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企業の社会的責任と企業体制

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(1)

企業の社会的責任と企業体制

菅家正瑞

一 序

現代の産業社会は企業社会であるといわれているように,企業はわれわれ の経済生活に対してさまざまな影響を及ぼしていることは否定できない事実 である。しかも,産業社会の発展に伴って巨大化してきた企業はさまざまな 問題を発生させ,巨大企業に関する多くの論議をもたらしてきたことは周知 のことである。その一つとして,われわれは,いわゆる「企業の社会的責任」

(soziale Unternehmensverantwortung od. gesellschaftliche Verantwortung

der Unternehmen)の問題をあげることができるであろう。特に,巨大企業 が前世紀から出現していたアメリカにおいてはこの問題がはやくから取り上 げられ 多くの研究成果を生み出してきているのである。

ところで,企業の社会的責任に関する論議は決してアメリカに固有の問 題ではなく,それはわが国においてもドイツにおいても程度の差はあるにせ よ,しばしば取り上げられてきているのである。われわれは,ドイツにおけ る企業の社会的責任をめぐる注目すべき研究の一つとして,ヴァィトツィッ ヒ(JoachimK.Weitzig)の所論をあげることができよう。彼は,企業の社 会的責任の問題を企業権力の社会問題として捉え,新しい「企業体制」

(Unternehmensverfassung)を構築することによってこの問題を解決しよ うとしている。すなわち,社会的責任に志向する企業政策(Unternehmens−

politik)をもたらしうるために,民主的原則を企業体制に導入することによ

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って,利害単一的企業体制に代わる利害多元的企業体制を提言しているので ある。

本稿の課題は,このような彼の所論を検討することを介して,企業の社会 的責任の意義と社会的責任に志向する企業体制について考察することであ

( る

( 1 )   本稿で検討するのは,ヴァィトツィッヒの次の著書である。

J .   K .  W e i t z i g ,  G e s e l l s c h , a β' s o r i e n t i e r t e   U n t e r n e h m e n s t o l i t i k  und U n t e r n e h m e n s v e r ‑ f a s s u n g ,  B e r l i n / N e w  York 1 9 7 9 .  

ニ企業の社会的責任と企業権力

ヴァィトツィッヒは,現在の発達した産業社会において,企業,特に大企 業は社会と多面的な相互依存的関係にあることを強調する。企業の意思決定 は,例えば,被用者 ( A r b e i t n e h m e r ) ,資本所有者 ( K a p i t a l e i g e n t u m e r ) ,  消費者 ( K o n s u m e n t e n ) ,供給業者 ( L i e f e r a n t e n ) などのさまざまな社会的 集団,すなわち企業の「利害者集団 J ( I n t e r e s s e n g r u p p e n ) に影響を及ぼし ていると同時に,逆にこれらの集団から影響を受けているのである。大規模 化した企業は,今日ではもはや所有者の私的な関心事ではなく,むしろ重要 な社会政策的意義をもっ「準公共的制度 J( q u a s i ‑ o f f e n t 1 i c h e  I n s t i t u t i o n ) と

して理解されるべきものなのである。

このような「準公共的制度」とみなされるべき大企業は,社会に対するそ の影響力の故に,その反作用として社会からのさまざまな要求に直面し,そ の結果,いわゆる「企業の社会的責任」を果たさざるをえないと解される。

すなわち,環境破壊,消費者の操作,非人間的作業条件のような,産業社会

の成長がもたらした害によって,大企業は公衆( O f f e n t l i c h k e i t ) の批判の

前に立たされることとなり,公衆は企業に,その活動から生ずるマイナスの

(3)

作用を防ぎ除去する方策を要求するのである。いかなる企業も社会的問題を 拒否することによってその存立基盤を危険に陥れることはできないから,こ の公衆の要求と社会的圧力は,企業に市場志向的企業政策から「社会志向的 企業政策 J( g e s e l l s c h a f t s o r i e n t i e r t e  U  n t e r n e h m e n s p o l i t i k ) への拡大を要求 する。それ故,企業は,経済的問題と並んで非経済的価値をもその目標体系 のなかで考慮せざるをえないと解されるのである。大企業の取締役会では,

増大する社会的圧力の前で,企業の社会的責任の重要性に対する認識として,

社会志向的企業政策の必要性が受け入れられているのであ本;

このように,企業の社会的責任をめぐる論議は今日重要性を得ているので あるが,ヴァィトツィッヒによれば,それは決して最近の新しい現象ではな

, 1 9 世紀の末にも 1 9 3 0 年代の不況期にも見られたものなのである。しか しそれらと現在の論議には本質的な相違が存在する。それは,企業の社会 的責任とは決して短期的現象ではなく,問題なのは企業と社会との関係に おける本質的な変化であるということである。すなわち,過去においては,

国家,労働組合,政党といった中央の諸制度が企業への社会的要求の主体 であり,国家的圧力による企業行動の変化が目指された。しかし,現在では,

これらへの信頼性が相対的に低下すると共に,住民の広い領域で民主化 ( D e m o k r a t i s i e r u n g ) が進展するにつれて,市民運動 ( B u r g e r i n i t i a t i v e ) ,消 費者組織 ( K o n s u m e n t e n o r g a n i s a t i o n ) ,株主連盟 ( A k t i o n a r s v e r e i n i g u n g )

といった利害者集団が社会的要求の主体となり,企業の行動に直接的に影響 を及ぼすようになったのである。

これらの社会的要求は,多くの企業の経営者に「企業の社会的責任」とい う問題への関心を増大せしめることとなったのであるが,その主な原因は,

i W 社会的責任』への要請は一時的な流行現象ではなくて,むしろ,より広 い住民領域のより強い公共心に向かう基本態度に起因する持続的要請であ る」という認識なのである。このように企業への公衆の要請が増大する中で,

ヴァィトツィッヒが述べるように,企業が社会的責任を一時的な強制として

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理解するのでなければ,企業は社会的責任に志向する企業政策,すなわち社 会志向的企業政策を確立し,自己の企業の社会構想を展開しこれを具体的 な計画と遂行にまで結び付けなければならないであろう。

ところで,この社会関連的企業政策の展開と遂行の責任は,既にアメリカ の企業において「公衆業務 J( P u b l i c  A f f a i r s ) という独立した一つの企業職 能を担当する管理者によって引き受けられてきたのである。ヴァィトツイツ

ヒによれば,公衆業務とは, i 社会的企業哲学から出発し,社会戦略を展 開し,相応する諸活動を実行しあるいは活発にし,企業にとって重要な公衆 の集団との相互の意思疎通を超えた相互関係を得ょうとする」一般的な企業 職能である。それは,成立以来その職分領域が段階的に発展してきた動態 的企業職能であり,新たに加えられた職分領域はしばしば企業への直接的な 公衆の要請から生じたものであり,それらは変化する企業環境への適応に役 立ったと理解されているのである。すなわち,公衆業務は, i 政府関係」

