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学校体育に於けるスポーツ教材の 指導についての一考察

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Academic year: 2021

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(1)

学校体育に於けるスポーツ教材の 指導についての一考察

花 田 大 四 郎

  「出来ないものを出来るとして,強制する抽象的道徳と,正確と称する知識をつめ込め 嬢,それで正しく役立つとかたずける安直な知識崇拝とは,いきいきした具体的生活をち っそくさせ,人間を道徳と知識との奴隷にするであろう。」(注1)

 上の一節は,上田薫氏の主として社会科に於ける理論中の一節である。氏もその序文中 に「多く社会科にかかわるであろう」とことわっておられる様に,それは学校教育の一教 科としての社会科に於ける理論展開であろう。碧し同じく学校教育の一教科としての体育 にも当然及ぼされる理論展開であろうと云う意味に干て引用して戴くわけである。

 此様に引用させて戴いて現在行なわれつつある文部省学習指導要領並びに,それに則し て出されている指導書を眺めた場合,あまりにも氏の言われる「抽象的道徳」と「正確と 称する知識」の多いのに驚くのである。「クラウチングスタートによる発走法が有利であ ることを理解させ……」(注2) と出ているのであるが果してクラウチングスタートが正 確に有利であろうか。而も中学校一年生男女の生徒にとって。如何にも有利であるとされ ているのであるが。猶其様な知識を「理解させ」と言うに側ては……。

  「正しいフィニッシュの仕方を練習する」(注3)等,「正しい方法」と云う方法が至る 所に見受けられるのであるが,果して「正しい方法」等と云う方法が,存在するのであろ

うか。合理的な方法というのであれば存在するであろうが。

 「長距離走のあとはよく汗をふき,じゅうぶん休息する」(注4)如何にも当然に出来 そうであるが,果して学校体育の時間中に行なわれる長距離走のあとにじゅうぶんの休息 が生徒にとって可能であろうか。学校教育としてのそれにあっては,その実施後と難も,

次の時間は必ず何かの教科の時間が待っているのであって,決して休息しているのではな いのである。或は「一周ごとのラップタイムを測って各自のペースを知る」(注5)時間 中平均して40名ないし50名の生徒に長距離走を実施して,その一人一人のラップタイム迄 測定することが果して可能であろうか。勿論可能な方法があればそうすることが望ましい であろうが。

 陸上競技の項について一例を挙げただけでも所謂抽象的道徳に類した点,或は正確と称 する知識の如何にも多いことに気付くのである。此の様に見て来ると,氏の所謂「抽象的 道徳と,安直な知識崇拝」とに類して学校体育としての陸上競技及びスポーツ教材と呼ば れる教材が,生徒のいきいきした具体的生活をちつ息せしめたり,道徳と知識の奴隷とな す手伝いをさせられたのでは,陸上競技を含めスポーツ教材が学校体育に占める比重より

しても由々しきことであると考えるわけである。それ故少しく,指導要領或は指導書より 離れ,自由な立場より学校体育に於けるスポーツ教材について考察し,併せてその指導の あり方について述べることにしよう。

 rAmatureとは単に運動競技愛好のために競技するものをいう」(注6)単にそれを

(2)

行うことが好きだから行うのがスポーツ活動と呼ばれる活動の本来の姿である。決して見 物するのがスポーツではないし,又強制されて行なわせられるものでもない。まして物質 的利益の為の手段として行わせられるものでもない。此のことは既に述べた。(注7)

 スポーツ活動が本来その様なものであるならば,学校という一種の意図的教育機関にあ ってのスポーツ教材は当然その様なスポーツ活動の本質を被教育者に対して理解させ ,そ の実行を意図しなければならないのである。

スポーツ活動の本質を理解させ,その実行を意図する学校体育とは

 (教育があまりにも簡単に「人づくり」とい玉かえられている。もしこのことばを聞い て子供をオトナの思うように作り上げられると安直に考えたら,それこそ大変である。…

…強勉させること,仕事をさせること自体が,いけないと云うのではない。そのさせ方が 問題なのである。行動するのは子供自身である。自分からやり弛いという意慾が起きるよ

うにしなければならない◎) (注8)

 現在学校体育界に於て「体力づくり」とか「体力向上」 「技能上達」等云々されている のであるが,それを如何にも教師が生徒,児童の技能を向上せしめたり体力をつくったり しょうとするかの如く,あまりにも安直に考えられ過ぎてはいないか?生徒にスポーツ競 技と云う運動を課して,それによって教師の意図通りに直接「体力」を作り挙げるかの如 く………もしその様に安直に考えたとしたらそれこそ戦時中の身体訓練であり肉体の鍛練.

