オーストラリアの経済と金融機構
河 本 博 介
目 次 一 オーストラリアの経済事情 二 金融機構一中央銀行について(序)
ユ
オーストラリアは,本国イギリスの約23倍の面積をもつ広大な大陸(7・68百万平方キ ロ)であるが,その人口は僅かに1,333万人(1974年6月)にすぎない。亜熱帯,温帯地 域に位置し,広大な面積と豊かな天然資源をもつ地理的条件,人種問題のない恵まれた国 である。他の英連邦植民地と全く異なった発展をとげた。この国の歴史は比較的に新し く,1788年,イギリス人がこの新大陸に移住して以来,羊毛,小麦を中心とした一次産業の (註1)
開発がすすめられ,いわば「羊の背に乗った繁栄」がもたらされてきた。豊富な農畜産物 と工業化を背景にその所得水準は高い。
オーストラリアに労働党政権が誕生したのは1972年12月のことであった。当時この国 は,輸出の好調にのってインフレーション対策が緊急の課題であった。オーストラリア は戦後,1946年労働党が一時政権を担当したが,1949年以来一貫して自由党政権下にあっ た。労働党は23年ぶりに政権の座についたが,オーストラリア労働党の結成は1891年で,
労働組合とカトリックを支持基盤としている。1972年労働党政権の成立後,ホイットラム 首相は外に対しては中国の承認,南ベトナムからの軍事顧問団の引揚げ,SEATOからの 段階的撤退の表明など自由党の外交政策の転換がうちだされ,内に対しては物価対策,失 業対策などの課題解決をせまられた。こうしたところにオーストラリアの当面する問題 があった。
オーストラリア経済を性格づけるものは,比較的に若いこの国が,能力の限界に達する ことなく経済成熟を達成したことである。経済構造は過去30年間で急速な変化をとげた。
しかし海外貿易の主要な役割が減少することはなかった。農畜産物は技術の改善と機械化 で増大し,鉱物資源の発見はオーストラリア経済に新しい飛躍力を与えることとなった。
大いなる変化は工業の発展で,戦時の需要に刺戟され,移民の流入による労働人口の増加
により促進された。農畜産物は現在国民総生産(Gross Domestic Product)の約1割で
あるが(表1),鉱業を除く一次産業の労働人ロは,1921年の22%と比較して,1961年で
表 1
(100万A$)1ユ969−7・・97・一7・1・97・一72・972−731ユ973−74 農業生産物
非農業生産物
2,179 27,634
2,000 30,763
2,229 34,167
3,064
38,1ユ4
4,502 45,279
合
計 29・8・31 32・7631 36.396141,ユ78
49,781
Government Publication,1974−75 Budget Paper No.ユ0
は11%である。この数字は一次産業のオ ーストラリア経済における重要さ,しか も特に海外貿易におけるその重要性に比 して低いけれども,これはその生産性の 高さをあらわしているものといえる。人 口はいまや大きく都市化し(表2),6 州の首都に半分以上が居住し,三次産業 の人望増加を示している。しかし経済は なお本質的に海外貿易に依存し,輸出入 市場の多様化にその努力がむけられて
(註2)
いる。
表2 1971年
都市の規模
50万〜
10万〜
5万〜
2.5万〜
2万〜
ユ.5万〜
1万〜
都市数
5 5 5 12 8 16
22
都市人 庶コ人。同累灘
57.92 6.58 2,52 3.20
1.39 2.ユ7
2.04%
%
57.92 64.49
67.0ユ
70。22 71.61 73.78 75.82大洋州貿易年鑑(Pocket Cornpendium of
Australiarl Statistics)(註1)正井正夫編「東南アジア,大洋州の開発と金融」241頁
( 2)W.F. Crick;Commonwealth Ballking System,1965. pp.54−5.
