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オーストラリアの経済と金融機構

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(1)

オーストラリアの経済と金融機構

河 本 博 介

    目    次 一 オーストラリアの経済事情 二 金融機構一中央銀行について(序)

 オーストラリアは,本国イギリスの約23倍の面積をもつ広大な大陸(7・68百万平方キ ロ)であるが,その人口は僅かに1,333万人(1974年6月)にすぎない。亜熱帯,温帯地 域に位置し,広大な面積と豊かな天然資源をもつ地理的条件,人種問題のない恵まれた国 である。他の英連邦植民地と全く異なった発展をとげた。この国の歴史は比較的に新し く,1788年,イギリス人がこの新大陸に移住して以来,羊毛,小麦を中心とした一次産業の       (註1)

開発がすすめられ,いわば「羊の背に乗った繁栄」がもたらされてきた。豊富な農畜産物 と工業化を背景にその所得水準は高い。

 オーストラリアに労働党政権が誕生したのは1972年12月のことであった。当時この国 は,輸出の好調にのってインフレーション対策が緊急の課題であった。オーストラリア は戦後,1946年労働党が一時政権を担当したが,1949年以来一貫して自由党政権下にあっ た。労働党は23年ぶりに政権の座についたが,オーストラリア労働党の結成は1891年で,

労働組合とカトリックを支持基盤としている。1972年労働党政権の成立後,ホイットラム 首相は外に対しては中国の承認,南ベトナムからの軍事顧問団の引揚げ,SEATOからの 段階的撤退の表明など自由党の外交政策の転換がうちだされ,内に対しては物価対策,失 業対策などの課題解決をせまられた。こうしたところにオーストラリアの当面する問題 があった。

 オーストラリア経済を性格づけるものは,比較的に若いこの国が,能力の限界に達する ことなく経済成熟を達成したことである。経済構造は過去30年間で急速な変化をとげた。

しかし海外貿易の主要な役割が減少することはなかった。農畜産物は技術の改善と機械化 で増大し,鉱物資源の発見はオーストラリア経済に新しい飛躍力を与えることとなった。

大いなる変化は工業の発展で,戦時の需要に刺戟され,移民の流入による労働人口の増加

により促進された。農畜産物は現在国民総生産(Gross Domestic Product)の約1割で

あるが(表1),鉱業を除く一次産業の労働人ロは,1921年の22%と比較して,1961年で

(2)

表 1

(100万A$)

1ユ969−7・・97・一7・1・97・一72・972−731ユ973−74 農業生産物

非農業生産物

2,179 27,634

2,000 30,763

2,229 34,167

3,064

38,1ユ4

4,502 45,279

29・8・31 32・7631 36.3961

41,ユ78

49,781

Government Publication,1974−75 Budget Paper No.ユ0

は11%である。この数字は一次産業のオ ーストラリア経済における重要さ,しか も特に海外貿易におけるその重要性に比 して低いけれども,これはその生産性の 高さをあらわしているものといえる。人 口はいまや大きく都市化し(表2),6 州の首都に半分以上が居住し,三次産業 の人望増加を示している。しかし経済は なお本質的に海外貿易に依存し,輸出入 市場の多様化にその努力がむけられて

 (註2)

いる。

表2 1971年

都市の規模

50万〜

10万〜

 5万〜

2.5万〜

 2万〜

ユ.5万〜

 1万〜

都市数

5 5 5 12 8 16

22

都市人 庶コ人。同累灘

57.92 6.58 2,52 3.20

1.39 2.ユ7

2.04

  %

57.92 64.49

67.0ユ

70。22 71.61 73.78 75.82

大洋州貿易年鑑(Pocket Cornpendium of

Australiarl Statistics)

(註1)正井正夫編「東南アジア,大洋州の開発と金融」241頁

( 2)W.F. Crick;Commonwealth Ballking System,1965. pp.54−5.

