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清沢測渡米時期の排日運動状況在米領事館等の報告による一―

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(1)

清沢 Fll渡 米時期の排 日運動状況

論 説

清沢測渡米時期 の排 日運動状況

在米領事館等の報告による一―

山 本 義 彦

はじめに

1  清沢冽の渡米 と日本人学童排斥

2  大正初期のシア トル総領事館報告 (1)排 日土地法問題の登場

唸 )缶 詰製造所労働者の日本人排斥運動

0)洗 濯業者の日本人排斥運動

3  ワシン トン州の排 日運動の底流

(1)国 際連盟 による民族問題の扱 いに対する認識 唸 )排 日運動の諸相 と対抗の論理

むすびにかえて

は じめ に

清沢冽が渡米 した時期、 アメ リカ西海岸では、サ ンフランシスコにおける日本人学童排斥運動を

はじめ、排 日運動が盛んに見 られた。清沢は、そ うした時期、 ワシントン州 シア トル近郊のタコマ

に移民者 となって、 アメ リカ生活を開始 した。排 日運動が清沢にいかなる精神的ス トレスを生 じた

ものか どうかは、当時、 シア トルで発行 されていた北米時事や、その後、 ロスアンジェルスの日系

新聞「羅府新報」 に寄せた彼の論文のい くつかを読むだけで も把握可能である。 これ らについての

基本 は拙著『 清沢 Fljの 政治経済思想』御茶の水書房、 1996年 で も述べたことがある。 しか しその際

にも意識 していたことであったが、彼 はタコマでの生活 において も当然排 日の動 きを知 る機会を得

ていたにも拘わ らず、清沢 はそこか ら極端な排米主義者にならたのではなかった。 このあたりの事

情をどのように見ればよいか ということは、その後の彼の執筆 した論著で も十分には捉えることが

出来ない。 タコマの地が、それほど大 きな排 日運動にも回れなか ったということも可台ヒ性 としては

(2)

考え られるか も知れない。 しか し先 に挙 げた当時の労作での主張か らすれば、やはり相当に大 きな 精神的痛手を負 ったと見て も良 いのである。

そこで本論では、一つの手がか りとして、敢えて詳細に、当時の排 日運動の情勢 と社会の動向を 捉える上で貴重な資料 ともなる、 シア トル総領事館の報告史料を経 くことに した。読み進んで頂 け れば、清沢在米の同時期に、 この地域ではどのような動 きが見 られたかを捉えることが可能であり、

そこか ら清沢の自由を尊び、多元主義的価値を重視す る精神の形成 に、いかなる意味を持ち得たか を探 り出せるのではなかろうか。本稿 はその調査中間論文 として、捉えて頂 きたいと考える。実 は 本稿 は、近 く刊行予定の拙著『 清沢冽―その多元主義 と平和思想の形成』 (仮 題 )の 一部 に位置づ

けるべ き粗稿であることを、予め述べさせて頂 く。

1  清 沢 測 の渡 米 と 日本 人学童 排 斥

清沢冽はその師で内村鑑三 と同 じく無教会派 ク リスチャンであった研成義塾井 口喜源治の奨めた

「 ピルグ リム・ ファーザーズ」 の精神で、北米 タコマ、 シア トル方面 に同塾生 とともに移民 した。

1906年 日露戦争後のことであった。多 くの人々は労働移民、農業移民 としての足取 りをたどった。

しか し彼 は数少ない同地のウィットワース・ ハイスクール (後 にスポケー ンに移転 )に 通 う学生 と して勉学を続 けた一人であった。むろんグ リル (店 名 は、彼の故郷への便 りに使用 した便せんか ら Silver Grillと 判明 した。筆者 はこの店が当時存在 していたことを確認 した。拙著『清沢 Fllの 政治 経済思想』御茶の水書房、 1996年 、参照 )の 皿洗いなどの労働 もしたことが知 られる。 こうして在 米 日系紙の記者などの経験を も積んだのである。 た しかなことは追求で きないが、 さらに同地の大 学にも通 ったともいう。 それに 1918年 にはいつたん帰国 し、早稲田大学 に合格 しなが ら、再び帰米 し (こ のようなあり方 は私が現地調査を試みた 1995年 の時期にも、決 して少な くはなか った。その 場合、一世が子息を日本の学校教育につけようとして帰国 させ るが、そのまま日本 にいつ くケース もあれば、やはり幼 い時期か らのアメ リカ生活の習慣か ら、再度帰米す るのである

)、

そ して 1920 年 には再度帰国 し、母国のジャーナ リス トとしての道 を歩んだ。

実際にも彼が渡米 した際の旅券記録 によれば、

旅券番号   六二六三四   清澤冽   平民   市弥三男   一六年一一ヶ月   南安北穂高村一三二   研学   下付 年月日   明治二九年一二月一七日

とある (外 務省外交史料館所蔵、旅券簿冊四六、マイクロフィルム

)。

つまり彼の場合 は、渡航理由が「研学」 と明記 されていることか ら、師井回の教えであった「労

働移民」

(「

名 も無 き市井の人であれ」 )と は必ず しもあうものではないが、 それで も彼 はシア トル

の穂高倶楽部に所属 して活動 してお り、その組織 はほとんど労働移民者 によって占め られていたと

いってよかろう。 この点、従来の彼に関する諸氏の記述や私の認識を訂正 しておきたい。

(3)

清沢 Fll渡 米時期の排日運動状況

なおこの史料を収める外務省の「明治四十年二月二 日」付「 自汁九年十月一 日至仝十二月参拾 日」

の「旅券用紙受払表」 によれば、同期に長野県か ら渡米 した人物を数えると、清沢を含めて 104人 、 ハ ワイが 66人 、メキシコ 29人 、 カナダ 12人 、その他 4人 であった。 また 91人 が保証人又 は移民取 り 組み人 として「大陸殖民会社」 と記載 されている。旅行 目的には「移民」 「研究」 「研学」 「神学研 究」 「農業研究」 「農業視察」 「商業視察」 「布教」 「 商業」 「商業見習」 「漁業」 「夫 ノ内助」など多彩 である。概 して「大陸殖民会社」 という場合は「移民」が多い。 さらに「再下付」者 も一定数に上 る。

移民 と渡米後の就業 に関 して、清沢の渡米 に先立つ ほぼ十年前、 「 明治三十年五月七 日発遣」文 書 に警視総監・ 兵庫県知事・ 大阪府知事・ 広島県知事・ 熊本県知事・ 和歌山県知事宛の外務省通商 局長高田早苗の文書がある (外 務省外交史料館 382‑21「 北米合衆国に於 ける本邦人渡航制限 及排斥一件」第一巻

)。

「渡米移民二関スル件」 にい う。 「 北米合衆国二於 ケルロ下 ノ事情多数 ノ移民ハ到底就業之見込 無之候二付多人数渡航周旋之儀ハ可成見合候様取扱人等 ノ訓示相成度 旨在 タコマ齋藤二等領事 ヨリ 別紙写之通申越候条別紙 ノ趣移民取扱人へ御諭示相成且又多数 ノ渡航出願者二対 シ同時二御許可不 相成様致度依命別紙写相添此段申達候也」 としているように、渡米 して職を得 るのは容易ではなか っ たことが記 されている。実 はこの時期すでに「移住民排斥事件」が起 きているということを齋藤文 書が伝える。

その趣 旨は、

移民上陸制限法案先般合衆国議会二提出以来全国挙テ其渡航 ヲ嫌忌スルノ念慮ハ益々其度 ヲ加 へ而〆幸二該法案ハ大統領ノ否認スル トコロ トナ リタルタメー字ハ苛刻ナル制限ノ厄 ヲ脱 シタ ルカ如 ク相見へ候へ共現今地方政権 ヲ掌握 シタル民党殊二労働者連合仲間二於テハ外国移民嫌 忌 ノ心依然其勢カ ヲ遅 フシ其断乎 タル排斥 ノ挙ハ只時機 ノ来ルヲ待 ツノ姿二有之候当合衆国ニ 対スル我力移住民後来 ノ事証 二関 シテハ拙官只今其報告書編成中二付追テ詳細御報告可致 ノ処 現今 ノ事情多 ノ移住者ハ到底就業 ノ見込無之候二付可相成ハ移民取扱人等二御訓示 ノ上永遠 ノ 利害 ヲ顧 ミス徒 ラニ眼前射利的ノ私欲 ヲ唱へ我力帝国人民 ヲ危険 ノ地二遺棄スルカ如キ挙動無 之様御注意 ヲ仰候     敬   具

とい うのであった。 この文書 は明治 34年 4月 4日 付の在 タコマニ等領事齋藤幹か ら外務次官小村寿

太郎に宛て られていた。 ここに収録 されている文書か ら、岡山県の渡航者 はアイダホ州の鉄道会社

工夫に就職予定者がいたこと、 また兵庫県知事か らは、外務省のいう「一時二多数 ノ移民」は無理

とい うばあいの、数字上の具体性が ほ しい、 そうでなければどの程度の人数な らば可能 という見通

(4)

