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第 一 節 引 付 頭 人 と 番 数

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(1)

鎌 倉 幕 府 引 付 頭 人 小 考

佐 々 木 文 昭 は

じ め に

鎌倉 幕府 政治 史 の研 究は

︑﹁ 源 家将 軍期

↓執 権政 治期

↓ 得宗 専制 期﹂ と 推移 した と する 佐藤 進一 氏の

理 解を 基礎 と して 進展 して き たと いっ て過 言で は ない

︒そ の後 は佐 藤 説を 基本 的に 承認 しつ つ

︑主 に執 権政 治か ら 得宗 専制 へ と変 化を 遂げ る 時期 をめ ぐり 種々 の 議論 が重 ねら れ︑ 大 きな 成果 をあ げて

きた

︒ しか しな がら

︑ 当該 期を 考察 する に あた って は一 次史 料 の決 定的 不足 とい う問 題 があ り︑ 二次 的史 料 に頼 らざ る を得 ない こと が 大き な障 害と して 立 ちふ さが って きた

︒ 結果 とし て︑ 必ず しも 十 分な 史料 的分 析を 経 たと はい い きれ ない

︑や や 実証 性に 欠け た議 論 も散 見さ れる よう に 思わ れる

︒こ の点 は幕 府 内或 いは 北条 氏一 族 の内 訌の 歴 史と して

︑幕 府 政治 史を 叙述 する こ とが 多い こと にも 表 れて いる

五 三

(2)

そこ で研 究史 の 流れ から あえ て離 れ

︑幕 府内 の政 治組 織 に対 して の静 態的 な見 直 しを 行な いつ つ︑ 鎌 倉幕 府後 の政 治史 を検 討 する こと にも 意義 が ある と考 える

︒本 稿 は︑ 裁判 機関 たる 引付 制 を主 導し た引 付頭 人 の人 的な 遷に 着目 しな が ら︑ 得宗 専制 とさ れ る時 期を 中心 とし て 幕府 首脳 の構 成を 明ら か にす るこ とを 課題 と した い︒ のた めに

︑建 長 元︵ 一 二四 九︶ 年 の引 付制 設置 以 後弘 安七

︵ 一二 八四

︶年 ま での 頭 人名 を記 す﹃ 関 東評 定

3︶

衆 伝

﹄︑ び佐 藤進 一氏 に より 復原 され た同 八 年か ら元 徳三

︵元 弘 元︑ 一三 三一

︶年 まで の 同職 就

4︶

任 者に つい て

︑担 当す 番を 単位 とし て 頭人 の変 遷を 跡づ け た表 を作 成し 基礎 資 料と する

︒次 にこ の表 の 分析 を通 して

︑ま ず 各番 頭人 の政 治的 な位 置 や番 相互 の間 に存 在 した 差違 など を確 認 する

︒さ らに 頭人 を考 察 する にあ たっ ての 注 目点 や︑ 人と 他の 要職 と の関 連な どを みて い くな かで

︑引 付頭 人 の幕 府職 制上 の位 置を 明 確に する

︒ま た引 付 制の 番数 設置 後し ばし ば 変動 して いた めに

︑ これ を政 治的 な動 き との 関わ りで 解釈 した り

︑或 いは 得宗 又は 一 部実 力者 によ る恣 意的 な 人事 介入 など がし ば しば 指摘 され てき た

︒こ れら の点 にも

︑引 付 頭人 を通 して 再検 討 する

︒ 本論 に入 る前 に

︑引 付制 の概 要に つ いて 簡単 に触 れて お き

た い︒ この 組織 は建 長 元年 十二 月に

︑評 定 に提 出す ため の判 決草 案 を作 成す るこ とを 主 任務 とし て設 置さ れ た︒ 引付 制は

︑引 付頭 人 の指 揮下 に評 定衆

・ 引付 衆・ 付奉 行人 など を 構成 員と して

︑幾 つ かの 番を 編成 しな が ら訴 訟を 扱っ てい た︒ こ の番 数は しば しば 改 編さ れな ら︑ 文永 三︵ 一 二六 六︶ 年に は一 旦 廃止 さ

6︶

れ る︒ しか し 同六 年に 復活 して 以後 は 幕末 に至 るま で︑ 五 番制 でほ 安定 した

︒そ の 際の 頭人 職は

︑北 条 氏が 一番 から 四番 ま での 四人 を独 占し

︑五 番 には 他氏 族か ら登 用 する とい 形を

基本 とし て いた とみ られ る︒ た だ永 仁元

︵一 二九 三

︶年 十月 から 翌年 十月 ま での 一年 間は 引付 制 を廃 止し 奏制 をと り︑ ま た乾 元元

︵一 三〇 二

︶年 九月 から 応長 元

︵一 三一 一︶ 年十 月ま で と︑ 文保 二︵ 一三 一 八︶ 年及

五 四

(3)

五五

鎌倉幕府引付頭人小考

(4)

び 翌元 応元 年閏 七 月ま での 引付 制は 六 番以 上で 編成 され て おり

︑五 番制 から の例 外 の時 期と なる

︒ なお 本稿 では 北 条一 門出 身の 頭人 に 限定 する こと から

︑ 他氏 族出 身の 頭人 就任 者 も多 数い たが

︑検 討 対象 から は 除外 する

︒ま た 北条 氏の 人名 につ い ては

︑表 及び 系図 の 中に 家名 を記 すこ とに し て︑ 頭人 就任 者に つ いて は名 の みの 表記 とす る

︒但 し表

・系 図中 に 記載 のな い一 族出 身 者は 家名 など を含 めた

五 七

(5)

五 八

(6)

五 九

(7)

第 一 節 引 付 頭 人 と 番 数

本節 では

︑前 掲 の表

︵ 一

︶﹁ 引付 頭人 変 遷表

﹂を 基 に︑ 北 条氏 出身 者に つい て各 番 頭人 職の 注目 点を 番 数順 に検 討 する

︒そ の狙 い は︑ 担当 する 番と 頭 人の 政治 的位 置と の 関連 性を 求め るこ とに あ り︑ 岡邦 信氏 は﹁ 一 般に

︑引 付 番数 の若 い頭 人 ほど 地位 が

8︶

高 い﹂

︵ 傍点 は佐 々木

︑以 下 同じ

︶と 指 摘し てい た︒ こ のよ うな 理解 は通 説 化し てい る と思 われ るが

︑ 今一 度頭 人た ちの 番 の異 動を 追う なか で 明確 化し たい

︒叙 述の 都 合上

︑担 当す る番 数 が繰 り上 が るこ とを

﹁昇 番﹂

︑ 逆に 番を 下げ るこ と を﹁ 降番

﹂と そ れ ぞれ 呼称 する

︒ま た引 付 制は 既述 のよ うに 五 番制 を基 本 とし たが

︑時 に は六 番以 上の 編成 を とる こと もあ った の であ り︑ これ を﹁ 多番 制

﹂と 称す るこ とに す る︒ 一

一番 頭人 一番 頭人 の就 任 者は 合計 十六 名で あ る︒ まず はこ の地 位 に到 達す るま での

︑彼 ら の経 歴を 確認 して お きた い︒ こ の職 を頭 人の 初 任と する のは

︑初 代 の政 村を 含め 五名 で ある

︵他 に久 時・ 守時

・貞 規・ 茂時

︶︒ 二番 頭 人を 初任 と して 一番 に昇 番 した のが 二番 初代 の 朝直 を含 め四 名︵ 他 に宣 時・ 時村

国時

︶︑ 三 番を 初任 とす るの は 同職 初代 時 章を 含め 四名

︵ 他に 実時

・宗 政・ 業時

︶で あっ た

︒そ のほ か他 番を 初 任と する 人物 には

︑宗 宣

︵初 任四 番︶

・煕 時︵ 同 上︶

・貞 将︵ 初任 五番

︶の 三名 が いる

︒ま た彼 らの 中 で六 波羅 探題 の勤 めを 終 え︑ その 東下 後に 一 番頭 人に 就 任し てい たの が 時村

・久 時・ 宗宣

・ 貞将 とい う

10︶

四 名で あ る︒ 以上 の前 歴か ら判 断 する と一 番頭 人に は

︑⑴ 初任 を 一番 とす る者

⑵他 番か ら階 梯を 踏 んで きた 者︑

⑶六 波 羅探 題を 経由 した 者︑ と いう 三系 統を 確認 で きる

︒但

(8)

