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松本幹小伝―日本人初の讃美歌学者・日米の架け橋 を生きた男―

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(1)

松本幹小伝―日本人初の讃美歌学者・日米の架け橋 を生きた男―

著者 原 豊

雑誌名 明治学院大学キリスト教研究所紀要 = The

bulletin of Institute For Christian studies Meiji Gakuin University

巻 45

ページ 315‑337

発行年 2012‑12‑14

URL http://hdl.handle.net/10723/1498

(2)

松本幹小伝

―日本人初の讃美歌学者・日米の架け橋を生きた男―

原     豊 はじめに

 松本幹

つよし

は,明治学院大学教授でNHKラジオ英会話の講師として知ら れた松本亨の実兄である。

 松本幹は,今まで明治学院史の中で取り上げられなかった人物である が,明治学院高等学部を1930(昭和5)年に卒業

(1)

し,サンフランシス コ神学校へ留学する。そして1933(昭和8)年に神学士を取得すると,

ニューヨークのユニオン神学校の大学院へ進み,1935(昭和10)年に は“Hymnology in Japan”という日本人で最初の日本讃美歌史の英文の 修士論文を執筆し,聖楽の修士号を得ることになる。

 なお,この“Hymnology in Japan”の翻訳は『松本幹著“Hymnology in Japan”(日本における讃美歌)』(手代木俊一氏による)と題されて

『明治学院大学キリスト教研究所紀要』43号に掲載されている。

 本稿は「松本幹の生涯」を描き,松本幹が日本人として最初の日本讃

美歌史を書く時に訪ねて行った「讃美歌の父」オルチン宣教師

(2)

との

出会いの回想『「讃美歌の父」の憶ひ出』を紹介するとともに,評論家

として「日米の架け橋」の役割を果たし,詩人・オルガニスト・讃美歌

学者・大学助教授・米軍横須賀基地民事部長・松の木の素描画家として

多彩な活動をした松本幹の生涯をたどる試みである。

(3)

I 松本幹の生涯

A.誕生から明治学院時代まで

 松本幹

つよし

は,医師松本午

ろう

タマ夫妻の次男として1908(明治41)年12 月2日に北海道網走郡雄武町で生まれた。兄は休

ゆたか

と言い青山学院高等学 部を出て群馬県館林市に住み書店主をしながら,地方の同人誌(『上州 健児』等)や新聞に文芸作品を連載する地方文士として活躍し,青山学 院のカレッジソング「紫におう西郊の森,夢さめやらぬ緑が岡の,霞に そびゆわが白亜城,春光うららに今さしそめて,常磐木の色はゆる,わ れらが母校 青山」の作詞をしたことで知られる。弟亨は明治学院中学 部を1931(昭和6)年に卒業,高等学部英文科を1935(昭和10)年に 卒業し,渡米,ユニオン神学校やコロンビア大学教育大学院留学後,明 治学院大学教授・NHKラジオ英会話講師として活躍した松本亨である。

他に松本幹には二人の妹がいた。妹の多歌は1910(明治43)年に北海 道網走郡の生まれで,1937(昭和 12)年に渋沢一族の本家「中の家」

を継いだ。名古屋帝国大学初代総長の渋沢元治の長男で実業家の渋沢亨 三と結婚して,後に渋沢栄一の遺志を継いで深谷市に渋沢国際学園を創 立し,国際人材交流に尽力したが,1989(平成元)年に交通事故で亡 くなった。二番目の妹のまさは,1916(大正5)年生まれであったが,

癌を患い1956(昭和31)年頃40歳で亡くなっている。父親松本午朗は

埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)に生まれ,長じて医師となるが,医師

とはいえ,正式に医学校を出て医師免許を持った医師かどうか不明であ

る。代理医者ともいうべき人であった。松本三兄弟の母親タマは群馬県

前橋出身で奥平庄三郎と奥平ハナの四女として生まれ,共愛女学校に入

学後中退し,姉のキヨが嫁いた軍医の星野葆光夫妻とともに広島に移住

し広島私立英和女学校,現在の広島女学院を卒業した。松本亨の回想に

(4)

よると「熱心なクリスチャンでキリスト教と英語が大好きだった

(3)

」と ある。松本幹にいわせると「それなりに上手なオルガニストであっ た

(4)

」と書いている。婦人矯風会に所属したりしていたこともあった。

野心のある人で,北海道網走郡で三兄弟二姉妹を生むと,なんとかして 子供達を出世させたいと群馬県の高崎へ出てくる。父親午朗は,あまり 経済力の無い人で男の子三人を普通の学校へ入れることは出来ない。キ リスト教のミッション・スクールならば,経済力がなくても勉学を続け られると,長男の休は高崎中学校を出た後青山学院高等学部へ,次男の 幹は1921(大正10)年3月に高崎中央尋常高等小学校尋常科を卒業し,