( g o v e r n m e n t  r e l a t i o n s ) という受身的反応から出発し, i 地域関係 J ( c o m

m u n i t y  r e l a t i o n s ) から「都市問題 J ( u r b a n  a f f a i r s ) へと拡大し,今やそれ は「社会的責任」という一般的要請へと発展したのであり,そこに彼は,社 会政策的企業政策の形成と遂行に対して公衆業務が積極的役割を演じている 努力を認めるのである。このように,彼は,アメリカにおける企業職能のー っとしての公衆業務の発展の中に,社会的責任に対する企業の実践的対応を 把握するのである。

かくして,ヴァィトツィッヒは,企業の社会的責任に関する論議は決して 一時的現象ではなくて, i 企業の環境と内部で生じた歴史的展肉 1 という社 会的・歴史的過程として認識する。それ故,今や企業は社会的責任を果たす べきか否かという入り口の段階に置かれているのではなくて,その遂行はも はや自明のことであり, i むしろどの領域でどの範囲で社会的職分の解決へ の参加が可能であり,期待する価値があるのヵヨという具体的実践の問題と

してそれを理解するのである。

(5)

社会的責任の具体的実践の問題に取りかかるためには,それを操作化しう るように,社会的責任の概念を明らかにしなければならない。ヴァィトツィ ッヒによれば,社会的責任の概念には倫理的次元と制度的次元が含まれると いう。まず,倫理的観点の下では,責任の概念は特定の原則(個人的世界観,

キリスト教的社会倫理など)に志向する意思決定・行動の自由空間とのかか わり合いを意味する。企業の発展に伴って企業はその意思決定権力を増大さ せるから,このような倫理的観点からその潜在的責任が拡大するものと解さ れる。倫理的責任以外の行動を要求しうるのは,社会システムによって制度 化され制裁によって強制される時のみである。したがって,責任の概念は制 度的次元を含んでいる。

制度的観点の下では,責任とは, r 第三者によって統制され,場合によっ ては制裁される,法的に規定された行動基準を守ること」を意味する。近代 的法治国家では,法的規範とそれに基づく制裁によって,個人と各種の制度 の意思決定と責任の空間が制限されており,社会に対する責任のない行動 がもたらされるという危険を減少せしめることが努力されている。このよう な法的規範による社会的責任の規定の例は, r 共同決定法 J ( d i e   M i t b e s t i m ‑ m u n g s g e s e t z e ) である。「それは,企業と協働者 ( M i t a r b e i t e r ) との関連領 域における社会的責任の問題を,被用者という利害者集団が直接的にその関 心事を明示し,方針を守ることを統制し,制裁しうることによって,解決す

ることを助ける」ものなのである。

このような倫理的次元と制度的次元をもっ社会的責任を操作化する試み として,経済的アプローチがある。しかし,このアプローチでは,利潤志向 的方策と社会関連的方策との区別に問題が残り,あるいは長期的利潤極大 化という内容のない公式をもたらすが故に,不適切とされる。結局,ヴァィ

トツィッヒが成果を約束するものとして主張するのは,政治的アブローチ ( p o l i t i s c h e  A n s a t z ) である。これによれば, r 社会的責任の種類と程度は,

制度的規定の上で,企業の利害者集団によって協同して交渉される」ものと

(6)

理解される。企業責任のこの政治的理解によれば,企業の社会的責任は,① 国家的規定の規範に対する企業責任,②利害者集団に対する共同決定機関の 責任,③共同決定機関に対する企業管理の内部責任,③公衆に対する企業管 理の道徳的責任,という多段階の責任から構成されるのであ£

社会的責任に関するこのようなヴァィトツィッヒの理解は,責任のもつ倫 理的次元よりも制度的次元に重点が置かれたものであるのは明かである。① から①までの責任は,国家と企業に関する制度的規定に基づいて生ずるもの であり,企業責任の倫理的次元と理解されるのはわずかに④のみである。そ れは,社会的責任は「制度的規定の上で」交渉されるものである,という政 治的アプローチの必然的結果である。企業責任の多くを制度的次元において 理解するこのアプローチは,さらに次のような考察に結びつくであろう。現 在の企業は,社会的責任が交渉されうるような「制度的規定」を持つもので あるのかというのがそれである。換言すれば,現在の企業は,社会的責任 という社会的・歴史的過程に対応しうる「企業体制 J (U  n t e r n e h m e n s v e r ‑ f a s s u n g ) を有しているのか否かが関われなければならない。なぜならば,

現代の企業は今や社会的責任を具体的に設定し遂行しなければならない存在 として理解されるからである。そこで,われわれは,社会的責任に関する企 業の制度的規定すなわち企業体制そのものを問題にしなければならないので あるが,その前にまず企業権力について考察しよう。企業権力は,社会的責 任と企業体制を結びつける重要な概念であるからである。

ヴァィトツィッヒは,企業を「権力と支配の形成体 J ( M a c h t ‑und H e r r ‑ s c h a f t s g e b i 1 d e ) として把握する。権力とは, [""目標を抵抗に逆らっても実現

しうる能力 J ( d i e   F a h i g k e i t ,  Z i e l  a u c h  g e g e n  W i d e r s t a n d e  r e a l i s i e r e n  z u  

k

n n e n ) であるが,権力の行使は必ずしも意志を強制的に遂行することの

みを意味するのではなく,他人の評価過程に影響を及ぼすことも含むもので

ある。企業の権力,特にここで問題になる大企業の権力について,ウ。アイト

ツィッヒは次のように述べている。

(7)

高度に発達した資本主義的産業社会では,前世紀以来大企業が発展し,そ れは今やわれわれの経済的社会的生活における決定的中核をなしていると解 される。それ故,先に述べたように,大企業はもはや私的な制度ではなく,

むしろ準公共的制度として取り扱われなければならないのである。大企業は 今や,経済的・社会的・政治的権力を含んだ企業権力の所有者である。大企 業の経済的権力とは,経済的過程(価格形成,賃金,成長,操業など)に影 響を及ぼす可能性であり,それは大企業の社会的・政治的領域における権力 の基礎をなすものである。この企業権力は,企業の内部と外部の双方にまた がり,外部権力はこの制度の外部者に対する権力であり,内部権力はこの制 度の内部における管理・統制権力 ( d i eL e i t u n g s ‑u n d  K o n t r o l l m a c h t ) であ る。大企業による権力の行使は決して否定することはできず,むしろ成長や 集中化の傾向によって権力の基礎はますます増大してきているのである。

企業体制を考察する場合,この企業権力の具体的な所有者は誰であり,彼 らは企業政策にいかなる影響を及ぼすのかという分析が重要になる。なぜな らば,それは社会的責任という企業政策の設定と遂行に志向しうる企業体制 を考察する前提であるからである。

企業権力の所有者として最初にあげられうるのは,企業の所有者 ( d i e E i g e n t u m e r ) と企業経営者 ( d i eU n t e r n e h m e n s l e i t u n g ) なのであるが,ヴ