  2

 いま1970年代初期のオーストラリアの経済事情につき若干の問題について概観してみよ

(註3)

う。

 羊毛輸出に比重のかかっているオーストラリアの経済にとって,化合繊という競争相手 の登場は脅威であった。しかし1960年代に入って,各州で豊富な鉄鉱石,非鉄金属鉱や石 炭など鉱物資源が発見開発され,経済に大きな活力を与えるものとなった。一方工業化 は,労働人ロの過少,国内市場の山斗,或いは農畜産物の輸出による工業製品の輸入の可 能なことから遅れていたが,第2次大戦を機に工業化の必要性が認識され,戦後英米から の外資流入による工業化が進んできた。しかし輸出の大宗を占めるものは依然として一次        (註4)

産品であり,工業製品の輸出額は少なく,国際競争力も十分ではない。

 さて労働党政権の出現はすでに述べたごとく1972年12月であったが,これよりさき同年

6月頃からの国際商品価格の騰貴につづいて73年10月のオイル・ショックを契機に,世界

経済は激しいインフレーションの状態のなかで,その後の景気後退による失業の増加と不

況に深刻に直面してきた。オーストラリアの経済も当然その影響をうけざるを得なかっ

(3)

た。労働党政府は外資の規制,通貨切下げ,関税引下げ,金融調整など情況に対応してや つぎばやに多様の対策を講じてきた。

 オーストラリアは,戦後一貫して日本への傾 斜の度合いを強くした。その貿易収支は1970年 代には黒字傾向を示していたが,その黒字は

 表3

    i i羊劃全商品

1971/721 7・1…

(表3)にその一端が示されるごとく輸出商品 価格の騰貴によるところが大きく,殊に羊毛の それによるところが大であった。いま羊毛の輸 出価格指数を全商品のそれに対比すると,72年 から73年にかけて顕著であったことが判明する が,74年2月を境にこの関係は逆転している。

 オーストラリアの対外主要輸出品目をみると 1972/73年で,羊毛(輸出額のユ9.3%),肉類

(12.9%),鉄鉱石(7.3%),石炭(4.9%),

小麦(4.6%),砂糖(4.2%)と畜産品をひつ 頭に鉱産物が主要なものとなっている。またそ の輸出国では日本の比重が圧倒的に高く輸出総 額の31.1%を占め,ついでアメリカの12.2%,

イギリスの9.7%となっている(表4)。鉄鉱 石,石炭などその輸出は,鉱物資源の発見,開 発につれ,60年代代後半から増加し,肉類,穀 類の輸出において日本と密接な関係が生まれ

1972/73

1973/74 10月 11月 12月

ユ月

2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月

10月 11月 12月

1月 2月 3月

161

ユ48

161

199 225 260 186

199

225 210 206 187

174 161 180 164 154

ユ47

125

122 124 133

138 150

131

137 145 143 146 145

143

140 146

161

ユ61 ユ60

Base:1966/67=100 Reserve

Bank of Australia, StatisticaI

Bulletin

た。鉄鉱石,石炭など鉱産物はその大半が日本を輸出市場としてオーストラリアは日本へ の食料,原料の供給国としての色彩を濃くしてきた。輸入先としては日本は,アメリカ,

イギリスについで3位であるが(表5),輸出入とも対日本の年平均増加率は他に比較し て高率であり,イギリスの衰退が著しい。

表 4 (%)

1953/54〜1958/59

  1969/70   1970/71   1971/72   1972/73

10.9

24.8 27.2 27.8

31.1

アメリカ

6.8

13.5

11.9 ユ0.5 12.2

イギリス

32.3

1L8

11.3 9,2 9.7

ニユージー ラ ン ド

5.4 4.8 5.3 5.7 5.2

西ドイツ

4.1 2.8 3.0 3.1 3.3

フランス

8。2 2.8 2.4 2.6 3.0

大洋州貿易年鑑(E.A. Boehm, Twentieth Century Economic Development in

Austraha, Commonwealth Bureau of Census and Statistics, Overseas

Trade Statistics)

(4)

表 5 (%)

アメリカ

1953/54〜1958/59

  1969/70   1970/71   1971/72

  ユ972/73

12.6

24.9 25。1 21.8 20.9

イギリス

43.1 21.8 21.4 20.9

18.6

2.4 12.4 13.8 15.7 17.9

西ドイツ

4.4 6.7 7.1 7.3 7.0

カ ナ ダ

2.9 3.9 4.0 3.4 3.3

ニユージー

ラ ン  ド

1.3 2.2 2.3 2.8 3.2

(同上)

表 6

(100万A$)