しが立 たないという指摘を行 っていた (明 治 30年 5月 26日 付文書

)。

また在 タコマニ等領事齋藤幹 か ら明治 30年 5月 22日 付で外務次官小村寿太郎 に宛て られた文書 によれば、 日本人労働者 は低賃金 で働 くこと、 しか も鉄工場、製紙場などの勃興でその運送用の木箱製造場などの比較的に訓練を要 しない職場 に就業す ることか ら、当地の「下等土民」の反発 と排 日紛争を招いていることを報 じて いる。要するにこの地のエベ レット港では製造事業が充分 に発達 していないことのために、在住米 人を雇 い入れる職場がないことか ら、ようや く仕事にありつけている状況にも拘わ らず、 日本人の 低賃金が、彼等米国人の職域を荒 らす結果 となって、排 日気運を招いているとのことであった。

日本人側 は米国人労働者か らの異議申 し立てに対 して、 「我々は企業 に雇われているに過 ぎない ので、止めろとの脅 しを言われて も、企業社長の考え方に依 らねばならない」などの反論を行 った という。文句が有れば、外交を通 じて行えとも言 ったようであった。 もちろん正論であるだけに米 国人の側か らの反発のあ り方を変える結果になった。 あるいは我々の低賃金を非難 しているようだ けれども、我々の労働能力の未熟 さの故 に雇い主側の低賃金設定 となったのであって、直接 には非 難 されるいわれはないとも応酬 したのである。決 して米国労働界に擾乱を巻 き起 こす予定 はないの だと。彼等米国人 は日本人の退去を要求 していた。

外務大臣か ら在米国特命全権公使星亮に宛て られた明治 30年 7月 7日 (発 信 は 8月 12日 )の 文書 には、 日本側で「 出稼 ぎ」 目的の渡米希望者が増加 している状況の下 にあって、アメ リカで移住民 禁止条例が元老院 (上 院 )を 通過 しなが らも、大統領が これを裁可せずとのことに注 目を寄せてい る。大統領 ク リーブランドの考えは、 「合衆国二渡来 ノ後善良 ノ市民 トナ リ合衆国 ノ開発 ヲ扶 ケタ ルモノ多 ケ レハ該法案 ノ制限」 は無用 という立場であった。 もちろん当時の大統領選挙では レパ ブ リカ ンの綱領ではアメ リカ市民の品位を汚すような外国か らの移民を排除するという色彩が濃厚 な方向付 けが行われていた。 この点を星亮公使が現地か ら伝えてきていたのである。筆者 はここに ある種のアメ リカ人の優越意識を見 る思いがする。 といって も白人優越の思想であり、諸民族の増 塙、交流のアメ リカ社会 というイメージとはおよそ異なる独善的傾向その ものであった。

次のような史料がある (外 務省外交史料館 3‑8‑2‑21「 北米合衆国に於 ける本邦人渡航制 限及排斥一件」 (1》 。

公第二二号

移民験査事件二付キ星公使二稟報 ノ件

日本移民排斥論合衆国各地二勃興 シ遂二桑港移民験査官迄胡乱ナルロ舌 ヲ弄スルニ立至 り居候 義別紙新聞記事切抜之通 リニ有之候而 テ之 ヲ各州 ノ新聞二転載致居候条添付公信 ノ通 り其予防 策 トシテ在華 府 我 力全権公使二稟報致居候為念及報告候   敬具

明治三十年五月十 日

(5)

清沢冽渡米時期の排 日運動状況

在 タコマニ等領事    齋藤   幹   印 外務次官   小村寿太郎   殿

この鑑文書の後 に同 日付の報告文書がついている。 それによると、「近来合衆国二於テハ各地ニ 我 力日本移民排斥 ノ挙動紛起」 し、サ ンフランシスコでは痘麿患者検疫事件 に付帯 して口舌をもう けて 日本人移民上陸検査を厳重 にす る動 きがあるとの「教唆風」が流 されていることは承知 されて いることである。齋藤領事 はシア トルとタコマの移民検査官がかねてか ら親 しいので、 この事情を 聞 き協力を得た。 しか しなが ら新聞報道が行われることか ら日本移民排斥家の口実を助成する状況 が生 まれ、ついに合衆国外国移民取締総長の新考案 になり、移民検査が当然厳 しさを増す ところと なった。 こうした状況を踏 まえて全権公使 としてアメ リカ当局に理解を得 るよう努め られたいとい うものであった。 このように、明治 30年 (1897年 )と いう時期 には、入国管理の面で、新聞報道に 影響を受 けなが ら、 日本人排斥の動 きがあったことが伝え られている。 まだ日清戦争か ら二年程度 の時である。

以下の史料 もまた興味をそそる (外 務省外交史料館 3‑8‑2‑21「 北米合衆国に於 ける本邦 人渡航制限及排斥一件」 G日

)。

2第 弐十六号

在「 エベ レット」港 日本労働人排斥事件二落着 ノ件

華盛頓州「 エベ レット」港木箱製造場二雇用中ナル日本人十八名排斥事件井二其無地落着 ノ義 別紙 ノ通及稟報候敬具

明治三十年五月廿二 日

在 タコマニ等領事    斎藤   幹   回 外務次官   小村寿太郎   殿

この鑑文書の後に次のような文書がつづ られている。

「在エベ レット」下等土民等我 力労働者排斥 ノ挙動井 二其落着

「 エベ レット」港ハ「 シヤ トル」港 ヲ凡 ソ弐拾哩太北鉄道会社最初 ノ終極点ニシテ爾後追々人 ロモ増進 シ従テ諸製造業モ開始 ノ運二向 ヒ鉄工廠製紙場等相次テ勃興 シタル内近来又 夕木箱製 造場 ヲ起 シ広 ク地方産物 ノ荷造 り箱 ヲ製出 シ稽々其利益 ヲ見ルニ至 レリ尤千本港ニハ未 夕日本 人 ノ開店 シタル者ナク僅カニ居住スル者ハ無頼 ノ日本男女四五名ニテ其評判ハ元来太 夕宜 シカ

ラス

(6)

然ルニ右木箱製造場ハ其事業 ノ拡張 卜同時二賃金低廉 ノ職人 ヲ傭 ヒ入 ンカタメ本年四月初旬 ヨ リ日本人ニテ該製造所二労働セ ン ト欲 スル者ハ差当 り二十名 許 ヲ限 り雇入 スヘ シ ト新聞紙ニ 広告ス是二於 テ曽テ「 ポー トブラックレー」材木製出場 二働キ居 タル高橋轍夫ナル者早速「 シ ヤ トル」近方無職業 ノ日本人十八名 ヲ引キ連 レ本年五月六 日該製造場二赴キ菓物入木箱壱千箇 二付キ六十 仙 ノ賃金 ヲ受 クヘキコ トノ就業契約 ヲ締結セシ トコロ (従 来米国労働人ハ千箇 ニ 付壱弗弐十仙 ヲ受 ク )其 夜該地二於ケル無頼米人多数 ノ者林檎畠ノ内二集会 ヲ開キ早速弐十名 ノ委員 ヲ選 ミ之 ヲシテ右 日本人等 二告ケシメテ 盲 「 エベ レット」港ハ未 夕製造事業充分二発 達 セズタメニ在住米人モ傭エ ノ途ナキニ苦 ム最中ナ リ   而 テ此節木箱製造場始 メテ起 り我 々米 国労働者 モ柳 力糊 ロノ資 ヲ得 タル ヲ悦 フノ秋二方 り汝等 日本労働人低廉 ノ賃金二甘 ンジ我力労 働区域 ヲ擾乱 スルコ ト太 夕其理 ヲ得 ス   是 ヲ以 テ只今 ヨリー同其当地退去 ヲ命 ス若 シ我等力言 二従ハス其儘工場二就業スルニ於テハ不得己腕カ ヲ以テ退去セシムヘシ   其朝二段々後悔 スル コ ト勿 レ云々高橋轍夫等ハ右威力排斥 ノ意外ナルニ驚キタレトモー同相談 ノ上答テ日ク我々日 本人ハ決テ低廉 ノ賃金 ヲ申立 テ米国人労働界 ヲ擾乱スル者 二非ス只 夕本事業 ニハ未熟 ナルカタ メ木箱千箇二付キ六拾仙 ノ賃金ニテ当方見習芳労エスルノ ミ又 夕我々ハ会社頭取 ヨリ雇入 レラ レタル者ナレハ進退ハ全 ク頭取 リノ意見 卜我々ノ勝手ニアルヘシ故二我々当会社雇入一条二付 テハ汝等 ヨリ頭取 二直談判 ア リタシ又 夕日本人当地二在住スルノ権理ハ汝等 ヨリ拒絶サル ヽ理 由ナシ若 シ強テ退去 セ ヨ ト云ハ ヽ我々ハ在「 タコマ」 日本帝国領事 二招致 シ正当ノ手続 ヲ経 テ 汝等政府 卜談判 ヲ開 クヘシ云々是 二於 テ I笑 無頼漢ハ余 り理屈 ノ高上ナルニ驚キ返 ス辞モナ ク其儘引取 リシヲ暫 クア リテ又 夕来 り告 テ日然 ラハ来ル月曜 日迄汝等 ノ沈思熟考 ヲ許 スヘシ其 後 二至 り尚ホ退去 セサ レハ断然 タル処置二及 ブベ シ ト右 ノ次第 二付高橋轍夫ハ其夜当領事館 ニ 電報 シ且 ツ製造場掛員ニモ委細 ヲ告ケタルヲ以テ早速相方 ヨリ地方政府 ノ注意 ヲ乞 ヒ巡査 ノ派 出鎮撫 ヲ得テ右無頼漢外地人ハ悉皆退去 ヲ命 シ日本人ニハ約 ノ如 ク夫々業務 二就 カシメー ツ先 ツ鎮定 ノ姿二帰スルヲ得 タリ