ァィトツィッヒは,両者の間で実際の権力基盤が今日では大きく移動したこ

とを主張する。すなわち,資本所有者が部分的に無力化し,それとは対照的

に経営者の権力が評価されているからである。この権力移動は,株式資本の

広範な分散の進展から説明されると同時に,増大する経営的意思決定の複雑

性によっても促進されたのである。このように,所有と処理権力の分離の傾

向は一般的にはもはや疑問の余地がないところなのではあるが,これが企業

政策にいかなる結果をもたらすかについて,二つの見解が対立している。そ

の一つは,所有者と所有しない経営者は異なる目標を追求するので,権力移

動の増大は企業政策に基本的変化をもたらすというものである。経営者は所

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有者利害たる利潤に同程度には参加しないから,利潤目標に志向する企業政 策にはほとんど利害を持たないと解されるからである。その上,この見解の 支持者の多くは,経営者に企業政策的意思決定にあたって自らの利害と同時 にその他の集団の利害を考慮することさえも期待するのである。

ヴァィトツィッヒによれば,経営者による所有者の排除は企業政策の根本 的な変化をもたらすというこのような見解は誤りであり,決して彼の支持す るところではない。彼は,経営者は依然として所有者の支配の下にあるか,

あるいは所有者と同じ観点から企業を管理するので,企業政策の変化は生じ ないという,二つめの見解を支持する。その理由としては,次の四つがあげ られる。①大株主を持つ企業の経営者は,所有者の直接的な支配の下にあ る。②株式資本の広い分散は,必ずしも経営者の支配されない権力行使を示 す指標ではない。③経営者は数多くの物質的・非物質的特典に結び付けられ ているので,所有者と同じ観点から企業を管理する。①経営者と所有者は類 似の社会階層に由来するので,意思決定の基礎にあるのは類似の規範と価値 である。このように,経営者は企業と強く結び付けられているので,所有者 と同じ利害を持ち,同じ企業政策に志向するものと彼は理解するのである。

企業権力の第三の所有者として,被用者をあげることができる。なぜなら ば,労働組合の発展によって被用者の利害が企業において次第に認められて きたからである。被用者は,共同決定法によって監査役会 ( A u f s i c h t s r a t ) に代表を送る権利を得たと同時に,それ以外のさまざまな領域で影響可能性 を有している。しかし,ヴァィトツィッヒは,企業では今なお所有者と経営 者の利害が支配的であることを認める。共同決定は株主総会 ( H a u p t v e r ‑ sammlung) にまでは及んでおらず,被用者には企業管理の情報が不足して いるからである。

最後に,企業権力の所有者としてあげられうるのは,取引パートナー ( G e s c h ‑

a f t s p a r t n e r ) である。大供給業者,大購入業者,大債権者は監査役会の投票

権を場合によっては得ることができる。なぜならば,企業は継続的取引を確

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保するために,監査役会に彼らを招くことがあるからである。

以上のようなヴァィトツィッヒの企業権力の分析によれば,企業権力の中 心的所有者は資本所有者と経営者であることがわかる。被用者の権力は限定 されたものにすぎない。またその他の権力所有者として取引パートナーがあ げられるが,これは可能性があるにすぎない。さらに,消費者,市民運動,

自治体などの利害者集団はなんら企業権力には関与しない。したがって,現 在の企業の制度的規定では,所有者と経営者の利害に志向する企業政策に重 心が置かれ,その他の利害者集団の利害を取り入れた企業政策,すなわち社 会的責任に志向する企業政策はほとんど実現しえないと解されることとな る。しかし企業の社会的責任が不可避であるとすれば,現在の企業の制度 的規定をこの新しい社会的・歴史的過程に対応しうるものに変革しなければ ならないであろう。すなわち,社会的責任を可能にする新しい企業体制を考 察することが彼の課題になるのである。そこで,われわれは,次にこの問題 を取り上げることにする。

( 1 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 1 .  

企業の社会的責任に関しては,次を参照されたい。

拙著, w 企業管理論の構造jJ,千倉書房,平成 3 年,第 6 章 企 業 の 社 会 的 責 任 と 企 業管理。

( 2 )   V  g   , . l W e i t z i g ,  a . α . 0 . ,  S.17‑18. 

( 3 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.22‑24. 

企業政策の概念およびそれと社会的責任との関連に関しては,次を参照されたい。

拙著, w 企業政策論の展開jJ,千倉書房,昭和6 3 年,第 5 章最高管理意思決定論と しての企業政策論一一ドゥルゴスの所論を中心として一一。

同 , w 企業管理論の構造jJ,第 l章企業管理の構造一一ウルリッヒの所論を中心と して一一。

( 4 )   W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.27‑28. 

( 5 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   25‑26. 

ヴァィトツィッヒによれば,公衆業務の中心問題は企業の社会的責任の種類と程度

を決定することである。なぜならば,これが企業政策の形成と遂行に決定的影響を与

(10)

えるからである。 Vg , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   3 6 .   ( 6 )   W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   1 4 9 .  

( 7 )   W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   3 6 .  

( 8 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.36‑37. 

( 9 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.38‑40. 

( 1 0 )   W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   5 1 .  

( 1 1 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.50‑52. 

( l : ? )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   5 3 ‑ 5 5 .  

三企業の民主化と企業体制

企業の社会的責任という問題を考察する場合,ウ

e

アイトツィッヒは,この 論議は企業の社会政策的評価と不可分に結合しているので,論議の重要な部 分は必然、的に規範的領域 ( n o r m a t i v eB e r e i c h ) の中にあるという。

およそ社会科学的モデルは,明示的であれ暗示的であれ,規範的言明を常 に含んでいることをヴァィトツィッヒは主張する。たとえそれが現実を記述 し説明するだけであり評価は慎むと表明したとしても,社会科学的言明体系 は完全な価値自由 ( w e r t f r e i ) ではありえず,価値関係から自由な用語もあ りえないのである。表面的な価値自由の表明は,その基礎にある価値態度と 利害を隠ぺいしてしまい議論を中断させてしまうことになる。ましてや,企 業の社会的責任という問題には評価の問題が結びついているので,この問題 について合理的で透明性のある議論を行いうるためには,その前提条件と して特定の価値前提 (We r t p r a m m i s s e ) を明示しなければならない。そこ で,彼は,価値前提として研究の出発点に置く「社会政策的基本規範 J ( d i e   g e s e l l s c h a f t s p o l i t i s c h e  G r u r  

はどのような内容なのであろうか。

ヴァィトツィッヒによれば,価値前提は, r それは自由社会の社会政策的

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基礎に相応するか,あるいはこれに帰せしめられるにちがいない」という 一般的要請に沿うものでなければならない。自由社会の一般的な「道徳的基 本要請 J ( s i t t 1 i c h e  G r u n d f o r d e r u n g ) は , r 人間はその自由と自己決定を彼 の時代の社会的条件の下で実現すべきである」という命題に置き換えられ る。人間は,自由と自己決定という個人的倫理と,社会的拘束という社会的 倫理との聞の緊張関係の中に置かれており,この関係は決して固定的では なく,むしろ物的・時代的条件の下で「道徳的基本要請」に向けられて形成 される。われわれの民主的社会における基本的規範は民主的規範に他ならな いのであって,民主的規範によってこの関係を決定することが重要なの である。ところで,民主的規範としてしばしば要請されるのは「民主化 J ( D e m o k r a t i s i e r u n g ) なのであるが,これには次の三つの内容が区別される ことが注意されなければならない。①自由の表現としての民主化,②国家的