2
いま1970年代初期のオーストラリアの経済事情につき若干の問題について概観してみよ
(註3)
う。
羊毛輸出に比重のかかっているオーストラリアの経済にとって,化合繊という競争相手 の登場は脅威であった。しかし1960年代に入って,各州で豊富な鉄鉱石,非鉄金属鉱や石 炭など鉱物資源が発見開発され,経済に大きな活力を与えるものとなった。一方工業化 は,労働人ロの過少,国内市場の山斗,或いは農畜産物の輸出による工業製品の輸入の可 能なことから遅れていたが,第2次大戦を機に工業化の必要性が認識され,戦後英米から の外資流入による工業化が進んできた。しかし輸出の大宗を占めるものは依然として一次 (註4)
産品であり,工業製品の輸出額は少なく,国際競争力も十分ではない。
さて労働党政権の出現はすでに述べたごとく1972年12月であったが,これよりさき同年
6月頃からの国際商品価格の騰貴につづいて73年10月のオイル・ショックを契機に,世界
経済は激しいインフレーションの状態のなかで,その後の景気後退による失業の増加と不
況に深刻に直面してきた。オーストラリアの経済も当然その影響をうけざるを得なかっ
た。労働党政府は外資の規制,通貨切下げ,関税引下げ,金融調整など情況に対応してや つぎばやに多様の対策を講じてきた。
オーストラリアは,戦後一貫して日本への傾 斜の度合いを強くした。その貿易収支は1970年 代には黒字傾向を示していたが,その黒字は
表3
i i羊劃全商品
1971/721 7・1…
(表3)にその一端が示されるごとく輸出商品 価格の騰貴によるところが大きく,殊に羊毛の それによるところが大であった。いま羊毛の輸 出価格指数を全商品のそれに対比すると,72年 から73年にかけて顕著であったことが判明する が,74年2月を境にこの関係は逆転している。
オーストラリアの対外主要輸出品目をみると 1972/73年で,羊毛(輸出額のユ9.3%),肉類
(12.9%),鉄鉱石(7.3%),石炭(4.9%),
小麦(4.6%),砂糖(4.2%)と畜産品をひつ 頭に鉱産物が主要なものとなっている。またそ の輸出国では日本の比重が圧倒的に高く輸出総 額の31.1%を占め,ついでアメリカの12.2%,
イギリスの9.7%となっている(表4)。鉄鉱 石,石炭などその輸出は,鉱物資源の発見,開 発につれ,60年代代後半から増加し,肉類,穀 類の輸出において日本と密接な関係が生まれ
1972/73
1973/74 10月 11月 12月
ユ月
2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月
10月 11月 12月1月 2月 3月
161
ユ48
161199 225 260 186
199225 210 206 187
174 161 180 164 154ユ47
125
122 124 133138 150
131137 145 143 146 145
143140 146
161ユ61 ユ60
Base:1966/67=100 Reserve
Bank of Australia, StatisticaIBulletin
た。鉄鉱石,石炭など鉱産物はその大半が日本を輸出市場としてオーストラリアは日本へ の食料,原料の供給国としての色彩を濃くしてきた。輸入先としては日本は,アメリカ,
イギリスについで3位であるが(表5),輸出入とも対日本の年平均増加率は他に比較し て高率であり,イギリスの衰退が著しい。
表 4 (%)
1953/54〜1958/59
1969/70 1970/71 1971/72 1972/73
日
本
10.9
24.8 27.2 27.831.1
アメリカ
6.8
13.511.9 ユ0.5 12.2
イギリス
32.3
1L8
11.3 9,2 9.7
ニユージー ラ ン ド
5.4 4.8 5.3 5.7 5.2
西ドイツ
4.1 2.8 3.0 3.1 3.3
フランス
8。2 2.8 2.4 2.6 3.0
大洋州貿易年鑑(E.A. Boehm, Twentieth Century Economic Development in
Austraha, Commonwealth Bureau of Census and Statistics, Overseas
Trade Statistics)表 5 (%)
アメリカ
1953/54〜1958/59
1969/70 1970/71 1971/72
ユ972/7312.6