⑵の 内四 番頭 人 以下 を初 任と した 者 のな かで は︑ 頭人 職 のみ を歴 任し て辿 りつ い たの は煕 時一 人で あ り︑ 一番 頭 人に 到る ため に は初 任は 三番 以内 と いう のが 実情 であ っ たろ う︵ なお 三番 頭人 の 項を 参照

︶︒ さて 右記 十六 人 中在 職時 に死 去し た 者が 五名

︵朝 直・ 時 章・ 実 時・ 宗 政・ 貞 規︶

︑ また 同職 辞任 後の 動 向不 明者 が 二人 いる

11

久時

・国 時

︶︒ この 七名 を 除く と︑ 残る 九名 は その 後執 権又 は連 署に 就 いて いた

︒得 宗を 除 くと

︑一 番 頭人 は次 期の 執 権・ 連署 の有 力候 補 者と いう 地位 にあ っ たと 解釈 でき る︒ この 点 を例 証す ると 思わ れ るの が︑ 一 番か ら二 番頭 人 への 降番 人事 であ る

︒降 番に つい ては

︑ 次節 第三 項で も検 討し た いが

︑該 当す る人 物 に久 時・ 国 時・ 守時 の三 名 がい る︒ 順に みて い こう

︒久 時の 場合 は

︑宗 宣が 六波 羅探 題か ら の東 下後 に一 番頭 人 に就 任し た こと に伴 なう 人 事で あっ たが

︑宗 宣 が連 署に 就任 した 三 年後 に戻 る︒ 国時 は一 時 頭人 職を 離れ てい た 煕時 の復 帰 によ る降 番で あ った が︑ 久時 と同 様 に︑ 煕時 の連 署就 任 で二 年後 には 一番 とな る

︒守 時の 場合 は貞 規 が初 任で 一 番に 就い たた め であ るが

︑貞 規の 死 去に より 三年 後に は やは り戻 って いた

︒降 番 の要 因と なっ た人 物 の異 動・ 病 死な どに よっ て

︑三 者と も一 番に 復 帰し てい たの であ る

︒こ のよ うに 新た なる 執 権・ 連署 候補 者の 登 場に よる 一 時的 な降 番は あ りえ たと はい え︑ 一 番頭 人と いう 地位 は 執権

・連 署へ の最 短距 離 とい う役 職と なっ て いた こと が 示さ れて いる と いえ よう

︒ 二

二番 頭人 二番 頭人 の経 験 者は 十九 名で ある

︒ 彼ら のそ の後 を確 認 して おき たい

︒一 番へ 昇 番し た者 は八 名︑ 一 番頭 人を 経 験せ ずに 執権 職 に就 任し たの が二 名︵ 師 時 と基 時︒ 但し 後者 は 頭人 職を 辞し た三 年 後の 就任

︶︑ 在任 中 に死 亡又 六

(9)

は 病に 倒れ た者 が 五名 とな る︵ 公時

・宗 泰・ 顕 実・ 時 春・ 貞直

︶︒ 残 る四 名に つい て も触 れて おく

︒随 時 は二 番を 初 任と して

︑三 年 後に は鎮 西探 題に 赴 任し その 地で 没す る とい う︑ 頭人 とし ては 異 例の 経歴 を

12︶

持 つ︒ ま た時 基は 初 任の 三番 を十 年 以上 務め 二番 に昇 番 した が︑ 僅か 一年 後 には 師時 の登 場に より 三 番に 戻り

︑そ の二 年 後同 番頭 人 のま ま辞 して い た︒ 貞顕 は六 波羅 探 題へ 二度 目の 赴任 と なり

︑時 高は 初任 の七 番 から 二番 頭人 に到 り 辞任 して い た︒ さて 頭人 初任 が 二番 とい うの は︑ 引 付制 発足 時の 朝直 の 他に 時村

・宣 時・ 国時

・ 随時 とい う五 名が い る︒ 随時 を 除く と︑ 残り の 四名 は一 番に 昇番 し

︑さ らに 時村 と宣 時 は連 署に 就任 して いた

︒ 二番 頭人 在任 時に 執 権に 就い た のは

︑前 述の 師 時の みで あり

︑二 番 頭人 職か ら直 接執 権 又は 連署 に就 任す ると い うの は例 外的 事象 と みて よい で あろ う︒ 三

三番 頭人 三番 頭人 には

︑ 他氏 族と して 唯一 就 任し た安 達

13︶

泰 盛を 除 くと

︑北 条氏 出身 者と し て二 十二 名が 就任 し てい た︒ こ こを 初任 とす る のが

︑制 度開 始時 の 資時 を含 め十 二人 と 過半 数を 超え る︒ とこ ろ が二 番頭 人に 到る の が八 名︑ さ らに 一番 頭人 に 辿り つい たの は時 章

・実 時・ 宗政

・業 時 とい う四 名に 過ぎ ない

︒ この 内時 章・ 実時 両 人は

︑引 付 制が 一旦 廃止 さ れる 文永 三︵ 一二 六 六︶ 年以 前に は既 に 頭人 職に 就任 して いた の であ り︑ いわ ばこ の 制度 の未 成 熟期 に属 する 人 物で ある こと を指 摘 して おき たい

︒ま た 宗政 は建 治三

︵一 二七 七

︶年

︑業 時は 彼の 後 任と して 弘 安四

︵一 二八 一

︶年 にそ れぞ れ就 い てお り︑ この 二人 も 必ず しも 鎌倉 後期 とは い えま い︒ とす ると 弘 安年 間以

六 二

(10)

降 幕末 に至 るま で

︑三 番頭 人初 任者 か らは 一番 頭人 がで な かっ たこ とに なる

︒ さて 前記 の宗 政

・業 時両 者に は︑ 二 番頭 人を 経験 して お らず

︑二 番を 謂わ ば﹁ 飛 び越 し﹂ て一 番頭 人 に就 任し た とい う共 通点 も ある

︒こ の点 を検 討 して おこ う︒ 宗政 は 建治 三年 の八 月に 一番 頭 人に 就く

︒同 頭人 で あっ た実 時 は 前 年十 月 に 病 死 した が そ の 補充 は 行 な わ れて お ら ず︑ ま た 二番 頭 人 の 時村 は 六 波 羅 探題 に 転 任 す る こ と に な って いた

︒即 ち 一番

・二 番と もに

︑ 闕員 とも いう べき 状 態に あっ たの であ り︑ 宗 政に つい ては あえ て 飛び 越し た と考 える 必要 は なく なる

︒な お彼 の 人事 の際 に二 番に 宣 時・ 三番 には 業時 がそ れ ぞれ 新任 とし て同 時 に登 用さ れ てい た︒ 弘安 四 年に 宗政 が病 死し

︑ それ に伴 なう 異動 の なか で︑ 宣時 は二 番に 留 任し たま ま︑ 業時 が 一番 頭人 と なっ たの であ り

︑こ こが 注目 され よ う︒ しか もこ の飛 び 越し ての 任命 とい うの は

︑四 番以 下を 含め た 頭人 人事 全 体を みて も彼 一 人し かい ない ので あ る︒ この 時期 の政 治 史を 考察 する うえ でも 見 逃せ ない と思 わ

14︶

れ る

︒ 次に 執権

・連 署 就任 者つ いて いえ ば

︑義 政が 三番 頭人 在 任中 とい うこ れま た注 意 すべ き任 命は ある が

︑三 番初 任 者で は他 に業 時 と貞 顕の

15

二人 がい る にす ぎず

︑一 番は 勿 論の こと とし て二 番を 初 任と する 者と も︑ 大 きな 地位 的 な差 が存 在し て いた と判 断で きる

︒ 四

四番 頭人 四番 頭人 では

︑ この 制度 の初 期に 二 階堂 氏の 行盛 と行 方

︑ま た後 期に 長井 宗秀 と 安達 時顕 とい う他 氏 族出 身者 は 四名 いる が ここ で は触 れず

︑北 条 氏一 族 に限 定す る︒ 同氏 出身 者で は 十六 名が 就任 し

︑こ こ を初 任 とす る者 が十 二 名 にの

16

ぼる

︒従 っ て前 項の 三番 頭人 と 合わ せる と︑ 北条 氏 出身 の全 頭人 三十 九人 中 二十 四名 がど ちら か を初 任と 六

(11)