・社会的権力の正当化 ( L e g i t i m a t i o n ) と統制の手段としての民主化,①権 力解消の過程としての民主化,というのがそれである。

ヴァィトツィッヒによれば,民主化の①の概念は無思想で無内容のスロー ガンにすぎないから不適切であり,また権力の止揚は新たな権力を生み出す だけであるから③の概念も不適切であると主張する。彼の理解によれば,民 主化の課題は,権力の廃止にあるのではなく,社会的権力の規制された均衡 と統制にあり, したがって,適切な民主化概念は②である。しかも彼が強調 するのは,国家権力の統制手段としての政治的民主主義に賛成するという意 思決定が意味するのは,単なる消極的な企業民主主義への賛意の表明ではな くて,むしろ積極的な評価的意思決定であるということである。すなわち,

「われわれの考えによれば,民主的国家では,例えば企業のような,民主的 基本原則さえも用いられないような重要な部分領域は存在してはならないの である。」民主主義は,国家の統治形態としてのみならず,一般的妥当性を 有する人間の共同生活の秩序としても理解されるべき原則なのである。

ヴァィトツィッヒのこのような見解によれば,民主的原則が価値前提ある

(12)

いは基礎規範として導入されなければならないのであるが,その具体的内容 は次の五つの原則である。①公表の原則,②自由な意見形成の原則,③自由 な集団形成の原則,①自己決定と自己責任的行動の自由の原則,①社会的権 力の正当化の原則,がそれである。公表の原則とは,社会の成員は自らの自 由と共同責任に関係する限り,社会政策的意思決定に関して適切な報告を受 ける権利を有するということである。これは,他の四つの原則の実現に対す る前提であるから,基本的に重要な原則である。自由な意見形成の原則は,

必然的に自由な集団形成の原則を必要とし,後者は,単なる意見の自由のみ ならず,集団の行動の自由と社会的形成や社会的コンフリクトの解決への集 団の参加を保証する。自己決定の自由は,人間的品位と人格の発展への個人 の権利を認めるものである。これらの四つの原則は,社会的権力を被る者(=

被権力者, d i e  M a c h t b e t r o f f e n e n ) によって正当化されているときにのみ,

完全に有効になる。このような正当化が必要なのは,それが不時の権力濫用 に対する唯一の制度的保証を提供し,濫用による社会への大きな被害の発生 を防ぐことができるからである。

このように,ヴァィトツイヅヒは上述のように理解される民主的原則を社 会的基本規範として理解し,それが彼の研究の価値前提であることを表明す る。「これは,われわれの考えでは, ドイツ連邦共和国において民主的方法 で達成された,社会に対する基本的価値体系に関する合意なのである:」そ して,彼は,民主的原則の中でも,自己決定の原則と被権力者による権力の 正当化の原則を重視している。

ところで,この民主的原則から現在の企業の権力秩序を見るならば,それ

は極めて問題のあるところである。先に述べたように,現在の大企業はその

内部においても外部においても強大な権力の所有者として理解されているの

であるが,この権力地位は何等規制されていないと解される。この規制され

ない企業権力は現代社会における基本的価値基準と相容れないが故に,いわ

ゆる企業権力の社会問題を発生させていると見なされる。特に,自己決定の

(13)

原則および被権力者による権力の正当化の原則と無規制の企業の権力地位と は一致しないとみなされる。したがって,企業権力の社会問題の解決が現在 の緊急の課題をなすのである。

ヴァィトツィッヒによれば,企業権力の社会問題を解決するには,次の三 つの基本的可能性があるという。それらは,①企業権力の除去,②社会的責 任を意識する管理者への企業権力の移転,③企業権力の統制である。①は,

大企業の小企業への分割や固有化によって企業権力を除去しようとするもの であるが,これでは権力問題は満足的には解決されえないとして,彼はこの 可能性を否定する。残された可能性は,一つは「人間的アプローチ J ( d e r   p e r s o n e l l e  A n s a t z ) であり,もう一つは「制度的アプローチ J ( d e r  i n s t i t u ‑ t i o n e l l e  A n s a t z ) である。人間的アプローチは権力所有者の教育・職業化(専 門化) ・選択によって,制度的アプローチは制度的統制によって,権力濫用 を制限しようとする。

人間的アプローチによれば,企業権力を社会的責任を意識する管理者に委 ねることが重要であり,適切な管理者教育システムの整備,管理者の職業意 識の高揚,適切な管理者選出方法によって問題を解決しようとする。しかし,

彼によれば,このアプローチによるだけでは不十分であると判断される。な ぜならば,社会的責任意識を確実にする方法は存在しないし,権力の授与は その意識を弱らせるからである。社会的責任意識は,満足的な社会的権力秩 序の必要条件ではあるが,十分条件ではないのである。したがって,このア ブローチは,制度によって補完されなければならない。

制度的アプローチは,権力が濫用されても大きな被害が生ずるのをくい止 める適切な制度を考えようとする。これは,意識的に権力のマイナス面に着 限するが,権力所有者の多くは責任意識的で権力濫用は例外的であるという ところから出発する。このアプローチには,次の三つの可能性が存在する。

一つめの可能性は,企業の外部権力を国家によって規制し統制しようとす

るものである。しかし,これは実践的意義と有効性に欠ける。なぜならば,

(14)

これには競合する利害を評価する尺度がないから,関連集団の利害均衡を もたらすには十分な手段ではないからである。次の可能性は,公共 ( O f ‑ f e n t l i c h k e i t ) によって企業を規制し統制しようとするものである。しかし,

企業の統制のためにはあらゆる情報が必要であり,管理者利害で彩られた一 方的な企業報告を回止できないから,基本的なところでこの可能性には問題 がある。

このように,ヴァィトツィッヒは二つの可能性を批判したうえで, r 企業 秩序の改革 J ( e i n e  Reform d e r  U  n t e r n e h m e n s o r d n u n g ) という第三の可能 性の必要性を主張する。「権力秩序問題(企業権力の目標志向的統制と正当 化)は,企業者的外部権力の国家的規制によっても,報告拡大での公共の介 入によっても,それだけでは満足的には解決されえない。権力秩序問題の有 用な解決を約束するのは,上述の国家的・公共的統制という二つの方式によ って補完される『企業秩序の改革』のみである。」今日の成文化された企業 秩序は, 1 9 世紀の権力構造によるものであり,それは基本的に企業の所有者 と債権者の権利のみを規定し,企業内部や外部のその他の利害者集団の権利 は規定していない。したがって, r 現在の企業秩序は,所有者利害に一方的 に向けられているために不十分であり,緊急に改正する必要があるとみなさ れなければならない。」すなわち,企業秩序を規定する企業体制の改革が必 要なのである。

ここに,ヴァィトツィッヒによれば,企業体制とは,国家体制と同様に企 業という社会的制度の管理・統制構造 ( d i eL e i t u n g s ‑und K o n t r o l 1 s t r u k t u r )   を規定し,独自の利害を追求しながらこの制度の中で協働する人間と集団の 基本的権利と義務とを決定するものである。そこで,彼は,ヴィルト(J.