4月に高崎中学校に入学,1926(大正15)年に高崎中学校を出た後明治 学院神学部予科へ,三男の亨は高崎中学校2年を終え明治学院中学部3 年へ編入学させる。

 明治学院大学名誉教授の故平林武雄の回想によれば,先生が明治学院 中学部の生徒の頃,神学部予科にいた松本幹を見かけている。それによ ると,弟亨は背が低くずんぐりとし,学生服の金ボタンがかからず,は ちきれそうな体をしており,腕力が強く,何でもどしどしやる積極性が あった。それに比べて兄の幹は身長の低い瘠せ型の美男子で,言語動作 が洗練されておりスマートな人だった。平林先生自身の言葉によれば,

当時明治学院中学部生だった平林先生にとって松本幹さんはあこがれの 存在だった。幹氏は明治学院の宣教師ハナフォード先生の宣教師館に出 入りしており,当時ハナフォード先生の秘書として通いのアルバイトと して,英文の手紙を読み日本語に直すような仕事をしていた。神学部予 科在学中,氏は礼拝堂のリードオルガンを弾いたり,合唱隊に入り讃美 歌を歌っていた。

 そして弟亨はその頃「彼はアメリカに行き,そこで聖職者になるため

の勉強や音楽を学ぶことにひたすら時間を使うことを計画し始めてい

(5)

」と書いている。

(5)

B.日本讃美歌史の執筆

 幹は明治学院の高等学部を1930(昭和5)年に卒業する

(1)

と,サンフ ランシスコ神学校へ1931(昭和6)年に留学する。母と妹のまさと高等 学部に進学した弟の亨に横浜港で見送られ渡航した

(6)

。そして1933(昭 和8)年にサンフランシスコ神学校で神学士を取得すると,ニューヨー ク の ユ ニ オ ン 神 学 校 の 大 学 院 へ 進 み,1935(昭 和 10) 年 に は

“Hymnology in Japan”という日本人で最初の日本讃美歌史の英文の修 士論文を執筆し,聖楽の修士号を得ることになる。

 彼はアメリカでの留学中,1日にりんごを1個食べるだけの日もあっ たという。そんな爪に火を灯すような暮しの合い間に,生活費を節約し て讃美歌や聖歌の楽譜を買い求めた。

C.讃美歌の父

 以下は松本幹が修士論文を執筆するきっかけとなった「讃美歌の父」

オルチン宣教師との出会いの回想『「讃美歌の父」の憶ひ出』からの引 用である。

 「「讃美歌の父」といふ名を私が始めて聞いたのは,ヘレン・ケ ラー女史の案内役として先年帰朝された小室牧師

(7)

からです。

一九三四年の暮でした。あくる年の卒業論文の材料を集めるので小 室牧師の教を乞ふたときのことでした。

 その噂の主がまだ壮んな元気でしかもニュウヨークの近くに住ん で居ると知った私は金鉱を掘りあてた男のように喜びました。そし て小室牧師の親切が遂に「讃美歌の父」を動かし私の願が容れられ て面会を許されたのは年あけて間もないある朝の日のことでした。

小室牧師に伴はれて,私はかけだしの新聞記者のやうな興奮を秘め

て会見にでかけました。ペエラムウッドの町といっても,どことけ

じめのないニュウヨーク郊外の住宅区の一つ,「讃美歌の父」の家は

(6)

その駅の直ぐ近く小高い丘の斜面にありました。

 玄関に迎へてくださったのは噂の主その人,小室牧師とは余程親 密な仲らしい挨拶を交はすと,直ぐ温い手が私の自信のない手を無 雑作にとらへて快くうちふりました。「あなたが音楽をやってゐる松 本さんか」老人の声にはつやがありました。その瞳には真実な友情 が光ってゐました。「はい,よろしくどうぞ」―そう応へた私にはそ れまでの不安が消えてしまってゐました。

 質素な客間は西向で春浅い太陽が日本の空を指してゐました。ピ アノと椅子を除けば,何一つ日本でないものはないやうなその室の アトモスフィアは,日本のために生涯をささげたその主人の心境を 何ものよりも雄弁に語りました。ピアノの側にあった電気の「まわ りどうろう」が今も私の脳裏に浮かんできます。それからマンテル ピースの上の大きな「とりゐ」も。もう一の私の記憶に焼つけられ たのは,新しい「讃美歌」の処女版―讃美歌委員会が贈ったものー それを初児を抱いて友にみせるやうにして私にみせてくださったと きの「讃美歌の父」の満足な顔です。

 「讃美歌の父」は素晴らしい記憶をもってゐました。彼の書いたも

のを読んでゐた私はその記憶の正確なことゝ豊富なことに驚かされ

ました。そして「よいくにあります。たいそう遠方」を当時のヤソ

節で歌って下さった老人の朗かな姿は忘れられません。その午後多

くのものを教へられ,古い讃美歌の貸出の御約束を與へられて,そ

の御宅を辞したのは夕方でした。「讃美歌の父」は「これから訪問が

あるからついでに」と私達を駅まで見送って下さいました。小室牧

師はそのとき,「先生はあの年でなかなか伝道に熱心なもので,いま

でも土地の教会の大黒柱なんですよ。雪でも降ると聖日の朝はさつ

さと日本のゴム長靴をはいて教会の前の雪除けをするのでこの辺の

評判者です。」と耳うちをなさいました。[中略]申すまでもなく

(7)