24.9 25。1 21.8 20.9イギリス
43.1 21.8 21.4 20.9
18.6
日 本
2.4 12.4 13.8 15.7 17.9
西ドイツ
4.4 6.7 7.1 7.3 7.0
カ ナ ダ
2.9 3.9 4.0 3.4 3.3
ニユージー
ラ ン ド1.3 2.2 2.3 2.8 3.2
(同上)
表 6
(100万A$)ユ970/7ユ ユ971/72
1972/73 ユ973/74輸 出 輸 入 f.o. b f。 o. b
4,217 4,726 5,991
6,7ユ9
3,790 3,792 3,808 5,750
貿易外収入
1,187 1,356 1,551ユ,826
貿易外支出
2,463 2,666 3,034 3,539資本収支
1,447 1,818
379
ユ75 Reserve Bank of Allstralia, Statistical Bulletinオーストラリアの主要輸入品目としては「,機械類,自動車,鉄鋼等であるが,農畜産 品,鉱産物の輸出代金により北半球の先進国より輸入しているわけで,耐久消費財,資本 財工業の現状から工業化はいまだしの段階である。オーストラリアの国際収支は(表6)
に示すごとくである。貿易収支は黒字であるが,貿易外収支は恒常的に赤字を示してい る。経常収支の赤字を資本収支の黒字で補ってきたのがオーストラリアの従来の型であっ たといえよう。しかし外資の自由な流入を認め,これによって豊富な国内資源の開発を促 進し,これを輸出に転化して外貨をふやす,同時に経済成長をすすめてゆこうとする従来 (註5)
の外資政策も,70年代に入り外貨準備の増大による国内の過剰流動性を防ぐために,とき の自由党政府により72年9月外資流入規制が行なわれ,2年以内の短資禁止の措置がとら れた。労働党政府によっても引つづいてオーストラリア・ドルの7.05%の切上げ,25%の 外貨預託制度(Variable Deposit Requiremennt)が導入された。しかしまた労働党政 府の措置の背景には外資の収奪による国益の逸失,資源ナショナリズムへの配慮がそこに あったと考えられよう。
ところでこの国のGNPの産業別構成(表7)および実質国民総生産(GDP)の経済 成長率(表8)をみるとつぎのごとくである。
70年代におけるGDPの成長率をまえに引用し、た政府刊行物のBudget Paperでみる
と(表9)のごとくである。オーストラリアの経済成長率が,主要輸出品である一次産品
の価格および主要輸出国,殊に日本,アメリカの経済の動きによって影響されるところが
大きい。日本の実質経済成長率は72年度11%であるが,オイル・ショックは日本の経済を
急転させるものとなった。(表3)でみた羊毛の輸出価格指数は,74年3月,147であった
表7 (%) 表8
農牧業
鉱 業 工 業 電力・ガス 水道
建 設
運輸・通信
商 業
そ の 他
(%)
、95。/,、11959/6。11969/,。1、97。/71
29.0
2.1
23.7
1.5
6.3
6,7
14,7
16.3 13.3
L8
28.7
3ユ
7.5
7.8
14.9
23.0 8.0
3ユ
27.0
3.4
8.1
8。2
13.4
28.8
6.8
3.1
26.7
3.3
8.3
8.2
12.9
30.7
オースト ラ リア 日 本
アメリカ
イギリス
西ドイツ
1950/60
4.4
8.3
3.2
2,7
7.7
1960/654.9
ユ0.1
4.8
3.4
5.0
・965/7 @195・/・・齢
5.3
12.1
3.2
2.2
4.6 4.7
9.8
3.7
2.8
6.2 2,6
8,6
2,1
2,2
5.2
大洋州貿易年鑑:(Commonwealth
Bureau of Censlls and Statistics,Australian National Accounts,
1971一フ2 ほカ〉)
財界観測(OECD)
表 9 (average l966−67prices)
・969一・・
P・97・一・・1・97・一・25.5%
!972−73 1973−74
4.3 4.0 4.0 5.4
が,その後低下の一途をたどり,4月141,5月139,6,月 135,7月!28,8,月128,9月110,10月l12,11月l14とピー クの時期に比し大幅に低落した。羊毛,肉類の輸出不振は74 年度の対外収支の悪化を示してきた。