当夜林檎畠二会合 シタル土人ハ見物人 ヲ合 シテ彼是三百人二達 シ是ハー場 ノ騒動ナ リシ由又 タ 木箱会社ハ最初三十名 ノ日本人 ヲ雇入ル ヽ積 リナ リシモ右 ノ抵抗 二妨 ラレ当方現在 ノ十八名 ヨ

リ増員スルコ ト能ハサル姿ナ リ

本騒動 ノ落着ハ該木箱製造会社 ヨリ在「 タコマ」 日本領事へ宛テタル別紙洋文回答書 二詳ナ リ

以上が記述 しているところは次のようである。要するに日本人労働者が得 る職場 としての木箱製

造業 は単純労働のために低廉な賃金で甘ん じることが出来 るのであって、決 して白人労働界が問題

視す るような、意図的に低賃金で働 こうとい うものではないはずだ、それによ り白人労働者の職場

が得 られないが故 に現地を退去せよなどとの言いがか りを認めることは出来ないということが委細

(7)

清沢 Fll渡 米時期の排日運動状況

をつ くして、述べ られている。白人労働者の側 にたてば、彼等の低能力水準の労働分野を日本人が 奪 うことか ら、危機感を持 ったとして も、あながちお門違いとは言えないであろう。 まさに民族間 対立、あるいは人種間対立 とは多かれ少なかれ こうした日常的な生活次元での摩擦が大 きく左右 し ていることは重要であろう。人種偏見が 19世 紀末に醸成 され るには、 ドイツのウイルヘルムⅡ世皇 帝 によるキ ャンペイ ンが一つの契機であることは知 られるところであるが、 まさにこの時期、 アメ

リカ西海岸の日本人流入が急増 していたことか ら、摩擦が一層強め られたのであろう。

発第一三〇三号

北米合衆国ヘノ移民ハ全時二多数 ノ渡航 ヲ許可セサル様可致 旨本年五月七 日送第一六六号 ヲ以 テ御通牒有之右ハ御通牒ニヨレハ渡航者少数ナル トキハ之 ヲ許可 スルモ差門ナカルヘク存候得 共少数者 卜雖モ数次許可 ヲ与 フル トキハ多数 トナ リ自然御通牒 ノ趣 旨二背戻スルニ至ルナキヲ 保 シカタク依テ仝国ヘノ移民ハ其后全然許可セサル事二致来候然ルニ此頃二至 り強テ渡航 ヲ願 出候モノ有之二付 目下 ノ状況招致致度候間尚ホ多数移民 ヲ渡航セシメカタキ事情モ候ハ ヽ本県 下 二於テー ヶ月凡 ソ幾十名位迄ハ渡航 ヲ許可スルモ差門無之候哉折返 シ御回示二預 り度此段及 照会候也

明治三十年七月六 日

滋賀県知事      折田平内   回 外務省通商局長   高田早苗   殿

このように合衆国への渡航の自主規制をどのようにすれば、渡航可能なのかを問 う地方か らの照 会が届 く状況であった。 これに対す る通商局長の明治 30年 7月 9日 付回答 には、 まず第一 に多数の 渡航が現地の感情の軋礫を呼ぶので控えるべ きこと、か といって絶対 にひかえるべ きだというわけ ではない、第二には、就業機会を保証 しうるわけで もないので、是非 とも就業機会が確定 している 人物の渡航を進めるというものであった。 しか しそもそも渡航理由の大 きな部分が就業機会を求め てのことであった以上、 これでは渡航を停止せよと言 うに等 しい回答であったとみなすほかないで あろう。 ただ しこの回答の末尾 に一旦、記載予定を しなが ら、抹消された =文 が残 されている。当

然の不満への解消策であろう。すなわち「一 ヶ月大凡三十名位 ノ渡航ハ当分 ノ処御許可相成候」 と

いう添え書 きが、それである。明治 30年 11月 24日 付の在桑港領事館事務代理領事官補船越光之丞か

ら外務次官小村寿太郎 に宛て られた判断に説明資料 として加え られているサンフランシスコ建築業

組合か らの決議文 によれば、合衆国は 100万 以上の失業者を数え、陸続 として流入する移民 によっ

て職域が荒 らされているとの認識を持 っていた。「今後」、機械化が進展する下で、低賃金労働者化

の道を確保することが困難であろうというのである。その間、 しば らく外国人の流入を停止 してお

(8)

くのが得策 との方向付 けを行 っている。

次 に「明治四十年北米合衆国二於 ケル本邦人渡航制限及排斥一件   第六巻」 (外 交史料館所蔵 3

82‑21)を 見てお く。当時、サ ンフランシスコの大震災 によって、交通機関が復旧せず、通学 経路の面で問題が生 じていたにも拘わ らず、当局 は日本人学童 に、隔離主義的な、 自人等の通学す る学校への通学を禁 じる措置を取 った。 これの事情 は、当局側が、 日本人が自人 と異なり、衛生面 等で社会的にも問題が生 じるという理由を挙げていたのである。 このように白人 と「 モ ンゴロイ ド」

だか らとして日本人を差別主義的に扱われると、南米諸国に移民を始めている日本人にとって も不 利な扱いを受 ける結果 となるので、困 るのだ とし、 さらに中国人 とも異なっている日本人を差別的 に扱 うなとも主張 している。むろん この主張 自体中国人その他アジア人種 に対する差別主義 に貫か れた不当な内容であるにせよ、当時の日本側の認識を示 して余 りあろう。 これについて、明治 40年 (1907年 )1月 18日 、サ ンフランシスコ領事が林薫外務大臣に宛てた長文の書簡「学校問題 二関ス ル訴訟 ノ提起井其後 ノ模様」において、綾々述べ られている (こ の文書 は外務省で同年二月二五 日 に接受 されている

)。

当時、 カ リフォルニア州議会では州法 によつて白人の日本人 との婚姻を禁止 す る動 きもあった。その中には中国人、モ ンゴリア人、黒人、朝鮮人、マ レー人等が含まれていた (明 治四十年一月二十一 日付上野季二郎サ ンフランシスコ領事か ら林薫外務大臣宛報告「加州学務 令改正及 日米人雑婚問題二関 シ桑港学 ム当局 ノ州会議員二対 スル運動」

)。

ここに興味深い文書がつづ られている。以下要 旨、説明 しておこう。

「 乙秘第二三二号   二月七 日   対米同志連合会員 ノ協議会」 として、同 日午後六時か ら東京京橋 区明石町のメ トロポールホテルで この協議会が開催 された。 この会合 には巌本善治、田川大吉郎、

高橋秀臣、松本君平、片山潜 らが参加 した。松本の発言 は、今回の日本人学童排斥運動の底流 には、

アメ リカ側の一般の日本人 は歓迎 して も低賃金 日本人労働者への反発があること、まずは本来、 日 本当局が国際条約の基本であるアメ リカとの移民条約を締結すべ きこと、 まさに学童排斥問題 は日 本人労働者排斥のきっかけに過 ぎないと述べている。 日本人の帰化を認めさせ る べ きことも重要だ という。 もちろん松本 も見ているように、現実にはアメ リカの裁判所で、帰化を認めるよう訴えて も、容認 されない状況である。仲介裁判所ではこれが認め られて も高等法院では否認 されるという のである。だか らこそ日本政府側 として先のように根本的な条約関係の交渉をすべきだとしている。

実際のところ彼の言 うようには推移 しなか ったことは周知の如 くである。 これに対 して 日向輝武 の ように、む しろアメ リカ側の、ハ ワイには入国を認めてきた合衆国が、本土 への移動を認めない事 実 こそが問題だとしている。すでに認め られている事実があるのに、松本の指摘す るように、他 の

ヨーロッパか らの移民な らば、 「 国内移動の自由」が当然の如 く認め られているにも拘わ らず、 日

本人にはこれが許 されない不当を問題視せよというのである。 1860年 の清国人に対する措置 と同 じ

ことを日本人に許 している我が国の「弱腰」ぶ り、 まさに「 当局者の失政」 こそ問題だと強硬であ

(9)

清沢冽渡米時期の排日運動状況

る。協議の結果従来の七名の委員に片山潜、松本等六名をを加えることに し、政党や団体への働 き かけ、政府当局者への意見書送付、元老への働 きかけ、東京、横浜、大阪、神戸等での演説会の開 催、 アメ リカ在住同胞 と連携などを決めた。

