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中江藤樹の﹃大学﹄解釈について

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(1)

中江藤樹の﹃大学﹄解釈について

一 一 七

M

二 O 三

詩萌

(2)

はじめに 第一章

第一節

中江藤樹年譜の紹介

中江藤樹の生涯と親孝行

第 二 節 中 江 藤 樹 の 儒 学 受 容

① 朱 子 学 の 受 容

② 格 法 の 厳 守

③ 格 法 に 疑 問 を 抱 く

④ 陽 明 学 の 影 響 を 受 け る

第二章

第一節

第二節

第三節 ﹃大学﹄に対する朱烹︑王陽明と中江藤樹三人の理解の相違点

﹃大学﹄の成立

書名に対する理解の相違点

体裁に対する理解の相違点

第四節内容に対する理解の相違点

①三綱領

おわりに 注

﹁ 明

明 徳

I I  

﹁ 親

民 ﹂

︵ ﹁

新 民

﹂ ︶

﹁ 止

於 至

善 ﹂

I V  

三綱領それぞれの関係

②八条目

八条目と三綱領の関係

I I  

﹁ 致

知 ﹂

﹁格物﹂について

・ ・

・ ・

11

・ ・ ・

0

QU 

A

A

− 円 ︒

− −

QU

 

00

20 

2 1 

(3)

はじめに

孔子を始祖とする儒学は︑今日でも︑中国のみならず日本や韓国など東アジア各国に強

い影響を与えている︒そうした儒学の基本的な書物である経書の中でも︑とりわけ﹃大学﹄

は︑中国宋代に至って重要な書籍として理解されるようになり︑宋学の大成者である朱烹

︵ 一

一 三

01

一 二

OO

︶によって︑﹃論語﹄﹃孟子﹄﹃中庸﹄に並ぶ四書の一つとして位

置づけらた︒﹃大学﹄は︑修己治人︑つまり自己の人格を高めそれに基づく政治を行うと

いう儒学の最も基本的な骨格を明らかにしている書として︑学問の基本を示したものと考

え ら

れ て

い た

こうした﹃大学﹄の重視は︑明代に至り︑朱子学を批判する王陽明︵一四七九

1

一 五

九︶による︑いわゆる陽明学が現れても変わることはなかった

D

陽明の主著とされる﹃伝

習録﹄では︑その冒頭に﹃大学﹄の解釈を巡る議論が展開されており︑彼の思想の骨格を

示す﹁致良知﹂の説は︑これから見るように彼の﹃大学﹄に対する独創的な解釈に基づく

ものである

D

いわゆる新儒教と呼ばれる朱子学と陽明学︑﹁性即理﹂を唱える朱子学も︑

﹁心即理﹂を主張する陽明学も︑ともに﹃大学﹄を極めて重要な書物と考えていたのであ

さて︑こうした儒学は︑日本の江戸時代になると特に注目を集めるようになった︒江戸 る ︒

時代初期には︑林羅山︵一五八三

i

一六五七︶や山崎闇斎︵一六一九

i

八二︶などの朱子

学者が登場し︑徳川幕府の文治政策とも相侠って︑朱子学は幕府の学問となり︑その影響

力は幕末まで続いた︒しかし一方︑儒学の定着とともに︑伊藤仁斎︵一六二七

i

一 八

O

五 ︶

や荻生但保︵一六六三

1

一七二八︶などの古学が︑朱子学を批判した新たな日本的な儒学

を提唱するようにもなっていった︒そんな中にあって︑これから問題とする中江藤樹︵一 六

O

i

四八︶は︑初め朱子学に傾倒したが︑後に陽明学に出会って大きな影響を受け︑

独自の思想を築くことになる

D

そしてそうした藤樹は︑生涯を通じて︑﹃大学﹄の﹁明明

徳﹂を自分の学問の根本として理解していたのであった

D

では︑藤樹は﹃大学﹄をどのよ

うに解釈し理解していたのだろうか口彼は︑朱子学や陽明学に対してどのような独自の思

想を形成したのだろうか︒この問題を明らかにするために︑本論文では﹃大学﹄の﹁三綱

領﹂と﹁八条目﹂に焦点を当て︑その註釈をめぐって中江藤樹の思想を分析したいと思う︒

後に説明するように︑そもそも﹃大学﹄には朱子学がテキストとして定めた︑いわゆる宋

本と︑王陽明がテキストとしたいわゆる古本とがあり︑テキストそのものにも問題がある

D

そうしたテキストの違いに基づく朱烹と王陽明の相違などを検証しながら︑中江藤樹がそ

れらを踏まえてどのように独自の思想を形成したかについて︑考えていきたいと思う︒

本論文では︑まず藤樹の年譜によって︑その思想的な遍歴を簡単に振り返ってみる口右

にも述べたように︑藤樹は最初朱子学に傾倒したが︑次第に疑問を抱くようになり︑晩年

に王陽明に出会い︑大きな影響を受けることになった︒その経緯を見ていく

D

次に︑藤樹

が﹃大学﹄をどのように理解していたのか︑その内容の分析とともに︑﹃大学﹄という書

名の意味や︑その形態についても藤樹の独自の理解を見ていきたい︒

(4)

