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近代日本における農民教育の遺産

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近代日本における農民教育の遺産

―和合恒男の生涯と行学―

宮 坂 広 作 はじめに

戦前の日本は、いちおう近代的立憲国家であり、資本主義社会であった。「いちお う」とわざわざ注をつけたのは、社会体制において近代性が徹底しておらず、資本主 義も十分発達したものではなかったからである。専制君主制ではなかったにせよ、天 皇制というのはかなり前近代的な性格をもっていた。明治憲法においては、天皇は国 家の絶対的主権者として統治権を有し、また軍事力を掌握していた。行政府は天皇を 輔弼し、天皇に対してのみ責任を有し、天皇の名において議会の反対勢力を圧服する ことができた。天皇制というのは、絶対主義的あるいはファシズム的な権力にもなり うる、非民主的な権力機構であった。その権力組織は、軍部を中心とする官僚機構で あった

天皇制の社会的基盤としての日本資本主義には、大きな弱点があった。明治期にい ちおう産業資本の確立をみ、近代的大工業の発展、財閥とういかたちでの独占資本主 義化が進行したにもかかわらず、重化学工業の発達は遅れ、地主・小作制のもとで貧 困に喘ぐ農民層が国民の大多数だったので、工業製品の国内市場は需要力を十分もた なかった。いきおい海外への輸出に頼らざるをえず、外国市場として独占できる植民 地をアジア、とくに大陸に求めることとなった。こうして日本資本主義は、はやい段 階から帝国主義的性格を帯びたのである。

「寄生地主制」と呼ばれもした地主・小作制度のもとでは、日本の農業は資本主義 的発達を遂げえなかった。工業の労働力需要が十分でなかったので、農村には過剰労 働力が停滞し、零細な農地の分割所有が困難だったから、「次三男問題」が発生した。

産業資本の成立期には、農村の娘たちが繊維工場の低賃銀・長時間労働者として、工 場主たちに利潤をもたらした。男子農村青年は軍隊の兵士の給源でもあった。初等普 通教育の急速な普及によって、農民兵士は従順かつ勤勉であり、近代的な軍隊での組

−1 7−

(2)

織的な活動にたえる能力をもっていた。ただし、初等教育修了で社会人・職業人に なった若者たちの学力向上のために、政府は青年補習教育制度をつくり、また初歩的 な軍事訓練を課しもしたのである。

農家に生まれた男の子のばあい、尋常小学校(いわゆる初等科)を卒業したあと、

高等科に進学できれば幸運であった。高等科には入学試験もなく、年限はたったの2 年間であったが、上農、せめて中農程度の家庭でないと子どもを学校にやっておく余 裕はなかったのである。高等科で成績の良い子には、師範学校へ進み、教員になる道 も開かれていた。官費の学校というのは師範学校以外にほとんどなかったから、師範 学校は農村の子どもたちにとって階層上昇の有効な手段であり、これによって日本の 初等教育界は資質のすぐれた教員を確保できたのである。

農民層から脱出できなかった少年たちは、実業

(農業)

補習学校というパートタイ ムの学校で普通教育の補習、公民教育、農業教育を受け、その傍ら青年訓練所

(1 9 2 6 年発足)

で軍事訓練を受ける制度があった。1

(昭和1 0)

年に上記の二つが合併され て青年学校となり、1

(昭和1 4)

年から男子のみ義務制となった。青年訓練所は、

陸軍省の管轄であり、第一次大戦の教訓に学んで、青年に対する軍事訓練早期実施を 軍部が望んだのであった。青年学校というのは文部省の所管であるが、その発足と義 務制化は、日本の軍国主義化・ファッショ化の反映である。なお、農村青年の社会教 育機関として青年団の果たした役割の大きさに注目しなければならない。これは村落 共同体の伝統的な生活習慣やイデオロギーを伝承し、社会人として体制内に同化して いく組織であった。補習学校

(青年学校)