に終始するであろうし,所謂体操的指導原則(注9) と云わざるを得ないではないか?

 スポーツを行い,体力をつくるのは子供自身なのである。自分自身がその必要性を自覚.

し,主体的に自己の体力は増強して行くべきものなのである。幸いにして教師はスポーツ 活動がそれを行う者の体力を増強し,発達を促進することを知っているし,又スポーツ活 動其物の興味をも知っている。それ故その知識を与えて生徒児童の自覚を促し,その興味一 を引出すことによってスポーツの実践活動を促進し,彼等の実践活動によって彼等の体力 或は社会性等の発達に寄与しようと意図するものである。

 之をスポーツ的指導の原則と仮りに呼ぶこととする。人間の子供も動物的存在である以 上,大人が子供に,或は教師が生徒に,或は運動を命じた場合その子供ないしは生徒自身 の自覚,無自覚にかかわらず体力を増強することは可能であろう。

 興味,関心のある,なし,にかかわらず,体力,筋力の発達を促進することは可能であ,

ろう。例えば教師がその生徒に対レ・走運動を命じた場合,その生徒が自ら「早くなろ う」と意図して走る場合にあっても「走らなければ叱られるから」と罰を逃避する為に

「走る」と云う場合であっても,「走力」と云う体力が増強され,促進されることに於て は同様であろう。

 憎しながら子供であり,生徒であると難も,人間である。当然その人間としての行為と,,

唯単なる動作の繰返しとは区別しなければならない。 (注ゆ 即ち「早く走ろう」という 自らの意志,目的によって彼が行う所の走運動は明らかに彼の行為であると云えるが,

「走らねば,叱られるから」等の他の目的ないしは,無目的ながら命令,強制によって彼一

が繰返す走運動は動作の繰返しではあっても行為とは云い得ないのである。大人ないしば

教師は子供・生徒に対して明らかに動作の繰返しという一種の訓練を強制することはでき

るのである。又その訓練によって体力を増強せしめることも可能である。而しながら此の

(3)

種の訓練ならば馬に対して行うことも出来,犬に対してほどこすことも出来るのである。

即ち馬に対して科学的,合理的な走訓練をほどこすことによってダービーに於て優勝する が如き駿足の馬を養成することも不可能ではないのである。犬に対して斗う訓練を積むこ とによって,唐犬のチャンピオンを作り出すことも出来るのである。早しながら馬はあく までも馬であり,犬は終に犬である。即ち馬は如何に我身に訓練を施こされ,実施されよ うとも訓練はあくまでも訓練にしか過ぎないし,それによる所の動作は,又あくまでも動 作の繰返しにしか過ぎないのであり,犬の場合でも同様であって決してそれ以上にはなら ない。換言すれば人が馬に対して如何に訓練を施したとしても,馬は終に馬である為にあ くまでも動作の繰返しにしか過ぎないのである。たとえそれが馬のチャソピ:オソであって も。即ち馬が終に我身に施された訓練の意義を悟り,その訓練の興味を自覚して,主体的 にその訓練を自ら実施しようと云う行為に迄発展することは出来ないと云うことである。

馬は訓練することは出来るが教育することは出来ないのである。

 而し人間は違う。否違わなければならない。

 人は例え訓練であってもそれを次の次元に於ては,その訓練の意義を自覚し,その興味 の自覚によって,自ら主体的にその訓練を我身体によって実施し,実現しようとする。話 そうでなければならないのである。

 「体力を高める為のスポーツ活動」と云われるが,教師が主体的に生徒の体力を高める 為にスポーツ活動を行わせるのであれば,それは訓練:であり前の馬や犬の場合と同様であ っても実現することは出来るのである。即ち教師が主体的に生徒の意志,意慾等全く無視 してもスポーツ活動を命じ,それの強行を押し付けたとしても,生徒の体力は向上するで あろうから。

 而しそれは許されない。筍も教師がその生徒に対して馬の訓練,犬の訓練と同じ訓練を 学校に於て施す等これこそ全く人間性に対する冒漬以外の何物でもない。例えそれが結果.