一方この国の消費者物価指数の動きをみるとつぎのごとく である。労働党政権の課題の一つはインフレ対策であった。
政府は過剰流動性を防ぐために,オーストラリア・ドルの切 上げ,外貨預託制度(VDR)の導入,或いは関税の一律25
%のカットなど,外からのインフレ防止措置をとった。しか しなおインフレは73年,74年と進展していった。世界的イン フレーションのなかで,73年10月以降の石油危機は,その供 給面での直接的影響においては,あとでもふれるように軽微
表10
1971/72 1972/731973/74
1974/75 12月
3月 6月 9月
12月3月 6月 9月
12月122.4 127.7 130.4 134.7 139.6 144.6 148.1 154.1 162.0 168.1
Base:1966/67罵100
Reserve Bank of Australia
であったが,原油コストの上昇による輸入工業製品価格のアップの影響をうけることにな
った。他方殊に日本の経済的不況は貿易不振をもたらし,景気の落ちこみとなってあらわ
れた。失業者の増加(表11)は,インフレ対策にかわって雇用問題の重要性を惹起するこ
とになった。なおこの国の雇用人口は約480万人(農業およびサービス業の雇用者を除く)
表 11
(単位1000人)1973 1974
7月 8ノ弓 9月 10月 11月 12月 1.月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11∫ヨ ユ2月
76 67 62 60 73 102 121 97 82 76 77 78 93 ユ07 121 ユ49 191 267
Reserve Bank of Australia, Statistical Bulletin
表 12
年 雫石 劇褐 炭陣 測天然ガス電
力1…族トンi…万英トン1…万バレ・レ1細魚1ユ・億KWh
1963−64 64−65 65−66 66−67 67−68 68−69 69−70 70−71 71−72 72−73
26.9 28.9 32.3 34.2 36.8 42.6 47.7 48,9 52.7 58.8
18.7
19.5
21.6 22.523.ユ 23.1
23.9 22.8 23.3 23.72.0 3.2 4.1
ユ2.0 ユ4.1
30.6 93.9ユ19.7
129.40.1 0.1 0.2 0.5 1.1 2.0 27.6
69.3
92.8 131.132.5 35.6 38.3
4L5
44.5 48.8 53.9 58,0 60.9 64.8
大洋州貿易年鑑(Monthly Bulletin of Business Statistics)
である。
オーストラリアの石油事情について簡単に補足しておこう。まずエネルギー資源生産量 についてみると(表12)のごとくである。オーストラリアの伝統的な鉱産資源は金,銅,
鉛,亜鉛などの非鉄金属と石炭で,1962年以前は殆んどIOO%原油輸入国であり,石油資 源は存在しないと考えられていたにもかかわらず,60年代に入って石油,天然ガス資源が 発見され,また強粘結炭のほか鉄鉱石の豊富な埋蔵が確認され,60年前後半からその開発 がすすめられてきた。70年代に入り石油依存度は約50%となった。原油自給率の上昇に よって,輸入依存度は急速に低下し,72年で34%となり,アメリカとならんで先進工業国 に比較して低い国となった。この点は73年10月のOAPECによる原油の供給削減に際し,
この国がアラブ友好国取扱いをされたこととあいまって,石油危機の被供給面における直 接的影響をほとんどうけなかった。
問題は73年10,月にはじまり,引きっついた12月のOPECの原油価格の引上げであった。
政府統計局の資料によると72/73年度における原油・石油製品の輸入額は1.74億A$で,
73/74年度はこれが3.76億A$に増加した。約2.2倍の増加である。原油価格引上げの影
響は74年度以降もつづくが,この点も他の先進工業国に比較すれば,貿易収支におよぼす
影響は比較的に軽微であったと考えられる。しかも70年に国産原油価格に基準価格がしか
れ,価格据置政策が維持されたので,先進工業国に比し国内物価への影響もおさえられた
ことになった。しかし74年以降は,原油価格のアップによる輸入工業製品価格へのはねか えりが貿易収支の面に影響をおよぼしてきたと考えられる。むしろこの国の最も大きい影 響は,オイル・ショックをきっかけとする世界的景気の後退,殊に日本をはじめ工業先進 国の不況によるこの国の景気の後退である。インフレ問題にかわって雇用情勢の悪化は,
