ロ ン ドン国際医学大会 の意義 につ いて
小 川 虞里子
要 旨 : 科学技術 の発展 に、研究者 な らびに研究成果 の国際的な交流 が極 めて重要 であ ること はい うまで もない。 医学 につ いては、種 々の医学知識 の交換 のみな らず、世界的な流行が危倶 さ れ る伝染病 のよ うな場合、 国際的な協調 の もとに治療や予防策が進 め られ ることが肝心 である
。19
世紀 ヨー ロ ッパ全域 を襲 ったコ レラの流行 の後 には、検疫体制 に関す る各 国の協調 が流行 阻止 の鍵であることか ら、
1851年 のパ リ会議 を最初 に、 ウィー ン、 コ ンスタ ンテ ィノープルな どで国 際衛生会議 が開催 されてきた。
国際衛生会議が政府代表 による国際協定 の取 り決 めを主 眼 とす るのに対 し、以下 に取 り上 げる 国際医学大会 は、医学研究者 による国際会議 である
。第
5回 ジュネ‑ヴ、第6回アムステルダム に続 く、 ロ ン ドン国際医学大会 は参加者 の数、顔ぶれの豪華 さ、取 り上 げ られたテーマの多彩 さ か ら群 を抜 くものであ った。 これまでほとん ど知 られ ることのなか った会議 の全容 を明 らかに し、
1881
年 とい うこの時期 に、世界的な医学研究者が一堂 に会 した意義 を考 えてみたい。
1.
開催 までの経緯
1879
年 に ア ム ス テ ル ダ ム で 行 わ れ た第
6回 国 際 医 学 大 会IMC (InternationalMedical Congress)で次 回1881年 イギ リスでの開催が採択 され、 これを受 けてイギ リスでは内科医師会 会長、外科医師会会長をは じめ各大学、省庁関係者で直 ちに協議が行われ、 ジェームズ ・バ ジェッ
ト卿
OamesPaget1814‑99)、 ウィ リアム ・ジェンナ‑卿
(w illiam Jenner1815‑98)、 ウィ リ アム ・ガル卿
(w illiam Gull1816‑90)、 ジ ョゼ フ ・リスク一教 授
UosephLister1827‑1912)らで暫定委員会 が立 ちあげ られた。 そ して外科医学界 の大御所 ジェームズ卿 を会長 に、 同 じく 外科医のウィ リアム ・マ コーマ ック
(W illiam MacCormac1836‑1901)を事務局長 に選 出 して、
1881
年
8月 の開催 をめ ざ し2 年余 の期 間をかけて準備が進 め られ ることにな った
【1]。アムステルダム大会終 了か らロ ン ドン大会 の開催 までの準備 につ いて は、 開会式 の時 に事務 局長 マ コーマ ックか ら詳 しく説 明 されたが、 あ くまで も公式手順 の説 明であ って、誘致運動 の 詳細 については語 られなか った。実 は、第
7回国際医学大会 を ロ ン ドンに誘致す る経緯 につい て は、 『英 国医学雑誌
』(BritishMedicalJoumal以下
BMJ)の編集長 で あ るアーネス ト・‑ ‑ ト
(ErnestAbraham Hart1815‑98)が深 くかかわ っていたので あ る
。 1840年 に創刊 された も のの凡庸 で発行部数 も振 るわなか った同誌 を一流 の国際雑誌 に育 て上 げた‑ ‑ トには、本大会 誘致 に対す る積年 の思 いがあ った[ 2 ] 。
1867
年編集長 に就任 したばか りの‑ ‑ トは、パ リで
1200名 の参加者 を集 めて開催 された第
1回
IMCに参加 した。他 国の政府 が公式代表者 を派遣す る中、英 国政府 が ま った く無 関心 であることに彼 は心穏 やかでない ものを感 じていた。英国か らは
72名 の医学関係者 の参加があ っ
たが、著名人 は皆無 であ った。 ‑ ‑ トは大会晩餐会 でス ピーチを行 い、 ロ ン ドンでの
IMC開催への意欲 を早 くも表明 したのであ った[ 3 ] 。
しか し、続 く4 大会 フィレンツェ
(1869年) 、 ウィー ン
(1873年)、 ブ リュッセル
(1875年) 、 ジュネー ヴ
(1877年) で も英 国政府 の関心 は一 向 に高 ま らなか った。 よ うや く少 し風 向 きが 変 わ ったのは、
1879年 の アムステル ダム大会 か らで、数少 ない参加者 の 中に ジ ョゼ フ ・リス ターが加 わ り、‑ ‑ トを勢 いづ けた。 リスターはフラ ンス語 で講演 を行 い、万雷 の拍手 を受 け た。 い ささか大 げ さで はないか と思 われ るが、
BMJは以下 の よ うに、彼 の消毒法 が大陸で高
く評価 されてい る様子 を伝 えた。
リスク一教授 は、 とどまるところを知 らない熱狂で迎 え られた。彼が前 に進み出ると ・・・
会場 は総立 ち とな り、割 れんばか りの歓 呼が繰 り返 され、 帽子 や‑ ンカチが振 られ、 キ ン グス ・カ レッジの傑 出 した教授 を万歳 で祝福 した。 ・・・ご想像下 さい、 この医学史上前 例 のないす は らしい光景 は、 アムステルダム大会会長 を務 め るユ トレヒ ト大学眼科学教授 ドンデル ス
(FransCorneliDonders)が、 スタ ンデ ィング ・オベー シ ョンに呆然 としている リスターに握手 を求 め、話 し始 めるまで続 き、 よ うや く訪 れた一 瞬の静寂 を破 って会長 は、 「リスク一教授、 あなたに捧 げ るのは我 々の称賛 のみな らず、感謝 であ り、 ここに参 加 している各 国か らの感謝 なのです」 と話 しか けた[ 4 ] 。
‑ ‑ トは同大会 の名誉会長 に選 ばれ、 お別れ晩餐会 で乾杯 の音頭 を取 り、次 回開催地 として名 乗 りを上 げ、 その後医学 関係者 との間で調整 が行 われ、 国際会議 と英 国医学協会 の年会 (ワイ