ユ970/7ユ ユ971/72

1972/73 ユ973/74

輸   出  輸   入 f.o. b   f。 o. b

4,217 4,726 5,991

6,7ユ9

3,790 3,792 3,808 5,750

貿易外収入

1,187 1,356 1,551

ユ,826

貿易外支出

2,463 2,666 3,034 3,539

資本収支

1,447 1,818

 379

 ユ75 Reserve Bank of Allstralia, Statistical Bulletin

 オーストラリアの主要輸入品目としては「,機械類,自動車,鉄鋼等であるが,農畜産 品,鉱産物の輸出代金により北半球の先進国より輸入しているわけで,耐久消費財,資本 財工業の現状から工業化はいまだしの段階である。オーストラリアの国際収支は(表6)

に示すごとくである。貿易収支は黒字であるが,貿易外収支は恒常的に赤字を示してい る。経常収支の赤字を資本収支の黒字で補ってきたのがオーストラリアの従来の型であっ たといえよう。しかし外資の自由な流入を認め,これによって豊富な国内資源の開発を促 進し,これを輸出に転化して外貨をふやす,同時に経済成長をすすめてゆこうとする従来        (註5)

の外資政策も,70年代に入り外貨準備の増大による国内の過剰流動性を防ぐために,とき の自由党政府により72年9月外資流入規制が行なわれ,2年以内の短資禁止の措置がとら れた。労働党政府によっても引つづいてオーストラリア・ドルの7.05%の切上げ,25%の 外貨預託制度(Variable Deposit Requiremennt)が導入された。しかしまた労働党政 府の措置の背景には外資の収奪による国益の逸失,資源ナショナリズムへの配慮がそこに あったと考えられよう。

 ところでこの国のGNPの産業別構成(表7)および実質国民総生産(GDP)の経済 成長率(表8)をみるとつぎのごとくである。

 70年代におけるGDPの成長率をまえに引用し、た政府刊行物のBudget Paperでみる

と(表9)のごとくである。オーストラリアの経済成長率が,主要輸出品である一次産品

の価格および主要輸出国,殊に日本,アメリカの経済の動きによって影響されるところが

大きい。日本の実質経済成長率は72年度11%であるが,オイル・ショックは日本の経済を

急転させるものとなった。(表3)でみた羊毛の輸出価格指数は,74年3月,147であった

(5)

表7 (%) 表8

農牧業

鉱   業 工   業 電力・ガス 水道

建  設

運輸・通信

商  業

そ の 他

(%)

、95。/,、11959/6。11969/,。1、97。/71

29.0

2.1

23.7

1.5

6.3

6,7

14,7

16.3 13.3

L8

28.7

3ユ

7.5

7.8

14.9

23.0 8.0

3ユ

27.0

3.4

8.1

8。2

13.4

28.8

6.8

3.1

26.7

3.3

8.3

8.2

12.9

30.7

オースト ラ リア 日  本

アメリカ

イギリス

西ドイツ

1950/60

4.4

8.3

3.2

2,7

7.7

1960/65

4.9

ユ0.1

4.8

3.4

5.0

・965/7 @195・/・・齢

5.3

12.1

3.2

2.2

4.6 4.7

9.8

3.7

2.8

6.2 2,6

8,6

2,1

2,2

5.2

大洋州貿易年鑑:(Commonwealth

Bureau of Censlls and Statistics,

Australian National Accounts,

1971一フ2 ほカ〉)

財界観測(OECD)

表 9 (average l966−67prices)

・969一・・

P・97・一・・1・97・一・2

5.5%

!972−73    1973−74

4.3 4.0 4.0 5.4

が,その後低下の一途をたどり,4月141,5月139,6,月 135,7月!28,8,月128,9月110,10月l12,11月l14とピー クの時期に比し大幅に低落した。羊毛,肉類の輸出不振は74 年度の対外収支の悪化を示してきた。

 一方この国の消費者物価指数の動きをみるとつぎのごとく である。労働党政権の課題の一つはインフレ対策であった。

政府は過剰流動性を防ぐために,オーストラリア・ドルの切 上げ,外貨預託制度(VDR)の導入,或いは関税の一律25

%のカットなど,外からのインフレ防止措置をとった。しか しなおインフレは73年,74年と進展していった。世界的イン フレーションのなかで,73年10月以降の石油危機は,その供 給面での直接的影響においては,あとでもふれるように軽微