アメ リカではポー トランド市の知名人 (前 市長、商業会議所代表者、地方裁判所判事など )の 意 見が収録 されている。 それによれば、当時、大統領教書で日本人の自人 との混合 による入学許可方 針が出されるが、 これに対 して、確かに日本人の遵法精神 と労働意欲 は強い し、問題 はないかに見 えるものの、祖国への忠誠心が強いのが問題だという指摘が行われている。 また自人労働者がその 職業か ら駆逐 されて しまうことも問題だという。だか ら小学校学童 として日本人を迎えることは、

大学留学 とは違 うのだ としている。当時の小学校入学 と言 って も日本人の場合、実際には

15、

6才 が対象 となる渡航後の教育 という場合が多いので、なおのことである。 こうした青年教育では認め るべ きではないが、児童の入校 は認めるべ しとの発言 も見 られる。 もっともこれ ら知名士の人々は 日本が最恵国待遇を受 けている以上、清国人 とは異なって扱われるべ きだと認識 していたことは事 実である。 またオ レゴン州選出知事 は、 もしも大統領が「劣等人種」 と白人を混合 して教育せよと 教書で言 うのな らば、 ヮシントンにおける白人・ 黒人の混合教育を実践 してか らにせよと迫 る見解 も記録 されている。 (「 米国大統領 ノ教書 中 日米児童分離教育 ノ件 二関 シポー トラン ド市知名士 ノ 意見概要」

)。

8 6 7  (平 ) 桑港発

本省着四十年二月十四日   后零時二十三分 在米 日本人連合協議会

理事   吾孫子久太郎 林外務大臣宛

日本人排斥条約ガ帰結セラルベ シ トハ我ガ在米同胞一般 ノ到底信スル能ハザル処ナ リシガ此 ノ 度大統領 ヨリ加州知事二宛テタル公信二依 レバ大統領ハ友誼的的妥協ニヨリ日本人 ヲ当米国 ヨ リ排斥セ ントシテ談判進行中ナルガ如 シ、学校問題解決条件 トシテ日本人 ノ布畦転航禁止ハ頗 ル排 日党 ヲ喜バ シメ学校問題ノ為メ十年 ヲ要スベキ排 日運動再興 シタリト恐悦 (恐 燿 ?一 筆者 )

シツ ヽア リ、 日下欧州 ヨリ来 リタル多数下等労働者ハ何等故障ナク入国 シ得ベキニモ拘 ラズ日 本人 ノ ミ当国二渡来スル能ハザル如キ条約 ヲ締結スルコ トハ唯 ダ排 日運動 ヲ煽動 シ且 ツ彼 レ等

ノ奸策 ヲ助成 スルノ燿 レア リ、該条約 ノ成立ハ現時非常ナル発達 ヲ成 シツ ヽアル在米 日本人 ノ

事業 ヲ根底 ヨリ破滅スルモノナ リ、加州産業界ハ 日本労働者 ヲ必要 トシテ歓迎 シツ ヽアレバ 日

本労働者 ノ渡来ハ決 シテ多数米国人 ノ悪感 ヲ購 フモノニ非 ズ。何 レ委細ハ書面 ヲ以 テ請願 スベ

(10)

シ ト雖モ不取敢閣下 ノ賢明二訴へ特二同件ニツキ御考慮アランコ トヲ望 ム次第ナ リ。

ここに見 るとおり、セオ ドア・ ルーズベル ト合衆国大統領 は、排 日気運 に動かされて、 日本人排斥 の方向に向か うことがあって も、実際には現地であるカ リフォルニア州では、産業界が実 は日本人 労働力を求めているという事実があるので、大統領の法的措置が取 られないことを在米 日本人連合 協議会 としては願 っているとい うのである。

868(平 三四 )桑 港発

東京着   四十年二月十四日後二、四 〇 林外務大臣

第二八号

上野領事

学務局ハニ月十三 日午後 ノ会議 二於 テ日本人学童離隔命令 ヲ取消 シ電第二四号 ニテ報告 セル修 正条項 ノ通決議セ リ右ハー般外国人二適用 スルモノナルモ支那人及朝鮮人二対 シテハ昨年十月 十一 日決議 ノ離隔命令 ヲ施行 ス明 日ヨリ我学童 ノ入学 ヲ許 スコ トヽナ レリ

日本人学童の排除の動 きに対 して、 この報告では、遂に学務局が取 り消 し措置を行い、 日本人学 童問題の決着が図 られた。 もっとも中国人、朝鮮人 に対 しては依然 として差別的であった。 こうし て、次のように、 日本人学童 はサ ンフランシスコの学校 には登校が許 されたのである。 こうして、

以下のような史料が登場 したのである。

四八八号 (平 一七 )桑 港発

東京着   四十年二月十五 日   後二・ 一〇 林外務大臣        上野領事

第二九号

当地合衆国検事ハ本月学校問題 二関スル訴訟 ヲ撤回セ リ我児童ハ今朝 ヨリ夫々故障ナク入学 シ ツ ヽア リ

次に清沢冽の渡米 との関連で注 目すべ き極めて詳細 な記述 を含む史料がある。以下、それを紹介

しつつ検討 しておきたい。筆者 によるア ンダーライ ンを引いた点 に明 らかなように、カ リフォルニ

ア州の重大問題 として生起 していた学童問題 について、ルーズベル ト大統領 はカ リフォルニア州代

表をホヮイ トハ ウスに招致 して、翻意をす るよう説得 した結果、同州側 も同意を示 したという経過

を説明 している。まさに、清沢 Fllが 渡航 した時期 にこの問題が重大局面 にあったのであり、 これヘ

(11)

清沢冽渡米時期の排日運動状況

の大統領の対応 こそは彼 に希望を持たせる要因だ ったと思われる。 セオ ドア・ ルーズベル ト大統領 (在 任期間 :1901‑1909、 共和党 )は アメ リカ合衆国を楯 にとって、 カ リフォルニア州が 日本人迫 害に及ぶ ことを阻止すべ く、個喝的ではあるが、手を打 ったのである。 もしもこの時の大統領が、

西海岸の一部指導者 と同様の判断を して しまっていた ら、まだ十六歳前後 という多感な清沢 はきっ とアメ リカを信頼す るに足 らず との判断を持つ ことになったか も知れない。 ほぼこの時期のアメ リ カのあ り方が彼のその後の、対米態度を形成 したのであろうし、いかなる意味で もアメ リカの社会 と政治 に希望を失わず、 日米対決論が活性を帯びていたい くつかの時期にも、 日米友好の立場を堅 持 したのではなかろうか。

またこの史料には、 ジャーナ リズムの多 くが排 日的ではないが、少数 とはいえ排 日に流れる傾向 の新聞があることを指摘 している。その事例にワシントン・ ポス ト紙を取 り上げているが、アンダー ライ ンにも示 したように、それは同社がイエローペーパーの性格を持 った経営 に走 り、そのことで 大衆受 け (史 料では「群盲」 と呼んでいるが )を ね らい、読者層の拡充を図ろうとしている事実を 見ている。 ジャーナ リズムの持つ こうした通弊について、実 は清沢冽が、 1930年 代の初めに厳 しく 指摘 していたところである。すなわち、その「現代 ジャーナ リズム批判」 という講演において、 日 本が「満州事変」を経過す る中で、 ジャーナ リズムが大衆迎合 と強硬論に傾 きがちであることを問 題に し、一つには資本規模の拡充を図ろうとする志向性が これを加速化することの指摘を行 ってい た。筆者 は、読者獲得競争の中で、 この外に、大衆動員の格好の場 として戦争が利用 されている点 も見てお く必要があるように思 う。例えば、満州事変 と共 に、電送写真による号外を競 う、あるい は「満州の戦地」 に赴 いた兵士たちに学童か ら慰問作文を募集する、慰問袋の募集、義捐金の募集 などは何れ もこうした取 り組みを表現 し、 この活動の結果、 「朝 日新聞」 「毎 日新聞」 は一地方紙か ら全国紙へ と販路を拡大 していったのである。 ここでの外務省記録 もそのような状況を、アメ リカ の場合 における展開で、示唆 して興味深いものであろう。