上島の海浜 リゾ‑ 上地 ライ ドで開催) の抱 き合 わせ開催 が決 め られたのである【 5 ] 。
2 . 真 に国際的な会議
第
7回
IMCは
1881年
8月
2日か ら9日まで、約3180名 の会員 の参加 を得 て、 ロ ン ドンで 開催 された。事務局長 マ コーマ ックは国内外 に広 い人脈 を もつ外科医で、 それが功 を奏 して多 くの しか も当該分野 の世界第一級 の人物、 た とえば ドイ ツの病理 学者 ウ ィル ヒ ョウ
(Rudolf Virchow 1821‑1902) (8月
3日に招待 講 演)、 フ ラ ンスの微 生 物 学 者 パ ス トゥール (Louis Pasteur1822‑95) (8月
8日に招待講演)、 ドイ ツの細菌学者 コ ッホ (RobertKoch1843‑1910)らが一堂 に会す ることにな ったのである
。大会終了後 には彼 が この国際会議 の会議録 の編纂 を 指揮 し、全
4巻、総 ペー ジ
2552に上 る報告書 を完成 させ た。 なおイギ リスか らは トマス ・ヘン リー ・‑ クス リー
(ThomasHenryHuxley1825‑95)、 ジ ョゼ フ ・リスク‑、 リチ ャー ド・
オーエ ン
(RichardOwen1804‑92)ら総 出の応対 とな った ことは言 うまで もない[ 6 ] 。
開会式 は
8月
3日にセ ン ト・ジェイムズ ・ホールで行 われ、最初 にイギ リス医学界 を代表 して、 ウィ リアム ・ジェンナ‑が挨拶 した。 ジェンナ‑は内科医師会 の会長職 に就 いたばか りで、
今後
6年間 その重責 を担 う トップの人物である
。続 くジェイムズ ・バ ジェ ッ トは会長演説 で、
科学 と治療技術 の向上 に、各 国の参加者 は国を背負 って敵対す るのではな く愛 国心 を脇 にや っ て、一丸 とな って取 り組 むべ き ことを説 いた。 そ して注 目すべ き話題 の一つ として微生物学 に 触 れ、科学 的真理 の進歩 と生命 の歴史 の類比 を挙 げて、際限のない研究 にチ ャレンジす る勇気 を鼓舞 したのであ っ
た [7]。同 日午後 4時半か らは、先 に触 れたウィル ヒョウの招待講演 「 病理学的実験 の価値 について」
が ドイツ語 で行 われ、 その後 サ ウスケ ンジン トンの博物館 で、英 国皇太子 な らびにプロイセ ン か らフ リー ドリヒ皇太子 (ヴ ィク トリア女王 の長女 の婿、英 国皇太子 の義兄) も臨席 の上 で晩 餐会 が行 われ、約
3,000名 が参加 した【8 ] 。生体解剖反対運動 に抵抗 して活躍 して きたダー ウ ィ
‑ 98‑
ンも、会長 のバ ジェッ トやガルの強
い懇請 を受 け、 この晩餐会 だけは出席 した。皇太子 の向か い側、 ウィル ヒ ョウとアムステルダム大会で会長 を務 めた ドンデル スとの間 に着席 させ られた ダーウィンは、絶 え間な くひ どい英語 で話 しかけ られ死 にそ うだ った と述懐 している[ 9 ] 。直接 の医学関係者 で もないダー ウィンが、本大会の晩餐会 の最上席 を占めた ことは、彼 の名声が単 に生物学分野 に とどまることな く社会的に揺 ぎ無 い もの とな った ことを物語 るもので もある
。医学 ・生理学研究者 が研究遂行上必要 な もの と考 えてい る生体解剖実験 に対 し、
1875年 に激
しい反対運動が展開 され ることにな った とき、 ダーウィンは彼 の豊 かな人脈 を生か して迅速 な 対応 を打 ち出 したのであ った。彼 の学問上 の評価 もさることなが ら、科学界一般への彼の貢献 に対す る評価 で もあろう
。英国を代表す る医学史家 で
ScienceandthePracticeofMedicineintheNineteenthCentur yの著者 と して も知 られ るウィ リアム ・バ イナムは、
IMCロン ドン大会 を医学 が国際舞台 に躍 り出る幕 開けのイベ ン トと位置付 けている
。彼 も指摘す るように、本大会以前 に も数 々の医学分野の国 際会議 は開催 されているものの、参加者 の多 さ、注 目度 の高 さか ら特別であ った との評価であ るい 0 ] 。大会期間中は、医学関係者 のみな らず、 シテ ィの長 (ロン ドン市長) や裕福 な市民や慈 善家 によるさまざまなパ ーテ ィーが繰 り広 げ られ、移築 された
1851年 の ロ ン ドン万博 の建物 へのエ クスカー シ ョンな ども行 われた
[11]。また これ に合 わせて英 国医学界 の誇 りウィ リアム ・‑‑ ヴ ェイ
(W illiam Harvey157811657血液循環論 の提 唱者) の彫像 が彼 の生誕地 フォークス トンに建 て られ、除幕式が挙行 され るこ
とにな り、大会参加者 の中か ら
150名 ほどが参加 した。除幕式 では大英博物館 自然誌部門の部 長 リチ ャー ド・オーエ ンが生理学研究 における生体解剖 を含 む実験 的方法 の擁護 につ いて断固 た る態度 で講演 を行 い、拍手喝采 を浴 びた
[12]。大会 は翌 日か ら招待講演 を午後 に行 い、午前 中と午後の一部 は解剖学、病理学、薬物学、眼 科学、精神 医学 な ど各専 門の
15のセ クシ ョンに分 かれての発表 とデ ィスカ ッシ ョンが繰 り広 げ られた。
8月
8日の招待講演 は、 ドイツか らの招待者 フォル クマ ン
(RichardvonVolkmann 1830‑89)が 「 最近
10年 の外科医学の進歩 について」 と題 して リスターの消毒法 の世界的な影 響 を語 り、続 いて フランスのパ ス トゥールが 「 鶏 コレラと牌脱症 ( 炭痘) に関連す る予防接種 につ いて」 と題 し病原菌説 を前面 に押 し出 した短 い招待講演 を行 った