財政金融政策,外資政策などの変更による景気刺戟策への移行を要請することになった。
(註3)
( 4)
( 5)
内田博史「労働党政権下の豪州経済と投資環境」財界観測,1974年12,月,1975年2月,同 6月号.太平洋問題研究会,大洋州貿易年鑑1975年
正井,前掲書,242頁
1972年1月,3,488百万U・Sドル,同6月,4,578百万U・Sドル,73年1月,6,!83百万 U・Sドル,同6月,6,135百万U・Sドルと急増している。
3
1974年5月上下両院の同時選挙が行われ,下院において労働党は自由・地方党の保守連 合に辛勝・したが,上院においては同数となり無所属を含めると過半数の確当にいたらなか った。両党の政策で,経済政策について労働党は,過去の産業界に対する保護政策が国民 福祉に還元されず,その利益が外資に収奪されたとする認識のうえに,外資政策の面で外 資規制の方向を継続しようとするに対し,野党の自由・地方党はオーストラリア・ドルの フロート化,労働党の導入したVDRの廃止を主張した。それは米ドルの騰貴によるオー ストラリア・ドルの割高,外資不足による産業界の国内経済開発の停滞ということが主張 の背景にあった。その産業保護政策は労働党の資源ナショナリズム,反企業的政策を行き 過ぎとする批判がそこに考えられる。
ところで労働党政権も樹立後三年にして総選挙で敗北することとなった。75年10月外資 導入問題でコナー鉱物エネルギー相が辞任したのをきっかけに,野党は総選挙を要求,上 院で予算案の審議を拒否し,これが発端となって11月カー総督によるホイットラム首相の 解任,フレーザー自由党党首の暫定首相就任となり,12月上下両院の同時選挙が行われ た。選挙の結果は自由・地方党が労働党に大差をもって勝利をおさめた。
前回総選挙がインフレーションの進行,他方,景気ほ峠をこし不況のサイクルに入った 時であり,原油コストの上昇による輸入工業品価格の高騰の影響が出はじめた時期であっ た。政府は国際収支の逆調のなかで急激な金融逼迫に直面し,金融緩和策,失業対策に追 われた。資源ナショナリズムと他方,資金不足,或いはインフレーション下の失業の増大 と,当面する事態は深刻であった。こうした背景のなかに自由・地方党の勝因があった。
失業率は5%にのぼり,いまや不況,雇用対策が最重点課題となり,経済の建て直しが自 由・地方党への期待となってあらわれたと考えられる。
4
1973年4月オーストラリアは金融引締の第一歩を踏みだした。この月,法定支払準備率
(Statutory Reserve Deposits)は6.6%から7.ユ,ひきつづいて7.6%に引上げられた。
5月には国債レートも6.5%,ついで7.月には7%に引上げられた。八月にはSRDはさ らに上昇して8.6%となったが,直後8%に引下げられたものの,8,月末9%と階段的に 高水準に引上げられた。9,月には当座貸越金利が7.5%から9.5%と大幅に上昇し,綜合 的な高金利政策の採用となったのもインフレ対策の一環であった。これよりさき労働党政 権発足後,外資流入規制の強化,VDRの導入と過剰流動性を防止するための為替外資政 策がとられたことはすでに述べたところである。
74年5月の総選挙はこの国経済の転換期へのさしかかりを示す時期でもあった。国内景 気についてまた貿易収支の面でしかりであった。前年からの全般的な金利水準引上げによ
る引締めの効果が大きくあらわれ,外資流入の規制,SRDの引上げと相まって商業銀行 の流動性は急速に低下し金融逼迫状態を惹起した。73年8月末に9%の高水準に達したS RDは,約10ケ月間据置かれたが,74年6,月8.25%に引下げられ金融緩和の措置をとらね ばならぬこととなった。その後SRDは短期間に急遽数回におよぶ引下げにより,10月に は3%と急激な引下げとなった。VDRも6月以降引下げられ, IL月には撤廃された。た だ短資のみは期間2年以内を6ケ月以内に変更してなお継続された。すなわち外資流入規 制の政策変更がとられたわけである。したがってインフレ対策にはじまった労働党の政策 が,74年後半には金融財政政策の転換,資源ナショナリズム政策の緩和と急速な政策転換 が行なわれることとなった。金融逼迫の惹起も急速であったが,金融の緩和も急速にすす
んだ。
1