「讃美歌の父」とはヂョージ・オルチン師のことです。彼の一九〇〇 年の宣教大会に於ける報告書は日本に於ける讃美歌歴史の唯一のロ ギアでありませう。私はコロンビア大学の図書館でそれを発見して 全文を写し幸に老師の校閲を経た後署名を得ました。また彼が神戸 女学院に寄贈された世界唯一の日本讃美歌集は時価百萬弗にも代え られない国宝的なコレクションです。そしてこれら二つの遺品だけ でも彼は日本の「讃美歌の父」の名に相応しい偉業の主でなければ なりません。いまこゝに「讃美歌の父」の憶ひ出を綴るにあたって 私は,彼の生涯の最後を飾る一つの貢(トリビュート)を拙い論文 を通して捧げ得たことを無上の光栄と感じてゐます。」(『讃美』第 十四巻第四号 昭和十五年四月十日発行より)

D.中村エミ嬢との出会い

 1936(昭和11)年に日本に帰国し,明治学院高等学部の講師となる。

そのうち,有楽町の日劇に日本では数少ない立派なパイプオルガンが 入ったと聞き,放課後出かけてそのパイプオルガンを弾かせてもうらう ことになった。素晴らしい音色のパイプオルガンに夢中になり毎日のよ うに出かけてパイプオルガンを演奏していると,ある日,日劇のライン ダンサーのロシア系日本人二世の肌の色の白い目の大きい8才下のお嬢 さんと目と目が会い,恋に落ちてしまった。相手のお嬢さんの母親は東 京の銀座生れの銀座育ちで料亭の仲居を経て銀座の日動画廊裏の「お多 幸」というおでんやの女将をしており,その夫はロシア革命の難をのが れて来日していた白系ロシア人だった。1917(大正6)年生まれの中村 エミというそのお嬢さんは女性雑誌のカバーガールをしたり,丹下キヨ 子と一緒に日劇ダンシングチームで活躍していた。そして1938(昭和 13)年には,中村エミは松本幹と結婚する。

 しかし,二人の新婚生活は長く続かなかった。1941(昭和16)年に

(8)

日本とアメリカ・イギリスとの間に戦争が始まる前に松本幹はエミを日 本に残し南カリフォルニア大学へ留学する。「「落ち着いたら呼ぶから

…」日米の危機が迫っていた。ある世界平和団体に参加したばかりに松 本は要注意人物となり,エミを呼ぶどころか,自らの帰国も危ぶまれ た

(8)

」まもなく,戦争がはじまり,エミとの間は引き裂かれてしまう。

二人が再び一緒になるのは8年たった終戦後のことである。

 1943(昭和18)年には,南カリフォルニア大学の文学修士号をとる。

その間1942(昭和17)年から1945(昭和20)年までの第二次大戦中,

ミシガン大学やハーバード海外行政学校やシカゴ大学の米軍情報言語学 校で日本語を教える。

E.評論活動

 1945(昭和20)年8月に日本は敗戦し,GHQが9月に日本に上陸し 占領政策が始まると,松本幹の評論活動が盛んになる。

1. “We Fight the Emperor” in Asia and the Americas , Vol. XLV, No. 9, September, 1945.

 「我々は天皇制に対して戦う」は 1945(昭和 20)年 9 月の日本敗戦 1ヶ月後に掲載された評論である。日本の天皇の名の下で進められた戦 争が終結を迎え,アメリカを中心とする連合国軍が日本に進駐する中,

松本幹は,日本人にとって天皇とは何かを問いかけ,天皇制を否定しな

がら,人間天皇を擁護する立場をとる。当時,天皇の戦争責任をめぐっ

て連合国軍総司令部(GHQ)は判断を迫られていた。天皇処刑論が米

国民の世論として多い中,自分も家族も「新しい自由な日本の基盤を築

くために命を捧げよう」という覚悟で,そしてまた「天皇制が原因で戦

死した人達の死を無駄にしないために」という悲願のもとに,「我々は

天皇制に対して戦う」を書いた。「天皇は日本国の象徴であり日本国民

統合の象徴」と日本国憲法で規定され,天皇の戦争責任は問われずに終

(9)

わった。この評論は米国民やGHQに,当時としては極めて適切な回答 を示唆するとともに,世論にも少なからず影響を与えたのではないだろ うか。

2. “Japan's Election,” in The New Republic, January 14, 1946.

 戦後の日本で1946(昭和21)年4月に,20歳以上の女性にも参政権 が与えられ,普通総選挙が始まろうとしていた。その数ヵ月前に The

New Republic 誌に掲載された「日本の選挙」と題する記事である。

3. “A Plan for Japan,” in Asia and the Americas , Vol. XLVI, No. 4, April,1946.