[13]。最終 日 8 月 9 日の招 待講演者 は、‑ クス リーが立 ち、生物科学 と医学 との関係 につ いて語 った。一般演題 の中に も 注 目すべ き講演 は多 く、 た とえば フラ ンスの神経病理学者 シ ャル コー
Oean‑MartinCharcot 1825‑93)は、 ス コ ッ トラ ン ドの神経学者 フェ リア‑
(DavidFerrier1843‑1928)の大脳 にお ける機能局在の研究 に大 いに感銘 を うけることにな った とい う[ 1 4 ] 。 ところが この フェ リア‑の 仕事 が、生体解剖反対 の急先鋒 コ ップ女史 の注 目す るところとな った。彼女 は国際医学大会 の 予稿集 を読 んでいて、飛 び上 が らんばか りに驚 き、す ぐさまフェ リア‑が
1876年 の動物虐待 禁止法 に沿 った許可 を得 ていない ことを突 き止 め、 このス コ ッ トラ ン ドの研究者 を起訴す るこ
とに したのである
[15]。3 . 微生物学の全面展開
一般病理 学 と病理 解剖 を扱 うセ クシ ョン
3は、 病理 学 会会長 のサ ミュエル ・ウ ィル クス
(samuelW ilks1824‑1911)が座長 を務め、バー ドン‑サ ンダー ソン他
2名が副座長 とな り、 コッ
ホ、パ ス トゥール、 ウ ィル ヒ ョウ、 ク レブス
(EdwinKlebs1883年 に ジフテ リア菌 の発見)、
H.C.
バ スチ ャン
(HenryCharltonBastian1837‑1915)らが参加 した。 セ クシ ョンを始 め るに あた って座長 の ウ ィル クスは講演 を行 い、以下 の よ うに述 べて、病理学 に も進化論 的な思考 の 必要 を示 唆 した
[16]。生物科学 のあ らゆ る分野 が下等生物 との関係 において、 また進化 の法則 に したが って研究 されつつ あ ります。 したが って病理学 もこの大 きな研究領域 の主題 とな り、動物 と植物 の すべての生命 の病気 を包含す るよ うにな らね ばな りません。
さ らに、 彼 は
1880年 に ロ ン ドンで 出版 された ジェイムズ ・パ ジ ェ トの著作 『病理学入 門』 を 取 り上 げ、人 間 と植物 の さまざまな組織 における変化 の類似 を観察 す ることの重要性 を示 した。
そ して、
1878年 の ロ ン ドン疫学協会 の例会 で発 表 され た論文 を念 頭 において、次 の よ うな発 言 を加 えた。
も し、 特定 の病気 が微生物 によ る と して、 仮 説 的 な接触感染 体
contagium vivumが実在 す る もので あ るな ら、他 の生物 と同 じ法則 にそれ らも したが っていな ければな りません。
そ して もし進化論 が正 しいな らば、 それはそれ 自体 の種類 の科 〔 分類項 目〕 および今 は廃 れて しま った他 の科 との間 に、多 くの関係 を もつ に違 いないのです。我 が国 [ イギ リス]
で は、 こう した考 え に立 って、 い く人かの医者 が研究 して います。 そ してそれ は必ずや実 りを もた らす ことで しょう
。ウィル クスの発言 は、微生物 を進化 の枠組 みで とらえ よ うとす るイギ リスの状況 に言及 してい るもので あ る
[171。病理部 門で は ウ ィル クスの講演 に続 いて結核 に関す る数人 の発表 が行 われ、次 にキ ングス ・ カ レッジの ジ ョゼ フ ・リスターが壇上 に上 が った。彼 は講演 に先立 ち コ ッホに謝辞 を述べてい るが、 これ は後 に触 れ る と して、 「創傷 に生 じる病 的過程 お よび炎症一般 と微生物 との関係 に つ いて」 と題 す る彼 の講演 内容 を見 てお こう
[18]。 リスターは講演 の冒頭 で、微生物 と特定 の病 気 の関係 を例証す る事実 の確立者 と して、パ ス トゥール を絶賛 し、 コ ッホの実験手法 を褒 め称 えた。 そ して炎症 や化膿 が微生物 によ って起 こされ る例 を、尿毒症 や乳房切除で論 じたの ち、
興味深 い ことに彼 は自分 の助手 としてエデ ィンバ ラか らキ ングス ・カ レッジに移 った外科医チ‑
ネ
(W illiam W atsonCheyne1841‑1915)とアバ デ ィー ンの若 い外科医オ グス トン
(Alexander Ogston1844‑1929)の仕事 を詳 し く紹介 した。両者 は リスターの消毒法 を支持 し、 コ ッホを崇 敬す る次世代 の微生物学者 とい って よいだ ろう
。SpreadingGermsの著者 ウ ォーボーイズ もこの
2名 の外科 医 を
19世紀
80年代 のイギ リス細菌学 の期待 の星 とい う評価 を して い る
。ただ し、
90
年代 には
いる と彼 らは臨床 に専念 して、細菌学 の第一線 か らは遠 ざか って しま うことにな るのであ るが
【19]。リスターの講 演終了後 にデ ィスカ ッシ ョンが行 われた
。最初 に発言 を求 めたの は ロ ン ドン大 学教授 バ スチ ャンで あ った。彼 は
2つの基本 的な問題 を提起 した。
(1)問題 の微生物 は、用語 の厳密 な意 味で真 の 「 種」 をなす のか、 あるいは変化可能 な もの、 その変化 も可逆 的な ものな のか。
(2)その よ うな生物 は健康 な動物 の組織 や体液 に 自然 に見 られ る ものなのか、見 られな い もの な の か。 そ して イ ン ドで活 躍 す る病 理 学 者 テ イモ シー ・ル イ ス
(TimothyRichards Lewisl84ト86)によ る実験 で、健康 な動物 の どれか の器 官 の栄養 を損 な うことに よ って、 バ