機密公第四号

桑港問題二関 シ日米間開戦 ノ機迫 レル云々ノ浮説 ノ流伝 シタル事情説明ノ件

「外務大臣林子爵ハ本 日下院二於 テー議員 ノ質問二対 シ答弁 シテ日ク桑港事件 二関 シテ米国政

府 二於 テ能 ク我主張 ヲ諒 トシ誠意之 力解決 二カメツ ヽアル以上 日本ハ宜 シク黙 シテ徐二本件ニ

関スル裁判 ノ結果 ヲ埃 ツヘキナ リ若 シ其判決ニ シテ我 二非 ナランカ加州 二於 ケル排 日本的運動

ハ全合衆国ノ与論 ヲ代表スルモノ ト思料セラルヘク其暁二於テハ外向的調理 ヲ要スヘシ」云々

客月廿九 日附東京発新聞電報 ノ当地二着 シ及 ヒ加州上院二於 テ学校問題二関スル大統領 ノ干渉

ヲ否認 セル決議案通過 シタル当 日即チ同廿九 日大統領ハ会商 ヲ要スル件アルニ付其翌二十 日午

後 ヲ期 シ 白色館 二来集 ア リ度 旨加州所該議員等ハ此招請 二応 シ予期 ノ通 り大統領 卜会商 ヲ遂

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ケ タ リ右会商 ノ問題及経過 ノ委細ハ固 ヨ リ機密 二属 シ之 ヲ確知 スルニ由ナキモ翌 日ノ各新聞 ニ 洩 レタル所 二依 レハ大統領ハ国務長官及曇 二桑港事件調査 ノ為 メ同地 二出張 シタル前商工務長 官現海軍長官 メツ トカーフ氏 ヲ立合 シメ加州議員 ヲ引接 シ之二対 シ諄々桑港事件 ノ日米国交ニ 及 ボセル影響 ノ極 メテ重大ナル所以 ヲ誇示 シ時局 ノ急ハ速二之力適当ノ解決 ヲ見サル可カラザ ルニ至 レルヲ告ゲ其協カ ヲ促 シタル結果 ノー トシテ加州議員ハ先 ツ加州議院二於テ此上何等排 日的議案 ノ発表セラルルコ トヲ防止 スル様十分尽カスヘキ旨加州知事二電照スル ト共二学校問 題 二 付大統領 卜会商スル為 メ直二華盛頓二出張スヘキ旨桑港市学務当局者 二電致スルコ トニ 同意 シタリト云 ヒ尚ホ国務長官 ノ起草 二係 り加州議員 ノ同意 シタル所ナ リト云 フ左 ノ通ナル

The California Delegation has had a very.full and harmonious discussion with the President, the Secretary of State, and the Secretary of the Navy on the serious questions relating the」 apanese on the Pacific Coast. The ch"acter Of the discussion leads us to feel confident that a solution will be reached satisfactory to all concerned"

「 ステー トメ ン ト」公表 セ ラ レ多数 ノ新 聞ハ何 レモ本事件解決 ノ前途好望 ナル フ報 シタ リ然 ル ニ独 り当華府 ノ「 ワシン トン・ ポス ト」 ハ別紙切抜 甲号 ノ通 り特 二 Arm against Jttanese

卜云 フカ如 キ表題 ノ下 二故造無稽 ノ挑発 的記事 ヲ掲 ケ無智 ノ人心 ヲ煽動 シタル ヲ以 テ (因 ニ

「 ワ シ ン トン・ ポス ト」 ノ従来甚 シク排 日的臭 味 ヲ有 スル新 聞 ナル コ トハ既 二御承知 ノ通 二有 之候処 同新 聞ハ昨年其持主 ヲ改 メテ以来著 シク「 セ ンセー シ ョナル」 卜相成 り何事 二拘 ラス 黄   紙 的記事 ヲ掲ケ群盲 ノ好奇心二訴へ読者 ノ増加 ヲ計 ラントスルモノ ヽ如 ク其新聞 ノ品位 近頃大二下落 シタルコ トハ識者 ノー般二認 ムル所二有之特二其現社主ハ現駐 日露公使ベクメテ フ夫人 ノ義兄ナルヲ以テ其断エス排 日的記事 ヲ掲 クルモノハ右 ノ姻族関係二基 ク感情上 ノ偏僻 二因ルコ トモ少ナカラザルヘシ ト考 フルモノモ有之次第二候 )薮 二日米開戦 ノ機逼 レリトノ証 説ハ四方二流伝 スルニ至 り蛮語紛々筆二咎ナクロニ祟 り少ナキ当国ノ事 トシテ有意二凡ユル牽 強附会 ノ端摩憶説ハ事態二通セサル各地 ノ諸新聞二伝ヘラレ甚 シキニ至 リテハ 日本政府ハ米国 政府二対 シ「 アルチメタム」 ヲ送 リタル トノ暴説マデモ流布セラル ヽ二立至 り従テ欧州 ノ諸新 聞ニモ誇大 ノ惑説伝ハルニ至 リタル次第 二候 (此 ノ「 アルチメタム」云々ノ誤報ハ夫 ノ最モ浅 慮不謹慎ナル政界 ノ野心家 トシテ不断突発 ノ言動 ヲ敢 テスル ヲ以 テ著名ナル退職海軍大佐 ホブ ソン氏力公会 ノ席二於 テ日米 ノ戦争ハ到底避 クヘカラサル旨ヲ演説 シタル後失言力故意力日本 ハ今回ノ桑港事件二関 シ既二「 アルチメタム」 ヲ米国政府二送 リタリトノ事 ヲ放談 シタリト云

フノ流説二基 クモノニシテ氏力果 シテ斯ル事 タリヤ否ヤスラ確然セズ )

斯ル折柄加州選出上院議員パーキ ンス氏ハ本月一 日当府地学協会講演 ノ席上 二於 テ別紙切抜乙

号 ノ通 り日米 ノ衝突ハ太平洋 ノ覇権掌握 ノ競争上結局避 クヘカラズ然 レ トモ実際両国ノ干文 ヲ

以 テ相見ユルカ如キ恐 レハナカルヘ シ云々二首尾貫徹セサル警告的演説 ヲ為セルアヘテ益々人

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清沢冽渡米時期の排日運動状況

心 二危惧 ノ度 ヲ高 メタルモノ ヽ如 キモ東部大都市 ノ優等 ナル新聞紙ハ流石 二能 ク其言動 ヲ慎 ミ 徒 二挑発 的記事 ヲ掲 クル コ トヲ避 ケ タル ト共 二国務長官「 ルー ト」氏陸軍長官「 タフ ト」氏 ヲ 初 メ上下両院中有カ ナル議員等 ノ日米開戦談 ノ最 モ荒唐無稽 ニ シテ何等 ノ根拠 ヲ有 スルモノニ アラザルコ トヲ新聞紙上二弁明スル所 ア リ本使モ亦同様右虚報 ノ打消ニカメ居 リタル折柄更ニ 本月四日第十七号貴電二接到 シタル ヲ以 テ直二紐育「 タイムス」及市俄古「 トリビュー ン」其 趣相伝ヘル処両新聞何 レモ別紙両号切抜 ノ通 り記事又ハ社説 ヲ掲 ケタルヲ以テ世人モ之二其惑

ヲ解キ人心漸 ク静穏二帰 シタルノ観 ア リ

因二別紙切抜丁号ハ本月二 日紐育「 サ ン」 ノ所載 二依 り国務長官 ノ言明ナルヘ シ トテー 般二信セラル ヽ所二有之候条御一閲相成度候

察スル所大統領ハ加州官民 ノ頑迷不霊ナル専 ラ楯 ヲ憲法上二於 ケル州権 ノ擁護二借 リテ其主張 ヲ固持 シ到底尋常ナル条理 ノ軌道二依 リテハ之 ヲ説得セ ンコ ト難 ク去 り連之 ヲ裁判ニー任セ ン 力不幸ニシテ日本二不利ナル判決 ヲ見 ンモ計 り難 ク其暁二於テハ益々事態 ヲ非ナラシムルノ ミ ナル ヲ看取 シ此二前顕 ノ如 ク加州議院 ヲ引見 シ陽二腹心 ヲ開キ殊更 ラ時局 ノ重大危急ナル意味 ヲ壮大二陳述 シ先 ツ彼等 ヲ恐喝燿伏セシメ其協カ ヲ得テ桑港市当局者 ノ交譲 ヲ促 シ姦二妥協 ノ 途 ヲ求 ムル手段 ヲ執 レリ而 カモ此恐喝手段ハ幸ニシテ大二 〔 奏 ―筆者挿入〕効 シツ ヽアルモノ ナルコ ト殆 ント疑 ヲ容ルヘカラサルモノア リテ右 ノ日米開戦説 ノ如キモ畢党此 ノ加州議員二対 スル大統領 ノ個喝的声言二胚胎 シタルモノナルヲ以 テ本使ハ大統領ノ此権謀 ヲ助成セサル迄モ 密二注意 シテ此際其権謀 ノ徹底 ヲ妨ケサル態度 ヲ示 シ候儀肝要 卜存 シ居候折柄第十号往電 ノ通 り金子男及横井時雄 ノ言明ナ リト云 フ電信当加新聞紙二伝ヘラレ候所右ハ明二大統領 ノ施 シツ ヽアル策略 ヲ中性化 シ加州官民 ヲシテ其虚喝ナルヲ疑ハ シムルノ恐 レナキニアラサ リシヲ以テ 為念閣下 ノ御注意 ヲ惹起候次第二候

右御参考迄不取敢報告申進候 明治四十年二月九 日

敬 具

在米

特命全権大使子爵青木周蔵 外務大臣子爵林董   殿

次にサ ンフランシスコの上野季二郎領事が、林外務大臣にあてたカ リフォルニア州議会の排 日土

地法をめ ぐる情勢報告が収録 されている。その内容によると、当時、 日韓人排斥運動を組織する運

動体が存在 していた。 これが中心 となって、総選挙に当たって、事実上の レフェレンダムの色彩を

帯 びた諸排 日法案の成立の指示を得ようとするものであった。 このことによって、大統領が排 日の

動 きにチェックを掛 けたことが、現実無視であったと考えようとしているのであるが。

(14)