 「日本のための計画」と題された評論は1946(昭和21)年4月に Asia

and the Americas 誌に掲載されたものである。この評論において,天

皇制を無くし,主権を天皇から国民へ戻すため,自治への計画が非常に 具体的に述べられていることに注目したい。

4. “Great Learning for Japan,” in Asia and the Americas , Vol. XLVI, No. 5, May, 1946.

 「日本のための国民大学」の評論は,1946(昭和 21)年 5 月に Asia

and the Americas 誌に掲載された。松本幹はこの評論において,国の

再建のための教育の新しい理念を説いており,そこには平和,民主主 義,自由,平等,そして他の国々との交流を重んじる教育の視点が見ら れる。

 1946(昭和21)年米軍に兵役入隊し,カリフォルニアの米軍情報言 語学校で日本語を教える。1948(昭和23)年,ハワイに渡り米国籍と なる。幹が米国籍となったのは,当時ハワイでは帰化運動が盛んで米国 籍となることが避けられない事情があった。

 1948(昭和23)年から1950(昭和25)年までハワイ大学の太平洋言

語の助教授を勤める。GHQの文化部の職員となって日本に帰ると,米

(10)

国籍のまま,明治学院大学社会学部教授三吉明の兄三吉保と一緒に GHQの米国文化交換局映画部で働き,主任として米国短編映画の日本 語解説の編集チェックに従事した。

F.米海軍横須賀基地民事部長

 その後,1952(昭和27)年から1968(昭和43)年まで米海軍横須賀 基地の司令官の補佐役(民事部長)として,毎朝基地司令官幹部へ日本 の主な新聞記事を要約し英語に翻訳して報告。また相手の心の中まで知 り尽くした通訳を行い,名通訳者として,日本政府,神奈川県や地元横 須賀市との交渉役を務め,歴代の司令官の信任を受け,16 年間勤め,

60才で定年退官する。在職中は若い芸術家の卵を育て,まだ無名の画 家がデパート(横須賀さいか屋デパート・東京銀座のデパート)などで 展覧会が開けるよう個展の紹介や取次をやり援助した。その中には洋画 家で愛知県立芸術大学名誉教授・日本芸術院会員の島田章三,洋画家の 脇田和や木版画家の斎藤清など錚々たる芸術家がいた。1963(昭和38)

年には『これじゃドルはもうからない〈観光NIPPONへの提案〉』を明 治学院同窓の三吉保氏の紹介で有信堂から出版する。東京オリンピック の海外来訪者を迎えるために書かれたこの本は翌年の国会の運輸委員会 で話題となった。当時米海軍横須賀基地の教会の聖歌隊に所属し,後に アメリカに留学後,日米キリスト教協議会の職員として基地内教会と奉 仕センターに勤めていた島田貫司氏(明治学院大社会学科 1961 年卒)

によると,松本幹は米海軍横須賀基地の教会のオルガンをよく弾きに来

ていたが,常日頃「つまらない礼拝の説教を聞くより,バッハの音楽を

聴いていた方がよい」と言っていたそうである。松本幹は,米海軍横須

賀基地の民事部長を定年退職し米国へ帰国準備中,島田貫司氏を招き

40年前から苦労して集めたキリスト教音楽文献や楽譜を日本に残した

いという相談をし,島田氏も手伝い,東京都中野区東中野のキリスト教

(11)

音楽学校へ寄贈することとなった

(9)

G.松の木の素描画家

 松本幹は,1955(昭和30)年頃から長女ヘレンや長男フィルをモデ ルにして油絵を手がけ,1968(昭和43)年頃から集中して松の木のス ケッチの勉強を始めた。それより数年前のある休日に米海軍将校たちと 伊東に小旅行に行った時のこと,同僚の米国人は滞在中皆ゴルフを楽し んでいたが,彼はゴルフをすることを好まず,景色のよい場所に一人で 折りたたみ式の椅子にこしかけ,スケッチブックに松の木を書くことを 好んだ。そうすると不思議に心に平安とやすらぎが自然と湧いてきた。

そして休みの日に東京の皇居前の松の木を描いたりした。1968(昭和 43)年に松の木を専門に鉛筆で描くアーチストになる決意をかため,

この年,米海軍横須賀基地の民事部長を定年退職した。

 退官後,ニューヨーク市レキシントン・アベニューに 2 年住んで MATギャラリーを開き,(MATは松本幹のニックネーム)日本を離れ る前から描き続けていた松の木の絵や日本の浮世絵版画等を飾り売って いた。週末になるとセントラル・パークの松の木の素描画をいくつも描 いたが,ニューヨークの冬の寒さに耐えかねて,南カリフォルニアの風 光明媚で温暖なサンディエゴ市北部のラホヤの高級住宅街に移住した。

近郊にはトーレイ松の木州立自然保護公園

(10)