し てい たの であ り

︑北 条氏 にと って は 三番 又は 四番 に登 用 され ると いう のが 基本 と なっ てい たと 考え ら れる

︒ この 初任 者十 二 名中 二番 に到 達し た 人物 は五 名い るが

︑ 一番 頭人 にま で昇 番で き たの は連 署と もな っ た宗 宣と 煕 時と いう 僅か に 二人 に限 られ る︒ し かも 宗宣 の場 合は 四 番就 任の 翌年 には 早く も 六波 羅探 題に 転任 し

︑そ の東 下 後に いき なり 一 番頭 人に 任命 され て いた ので あり

︑当 然 のこ とな がら 二・ 三番 の 頭人 は経 験し てい な い︒ 結局 頭 人職 のみ を歴 任 した 人物 とし ては

17

煕 時の みと なる

︒こ れ は四 番を 初任 とす る者 に とっ て︑ 執権

・連 署 は勿 論と し て︑ 一番 頭人 へ の道 もま た遠 かっ た こと を意 味す るの で あろ う︒ 五

五番

・六 番

・七 番の 各頭 人 五番 頭人 は︑ 初 代の 安達 義景 以来 安 達・ 二階 堂・ 長井 な どい わば 他氏 族の

﹁定 席

﹂と もい える 役職 と みら れ︑ 北 条 氏 出身 者 に 限 定 する と 初 見 が弘 安 九 年 ま で下 り 就 任 者も 八 名 と 少 ない

︒ま た 同 氏 で ここ を 初 任 と し た の は

18︶

政 長・ 維貞

・貞 将 の三 名で

︑貞 将は 一 年余 りの 在籍 にす ぎ ず︑ 維貞 はや や長 くさ ら に一 旦は 七番 制の 六 番に まで 下 がっ ても いた

︒ 貞将 は四 番頭 人を 経 て一 旦は 退任

︑三 番 とし て復 帰後 僅か 一年 余 りで 六波 羅探 題に 転 任し

︑そ の 東下 後に は一 番 頭人 に就 任し てお り

︑五 番初 任者 とし て は唯 一人 一番 頭人 に到 達 した 人物 とな る︒ 六番 を経 験し た 北条 一門 は四 名で

︑ 内こ こを 初任 とす る のは 顕実 のみ

︑同 じく 二 名の 就任 者し かい な い七 番で は

︑時 高︵ 斉時

・ 斎時

︶一 人が ここ を 初任 とし てい た︒ 両 番と もに 初任 者が 各一 名 とい うの は︑ 引付 制 が五 番制 を 原則 とし てい た こと から

︑少 数な の が当 然で はあ った

︒ 以上 のよ うに 五 番か ら七 番の 頭人 を 初任 とす るの は計 五 名で ある が︑ 顕実 と時 高 両名 は二 番に まで 到 り︑ また

六 四

(12)

六 波羅 探題 を経 由 した とは いえ 貞将 は 一番 頭人 に辿 りつ い た︒ この 点か らす ると

︑ 多番 制下 で多 く生 じ た五 番以 下 の頭 人は

︑四 番 初任 者と 政治 的な 地 位と して はほ ぼ同 列 と考 えて よさ そう であ る

第 二 節 引 付 頭 人 と 評 定 衆

・ ﹁ 多 番

﹂ 制

・ ﹁ 降 番

一 引付 頭人 と 評定 衆 引付 頭人 は︑ 評 定衆 中か らの 昇進 を 基本 とす るが

︑頭 人 就任 後も 同職 を兼 任し 評 定会 議に 出席 して い た︒ ここ で 北条 一門 の頭 人 と評 定衆 との 数的 な 面に つい て︑ まず 弘 安七

︵一 二八 四︶ 年ま で の人 名を 記載 する

﹃ 評定 伝﹄ を 用い て確 認し て おき たい

︒建 長元

︵ 一二 四九

︶年 の引 付 制発 足時 から 弘長 元︵ 一 二六 一︶ 年ま では 基 本的 に五 番 編成 をと り︑ 北 条氏 の 頭人 は一 番か ら三 番 まで を押 えて いた

︒こ の 間同 氏出 身の 評 定衆 は三 乃至 四名 に とど まっ て いる

︒弘 長二 年 から 文永 三︵ 一二 六 六︶ 年ま での 五年 間 は三 番編 成で あり

︑弘 長 二・ 三両 年は 北条 氏 が頭 人職 を 独占 した が︑ 一 番頭 人の 朝直 の死 を きっ かけ とし て文 永 元年 に安 達泰 盛が 三番 頭 人に 就い たこ とに よ り北 条一 族 は二 名と なる

︒ この 間の 同一 族か ら の評 定衆 は二 名か ら 四名 が在 職し てい た︒ こ こま での 時期 にお い ては

︑北 条 一族 の頭 人数 に 対し て評 定衆 は同 数 かせ いぜ い一

・二 名 多い とい う状 態で 推移 し てい たこ とに なる

︒ 人事 異動 や 死亡 など によ り 生じ てし まう 闕員 に 備え ると いう 観点 に 立て ば︑ 頭人 数を 維持 す るに あた って ぎり ぎ りの 人数 と いえ るの では な かろ うか

︒逆 にい え ば︑ 三番 制の 一時 期 には 確か に全 頭人 を占 め たと はい え︑ 同職 を 北条 氏が 独 占し 続け るこ と は︑ 人員 的に はか な り厳 しい 状況 にあ っ たと 思わ れる

六 五

(13)

さて 引付 制が 復 活し た文 永六 年以 降 にな ると

︑北 条一 門 の評 定衆 は五

・六 名が 基 本と なり

︑ま た引 付 衆就 任者 も 大幅 に増 加し

︑ 両職 に対 する 一族 の 人的 な厚 みが 徐々 に 増し てい く︒ しか し当 該 期で は原 則四 名の 頭 人を 起用 し てい たの であ り

︑人 数面 では それ ほ どの 余裕 はな いと い えよ う︒ この 意味 で引 付 制度 発足 時か らし ば らく の間 北 条出 身者 は︑ 引 付衆 にさ え登 用さ れ れば

︑評 定衆 を経 て ほぼ 頭人 への 道が 開け て いた ので

19

ある

︒ では 弘安 八年 以 降に つい ては どう で あろ うか

︒こ こで 参 照し たい のが

﹃永 仁三 年 記﹄ であ る︒ 同書 の 記載 を基 に 佐藤 進一 氏は

︑ 永仁 三︵ 一二 九五

︶ 年の 評定 衆と して 十 九名 を復 原

20︶

し た︒ 詳細 に 人名 を記 載す る同 書 の性 格か ら 判断 して

︑こ の 数が 同年 の評 定衆 全 員を 示す 可能 性は 高 いが

︑そ の内 九名 を北 条 一族 が占 めて いる

︒ 次に 一気 に 時期 は下 るが 嘉 暦元

︵一 三二 六︶ 年 の評 定衆 につ いて

︑ 佐藤 氏は 北条 氏出 自者 と して 五名 を復 原し た が︑ その 中 には 同年 の同 一 族の 引付 頭人 三名 が 含ま れて おら ず︑ 彼 らを 加え れば 少な くと も 八名 は在 籍し てい た こと にな る

︒僅 かに 二例 か らで はあ るが

︑十 三 世紀 末か ら幕 末期 ま での 北条 一族 の評 定衆 数 は八

・九 名前 後で 推 移し てい た ので はな かろ う か︒ この 推定 に大 き な誤 りが ない とす る と︑ 鎌倉 後期 にな ると 頭 人へ の昇 任を 巡っ て

︑一 族の 評 定衆 間に は競 い 合い とも いう べき 状 況が 生じ たと 考え ら れよ う︒ 二

引付 頭人 と

﹁多 番﹂ 制 本項 では

︑引 付 制の 番数 が六 番以 上 とな る多 番制 を検 討

21︶

する

︒文 永六 年の 復活 後 の引 付制 は︑ 概ね 五 番体 制で 運 営さ れて

22

いた

︒ これ が大 きく 変動 す るの は乾 元元

︵一 三

〇二

︶年 であ る︒ 前年 に は得 宗貞 時が 引退 す ると とも に 連署 宣時 も辞 し てお り︑ 二人 の後 任 とし て二 番頭 人師 時 が執 権に

︑連 署に は一 番 頭人 時村 がそ れぞ れ 任命 され

六 六

(14)