クテ リアを生 じさせ ることが可能であることが示 されて きていることや、 ロン ドン大学教授バー ドン‑サ ンダー ソ ン
OohnBurdon‑Sanderson1828‑1905)による実験 で も、細菌 と無縁 の動物
‑ 100‑
組織 に、腹膜 内あるいは皮下 の強
い炎症 を細菌 と無縁 の化学的刺激物 によって刺激す ることに よってバ クテ リアが生 じるか もしれない とい うことが示 された と紹介 した
【20 ] 。 このように、 い まだバ スチ ャンは自然発生 にこだわ っているようである
。しか し、 この時代 にはバ クテ リアの 新規 の発生 ではな く、バ クテ リアの変化 のほうに関心が集 ま った。続 いて発言 を求めたウィリ
アム ・ロバーツ
(W illiam Roberts1830‑1899)は、以下 のように述べた。
これ ら極微 の生物 は動物界で完全 な亜界をな します。 それ らの形状 の大半 は我 々には識別 できませんが、明確 な生命 の特質 と現象を示す動物群 です。 ダーウィンの進化理論 をそれ らに適用 した場合、創傷 に見 出され るそれ らの生物 は通常 の性質 を変化 させ、感染性 とな り、 さまざまな形態で血液毒素 にな ると考 え ることもで きます。進化論者 によれば、 タイ ム ・スケールは年数 ではな く世代数 で測 られねばな りません。 バ クテ リアが 20 分 で分裂 す る とすれ ば、
2週 間でおよそ
1000世代 とな り、小麦 に比較 すれば
1千年、人間の一生 で考 えれば
3万年 とい うことにな ります
[21]。ロバーツの発言 は、微生物学 に関す るかな りイギ リスに典型的な議論 を示 していると言 え る
。進化を認 め るな ら、世代交代 の速 い微生物 は、 それゆえ にこそ進化 によ って他 の どんな生物 よ りも大 き く変化す ることを期待 しうるとい うことなのである
。続 いて発言 した リスターの助手 チ‑ネは、炎症や膿癌 に単球菌 の存在が前提 とな るのか、 な らないのか とい った問題意識 を もって発言 を している
[22] 。健康 な人 にとっては脅威 とはな らな い単球菌 の存在が、健康 を損 な っているとそれ らの存在 に抗 しきれない と考え るべ きなのか、
明確な結論 には達 していない。 その後 に発言 したウィル ヒョウが、微生物 の進化 にかな り肯定 的態度 を示 しているのは興味深 いことである
[23]。彼 は、 ダー ウィンの ( 進化の)原理が科学の 遠 く隔た った分野 で新 たに適用 され ることに感銘 を受 けているよ うである
。そ して ドイツの細 菌学者ハ ンス ・ブフナ‑の仕事、すなわち炭症菌 と枯草菌 との間に互換性があ り、病原性 を もっ た り、 もたなか った りす ることが示 されていると紹介 している
。さ らに細菌 は培地 によって、
出現す る菌 の性質 に違 いが生 じるな ど、必ず しも細菌の種 が固定 した ものではない ことを示す 事例を挙 げて紹介 した。一方 に ドイツの ローベル ト・コ ッホの開発 による純粋培養 のよ うに、
微生物種 の固定性 を前提 に しなければな らない立場があるのに対 し、 イギ リスでは微生物種の 可変性 も大 いに議論 された[ 2 4 ] 。
4 . コッホの顕微鏡写真 と供覧実験
講演 は行 わなか った コ ッホであるが、 リスターの取 り計 らいで、病理学 のセ クシ ョンの主題 と関連 して、微生物 の顕微鏡写真 を、 マ ジック ・ランタ ン ( 幻灯機) を使 って公開 し、 また固 体培地 をつか った細菌培養 の方法 を示す供覧実験 を、 キ ングス ・カ レッジにおいて行 った。
リスターは 自分 の講演 に先立 ち、 コッホが近年開発 した固体培地 の手法 について供覧実験 を 行 うと共 に、 マ ジ ック ・ランタ ンによる写真 の公開を行 うとい う労 を厭 わぬ申 し出に、厚 くお 礼 を述べ、写真 の客観的証拠 と しての価値 を強調 した。
皆様、 ここにコ ッホ博士が ご出席下 さ り、大変 ご親切 に も、 ご く限 られたメ ンバーに対 し
てですが、 キ ングス ・カ レッジで実験手法 について実際 に供覧実験 を行 って くだ さること
に心か らお礼 を申 し上 げた く思 います。供覧実験 に立 ち会 うことので きる人 は限 られてい
ますが、 コ ッホ博士 は、本 日午後 にこの会場で、 さまざまな病理組織か らご自身が製作 さ
れた顕微鏡標本 の写真 をマ ジ ック ・ラ ンタ ンによ って ご紹介下 さいます。 これ らの写真 は、
コ ッホ博士 が行 う実演 を実際 に見 るのに劣 らぬ確 か さと満足 を与 え るものです。 なぜな ら、
光 によ って描 き出 され る画像 は、 これ ら極微 の対象 が人 の手 で スケ ッチ されれば不可避 と な る種 々の偏見 や誤 りの心配 が ま った くないか らです
[25]。こう した リスターの予告 の下 に、実験 は行 われ、 コ ッホは限 られた メ ンバ ーに対 してではあ る が世界 の最先端 をい く自分 の実験手法 を公 開 したので あ った。
コ ッホの供覧実験 につ いては、Me
dicalTimesandGazetteに さ らに詳 しい記録 があ る
[26 ] 。 それ による と、 コ ッホは供覧実験 のために種 々の器具 のみな らず準備 のための助手 たちまで引 き連 れて英 国入 り した よ うで あ る
。前年
1880年 には彼 の
TraumaticInfectiveDiseasesが シデナム協 会 によ って翻訳 されてお り ( 原文 のまま)す で にその名声 は行 き渡 って いた