第一章 中江藤樹年譜の紹介

中江藤樹︵一六

O

i

四八︶は日本江戸時代前期の儒学家であり︑日本における陽明学

の祖だと言われた人物である

D

彼の思想は後の日本に深い影響を与えている口藤樹の生涯

を辿るにあたっては︑門人によって書かれたと考えられる﹃藤樹先生年譜﹄に依ることが

多い︒尾藤正英氏の岩波日本思想大系本解題によれば

1

︑作者は不詳であるが︑﹁藤樹の

伝記として編纂された文献の中では最も信頼性に富むもの﹂で︑正保三年︑藤樹三十九歳

までの記録は藤樹の存命中に弟子によって記録され︑おそらくは藤樹自身も目を通したも

のと考えられ︑その点で﹁自伝に近い性格をおびた﹂ものともされる︒以下︑そうした﹃藤

樹先生年譜﹄を参考に︑藤樹の生涯を見てみよう︒

︵*以下﹃藤樹先生年譜﹄からの引用は︑岩波思想大系本に拠り︑文末に頁数を付した

D

第一節 中江藤樹の生涯と親孝行

先生︑議ハ原︑字ハ惟命︑姓ハ中江氏︑仮名ハ与右衛門︑江西高嶋郡小川村ノ人也口

考︑講某︑字ハ吉次︑同郡北川氏ノ女ヲ妻︑先生ヲ藤樹ノ下ニ生ズ︒先生︑少ヨリ

出テ予州ニ仕︑后︑致仕シテ︑藤樹ノ下ニ学ヲ講ズ

D

門人︑従テ藤樹先生ト称ス︒

︵ 二

八 六

慶長十有三年戊申三月七目︒先生生︒

HH︶ 

二 年

丙 辰

先生九歳︒在一一伯岩田一口是年︑祖父吉長公ニ養ル︒此春︑祖父︑小川村ニ来テ︑先生

ヲ養ンコトヲ欲ス

D

父母︑其一男ナルヲ以テ不レ肯︒祖父︑固クコレヲ強フ︒故ニ

不レ得レ巳シテ遠ク伯州ニ遺ス

D 7

三 年

丁 巳

先生十歳︒在一一予州一︒今年︑伯州ノ大守左近公︑予州大洲﹇へ﹈*転任セラルロ故

ニ先生︑祖父ニ従テ大洲ニ往︒冬︑吉長公︑風早郡ノ宰トナル*

D

先生︑又従テ風

早ニ往ク︒︵二八三︶

藤樹は慶長十三年︑二ハ

O

八年三月七日に︑近江国西部の高嶋郡小川村︑現在の滋賀県

高島市の生まれ︑詳は原︑字は惟命︑通称は与右衛門︒実家は農家︑だが︑九歳の時︑米子

藩の武士だった祖父中江徳左衛門吉長の強い要望によって祖父の養子となり︑翌年︑米子

藩の転封にともなって伊予の大洲藩︑現在の愛媛県大洲市に移ることとなった口その後は︑

十五歳の時︑祖父の死とともに家を継いで︑大洲藩に仕える武士となるが︑二十七歳の時︑

老いた母親への孝行と自身の健康上の理由によって武士を辞め︑大洲藩から故郷の近江に

帰ることとなる

D

それからは︑私塾を開いて門人たちに学を講じたが︑慶安元年︑一六四 八年八月二十五日︑四十一歳という短い生涯を閉じている

G

藤樹という名前は︑彼の実家

に大きな藤の木があったことに由来している︒

(5)

ちなみに︑藤樹というと﹁親孝行﹂

にも窺うことができる口 のイメージがあるが︑それは例えば次のエピソード

︵寛永︶九年壬申︒先生二十五歳

D

春︑暇を乞テ︑江州ニ帰省スロ其意︑母ヲ倍テ予陽ニ帰リ︑定省ノ孝ヲ尽サンコト

ヲ欲ス︒然レドモ︑母老テ︑古郷ヲ離レ遠途ニ趨クコトヲ欲セザルヲ以︑独リ予州

ニカヘル

D

帰路︑船中ニシテ始テ埠端ヲ患︑キワメテ甚シ

D

︵ 二

八 九

ほ二十五歳の時︑老いた母を大洲藩に迎えようと︑藤樹は近江の実家に帰った︒しかし

母親は︑頑なに故郷を離れようとしなかった︒仕方なく藤樹は大洲へ帰ったいというわ紅白

母を大洲に迎えることができなかった藤樹は︑二年後︑﹁定省ノ孝ヲ尽クサンコトヲ欲シ﹂

て︑武士の身分を捨て︑故郷へ帰ることになったわ紅白さらにここでは︑このとき大洲へ

の帰りの船中で﹁略鴨﹂︑即ちぜんそくの発作がおこったと言われている

D

藤樹の四十一 歳という短い生涯は︑結核︑あるいは肺癌が原因だったと考えられる

D

この時以来︑藤樹

はこの病に生涯苦しむことになるのである口

第二節

中江藤樹の儒学受容学閉

次 に

そうした藤樹における学の変遷の姿を﹃年譜﹄に辿ってみよう

D

① 

朱子学の受容

3‑

藤樹の儒学は︑まず朱子学の受容から始まる︒十七歳の﹃年譜﹄には︑次のように書か

れ て

い る

蓋先生︑幼シテ祖父母二離レ︑家ヲ継︑君ニ事フ︒是故ニ︑身ヲ情︑家ヲ斉へント ︒

欲スレドモ︑其道ヲシラズ

D

嘗テ﹃大学﹄ノ句読ヲ習ニ︑﹁正心﹂﹁修身﹂﹁斉家﹂

等ノ語アルニヨツテ︑儒学ニ身ヲ惰メ家ヲ斉ル道アルコトヲ知ル︒然ドモ教ルモノ

ナフシテ黙止ヌロ今︑禅師来テ講ズルヲ幸トシテ︑潜ニ往テ是ヲ開︒﹃論﹄ノ上篇

ノ講終テ︑禅師京ニ帰ル︒先生︑又師トスベキ者ナキコトヲ愁テ︑﹃四書大全﹄ヲ

求ム︒然レドモ人ノ誹誘ヲ憧テ︑昼ハ終日諸士ト応接シ︑毎夜深更ニ及デ︑業トシ

テ二十枚ヲ見終テ寝ヌ口其通ゼザル所アレパ︑思テ忘レズ︒夢膝ノ問︑人アリテ示

ガゴトクニシテ︑暁得スルコト多シ︒先﹃大学大全﹄ヲ読コトホトンド百遍ニ及デ︑

始テ暁得スロ﹃大学﹄通ジテ後︑﹃語﹄﹃孟﹄ヲ読ニ皆通ズ︒︵二八七︶

十五歳の時︑祖父が他界し︑藤樹は幼くして家を継いで︑大洲藩に仕えることになった

D

このため︑身を修めて︑自ら一家を為そうとしてはいたものの︑しかしその方法がわから

なかった︒そこで以前︑読みならった﹃大学﹄の﹁正心﹂﹁修身﹂﹁斉家﹂等の言葉を思

い出すとともに︑儒学にこそ︑身を修め︑一家を為す方法があることを知った︒ちょうど

その時︑京都から禅師が来たのでその﹃論語﹄の講話を聴きに行くわが︑途中で禅師が帰

(6)

ってしまったため︑その後﹃四書大全﹄を入手し夜遅くまで独力で自分世学んだとある口

﹃四書大全﹄は明代に編纂された︑朱子学の立場からの四書の注釈書である︒そのうち藤

樹は︑先ず﹃大学大全﹄を徹底的に読み込むことで理解し︑その後﹃論語﹄﹃孟子﹄と読

み進んでいったという︒ここには︑藤樹の学聞がまず朱子学の受容から始まったこと︑そ

してその基本的な理解が﹃大学﹄を通じてなされたことが示されているといえる︒

② 

格法の厳守

しかし︑そうした藤樹の朱子学受容には極めて大きな特徴があった

D

記事には次のように記されている

D

﹃年譜﹄二十歳の

先生︑専ラ朱学ヲ崇デ︑ 格套ヲ以受用

DH︶ 

藤樹は朱子学を尊んだが︑それは﹁格套﹂︑あるいは﹁格法﹂と呼ばれるものであった︒

﹁格法﹂とは︑藤樹によれば﹁法式﹂

2

︑あるいはまた﹁聖人の典要格式﹂︵二九五︶と

も言われる︒山下龍二氏によれば︑﹁格法﹂とは﹁朱子学で教えている経書の固定した注

釈法や︑日常の生活態度を規制する﹁小学﹂的な礼法﹂

3

などを指すものとされているが︑

藤樹の場合特に礼などの行為規範に厳格に従うことを意味していると考えられる︒その象

徴的な事例が﹃年譜﹄三十歳の記事に見られる口

先生三十歳

D

是年︑高橋氏ノ女ヲ婆ルロ蓋シ此時︑先生イマダ格法ニ泥ム︒故ニ﹁三

十市有レ室﹂ノ法ヲ執レリ

D

藤樹はちょうど三十歳で結婚した︒しかしそれは︑たまたまその時期に結婚したのでは

なく︑﹃礼記﹄内則に﹁三十にして室有り﹂と規定されていることに基づいている︒藤樹

にとって結婚は︑ちょうど三十歳でなければならなかったのである︒極めて形式主義的で

あるが︑こうしたことが先の﹁格法﹂にあたると考えられる︒こうした﹁格法﹂主義の立

場は︑藤樹が﹃論語﹄のなかでも特に郷党篇に注目していたことにも現れている︒郷党篇

は︑﹁孔子が︑その公的な生活︑また私的な生活において︑礼の規定︑すなわち当時の意

識における文化生活の様式を︑どのように遵奉し︑どのように解釈演緯していたかを︑記﹂

4

したものである︒そうした郷党篇への注目にも︑﹁格法﹂を重視した藤樹の初期の儒学

受容のあり方が現れていると考えられ口しかし︑そうした﹁格法﹂に対して︑藤樹は次第

に疑問を持つようになっていった

D

③ 

﹁格法﹂に疑問を抱く

﹃年譜﹄三十一歳には次のように書かれている

D

此ヨリ前︑専ラ図書ヲ読テ︑堅ク格法ヲ守ル︒其意︑専ラ聖人ノ典要格式等︑逐一

ニ受持セント欲ス︒然レドモ間時ニ合ハズシテ︑滞碍︑行ガタキヲ以テ︑疑テ以為

(7)