的に体力の向上となり,それによって本人の幸福なる生活の実現に役立つであろうと釈明 して見ても,「現在」に於て「方法」に於て絶対に許すことの出来ない方法であると考え るのである。

 人間の人間たる所以は行為にある。単なる動作の繰返しにあるのではない。訓練:其物を 否定するのではない。訓練は訓練であっても,人間に対する訓練であって,犬や馬に対す一 る訓練ではない。人間は我身に施されるであろう訓練を終には自らそれを自覚し,それを 主体的に我身に施すものであるし,又その様に行わせるのでなければならない。

 学校におけるスポーツ教材が終に教師の主体性のみに止まり,生徒の主体的活動を忘れ.

るならば,それはあくまでも生徒にとっては訓練に止まり単なる動作の繰返しに過ぎな いであろうし,形式的にスポーツ的身体活動を体力向上の為の一手段として使用する,い わゆる体操的指導と云わざるを得ないのである。

 之に反し同じくスポーツ教材を使用するとしても,生徒の主体的活動を引出し,生徒の

主体的行為にまで高めることによって,体力の向上を意図することを以って,スポーツ的

指導の原則と云うわけである。

(4)

       学校体育のスポーツ的指導の方法

 スポーツ活動を生徒に行わせることによってその活動の意義を教え,又その活動への興 味を自覚させ,終にほ生徒自身の主体的スポーツ活動によって体力の向上,技能の上達を 期する。即ち教師の期待はあくまでも間接的な意図であって,先ず第一にスポーツ活動の 意義或は冬ポーツ活動其物の実態,実感を彼等に経験せしめなければ,彼等の主体的意慾 は出て来ないであろうし,又主体性を期待することは無理である。スポーツ的指導の方法 について考えて行くことにする。

 ①可能性を発見せしめる。

 一般的な生徒,児童は既にラヂオ,テレビ高いわゆるマスコミの働きによって,或は校 内の上級生の実状等によって,実技の経験はなくとも知識として知っているものも存在 し,或程度試行も経験しているものもいるのではないか?所謂好奇心……実際の経験はな くとも知識はあるので自分もやって見たいという気持は働いていると見るのが正しいので はないか?その様な好奇心を利用して「先ず行わせる」ことが第一に考えられるのであ る。ここに体育が実技実習を重要視しなければならない根本的要因があるのであるが,而 し同時に「上手にやれる」とか「下手にしかやれない」等指導してはならない原因もある わけである。此の段階に於ては「やって見たい」と好奇心を働かせている生徒に対し「や って見たら出来た」……所謂自分も「やれぽ出来るのだ」と云う可能性を発見させ,自信 を持たせる段階なのであらから政師が勝手に或水準を持って上手とか下手等と意識したり 指導すれば「下手にしかやれない」「自分は遅くしか走れない」等々切角生徒はやれてい るにもかかわらず「やれない」「出来ない」と意識したり,自信を失う結果におちいって しまうであろう。学校によるスポーツ教材として,生徒のやれない物を要求することは考 えられないのであるから先ず,割く特殊な場合を除きやれない者はいないし,出来ない者 は考えられない。それ故先ず第一に「やれぽ拙来るのだ」という自信を持たせることが出 発となるわけである。

 ② 能力の発見

 前段に於て「やって見れば出来た」或は「やれば出来る」という自信を得た生徒は「で はどの位の力で……」と自分のカ……能力を見出すであろう。現在此の能力に於て教師が 常に相対的力を意識し,指導し過ぎる点がある。曰く「クラスの中で速いとか,遅い」と か「クラスの中で上手とか下手」とか,あまりにも相対的能力を教師も意識し過ぎるし,

生徒にも意識させ過ぎる傾きがある。「スポーツに於ける勝敗」(注11) に於ても述べた 点であるが,陸上競技的個人競技に属するスポーツであれば,相対的能力も或程度客観性 を持つ場合もある。尽しそれ以外のスポーツにあっては,相対的能力はあくまでも主観的 であって,何を以って上手である,下手であると,考えるか全く客観性がないと云わざる を得ない程である。であるにもかかわらず,現在あまりにも相対的に能力を比較し過ぎる と考えざるを得ないのであるが,教育に於ける生徒の能力を云々するならば,出来るだけ 客観的,科学的でなければならない筈のものである。

 にもかかわらず体育教師のみ何が故に主観的に「上手」「下手」を何の客観性もなしに 云々するのであろうか?