への出席を督励し、団員の思想善導をはか ることが青年団の任務であった。

軍事訓練は別として、補習教育や農業教育がまったく無意味だったとは言いがた い。学力の維持や農業技術の習得は、青年たちにとってプラスになったはずである。

しかし、青年たちにとってもっと必要な教育は、地主・小作制を解消して、農業の近 代化をはかる方途について学ぶものであったろう。これは農業問題の解決をはかろう とすれば見やすい道理であろうに、農村が天皇制の社会的基盤であり、地主・小作制 こそは天皇制とパラレルな地域体制であって、家族国家観の涵養池であったから、こ れの改変には天皇制を変革するのに近い困難があった。

近代日本の農民教育を回顧して印象に残るのは、つぎの三つである。第一は明治前 期の殖産興業時代の農業技術教育であり、アメリカの大農法の導入を目ざした札幌農

−1 8−

(3)

学校の教育は、むしろキリスト教を中核とする西洋の文化の導入において成果をあげ た。この時期に注目すべきは、伝統農法の継承と普及の努力であろう。小農経営とい う枠の中で生産性をあげるための、種の改良や有機肥料による土質改善、深耕法など の技術が伝習されていったことが注目される。

ついで、明治末から大正初年にかけて、主として内務省の首導によっておこなわれ た「地方改良」運動の中での農民教育である。これは日露戦争の後遺症ともいうべき 地方農村の疲弊、資本主義の発達に伴う地主・小作制の動揺、教育勅語的道徳意識の 弱化などへの対策として実施されたものである。地方自治の重要性がさかんに喧伝さ れ、自治運営に積極的に参画することが奨励された。ドイツに模して農民の信用・販 売・購買組合を組織するような指導がおこなわれ、その日本的先蹤として二宮尊徳の 報徳結社が想起された。モデルとしての「模範村」が全国各地から発掘され、そこを 訪問することが農村青年の研修として奨励された

この時期に比べると、昭和初期の日本農業は、はるかに深刻な危機に直面してい た。第一次大戦中の好況と、戦後の反動恐慌、さらには関東大震災と復興景気を経 て、金融恐慌に見舞われた日本資本主義は、アメリカに発した世界大恐慌にまき込ま れ、不況のどん底に陥し入れられたのだった。農産物価格の極端な下落によって農家 の収入は激減し、食糧を生産する農家が飢え、娘の身売りによって急場を凌ぐといっ た惨状であった。政府は農林省が「自力更生」運動を提唱したが、これは農民に節検 と勤勉を勧めて、収支のバランスに努めさせようとする伝統的イデオロギーの宣伝に すぎず、農業問題の根本的解決に役立つものではなかった。だからこそ、満州国の建 設とそこへの移民という「大陸進出」策を強行せざるをえなくなったのである。

ただこの時期の農民教育として、きわめて特異なうごきが見られた。「塾風教育」

と一括して呼ばれるような、農村青年を対象とする教育機関で、民間によって経営さ れたものと公立

(府県立)

のものとがあった。民間のものはさまざまな名称が付され ていたが、公立のものは「農民道場」と呼ばれるのがふつうであった。民間のばあい は多様な思想的背景があったけれども、民間立・公立を通じて農本主義的傾向が顕著 であった。農本主義というのは、農業こそがもっとも尊重されるべき産業であり、一 国の大本だと主張するものである。農村社会の維持と繁栄なくして日本の存立はあり えないと説く点で、それは強烈な国家主義であり、日本は豊葦原の瑞穂の国だという 自負は、単なる農業立国論を超えて国粹主義的興農論へと高まった

−1 9−

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貧困の中で農業に絶望し、農民たることを呪咀している人びとの自信と自尊心を回 復するために、農業は経済的利益を追求するために営むものではなく、神への報恩、

人間的尊厳の確認のためにおこなうべきだと主張したのが、昭和初期の農本主義であ る。それは天皇制の思想と分かちがたく結びつき、天皇制イデオロギーを地域・生 産・生活において支える教説であった。反西洋・反近代・反都市を主張することで反 資本主義的傾向を示し、時には反体制的言動をしたのが、この時期の農本主義の特色 である。

塾風教育の指導者として、多様な人間が登場した。彼らは、概して既成の教育界で 成功しえず、既存の教育に反感を抱いている人物であった。従来の教育は西洋に追随 して日本人の魂を忘れており、いたずらに知識を偏重し、学歴を評価しすぎていると して、精神主義

( 「魂の錬成」 )