ラ ク

Ihto 

﹁聖人ノ道︑カクノゴトクナラパ︑今ノ世ニ在テ︑吾輩ノ及ブ処ニアラズ﹂

︵ 二

九 五

これまで朱子の注釈に従って図書を読み︑格法を守ってきた︒それは古代中国の聖人の

行為をそのまま同じように行おうとするものだった︒しかし︑それは多くの場合︑今の時

代にはうまく適合せず︑実践しがたいものだった︒もし﹁聖人の道﹂がこのようなものな

ら︑自分にはとうていできることではない︒藤樹は︑そのように考えるに至ったという︒

﹁格法﹂は聖人の振る舞いをそのままに行うことだが︑古代の中国と︑江戸時代の日本と

いう︑時代も場所も全く違うところで同じような行為が行われるべきなのか︑藤樹は次第

に疑問を抱くようになっていった口そして︑そうした疑問︑が決定的になるのが︑次の﹃年

譜﹄三十四歳の記述である︒

是年︑始テ専格套ヲ守ルノ非ナルコトヲ覚口此ヨリ前︑専ラ朱註ヲ尊信シテ︑日ニ

講二明之一︑﹃小学﹄ノ法ヲ以テ門人ニ示ス︒是故ニ︑門人格套ニ落在シ︑拘準日ニ

長ジテ︑気象漸ク迫レリ︒或ハ圭角アリテ︑同志ノ際︑ナヲ融通セズ︒一目︑門人

ニ謂テ目︑﹁吾︑久シク格套ヲ受用シ来ル口近来︑漸其ノ非ヲ覚フ︒格套ヲ受用ス

ルノ志ハ︑名利ヲ求ルノ志ト︑日ヲ同シテモ語ルベカラズトイヘドモ︑真性活様ノ

体ヲ失ブコトハ均シロ只吾人︑拘壁ノ意ヲ放去シ︑ミヅカラ本心ヲ信ジテ︑其跡ニ

泥ムコトナカレ﹂︒

今年になって︑始めて﹁格套﹂が誤りであったことがわかった︒これまで朱裏の注釈を

尊信し︑門人たちには﹃小学﹄の礼法を遵守すべきことを教えてきた︒だがそれによって︑

ほ門人たちはも﹁格法﹂に捕らわれて心に余裕がなくなり︑場合によっては門人同士の間

さえもぎすぎすしたものになってしまっていた︒そして︑ここで門人たちの姿として描か

れている﹁圭角﹂は︑同時にまた藤樹自身の姿でもあった︒藤樹二十二歳の﹃年譜﹄には

次の記述が見られる︒

5‑

春︑児玉氏*ニ行︒荒木氏*︑坐ニアリ︒先生ノ到ヲ見テ日︑﹁孔子殿︑キタリタ

マフ﹂と云︒其意︑ヒソカニ先生ノ学ヲ為コトヲソシル口先生日﹁汝ヂ︑酒ニクラ

ヒ酔カ﹂︒対日﹁コレ何ノ言ゾヤ﹂口先生ノ目︑﹁孔子ハ己ニ二千年前ニ卒タマフ︒

今︑我ヲ以テ孔子トスルハ︑汝︑酒ニ酔ズンパ︑汝︑目盲タルナラン︒思フニ︑我

ヲ以孔子トスルハ︑文学アルヲ以テカ︒文ヲ学ブハ︑士ノ道也︒汝ガゴトキノ文盲

ナルハ︑是奴僕*ナリ﹂︒荒木氏遁テ目︑﹁我︑コレヲ戯ル*︒請︑子*コレヲユル

セ﹂ト云ロイマダ圭角アルコト如レ此︒后来*︑徳︑日に進ニシタガイ︑全融和シ

了 ︒

春︑同僚の児玉氏のところへ行った折のことである︒同じく同僚の荒木氏が席に着いて

い た

D

藤樹が到着すると︑荒木氏は藤樹が秘かに学問をすることをそしって︑﹁孔子殿が

来た﹂と言った︒これに対して藤樹は︑﹁孔子は既に二千年前にお亡くなりになっている︒

今︑私を孔子と言うのは︑汝が酒によっていなければ︑盲目者であるに違いない︒思うに︑

(8)