 此の場合の能力はあくまでも絶対的尺度による客観的能力を発見せしめることに務めな

ければならない。陸上競技的スポーツにあっては絶対的時間,空間を云うのであり,パス

(5)

ケット等の球技にあっても,シュートの成功率等を考え出来る限り客観的にその能力を発 見せしめる様指導しなければならない。

 ③進歩の発見

 前段に於て出来る限り客観的能力を知れば知る程,その能力の進歩を確実に発見するの である。前段に於ける能力が,客観性に欠けていた場合に於ては,此の進歩を発見すると いう段階は不可能である。或は相対的能力に過ぎない場合にあっては,その比較の対象が 異なれば全く能力の変化,進歩そのものが不明瞭となってやはり進歩を確実に把握するこ とは不可能なのである。出来る限り客観的な能力を確実に把握することによって,初めて その能力の進歩を確実に把握することが出来るのである。

 幸いにして生徒児童は身体的発育の途上にある。特別に能力的発達の条件を整備しなく とも,或程度の進歩を見ることが出来る。ましてその条件の整備に努めたものは,長足の 進歩を発見するのである。凡そ人間,自己の進歩発達を発見した場合誰しも大いなる喜び を味うことが出来るであろう。此の喜びの感情を味い得ればこそ,スポーツは行い得ると 断言しても差支えないのである。

 ④興味の発見

 進歩の発見を経,その喜びを知らしめることによって,初めてその運動に対して興味,

関心を持たせ得るのである。即ち初めは単なる好奇心よりやって見るのであっても,成 長,進歩の姿を確実に把握しその喜びを味い得て,初めて「よしではやってやろう」と云

う前進えの意慾,進歩への慾気を見出すであろう。「自分でも上達するのだ!」というこ とを見出し,その進歩,上達の喜びを味わい得ることによって,更に「もっと上達しよう」

「もっと進歩しよう」という前進への意慾……興味を持ち発見すると云えるのである。進 歩自体を知らずその喜びを味わい得ずして如何なれば,前進,進歩への興味,関心を持ち 得るであろうか?現行学校体育は,技能の上達体力の向上を以って目的としている。湿し ながら学校は教育の場である。訓練の場に終るわけには行かない。

 則ち技能の上達も体力の向上も総てこれ生徒,児童のそれへの意慾関心を引き出す為の 手段である。彼等に対して自己の技能の上達を確認させ,その喜びを知らせる為のもので ある。自己の体力の向上を発見せしめその絶大なる悦びの感情を自覚させる為の方法なの・

である。学校に慌て「走」運動を生徒に課してもよい。干しそれはあくまでも「走」運動 によって「早くなる」事実を確認させる為にこそ行うべきものであり,又「早くなり得 る」喜びを味あわせる為のものであって,決して「走力」をつける為の走訓練に終始する ものではあってはならない。

 以上①②③④の段階に則して指導法について述べたのである。初期に於ては単に好奇心

程度を堕せたに過ぎないでも,自己の能力に自信を持ち,その能力の発達を確認し,上達

を発見しその喜びを味わい得ることによって,より以上の上達或はより以上の進歩を目指

してその意慾……則ち興味,関心を持って主体的に実践しようとするであろう。考えて見

れば以上の段階が学校体育(正課授業)の本来の姿勢である筈なのである。則ち「学校教

育の目的は,連続的成長への慾求をつくりだし……」(注12) といわれる様にスポーツ運

動を課すことによって生徒,児童の連続的成長への慾求,意慾を引き出すのである。スポ

ーツを課すことによってスポーツの喜びを味あわせ,そして猶一層スポーツをやって行こ

うという前進への意慾を引き出すのである。

(6)