・実践主義

( 「黙々として土を耕せ」 )

を教育原理とした。

個人の栄達を求めることを非とし、国家・民族への献身を理想とした。こうした傾向 ゆえに、塾風教育とは右翼的・反動的な教育思想であり運動であったとみることは誤 りではない。事実、農民道場は農村青年を満蒙開拓義勇軍=武装移民として送り出す ための訓練機関であった。農本主義は超国家主義の一要素であり、塾風教育とはファ シズム運動の一翼であったと言えるであろう。

そうだとすれば、そうした思想と運動を担ったひとりの人物――和合恒男――を、

わざわざ農民教育の遺産としてとりあげる意味はどこにあるのだろうか。そのことを 説明するために、かつて和合について書いた文章を再録することにする。それは本稿 執筆のテーマとモティフを明らかにすることに役立つと思われるからである

農本主義の教育実践

共生の教育の先駆者としては、三澤勝衛のことにふれるべきであろう。彼は、大正の末から 昭和十二年まで、長野県立諏訪中学校の地理の教師として独自の教育方法を編み出した。それ は、 「風土」という鍵概念のもとに地域の特質を発見しようとする、彼の地理学研究の成果と方 法が教育に適用されたものであった。彼は風土的諸現象(地文および人文)の法則性を発見し ようとして、観察や統計学的処理の重要性を主張したので、三澤のことを科学的精神の権化の ように尊崇する人びとが多い。

しかし、彼は科学万能のイデオロギーをもっていたわけではなく、科学技術による自然征服 という考え方には反対していた。むしろ自然と調和して生きること、自然の恵みを最大限に活 用し、自然に感謝して生きるべきだとした。人間の生活にとって不利だとされてきたような地

−2 0−

(5)

理的、自然的条件を新しい発想で見直し、風土産業を振興すべきだというのである。このよう に、彼は自然と人間の共生をすすめる注目すべき教育実践者だったのであり、本稿でも多くの 紙幅をさいて彼について語るべきであるが、すでに拙著で彼の業績と人柄を詳細に記述してい るので、ここではくり返さない。

その三澤勝衛について、昭和の初年に長野県でさかんになった新興教育・教労(マルクス主 義の反体制教育運動)のグループは、 「反動教師」という罵倒を浴びせかけた。三澤が社会科学 的(マルクス主義的)分析を避けて、もっぱら自然的条件の利用による技術的改善策ばかり説 いている点を批判したのであった。三澤を反動呼ばわりするのは、まったく的はずれである。

教労派が三澤とともに批判のターゲットとしたのは、和合恒男であった。彼は松本で農本主義 の学塾を開いており、一種の農民運動をしたり、大陸開拓に積極的に関与していった人物であ るから、反動というなら、彼こそまさにその名に値したといえよう。

和合のような人間を共生の教育の先駆者のひとりと見なすと、右翼反動・精神主義・非合理 主義・ファシズムに迎合するのが共生の教育なのかと、新興教育・教労の末裔グループから批 判されそうである。もちろん筆者は、彼やその他の農本主義者の思想や実践のすべてを容認し ているわけではない。それどころか、彼らの主張の多くについて批判的である。しかし、だか らといって彼らを全面否定しようとは思わない。たしかに彼らは反動的であったが、実はうし ろ向きながらかなり痛烈な近代主義批判者だったのである。その一面だけで言えば、当時のマ ルクス主義者よりも、はるかに前向きだったとさえいえるのである。

和合は、松本中学・松本高校を経て1 9 2 5年に東京帝大の印度哲学科を卒業した。在学中法華 経に親しみ、妹尾義郎と親交している。大学在学中から長野県の中学校や高等女学校の教師を 勤めたが、加藤完治の日本国民高等学校に学び、それを模した瑞穂精舎を松本市郊外に建て、

日本精神と法華経信仰を軸とした農本主義的教育を行った。

このように、つよい信仰と個性をもった人びとによって、反近代教育・反都市文明という点 では、反体制的なニュアンスさえもって建設された塾風教育が、やがて県立の農村青年訓練機 関たる修練農場・農民道場としていわば公教育化され、また農業学校・青年学校の教育原理と なっていく過程は、日本教育のファッショ化のプロセスとして周知のとおりである。加藤らの 塾風教育は、そうした過程を導き出した先駆的実践として、十分批判されるべき対象である。