私を孔子というのは︑私が君たちと違って︑学聞をするからであろう口だが文を学ぶこと

は︑武士の道である︒汝如き学に疎いものは︑下男と同じだ︒﹂と言ったという︒当時︑

言語・挙動にかどが立ち︑円満ではない状態であった藤樹の姿をそこに窺うことができる

だろう

D

だが︑ここでさらに注目されるのは︑藤樹が﹁格法﹂を否定する理由である口藤樹によ

れば︑﹁格法﹂は︑名利を求めることよりは準かに優れてはいるが︑﹁真性活発﹂︑つま

り本来の心の自由活発な働きを失う点では両者は等しいものだと言える︒自らの﹁本心﹂

を信じて︑行為の形式にとらわれではならない︒藤樹はそのように言うのである︒ここで

注目されるのが︑﹁格法﹂︑が︑﹁真性﹂つまり﹁本心﹂の自由な働きを妨げる点で否定さ

れていることである

D

行為の姿や形式にとらわれるよりも︑心の自在な働きこそが重要で

あるという︑この﹁真性活発﹂という考え方こそ︑後に﹃大学﹄の注釈に見る︑藤樹の思

想の要だったように思われる口

④ 

陽明学の影響を受ける

このように︑それまでの﹁格法﹂主義を否定していった藤樹に︑最後に決定的な影響を

与えたのが陽明学だった︒﹃年譜﹄三十七歳の記事に次のようにある口

是年︑始テ﹃陽明全集﹄ヲ求得タリ

D

トヲ悦ブ

D

其 学 弥 進 ム

D

︵ 三

OO

︶ コレヲ読デ︑甚ダ触発印証スルコトノ多キコ

この年︑﹃陽明全集﹄を入手し︑これを読んで︑藤樹は極めて大きな影響を受け︑﹁其

学弥進ム﹂と言われている︒では︑藤樹にとって陽明学の何が決定的な影響を与えたのだ

ろうか︒陽明学のどのような点に決定的な影響を受けたのだろうか

D

ここまで﹃藤樹先生

年譜﹄の記事を手がかりに藤樹の思想的遍歴をたどって来たが︑最後に︑この頃に書かれ

たと考えられる︑門人に充てた手紙を見てみよう︒

私事ふかく朱学を信じ年久しく工を用ひ申候へども入徳の効おぼつかなく御座候て学

術に疑出来︑憤ひらけ難きおりふし︑天道のめぐみにや陽明全集と申書わたり買取熟

読仕候へば︑拙子疑の如く発明ども御座候て憤ひらけ︑ちと入徳の横柄手に入申候様

に覚︑一生の大幸言語道断に候︒此一助無御座候はば此生をむなしく可仕にと有難奉

存候口︵中略︶百年巳前に王陽明と申す先覚世に出で朱学の非を指点し︑孔門嫡流の

学術を発明めされ候︒大学古本を信じ︑致知の知を良知と解しめされ候︒此発明によ

って開悟の様に覚え申候

D

︵ ﹁

与 池

田 氏

5

﹁長年深く朱子学を信じ︑その修養を積んできた

D

しかし一向に徳が身につくようには

思えず︑学問に疑いが生まれて︑なかなか前に進めない状態に陥ってしまった︒だがその

時︑天の恵みだろうか︑﹃陽明全書﹄に出会うことができた︒その喜びは言葉に尽くすこ

とができない︒この出会いが無かったら自分の一生は虚しいものとなってしまっただろう﹂

そう藤樹は言う︒そして藤樹にそうした大きな影響を与えた陽明学とは︑藤樹にとって﹁大

(9)

学古本を信じ﹂たこと︑そして﹃大学﹄の﹁致知﹂の知を﹁良知﹂と捉えるという解釈を

もたらした事︑つまりまさに﹃大学﹄の新たな解釈をもたらすものとして捉えられている︒

では︑﹁大学古本を信じ﹂︑﹁致知﹂の﹁知﹂を﹁良知﹂と解釈することとは︑藤樹に

とってどんな意味をもつものだったのだろうか︒次章で藤樹の﹃大学﹄解釈について︑そ

の骨格である﹁三綱領﹂﹁八条目﹂解釈に焦点を当てて︑見ていくことにする︒

なお︑藤樹は︑このように陽明学から大きな影響を受けた点において︑﹁日本陽明学派

の祖﹂と呼ばれることがある︒しかし以下に見ていくように︑藤樹は陽明ともまた異なる

思想を形成しているように思われる口ある意味では︑藤樹の﹁陽明学﹂は︑本来の陽明学

とは全く異なるものとさえ言えるのである

D

7

(10)

第二章

﹃ 大

学 ﹄

に 対

す る

朱 烹

王陽明と中江藤樹三人の理解の相違点

第一節

﹃ 大

学 ﹄

の 成

﹃大学﹄は儒教の最も基本的な経典に位置づけられるが︑しかし︑﹃大学﹄はもともと

独立した書物ではなく︑漢代に戴聖︵生没年不詳︶によって編纂された﹃小戴礼記﹄︑即

ち﹃礼記﹄四十九篇のなかに︑第四十二篇として編入されていたものである

D

宋 代

に 至

り ︑

同じように第三十一篇として含まれていた﹃中庸﹄とともに抜き出され︑﹃論語﹄︑﹃孟

子﹄とともに﹁四書﹂と呼ばれ︑儒教の基本的な経書として位置づけられるようになった︒

﹃大学﹄の文章が誰によって作られたのかについては︑現在でも不明のままである口ま

たその成立に関しても正確なところは分かっていない︒金谷治氏の岩波文庫解説によれば︑

﹁武帝の時の大学設置に関連して︑儒学的な国家有為の人材︵君主も含めて︶の育成を目

標として作られたということであろう︒﹂

6

とされる︒漢の武帝の時代に︑﹁大学﹂と呼

ばれる教育機関の設置に際して作られたものと考えられているようである

D

ではそうした﹃大学﹄について︑朱烹・王陽明︑そして藤樹はどのように考えていたの

か口まずは﹃大学﹄という書名について︑そしてその体裁についての三人の考え方の違い

を見てから︑内容の検討に入っていこう︒

第二節 書名に対する理解の相違点

朱 烹

は ︑

﹃大学﹄の注釈書である﹃大学章句﹄

7

に次のように述べている︒

三代の隆んなるや︑其の法寝く備われり︒然して後︑王宮園都より︑以て闇巷に及ぶ

まで学あらざるは莫し

D

人生れて八歳なれば︑則ち王公より以下︑庶人の子弟に至る

まで︑皆な小学に入れ︑而して之に教うるに漉掃・応対・進退の節︑礼・楽・射・御

・書・数の文を以てす︒其の十有五年に及んでは︑則ち天子の元子・衆子より︑以て

公・卿・大夫・元士の適子と︑凡民の俊秀に至るまで︑皆な大学に入れて︑而して之

を教うるに窮理・正心・惰己・治人の道を以てす口此れ又た学校の教え︑大小の節の

分れし所以なり

D

︵ 序

・ 二

九 ︶

大学なるものは︑大人の学なり︒

︵ 経

・ 四

六 ︶

朱烹によれば︑夏・股・周という古代において︑全国に教育の制度︑が完備していたとさ

れ る

D

そこでは︑子どもが八歳になると︑上は﹁王公﹂から下は﹁庶民﹂までの子供が︑

すべて﹁小学﹂に入り︑﹁漉掃・応対・進退の節﹂︑つまり掃除や日常の立ち居振る舞い︑

あるいは礼や音楽など﹁六芸﹂と言われる基本的な学科をおさめ︑さらに十五歳になると︑

﹁天子の元子﹂︵皇太子︶から﹁民の俊秀﹂までが﹁大学﹂に入り︑窮理や修己・治人の

道を学んだとい奮う︒つまり朱烹において﹁大学﹂とは︑﹁小学﹂に対するいわば高等教

育機関の名前であるとともに︑そこでの学問を指すものと考えられていた︒そしてそうし

たことを踏まえるとき︑﹁大学なるものは︑大人の学なり﹂とい

F 2 7

日 葉

に 見

ら れ

る よ

う に

(11)