があり,太平洋に面して

松の木の林が太平洋からの風に逆らうかのように枝をのばしていた。こ

のトレーイ松の木州立自然保護公園が松本の心を魅了し,ラホヤに移住

することになった。さらに住居近くのラホヤ商店街の一角に再びMAT

ギャラリーを開き,松の木の絵や松の木の絵の入ったグリーテイング

カードを売っていた。またサンディエゴの公共図書館等で毎年のように

松の木の素描展を開催した。そして,描き続けた松の木を見つめながら

息を引き取った。享年75歳,1982(昭和57)年4月3日のことだった。

(12)

死因は喉頭ガンであった。「僕の骨は松の見える公園に撒いてくれ」と いう遺言で,現在松本幹の墓はサンディエゴ郊外のエル・カミノ霊園の 松の木のそばにある。また,エミ夫人は晩年認知症になりへレン達に看 取られながら2009(平成21)年1月18日に91歳で亡くなり,あとには 娘ヘレンと息子フィルと松の木の素描と5つの英詩が残された。なお作 品の多くはトーレイ松の木州立自然保護公園の記念館(Museum)に 寄贈され展示されている。

 ここで幹が家族に残した5つの英詩の内の最初の一つ“SUN”を紹介 して,松本幹の小伝を終わることにしたい。

 晩年ガンの告知を受けた後,1980(昭和 55) 年に書いた “SUN”,

“MIST”,“FULL MOON AND I”,“SUNSET”,“WIND” 等の英詩が 遺族の元に残されている。以下は許可を得て,島田貫司氏からいただい たコピーから転載したものである。島田貫司氏によると「彼の生涯は,

英語や聖書を学び,友人を大切にし,オルガンやピアノをひき,松の木 の素描を書き,一流の芸術に生きたといえるでしょう。そういう方が作 詩したもので,家族との別れに際し,悲しむより希望を残されました」

と手紙に書いている。

SUN

My day begins at dawn

When you draw the curtains of the night up With an overture of birds singing

An ode to the rising sun – My heart joins in the chorus

Another day is here

(13)

For the living I am living We are living

Halleluia !

I rise from deep sleep My mind and body refreshed My legs feel lighter As I take a few steady steps

To greet you coming from behind the trees

You break into a great big grin You wave with both hands Like bamboo in a storm

You dance and jump blowing kisses You, impetuous, impatient, passionate lover Prince of Heaven, Ruler of the Day

As if I were the only one for whom you cared Your eyes never a moment leave my eyes I clasp my hands, rest them on my heart I thank God who created you and me

We are one

You and I

We are on

Halleluia !

July 26, 1980

(14)

ユニオン神学校大学院卒業時

中央 松本 幹 左から フィル・幹・ヘレン・エミ夫人 1963年頃 ロンドン

ヘレンに案内されてエル・カミノ霊園の松本幹の 墓の前の島田貫司氏 2010年3月30日

(15)

晩年の松本幹 MATギャラリーにて

松本幹が描いた「松の木」の素描

(16)

II 松本幹年譜

1908

(明治41)

年12月2日 北海道網走郡雄武町に医師松本午朗・タマの次 男として生まれる。

1917

(大正 6 )

年 中村エミ生まれる。

1921

(大正10)

年 群馬県高崎中央尋常高等小学校(現高崎市立中央 小学校)尋常科卒業。

1921

(大正10)

年 群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)入 学。9月長兄休が発行した同人誌『上州健児』に「口 語詩」を掲載。

1924

(大正13)

年 新体詩「コスモス」と「時雨」を高崎中学校『校友会 誌 群馬』に掲載。

1926

(大正15)

年 群馬県高崎中学校卒業。

1930

(昭和 5 )

年 明治学院高等学部卒業

(1)

1933

(昭和 8 )

年 サンフランシスコ神学校卒業・神学士。

1935

(昭和10)

年 ユニオン神学校卒業・聖楽修士。修士論文として

“Hymnology in Japan”を提出。

1936

(昭和11)

年 明治学院高等学部講師を勤める。

1938

(昭和13)

年 中 村 エ ミ と 結 婚。 「詩」“poem” と 題 し て The International Quarterly に掲載。

1939

(昭和14)

年 “Mt. Huzi for Mt. Fuji”を Asia に掲載。

1941

(昭和16)

年 南カリフォルニア大学大学院修士課程に入学。

1942

(昭和17)

年−1943

(昭和18)

年 ミシガン大学の日本語講師。

1943

(昭和18)

年−1944

(昭和19)

年 ハーバード海外行政学校の日本語講師。

1943

(昭和18)

年 南カリフォルニア大学大学院修士課程卒業・文学

修士。

(17)

1944

(昭和19)

年−1945

(昭和20)

年 シカゴ大学の米軍情報言語学校の日 本語講師。

1945

(昭和20)

年 9月 “We fight the Emperor” を Asia and the Americas に掲載。

1946

(昭和21)

年−1947

(昭和22)