その反都会としての反近代主義、反西洋としての国粋主義、反階級的差別としての天皇制へ の思い入れなど、農本主義的塾風教育の過誤についての批判はきちんとしなければならない が、そうした批判の作業は困難な仕事ではない。マルクス主義的なステロタイプな批判でも、

十分目的は達せられよう。むしろ困難なのは、その反資本主義的・反近代主義的志向の評価で ある。右翼ファシズムが反資本・反権力のポーズをとり、民衆の同調を得ようとした見えすい た手口は、ナチスの国家社会主義のデマゴギーがもの語るところだという解説は、正論であっ たとしても事柄の深部にいたる認識とはいえない。

−2 1−

(6)

ナチスの領袖とはちがって、加藤や和合は、自ら農業労働に従事し、求道に熱心であった。

自然の恵みに感謝し、質素な生活に甘んじ、言説よりも実践を通じて青年たちに感化を与えた。

和合が単なる非合理主義者や観念右翼でなかったことは、彼と江渡狄嶺との交遊が暗示してい る。加藤も橘孝三郎も、戦後なお天皇制イデオロギーから解放されず、自己変革を貫徹するこ とができなかった。しかし、加藤が戦後も農薬の使用に反対しつづけたという信念は、その自 然への基本的スタンスから発するものとして、十分注目されるべきである。

1.和合の生涯

少年期から青年期迄

和合恒男は、1

(明治3 4)

年5月10日、松本市近郊の本郷村横田に生まれた。父 平作は蚕種製造と販売を業としていたが、事業はあまりうまくいかず、苦労性の母親 は家業・家計についていつも心配していた。和合はあまり丈夫な子ではなく、体も細 身であった。

(明治4 1)

年に本郷村横田小学校に入学したが、3年生のとき松本市田町小学 校に転校した。この学校に小林謹一という教師がおり、和合の級担任ではなかった が、朝礼のときの大きな声での号令や、大変きびしい先生だという友人たちの噂で、

和合に深い印象を与えた。1

(大正2)

年、6年生のとき母米美が死去した。少 年期に母を失ったことは、当然和合の心境に大きな影響を与えたと思われる。彼の中 に深く宿した寂寥の感情と人恋しさの淵源であったろう。彼には姉と妹がいたが、姉 が母代りをつとめた。

(大正3)

年、松本中学校に入学した。家計の苦しい中、和合が中学校に入れ たのは幸いであったが、学費を補うために米穀問屋でアルバイトをしたこともあっ た。同級生の倉下徳永・上條憲太郎が親友であり、「相談会」という名前の生徒会の 会長が倉下で、和合は副会長であった。後年、この頃を回想して和合は、倉下が会計 の端のことまで始末する細心実直な人柄だったのに、自分は「大事な急所とおもへば 力こぶを入れるけれども、事務をおこたるかたむきがあった」と述べている。松本 中学は創立以来、校長の方針で生徒自治が校是とされ、授業以外のことは相談会に よって運営されていた。

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(7)

(大正8)

年に中学を卒業すると、和合たちは松本高校に入学し、ふたたび文 科甲類の同級生となった。高校に入学するまでの4ヶ月間、和合・倉下は小学校の代 用教員を勤めた。学費の乏しいのを補おうということもあったろうし、受験勉強をす るのに良い生活条件でもあった。当時の高校受験生にはこのコースを通った者も多 く、不幸にして受験に失敗すれば、代用教員生活が1年以上続くこともあった。代用 教員時代、和合と倉下はたまに出あうと、教え子の話に熱中し、入学試験のことなど 念頭にないようなありさまであった。

それでも、和合たちが首尾よく高校に入れたのには、この年松本に高校が新設され たことによるところが大であったろう。高校はそれ迄、第一から第八のいわゆる「ナ ンバー・スクール」しかなく、明治末から大正初年にかけて、高校の入学試験は、難 関として知られていた。第一次世界大戦時の好況もひとつの要因になって、戦後に設 立地の地名を冠した高校が設立された。これについては、誘致を希望する各県・各都 市の激しい競争がおこなわれたが、松本市は大変熱心に運動を展開し、好條件を提示 することで誘致を実現した。県下中学校からの入学者が過半を占め、とくに松本中学 からの入学者が目立った