﹁大学﹂は︑子どもが学ぶ﹁小学﹂に対するオトナの学聞を意味することになる

D

一 方

王 陽

明 は

︑ ﹁

大 学

問 ﹂

8

に次のように述べている︑

﹁大学とは︑昔儒は以て大人の学と為す

D

敢えて問ふ︑大人の学は︑何を以て明徳を

明らかにするに在りや﹂︒

陽明子日く︑﹁大人とは︑天地︑天地万物を以て一体と為す︑ものなり︒その天下を

視ることなお一家のごとく︑中国はなお一人のごとし︒その形骸を間てて爾我を分か

つ者のごときは︑小人なり︒大人の能く天地万物を以て一体と為すや︑これを意ふに

あらざるなり︒その心の仁は本々かくのごとく︑それ天地万物と一たるなり︒宣に惟

に大人のみならんや︒小人の心と離も︑亦た然らざるは莫し︒﹂︵三二︶

﹁ 大

学 ﹂

﹁大人の学﹂だというのは︑朱烹︵﹁昔儒﹂︶ の言葉だった︒朱烹は︑大学

をコドモの小学に対するオトナの﹁大学﹂と見ていたわけだが︑それに対して陽明は︑そ

の﹁大人﹂の意味を全く異なる意味に解釈していた口陽明によれば﹁大人﹂とは︑﹁天地

万物を以て一体と為すもの﹂とされる︒﹁天地万物を以て一体となす﹂の意味については︑

後に﹁三綱領﹂の﹁民に親しむ﹂のところでさらに詳述するが︑要するに陽明にとって﹁大

学 ﹂

は ︑

﹁ 万

物 一

体 ﹂

の 心

を も

っ た

理 想

的 人

問 ︑

たいじん

つまり﹁大人﹂になるための学問を意味

するものと理解された︒これに対して︑自分と他人︑自分と天地万物を分け隔てる人間が

﹁小人﹂である︒そしてさらに注目すべきことは︑陽明が﹁大人﹂についてが︑ご﹂れを

意うにあらざるなり﹂と述べていること︑つまり努力して天地万物と一体となろうとする

ものではない︑としている点である︒陽明によれば︑人間の心は本来﹁万物一体﹂のもの

であり︑私的な欲望に妨げられてそれが発揮できないと﹁小人﹂となってしまうのであり︑

そうした欲望を去りさえすれば︑今﹁小人﹂である人も﹁万物一体﹂の﹁大人﹂になれる

という口そしてそうした意味での﹁大人﹂になるための学聞が﹁大学﹂であるとするので

あ る

ではこれらを踏まえ︑藤樹は﹁大学﹂という名称をどのように考えていただろうか 藤

D

樹 は

﹁ 大

学 考

9

に次のように述べている口

9‑

大学は学問の総号︑本小学に対して言を立るに非ず︒聖門の学広大にして無上無外の

義を示さんために︑大学と号す︒小学の法も即ち大学の道也︒朱子の所謂﹁学の大小︑

固より同じからざる有り︒然れども其の道為るは則ち一のみ﹂とは是れ品︒故に大学

中の小節にして小子の学ぶに便りする処を小学となづく︒大小対言の説を誤り認めて︑

大学小学各別の見を立ることなかれ

D

︵ 二

i

一 二 ︶

これを見ると︑藤樹は﹁大学﹂を︑儒学という学問の広大さを形容する言葉と理解して

いたことがわかる

D

人として生きる道を示す大きな学問︑窮極の学問といった意味である︒

ここには︑朱烹の言葉を引きながら︑﹁大学﹂と﹁小学﹂の区別を藤樹が前提としている

ことが理解される︒しかし同時に︑藤樹にとって﹁小学﹂は﹁大学﹂の中に含まれるもの

(12)

とされ︑そこに教育機関としての﹁大学﹂﹁小学﹂の違いといった観点を見ることはでき

ない︒藤樹にとって﹁大学﹂は︑儒学という学問そのものの形容なのである︒従ってまた︑

ここには陽明が問題とした﹁大人﹂と﹁小人﹂の区別も考えられていない

D

以上︑﹃大学﹄の書名をどう理解するかについて︑三人の考えをまとめると次のように

なると思われる︒朱烹は︑﹁大学﹂﹁小学﹂という教育機関の存在を前提として︑﹁大学﹂

を︑オトナが学ぶべき学︑と捉えていた︒陽明は︑﹁万物一体﹂の心を持った理想的な人

間としての﹁大人﹂になるための学問と捉えていた︒これらに対して藤樹は︑﹁大学﹂を︑

儒学という学の広大さを形容するものと捉えていた口

では次に︑テキストとしての﹃大学﹄の体裁をどう捉えるかについて見てみよう

D

第三節 体裁に対する理解の相違点

﹃大学﹄はテキストに大きな問題がある︒もともと﹃大学﹄は﹃礼記﹄の第四十二篇と

して収録されていたのだが︑朱烹は︑﹃大学﹄を一冊の書物として独立させるとき︑その

本文に錯簡や脱文があると考え︑それを校訂したものを本文として確定したのである︒そ

の結果できあがったテキストが︑宋本と呼ばれる︵錯簡説は既に先行する北宋の二程子に

より指摘されており︑彼らもそれぞれが独自の校訂テキストを作るのだが︑最終的に朱票

が確定したものが宋本と呼ばれている︶

D

これに対して︑陽明は︑﹃大学﹄のもともとの

本文︵﹃礼記﹄第四十二篇︶に問題はないと考え︑それを元にもどしたものをテキストと

して復活させた口これを古本︑あるいは古本大学と呼ぶ

D

﹃大学﹄には朱子学と陽明学と

2 種類のテキストが存在するわけである︒

巻末の別紙に掲出した二つのテキストを比べてみると︑古本と宋本との間の移動の激し

さがわかると同時に︑宋本が︑特に古本の前半部分に対して多くの錯簡を認めていること

が理解できる

D

それを参照しながら︑朱烹・陽明・藤樹それぞれのテキストに対する考え

を 纏

め て

み る

まず宋本をテキストとした朱烹について︑

のような点が挙げられる︒

その本文に対する理解の特徴を列挙すると次

ー ︑

全 体

を ︑

回 目

頭 二

O

五字の﹁経﹂一章と︑その説明としての﹁伝﹂十章に分け︑あド﹁経﹂

は孔子の言葉を弟子の曽子が一記したもの︑﹁伝﹂はその曽子の解説をその弟子が−記した

もの︑と捉える︒日

E ︑三綱領の二番目︑もともと﹁親民﹂︑つまり﹁民に親しむ﹂とあったものを︑﹁新民﹂︑

つまり﹁民を新たにす﹂と読み替える=既に二程子によって指摘されていたものだが︑

朱 烹

は そ

れ に

従 っ

た ︒

皿︑﹁伝﹂の第五章に桁文や欠けた文章があったと考え︑欠けた文章を補った︒補った文

章は﹁格物補伝﹂と呼ばれる︒朱烹は︑﹁伝﹂第五章を﹁八条目﹂のうち最も重要な﹁致

知﹂と﹁格物﹂が説明されたものと考えた︒しかし︑その最も重要な文が﹁古本﹂には

(13)

欠けている︒あるべきものが無いと考えた朱烹は︑それを補う文章を考えたのである︒日

これに対して︑古本をテキストとした陽明は︑右に見た朱烹や次に見る藤樹と異なり︑

﹃大学﹄がどういった経緯で作られたかについて説明することはないが︑次のような特徴

を見ることができる口

ー︑全体を﹁大学の道は明徳を明らかにするに在り﹂で始まる冒頭の文章と︑続く﹁所謂﹂

で始まる五つの文章︑合計六つの部分から成ると考える︒ E ︑﹁経﹂﹁伝﹂の区別は設けない口

皿︑朱実山︑が改めた﹁新民﹂︵民を新たにする︶を︑元の形︑つまり﹁親民﹂︵﹁民に親し

む﹂︶に戻す︒その言葉の中に︑さきほど見た﹁万物一体﹂という心のあり方を見よう

とするものと言える

D

では︑これらを踏まえて藤樹はどう考えるのだろうか口結論から言えば︑藤樹は両者を

折衷する立場をとったといえる︒

ー︑陽明と同じく古本をテキストとした︒ E ︑朱烹に従い︑全体を﹁大学の道は﹂で始まる﹁経﹂と︑﹁所謂﹂で始まる五つの﹁伝﹂

とに分けていた︒また﹁経﹂は孔子の文︑﹁伝﹂はそれについての曽子の説明をその弟

子が記したものとした︒は

‑1 1  ‑

第四節 内容に対する理解の相違点

以上︑﹃大学﹄というテキストについての三人の考え方の相違を見てきた口ではそれら

を踏まえて︑﹃大学﹄の骨格をなす﹁三綱領﹂﹁八条目﹂について︑藤樹がどのように考

えたのか︑朱烹と陽明の考え方を踏まえることで考えてみることにする口

① 

三綱領

まずは﹁三綱領﹂︑

を比較してみる︒

つ ま

り ﹁

明 明

徳 ﹂

﹁ 親

民 ﹂

﹁ 止

於 至

善 ﹂

のそれぞれについて︑三人

ー︑明明徳

朱烹は﹃大学章句﹄に次のように注釈している口

明は︑之を明らかにするなり︒明徳なるものは︑人の天に得て︑虚霊不味︑以て衆理

を具して万事に応ずる所のものなり

D

但だ︑気菓の拘する所︑人欲の蔽う所となれば︑

(14)