表10

1971/72 1972/73

1973/74

1974/75 12月

3月 6月 9月

12月

3月 6月 9月

12月

122.4 127.7 130.4 134.7 139.6 144.6 148.1 154.1 162.0 168.1

Base:1966/67罵100

Reserve Bank of Australia

であったが,原油コストの上昇による輸入工業製品価格のアップの影響をうけることにな

った。他方殊に日本の経済的不況は貿易不振をもたらし,景気の落ちこみとなってあらわ

れた。失業者の増加(表11)は,インフレ対策にかわって雇用問題の重要性を惹起するこ

とになった。なおこの国の雇用人口は約480万人(農業およびサービス業の雇用者を除く)

(6)

表 11

(単位1000人)

1973       1974

7月  8ノ弓  9月 10月 11月 12月   1.月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月 9月 10月 11∫ヨ ユ2月

76  67   62   60  73  102   121  97  82  76  77  78  93  ユ07  121  ユ49  191  267

Reserve Bank of Australia, Statistical Bulletin

表 12

年 雫石 劇褐 炭陣 測天然ガス電

1…族トンi…万英トン1…万バレ・レ1細魚1ユ・億KWh

1963−64  64−65  65−66  66−67  67−68  68−69  69−70  70−71  71−72  72−73

26.9 28.9 32.3 34.2 36.8 42.6 47.7 48,9 52.7 58.8

18.7

19.5

21.6 22.5

23.ユ 23.1

23.9 22.8 23.3 23.7

 2.0  3.2  4.1

ユ2.0 ユ4.1

30.6 93.9

ユ19.7

129.4

 0.1  0.1  0.2  0.5  1.1  2.0 27.6

69.3

92.8 131.1

32.5 35.6 38.3

4L5

44.5 48.8 53.9 58,0 60.9 64.8

大洋州貿易年鑑(Monthly Bulletin of Business Statistics)

である。

 オーストラリアの石油事情について簡単に補足しておこう。まずエネルギー資源生産量 についてみると(表12)のごとくである。オーストラリアの伝統的な鉱産資源は金,銅,

鉛,亜鉛などの非鉄金属と石炭で,1962年以前は殆んどIOO%原油輸入国であり,石油資 源は存在しないと考えられていたにもかかわらず,60年代に入って石油,天然ガス資源が 発見され,また強粘結炭のほか鉄鉱石の豊富な埋蔵が確認され,60年前後半からその開発 がすすめられてきた。70年代に入り石油依存度は約50%となった。原油自給率の上昇に よって,輸入依存度は急速に低下し,72年で34%となり,アメリカとならんで先進工業国 に比較して低い国となった。この点は73年10月のOAPECによる原油の供給削減に際し,

この国がアラブ友好国取扱いをされたこととあいまって,石油危機の被供給面における直 接的影響をほとんどうけなかった。

 問題は73年10,月にはじまり,引きっついた12月のOPECの原油価格の引上げであった。

政府統計局の資料によると72/73年度における原油・石油製品の輸入額は1.74億A$で,

73/74年度はこれが3.76億A$に増加した。約2.2倍の増加である。原油価格引上げの影

響は74年度以降もつづくが,この点も他の先進工業国に比較すれば,貿易収支におよぼす

影響は比較的に軽微であったと考えられる。しかも70年に国産原油価格に基準価格がしか

れ,価格据置政策が維持されたので,先進工業国に比し国内物価への影響もおさえられた

(7)

ことになった。しかし74年以降は,原油価格のアップによる輸入工業製品価格へのはねか えりが貿易収支の面に影響をおよぼしてきたと考えられる。むしろこの国の最も大きい影 響は,オイル・ショックをきっかけとする世界的景気の後退,殊に日本をはじめ工業先進 国の不況によるこの国の景気の後退である。インフレ問題にかわって雇用情勢の悪化は,

財政金融政策,外資政策などの変更による景気刺戟策への移行を要請することになった。

(註3)

( 4)

( 5)

内田博史「労働党政権下の豪州経済と投資環境」財界観測,1974年12,月,1975年2月,同 6月号.太平洋問題研究会,大洋州貿易年鑑1975年

正井,前掲書,242頁

1972年1月,3,488百万U・Sドル,同6月,4,578百万U・Sドル,73年1月,6,!83百万 U・Sドル,同6月,6,135百万U・Sドルと急増している。