第一回入学生には、多くの英才がいた。文甲には工藤友恵

(諏訪中学・大阪建物社 長)

・野々山広三郎

(松本中学・サッポロビール社長)

・堀秀彦

(明治学院・東 洋 大 学 学 長)

・宮崎市貞

(飯山中学・京大教授)

、文乙には白井二尚

(松本中学・京大教授)

・桜井 和市

(野沢中学・学習院大学教授)

・望月市恵

(松本中学・信州大学教授)

などがいる 校風確立のために第一期生は努力したが、新時代にふさわしい校風をつくることは容 易ではなく、ストームや寮雨のような旧制高校的悪習を克服できなかったようであ る。

高校時代、和合と倉下は変わらぬ友情でつきあっていた。倉下が渚の義兄の家を宿 としていたので、和合はしばしばそこを訪ね、話し合った。日蓮の遺文を読んでいっ しょに感泣することもしばしばであった。日蓮や法華経にどちらが先に接近したのか わからないが、おそらく和合だったろうと思われる。和合は、1

(大正8)

年に妹 尾を東京に訪ね、その宗教的人格に深く傾倒しているのである。和合が授業料を納め られなかったとき、倉下の学資も乏しかったのに10円を工面したということもあっ た。

和合は高校で学ぶことに疑問をもつようになり、3年生の秋、「修業のために」と

−2 3−

(8)

いう理由で和田村小学校に勤めた。二学期末・三学期末の試験に当たって、倉下は ノートを和合に貸した。和合は夕方から倉下のところへ出かけてすぐ眠り込み、倉下 は夜半までにノートを調べ終えて寝に就く前に和合を起こし、和合はそれから必死に 丸暗記するとういやり方であった。朝になると、暗記ができなかった部分の概要を、

和合は倉下に聴いて試験にまに合わせた。倉下は、快く和合を援助した。和合の方 は、学校をやめてもよいと思っていたが、卒業できれば父がどんなに喜ぶかと思い、

倉下の好意に感謝していたのである。

和合は人間の生きる意味を求めて、読書や思索にふける高校生であった。当時は真 理を探しあぐねて彷徨する青年が多かったのだが、和合のばあいは高校生になってま もなく日蓮主義の信仰をもった。もちろん、それで安心立命しえたわけではなく、不 安や苦悩をのりこえて信仰をさらに深めるべく、「生きる仏」にまみえて指導を受け ようと熱望した。妹尾義郎こそその先達であり、和合は妹尾に現代の聖者を見いだし た。青年期における和合の人間形成にとって、妹尾との交流はきわめて重要であった から、これは節を改めて書くことにしよう。

松本中学では柔道部員だった和合は、高校では弁論部に入った。部長の鈴沢寿教授 の人格に憧れてのことであった。鈴沢は禅に熱心で、和合も禅に親しむようになっ 。高校在学中、蚕種製造の失敗から実家が破産し、本宅を売る破目になった。前 述した、授業料が納められなくなったのも、和田村小学校に勤めたのも、このことが ひとつの理由であったろう。そんな経済的窮況にあった和合が、東京帝大に進学する には多くの困難があったであろう。日蓮主義青年団の本部である若人社に舎生とな り、団の仕事、機関誌『若人』の発行を手つだった。

アルバイトの必要からであろう、ある商店の店員たちの夜学の指導に当たったり、

某華族の家庭教師に住み込んだりしたが、現代文明の象徴である都会の文明の頽廃を 嫌悪し、かつ大学の授業の無意味に悩んで、田園で農夫の生活をしようと決心し、

2年の秋、長野県下伊那の農村の代田鐘応のところで「寺男兼作男」の生活をおこ なった。代田の子息、文誌とは青年団の夏季事業としての鎌倉の「楽園」で知り合い、

意気投合して以来終生の友となった。文誌は、皇漢医学の権威でもあり、和合は彼に よって心身共に癒されたのであった

(大正1 2)