則ち時ありてか昏す口然れども其の本体の明は︑則ち未だ嘗て息まざるもの有り︒故

に学者は当に其の発する所に因りて︑遂に之を明かにし︑以て其の初に復すべきなり︒

︵ 四

七 ︶

朱烹において﹁明徳﹂とは︑人が天から先天的に与えられている完全な道徳性を指すも

のとされる口人は皆︑生まれながらに﹁明徳﹂という完全な道徳性を与えられており︑そ

れ故に︑本来︑どんな事態にも正しく対処することができる︑とするのである︒朱烹はこ

の﹁明徳﹂を﹁性﹂ともまた﹁理﹂とも呼ぶ口一方人間は肉体を持ち欲望を持つので︑そ

うした道徳性がともすれば隠れてしまう

D

しかし隠されることはあってもが︑﹁明徳﹂そ

のものは決して損なわれることはない︒そこで︑そうした本来の道徳性に立ち返ることが

朱子学の大命題となる︒文末にある﹁以て其の初に復すべきなり﹂︑つまり﹁復初﹂が朱

子学の実践的な目標となるわけで︑その﹁復初﹂こそが﹁明明徳﹂︑即ち﹁明徳を明らか

にする﹂ことの内実ということになる︒

一方︑陽明は﹁大学問﹂に次のように説明している︒

大人とは︑天地万物を以て一体と為すものなり︒その天下を視ること猶ほ一家のごと

く︑中国は猶ほ一人のごとし︒その形骸を間てて爾我を分つ者のごときは︑小人なり︒

︵中略︶鳥獣の哀鳴穀鯨するを見れば︑市ち必ず忍びざるの心あり︒これその仁の鳥

獣と一体となるなり︒鳥獣は猶ほ知覚あるものなり︒草木の擢折を見れば︑而ち必ず

偶他の心あり

D

これその仁の草木と一体なるとなり︒草木は猶ほ生意あるものなり

D

瓦石の駿壊を見れば︑市ち必ず顧惜の心あり︒これその仁の瓦石と一体となるなり

D

これその一体の仁や︑小人の心と睡も︑亦た必ずこれあり︒これすなはち天命の性に

根ざして︑自然に霊昭にして昧まざるものなり︒この故にこれを明徳と謂ふ︒︵中略︶

有くも私欲の蔽なければ︑すなはち小人の心と雄も︑市もその一体の仁は︑猶ほ大人

のごときなり︒一たび私欲の蔽あれば︑すなはち大人の心と雄も︑市もその分隔隆陪

なること︑猶ほ小人のごとし︒故にかの大人の学を為す者は︑亦た惟だその私欲の蔽

を去りて︑以て自らその明徳を明かにし︑その天地万物一体の本然に復るのみ

D

︵ 三

一 一

1

二 一 ︶

楊明もまた﹁明徳﹂を生得的な道徳性と考えていること︑そしてそうした道徳性が︑欲

望によって隠されてしまうとする点は︑朱烹と同じである︒しかし︑陽明の場合︑その内

容は︑先にも見た﹁万物一体﹂の心として把握される︒引用に見たように︑その心は人間

に対してのみ働くものではなく︑烏や獣や植物︑さらには﹁瓦石﹂といったものにまで及

ぶものとされ︑特に人聞に適応された場合︑次の﹁親民﹂︑つまり民に親しむ心となって

現れるものとされる

D

﹁明徳を明らかにする﹂とは︑そうした﹁万物一体の本然に復る﹂

ことだというわけである︒

では藤樹はどうであろうか

D

﹁ 大

学 解

﹂ 日

に は

次 の

よ う

に 注

さ れ

て い

る ︒

明徳は人性の殊称︑其の徳たるや万物一体にして寂然不動︑感じて遂に天下の故と通

(15)

ず︒愛せざる所なく︑敬せざる所なし︒方寸に備るといえども︑天地大虚と相貫通し

て事髪の差異なし︒聖人の心︑其の本然なり︒聖人以下の者といえども︑人間の形あ

る者はたれも此の明徳を固有せざるはなし︒いかんとなれば︑明徳は人間の根なり

D

︵中略︶学術の論品多しといえども︑畢寛︑明徳を明にするより外はなし︒︵二四︵︸

﹁明徳﹂は︑﹁人性の殊称﹂﹁人間の根﹂と言われるように︑藤樹においてもまた人間 五 ︶

が誰でも持つ先天的な道徳性と捉えられている︒そしてその内容は︑陽明と同じく﹁万物

一体﹂という言葉で把握されている︒ここに見る限り︑藤樹の﹁明明徳﹂解釈は︑陽明と

ほぼ同じと考えられる

D

では﹁三綱領﹂の二番目の﹁親民﹂はどうだろうか︒

I I  

﹁ 親

民 ﹂

︵ ﹁

新 民

﹂ ︶

﹁親民﹂については︑三者の解釈にかなり大きな差が見られる口まずは朱子である︒

新とは︑その旧を革むるの謂なり︒言うこころは︑既に自ら其の明徳を明らかにす︒

又た当に推して以て人に及ぼし︑之をして亦た其の旧染の汚を去ること有らしむべし︑

と な

り ︒

︵ 五

一 ︶

朱烹は﹁民に親しむ﹂ではなく︑﹁民を新たにす﹂がテキストであると考えていた︒そ

の上で︑﹁民を新たにす﹂るとは︑自己の﹁明徳﹂を明らかにした上で︑そこで完成した

為政者の道徳性が︑民に感化をもたらし︑彼らの道徳性を完成させていくことだと考えら

れていた︒つまり︑君主が自分の明徳を明らかにした上で︑それを民へと推し広げ︑民の

旧来の汚れを改めて新たな人間へと導いていくこと︑民が民自身の﹁明徳﹂を明らかにす

るよう導いていくこと︑それが﹁民を新たにする﹂ことだと理解するのである︒

一方︑﹁親民﹂をテキストとする陽明は︑﹁大学問﹂に次のように言う︒

13‑

明徳を明らかにすとは︑その天地万物一体の体を立つるなり︒民に親しむとは︑その

天地万物一体の用を達するなり口故に明徳を明かにすとは︑必ず民に親しむに在り

D

而して民に親しむは︑すなわちその明徳を明かにする所以なり︒この故に吾の父に親

しみて︑以て人の父に及ぼし︑以て天下の人の父に及ぼして︑而る後に吾の仁は︑実

に吾の父︑人の父と天下の人の父と一体となるなり︒実にこれと一体となりて︑市る

後に孝の明徳始めて明かなり︒吾の兄に親しみ︑以て人の兄に及ぼし︑以て天下の人

の兄に及ぼし︑而る後に吾の仁は︑実に吾の兄︑人の兄と天下の人の兄と一体となる

なり口実にこれと一体となりて︑市る後に弟の明徳始めて明かなり︒君臣や︑夫婦や︑

朋友や︑以て山川鬼神鳥獣草木に至るまで︑実に以てこれに親しみ︑以て吾が一体の

仁を達することあらざる莫し口然る後に吾の明徳始めて明かならざるなくして︑市し

て真に能く天地万物を以て一体と為すなり︒︵三三

i

四 ︶

注目すべきことは︑陽明が﹁明明徳﹂と﹁親民﹂を同じ事柄だと捉えている点である︒

(16)