  3

 1974年5月上下両院の同時選挙が行われ,下院において労働党は自由・地方党の保守連 合に辛勝・したが,上院においては同数となり無所属を含めると過半数の確当にいたらなか った。両党の政策で,経済政策について労働党は,過去の産業界に対する保護政策が国民 福祉に還元されず,その利益が外資に収奪されたとする認識のうえに,外資政策の面で外 資規制の方向を継続しようとするに対し,野党の自由・地方党はオーストラリア・ドルの フロート化,労働党の導入したVDRの廃止を主張した。それは米ドルの騰貴によるオー ストラリア・ドルの割高,外資不足による産業界の国内経済開発の停滞ということが主張 の背景にあった。その産業保護政策は労働党の資源ナショナリズム,反企業的政策を行き 過ぎとする批判がそこに考えられる。

 ところで労働党政権も樹立後三年にして総選挙で敗北することとなった。75年10月外資 導入問題でコナー鉱物エネルギー相が辞任したのをきっかけに,野党は総選挙を要求,上 院で予算案の審議を拒否し,これが発端となって11月カー総督によるホイットラム首相の 解任,フレーザー自由党党首の暫定首相就任となり,12月上下両院の同時選挙が行われ た。選挙の結果は自由・地方党が労働党に大差をもって勝利をおさめた。

 前回総選挙がインフレーションの進行,他方,景気ほ峠をこし不況のサイクルに入った 時であり,原油コストの上昇による輸入工業品価格の高騰の影響が出はじめた時期であっ た。政府は国際収支の逆調のなかで急激な金融逼迫に直面し,金融緩和策,失業対策に追 われた。資源ナショナリズムと他方,資金不足,或いはインフレーション下の失業の増大 と,当面する事態は深刻であった。こうした背景のなかに自由・地方党の勝因があった。

失業率は5%にのぼり,いまや不況,雇用対策が最重点課題となり,経済の建て直しが自 由・地方党への期待となってあらわれたと考えられる。

 4

1973年4月オーストラリアは金融引締の第一歩を踏みだした。この月,法定支払準備率

(8)

(Statutory Reserve Deposits)は6.6%から7.ユ,ひきつづいて7.6%に引上げられた。

5月には国債レートも6.5%,ついで7.月には7%に引上げられた。八月にはSRDはさ らに上昇して8.6%となったが,直後8%に引下げられたものの,8,月末9%と階段的に 高水準に引上げられた。9,月には当座貸越金利が7.5%から9.5%と大幅に上昇し,綜合 的な高金利政策の採用となったのもインフレ対策の一環であった。これよりさき労働党政 権発足後,外資流入規制の強化,VDRの導入と過剰流動性を防止するための為替外資政 策がとられたことはすでに述べたところである。

 74年5月の総選挙はこの国経済の転換期へのさしかかりを示す時期でもあった。国内景 気についてまた貿易収支の面でしかりであった。前年からの全般的な金利水準引上げによ

る引締めの効果が大きくあらわれ,外資流入の規制,SRDの引上げと相まって商業銀行 の流動性は急速に低下し金融逼迫状態を惹起した。73年8月末に9%の高水準に達したS RDは,約10ケ月間据置かれたが,74年6,月8.25%に引下げられ金融緩和の措置をとらね ばならぬこととなった。その後SRDは短期間に急遽数回におよぶ引下げにより,10月に は3%と急激な引下げとなった。VDRも6月以降引下げられ, IL月には撤廃された。た だ短資のみは期間2年以内を6ケ月以内に変更してなお継続された。すなわち外資流入規 制の政策変更がとられたわけである。したがってインフレ対策にはじまった労働党の政策 が,74年後半には金融財政政策の転換,資源ナショナリズム政策の緩和と急速な政策転換 が行なわれることとなった。金融逼迫の惹起も急速であったが,金融の緩和も急速にすす

んだ。

1

 オーストラリアにおける中央銀行制度は,短期間に確立したものではなく徐々に成長を

とげてきたものである。中央銀行の発展はそれを要請したオーストラリア経済の性格に左

右されたもので,オーストラリア独特の様式で展開したものであった。1911年以前のオー

ストラリア経済はすでに確立した基礎をもった若『二の商業銀行(trading bank)により

支えられていたといえる。それら商業銀行のうちでは1817年の設立になるBank of:New

South Walesが最古のものであった。しかし中央銀行は存在せず,意図的な銀行政策の

調整など行なわれていなかった。1911年に連邦政府によるオーストラリア連邦銀行(The

Commonwealth Bank of Australia)が設立されたときですら,唯一の直接的な結果

は,新しい政府所有の商業銀行を創設したことであり,連邦銀行の中央銀行としての最終

的な発展は,事実そうであったように計画的というより偶然的なものであった。連邦銀行

が最後にオーストラリアの中央銀行として認められるに至ったのは,実際にこの国の歴史

で三つの主要な危機の時;期の直接的結果であった。その時;期というのは第一次世界大戦,

(9)