年4月、和合は帝大在学中のまま、野沢中学の教員になり、国語・

漢文・英語を教えた。野沢の本新町に、10・8・6・6・4・4・2疊に加えて十数

−2 4−

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疊大の勝手場が付いているという大きな百姓家を借り、中学生と自炊生活をした。玄 米食で、豆や馬鈴薯や大根を煮つけ、そのできばえに喜んで「大芸術だ」と自評し、

雑巾がけもすがすがしい心持ちでやる日々であった。登下校の野路で雲の変化をおも しろがり、校庭の柳が金色に輝くのに目をとめ、落葉松の芽ぐみ、雲雀のさえずり、

青草のそよぎ・きらめきに感動し、「この越人境。詩の國よ」と嘆賞した。

中学校では、昨日の授業で弛みが見えたので黙って睨めつけた生徒が、今日は元気 がないのを心配し、やさしい質問をしてやったら活き活きとしてきた、と喜ぶような 教師であった。「あれは悪い生徒だ」と教師がきめつけることから、生徒が悪くなっ ていくのだとし、生徒を信じることに徹した。「不良」の生徒たちは和合の家を訪れ、

泊まっていったが、和合は彼らを「皆面白い青年」だと評している。和合は、学校の 授業はおもしろいと書き、また教材も大事だと書いている。

同僚の教員たちと、教育論をやる折には、「単なる受験準備のための頭の教育をさ けて腹の力を養いたい」という持論を述べた。先生の体面だとか、学校の体面だとか いうことにどれほどの価値もないという考え方である。このことで、校長としばしば 激論した。「試験合格の花に眩惑された近視的な努力よりも、毎日の勉強をぢみに続 けることによって人格の根底を培ふ方がよっぽど実力を増す」と主張し、校長は校長 の思うようにやればよい、自分は自分の信ずるところをやって、この問題の解決を実 践的につけようと言い放ちもした。彼は、すべてのことは「真人間になれ」に帰結し なければだめだと考えており、毎日をかけがえのない人生の一部として充実させなく てはならないと思っていたのである。

和合は野沢中学の教員をしながら、1

(大正1 4)

年、東京帝大の印度哲学科を卒 業した。卒業論文のテーマは「日蓮主義の研究」であった。翌年、長野高等女学校に 転じ、専攻科の担当となった。国語・英語を教え、古事記や万葉集を講じた。この夏、

上田市大輪寺の明徳会大接心で釈大眉の指導を受け、帰ってから市内狐池に和合庵を つくり、教職の傍ら只管打坐の生活を送った。翌年の正月、沼津の大中寺の接心で坐 禅の工夫三昧の中で鴬の声を聞き、庭前の梅花を見て開眼するところがあった。

農本主義の実践

(昭和2)

年3月、和合は結婚すると同時に長野高女を辞し、茨城県友部の日 本国民高等学校に赴任した。教師兼生徒となり、国典を講じる一方で農耕について学

−2 5−

(10)

んだ。7月、夫婦して信州を行脚し、上田で接心会に参加したり、木喰上人の彫刻を 尋ねて身延山に詣でたりした。このかん、青年団の同志のところに泊まり、塾風教育 の道場をつくる場所を探したのである。

(昭和3)

年2月、和合は信州に旅行し、丸山岩雄(松本法華会幹事)・代田文 誌とともに波多村を訪れて、瑞穂精舎建設の場所をここと定めた。3月に友部を去 り、丸山の出資によって県有地を借り、赤松林の中に、60坪の塾舎、畑1町2反、田 5反5畝をつくり、6月22日に落成式をあげた。祝賀の行事として、和合の創作した 宗教劇「周梨槃得」を上演し、和合や代田が演技した。妻柳子は2月に日本国民高等 学校で長女を出産したが、産後の体調が良くなく、6月まで実家で静養していた。創 業の苦労を、和合ひとりで担わざるを得なかった。和合はこのかん、松本師範で非常 勤講師として哲学概論を講義した。

(昭和4)

年5月19日、瑞穂精舎の開舎式をおこなった。第一期の舎生は8名 であった。翌30年2月28日に卒業式をおこない、卒業生は6名であった。この年4月 には、新興仏教青年同盟のことで妹尾義郎と断絶し、以後、社会問題・農業問題につ いて鋭意研究し、独自の運動のみちを見いだすべく努めた。この研究のため、ほとん ど農場に出ず、一室に篭ってひたすら読書と思索に耽った。