W i l d ) によりながら, r 企業体制とは,法律によって成文化された,経済的

目的連合たる『企業』の基本的秩序」と定義する。すなわち,企業における

基本的な権力・支配関係を成文的に規定するもの,それが企業体制と理解さ

れる。

(15)

企業体制を改革する場合,ヴァィトツィッヒは,いわゆる「対抗原則 J ( G e g e n g e w i c h t s p r i n z i p ;  T h e o r i e  d e r  " c o u n t e r v a i 1 i n g  p o w e r )と「パートナー シャフト J( P a r t n e r s c h a f t ) の理念を企業内部に積極的に導入しようとする。

すなわち,対抗原則によって権力の濫用を防ぎ,企業のパートナ一概念を拡 大して,共同決定において企業外部の利害をも考慮しようとする。さまざま な利害者集団を企業の意思決定の中心に直接的に作用させるために,企業機 関へそれらの代表を派遣することによって,企業秩序を対抗的権力秩序へと 改正しようとする。それでは,そのような企業体制とは具体的にどのような

ものなのであろうか。

( 1 )   ヴァィトツィッヒによれば,企業の社会的責任について合理的で透明性のある議論 を展開しうるためには,その前提として,この価値の明示という規範的次元と並んで,

企業の現実を記述しているかという経験的次元と,導出の堅固さという論理的次元が 要求される。 Vg , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.42‑43. 

( 2 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S.57‑58. 

( 3 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.44‑47. 

( 4 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S.47‑49. 

( 5 )   W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .  5 9 .  

( 6 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .   1 5 1 ‑ 1 5 5 .  

( 7 )   Vg ,   l . W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 5 6  und  J .   Wi 1 d ,  Management‑Konzeption und  Unternehmensverfassung ,  R . ‑ B .   S c h m i d t ( H r s g . ) ,  P r o b l e m e  d e r   Unfernehmungs‑

v e

( a s s u n g , Gedanken  zum  7 0 .   G e b u r t s t a g  v o n  M. Lohmann ,  T u b i n g e n  1 9 7

 ,1

S .   6 0 .   ( 8 )   ヴァィトツィッヒは,企業の社会的責任に関する今までのモデルを六つ取り上げ,

それらを,論理的,実践的,規範的観点から批判的に検討している。それらのモデル とは,①市場モデル (Marktmode l 1 ),②受託者モデル (Treuhandermode l 1 ),③社会 的パートナーシャフトの理念 ( I d e ed e r  s o z i a l e n  P a r t n e r s c h a f t )   ,④連合モデル ( K o a l i ‑ t i o n s m o d e l l )   ,⑤社会会計の構想 ( S o z i a l b i 1 a n z k o n z e p t ) ,⑤労働志向的個別経済学

( a r b e i t s o r i e n t i e r t e  E i n z e l w i r t s c h a f t s l e h r e ) である。彼によれば,これらのモデルの批

判的検討は,企業の社会的責任についての新しいモデルを展開するための要素を提供

するのであるが,特に市場モデルの新しい展開である対抗原則とパートナーシャフト

の理念が重視される。 Vg , l . W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .  6 1 f f .  und S .   149‑15 1 .  

(16)

四 利害多元的企業体制とその効果

企業体制を改革する場合,ヴァィトツィッヒは,民主的原則の導入と並ん で企業管理の行動能力が制限されてはならないことを主張する。「誰がどの 程度企業の意思形成に参加させられるべきかという問題は,民主的な規範と 熟慮に基づくだけでは答えられない。」なぜならば,企業は経済的に成果に 満ちた活動ができなければならないからである。したがって,企業体制の改 革を論議する場合には, i 政治的観点も経営経済的観点も考察することが重 要である。」政治的観点からは,民主的原則の企業への導入,すなわち企業 の民主化が必要であることはもはや言うまでもない。経営経済的観点からは,

グーテンベルク ( E .G u t e n b e r g ) が述べるように, i 業務・経営管理が必要 とする弾力性が妨げられないこと」が必要である。それ故,企業の民主化に あたっては,企業管理の行動能力あるいは管理システムの行動能力が維持さ れることに配慮、しなければならないのである。

民主的原則を企業に導入するということは,企業のさまざまな利害者集団 の代表を企業機関に参加させることを意味する。したがって,そのような企 業体制は利害多元的モデル ( e i ni n t e r e s s e n p l u r a l i s t i s c h e s  M o d e l l ) をなす。

それはまた,企業の社会的責任に関する利害多元的モデルでもある。ヴァィ トツィッヒは,このモデルの考察を, ドイツの監査役会制度と共同決定法の 検討から出発する。

ヴァィトツィッヒは,英米の取締役会制度 ( d a sB o a r d s y s t e m ) とドイツ

の監査役会制度 ( d a sA u f s i c h t s r a t s y s t e m ) とを比較し,次の点において監査

役会制度は取締役会制度より優れていると判断する。①統制・管理機能の分

離が制度化されている。②取締役会 ( V o r s t a n d ) と監査役会の分離は,一義

的な機関代表を可能にする。③監査役会は企業管理の誤りをより早く除去し

うる。①監査役会は,企業管理の行動能力を脅かさないで,多元的に構成さ

れうる。「したがって,多元的企業体制を構築するには監査役会制度から出

(17)

発し,その場合監査役会の統制機能が強化されうる方策をとることが推奨さ れる。」

次に,共同決定法は,被用者代表を持つ統制機関と労務担当役員(モンタ ン共同決定法, 1 9 7 6 年共同決定法)を規定しており,利害多元的企業体制の 前段階を構成するものである。しかし,利害多元的企業体制の観点から見れ ば,共同決定法は次の欠陥を持つ。①利害者代表を所有者と被用者に制限し ている。⑦共同決定機関として監査役会のみを考えている。③適用を特定の 法律形態の企業のみに制限している。そこで,このような欠陥を除去するた めには,まず,企業にとって重要なすべての集団の利害を意思決定過程に持 ち込めるように,統制機関は多元的に構成されなければならない。次に,共 同決定機関として,監査役会に代えて企業総会 ( d i eU n t e r n e h m e n s v e r s a m ‑ m l u n g ) と企業協議会 ( d i eU n t e r n e h m e n s r a t ) を持つ企業体制が意図される。

最後に,多元的企業体制は特定の法律形態ではなく,特定の規模の企業に統 一的に適用されなければならない。

さて,ヴァィトツィッヒはハウスマン ( H .Haussmann) の所論によりな がら,企業体制の具体的な形成と改革にあたっては,次の五つの基本的問題 に答えなければならないと述べている。①適用領域;どのような企業に適用 されるべきか?②共同決定利害:どの利害者集団が企業で共同決定権を持つ べきか?①共同決定機関:どの企業機関が利害多元的に整備されるべきか?

