である大覚 みほとけは、それゆえに、われわれの帰る途を示されました。)

『法華経』の冒頭で示されているように、仏陀のさとりの境地がい

きなり説かれないのは、それがさとっていない私たちにとって理解不

可能なものだからである。こうやって相手の心のあり方に合わせて様々

な教えが説かれ、それを段階的に理解し、心を慣らしていくことによっ

て、私たちは仏の世界にはいることができるようになる。それが密教

の灌頂である。

「爾れば乃 すなわち、九種の心薬は外塵を払って迷を遮し、金剛の市宮 は内庫を排 ひらいて宝を授く。」(密教以外の九種の教え(これを顕教とい

う)は、宮殿の外側の塵を払っているようなもので、真言密教こそが、

宝の宮殿の鍵をあけて、中の宝物を手に入れることができるのです。)

第十秘密荘厳心

密教は、仏が人々を解放の境地に導くための、手段としての教えで

はなく、仏が言葉を超えた境地そのものを自分と同レベルのものに示

した、「自受法楽」の教えである。灌頂は、単なる儀式ではなく、師

(18)

がすでに体験しているさとりの世界(それを象徴的に示しているのが

描かれた曼荼羅)に引き入れ、その時は、弟子もさとった仏としてそ

の世界を体験する。恵果には大勢の弟子がいたが、中国に着いた空海

を見てすぐ灌頂をすべて授け、まもなく亡くなってしまうが、密教が

公開の教えではなく、弟子も師も選ぶ必要のある、秘密の教えとされ

ているのは、本来、灌頂が単なる儀式ではなく、師と弟子がともに言

葉を超えた境地を体験するものであるためである。

「心外の礦垢次 ここに於て悉く尽き、曼荼の荘厳是の時に漸く開く。

麼・

の恵眼は無明の昏夜を破し、日・月の定光は有智の薩

現ず。」(第一の本能のままの住心から、次第に第九の住心に進んで来る

と、心の内と外に付着していたよごれもすっかり精錬されて、私達の心

に本来具わっていた曼荼羅の荘厳がようやく開くのです。さて密教の世

界に入るには、まず良き師に出遭い、その教えを深く信受して修法する

ことが大切です。道場に入るにあたり、右の目で麼の字を想い、左の目

の字を想い、この二字が太陽と月になったと想いなさい。こうする

ことによって、いままで無明におおわれていた夜の闇は破りすてられ、

新しく目を見開くと、ここに自分自身が金剛薩

、つまり密教の正統の

後継者であることを自覚するのです。)

『秘蔵宝鑰』には『菩提心論』の引用の形で、五相成身観など、密

教の修行法が説かれているが、空海は未灌頂の者に説明することを禁

じており、本稿でも触れないことにする。それは密教の修行法が灌頂 の時の体験をはっきりさせていくための方法で、その体験がない者には正しく実践することが不可能なものだからである。

なぜ、言葉を越えた仏の境地をそのまま伝えるのが密教の教えなの

に、形ある修行を必要とするのかについては、問答形式で次のように

説かれている。

「今、真言行人は既に人法の上執を破して、能く正しく真実を見

るの智なりと雖も、或いは無始の間隔の為に未だ如来の一切智智

を証すること能わず。故に妙道を欲求し、次第を修持して、凡よ

り仏位に入る者なり。即ち此の三摩地とは、能く諸仏の自性に達

し、諸仏の法身を悟り、法界体性智を証して、大毘盧遮那仏の自

性身・受用身・変化身・等流身を成ず。為 いわく、行人未だ証せざる が故に、理、宜しく之を修すべし。」(真言行人は、すでに人執と法

執の二つの執着を破しています。真実を正見する智を得ることはできる

のですが、大昔からの悪い積み重ねの残っていることもあって、直ぐに

は如来の一切智智を証することが出来ないために、いくつかの次第を経

て仏位に入っていくのであります。すなわちこの三摩地というのは、よ

く諸仏の自性に達し、諸仏の法身を覚り、法界体性智を証すること、そ

して大毘盧遮那仏の自性身・受用身・変化身・等流身を成ずることなの

です。行人はまだこの悟りを証していないのですから、その悟りは本来

自心に備わっていることに気付くまで、理としてこれらの観法を修さね

ばなりません。)

(19)

四十住心の教えと現代

私たちは誰もが幸せを望んでおり、特に自己中心的な人はその気持

ちが強いが、そのような自己中心的な視点では、自分だけが幸せにな

ろうとして、実際には苦しみに陥ることになる。そういう狭い視点を、

仏の視線を意識することによって

少しずつ広げ、最終的に偏りのない

仏の眼を自分の眼とするのが、伝統的な仏教の実践である

冒頭に述べたような事情で、現在では、日本の仏教の諸宗派は、歴

史的にはインドの釈尊の教えに由来するとはいっても、実際には別々

の実践方法を持つ、別々の教義で成り立つ教団のようになってしまっ

ている。それに対してむしろ西洋で、彼らの宗教と仏教の考え方の違

いが理解されるようになり、最近では、苦しみをなくすために神に祈

るのではなく、その原因を突き止めて、それをなくすことによって苦

しみから解放されるという仏教の発想法に共感し、必ずしもキリスト

教から改宗したわけではないものの、仏教の教えや実践法を日々の生

活に取り入れる人が増えてきている

。最近、日本でも話題になりつつ

ある「マインドフルネス

」は、西洋社会に広まっている仏教由来の実

践法である。

現代社会において仏教がいかに役割を果たすかを考える上で、空海

の十住心は重要な手がかりとなるだろう。

もうひとつの意義として、真言宗の密教にかぎらず、さまざまな宗

派の実践をこの十住心を学ぶことによって、どのような人に役に立つ、 どのように苦しみからの解放に役立つものなのか理解できるようになるということがある。第十住心で説かれる密教の修行法は真言宗や天台宗などに固有の実践だが、倶舎・唯識・中観や法華・華厳などは宗派を越えた共通の仏教理解であり、親鸞や道元も、それらを踏まえて教えを説いている。十住心の体系における第十住心に至るまでの教えの整理を踏まえることで、坐禅や念仏

など、一見ばらばらに見える各

宗派の実践が、本来、どこに位置づくものなのかがわかるようになる。

たとえば坐禅は、一般には厳しい坐禅の修行によって無の境地を目

指すもの、と思われているが、曹洞宗の開祖である道元(一二〇〇~

一二五三)はそれをはっきり否定している。無を目指すのは、仏教・

非仏教に共通する、一点集中の瞑想(止)だが、道元は中国から帰国

して自分が学んできた禅の教えを紹介した『弁道話』のなかで、禅は

三学(戒・定・慧)の定や六波羅蜜の禅定波羅蜜ではなく、釈尊のさ

とりの時の瞑想で、それを師から弟子へとダイレクトに受け継ぐ「自

受用三昧」の教えだと説いている。これは、十住心の階梯でいえば、

言葉を超えた仏の境地を伝える密教の灌頂に相当する教え、というこ

とになるだろう。実際、道元は、問答形式で、それなら密教の教えが

すでにあるではないかという問いに対して、教えの優劣が問題なので

はなく、実際にその効果があるかどうかだと答えている。道元の時代、

密教の灌頂がすでに形骸化していて、実際にさとりの境地を伝えるも

のではなくなっていた(と道元は感じていた)のに対して、自分は中

国にわたり、師の天童如浄にめぐり合って、言葉を超えた境地(身心

脱落)をたしかに体験した、そのような自負がそこに籠められている。

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