︒首 脳部 の交 替 に連 動す るか のよ う に同 年中 には 二度 の 頭人 の改 編が 行な わ

23︶

れ る

︒そ の後 嘉元 三︵ 一 三〇 五︶ 年 八月 から 一年 間 ほど 五番 制に 戻っ た のを 除く と︑ 応長 元

︵一 三一 一︶ 年ま での 約 十年 間は めま ぐる し く番 数が 変 動し た時 期と な った

︒な か でも 乾元 元年 九 月か ら嘉 元二 年に か けて は最 多と なる 八 番制 にま で拡 大さ れて お り︑ こ の間 で同 一番 の 職に 留ま った のは 四 番頭 人時 高の 三年 半 余り の在 職と いう のが 最 長で あっ た︒ 多番 制 状況 は︑ 文 保二

︵一 三一 八

︶年 と翌 元応 元年 に も認 めら れる

︒こ れ らは 制度 や組 織そ のも の の改 定と みる べき な ので あろ

24︶

う か︒ さて 乾元 元年 の 二度 目の 編成 替え に より

︑五 番 制か ら一 挙 に八 番制 とな った

︒そ の要 因は

︑六 波 羅探 題 から 戻っ た ばか りの 宗宣 が 一番 頭人 に登 用さ れ

︑前 年一 度は 退い た 宗方 と時 家が 復帰 し︑ さ らに 摂津 親致 が八 番 頭人 に新 任 とな るな ど︑ 同 時に 四名 が加 わっ た こと に求 めら れる

︵ 北条 一 門六 名︑ 長井 宗秀 を 加え 他氏 族出 身者 が二 名

︶︒ 翌 嘉元 元年 親致 は 病死 した がこ こで 新 たに 時高 を加 えて

︑ 八番 体制 は維 持さ れた

︵ 北 条七 名︑ 他氏 族一 名︶

︒ とこ ろ が同 二年 にな り

︑一 度は 復帰 した 時 家・ 宗方 と長 井宗 秀 が頭 人職 を去 り五 番制 に 戻っ てい た︒ ただ こ こで 注意 す べき は︑ 他氏 族 の定 席の はず の五 番 頭人 を含 め︑ 五名 全 員が 北条 氏出 自者 とな っ たこ とで ある

︒こ れ は翌 三年 に 一番 頭人 宗宣 の 連署 就任 と宗 泰の 退 任を 経て

︑基 時が 新 加さ れる とと もに 宗秀 も 復活 し︑ 北条 氏四 名

・他 氏族 一 名と いう 本来 の 体制 とな った

︒ しか し徳 治元

︵ 一三

〇六

︶年 には 再 び七 番制 とな って し まう

︒こ れに は乾 元元 年 と同 様の 事情 があ り

︑こ の年 維 貞・ 顕実 両名 が 一時 に登 用さ れ︑ そ れぞ れ五 番・ 六番 の 頭人 に就 いた こと がき っ かけ とな った

︒そ の 後も 新た に 加わ る者 が続 き

︑多 番制 は四 年間 継 続さ れた

︒そ の間 貞 顕が 六波 羅探 題に 移る な ど北 条氏 関係 者の 人 事異 動と 六

(15)

長 井宗 秀の 頭人 職 を再 度解 くな どに よ り︑ 漸く 応長 元年 に 至っ てま たも 北条 氏が 独 占す る五 番制 に︑ そ して 翌正 和 元︵ 一三 一二

︶ 年安 達時 顕が 五番 頭 人に 新加 され て︑ 北 条四 名・ 他氏 族一 名と い う通 常の 形を 取り 戻 した ので あ った

︒ 以上 のよ うに 多 番制 とい う事 態は

︑ 本来 なら ば人 事異 動

・死 亡・ 病気 退任 など の 機会 を捉 えて 新規 の 人物 を任 命 すべ きと ころ

︵ 当然 こ の場 合は 一人 ずつ が 基本 とな ろう

︶︑ 複 数人 を同 時に 登用 し てし まっ た︑ 或い は せざ るを え なか った こと に より 生じ たと 推断 さ れる

︒従 って 何ら か の政 治的 意志 を持 って の 制度 自体 の改 編を 目 的と して い たと まで は考 え る必 要は なか ろう

︒ 何故 なら ば多 番制 を 解消 する ため に︑ 頭人 人 事に 変動 が生 じて も 後任 を補 充 しな い︑ さら に 他氏 族か らの 登用 者 を一 時辞 職さ せる と いう 二つ の手 法を 使い

︑ 時間 をか けな がら も 変則 的な 状 況の 解決 を図 っ てい たと 思わ れる か らで ある

︒た だ多 番 制を 考察 する うえ で見 逃 せな いと 思わ れる の が︑ この 時 期は 貞時 が引 退 した 翌年 から 彼が 死 亡す る応 長元 年と 一 致し てい るこ とで

25

ある

︒ この こと が多 番制 に いか なる 意 味を 持っ てい た のか

︑こ の点 の考 察 が重 要と なる が︑ 今 後の 課題 とし たい

︒ なお 前述 した よ うに 文保 二年 から 元 応元 年に かけ ても 半 年余 り六 番制 をと った が

︑こ れは 十七 才と 若 年の 貞将 が 五番 頭人 に新 た に加 わっ たこ とに よ る︒ しか しな がら 翌 年に 一番 頭人 貞規 が死 亡 し︑ 二番 頭人 以下 が 繰り 上が る こと で早 期に 五 番制 に戻 って

26

いた こ とか らす ると

︑こ の 時は 多番 制と いう 無理 を して でも 貞将 を頭 人 に登 用せ ざ るを 得な かっ た 何ら かの 事情 があ っ たと 推察 さ

27︶

れ る︒

六 八

(16)

三 引付 頭人 と

﹁降 番﹂ 上席 の番 に就 任 して いた 頭人 の退 任 や異 動に 際し 番の 繰 り上 がる 昇番 に対 して

︑ 時に は番 を下 げる 降 番者 も現 れ た︒ 降番 には 職 務上 での 問題 や政 治 的意 図な どに よる 懲 罰的 な︑ 或い はそ の当 人 の排 除に つな がる と いう よう な 要素 が認 めら れ るの であ ろう か︒ 一 番頭 人に 関連 した 降 番に つい ては 既に 触れ た が︑ ここ では 他の 番 をも 含め て 検討 した い︒ その 初見 は︑

︵ 一︶ 一 旦頭 人を 離れ て いた 師時 が二 番で 復 活し たこ とに より 時基

・ 顕時 が三 番・ 四番 と 一つ ずつ 下 げた 永仁 五年 で ある

︒そ の後 につ いて は

︑︵ 二︶ 乾 元元 年二 月に 宗宣 の 一番 起用 に伴 う二 番 久時

・三 番宗 泰

︑︵ 三

︶ 同 年九 月の 四番 宗 方・ 五番 時家 の再 起 用に より 煕時 など 二 名が 六番

・七 番へ

︑︵ 四

︶延 慶 二︵ 一三

〇九

︶ 年に 貞顕 が 三番 に入 った こ とに より 基時 が四 番 に下 がる など 四名 が 降番 した 時︑

︵五

︶同 三 年 一度 は退 いた 煕時 が 一番 に復 帰 した こと によ る 国時 の二 番︑

︵ 六︶ 文 保元 年に 貞規 が新 任 一番 とし て登 場し た際 の 守時 の二 番︑

︵ 七︶ 翌 年貞 将が 五 番に 新加 され た 時に 安達 時顕 が六 番 へ︑ そし て最 後と な るの が︵ 八︶ 元 亨三

︵ 一三 二 三︶ 年 貞将 の三 番 再起 用に よ り時 春・ 貞直 が それ ぞれ 四番

28︶

五 番 へ︑ とい う八 例を 確 認で きる

︒こ れら の事 例 から

︑新 任者 や復 帰 者さ らに は 六波 羅探 題を 終 えた 人物 など を︑ 上 位の 番の 頭人 に登 用 した のが 契機 とな って い たこ とが 判明 する