④代表・構成問題:いかなる人が誰から正当化されて共同決定機関に送られ るべきか?①コンフリクトの解消:いかなる規定が利害均衡をもたらすため に設定されるべきか?彼は以上の基本問題について検討し,次のような利害 多元的企業体制のモデルを提案していぷ

( 1 )   適用領域

企業権力を法的に拘束する程度は,企業の規模とその国民経済的意義に依 存しなければならないから,利害多元的企業体制の導入は大企業だけに適用

される。

(18)

( 2 )   関与する利害者集団

企業とは,長期的に企業に関連せしめられ,したがってそれに継続的な利 害を持つあらゆる人々が所属すべき「社会連合 J C S o z i a l v e r b a n d ) と定義さ れる。そこで具体的な利害者集団として,基本的利害としては,被用者,資 本所有者,自治体・州・連邦が,企業の状況に依存する状況的利害としては,

消費者,市民,取引業者が区別される。

( 3 )   共同決定機関

株式会社の株主総会,監査役会,取締役会という機関を基礎とし,それと 対応させて,企業総会,企業協議会,企業管理という機関を設置する。企業 総会と企業協議会は基本的に利害多元的に構成される共同決定機関とし,監 査役会に対応する企業協議会の権限は,統制・共同決定機能をよりよく達成 しうるように拡大されなければならない。しかし,企業管理は,必要な意思 決定を敏速で効果的に行いうるために,多元的構成から除外されなければな

らない。

(  4 )   代表・構成問題

資本所有者代表の任命は,所有者の最高機関(社員総会など)での多数決 によって決定される。

被用者代表は,従業員代表と労働組合成員から構成され,前者には労働者 の他に非管理職員と管理職員が含まれる。労働者と職員の代表は各集団から 比例選挙の原則により選出され,労働組合代表は従業員総会で決定される。

自治体・州・連邦の代表は,それぞれの行政機関より任命される。

消費者,市民,取引業者の代表は,企業総会において任命される;

( 5 )   コンフリクト均衡の規定

企業総会と企業協議会での意思決定は,原則的に多数決によって行われる。

しかし特定の問題については,主として関係する利害者集団代表に,制限 された拒否権が認められる。

企業協議会と企業管理との間には,人的・機能的分離が必要である。さら

(19)

に,統制機能を強化するために,企業協議会は専業として活動する成員から 構成されなければならず,必要なデータの収集と活動が許される各種の委員 会を有するべきである。

以上が,ヴァィトツィッヒが提案する利害多元的企業体制の概要である。

それでは,この利害多元的企業体制のモデルは,企業の意思決定過程とそ の内容に対してどのような作用を及ぼしうるのであろうか。ヴァィトツィッ ヒは, ドイツにおける共同決定の経験に基づきながら, i 共同決定で行われ た経験は,出発状況がさまざまであるから多元的企業体制のモデルに未検討 のままでは取り入れられないが,少なくともその推測的な支点は提供でき る 。 J として,このモデルの作用を次のように推測している。

共同決定の評価についてはさまざまな見解があり評価の分かれるところで あるが,総括的にいえば,企業の能率という観点の下では, i 経営体制法」

( d a s  B e t r i e b s v e r f a s s u n g s g e s e t z ) の経験は圧倒的にプラスに評価できる。そ の主な理由は,経営体制法は企業管理と協働者との間の協働を促進し対立を 回避したことに求められる。さらに,モンタン共同決定は利害対立の調整に 多くの貢献をしたことに広い見解の一致が認められるので,モンタンモデル

も高く評価される。

多元的企業体制は,まず,企業の中心的意思決定である目標体系の変化を もたらすであろう。すなわち,社会関連的目標が目標体系の中により強く導 入されるだろう。それはもちろん高い費用を招くことになるが,その反面,

関連集団の抵抗を減じうるか除去しうるであろう。

目標体系の変化は,結果として企業の計画,組織,統制システムの変化を

もたらすであろう。特に,監査役会が持っていた役割が変化する。企業協議

会における大株主の影響力が後退し,企業管理の地位が強化される。多元的

企業協議会による取締役の任命は,利害単一的機関による任命よりも,専門

的に教育された,社会的責任を意識した候補者の選出を保証するように思わ

れる。意思決定の分権化が促進され,参加的管理様式が努力され,協働者の

(20)

経営・職場レベルでの共同決定が必要になる。管理者は,社会関連的側面で も統制され刺激されるようになるだろう。

モンタン共同決定の経験から, i 投資政策」に対する妨害は決して現れな いと推測される。なぜならば,さまざまな共同決定集団は,投資による企業 の給付能力の確保に共通の利害を有するからである。

企業の社会的領域では,多元的企業体制の最も強い作用が予想される。被 用者と並んでその他の利害者集団も,その特殊な利害を「人事・社会政策 J に持ち込もうとするだろう。要求される社会的給付は一面では企業に追加的 費用をもたらすが,他方では対立と摩擦の回避あるいは解決に貢献するだろ う。人事・社会政策への共同決定の作用は,純粋な経済的観点の下では評価 できない。企業は,経済的過程の遂行のみを代表するのではなく,多面的利 害を持つ人々の連合でもあるからである。企業政策において社会的側面にも 必要な注意を払うということは,経済的なものを超えた多元的企業体制の功 績とみなされる。

「財務・分配政策 J の領域でも,多元的企業体制は重要な変化をもたらし うる。利害者代表の安全性努力は危険を減少させ,信用供与者の用意を促進 する。しかし,出資金融の領域では,多元的企業体制の結果として,金融範 囲は狭まり外国資本の引き上げという危険が生ずるであろう

o

最後に,多元的企業体制は企業の経済性と収益性を長期的に高めうること が強調される。企業は自由で民主的な社会に統合され正当化されるので,企 業批判の基礎が消失し,経済性と収益性を阻害する要因が除去されるからで ある。多元的企業体制は企業連合の内部の秩序のみを規定するにすぎないか ら,自律的意思決定単位としての企業の地位や現存の経済体制の原則を脅か すものではない。したがって,それは企業管理に企業者的意思決定の完全な 自由と弾力性をもたらすのである。

以上が,ヴァィトツィッヒが提案する利害多元的企業体制の効果に関する

彼の推測の概要である。

(21)

( 1 )   E .  G u t e n b e r g ,  G r u n d l a g e n   d e r  B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,  1 .   Band ,  D i e  P r o d u k t i o n ,  1 6 .   A u f l . ,  B e r l i n l H e i d e l b e r g / N e w  York 1 9 6 9 ,  S . 4 8 8 .  

( 2 )   Vg ,   . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S . 4 9 .   ( 3 )   Vg   . , l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 9 4 ‑ 1 9 5 .   ( 4 )   Vg ,   . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 9 5 .  