明治四十年二月廿七日接受

□第五 四号

受第 四五三八号

州会二於 ケル日本人問題 ノ成行及之二対スル運動 ノ模様二関スル件

加州々会ハ本年十月下旬大統領 ノ要求 卜加州知事 ノ提議 トニ基キ当分 日本人間題 ヲ議スルコ ト ヲ見合ハスヘキ旨ノ決議 ヲ為 シタル以来同州会二於ケル「 レパ ブ リカン」党議員ハ 日本人二関 スル諸法案二対 シ頗ル慎重ナル態度 ヲ取 り遂二同党議員質問ニハ最早当会期中 日本人反対 ノ立 法 ヲ討議セサルヘキ旨ノ内約若 クハ少 ク トモ黙契 ノ存スルアラントノ風況 ヲ生スルマテニ至 リ

シカ客月二十五 日付公信第五〇号 ヲ以テ申達候通 り日韓人排斥同盟会一派ハ例二依 リロ々措カ ス其「 サクラメント」二派遣 シタル運動員ハ桑港市検事 卜共二州会二対 シテ諸排 日法案 ノ通過 二関 シテ極力運動 ヲ試 ミタル結果客月二十七 日桑港選出議員「 キーン」 (Keane)ヨ リ明年十 一月総選挙二際 シ日本人排斥問題 ヲー般州民 ノ投票二付 シ其結果 ヲ大統領及 ヒ国会議員二送付 スルノ議 ヲ上院二提出致候   右ハ嘗 テ支那人排斥 ノ場合 ニモ行ハ レタル所ニ シテ総選挙 ノ際選 挙人 力投票 ヲ為 スニ当 り被選挙人 ノ氏名 ヲ書 スル ト同時二投票者 自身 ノ日本人排斥二関スル賛 否 ヲモ併 セテ投票用紙二記載 スルノ方法 ニシテー種 ノ「 レフェレンダム」 (referendum)卜 見 倣スヘキモノニ有之勿論同案ハ未 夕通過セス又其通過 二関 シテハ排 日派 ノ運動員 自身モ大 二其 運命 ヲ危 フカル模様有之候   上院ノ形勢斯 ノ如 クナルヲ見テ   下院モ亦翌二十八 日二至 り嘗 テ 其議員「 ドリウ」 (Drew)ヨ リ提出シタル外国人土地所有法案 ヲ討議二付 シタル結果帰化権 ヲ 有セサル外国人 二対 シ五年以上 ノ土地所有 ヲ禁止 シ且 ツー年以上 ノ借地権 ヲ無効 トスルノ修正 案ハ僅カニー票 ノ反対 ヲ以 テ通過致候 ノ ミナラス上院二於 テモ翌二月一 日ニハ   「 デ」党議員

「 サ ンフォー ド」 (Sanford)ハ 日本人二関スル諸議案 ヲ速 カニ委員 ヨリ議場二報告セ ンコ トヲ 促 スノ演説 ヲ試 ミ且 ツ日本人 ノ帰化 二反対 スヘキコ トヲ主張 シタルニ「 レ」党議員 ノ多数 ヲ占 ムル議場ハ冷然 タル態度 ヲ以テ之 ヲ迎 ヒ加之「 レ」党排 日派議員 ノ巨魁 トロセラレタル「 キ ,

ン」 スラロ下之 ヲ議 スルノ時機 二適 セサル ヲ唱 ヒ議員「 ウオルフ」 (W01fe)モ 之 ヲ冷笑 シ且

ツ同 日「 デ」党議員「 カ ミネチー」 (Camnetti)ノ 提出 シタル日本人学童離隔問題 ヲ関係地域

一般人民 ノ投票二付 スルノ法案 二対 シテハ議員「 ミラー」 (Miller)等 大二之 二反対 シロ下斯

ノ如キコ トヲ議 スルハ 日米国交上二悲 ムヘキ影響 ヲ及ホスヘキ旨ヲ論 シタル結果同案 ノ討議 ヲ

後 日二延期 スルコ トヽナ リタ リ然 レトモ上院「 レ」党議員モ全 ク日本人問題 ヲ葬 ムル能ハサ リ

シモノ ト見工「 ウオルフ」 ノ動議二基キ同問題二関スル法案 ヲ本月五 日ノ会議二上スヘキ旨ヲ

決議 シタリ而 シテ同日ノ議場ニハ既二下院 ヲ通過 シタル外国人土地所有権二関スル法案 ノ現ハ

レン トスルノ模様 ア リタルニヨリ本官ハ在米 日本人協議会会長安孫子久太郎 ヲ促 シ州会開会地

二急行セシメタルノ ミナラス予テ傭 ヒ置キタル代言人「 リンゼー」氏二旨ヲ含メテ土地所有権

(15)

清沢冽渡米時期の排日運動状況

問題其他 日本人関係 ノ諸議案二関 シ極力反対運動 ヲ試マシメ同時二「 メソジス ト」教 日本人監 督「 ジョンソン」博士ニモ依嘱 シテ有カナル議員間二出来得ル限 リノ運動 ヲ為サ シメタルニ上 院議長「 ポーター」氏其他二三 ノ有カナル議員等 ヨリ日本人関係 ノ法案 ヲ成ルヘク調査委員 ノ 手 二於 テ握 り潰ス様尽カスヘク仮令右諸法案 ノ議場二現ハル ヽ場合二於テモ出来得ル限其通過 ヲ妨 クルノ方法 ヲ講スヘキ旨ノ内議 ヲ得 タル趣二有之果 シテ同五 日上院ノ議場ニハ何等 日本人 問題 ノ現ハル ヽ無カ リシト雖モ日韓人排斥同盟会 ヨリ派遣セル運動員ハ議員間二殆 ン ト強迫的 二排 日議案ノ通過二関 シ前記 ノ運動 ヲ試 ミツヽアルコ トナ レハ右法案ノ運命二関 シテハ未 夕全 ク安堵 ノ域二達 シタリトハ云 ヒ難 ク候尤モ州会モ多分本月十二 日ヲ以テ閉会 ノ運 ヒニ至ルベク 本官ハ此際排 日法案 ノ通過妨止二関 シ極力運動 ヲ試 ミ居 り候   右及具報候     敬具

明治四十年二月六 日 在桑港

領事    上野季二郎    公印 外務大臣子爵   林   董   殿

この史料か ら大統領が共和党 (史 料中では「 レ党」 と表記 )所 属で、 しか も排 日に反対 していた のに対 し、民主党

(「

デ党」 )派 が排 日に加わっていたことを示 しているが、その ことか らカ リフォ ルニア州議会において も、共和党派は大統領支持に回 っていて、民主党派が排 日を推進 しようとし ていることが、よ く分かるのである。

次の史料 は、民主党カ リフォルニア州議員カ ミネッティが、サ ンフランシスコ市民の投票によっ て東洋人学童の離隔を図ろうと提議 したことに対 して、大統領の反発を恐れた市当局・学務側は、

その問題処理 にはサ ンフランシスコ市が担当すべ き事項ではないとの判断を示 し、 これに対 して大 統領 と同 じ共和党派の院内総理 ウオルフが、む しろサ ンフランシスコ市民 は適切 に判断 して東洋人 学童の離隔を望まないはずではないか という認識を示 した。問題 はカ ミネッティのように政略的意 図を もって この課題を扱 うことこそ厳 しく指弾 されるべきだというのである。

明治四十年二月廿七日接受

公信第五五号 受第 四五二九号

州会二於ケル日本人問題其後 ノ検討

州会上況二於 テハ昨七 日日本人問題 ヲ討議二付 シ先 ツ「 デ」党議員「 カ ミネチー」ハ其本月一

日ヲ以 テ提出セル東洋人離隔学校問題 ヲ次期選挙 ノ際関係地域即桑港市民一般 ノ投票二問フヘ

キ旨ノ討議 ヲ議場二迫 り市長及学務局員 ノ学校問題二関スル処置ハ大統領 ノ威喝二恐 レテ権限

外 ノ行為 二出 テタルモノニ シテ学校問題即○○○ 二而 テ方法如何 ヲ決 スル ト桑港市民 自身 ナ ラ

(16)

サルヘカラス ト論 スルヤ「 レ」党 ノ院内総理 タル「 ウオルフ」ハ憤然起テー大反対演説 ヲ試 ミ 自身ハ桑港選出ノ議員ナ レハ同市々民 ノ意向 ヲ最 モ能 ク解 スルモノナ リ桑港市民ハ敢テ東洋人 離隔学校 ヲ廃 スル ヲ欲スルモノニアラス ト雖モ「 カ ミネチー」案 ノ如 キハ其背後 二潜 メル党派 政略ノ為ニスルノ外何等 ノ実効ナキモノナルコ トヲ論 シ同案 ノ否決 ヲ議場二促 シタル結果同法 案ハ十九票二対 スル十三票 卜少数 ヲ以テ敗 レタリ然 レトモ「 レ」党 自身モ学校問題二関 シ何等 乎 ノ議案 ヲ提出スルノ必要 ヲ感 シタルモノ ヽ如 ク「 ウオルフ」総理ハ 自己ノ提出二係ル学童 ト 学年齢制限法案 ヲ同夜 ノ議場二於 テ討議スヘキコ トヲ約 シタリ而 シテ同夜 (昨 夜 )ノ 議事 日程