︒ 七︶ は前 項で も 触れ たよ うに 降番 し たの は安 達時 顕で あ り︑ 貞将 の異 動に より 翌 年に は五 番に 戻っ て いた

︒多 番 制時 には その 解 消の ため に他 氏族 出 身者 はし ばし ば任 を 解か れて いた が︑ この 降 番も その 延長 上に あ ると みら れ るの で考 察対 象 から は外 す︒ また

︵ 一︶ の時 基は 二年 後 に元 の二 番に 復帰 して い たが

︑も う一 人の 顕 時は 翌年 に なっ て理 由は 不 明だ が頭 人自 体を 退 き戻 るこ とが なか っ た︒ さら に残 る六 例を み てい きた い︒

六 九

(17)

二︶ の二 人が 三年 ほ どか かり

︑︵ 六

︶の 守時 が一 年半 ほ どの 時を 要し たの を除 く と︑ 他は 同年 中に 遅 くと も翌 年 には 復帰 して い た︒ とす ると 短期 間 で前 職に 戻る こと が 予定 され てい た降 番の よ うに も思 えて くる

︒ 右記 の新 加 者の 内訳 は︑ 三 例が 一番

︵二

・五

・六

︶で

︑ 二番 は一 例︵ 一︶

︑ 三番 が二 例︵ 四・ 八

︶ とな る︒ 一・ 二 番の 四例 で は︑

︵六

︶の 貞規 は 在任 中に 病死 した が

︑他 の者 は執 権或 い は連 署へ と異 動し てい る

︒︵ 四︶ と︵ 八

︶の 三番 初任 者 によ る降 番の 要 因と なっ た貞 顕・ 貞 将父 子に は︑ 短期 間 の頭 人経 験後 に六 波羅 探 題へ の赴 任と いう 共 通性 を持 つ こと が興 味を 引 く︒ 何か 特別 な事 情 があ りそ うだ が︑ 遺 憾な がら 不詳 とせ ざる を えな い︒ 以上 みて きた よ うに

︑降 番者 は顕 時 を除 くと 安達 時顕 を 含め て︑ その 要因 とな っ た人 物の 異動 によ り 前職 に復 帰 して いた

︒即 ち 降番 とい うの は︑ 上 席の 番に 有力 者が 新 加者 など とし て登 場し た 際に 起き る現 象で あ り︑ 短期 間 での 異動 が見 込 まれ る人 物を 登用 す るた めの 策で はな い かと 考え られ る︒ 従っ て 異論 が噴 出し たり 或 いは 摩擦 が 生ず ると いう よ うな 政治 的側 面は そ れほ ど考 慮す る必 要 のな い︑ 降番 の対 象者 も 納得 して の異 動で あ った 可能 性 があ る︒ 顕時 の 例が ある とは いえ

︑ 一度 頭人 に起 用さ れ たな らば 降番 した 職に と どま った まま 退任 に 追い 込ま れ ると いう こと は 原則 とし てな かっ た ので あり

︑懲 罰的 な 意味 合い を持 つ降 番は 想 定し なく ても よい だ ろう

︒こ の こと は︑ 初任 の 番数 とい うも のが 将 来の 政治 的位 置に つ いて の決 定的 な条 件に な って いた こと を︑ 改 めて 示し て いる と思 われ る

(18)

第 三 節 引 付 頭 人 と 幕 府 要 職

一 引付 頭人 と 執権

・連 署 第一 節で 論じ た 一番 頭人 の項 と重 複 する 部分 も多 いが

︑ ここ では 執権

・連 署就 任 者の 前職 とい う逆 の 視点 から 引 付頭 人の 地位 を 考え てみ たい

︒時 政 を含 めて 執権 は十 六 人︑ 連署 には 時房 以下 十 四人 を確 認で きる

︒ 両職 に補 任 され た者 が五 名 おり

︑な かで も政 村 は連 署↓ 執権

↓連 署 と異 動し たの で︑ 実質 は 二十 四名 であ る︒ こ こに は時 政 以下 高時 まで 八 名の 得宗 を含 むが

︑ 経時 が評 定衆 に加 わ った のを 最後 とし て︑ 彼 らが 頭人 など の幕 府 要職 に就 任 する こと はな く なる ので 除外 する と

︑検 討す べき 人物 は 十六 名と なる

︒ この なか には 引 付頭 人の 経験 者が 十 名い る︒ 既述 した よ うに

︑師 時は 二番 頭人 か ら執 権へ

︑義 政は 三 番頭 人か ら 連署 にそ れぞ れ 任命 され てい たが

︑ 残る 八名 は一 番頭 人 から 執権 又は 連署 に就 い た︒ ここ に一 番頭 人 から の昇 進 とい うル ート を 再確 認で きる

︒そ の 内訳 につ いて 引付 制 設置 以後 に限 ると

︑特 に 連署 の場 合は 十一 名 中七 名ま で が一 番頭 人か ら の昇 任で ある

︒こ れ に対 して 執権 職就 任 者で は︑ 最後 の守 時の み が一 番頭 人か ら直 接 の昇 格で あ り︑ また 政村 以 下の 八名 中四 名ま で が連 署を 前職 とし て いた

︒一 番頭 人と 執権 又 は連 署と の密 接な 関 連を 指摘 し てき たが

︑こ れ らの 点を 押さ える と

︑連 署と の関 わり と 限定 すべ きと ころ であ っ たか もし れな い︒ ここ で例 外と な る二 人の 人物 につ い て触 れる

︒師 時の 例 は正 安三

︵一 三〇 一︶ 年で あ る︒ この 時は 貞時 の 出家

・ 引 退に とど まら ず 連署 宣時 も辞 職し て いた ので あり

︑そ の 補充 とし て一 番頭 人時 村 の連 署就 任と 同時 で あっ た︒ 従 って 二番 頭人 が 一番 を超 えた と捉 え る必 要は なく

︑か え って 順当 に一 番・ 二 番の 頭 人が 昇格 した 人事 とい

29

え る︒ 七

(19)

し かし なが ら義 政 の場 合は いさ さか 異 なる

︒彼 の就 任は 文 永十

︵ 一 二七 三︶ 年 政村 の 死に 伴な うも ので あっ た が︑ 同 年初 の状 況を み ると

︑一 番頭 人は 闕

︵前 年二 月同 職に 就 いて いた 時章 が二 月騒 動 で殺 害さ れた が後 任 を補 充せ ず

︶︑ 又二 番頭 人 には 実時 が在 任し てい た

︒私 見か らす れば 当然 実 時こ そ相 応し いは ず だが

︑義 政 は実 時 を超 えて の 就任 とな った

︵ その 際に 実時 は一 番 へ昇 番︶

︒そ の間 の 背景 につ いて は後 考 を期 した い︒ さて 前記 の十 六 名中 頭人 を前 職と し ない 人物 に︑ 時房

・ 重時

・長 時・ 貞顕

・維 貞 とい う五 名が

30

いる

︒ この 内時 房

・重 時両 名は

︑ 当時 引付 制自 体が 存 在し てお らず 当然 で ある

︒残 る三 名に つい て みて いこ う︒ 長時 は

︑康 元元

︵ 一二 五六

︶年 連 署 であ る重 時の 病気 の 報を 受け

︑六 波羅 よ り東 下し 父の 死後 執権 に 就任

31

する

︒同 年に は 時頼 も引 退 し︑ 執権

・連 署 とも に交 替し てい た ので あり

︑連 署に 政 村が 就い て一 気に 首脳 部 体制 が変 わる

︒次 の 貞顕 は正 和 三︵ 一三 一四

︶ 年十 一月 に六 波羅 探 題か ら東 下︑ 翌年 七 月に は頭 人を 経ず に連 署 に就 いた

︒そ して 維 貞は 正中 元

︵一 三二 四︶ 年 八月 に同 じく 六波 羅 探題 から 帰洛 し︑ 得 宗高 時が 出家 した 嘉暦 元

︵一 三二 六︶ 年に 連 署貞 顕の 執 権就 任に 伴い そ の後 任と なっ た︒ こ のよ うに 時房

・重 時 も含 め頭 人を 前職 とし な い五 人に は︑ 全て 六 波羅 を経 由 して の就 任と い う共 通点 が認 めら れ る︒ また その 時期 に つい てい えば