陽明によれば﹁明明徳﹂と﹁親民﹂は体と用の関係︑つまり﹁万物一体﹂の心を明らかに

することが︑実際の働きとしては﹁民に親しむ﹂働きとして現れると考えているというこ

とになる︒朱烹が二つを別々の事柄と捉えていたことと比べると︑大きく異なる︒そして

﹁民に親しむ﹂とは︑具体的には︑自分の父や兄への親しみゃ愛情を︑他人の父や兄へ︑

さらには天下の父や兄に広げてゆくこと︑同じ事が君臣や夫婦︑友人関係などの全てに行

われ︑さらには鳥や獣や草木などへもそれを押し広げてゆくこと︑そこに﹁万物一体﹂の

﹁明徳﹂が明らかになるとされるわけである︒

では藤樹はどうだろうか︒﹁大学解﹂には次のように注されている口

親民は明徳の感通なり口此の徳︑人心の主となって人倫に交わるときは︑必ず愛する

こと︑たとえば火の物を乾かし水の物を潤すが知し口明徳の名︑玄妙なるに依て︑学

者其の心に求むるに図方無からんことを慮りて︑人情切近の名を以て︑其の妙用を開

示 す

︒ ︵

一 七

﹁ 親

﹂ は

愛 な

り 口

氏 は

人 な

り 由

迩に就きて見ることなかれ

D

五倫を包ねて見るべし

c

︵ 一

六 ︶

親民は心上に在りて講ず︒事

﹁親民﹂を﹁明明徳﹂と同じ事柄と捉える点に関しては︑先に見た陽明と藤樹は同じで

ある︒藤樹もまた︑﹁万物一体﹂の﹁明徳﹂という本心は︑﹁人を愛する﹂心として現れ

るとする︒しかし︑藤樹と陽明は︑ある点で大きく異なる︒陽明は﹁民に親しむ﹂という

あり方を︑実際に自分の父や兄に親しむという実践の中で考えていた︒ところが藤樹は︑

﹁民に親しむ﹂という言葉について︑﹁心上に在りて講ず︒事迩に就きて見ることなかれ﹂

という︒つまり︑藤樹においては﹁民に親しむ﹂という言葉は︑それを生み出す﹁万物一

体﹂の﹁明徳﹂が︑﹁親しむ﹂という感情の形で︑自己の心の中に確かに存在することを

確認するためのものだったのであるだ口﹁明徳という名称が分かりにくいので︑﹁民に親

しむ﹂という身近な感情を例とすることで︑﹁明徳﹂の働きを示した﹂と藤樹は言う︒つ

まり藤樹においては︑﹁民に親しむ﹂は︑実践の問題ではなく︑学者にとって身近な感情

で﹁明徳﹂の姿を自覚させるための言葉として考えられていたのである︒藤樹の視線は︑

あくまでも自己の内なる﹁明徳﹂にのみ向けられているのだといえるだろう

D

﹁ 止

於 至

善 ﹂

﹁止於至善﹂について朱子は﹃大学章句﹄に次のように註釈している︒

止まるとは︑必ず是に至りて遷らざるの意︒至善は︑則ち事理当然の極なり︒言うこ

ころは︑明徳を明らかにし民を新たにするは皆な当に至善の地に至りて遷らざるべし︑

と な

り ︒

︵ 五

三 ︶

﹁止﹂はそこに至って移らずどこへも行かないこと︑﹁至善﹂は物事の理の極致をいう

とされている︒つまり︑自己の道徳性を高める﹁明明徳﹂と︑それによって達成される﹁民

(17)

を新たにする﹂という事態の窮極に至り︑そこに止まって動かないこと︑そう朱烹は解釈

する︒﹁明明徳﹂と﹁新民﹂を別々の事柄と考える朱烹であってこその解釈といえる口

一方︑陽明は﹁大学問﹂に次のように解釈する︒

至善とは︑徳を明かにし民に親しむの極則なり

D

天命の性は︑粋然たる至善なり︒そ

の霊昭にして昧まざるものは︑これその至善の発見なり︒これすなはち明徳の本体に

して而してすなはちいわゆる良知なるものなり巳至善の発見は︑是は市ち是とす︒非

は市ち非とす

D

︵中略︶明徳を明らかにし民を親しみて︑至善に止まらざれば︑その

本を亡う

D

故に至善に止まりて︑以て民に親しみてその明徳を明らかにす口これをこ

れ大人の学と謂う︒︵三四

1

五 ︶

陽明は﹁明明徳﹂と﹁親民﹂を同じ事柄だと考えていたが︑﹁止於至善﹂はその両者の

﹁極則﹂だと言う︒つまり︑﹁明明徳﹂と﹁親民﹂は︑﹁止於至善﹂という根底があって

こそ初めて成立すると言うのである︒ここで注目すべきは︑陽明が﹁至善﹂を﹁明徳﹂の

﹁本体﹂であるとしている点︑そしてさらにその﹁至善﹂が﹁良知﹂と言いかえられてい

る点である︒周知のように﹁良知﹂はもと﹃孟子﹄の言葉で︑先天的な善悪の判断能力を

いう︒陽明によれば︑﹁万物一体﹂の﹁明徳﹂を明らかにすること︑実践的には﹁民に親

しむ﹂ことは︑﹁明徳﹂の本体である﹁至益旦︑すなわち﹁良知﹂という先天的な判断力

にしっかりと止まり続けてこそ可能になるとされるわけである

D

では藤樹はどうだろうか︒同じく﹁大学解﹂では次のように述べられている︒

‑15 ‑

﹁止﹂は此に至りて遷らざるの意︒﹁至﹂は極なりロ

善なり︒親愛中の寂然不動の本体を﹁至善﹂とす︒

﹁華同﹂

︵ 二

四 ︶

は至誠無息の名︒親愛は

学問の本然は明徳を明らかにするに在り︒明徳を明らかにする工夫は︑親民の情の中

に於いて︑其の本体を止め知り︑ここに止まりて遷らず変ぜざるより外はなしと示す

意なり︒親民は︑本体を認むるに便りある所を示すのみなり︒︵二七︶

引用文には示していないが︑藤樹もまた︑揚明と同じく﹁至善﹂を﹁良知﹂としていた︒

は そ

の 点

で は

同 じ

な の

だ が

﹁ 止

於 至

善 ﹂

の解釈においては︑陽明とかなり違っている︒

藤樹によれば﹁止於至善﹂とは︑﹁親民﹂の情の中に︑その本体である﹁至善﹂を﹁止め

知る﹂ことだとされる口つまり藤樹においては︑学問の窮極は﹁明明徳﹂にあるとされ︑

その﹁明徳﹂の姿を具体的に知るために﹁親民﹂の情を自分の心の中に確認し︑それを手

がかりとして︑﹁明徳﹂の本体である﹁至善﹂︑つまりは﹁良知﹂をしっかりと﹁止め知

る﹂ことが求められているわけである︒陽明において﹁止於至善﹂は︑﹁明明徳﹂と﹁親

民﹂が成り立つ基盤だったが︑藤樹においては︑﹁明明徳﹂の具体的な工夫のありかたが

﹁親民﹂と﹁止於至善﹂だと位置づけられるのである︒同じく﹁万物一体﹂や﹁親民﹂を

説きながら︑藤樹と陽明はその点で大きく異なっているのである

D

(18)