[27]。 キ ングス ・カ レッジの生理学実験 室 で は
8月
6日の ほか に、8月
8日に も供覧実験 が行 われ、 まさに この主題 に取 り組 んで い る研 究者 に公 開 され、見学者 と して、パ ス トゥール、 リスク‑、 バ ー ドン‑
サ ンダー ソ ン、 フラ ンス切 っての獣 医 シャポー
Oean‑BaptisteAugusteChauveau1827‑1917)らの名前 が挙 げ られて い る
。コ ッホ は赤 い色素 を生 じる
micrococcusprodigiosusが、 青 い膿 を生 じる ことを示 し、 それ らが固体培地 で あ るがゆえ に確実 に継代培養、純粋培養 が可能 で あ ることを示 した。 またバ ク テ リアが固体培地上 に特異 な コロニー ( 円形、屋形、 ネ ッ トワー ク形 な ど) を形成す ることを 低倍率顕微鏡 で明確 に見て とれ ることも示 した。 また培地 に混入 させ る物質 を変 え ることによっ て、形成 され るコロニー に影響が出 ることな ど、す っか り手 の内を示 したのである
。さ らには、
炭痘菌 の実験 まで行 い、死 んだマウスの病理解剖 も示 した。 これ はあ らか じめ数 か月前 か ら血 清培地 で培養 した炭症 菌 をマ ウスの皮膚 に塗布 し、 そ うす る ことに よ って、48 時間以 内 にマ ウスが死亡 す ることを示 した ものであ る
。その解剖 で血液 中に無数 の炭症菌 を認 め うることを 示 した。 ‑ ト、 ウサギ、 マ ウスの敗血症 につ いて も、微生物 の存在 を示 し、最後 に、 マ ウスに 敗血症 を引 き起 こ した梓 菌 による感染 において、丹毒 ( 真皮 の炎症)e
rysipelasの美 しい形 が、
ウサギの耳 を使 って示 された。
MedicalTimesandGazette
の取材者 は、 これ らの実験 の重要性 が即座 に評価 され ることはない に して も、 それ らが病理学研究 に限 りない進歩 を もた らす こ とは疑 いない と絶賛 し、 と くに顕 微鏡写真 は事実 の正確 な記録性 とい う点 で コ ッホの主張 を全面 的 に支持 したのであ る
。5 . 公衆衛生から国家医学へ
本 大 会 の数 あ るセ ク シ ョンの 中で、 本 論 文 の テ ー マ に深 く関係 す るの は国家 医学
State M edicineの セ ク シ ョンで あ る
[28 ] 。 こち らの座長 は ジ ョン ・シモ ン
UohnSimon 1816‑1904)で、彼 はかつて シテ ィ最初 の衛生官 として活躍 しその後地方 自治省 に移 ってイギ リスの公衆衛 生政策 を代表 す る人物 と目されて きたが、 この時期 にはすで に公職 を退 いて いた。副座長 は、
地方 自治省 の ジ ョー ジ ・ブキ ャナ ン、 ネ トリー陸軍 医学校教授 F・デ ュ ・シ ャーモ ン、軍 医総 監代理 ノーマ ン ・シェイヴ ァーズ らが務 めた
[29]。地方 自治省 の医務官 リチ ャー ド・ソー ン‑ソー ンとウィリアム ・A ・コー プイール ドが書記を務 めた。国家医学のセクシ ョンでは、デ ュ ・シャ‑
モ ンや ノーマ ン ・シ ェイ ヴ ァ‑ ズ、 リチ ャー ド・ソー ン‑ソ‑ ンとい った、病原菌説 に否定 的 な人物 の参加 が 目を引
ぐ 30]。
‑ 102 ‑
30
件 ほ どの一般講演 のなか に性病 と りわ け梅毒 に関係 す る発表 が
5件含 まれ、梅毒蔓延 防 止策 につ いて活発 なデ ィスカ ッシ ョンが行 われた ことが、 この時代 を象徴 しているのか もしれ な い
。本 大 会 誘 致 に尽 力 した アー ネ ス ト ・ハ ー ト自 ら も本 セ ク シ ョンで登 壇 して発 酵 病
(zymoticdisease)の拡大 につ いて論 じた。
2年後 には コ レラ調査 でイ ン ドに赴 くことになるエ マニ ュエル ・クライ ンが、 ある種 の細菌 に感染 した豚 を食す ることによ って生 じる急性症状 に ついて論 じた。長年 クロイ ドンで尿尿濯概 を行 って きたアル フ レッ ド・カーペ ンタ‑が 「 表層 濯概 による都市下水 の利用」 と題 して講演を行 った。
上記 の一般講演 に先立 って、座長 の シモ ンが講演 を行 った
[3日。 国家医学 とい う言葉 は、国家 が国民 の健康 に関心 を もつ とい う仮定 と対応 してお り、治療医学であ り、予防医学である
。シ モ ンは原 因 につ いて、 内因性 の病気 と外因性の病気 にわ け、 と くに国家医学で問題 にすべ きこ とと して外 因性す なわ ち、外か らや って くる病気 の原 因であるとか、発酵 や腐敗 とい った事実 に始 まるパ ス トゥールの貴重 な研究 とかを挙 げ、次 に動物 にお ける感染症 の事実 に研究が広 げ られ、新 たな世界が開かれた と している
。人間を病気 にかか らせ る原 因が外界か らくる自己増 殖す る微生物 であ るな ら、 それ らの変容が試験管 で培養 され、我 々に起 こす変化が研究 されな ければな らない と した。 そ して近年 もっとも著 しい成果 と思 われ る ものを彼 は列挙 した。
① バ ス トゥ‑ルの学説 が、 リスターの手 によって防腐消毒法 に応用 された こと
。② サ ンダー ソ ン教授、 ドイツのブフナ‑博士、 フラ ンスの トゥ‑サ ンらの炭痘菌の実験的研 究か ら、致死 的病気 の病原菌 を弱 めることので きるさまざまな方法 の知識 が現 われてきた こ
と
。③ 鶏 コ レラの名 で知 られ る致命 的な家禽の病原菌 に関連 してパ ス トゥール によ ってな された 同様 な発見 ( 弱毒化)。