 ⑤ 技術の発見

 上達への興味連続的成長への慾求のつくり出されたものに於て,初めて「ではその為に はどうずればよいか」所謂一般的技術……「技能上達の為の方法」を見出すであろう。

「より早く走ろう」と考える者であって初めて「より早く走る為の方法」……一般的技術 の探究に努め,それを発見するであろう。「上達しよう」と思えばこそ,「上達の方法」を 見出すと云えるのであって,それのない者にとっては,如何に精密な科学的な方法,技術 があっても,何の関心も見出し得ないであろうし,何の役にも立つ筈はないであろうか

ら。現在学校体育に於て未だ好奇心程度の極く初期に於てすら一般的技術の指導がなされ ようとしていないか。未だ「上達しよう」と云う意慾の現れない生徒に対して「上達の方 怯」が押し付けられてはいないか。 「馬を河に連れて行くことは出来るが,馬に水を呑ま せることは出来ない」のである。否,それよりも「水を呑む」意慾のない馬に対し,あま りにも水を呑ませようとすれば,かえって馬に反発される結果を招くであろう。上達への 意慾の発現しない者に対し,あまり上達の方法を押し付ければ,かえって反発される結果 になり,スポーツの興味或はスポーツへの意慾を殺してしまう結果を招くであろうという ことである。則ち学校は此の段階に至らない生徒に対しては,技術の押し付けになること なく,又此の段階に既に到達した生徒に対しては,自由にそれが探究され発見される環境

(教師もその一つ)の整備に努めなければならないのである。

 ⑥短所の発見とその修正

 一般的技術と自己の技能との対比によって,自己の技能の短所を発見し,その修正に努 めようとする段階を云う。確かに個人の技能は,その短所の修正によって上達を見るであ ろう。明・らかにそれが短所であると考えられた場合に於て。そうすることによって,彼は

・技能の上達を意図するであろう。而し彼が意図する技能の上達は,もし社会体育に於てな らば,技能の上達が目的であるから極力その修正に努めるであろうし,コーチ(教師では ない)も当然その様に努力しなければならない。而しこの段階に於て明らかに社会体育と 学校体育の相違点が考えられなければならない。則ち学校体育に於ては技能の上達もそれ 自身が目的ではないのである。上達への意慾,連続的成長への意慾を引き出すのが目的な のである。上達させることによって上達への意慾を引き出すのである。社会体育に於ては

「勝つ」ことが目的であるが,学校体育に於ては「勝つ」ことによって「勝つ」ことへの 意慾を引き出すのが目的である。

 故に学校体育に於ける彼自身の短所の修正と難も,意慾の喚起という前提の基に於て行 なわれるべきものであって,短所の修正に急な余り意慾の滅殺を招来する等あってはなら ないのである。

 ⑦ 長所の発見とその伸展

 前段伺様一般的技術と自己の技能との対比によって,自己の長所を発見し,その伸展を 図る,いわば最後の段階であろう。凡そ人間の技能に於て短所といい,長所というもそれが 明らかに区分せられるものであるか否か。それ故前段の短所の修正と同様のことが,この 長所の伸展の段階に於ても云えるであろう。すなわち明らかに長所であれば,その伸展に

よって技能は上達するであろう。又学校体育に於てはその技能の上達も結局に干ては上達

への意慾を目的とした一つの方法であるから,あくまでもその意慾の喚起という範囲に於

て長所の伸展も意図されなければならないのである。長所の伸展に急なあまり意慾の喚起

(7)

を忘れる等あってはならないのである。

社会教育と学校教育との相違について

 以上学校体育に於けるスポーツ教材の指導について段階を追って述べたのであるが,そ の⑤⑥⑦の段階に出て来た社会体育について述べ,その両者の差違について考察すること

によって,一層学校体育を明確にしよう。

 先ず社会体育にあってスポーツ活動を行う者は,既にそのスポーツへの興味,関心のあ る者が技能の上達を目的として行う活動である。則ち「上達しよう」と云う前進への意慾 のある者が行っている活動であると言う,いわば学校体育の段階での④興味,関心の発見 が既に出来た段階より出発していると考えられるのである。