( 5 )   Vg ,   . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 5 7 f f .   und S .   1 9 8 f f .  

( 6 )   大企業とは,従業員 5 , 0 0 0 名以上,年間売上げ l

D M以上,資産総額 5 千万 D M 以上という三つの基準の内二つを満たす企業をいう。

Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   1 9 9 .  

( 7 ) 企業総会では,所有者,被用者,自治体・州・連邦には,それぞれ 8 名の代表が,

消費者,市民,取引業者にはそれぞれ 8 名までの代表が与えられる。したがって,企 業総会の総数は最高 4 8 名になる。

企業協議会では,前者にはそれぞれ 4 名の代表が,後者にはそれぞれ 4 名までの代 表が与えられ,したがって,その総数は最高 2 4 名になる。

Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S .   2 0 8 ‑ 2 0 9 .   ( 8 )   Vg   , . l W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,  S . 2 1 5 f f .  

五企業の社会的責任と企業体制

ヴァィトツィッヒは,社会的責任に関する論議は「企業の環境と内部で生

じた歴史的展開 J であるとして,社会的責任に志向する企業政策の必要性を

指摘するのであるが,われわれはこのような彼の主張を積極的に評価しなけ

ればならない。企業の社会的責任の論議は,一方では,企業の大規模化に伴

って企業環境が変質し,環境主体側からの企業目的変革への要請として捉え

ることができるのであるが,他方では,企業の発展に伴う企業の内部構造の

変質は,企業に社会的責任を目的化することを要請するからであ本;企業構

造は今や三重の構造をなし,われわれはその一つの構造として「経営環境的

構造」を把握することができ,その構造の合理化活動として,社会的責任の

遂行にかかわる「環境管理」の成立を見ることができる。その課題は,企業

(22)

の環境主体との関連を改善することによって,企業の「社会性」を高揚し,

企業の存立と発展を促進することにあると解される。社会的責任は今や,企 業にとって不可避の目的をなすといわなければならないのである。

ところで,われわれは,等しく社会的責任と称されるものであっても,そ の観点の相違に注意しなければならない。すなわち,企業の観点と企業外部 の観点を区別しなければならない。ヴァィトツィッヒは社会的責任の概念を 社会政策的観点から捉え,利害者集団の企業への要請そのものとして捉えて いるが,これは企業の立場からすれば問題であろう

D

企業は独自の目標と行 動原理を持つ組織体であり,独自の利害を持つ組織体である。企業は,ヴァ ィトツィッヒが述べるような利害者集団から構成される単なる連合ではな い。それゆえ,利害者集団の利害が直ちに社会的責任として企業目標をなす のではない。それらが企業的必要性に基づき企業の利害の立場から目標体系 に取り入れられてはじめて,企業の社会的責任をなすのである。とすれば,

企業の社会的責任の問題は,彼が述べるような社会政策的観点ではなく,企 業的観点から捉えなければならないであろう。われわれにとって重要なのは,

企業にとっての社会的責任の問題であって,社会問題としてのそれではない。

企業権力を社会問題として捉えその解決を目指すことは,確かに重要なこと ではあるが,われわれにとって重要なのは,それを企業の主体的問題として 捉えなおすことである。

ヴァィトツィッヒは,社会的責任に志向する企業体制の構築を意図してい

るが,この姿勢は高く評価されるべきである。現代企業はその三重構造化の

故に,環境関連を積極的に改善するために,自らの判断によって社会的責任

を果たし,その社会性を高揚しなければならないからであるロ現在の企業体

制が社会的責任を自覚し遂行しうる体制でなければ,企業の発展はついに期

待されえないであろう。現代企業には, I 生産管理 J , I 労務管理」そして「環

境管理」という企業管理の三重構造に対応する企業体制が要請されるのであ

る。しかし,社会的責任に志向しうる企業体制とは,はたして彼が主張する

(23)

ょうに,企業に民主的原則を導入し,法律的規定によって,統制機関に所有 者と被用者の代表のみならず,他の利害者集団の代表をも参加させることに

よって構築されうるのであろうか。

彼は,社会的規範としての民主的原則を企業体制に導入することによって,

多元的企業体制を提案する。しかし,この規範は企業外部の社会政策的規範 であって,企業そのものの内在的規範としては捉えられていない。「民主的 国家では,例えば企業のような,民主的基本原則さえも用いられないような 重要な部分領域は存在してはならない」という価値判断から,企業体制の改 革が目指されているからである。このように,彼は,社会政策的観点から企 業体制の改革を目指しているのであって,企業の観点から企業体制の改革を 考えているのではない。企業の論理ではないいわば社会の論理によって企業 体制を改革しようとするのであって,それは果たして直ちに企業の発展をも たらすのであろうか。企業は企業の論理に従わざるをえず,またそれによっ てのみ発展するのではないだろうか。われわれは,社会の論理を企業の論理 を介して企業の主体的問題として捉えなければならないであろう。

企業の統制機関と企業管理とは,原則的には異なる利害に立つものではな

いだろう。両者とも,企業の存立と発展という企業の利害に立つものと解せ

ざるをえない。そして企業管理を企業の利害の観点から統制し監督するもの

が,統制機関に他ならないであろう。それは,決して企業外部の利害者集団

や国家の社会政策的観点からの統制機関ではありえない。したがって,統制

機関は企業の利害に一致する利害者集団の代表を中核として構成されなけれ

ばならないであろう。そうでなければ,企業の利害は損なわれざるをえない

のである。社会的責任のための企業体制の問題は,さまざまな利害者集団の

代表者を統制機関に招くことでは解決できないのである。ところで,企業の

主体的立場に立ちうる利害者集団は,その企業の所有者と従業員以外にはあ

りえないであろう。彼らのみが「われわれの企業 J という共通の利害に立ち

うるのであり,企業の存立と発展に直接的利害を持つのである。その他の利

(24)

害者集団は,企業の存立と発展に間接的な利害を有するにすぎない。このよ うに,彼の提案する統制機関の構成には問題が残ると言わなければならない。

したがって,統制機関に民主的原則が導入されうるとすれば,所有者と被用 者の二つの利害者集団に対してのみであり,この点に関してドイツの共同決 定制度は民主的体制として高く評価されているのである。

ところで,共同決定機関の構成を考える場合, ドイツの経験は極めて示唆 的である。ヴァィトツィッヒは,共同決定法の経験から多元的企業体制の作 用を推論しているが,次のような経験も忘れてはならないだろう。モンタン 共同決定の経験によれば,被用者代表は意識的にその活動を制限しているこ

とがブリンクマン・ヘルツ ( D .B r i n k m a n n ‑ H e r z ) の調査によって示されて いる。われわれは,被用者代表のそのような意識的な活動の制限の中に,被 用者の経営参加の限界を把握することができるであろう。すなわち,被用者 側の持つ企業管理の能力と責任に対する限界から自らの活動を制限せざるを えないと解されるのである。同時に,被用者代表は,企業が市場の要請に従 うものである限り,他の企業管理者と同じように行動せざるをえないのであ る。この経験から推論するならば,ヴァィトツィッヒが述べているように,