(昭和6)

年の第二期卒業生は、5名であった。2月には代田と計画してきた 月刊雑誌『百姓』を創刊し、8月には日本農民協会を結成し、農民運動を始めた 9月、友人たちの反対を押し切って長野県議会議員の選挙に立候補し、善戦したが落 ちた。1

(昭和7)

年の第三期卒業生は、8名であった。この年、日本農民協会 代表として、長野朗

(東京農村新聞社)

・稲村隆一

(新潟全国農民組合)

・橘孝三郎

(茨城 愛郷塾)

らと連携して、三ヵ条請願運動をおこなった。左右連合しての請願であった が、その第三項に「満蒙移住費五千万円補助」があげられている

(昭和8)

年の第四期卒業生は、8名であった。この年起こった五・一五事 件に対する国民総懴悔の祈誓祭を明治神宮でおこなった。3

(昭和9)

年は、農民 協会関係の活動が主であった。3

(昭和1 0)

年9月、県議会の選挙にふたたび立候 補、このたびは当選した。しかし県議会での活動で健康を害し、右肺浸潤という診 断を受けた。県会後、病臥して1

(昭和1 1)

年には病小康となったが、県営電気 の問題や農民協会のしごとに奔走し、二・二六事件の勃発に衝撃を受けたこともあっ て喀血、絶対安静となった。この年は舎生3名だけを入れ、舎務と農場は第二期卒

−2 6−

(11)

業生の磯部正義が担当することにした。『百姓』の方は35年以降第一期卒業生の東城 四郎が担ってきた。和田村の故小林謹一の旧宅を譲り受けて塾舎の傍に移築し、県会 も休んで療養生活をおこなった。療養費は、鈴沢・代田のあっせんで『和合文叢』を 刊行することでまかなわれた

(昭和1 2)

年には病が軽くなり、和合は天理教の「ひのきしん」にヒントを得 て、毎日一首以上の歌を神前にささげる「歌きしん」をおこなった。3月には代田

(長野市)

を訪ねて一泊したり、横田で両親の墓に詣でたりするところまで回復し た。この年には周囲の反対を押しきって舎生2名を入れ、自ら麦踏みをしたり、4月 以降は諏訪・甲州を経て東京・千葉に旅行して旧友を訪ねたりした。伊勢・大和への 旅行に10日間出かけて、5月には床上げ祝いができた。『百姓』の編集に5月から当 たり、磯部出征のあとの農場の経営を担い、県会にも出席し、発言した

(昭和1 3)

年には、農民協会のしごとのために県内外を旅行し、舎生を伴って 農村行脚をした。このかん、1月16日には長野県立図書館で、日本農民連盟の結成 大会が開かれ、日本農民協会もこれに参加した。4月、大陸の留学生を入舎させる ことを思いつき、募集に着手した。現地当局・大使館・卒業生現地在住者の協力を 得て、満州から13名、朝鮮から5名の留学生が入舎し、日本人舎生2名と共に「協和 教育」を受けることになった。

(昭和1 4)

年元旦から、舎生をつれて国内行脚に出、節分に帰舎したのち、2月 3日から舎生12名を故国に送るべく、鮮・満・北支・中支への旅に出て、4月半ばに 帰舎した。本年度の入舎生は、満人6名・中国人2名・鮮人1名・日本人2名で、

ほかに2年目の在舎生がいた。4

(昭和1 5)

年度の新入舎生は20名で、4

(昭和1 6)

の卒業式直後に寝つき、呼吸困難となり、医師の診療を受けて一時快方に向かった が、その後病状はしだいに悪化し、5月16日朝冥目した。その死に先立つ5月10日、

誕生日に床から起き、舎生らに贈る色紙20枚を書いた。「従来四十年 愧我多偽瞞 爾今四十年 更生天眞道」という絶筆に、「辛巳誕生日 天眞童子」と署名した。不 惑の年齢に達して、童心回帰を願ったということであろう。

−2 7−

(12)