 此の段階に来れば当然一般的技術が問題となるわけであり,同時に技能の長所,短所が 彼の問題となって来るわけである。それ故当然社会体育に於ては,先ず最初より一般的技 術に関心を持ち,それを問題にするのはあまりにも当然であると云える。

 次に社会体育に託ては「技能の上達」を目的として行うと云うことが云える。則ち「上 達への興味」の喚起が既に出来た者の集合体であるのであるから当然「技能の上達」を目 指して,目的として行う活動であると云い得るであろう。その為にこそ短所も修正しよう

とするであろうし,或は又長所も伸展しようとするであろう。

 此の意味に於て社会体育を考えるならば,学校に於けるクラブ活動としてのスポーツ活 動は,当然社会体育の一種であると云えるのである。学校内部の生徒達の活動であると云 っても,要するに「技能の上達」を目的として,自由に参加した集合体であるから。ここ に同じ学校内部に於ける生徒達の集合体であっても,体育の時間中に於ける彼等のスポー ツ活動と,クラブ活動としての彼等のスポーツ活動とは明らかに相違があると云わざるを 得ない。クラブ活動としてのスポーツ活動は「上達しよう」と云う興味を既に喚起したも のが,その興味,関心に基いて「技術」の発見へと進みつつある活動であると云える。之

・に反し正課(学校体育)に於けるスポーツ活動は,せいぜい好奇心程度より出発し技能の 上達を手段として,興味,関心の喚起を目指して行われているスポーツ活動である。ここ に明らかに此の両者の間に目的と手段の逆転が見られるのである。

 則ち,クラブ活動(社会体育)は確かに興味,関心を手段とし技能の上達を目的として いるといえる。之に反し正課体育(学校体育)は明らかに興味,関心を喚起するのが目的 であり,その為にこそ彼等の技能の上達を計るのであり,その喜びを知らせ味あわせるの である。技能の上達が手段となっているわけである。

 而しながら社会体育と難も明らかに教育的意義は持つのである。前にも述べた様にその 目的とする「技能の上達」ということがあくまでも連続的成長への意慾を喚起する限りに 於て。ということは,その「技能の上達」と云う目的が終にそれに終り連続的成長への意 慾を失うことになれば,同時に教育的意義を喪失することになるのである。或はその「技 能の上達」が連続的成長への意慾以外の他の意慾を喚起することになれば,同じく教育的 意義は喪失されると云えるのである。

 ここに学校に於けるクラブ活動を含めて,社会体育が持つ大きな危険性を見るのであ

・る。

 意慾の喚起を忘れ,或は喪失しても猶技能の上達を追求しなければならない,技能上達

(8)

独走の危険性。或は技能の上達によりいわゆる天狗に走る危険性。短所の修正にあまりに 性急な為,本来の技能上達すら忘れられて,「角を矯めて牛を殺す」類の危険性。最後に 本来連続的成長への意慾である筈のものが,いつの間にか,経済的利益の追求とか,地位 或は名誉等に対する慾求に転化して行く危険性。其の他種々の危険性があるであろうが,

社会体育の一種としての学校内におけるクラブ活動としてのスポーツ活動に於ても程度の 差こそあれ考えられる危険性は充分に含んでいると云えるのである。要するに社会体育と 云わず学校体育と云わず,スポーツ活動自体は常に人問としての連続的成長への意慾を喚 起しようとする所にこそ価値があるといえるのである。それ故如何にその技能が上達し,

体力が発達しようとも,それを忘れ,それを喪失すれば何の価値も存在しないと極言して 差支えないと考えるのである。

(注)1

  2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12

上田薫著,知られざる教育    23頁 文部省1959中学校保健体育指導書83頁    〃       83頁    〃      94頁    〃       103頁

日本体育協会Amature規定第一条

長崎大学教養部紀要 人文科学1967学校体育の矛盾について 教育心理 7月号1963Vo1.11

井上一男 学校体育制度史    114頁 西田幾太郎 善の研究

長崎大学教養部紀要 人文科学 第8巻 1968Sportに於ける勝敗について

J.Dewey,:Lemocracy and educa七ion

参照

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