年 米軍に兵役入隊し,カリフォルニア Presidio of Montereyの米軍情報言語学校で日本 語講師を勤める。1946(昭和 21)年 1 月 “Japan’s Election”を The NEW Republic に掲載 , 4月“A Plan for Japan” 5月“Great learning for Japan”

を Asia and America に掲載。

1948

(昭和23)

年−1950

(昭和25)

年 米国籍を取り,ハワイ大学の太平洋言 語の助教授を勤める。

1949

(昭和24)

年 長女ヘレン生まれる。

1950

(昭和25)

年−1952

(昭和26)

年 東京大学大学院で日本語を研究。

1951

(昭和26)

年−1952

(昭和27)

年 米国文化交換局映画部主任として米 国短編映画の日本語解説の編集チェックに従事。

1952

(昭和27)

年 米海軍横須賀基地の民事部長を勤める。 (1968(昭 和43年)まで)

1953

(昭和28)

年 長男フィル生まれる。

1955

(昭和30)

年 ヘレンやフィルをモデルにして油絵を始める。芸 術家,斎藤清や脇田和の5回の個展を開催する。そ の内の3回の個展は,1958(昭和33)年から1961(昭 和36)年にかけて東京のアート・ギャラリーでも 開催する。

1963

(昭和38)

年 『これじゃドルはもうからない(観光 NIPPON へ の提案)』有信堂を三吉保氏の紹介で出版。

1964

(昭和39)

年 『これじゃドルはもうからない(観光 NIPPON へ

(18)

の提案)』国会の運輸委員会でとりあげられる。

1968

(昭和43)

年 この年から集中して松の木のスケッチの勉強を始 め,松の木を専門に鉛筆で描くアーチストになる 決意をかためる。米海軍横須賀基地の民事部長を 定年退職し,新進のアーチストとしてニューヨー クに帰る。MATギャラリーをレキシントン・アベ ニュー1210に開く。日本の版画に加えて,自身が 書いた松の木の絵を飾り売る。 The CUE magazine で二度ほど好意的に紹介される。

1969

(昭和44)

年 アーサー A. カプラン会社に依頼され,松の木の 絵を複製してアメリカ全土に配布される。ジョ ン・スローン未亡人に見出され,ペンシルベニア 州ロック・ヘブンのジョン・スローン記念図書館 で松の木芸術の個展を開く。

1971

(昭和46)

年 ニューヨークの墨絵協会の第8回展の非墨絵部門 で最初の賞を取る。

1972

(昭和47)

年 ニューヨークのアメリカ墨絵協会第9回展で「エ デンの松の木」が会長賞を受賞。

1973

(昭和48)

年 ニューヨークからサンディエゴのラホヤに家を買 い移住し,9月にMAT ギャラリーを開く。

1974

(昭和49)

年 7月にサンディエゴ公共図書館の回廊ギャラリー で「松の木の歌」展を開催,12月にデル・マールの アース・ソング・ブックス・オーシャン・ソング・

ギャラリーで同展開催。

1975

(昭和50)

年 1 月にラホヤのアテナ神殿・音楽・芸術図書館で

「太陽・月・霧・音楽・トーレイ松の木」展を開催。

4 月に中央連邦貯蓄貸付組合ラホヤ事務所で

(19)

「スージーの7つのスケッチ,トーレイ松の木の 偉大なる村」展を開催。

6 月にエンシニタス公共図書館で「松の木の多彩 な顔」展を開催。

7月8月にラホヤのハリーズ喫茶店で「美しいラホ ヤ,美しいトーレイ松の木」展を開催。

1976

(昭和51)

年 10月にサンディエゴ公共図書館で「アメリカのユ ニークなトーレイ松の木」展を開催。

11月11日−20日に同展をラホヤ芸術協会ギャラ リーで開催。

1977

(昭和52)

年 1 月に中央連邦貯蓄貸付組合ラホヤ事務所で「ア メリカのユニークなトーレイ松の木」展を10の新 しい素描を加えて開催。

9月5日から10月7日までエル・カホンのグロスモ ント・カレッジ図書館で「老齢のひげ状の松毬を 持った松の木」と「ジェフリー松の木,センチネル ドーム,ヨセミテ国立公園」展を開催。

12月にデル・マールのアース・ソング・ブックス・

オーシャン・ソング・ギャラリーで「ガイ・フレミ ング・コースの木々」展を開催。

1979

(昭和54)

年 医師より喉頭癌の告知を受ける。

1980

(昭和55)

年 英 語 遺 稿 詩 “SUN”, ”FULL MOON AND I”,

“SUNSET”, “WIND”等を執筆。

1982

(昭和57)

年 4月3日喉頭癌のため逝去。享年75歳。墓はサン ディエゴ郊外のエル・カミノ霊園の松の木のそば にある。

2009(平成21)年 1月18日松本幹夫人エミ91歳で逝去。

(20)