④ タル トゥ ( ェス トニア中東部) のゼムメル教授 は、 トゥ‑サ ンが牌脱痕 の病原菌の弱毒化 をな した よ うな処理 で、敗血症 の感染 について同様 な発見 をな した こと。
⑤ グライス ヴ ァル ト (ドイツ北部) の シェ‑ ラー博士 が関節 の外科的疾患 につ いてな した近 年最 も称賛 すべ き業績。
④ と⑤ は有名 な事例 とは言 い難 いが、 シモ ンが弱毒化 に注 目 してい るの は、公衆衛生 的立場か ら見 て領 ける
。まさに予防 ワクチ ンは ここか ら始 まるのであるか ら。
シモ ンの講演 の後半 は、少 し国家医学の主題 か らはみ出 して、 イギ リスにおいて動物実験が ままな らな い状況 にふれ、
1876年 の動物虐待禁止法 が、 科学 の進歩 のいか に足伽 とな って い るかを憂 え る ものであ った
[32]。この国家医学 は、今 日の公衆衛生 に近 い ものであ るが、オース トラ リアの科学史家 ロイ ・マ クロ‑ ドは、 その始 ま りを
1860年代 に位置づ けて、医学史家
F・N・
L・ポイ ンタ一編 『1860年代 の医学 と科学』 に、 「国家医学 の解剖学」 とい う
1章 を寄稿 してい る
[33]。国家 は、 国民 の 数 の把握 や保護、健康 に関心 を もち、医学が国家医学 とな るのは 自然 の成 り行 きであ る
。した が って多 くの国民 が曜患す る伝染病 は、 国家医学 の筆頭 に数 え られ る ものであ る
。 1871年 に は
BMJに公衆 医学
publicMedicineの部 門が設 け られ、
1875年 には公衆衛生法 が制定 された。
マクロ‑ ドは、
1860年 か ら
1875年 までを、国家 医学 の英雄 時代 と して、 ジ ョン ・シモ ンの貢 献 による国家医学 の確立 の時期 と している
。公衆衛生 の歴史 で は一般 に 1 9 世紀最後 の 20 年 間を、「
germの科学 と技術が利用 され ること
によ って、公衆衛生 の 目的 と方法 が、環境 との包括 的な
(inclusive)関心 か ら、病気 を惹 き起
「ロン ドン国際医学大会
」WeHcomeLibrary,
Londonこす実体 と人間および両者の相互関係 にもっぱ ら限定 して
(exclusive)焦点を定めた ものへ と シフ トしてい った時代」 と捉えている
[34]。英国の科学史家 ウォーボーイズは、包括的か ら排他 的な傾 向を認 めつつ、衛生科学か ら予防医学への変化 を指摘 している
。衛生学一般では対処 し きれない、 それぞれの病気 に特異な対処を行 う必要 に迫 られてい くということである
[35]。6 . ロン ドン国際医学大会の意義
さて本国際大会開催 の意義であるが、科学理論上 の ことでいえば、本大会を病原菌理論の定 着の第一歩 とす る評価が一般的である[ 3 6 ] 。 また世界有数の医学者 ・生理学者が集 ま り、生命科 学の進歩のために生体解剖 は必要な ものであることを強調 し、イギ リスにおける生体解剖反対 運動 に歯止 めをかけようとしたことは、医学研究者 の国際協調 として挙げ られなければな らな いだろう
。科学者が一致協力 して研究の擁護 を図ろうとした ことは、美談 とも言える
。これに 力を得 たイギ リスの科学者 はただちに反対運動 に対す る攻撃 を開始 した。 同 じような評価 と し ては、 コ ッホの供覧実験 に象徴 され るような、互 いの科学知識や技術 を広 く公表 して、 さらな る研究の進展を図ろうとした ことにも見 られ る
。しか し、バイナムはそれ らの ことに一定程度 の評価 を与 えなが らも、時代が帝国主義へ と大 き く傾 くときにあ って、水面下での各国の駆 け引きは職烈で、厳 しい競争の時代へ と突入 して い くことを しっか り見定めている
。それが国家医学 の もう一面で もあろう
。各国か らの代表者 たちは、共同および全体の進歩 とい うレ トリックの下 に、愛国意識や競 争意識が、医学 とい う事業の重要部分で もあることを意識 していた。 フランスと ドイツの ライバル意識 は遠 く過去 に遡 るものであるが、
1870‑71年 の普仏戦争 によって さ らに強 め られた。 国家が科学研究や科学教育を牽引す る重要な役割を負 うようにな り、 また ドイツ の化学、光学、薬学産業 に見 られるように、研究基盤が経済成長 と明白な結 びつ きを もつ
‑ 104‑
よ うにな る と、科学 や技術 の政治 的次元 が有力 な役割 を演 じることにな る
137 ] 。
圧倒 的功績 で君 臨 していたパ ス トゥールを擁す るフラ ンスが、新興 国 ドイツの新進気鋭 の微生 物学者 コ ッホ と対決 を迫 られ る
80年以 降 は、 バ イナ ム言 うところの 「 研究基盤 が経済成長 と 明 白に結 び付 き、科学 と技術 が政治的 に重要 な意 味」 を もつ時代へ と移行す るので あ る
。さて、 コ ッホの顕微鏡写真が示す細菌の世界 は、病気 を惹 き起 こす実体 としてその存在 を人 々 の 目に焼 き付 けることにな ったが、各 国が協調 して成功裏 に終 了を迎 え ることにな った ロ ン ド ン医学大会 につ いて も、 その証拠 とな る写真 が残 って い る
。‑ ‑バ ー ト・バ ロー ド
(Herbert R.Barraud)の撮影 による、 セ ン ト・ジェイムズ ・ホールでの大会参加者
684名 の記念集合写 真 は、 この大会 の意義 を遺憾 な くその画面 に とどめて い る
。見事 な合成写真 は、
47×30と
29×20
( 単位 はイ ンチ) の
2つ のサイズが用意 され、 キー プ レイ トとと もに販売 された
[38]。1840