︑鎌 倉中 期 とそ の末 期に 限ら れ てい たの で あり

︑そ の間 は全 て 引付 頭人 を前 職と し てい たこ とに なる

︒以 上の こ とか ら︑ 執 権 と連 署の 職に 就い た人 物 は︑ 得 宗を 除く と︑ 引 付頭 人な かん ずく 一 番頭 人在 任者 に︑ そ して 六波 羅探 題か らの 東 下者 とい う︑ どち ら かの 前歴 を 持つ 者に 限定 さ れて いた

︒こ の点 か らも 一番 の政 治的 位 置の 高さ を知 るこ とが で きる だろ う︒

七 二

(20)

二 引付 頭人 と 六波 羅探 題 六波 羅探 題と 引 付頭 人と の関 連性 に つい て︑ 六波 羅探 題に 考察 を 加え た熊 谷隆 之氏 は

︑﹁ 六 波羅 探題 は 関東 の引 付 頭人 と同 等か そ れよ り下 位に あっ た

﹂と 指摘 して

32

いる

︒ この 点を 検討 した い︒ 探題 就任 者は 延 べ二 十九 名を 数え る が︑ 南か ら北 への 転 任者 或い は再 任者 など を 考慮 する と実 質は 二 十六 人で あ る︒ 頭人 経験 者 の就 任は 建治 三︵ 一 二七 七︶ 年に 二番 頭 人か ら転 出し た時 村を 嚆 矢と する ので

︑彼 を 含め 以降 の 探題 就任 者十 六 名を ひと まず みて い く︒ この 内幕 府滅 亡 時の 政村 流の 北条 時益

・ 普音 寺仲 時に

︑在 任 中又 は東 下 年に 没し た五 人

︑そ して 時頼 孫︵ 時 宗猶 子︶ の北 条兼 時 は六 波羅 探題 から 鎮西 へ と転 任し 東下 年に 鎌 倉で 没し て いた ので

︑こ の 八名 を除 く時 村・ 久 時・ 宗方

・ 宗宣

・基 時・

33︶

貞 顕・ 維貞

・範 貞・ 貞 将と いう 九名 を対 象に す る︒ 彼ら のな かで 前 職で 頭人 を経 験し て いた のは

︑前 記の 時 村の 二番

︑維 貞と 貞将 は 三番

︑宗 宣が 四番 と いう 四名 で ある

︒維 貞を 除 く三 人は 東下 後ほ ど なく 一番 頭人 に起 用 され てい る︒ なお 維貞 は 東下 する とと もに 評 定衆

・越 訴 頭と

34

なり

︑さ ら に二 年後 の守 時の 執 権就 任時 には 頭人 に 就く こと なく 連署 とな っ てい た︒ 逆に 頭人 未 経験 者は 久 時以 下五 名で あ る︒ 久時 を除 く四 人 は東 下後 三番

︵基 時

・貞 顕・ 範貞

︶又 は四 番

︵宗 方︶ の頭 人に 就 いた

︒久 時 は一 番頭 人を 初 任と する が︑ それ は 東下 の四 年後 とい う 時間 を置 いて のこ とで あ った

︒し かも 貞時 の 引退 に伴 な い一 番の 時村 は 連署 に二 番の 師時 が 執権 に就 くと いう

︑ 一・ 二番 頭人 の不 在と い う特 殊な 状況 下に あ った こと を 想起 する と︑ 彼 の場 合は 例外 と判 断 して よい と思 わ

35︶

れ る

︒従 って 頭人 未経 験者 に つい ては 三番 又は 四 番に 起用 す ると いう のが

︑ 一つ の原 則と なっ て いた と考 えた い︒ す ると 探題 職を 経験 して い ても

︑北 条一 門の 頭 人初 任者 と 同等 の扱 いと 評 価で きる だろ う︒ 但 し前 職で 頭人 を経 験 した 者に つい ては

︑時 村 以外 は三 番以 下を 前 歴と して 七

(21)

い たに も拘 わら ず

︑探 題職 を終 える と 一番 頭人 に就 任し て いた こと は見 逃せ ない だ ろう

︒探 題職 と頭 人 職と を比 較 する 場合 には

︑ 彼ら の経 歴と いう 視 点も 必要 にな るの で はあ るま いか

︒ 次に 森幸 夫氏 が 六波 羅探 題に つい て 指摘 した

︑他 方に 対 して の優 越的 地位 が認 め られ ると いう 執権 探 題と の関 わ りに つい て触 れ る︒ 森説 に立 ち熊 谷 氏は

︑承 久三

︵一 二 二一

︶年 から 幕末 まで の 執権 探題 を明 らか に

36︶

した

︒そ こ で再 び時 村以 降 につ いて みて いく こ とに する

︒こ の地 位 に就 いた 人物 は︑ 幕府 滅 亡時 の仲 時を 含め 十 二名 であ る

︒こ の内 仲時 な ど四 名は 在職 中又 は 東下 年に 死亡 して い るの で除 外す る︵ 他に 前 出の 兼時

・大 仏貞 房

・政 村流 の 北条 時敦

︶︒ す ると その 八名 の内 訳は

︑先 の 四人 の頭 人経 験者 に 加え

︑東 下 後に 頭 人に 初任 され た人 物 中の 宗方 を 除い た四 名も ま た執 権探 題と なっ て いた こと にな る︒ 唯 一執 権探 題に 就か なか っ た宗 方に つい ては

︑ 彼の 在職 中 は頭 人経 験者 の 宗宣 がそ の地 位に 就 いて いた こと で納 得 でき よう

︒執 権探 題と 頭 人職 とも 密接 な関 連 を持 って い たと 思わ れる

︒ この 観点 から 注目 し たい のが 範貞 であ る

︒彼 の北 方赴 任時 には 頭 人経 験者 の南 方維 貞 が執 権探 題 に就 いて おり

︑ 維貞 の離 任後 にな っ て単 独執 権と して そ の地 位を 継い だ︒ しか し そこ に頭 人経 験者 で ある 貞将 が 赴任 して くる と

︑そ の 地位 は貞 将に 替 って いた

︒こ の 例は 執 権探 題を 選任 する 際 に︑ 頭 人職 経験 者が 優 位に 立っ て いた こと を表 わ して いる とい える の では ない だろ

37

うか

︒ 三

引付 頭人 と 寄合 衆 最後 に佐 藤進 一 氏に より

︑得 宗権 力 の非 制度 的拠 点と 位 置付 けら れた

38

寄合 の参 加 者と 頭人 との 関わ り を検 討す る

︒細 川重 男氏 が 寄合 関係 の史 料を 網 羅的 に

39︶

提 示し てい る ので ここ を基 礎と した い

︒さ て引 付制 設置 以 後の 寄合

七 四

(22)

参 加者 につ いて

︑ 得宗

・執 権・ 連署 を 除く

︑北 条氏 関係 者 の名 を明 記す る史 料か ら は︑

① 正応 二︵ 一 二八 九︶ 年五 月の 時 村︵ 一番

40

頭人

② 永仁 三︵ 一 二九 五︶ 年六 月二 十 六日 の時 村︵ 一番 頭 人︶

・公 時︵ 二番

41

頭 人︶

③ 同四 年十 月 の宗 宣︵ 四番

42

頭人

④ 嘉元 二︵ 一 三〇 四︶ 年三 月六 日 の久 時︵ 二番

43

頭人

⑤ 延慶 二︵ 一 三〇 九︶ 年四 月九 日 の煕 時︵ 一番 頭人

︶・ 貞 顕︵ 三番

44

頭人

︶ と いう 五例 七名 が 認め られ る︒ 人名 の 下に その 時点 での 役 職名 を記 した が︑ 全員 引 付頭 人で ある こと に まず は着 目 すべ きだ

45

ろう

︒ なか でも

③の 宗 宣と

⑤の 貞顕 に注 目 した い︒ 宗宣 は永 仁 四年 一月 四番 頭人 に初 任 され たば かり であ っ た︒ 貞顕 の 場合 は︑ この 年 の一 月ま でに は六 波 羅探 題か ら東 下し

︑ その 直後 の三 月十 五日 に 三番 頭人 に補 任さ れ

︑⑤ の日 付 で寄

46

合衆 への 任 命を 受け て翌 日開 か れた 寄合 に初 参加 し てい た︒ 両名 は頭 人職 就 任後 さほ ど日 を置 か ず︑ 寄合 衆 にも 任じ られ て いた こと が明 らか と なる