W ︑三綱領それぞれの関係

上 文

を 踏

ま え

る と

官 ︑

まとめることができる︒

﹁ 三

綱 領

の解釈と︑三綱領それぞれの関係について次のように

・朱烹ぃ﹁明明徳﹂は︑先天的な道徳性を明らかにして︑自己を道徳的に完成させること口

﹁新民﹂は︑道徳的となった為政者が︑その道徳性によって民を自己革新へと導くこと︒

﹁止於至善﹂は︑そうした﹁明明徳﹂と﹁新民﹂の窮極の状態に止まり続けること︒

・陽明一﹁明明徳﹂は﹁万物一体﹂の﹁明徳﹂を明らかにすることであり︑それは具体的

には﹁民に親しむ﹂という意味での﹁親民﹂という形で実践される

D

そ う

し た

﹁ 明

明 徳

﹁親民﹂を成立させるために︑﹁明徳﹂の本体としての﹁至善﹂︑則ち﹁良知﹂にしっか

りと止まり続けることを﹁止於至善﹂とする︒

・藤樹一﹁明明徳﹂は﹁万物一体﹂の﹁明徳﹂を明らかにすることであり︑それが学問の

目的である︒﹁明徳﹂の存在を自己の内に確認するために﹁親民﹂の情を手がかりとし︑

確認された﹁人を愛する﹂感情のなかに︑﹁明徳﹂の本体である﹁至善﹂︑則ち﹁良知﹂

を﹁止め知る﹂ことをが﹁止於至善﹂とする

D

② 

八条目

では最後に︑八条目について三者の解釈の相違を踏まえながら藤樹の特徴的な思想を見

てみよう︒以下︑まず八条目の位置づけ方︑あるいは﹁八条目﹂と﹁三綱領﹂との関係を

概観した上で︑特に︑朱烹・陽明・藤樹の解釈が大きく異なる﹁致知﹂﹁格物﹂について︑

その違いを見てみたい

D

ー︑八条目と三綱領の関係

まず﹁明明徳﹂と﹁新民﹂を別の事柄と考えていた朱烹は︑八条目をその二つの項目に

分けて考えていた

D

具体的には︑まず行うべきは﹁明明徳﹂︑つまりは自己の道徳的完成

で︑その具体的な実践を示したものが﹁修身﹂﹁正心﹂﹁誠意﹂﹁致知﹂﹁格物﹂だとさ

れる︒一方︑民のあり方を変えるという意味での﹁新民﹂に︑﹁平天下﹂・﹁治国﹂・﹁斉

家﹂があてられることになる︒ここで注目すべきは︑朱烹の場合︑﹁三綱領﹂も﹁八条目﹂

もその実践の順序が重要視されていた点である

D

日つまり﹁三綱領﹂に関しては自己を高

める﹁明明徳﹂があってこそ︑初めて﹁新民﹂が実現できるとされるわけだから︑八条目

も︑その出発点である﹁格物﹂と﹁致知﹂の実践が︑最終的に﹁平天下﹂へと︑階段を上

るように実践されなければならないとされるのである︒

一方︑﹁万物一体﹂の実現という観点から﹁明明徳﹂と﹁親民﹂を同じものと考えてい

た陽明にとって︑﹁平天下﹂﹁治国﹂﹁斉家﹂を︑﹁万物一体﹂が実現している状態と捉

(19)

えていたことは容易に想像︑がつく

D

しかし︑陽明にとって︑そうした﹁万物一体﹂の状態

を実現するのも︑結局は自己の心の働きに基づくものと理解されていた口従って﹁八条目﹂

の残りの﹁修身﹂﹁正心﹂﹁誠意﹂﹁致知﹂﹁格物﹂もまた︑﹁平天下﹂や﹁斉家﹂と同

じレベルの問題と捉えられることにる

D

﹁三綱領﹂﹁八条目﹂の実現に厳格な順序を考え

た朱宣爪に対して︑陽明においては︑﹁八条目﹂の全ては一体のものと考えていたのである︒

ただし︑そうした陽明も﹁八条目﹂の中心となるのは﹁誠意﹂であると考えていた︒日﹁誠

意﹂の﹁意﹂とは︑なんらかの行為をおこす時の﹁意志﹂といったものにあたる︒心は元

来正しいものだが︑なんらかの行為をおこそうとする時︑その意志に不正が生じる可能性

がある︒そこで︑おこそうとする行為に即して︑その意志を︑先天的な判断力である﹁良

知﹂に基づいて正していくこと︑﹁誠﹂にすることが﹁誠意﹂である︒そして︑そうした

﹁ 誠

意 ﹂

の 実

践 方

法 と

し て

﹁致知﹂や﹁格物﹂が重要視されていくこととなった︒口

こうした理解から影響を受けた藤樹は︑基本的に陽明の考え方を踏襲する︒つまり︑﹁八

条目﹂を一体的なものと捉えること︑その中心を﹁誠意﹂と捉えること︑そして﹁誠意﹂

の実践の方法を﹁致知﹂および﹁格物﹂とすることなどがそれにあたる︒しかし︑すでに

﹁親民﹂の解釈に見た藤樹の内向きの視線は︑﹁致知﹂﹁格物﹂ついて︑陽明と大きく異

なる解釈をもたらすことになるのである

D

I I  

﹁ 致

知 ﹂

﹁ 格

物 ﹂

に つ

い て

17

まず︑朱票の解釈は次の通りである︒

﹁致﹂すとは︑推極なり口知は猶お識のごとし︒吾の知識を推し極め︑其の知るとこ

ろ尽くさざる無からんことを欲するなり︒﹁格﹂は至るなり︒物は猶お事のごとし︒

事物の理に窮め至りて︑其の極処到らざる無からんことを欲するなり︒︵六六︶

﹁推極﹂とは︑窮極まで極め尽くすことを意味する口また﹁致知﹂の﹁知﹂は知識のこ

とだと朱烹は言う︒つまり朱烹にとって﹁致知﹂とは︑知識を極め尽くし︑もはや知らな

いことが無いようにすることを意味している口

一方︑﹁格物﹂については︑﹁格﹂を﹁至る﹂の意味だとし︑﹁格物﹂を﹁事物の理に

窮め至る﹂ことだとする︒朱烹にとってこの世界は︑一つの﹁理﹂によって貫徹されてい

るものと捉えられる︒従って︑どんな事物にでも﹁理﹂がある︒﹁格物﹂とは︑そうした

﹁理﹂を一つ一つの事物の中に窮極まで極め尽くしていくことを意味する︒そしてその結

果として︑﹁致知﹂︑すなわち完全な知識を得ることができる︑というわけである︒さら

に言えば︑朱烹にとってそうした事物の﹁理﹂はまた︑﹁明徳﹂と呼ばれた先天的な道徳

性と同じものと考えられていた︒﹁明明徳﹂で言われた﹁明徳﹂の探究は︑最終的に﹁致

知﹂﹁格物﹂で得られた﹁理﹂とぴったりと重なり合うものと考えられていたのである︒

こうした朱烹の理解に対して︑陽明は全く異なる解釈を提出した︒陽明は﹁致知﹂を﹁良

参照

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