年 にブ リス トルで 開催 された王立農学協会 の年会 につ いて は、 ア ンズデル によ って措 かれ た絵画
(5m 49cmX2m 13cm)であ った[ 3 9 ] 。
40年 の歳月 を経 て、写真技術 は飛躍 的 に 進歩 し、絵画 に代 わ って写真 が登場す るので あ る
。まだ合成写真 とい う移行段階を踏 んで はい
るが、紛 れ もな い事実 が露 わなかたちで提示 され る時代へ と入 って行 くので ある
。注
[1]
大会 の全容 につ いては
W illiam MacCormac,Transaction∫oftheZntemationalMedicalCongress(London:J.W .Kolckmann,1881)vols.ト4.
当初世界 中 に送 られ た案 内状 は
12万通 に達 し、 日本 には 日本語 で 天皇 に送 られた ことが記録 されている
。以下 に見 て い くよ うに これ ほ どの著名人 が一堂 に会す る大会 は空前 絶後 の もので、 委 員会 の努力 が偲 ばれ る
。ShirleyRoberts,SirJamesPagei.・TheRiseofClinical Surger
y (London&New York‥RoyalSocietyofM edicineServicesLimited,1989)pp.169‑71. [2]TheBritishMedicalJournal『英 国医事雑誌』
(BMJ)の歴史 につ いて は以下 を参 照。P.W .
∫.Bartrip,
MirrorofMedicine:A HistoryoftheBritishMedicalJoumal(Oxford:OxfordUniversityPress,1990).1840
年 の創 刊 時 は、Pr
ovincialMedicalandSurgicalJournalと して ス ター ト。 種 々の経緯 を経 て、
1857年 に 誌名 を
TheBritishMedicalJoumalに変更
(Bartrip注
2,
pp.31‑33)。 TheLancetと
BMJの引用 の比較につ いて は、 同書
123頁参照。
[3]Bartrip
( 注
2)pp.141‑42.[4]RichardB.Fisher,JosephLister182711912(London:M acdonaldandJane'
S
,1977)p.252.アムステルダム大会 の全容 につ いて は
"InternationalCongressofM edicalScience,
Amsterdam"BMJ
,1879iipp.453‑66.
[5]Bartrip
( 注
2)pp.143‑44.[6]本会議録 の冒頭 に記載 された総貢数 であ る。
各巻 の貢 は、51
9十599+660+592‑2370とな って い る。こ の ほか に ローマ数字 で記載 された貢 な どが付加 され た もので あ る
。パ ス トゥール の短 い招待講 演 は
8月
8日に フラ ンス語 で行 われ、vol.1,pp.85‑90.英訳 は
TheLancei
,1881,pp.271‑72。 パ ス トゥー ル は この開会式 の当 日、バ ジェ ッ トの取 り計 らいで、 ‑ ノー ヴ ァ‑広場 の‑‑ ウ ッ ド・プ レイスの彼 の 自宅 に招かれチ ャールズ ・ダー ウィンと同席す ることにな った。 しか し、運悪 くダー ウ ィンは早 く に退席 し両者 は言葉 を交 わす ことな く終 わ った。 バ ジェ ッ トはパ ス トゥール およびダー ウ ィンと個別 に親 しい関係 を築 いてお り、 それぞれの間の多 くの書簡 が残 されている
。彼 の屋敷 は大会期間中、オー プ ン‑ ウス と して開放 され多 くの客人 を迎えたが、
1893年 に彼 が引 っ越 したあ と、‑ ‑ウ ッ ド・プ レ イ ス を 占め た の は王 立 農 学協 会 で あ った。
StephenPageted.,
MomoirsandLettersofSirJamesPaget (London:Longmans,
Green,andC0.,1902)New Edition,pp.220&412.[7]MacCormac(
注
1)pp.13‑21[8]MacCormac(
注
1)vol.1,p.37.TheLancet,1881,p・245.フ リー ド.). ヒ皇太子妃 は、1
887年皇太子 が喉頭 がんで気管切 開の手術 を必要 とす ることにな った とき、母 で あるヴ ィク トリア女王 に英 国の有 名 な外科 医
MorrellMackenzieを派遣す るよ う要請 し、 ここに ドイツ医学界 と英 国医学界 の優劣 をめぐる確執 と論争 が生 じた。皇太子 は一 時小康 を得 たが、
1888年2月 に気管切 開手術 が行 われ、 翌月
3月 の国王 の逝去 に伴 い、 フ リー ドリヒは フ リー ドリヒ三世 と して即位す るが、在位 わずか
99日間で逝去
(Bartrip注
36,pp.83‑90)。 その後 しば らく病気 の処置 の是非 をめ ぐる論争 が続 いた。
[9]ダー ウ ィ ンは晩餐会以外 ほ とん ど参加 しなか ったので、 記念集合写真 に もバ ーデ ッ トクー ツのパ ー
テ ィーの絵 に も彼 の姿 を認 めることはで きない。Ja
netBrowne,
CharlesDarwin:ThePowerofPlace(New York:AlfredA.Knopf,2002)pp.485‑86.[10] W .F.Bynum, Scienceand thePracticeof Medicinein theNineteenth Century(Cambridge・・Cambridge UniversityPress,1994)p.142.