︒こ の二 例に 加 え先 の北 条氏 関係 の寄 合 参加 者が 全員 頭人 で あっ たこ と を押 さえ ると

︑ 僅か な事 例し かな く 断定 は避 けた いが

︑ 北条 一門 の寄 合衆 に限 る なら ば頭 人就 任者 の なか から 選 定し てい た可 能 性が 考え られ

47

よう

︒ 寄合 への 参加 を伝 え られ た貞 顕が

︑書 状中 で

﹁面 目之 至﹂ りと 喜 びを 記し て

48

いた こと も︑ こ の点 を示 唆し てい る ので はな かろ うか

︒ ここ で想 起さ れる のが

﹃ 沙汰 未

49︶

練 書﹄ 中の 寄 合項 に記 さ れて いる

﹁御 寄合 事 評 定衆 中

宗人 々有 御 寄合

︑秘 密御 内談 在 之也

﹂と の 文言 で ある

︒﹁ 評定 衆中

宗人 々﹂ と は︑ 北条 一門 に つい てい えば 頭人 と の兼 任者 を指 すの で はあ るま いか

七 五

(23)

また 秋山 哲雄 氏 は︑ 引付 一番 頭人 と 長門 守護 職と の間 に 密接 な関 係が 存在 した こ とを 指摘 して いる

︒ 頭人 とい う 地位 との 関わ り で各 種の 幕府 組織 を 検討 し直 すと いう 作 業は

︑幕 府政 治史 を考 察 する うえ で︑ 今後 も 重要 な視 点 の一 つに なり 得 ると 思わ

50

れる

お わ り に

本稿 を閉 じる に あた り︑ ここ まで 論 じて きた こと をま と めて おき たい

︒最 初に 岡 邦信 氏が 指摘 した

︑﹁ 若 い﹂ 番 数 の頭 人の 地位 が 上で あっ たこ とを 再 確認 した

︒こ のこ と から 担当 する 番数 とい う のに は︑ その 被任 命 者自 身の 幕 府内 にお ける 政 治的 位置 が示 され て いる と考 えら れる

︒ 即ち 頭人 職の 番数 は北 条 一族 は勿 論の こと と して 他氏 族 を含 めた 幕府 関 係者 らの 間に おい て も︑ はっ きり とし た 序列 と捉 えら れて いた の では ない だろ うか

︒ 他方 抜 人 事と もい うべ き もの に︑ 初任 での 一 番登 用や

︑番 の﹁ 飛 び越 し﹂ があ る︒ 前者 は その 後の 履歴 から 判 断し て︑ 将 来の 執権 や連 署 への 期待 を表 わす 処 遇で あっ た︒ 後者 に つい ては

︑実 質的 には 業 時一 人と いえ るの で あり

︑彼 以 降幕 末ま での 約 五十 年間 全く なか っ たこ とか ら︑ 例外 的 人事 と解 釈す べき であ る

︒本 来は 起用 され た 番か ら上 席 者の 異動 や退 任 など の機 会に 一つ ず つ番 数を 上げ てい く もの であ り︑ 階梯 を踏 ん で最 終的 に一 番頭 人 へと 辿り つ くと いう こと が

︑周 知さ れて いた で あろ う︒ また 初任 時 の番 数に 任命 権者 の意 志 は明 確に 示さ れて い るが

︑登 用 後に なる と特 別 な昇 任や 逆に 懲罰 的 降任 はみ られ ない こ とか ら︑ 得宗 或い は一 部 権勢 者の 恣意 が働 く 余地 は小 さ く︑ この 意味 で 秩序 だっ た人 事の 運 用が 行な われ てい た とい って よい ので はな か ろう か︒

七 六

(24)

北条 氏出 自者 の 多く は︑ 三又 は 四番 を初 任と する のを 基 本と した が︑ 一・ 二 番程 度 の昇 番に 過ぎ ない の が実 態で あっ た︵ 表二 参 照︶

︒従 って こ の位 置か ら出 発 した 者に とっ ては

︑一 番頭 人に ま で到 るの は困 難な こ とで もあ った

︒ 従っ て彼 らは

︑当 然 のこ とな がら

︑若 い番 から の登 用 を望 んで いた で あろ う︒ こう した 状 況か らす ると

︑新 任者 が起 用さ れ る時 には

︑当 人達 は勿 論 のこ と頭 人在 任者 を含 め 周囲 の人 々に とっ て も︑ いか なる 番と なる の かに 大き な関 心が 集ま っ てい たと 推測 され る

︒ 以上 の点 を踏 ま える と︑ 例外 的な 人事 にこ そ着 目 する 必要 がで てく る

︒既 に触 れた 義 政・ 業時 に随 時を 除 くと

︑煕 時・ 基時

・貞 顕な どが あ ては まる

︒そ れ ぞれ の特 徴と なる 点 を順 にみ てい こう

︒煕 時は 四番 を 初任 とし

︑一 度 は六 番ま で下 がり な がら も︑ 四 年 とい う短 期間 で一 番 に 昇 番し た

︒ 鎌 倉 後 期 に は 三 番 初 任 者 で も こ の 地 位 に 辿 り 着 け な か った ので あり

︑彼 は三 番 以下 を初 任と し且 つ頭 人 のみ を歴 任し て一 番 頭人 に到 った 唯 一の 人物 であ った

︒そ して 一度 は その 地位 を退 任し な がら 復帰 し︑ 連 署か らつ いに は執 権 にま で登 りつ めた

︒基 時は 僅か に 十六 歳に して 先 任の 宗宣 に替 わり 六 波羅 の執 権探 題と な り︑ 離 任の

(表二) 引付各番頭人の初任数とその昇番について

全就任者数 初任者数 三番頭人 二番頭人 一番頭人 執権・連署

一番頭人 16 5 8

二番頭人 19 5 4 1

三番頭人 22 12 8 4 1

四番頭人 16 12 7 5 2 0

五番頭人 8 3 2 0 1 0

六番頭人 4 1 1 1 0 0

七番頭人 2 1 1 1 0 0

* 五番頭人欄の一番頭人は貞将を指すが、彼は三番に昇任後六波羅探題として赴任し、

東下後一番頭人となっており、二番には就いていない。

・執権・連署欄は、その番の全就任者に対する人数。

・降番は対象外とした。

七 七

(25)

約 二年 後に は三 番 頭人 に就 任し

︑そ の 後降 番も 経験 しな が ら一 旦は 二番 頭人 で

51︶

退 く

︒と ころ が二 年ほ ど を経 て執 権 とし て幕 政に 復 帰す る︒ 時の 一番 頭 人の 守時 は初 任で こ の地 位に 就き 将来 を矚 望 され る人 物で あっ た ろう が︑ 彼 に先 んじ る形 で 元二 番頭 人基 時は な ぜ復 活し てい たの か

︑注 意を 払い たい とこ ろ であ る︒ 最後 とな る 貞顕 につ い ては

︑六 波羅 探 題南 方の 任務 を終 え て三 番頭 人に 就く と いう こと 自体 は先 例も あ るが

︑同 年中 に二 番 に昇 番し 翌 年に は六 波羅 探 題北 方と して 赴任 し た︒ 東下 の翌 年に は 頭人 職に 復帰 する こと な く︑ 基時 の執 権人 事 と同 時に 連 署に 就任 する

︒ 貞顕 の場 合は 頭人 と して は二 番止 まり で あっ たこ とに 加え てそ の 経験 も一 年に 満た ず

︑さ らに は 六波 羅探 題か ら 即連 署に 就く とい う 長時 以来 の経 歴と な った

︒今 彼ら

﹁例 外﹂ と 指摘 した 三名 の経 歴 は鎌 倉後 期 の幕 府政 治史 を 研究 する うえ で重 要 な意 味を 持つ と考 え られ るの であ り︑ これ ら の点 を明 らか にす る こと も当 該 期の 政治 史研 究 にと って の一 つの

52

課 題に なる と思 われ る

︒ 本来 であ れば

︑ ここ まで の分 析を 一 つの 手掛 かり とし て

︑個 々の 事象 に検 討を 加 える こと によ って

︑ 当該 期の 政 治史 研究 に初 め て寄 与で きる こと に なる のは 十分 承知 し てい る︒ その 意味 で本 稿 は︑ 鎌倉 幕府 政治 史 を解 明す る にあ たっ ての

︑ 全く の予 備的 考察 に とど まる もの にす ぎ ず︑ 又注 記︵ 4︶ で触 れ たよ うに 大き な欠 陥 も内 包し て いる が︑ ひと ま ず擱 筆す るこ とに し たい