1930年代初期の不況および第二次世界大戦であった。連邦銀行の中央銀行への発展が達成 されたのは,それがオーストラリアの実情にあった信用統制の方法を明確にすることに成        (註1)

下したときであった。

 連邦銀行の出現は重要なことであった。この銀行は現在のオーストラリア準備銀行

(Reserve Bank of Australia)の前身となるものであるが,この規行設立を規定した 法律は商業銀行と貯蓄銀行の一般的機能しか同行に付与しなかった。連邦銀行に紙幣発行 の管理権が与えられたのは,ようやく1924年の改正法によってであった。しかし当時はな お金融政策手段を有せず,実質的に中央銀行としての機能を果すものではなかった。中央 銀行としての発展は1930年代の不況により促進され,さらに第二次大戦に入って戦時法規 によってその役割を課せられ,金および外国為替の管理,銀行の支払準備の受入れ,銀行 の貸出の規制,預金および貸出金利の決定などの権限が臨時的に与えられることになった ものである。戦後これらの法規の多くが恒久化せられ,1945年の改正法で金融政策手殺を もつ中央銀行としての体裁を整備した。他方連邦銀行の商業銀行としての活動範囲もひろ がった。したがって同一銀行が中央銀行であると同時に一般銀行業務,貯蓄銀行業務を営 む包括的な金融機関であったが,同時にそれには明らかな反対もあり,中央銀行としての独 立の立場が求められもした。1951年政府関係者の参加を制限した理事会(Commonwealth Bank Board)が設置され,大蔵大臣の直接指揮から離脱することになった。また金融政 策を効果的に遂行してゆくうえで商業銀行との競合関係にあることは適当でないこと から,1959年にオーストラリア準備銀行法を制定し,連邦銀行の中央銀行部門を独立さ せ,オーストラリア準備銀行となった。準備銀行は中央銀行業務のほかに農業信用部門        (註2)

(Rural Credits Department)を有して関係業務を行なっている。

(註1)J.S. Wilson;The Commonwealth Bank of Australia, in Banking in the    British Comnonwealth更更edited by R. S. Sayers. p.39.

( 2)H.W.Aubllrn著,吉野俊彦・小川精一訳,世界の銀行制度,31−2頁.正井編前掲書,

   252頁

  2

 オーストラリアの金融制度は欧米先進諸国と違った形で特異な発達をとげてきたが,そ,

の歴史は比較的に新しい。ここではまず中央銀行についてとりあげる。オーストラリア準 備銀行の前身は連邦銀行であるが,ウィルソンにしたがいその説くところを要約し,その        (註3)

設立,歴史について述べることにする。

 連邦銀行の設立に深い関係をもったのはキング・オーマリ(:King O Malley)であっ た。国立銀行設立の要望が,1908年の協議会においてオーストラリア労働党の闘争綱領に 含められたのは彼の力によるところが大きかった。ユ910年労働党が両院で過半数を占めた

ごとはその実現を可能としたもので,翌1911年連邦準備法の制定をみることとなった。

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 しかし設立された連邦銀行は,かならずしもオーマリの望んだ方向のものではなかっ た。彼は商業銀行の業務と発券銀行の業務を結びつけた銀行を望んでいたが,それは商業 銀行の独占を打破し,公共の利益のうえに通貨の健全な管理を導入せんとするものであっ て,新しい銀行はこれを政府の一部門とし,しかも政治的なコントロールから全く自由な部 局によって管理されるところにその意図があった。それはしかし労動党政府の受入れると

ころとならなかった。設立された新銀行は一般銀行業務と貯蓄銀行業務との部門にわかた れた。これは商業銀行との競争,また貯蓄銀行業務への関心を示すものであった。つぎに 紙幣発行の権i限は銀行に与えられず大蔵省の手中に残された。大蔵省は1910年のBank Notes Tax Actのもとで,商業銀行に紙幣発行について10%の課税を行なうことで事実 上の独占を得ていた。さらに連邦銀行はその資本の調達を行なわなかった。政府からの一