おわりに

 これまで松本幹の「日米の架け橋」としての生涯を見てきたが,松本 幹の著作としては,在日米海軍の週刊誌『 Seahawk 海鷹(シーフォー ク)』に日本を主題とする評論を連載していた。またカリフォルニア州 ロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」, The Nichi-Bei , The Hawai Times 等, そ の 他 の 新 聞, ア メ リ カ の 雑 誌 Asia, Asia and the Americas, Christian Century, The Nation, The New Republic 等に日 本と日本に関する評論を英語で掲載していた。その上単行本『これじゃ ドルはもうからない〈観光NIPPONへの提案〉』有信堂刊は国会の運輸 委員会でも取り上げられた。こうした活動で松本幹が評論家として「日 米の架け橋」の役割を果たしていたのは事実である。幹の長女ヘレン・

カガン夫人は「彼は日米間の歴史の重要な時期に日米間の橋渡しとなっ た。そして,両国の有力な意見とは一線を画する勇気ある決断を行っ た」と手紙

(11)

に書いている。彼は自分の功績を家族に自慢して語る人 ではなく,家族にも秘していた。声が大きくお喋り好きなエミ夫人と正 反対の性格で「私たち家族の中で,彼は口数の少ない,内省的な人で,

いつも自分の趣味に没頭していた。本を執筆したり,ピアノを弾いた り,油絵を描いたり,後には松の木の素描を描いたりしていた

(12)

。」

バッハの音楽を聴きながら,それも聖歌隊の指揮者であった頃やパイプ オルガンの演奏者であった若い頃を思い出しながら,松の木を描いてい たようである。

 「そして彼は,自然の中にある全ての物を神の反映として敬ってい た

(13)

。」と証言している。その意味で松本幹の描いた「松の木」も「神 の反映」として創作したに違いない。

 松本幹が果たした役割を振り返ると,オルガニスト,詩人,日本人で

(21)

最初の讃美歌学者,大学助教授,米海軍横須賀基地民事部長,名通訳,

「日米の架け橋」としての評論家,松の木の素描画家という多彩な才能 をもった人物像が浮かび上がってくる。日本ではNHKラジオ英会話講 座講師で明治学院大学教授の弟松本亨が知られているが,松本亨の実兄 幹も日本人初の讃美歌学者であり,「日米の架け橋」となった評論家で,

松の木の素描画家としても活躍したことは,もっと知られてよいのでは と思い,筆を執った。

 本稿は,法政大学大学院後期博士課程武市一成氏の松本亨調査報告と 松本幹の英文評論や詩の掲載誌のコピー提供,故平林武雄本学名誉教授 からの聞き取り,本学キリスト教研究所協力研究員手代木俊一氏からの

「讃美歌の父」オルチン宣教師との出会いの回想『「讃美歌の父」の憶ひ 出』資料の提供,本学同窓生島田貫司氏の写真・資料提供(松本幹英文 履歴書,遺稿英詩,ヘレン・カガン夫人の英文手紙等),および聞き取 りによる。群馬県立高崎高等学校同窓会事務局は高崎中学校『校友会誌  群馬』の松本幹の詩や随筆のコピーを郵送して下さった。またヘレ ン・カガン夫人の英文手紙は,松本幹の日常生活や生涯を知る上で大変 役に立った。あらためて上記の方々に感謝の意を表したい。

(1) 松本幹は『明治学院同窓会会員名簿』の古い版には名前がなく,1977 年版以降の同窓会会員名簿に明治学院高等学部卒業となっている。卒業 相当とみなされた可能性が高い。当時高等学部は4年制で,一方神学部 は予科3年本科3年の6年制で,松本幹が入学した当時神学部予科は白 金で,神学部本科が新宿区淀橋にあった。本科生と予科生はほとんどが 寄宿生で,予科生のみ朝,淀橋にあった寄宿舎を出て新宿駅から電車で 目黒駅に行き,徒歩で白金の明治学院に通学し,現記念館の高等学部校 舎で高等学部英文科生と一緒に3年間同じ授業を受けた。要は当時神学 部予科生の授業は高等学部に委託されていたのである。『明治学院神学

(22)

部一覧』昭和 2 年 11 月発行に「神学部予科(明治学院高等学部英文科)」

という表現があり,同等とみられていた。幹が少なくとも神学部予科3 年を修了し,神学部本科1年生に在籍していたことは,『明治学院百年 史』717頁の「軍事教練反対の請願書」昭和3年2月10日付の予科二年一 同と,719 頁の「都留仙次教授対する懇願書」に神学部本科生一同の昭 和5年2月15日付文書に名前が載っているので裏付けることができる。そ の後1931(昭和6)年に米国留学しているところをみると,普通は神学部 本科中退であるが,4年修了したので高等学部卒業相当とみなされ,明 治学院のアメリカ人宣教師でサンフランシスコ神学校出身の恩師ラマー ト教授の紹介状をもらって,サンフランシスコ神学校へ留学したものと 思われる。サンフランシスコ神学校では新入学か編入学か今のところ未 調査で不明である。松本幹の公式な英文履歴書には明治学院高等学部卒 と書かれてなく,サンフランシスコ神学校卒からの履歴になっている。