︻注

︵ ︼ 1

︶ 佐 藤氏

﹁鎌 倉幕 府政 治の 専制 化に つい て

﹂︵ 同氏 著﹃ 日本 中世 史論 集

﹄岩 波書 店︑ 一九 九〇 年︑ 初出 は一 九五 五年

︶ な ど参 照︒

七 八

(26)

︶ 佐 藤説 の特 に得 宗専 制へ の理 解に 対 する 疑問 を呈 しつ つ︑ 鎌倉 幕府 後期 の政 治史 を論 じた 近年 の代 表的 論考 とし て

︑細 川重 男氏 の﹃ 鎌倉 政権 得宗 専制 論﹄

︵ 吉川 弘文 館︑ 二〇

〇〇 年︶ 及 び﹃ 鎌倉 北条 氏の 神話 と歴 史﹄

︵ 日本 史史 料研 究 会︑ 二〇

〇七 年︶ や︑ 秋山 哲雄 氏﹃ 北条 氏 権力 と都 市鎌 倉﹄

︵吉 川弘 文 館︑ 二〇

〇六 年︶ など があ る︒ 当該 期の 研究 史 につ いて は両 氏の 著作 に譲 る︒ 両氏 に は﹃ 討論

鎌 倉末 期政 治史

﹄︵ 日 本史 史料 研究 会︑ 二〇

〇九 年︶ もあ る︒ 3

︶﹃ 群書 類従

第四 輯﹄

︵続 群書 類従 完 成会

︑一 九三 二年

︶所 収︒ 本書 は﹃ 関東 評定 伝﹄ と称 され るこ とも 多い が︑ 本 文の よう に改 める べき こと につ いて は

︑拙 著﹃ 中世 公武 新制 の研 究﹄

︵ 吉川 弘文 館︑ 二〇

〇八 年︶ 二 九九 頁注 記 3

︶ 参 照︒ 以下

﹃評 定伝

﹄と 略称 する

︒ま た この 書の 記述 の下 限と なる 弘安 七︵ 一二 八四

︶年 まで の引 付頭 人・ 評定 衆・ 引 付衆 など につ いて は︑ 特記 すべ き事 項 があ る場 合の み略 称で 書名 を記 す︒ 4

︶ 佐 藤氏

﹁鎌 倉 幕府 職員 表復 原の 試み

﹂︵

﹃ 鎌倉 幕府 訴訟 制度 の研 究

﹄岩 波書 店︑ 一九 九三 年︑ 初出 は一 九八 三〜 八七 年

︒以 下﹁ 佐 藤氏 職員 表﹂ と 略称 する

︶︒ こ の労 作は

︑幕 府滅 亡の 正慶 二︵ 元弘 三︑ 一三 三三

︶年 ま での 復原 を行 なっ て いる が︑ その 前年 も含 めこ の二 年間 の 頭人 につ いて は不 明確 な面 が多 いた め︑ 本文 中で も記 した よう に分 析の 対象 は 元徳 三年 まで に限 定す る︒ なお 佐藤 氏 は慎 重に も典 拠と した 史料 の日 付を もっ て補 任日 とす るが

︑新 任者 以外 の頭 人 職は 前年 より 引き 続き 継続 して いた と 理解 して 後掲 する 表を 作成 した

︒ま た細 川氏 前掲

﹃鎌 倉政 権得 宗専 制論

﹄所 収 の﹁ 鎌倉 政権 上級 職員 表︵ 基礎 表︶

﹂︵ 以下

﹁細 川氏 職員 表﹂ と略 称す る︶ など 諸氏 の論 考も 参 照し た︒ ここ で﹃ 鎌 倉年 代記

﹄︵

﹃増 補 続史 料大 成﹄ 所 収︑ 臨川 書店

︑一 九七 九年

︒以 下﹃ 年 代記

﹄と 略 称す る︶ の 史料 的性 格 につ いて 付言 して おき たい

︒前 掲注

︵ 3︶ でも 触れ たよ うに

﹃評 定伝

﹄記 事の 下限 は弘 安七 年に あり

︑佐 藤氏 はそ の 年以 降の 引付 頭人 の補 任者 を復 原す る にあ たっ ては 主と して 本書 に依 拠し た︒ 同書 は引 付制 が新 設さ れた 建長 元年 か ら元 徳三 年ま での 八十 三ヵ 年中 三十 九 年分 の頭 人番 文を 記載 する が︑

﹃ 評定 伝﹄ が途 切れ る弘 安八 年か ら元 徳三 年ま 七

(27)

で の四 十七 カ年 に限 定す ると 二十 一年 分 につ いて は記 され てい ない

︒こ のた め佐 藤氏 は︑ 前後 の番 文の 比較 対照 やさ ら には 種々 の史 料の 博捜 を通 して

︑未 詳 の年 次の 頭人 を推 定し てい た︒ ここ で一 つ問 題と なる のが

︑﹃ 年 代記

﹄の 番文 掲 載の 有無 はい かな る理 由に よる のか と いう こと であ る︒ そこ でま ず信 頼性 の高 い史 料で ある

﹃評 定伝

﹄と

︑記 事が 重 なる 期間 とな る建 長元 年か ら弘 安七 年 まで に絞 り︑ 両書 を比 較す るな かで この 問題 を考 えて 行き たい

︒ この 期間 につ いて

﹃年 代記

﹄に は︑ 十 三カ 年分 の番 文が 載せ られ てい る︵ 建長 元・ 同三

〜五 年︑ 康元 元年

︑弘 長二 年

︑文 永元

・同 六・ 同十 年︑ 建治 元年

︑ 弘安 四・ 同六

・同 七年

︒こ の内

﹃評 定伝

﹄の 記事 と比 較す ると

︑異 動が 行な わ れた 日付 の不 一致 が四 カ年

︑ま た建 長 元・ 同三

・同 五各 年の 頭人 名及 び番 数に つい ては 大き な異 同が あり 検討 の余 地 を残 す︶

︒ これ ら各 年次 の番 文を 本文 中に 掲載 した

﹁︵ 表 一︶ 引付 頭人 変遷 表﹂ と 対照 する と︑ 全て の年 に新 加な どに よ り頭 人の 異動 が生 じて いる のが 判明 す る︒ 逆に いえ ば異 動が なく 前年 と同 一人 員と なる 年に つい ては 番文 を載 せて い ない ので ある

︒こ のこ とは 同書 の番 文 が︑ 場当 たり 的に 記載 する とい うの では なく

︑頭 人人 事に 異動 が生 じた 年次 の み記 録す ると いう 方針 の基 で︑

﹃ 年代 記﹄ が 編集 され てい たこ とを 示唆 する と思 われ る︒ ただ 私見 を否 定し かね ない の が︑ 建治 三年 の異 動を 記し てい ない こと であ る︒

﹃ 評定 伝﹄ で は大 きな 異動 が行 われ たこ とを 示す 記事 があ るが

︑﹃ 年 代 記﹄ に は番 文の 記載 がな い︒ しか しな がら

﹃ 年代 記﹄ の異 本と され る﹃ 続 群書 類従

第 二十 九輯 上 雑部

﹄︵ 続 群書 類 従完 成会

︑一 九五 七年

︶及 び﹃ 改定

史籍 集覧

第 五冊

通 記類

﹄︵ 臨 川書 店︑ 一九 八三 年復 刻版

︶に 収載 され てい る﹃ 北条 九代 記﹄

︵ 同書 と﹃ 年代 記﹄ と の関 係に つい ては

︑﹃ 国 史大 辞典

﹄の

﹁ 鎌倉 年代 記﹂ 項参 照 吉川 弘文 館︑ 一九 八 三年

︑益 田宗 氏執 筆

︶に は 同年 の番 文 を記 して いる こと から する と︑

﹃ 年代 記﹄ の原 本又 は刊 本に する 際の どち らか に 脱漏 があ ると 考え られ る︵ この 点に つ いて

︑刊 本史 料に つい ては 原本

・写 本を 調査 する とい う基 本原 則を 忘却 した ま ま成 稿し てし まう とい う︑ ある まじ き誤 りを 犯し てし まっ た︒ 怠 慢の 謗り を甘 受せ ざる を得 ない

︶︒ こ うみ てく ると

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