時借入れを基礎に業務を開始した。株主も理事会も存在せず,総裁が特別に広い権限を 与えられ,その政策の決定を行なった。初代総裁はデニソン・ミラー卿(Sir Denison Miller)であった。

 連邦銀行は1912年貯蓄銀行業務を開始したが,1913年までは一般銀行業務を始めていな かった。当初は政府勘定の保管程度のことであった。事実連邦銀行の歴史の初期の段階で は第一次大戦の特別な財政問題にかかわりをもっていた。戦争のための必要財源の多くを 戦時債で募った。連邦銀行が大蔵省に代わってオーストラリアで発行される戦時債のすべ てを管理した。また一次産品の流通に関係した企業者合同に資金を供与したり,金の海外 への船積みを政府代蓮として行なってきた。連邦銀行が中央銀行としての最初の行動をと

りはじめたのは,商業銀行がその貸付資金を政府勘定に引渡す結果,商業銀行の現金ポジ ィションを保護する措置を講じたこの;期間であった。

 1920年の法律によって,大蔵省は紙幣発行の責任を連邦銀行に引渡すことになった。別 に発券部門が設けられたが,紙幣発行の監督は委任されなかった。それは発券委員会の手 中におかれ,総裁はその1メンバーであった。これには不満もあって,1923年ミラー卿の 死去で連邦銀行の再編成の機が熟した。

 この段階ではオーストラリアは商業銀行と競争し,紙幣発行に責任をもつ政府の銀行を もっていたわけである。紙幣発行は独立の部門で取扱われたが発券委員会によって支配さ れていた。政府はいまやこの銀行を紙幣発行を充分にコントロールする権限をもつ中央発 券銀行に変貌させることを決定した。紙幣の不足はロンドンで保持されている資産に対応 して銀行に紙幣発行を許すことでうめようとした。しかし連邦銀行は発行紙幣の25%相当 額の金貨および金地金の保有を要求されていた。またその業務を取締役会の手中におき,

その銀行政策を社会全体の利益からコントロールするに充分な力を銀行に与えることによ り,連邦銀行を政治的な圧力から免れさせることが望まれた。

 1924年の法案で,連邦銀行のうえにつぎのような変更がみられた。まず第一に,銀行の

管理が取締役会の手中におかれたこと,それは銀行の紙幣発行および一般銀行業務の両方

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をコントロールすることであった。取締役は8人からなり,総裁および大蔵大臣,ほかに 農業,商業,金融または産業界で積極的に活動しているか或いは行なってきた人6人を含 んでいる。第二に連邦銀行は1924年の条例でその地位を資本の調達によって強化すること になった。しかし実情はその変化が思ったほどのものではなかった。第三に連邦銀行は手 形の割引歩合を決定,発表する権限を与えらるべきことが規定された。これは中央銀行の 最も重要な職能の一つであるとしたが,それはイギリスの経験にもとづいた考え方で,オ ーストラリアにおける特殊な性格の認識がほとんどなかった。オーストラリアの実情は世 界の金融中心地におけるイングランド銀行の開発した信用統制の手毅を不適当なものとし ていた。事実がそうであったように,手形市場の欠如で再割引率を発表する必要が生じな かったし,したがって条令の関係条項がその実施を公示されることもなかった。そこで 1924年の条例は無条件の成功とはならなかったようにみえる。その特徴は独裁的な総裁の 権限にとってかわる取締役会の設置,および紙幣発行の管理を連邦銀行に引渡した点であ ろう。さらに銀行の統計資料の編集,発表の要請も新しい方向への一歩であった。

 1924年の条例通過後,連邦銀行はその一般銀行業務の機能はそれを堅実に発展させた が,中央銀行業務のそれに関する限りなお未だしであった。連邦銀行局自身はオーストラ

リアに中央準備銀行制度を確立することを切望してきたように見えるが,単にイギリスの 制度を移植すること,そうしてそれがオーストラリアの実情のもとで,繁栄することを期 待するだけで達成できるものでないことも知っていた。1929年7月連邦銀行取締役会が中 央銀行制度のオーストラリアでの確立がまだ未解決の問題であると報告したときも,なん