この企業体制が企業の自律的地位や現存の経済体制の原則を脅かすものでは ないとすれば,いかなる代表であれ彼らは自らの活動を制限し結局は企業 の利害に立たざるをえないであろう。とするならば,この企業体制に何の意 味があるのだろうか。企業はその内部体制にかかわらず,資本主義的体制原 理たる営利原則に従わざるをえず,またそれによってのみその存立と発展を 志向しうるのである。問題は,営利原則が社会性を含んだものに変質してい ることを企業が認識することであろう。

統制機関は,企業の存立と発展に直接的な利害を持つ所有者と被用者の代

表者を中核として構成されなければならない。企業管理は企業の利害の執行

機関に他ならず,それを適切に統制しうる立場は企業の利害のそれからでし

かありえないからである。しかし統制機関は所有者と被用者の利己的体制

(25)

であってはならないであろう。現代企業の内部構造の変質を認識せず,企業 の社会性への洞察を欠いて,彼らが近視眼的・利己的利害の追求に走ること は,企業の利害を損ね企業を食い物にすること以外のなにものでもない。そ れは,厳に戒められなければならないことなのである。所有者と被用者の利 己性を排除し,企業の社会性を高揚しうるためには,社会的責任に対応しう る企業管理のシステムを構築し,統制機関において彼らの利己性を批判しう る制度を必要とするであろう。例えば,労務担当取締役と並んで環境問題担 当の取締役を置き,監査役会に利害者集団の代表から構成される委員会を設 置することが検討されるべきである;

さらに,統制機関と企業管理の機能的・人的分離は必要不可欠であろう。

企業の存立と発展という企業自体の利害を保証しうるためには,経営者が自 らの役割を常に認識し,企業管理に革新を生みだす体制が必要である。自ら の役割を忘却し利己的利益の追求に走る無責任的経営者が,いかに企業の発 展を妨害するものであるかは経験の教えるところである。これを防ぐために は,経営者自身の自覚が必要であると同時に制度的保証がなければならない であろう。制度的には,統制機関と企業管理の機能的分離と人的分離が不可 欠である。分離されなければ,経営者と統制機関との間に緊張関係が薄れ,

両者の「なれ合いともたれ合い」を生みだし,その関係は惰性に流れるであ ろう。それは,革新を生み出す状況をなくし,管理者の独裁を生みだし,利 己的管理者を許し,企業の発展を回害するであろう。

しかしわれわれが最も問題にしなければならないことは,統制機関の無 機能化であろう。いかに企業管理と統制機関の機能的・人的分離がはかられ ていても,統制機関の無機能化はそれを無意味なものにするからである。わ れわれは,形骸化している統制機関の活動を活性化‑充実化させ,企業管理 との間に実りある緊張関係を生みだすことに,企業体制の改革の意義を見い だすべきであろう。それは,大規模化し固定化している現代企業に必然的な,

内面的要請としての社会的責任の自覚を促し,企業の長期的発展を促進する

(26)

ことになるのである。

( 1 )   企業環境および企業の内部構造の変質に関しては,次を参照されたい。

拙著,

w企業管理論の構造~,第 6 章企業の社会的責任と企業管理,

1 6 0 頁 ‑169 頁 。 ( 2 )   いわゆる企業の社会的責任と称されるものには,環境管理の課題としてのそれと,

生産管理および労務管理に含まれるべきものとがあり,両者は明確に区別されなけれ ばならないのであるが,この問題にはここでは触れない。なお,この問題および企業 構造と企業管理の構造に関しては,次を参照されたい。

拙著,

w企業管理論の構造~,第 l 章,

3 1 頁‑37 頁,第 6 章 , 1 7 1 頁ー 1 7 9 頁 。

( 3 )   V  g   , . 1 D .  Brinkmann‑Herz ,  E n t s c h e i d u n g s t r o z e s s e  i n  d e n  A u f s i c h t s r a t e n  d e r  M o n t a n i n ‑ d u s t r i e ,  E i n e  e m p i r i s c h e  Untersuchung u b e r  d i e   E i gnung d e s  A u f s i c h t s r a t e s   a 1 s  I n s t r u ‑ ment d e r   Ar beitnehmermitbestimmung ,  B e r l i n  1 9 7 2  und  D i e  U n t e r n e h m e n s m i t b e s t i m ‑ mung i n  d e r  BRD ,  Der l a n g e  Weg e i n e r  Reformidee ,  Koln 1 9 7 5 .  

ブリンクマン・ヘルツの所論に関して詳しくは,次を参照されたい。

村田和彦,

w労資共同決定の経営学~,千倉書房,昭和53年,第三章

モンタン共同 決定と企業管理ーーブリンクマン・ヘルツの所論を中心として一一。

岸田尚友,

w経営参加の社会学的研究~,

2 6 3 頁以下。

拙著,

w企業管理論の構造~,第 5 章労働者の経営参加と企業管理一ブリンクマ

ン・ヘルツの所論を中心として一一。

( 4 )   この点に関して,プリンクマン・ヘルツは次のように述べている。

「……あらゆる調査結果によれば,監査役会における被用者代表は, w 企業適合的に』

行動し,経済的権力, w 市場の要請』への適応,企業利潤の確保といった問題を判断 する場合に,企業管理者と同じ観点から行う。」

Brinkmann‑Herz ,  D i e  U n t e r n e h m e n s m i t b e s t i m m u n g  i n  d e r  BRD ,  S .   1 1 2 .   ( 5 )   しかし,企業の統制機関へ企業外部の利害者集団の代表者を参加させることが認め

られないということでは決してない。むしろ,外部者の参加は,所有者と被用者の利 己性を批判し排除しうるために望ましいであろう。この点に関して,ヴァィトツイヅ ヒは次のように述べている。

「……労働組合代表者はより大きな経済領域と全体経済的展開を容易に展望しうる ので,彼らは極めて短期的な考えの経営エゴ的な意思決定を阻止できる。」

W e i t z i g ,  a .   a .   0 . ,   S .  2 0 2 .  

問題は,法律的規定によって,彼らの利害が企業の利害と一致しない外部者に,企

業の存立と発展に対する権限と責任を認めることができるのかということにあると思

われる。

(27)

六 結

企業の社会的責任は,企業の存立と発展のために必要な企業政策のーっと

して理解されなければならない。企業管理は,企業構造の発展に対応して三

重構造をなすものと理解され,そのーっとして社会的責任にかかわる環境管

理の成立を見ることができるからである。企業管理の課題は,社会的責任の

遂行をその内に含む企業行動を合理化することによって,企業の存立と発展

を確保することにある。企業の統制機関の役割は,企業の利害の代表機関と

して,健全な企業管理の活動を促進し,企業の存立と発展に貢献することで

ある。われわれは,そこに企業の統制機関の意義を見いだすとともに,その

構成と運営には自ずから企業的利害という限界があることを忘れてはならな

いのである。

参照

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