ニハ果 シテ右法案 ノ現ハル ヽア リ之二関 シ議員ハ約二時間二亘 り大二議論 ヲ戦ハ シタリ   前記

「 ウオルフ」 ノ提出 シタル入学年齢制限法案ハ児童 ノ初 メテ小学校 二入 ルノ年齢 ヲ十才以下 ニ 制限スルモノニシテ同案ハ独 り日本児童 ノ ミナラスー般児童二適用セラルヘキモノナ レ ハ   提 出者ハ 日本人 ノ権利及感情 ヲ害 スルコ トナク而 モ排 日法案 卜同様 ノロ的 ヲ達 スルニ十分 ナルモ ノナ リトシテ同法案 ノ採用 ヲ議場二求メタルニ「 デ」党議員中同法案ハ白人児童 ノ就学 ヲモ妨 クルノ結果 ヲ来スヘキ旨ヲ以テ之二反対スルモノア リタルヲ以 テ提出者ハ更二十才以上 ノ児童 ノ入学二関 シテハ学務局又ハ学校監督 ノ裁量ニー任スル旨ノ修正 ヲ加へ其修正ハ大二議場二歓

迎セラレタリ時既 二深更 二近キ ヲ以 テ其採結 ヲ今八 日夜 ノ討議場 二譲ルコ ト ヽナシ多分通過 ノ 見込ナ リ猶本官 ノ内偵 二依 レハ上院二於 ケル「 レ」党ハ曇キニ下院 ヲ通過 シタル外国人土地所 有法案 ヲ右議論 ノ混雑二紛 ラシ「 ウオルフ」総理 ヨリ徐 ロニ上限 ヲ法部委員 ノ手 二再付託 トナ シ会期モニ三 日二迫ルノ今 日出来得ル限 り之 ヲ委員 ノ手二握 り潰サ ントスル意向ナル哉二被察 候申進候

明治四十年二月八 日

敬 具

在桑港

領事   上野季二郎 外務大臣子爵林   董   殿

ただ し共和党派 は、 日本人学童が実際には小学生世代を超えて、 16才 前後のような青年初期世代

も多 く含む ことには何 らかの対応が必要 との認識の下 に、学年年齢制限法案 (入 学年齢を十才以下

に )の 提起を行 った。 しか し民主党派 は、 この措置を取 ると、 自人の修学差別をも引 き起 こす可能

性があるというので、 20才 を上限 とするとの改訂を行 う方向で妥協が進め られた。当時、自人 とい

えども、 20才 前後 までに小学校 にさえ修学 していないケースが見 られたことが これで分かろう。 こ

の意味は深い。すなわち民主党派が排 日運動を盛んに行 ってきたことが、社会的に容認 される状況

が生まれた。そのことか ら共和党派 はこの動向を無視できず、妥協的な方向で調整すべ く、学童就

学年齢制限で応 じようとしたこと、その ことがまさに、自人の首を絞 める結果を生む ことになる可

(17)

清沢」

ll渡

米時期の排日運動状況

能性があるとして、民主党派 は、 これににわかに応 じることは出来ない状況を想像 させて くれるに 十分であろう。その状況 は次の史料 にも十分 に見て取れるであろう。

学童離隔等を含め、 日本人排斥 に関す るカ リフォルニア州民の投票 に委ねる方針が州議会上院で 可決 された。 この状況を知 った大統領 は遂 にカ リフォルニア州知事 に訓電を打 った。その趣 旨はア ンダーライ ンにも示 したとおり「友誼的合意ニヨリ」 日本人労働者排除の方策をとるべ く対応 して きた ことを台無 しにす る、 といったものである。 これに対 して州知事が早速応 じ、教書を発 して再 考を求めた。その結果、州議会 も、反対動議が提起 され、 これを可決 している。 また日本人の帰化 に反対するとの決議案提起 は、否決 されている。

公信第五九号

州会二於ケル日本人問題其後 ノ成行 二関スル件

大統領 ノ電報 ニヨリ州会 力排 日法案討議 ヲ止 メタル件

州会上院ハ 日韓人排斥同盟会等 ノ運動 二圧迫セラレニ月八 日加州学務令 (ポ リチカル、 コー ドー六六二号 )ヲ 修正 シ学童離隔条項中二特 二日本人ナル文字 フ加へ且 ツ最初 ノ入学年齢 ヲー 般 二十才 二制限スルノ法案及 日本人排斥問題 ヲ次期総選挙 ノ際加州 〃民 ノ投票二付スルノ法案 ヲ通過 シ翌二月九 日ニハ 日本移民等二日本人 ノ帰化二反対 スルノ決議案 ヲ通過 シ右三案ハ直ニ 下院二回付セラレタリ大統領ハ州会 ノ形勢斯 クノ如 クナルヲ見テ遂二翌十 日付 ヲ以テ再 ヒ加州 知事二訓電 シテ州会現下 ノ行動ハ独 り日本 トノ友誼的合意ニヨリ其労働者排斥 ノロ的 ヲ達セ ン

トスルニ障磯 タルノ ミナラス今回議会 ヲ通過 シタル修正移民条例 ノ実効 ヲモ租害スル結果 ヲ招 クノ虞 アルニ依 り暫 ラク日本人反対 ノ立場 ヲ見合ハスベキ様尽カセ ンコ トヲ請 ヒタルニヨリ知 事ハ本 日早速右 二関 シ別紙甲号 ノ通 り下院二対 シー篇 ノ教書 ヲ発 シ其考慮 ヲ求 メタルニ曇キニ 日本人反対 ノ演説 ヲ試 ミタルー議員 (Grove Hanson)率 先 シテ大統領 ノ要求 二応 シ日本人関 係 ノ諸議案二対 シ何等 ノ行動 ヲ取 ラサル旨ノ動議 ヲ提出 シ其動議ハ直二大多数 ノ賛成 ヲ得 テ可 決 セラレタルノ ミナラスー議員 (Drew)ヨ リ州会 ガ日本人 ノ帰化二反対 スル旨ヲ大統領 二電 報 スベ シ トノ動議 ヲ提出 シタルモ採用セラレス斯 クシテ下院 ノ机上ニア リシ前顕 ノ三議案ハ其 議事 日程 ヨリ排除セラレ今期 ノ州会ハー ノ排 日的議案 ヲモ通過スルコ トナク明 日ヲ以 テ閉会 ス ル筈二有之候右大要ハニ月九 日付電第二三号二月十 日付電第二四号及二月十一 日付電第二十五 号 ヲ以テ申進候得共為念薮二及御報告候

明治四十年二月十一 日 在桑港

領事上野季二郎    公印 外務大臣子爵林   董   殿

敬 具

(18)

尚前顕上院通過 ノ学務令修正案及 日本移民等二帰化反対該議案ハ別紙乙号及丙号 ノ通 リニ有 之候条御参考マテニ及御送候也

以上のように、大統領の強い指示が、結果 としてカ リフォルニア州議会における排 日方針決定を 行わせない結果 となった。ある意味では見事な判断であったと言 ってよいであろう。 まさにこうし た動向をワシントン州 タコマの地で多感で若 き清沢冽が情報 としてキャッチ していたであろうこと は想像 に難 くない。 この時、清沢 は、明治 38年 (1905年 )12月 に渡航 していて、 ほぼ 1年 余ヽ拙著

『 清沢 Fljの 政治経済思想』御茶の水書房、 1996年 で紹介 しておいたように、 日々の日本人 に対す る 差男 Jの 中で、 レス トランのアルバイ トを行いなが ら、 タコマ・ ハイスクールに通学 していた。そ し て故郷の教師井口喜源治に宛てた便 りや友人への手紙の中で、その苦悩を訴えていた。そのような 状況の下での大統領の姿勢がどんなに彼を励 ます ものであったかを考えてみることは重要である。

そればか りか、彼 は井 回の無教会派的キ リス ト教 に育て られなが らも、 タコマでの教会牧師の俗物 性にあいそを尽か して、キ リス ト教徒であることを止めたのであるか ら、頼 るべ きものを持ち合わ せていなか ったことを思えば、なおさらに心強 く感 じたであろう。

周知のよ うに、 1942年 、 フランク リン・ ルーズベル ト大統領 は太平洋沿岸地帯の在米 日本人の強 制収容施設 (Inrternment,Relocation Camp,or Concentration Camp)へ の連行を認める大統 領令 (Executive Order 9066)に サイ ンを し、戦争終結 まで 日系人の苦難の時期を迎えた。 もち ろんよ く知 られているとお り、少数なが ら、イタ リア人、 ドイツ人 もまた収容 されている。 これ ら の施設がいかに粗末なものであったかは、 ロスアンジェルスの日系人博物館の展示や、強制的旅立 ちの際の持参物をみて も、 また実際に筆者が参加 したデスバ レーの強制収容所歴史遺跡 に倖んで見 て も一 目瞭然である (1995年 4月 29日 に筆者 は体験者 とその家族の歴史を しのぶ収容所への旅行 に 参加 した