ちなみにアムステル ダム大会 は
500名 ほ どの規模 であ った。
[11]Bynum
( 注
10)p.144.趣 向を凝 らしたパ ーテ ィーの中で もバ ーデ ッ トクー ツ女性男爵 ( 慈善 活動 によ り男爵 の爵位 を授与 された婦人) のガーデ ンパ ーテ ィーは、 画家
ArchibaldPrestonTiltによ る 絵画 の存在 によ って と くに名高 い ものであ る
。彼女 は、母方 の祖父 で銀行家 の トマス ・クー ツか らの 莫大 な遺産 を相続 し英 国随一 の慈善家 と して知 られた。37 歳 の ときに
78歳 の ウ ェリン トン公爵 に恋 して プロポーズす るも叶わず、独身 を通 した末 に
1881年
67歳 で慈善活動 の助手
(SO歳) と結婚 して 世 間を驚 かせ た。結婚 間 もないパ ーテ ィーは、 それだけで も話題 にな った。参加者
100名 ほ どを措 き 込 ん だ絵画 の詳細 につ いては以下 を参照。Al
exSakula,
"BaronessBurdett‑Coutts'GardenParty:The InternationalMedicalCongress,London,1881了
'M edicalm StOry,1982,26:183‑90・[12]‑ ‑ ヴ ェイ彫像 の除幕式 につ いては、以下 を参照 の こと。NicolaasA.Rupke,RichardOwen:Victorian Naturalist(New Haven:YaleUniversityPress,1994)pp.345‑46.フ ォー クス トンは、 イギ リス海 峡 に
面 し ドー ヴ ァ‑のす ぐ西側 にある
。エ クスカー シ ョン当 日は、 サ ウス ・イースタ ン鉄道会社 が特 別列 車 を運行 させ た。 ‑‑ ヴ ェイの彫像 は、王立 内科 医協会 と外科 医協会 の出資、 さ らに個人 と して は内 科 医 協 会 前 会 長 の ジ ョー ジ ・バ ロー ズ 出資 に よ る もの で あ った
。 Richard Oven,"
An Address,
UnveilingtheStatueofHarvey,andItsPresentationtotheTownofFolkestone, "
BMJ
,1881,pp・286‑89・オーエ ンの講演 は補筆 の上 で出版 された。Ri
chardOven,ExperimentalP
kiySiologyIItsBenefitstoM ankind withanAddressonUnveilingtheStatueofWilliamHmeJaiFolkestone,
6.thAugust1881(London,1882).[13]MacCormac
( 注
1)vol.1,pp.85‑90.TheLancet,1881,pp.271‑72.[14]Bynum
( 注
10)p.144.[15]LoriW illiamson,PowerandProte∫t:FrancesPowerCobbeandVictorianSociety(London:RiversOram Press
,
2005)pp.14ト42.Fisher(注
4)pp.221‑22によれ ば、 こ う した事 態 を受 けて国際大会 の翌年1882年
3月 には主 だ った医学者 たちで
AssociationfらrtheAdvancementofMedicinebyResearchが組織 され、ジェ ンナ‑を議長 に、 バ ー ドン‑サ ンダー ソ ン、 フ ォスター、 バ ジェ ッ ト、 リスター らが参加 して、
医学者側 の 自衛 に協力 す ることにな った。 静 々た る参加者 で繰 り広 げ られ た ロ ン ドン医学大会 で あ るが、Bynum ( 注
10) pp.144‑45.の以下 の指摘 は興味深 い。 とい うのは
1881年 の時点で、参加者 とな る資格 を もった女性 は数多 くいたに もかかわ らず、女性 の参加 が認 め られなか ったか らで あ る
。43
名 の女 性 医学 関係者 か らの抗 議 に もか か わ らず、 組 織 委 員 会 は女性 の参 加 を拒 ん だ の で あ る
。(L
a nc e t ,Augus t1 3,1 881 ,p.290. ) バ イナムは女性排 斥 と した一 つ の可能性 と して、上述 の例
は 場 外の
ことで あ るが、生体解剖反対勢力 による直接 的な妨害 を危慎 しての ことであ った と推測 して
いる
。バイナムはそれ以上 の ことに立 ち入 っていないが、女性医師の立場 は微妙 である。 コップは女性 医 師
に、 唯物論 的な生体解剖者 や男性医師 に対す る防波堤 とな って ほ しい と望 んだが、必ず しもそう い か
なか った。 また女性 の医学分野‑の参入を 積極 的 に
支持す ることと、生体解剖禁止 とは必 ず
し も 折 り合
わ な い面 が あ った。 Mar
y A nn EIston, "W o me n a n d A n ti‑v iv ise ct i oni nVi c t or i a nEngl an
d , 18 70 ‑19
00, "i nNi c ol aasA.R
upke,ed.,Vivisection inh istorica l p ersp ective(Ne w Y o rk‥Gr oom He l m,1
9 8 7) p p .25
9̲ 94.
[16]Mac
Cor mac (
注 1) vol.1,pp.289‑93.‑ 10 6 ‑