ただし私的な英文履歴書に“1930 Meiji Gakuin College, Tokyo”と書いて いるので,この小伝では明治学院高等学部卒ということにしておきたい。

いずれにしろ松本幹は明治学院同窓生であることに変わりはない。

(2) オルチン宣教師とは George Allchin。1852(嘉永 5)年 1 月 10 日−

1935(昭和 10)年 11 月 28 日。組合派のアメリカ人宣教師。1852 年イギ リス生れ。1872 年カナダに,1877 年アメリカに移住,ウイリアムズ大 学およびメーン州のバンガ―神学校卒業。1882(明治 15)年来日,38 年間日本に在住,(67 歳の夏アメリカへ帰国) 大阪方面で伝道に従事す る一方で,日本における讃美歌を研究し,「組合教会」と 「一致教会」

との合同の讃美歌集『新撰讃美歌 譜付』1890(明治 23)年刊を編纂・

発行した。大阪の九条,梅田教会と梅花女学校は博士の尽力によるとこ ろが大きい。1935(昭和 10)年 11 月 21 日ニューヨーク郊外の病院で永 眠。享年 84 才。オルチン宣教師の日本の讃美歌コレクションは「オル チン文庫」として神戸女学院図書館で所蔵している。

(3)「人も知る野球好きー松本教授訪問(学院の人 2)」『明治学院学生新 聞』第 84 号 昭和 30 年 2 月 15 日刊。

(4) The writer’s mother, then Miss Okudaira, she [sic] was an organist of merit. See Tsuyoshi Matsumoto, “

Hymnology in Japan”

(Master’s thesis, the Union Theological Seminary, 1935) : 36.

(23)

(5) He began to plan to go to the United States, where he could devote his time to study for the ministry and to music. See Matsumoto, Toru, and Marion Olive Lerrigo,

“A Brother Is a Stranger.”

(New York: The John Day, 1946) : 55.

(6) Mother, Masa, and I went to Yokohama to see Tomi sail. See Matsumoto, Toru, and Marion Olive Lerrigo.

“A Brother Is a Stranger.”

(New York: The John Day, 1946) : 55. ここで Tomi と言っているのが松 本亨の次兄幹のことである。

(7) 小室牧師とは小室篤次(こむろ とくじ)。1870(明治3)年 11月11日-1940

(昭和 15)年 3 月 15 日。牧師。本籍は名古屋市本伏見町。伝道者を志し 青山学院神学校に学ぶ。卒業後ハワイに渡り,米国メソジスト教会に所 属して在留日本人に伝道。リヴァー教会を建て,更にキング教会,ライ ハナ教会と転任した後,米国本土太平洋岸に移る。1904(明治 37)年 にはカリフォルニア州サンノゼ教会牧師となり,間もなくロサンゼルス 教会を牧会(昭和 04-11),次いでサンフランシスコ教会(昭和 11-17),

リヴァーサイド同盟教会,シアトル教会を経て,22 年ハワイに戻り,5 年間リヴァー教会で奉仕。40 年間にわたって,ハワイと米本土太平洋 沿岸において在留日本人への宣教に当り,教会を形成して多くの魂を主 に導いた。『水先』,『米大陸の二十五年』,『聖者ダミエン』,『ヘレン・

ケラー』などの著がある。墓はニューヨークにある。

(8) 三吉保「妻への手紙」『あすか通信』No. 202,昭和 60 年 10 月 15 日発 行より引用。

(9) しかし中野のキリスト教音楽学校では松本幹の蔵書や楽譜は現在不明 になっている。

(10) ト ー レ イ 松 の 木 州 立 自 然 保 護 公 園 “Torrey Pines State Natural Reserve”。ここのホームページの News letter “

Torreyana”

の巻頭に松 本幹のMatのサインが入ったトーレイ松の木の素描画が飾ってあり見る ことができる。またトーレイ松の木州立自然保護公園が州立の自然保護 公園に指定されるについては,松本幹がサンディエゴ市議会の建物の外 側の廊下に,大きな3枚連作のトーレイ松の木の素描を寄付し展示した ことが,州立自然保護公園として指定する決定に影響を与えた。

(11) この手紙は島田貫司氏あてに松本幹の長女 Helen Kagan 夫人が 2009

(24)

(平成21)年5月30日付で父親松本幹の思い出を語った英文手紙である。

原 文 は 以 下 の と お り で あ る。“He had bridged an important era of Japanese-American history, and made some courageous decisions against the prevailing opinions of both countries.”

(12) “To us in the family, he was a quiet, introspective man, always busy with his hobbies, writing books, playing the piano, painting oil paintings and later on, drawing the pine tree drawings.”「同上」

(13) “And, he respected all things in nature as a reflection of God.”「同上」

(25)

参照

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