)。

その際 は、衝撃的な真珠湾攻撃 による戦艦の大打撃 という被害を受 けたアメ リカの国 家威信 にも関わる問題が前提 にあったのである。そこに太平洋岸の日本人は日本側スパイになるか も知れないという思いこみ もあった。 こうした思いこみを もた らす要因の一つに、特に日本人一世 の日本国家への帰属意識の強 さにもあったように思われる。彼 ら一世は大半が、アメ リカで成功す れば故国に帰還する予定であった し、そのためにもその子女を日本での教育を身につけさせようと

した。人道的には決 して許 されざるべ きこととはいえ、 こうした環境の下で、大統領府 は、 その

「対抗措置」を取 ることによって、 この地域 に住むアメ リカ人の心を捉えようとしたといってよか ろう。 しか し、 フランク リン・ ルーズベル トは、その後、 こうした判断が適切ではなか ったとの意 識を持 ったともされているものの、いったん決定 されたこの重要な措置は、 アメ リカ人の日本 に対 する不安 と不信に十分に応えるものとして機能 したのである。

フランク リンの時代、清沢冽 は十分 に強制収容所問題を知 りうる位置にいたはずである。当時、

(19)

清沢冽渡米時期の排日運動状況

彼 は外務省嘱託 として、若 き信夫清二郎の協力を得て、 『 日本外交年表並主要文書』の編纂 にあたっ ていたか らである。 しか し彼の官憲 に秘匿 して書 き綴 った『戦争 日記』 (暗 黒 日記 )に は一切そ う した情報 は掲載 されていない。 しか も新聞報道 も記録 されていない。その事情を私 は探 りたいと思 うが、現状では不明である。 しか し確実性の高い想像 は可能であろう。清沢は当面の重要課題を東 條英機内閣の危険 きわまりない戦争指導への批判 こそが、 日本国民に訴えるべ きことと認識 したで あろうことは、 『 日記』の記述 に明 らかである。それに、彼 にとっては、若 き青春時代をアメ リカ で過 ごした体験、 とりわけ排 日運動 に対するセオ ドアの措置が彼 に与えたであろうアメ リカ合衆国 への信頼があったこと、そ して過激な強制収容所政策の持つ危険性を認識 して、 この問題で、東條 内閣のあ り方への厳 しい批判の目を殺 ぐことへのおそれを感 じていたのではなか ったか。

これに対 して ここで問題 にしているセオ ドア・ ルーズベル トの時代 とは、状況が根本的に異なっ ていたことは疑いないであろう。セオ ドアの時代 は、 日露戦争後の躍進する日本 と二重写 しの状況 があり、一方ではその威力に改めて中国人、朝鮮人 とは異なった日本人に対する見方を形成 した。

その勤労意欲の強さに経緯を払 いつつ も、そのことの故 にその威力に不安を覚えた。他方ではまさ にその ことの故に、 日本人に対する畏怖の念を引 き起 こした状況があった。上に紹介 してきた史料 群 はこれ らの状況を示 していたのである。そ うした時代にも 1907年 (明40年 )ハ ワイ・ カナダ渡

航許可を受 けていた日本人のアメ リカ本土への上陸を禁止す る措置 は取 られている。その事情の幾 分かは、太平洋岸在留 日本人への反発をい くらかで も殺 ぐことで、ツト日運動をかわす という意味 も

あったであろう。

2  大 正 初 期 の シア トル総 領事 館報 告

シア トル総領事館報告 に基づいて、当時の日本人排斥運動の実相の一端を探 っておきたい。 これ はまさに清沢冽が在留 していた時期、彼がどのような思いで これ らの諸条件を見つめていたかを知 る手がか りになるだろうか らである。

(1)排 日土地法問題 の登場

簿冊「 自大正 四年米国 二於 ケル排 日問題雑件 ―『 ワシン トン』州排 日関係」 の「 ワシン トン州議 会 二於 ケル排 日案 二関 スル件」 (3, 8, 2、 288‑lD)か ら「 通公第六八号大正 4年 3月 22 日   在 シア トル領事高橋清一」名 で出 された文書「 ワ シン トン州議会 二排 日案 ノ提 出 ヲ見 ザ リシ件」

によれば、

ワシントン州議会ハ本年一月十一 日ヲ以テ開会 シ参月十一 日ヲ以テ閉会致候処排 日案ハ何

等提出ヲ見ルニ及バスシテ終 り候、初 メオ リンピヤ ヨリノ通信 二依 レバ ピヤスカウンチーノ撰

(20)

出ノ上院議員ホワイ トナルモノ、 日本人 卜白人農夫 トノ競争 ヲ防グノロ的 ヲ以テ外人土地 リー スノ問題 ヲワシントン州オ レゴン州及カ リフオルニヤ州 ノ委員 ヲ以テ研究スルノ法案 ヲワシン トン州議会二提出スルヤモ知 レズ トノ振込モア リシガ (ホ ワイ トハ之 レヲ説明 シテ此際一足飛 ビニ外人土地 リースヲ禁止スル州憲法修正案 ヲ通過スルニ於テハ之 レガ為メ国際問題 ヲ引キ起 スベシ、故二沿岸参州 〔カ リフォルニア、オ レゴン、 ワシントンの三州―引用者〕二於テ予メ 研究 ノ上一致 ノ行動 ヲ取ルノ必要 ア リ云々

)、

其後 カ リフォルニヤニ於 テ排 日問題景気附カザ リシ為 メ遂ニホヮイ トハ該案 ノ提出 ヲ見合ハセ候因、之ニタコマ附近 ノ疏菜生産者ハ主 トシテ 日本人ニシテ、 日本人ハ夙二白人農夫 ヲ駆逐 シタル関係 ヨリ不平 ノ白人農夫二於テ右ホワイ ト ヲシテ何等力排 日法案 ヲ提出セシメントシタルモノ ト被察候

とある。 ここに記述 されていることは明解であろう。すなわち排 日運動 はシア トル近郊 タコマ地域 (シ ア トルか ら約 60ヽ 南 の郊外、航空機製造会社 ボーイ ング社が立地、現在、 シア トルとタコマの 中間地点 にシータック国際空港が設置 されている )の 場合、 日本人農民の高い生産意欲が自人 を上 回 っていたことこそが、自人の反発を招いていたという事実であろう。た しかに清沢冽が、当時、

しば しば論 じていた排 日運動の不当性 に対する批判の重要な論点 は、まさに在米 日本人の勤労意欲 の強靭性 にあったことを、 この外交史料で も裏付けているといってよい。では議会で果たしてこう

した論議がまか り通 るのであろうか。 この点で も同史料 は引き続 き次のように語 っている。

本年下院議員 ノ職業別ハ農業廿八人弁護士廿四人、残 り四十余名ハ各種 ノ残業二属 スル旨又下

院二於ケル外国出生議員ハ全体 ノー割以内ニシテ就中独逸国出生者ハ壱名若 クハ皆無ナ リシカ

ト新聞ノ報導二依 り記憶致居候、上院ノ職業別等ハ曽テ見当 ラズ候へ、尚本年州会二於テ銃器

隠匿 ヲ防グ為 メ外人家宅捜索 ヲ許 ス法案上院 ヲ通過 シ、下院委員会 ヲモ通過 シタルガ、 日本人

会 ヨリ当市撰出下院議員ガイ (同 人ハ十数年前当州下院議長 タリシ経験 ア リー昨年 日本人会 ヨ

リ外人土地問題二関 シ運動員 トシテ、オ リンピヤニ派遣 シタル者ナルガ本年ハ議員二撰出セラ

レタリ )二 注意 シタル結果、遂二院議二附セズシテ葬 ラレタリ、今回案提出ノ由来 ヲ案スルニ

千九百十一年 ノ議会ニテ帰化 ノ意思 ヲ声明セザル外人ニシテ銃器 ヲ携帯セン トスルモノハ当該

国総領事 ノ願出人 〔 ノ〕為人 ヲ証明スル書類 ヲ州官憲二提出 シ十五弗 ノ免許料 ヲ支払ハザルベ

カラズ、然ルニ近来 日本人ニシテ銃猟 ヲナス者少ナカラズ彼等ハ何力誤解 ノ結果、州官憲 ヨリ

銃器携帯 ノ免許 ヲ有セザル者 アルニ依 り隠匿 ヲ防グ為 メ、家宅捜索 ヲゲームヮーデ ンニ許サ ン

トシタルモノナルガ 〔 欄外の注記 ―該法案 ノ最終 ノロ的ハ十五弗 ノ免許料 ヲ励行 シゲームヮー

デ ンノ収入 ヲ増加 スルニ在 リー引用者補充〕、誤解ハ誤解 トシテ之 レヲ解キ、州法二違反セシ

メザルノ必要 アルモ如何軽微 ノ犯罪 ノ為メ家宅捜索 ヲ許スガ如キハ人権 ヲ無視セル嫌アルニ付

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