ら驚きはなかった。

 しかし1929年後半に続発した恐慌と共に,連邦銀行の中央銀行としての展開がすばやい ステッフ。を踏みだしていた。1930年代初期の不況はオーストラリアにすくなくとも他国に おけると同様の影響をおよぼした。オーストラリアの主要産物輸出価格の低落とイギリス の対豪州政府貸付の継続に対する気のなさで,オーストラリアの国際収支に不利に作用す る要素があった。連邦銀行は政府の銀行として,危機に対応して重要な役割を果すことを 当然要請されることになり,当初は甚だしく凹いでいたリーダーシップを漸欠展開させて いった。1929年11月連邦銀行条例は,金準備の法的制限を25%からユ5%に下げることを許 す目的で修正されたが,4年を超えない;期間で,三度の段階でもとの25%に復帰させると いう条件であった。25%金準備はその過程で金およびスターリングでの準備になったが,

その復帰は正しく実施せられた。

 政府が大蔵省証券で商業銀行から短期借入れ策をとったのもこの頃のことであった。こ

れより以前は,当座貸越の形で短;期の融資を確保するのが政府の慣行であった。ときに大

蔵省証券を発行することがあったが満;期には償還されていた。しかしながらユ929年10月

に,政府は償還せず更新する大蔵省証券を発行した。その変化は連邦銀行を含めて商業銀

行が当座貸越による融資の継続にのり気でなく,政府が国内,国外のいずれをとわず長期

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借入れによる資金調達に無力であったことに起因する。そこで1929年末,大蔵省証券の永 続的発行が始まった。政府の赤字が増加するにつれ大蔵省証券の発行も急速に増加した。

1929年末,その発行残高は250万オーストラリア・ポンドであったが,3年もたたぬうち にそれは5千万オーストラリア・ポンドをこえる程になった。

 また公開市場操作のようなものが行われたのもこの時期であった。はじめは証券の売却 が流通紙幣を減少させるために行われたが,この目的での証券売却政策が銀行委員会によ って採られたのはすでに早く1926年L月のことであった。商業銀行の流動性を維持する目 的での公開市場操作が1935年に報告されているが,ユ936年までは思慮ある中央銀行操作は 比較的に少く且つ幾分一貫していなかったことは明らかで,明確な政策がそれらによって 示されてはいなかった。愼重にして決定的な政策が示されたのは,景気後退の恐れに備え て1937年の,さらに景気後退を除去するため1938年および39年における操作についてのみ であった。信用統制め主要な手段として,公開市場操作がオーストラリアの実情に合致す るにはなお見込みのないものであった。

 人が期待したように,第二次大戦がオーストラリアの銀行構造に与えた衝撃は,政府銀 行業者としての連邦銀行に,必然的に以前にもまして著しく大きな責任を引受けさせるも のとなった。成熟した中央銀行制度の発展はこの時期であった。1945年までに連邦銀行の コントロールを達成するに必要な法的権限をすべて獲得するまでになった。しかしながら 中央銀行政策のなお消極的であった平和から戦争への移行の初期段階では,国内分野にお

ける活動の制限に対する必要がほとんどなかったので,うえのことが即時的に行われたわ けではなかった。      ,

(註3)R.S. Sayers;ibid.,PP,39−52.

表 1 (100万A$) 1ユ969−7・・97・一7・1・97・一72・972−731ユ973−74 農業生産物 非農業生産物 2,17927,634 2,000 30,763 2,22934,167 3,064 38,1ユ4 4,502 45,279 合 計 29・8・31 32・7631 36.3961 41,ユ78 49,781 Government Publication,1974−75 Budget Paper No.ユ0 は11%である。この数字は一次産業のオ ーストラリア経済における重要さ,
表 5 (%) アメリカ 1953/54〜1958/59   1969/70   1970/71   1971/72   ユ972/73 12.6 24.925。121.820.9 イギリス43.121.821.420.918.6 日 本2.412.413.815.717.9 西ドイツ4.46.77.17.37.0 カ ナ ダ2.93.94.03.43.3 ニユージーラ ン  ド1.32.22.32.83.2 (同上) 表 6 (100万A$) ユ970/7ユ ユ971/72 1972/73 ユ973/74
表 11 (単位1000人) 1973                         1974 7月  8ノ弓  9月 10月 11月 12月   1.月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月 9月 10月 11∫ヨ ユ2月 76  67   62   60  73  102   121  97  82  76  77  78  93  ユ07  121  ユ49  191  267 Reserve Bank of Australia, Statistical Bulletin 表 12

参照

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