2.和合恒男と妹尾義郎との交遊

大日本日蓮主義青年団の時代

妹尾義郎の存在を和合がどうして知ったのかは、明らかではない。和合が初めて妹 尾に会ったのは1

(大正8)

年4月9日のことで、この日和合は友人の松本師範生、

加藤正一を伴って妹尾を訪問した「日蓮主義を共に談じて一夜を送」った。妹尾 は、「多少の縁ならん」と日記に誌したが、この出会いをそれほど印象的なものとは していない。和合はさっそく妹尾の主宰する大日本日蓮主義青年団に加盟した。翌4 月6日にも和合・加藤は妹尾と法談をおこない、妹尾の揮毫を求めて辞した。この 日、妹尾は「何となう物淋しくて堪へ難し」という心境で、雨天のせいもあったろう が心晴れなかった。

4月15日、加藤から妹尾に書信、17日には和合がハガキを妹尾に送った。妹尾はこ れらにただちに返信している。4月24日には、妹尾から和合に青年団趣意書と履歴書 を送った。それらは和合から申し入れたものと思われるが、和合は妹尾を講師として 招請することを考えていたのではないだろうか。5月3日には、長野師範の生徒、高 見沢新作が妹尾に書簡を送った。これは加藤の紹介によるものと思われるが、妹尾 は、「未知の信友の情誼うれしくもあり、又省みて恥しさも覚ゆ。徳足らざる身を思 えば涙流れ落つるも是非なし」と感激している。7月26日、加藤と高見沢が「佐渡聖 地参拝記念絵葉書」を妹尾に送った。

(大正9)

年の8月12日、和合はこんどは中学生と共に妹尾を訪ねた。彼はこ の頃「父なる御仏」を目のあたりにしたいという熱望を抱いており、その願いが遂げ られないのは自分の願望がほんものではないからだと反省していた。「暮れ行く空の 雲の色、有明方の月の光、眼前に聳ゆる山膚、足下に乱れたる草花、気高い美しさを 持った女、清い情に充ちた男」などの発する力にハッとし、魂の歓喜踴躍をおぼえ、

眼に仏の姿を見ることができても、それが永続せず、外物に支配されて、自己の心中 に決定した見仏の念がないことに和合は悩んでいた

この淋しさに耐ええない心から、和合は旅することに決した。見仏の念を形成する ための修養の旅である。当然、妹尾を再訪した。案内した書生は、和合たちについて

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(13)

問いただすこともなく、心安く妹尾のいる二階に導いた。「やあ、よくお出でしたね」

と、妹尾が歓迎してくれただけで、和合の喜びは絶頂に達した。

S

さんの顔、その 優しいえくぼ。胸に輝く日蓮のマーク。この美しい人情に觸れた時、私の眼には御佛 の姿が映じた。何といふ嬉しさだらう。家にゐて不思議に思った種々の疑雲は忽ち消 えて、佛の光は私をすっかり包んで下さる」といった感激ぶりである。若人社の青年 たちの話を聞いて、その熱烈な信仰ぶりに敬服・憧憬し、最後まで美しい信仰に生き た少年の死の話を聞いて落涙した。妹尾の方もこの夜の話について「愉快であっ た」と日記に書いている

一泊の後、和合たちは鎌倉を訪ねて日朗の囚われていた土牢などの旧蹟を見てまわ り、ありし日の日蓮のことを偲んだ。ついで、箱根の山越えをして沼津に泊り、伊東 へ出た。途中、冷川で見ず知らずの家を訪ねて一夜の宿を乞い、歓待された。伊東へ 二里というところで日没となり、足弱の中学生が速く歩けないことに配慮してのこと であった。通りすがりの老人に、「この辺で一番金のある、よい人の居る家は何處で すか」と尋ねて、その家の門に立ったのである。去年から夫と父親とが相ついで死 に、自分も馬車の事故で崖から落ちて大けがしたばかりだという女主人と家族は、あ たたかく迎えてくれた。和合は縁の不思議さに感じつつ、「御佛の慈懷に抱かれ、恵 まれた眠」りに入った。

この年の12月12日、妹尾は和合あてに手紙を出しているが、同じ月の26日、和合が 上京して統一閣に一泊した。しかし、和合や他の人たちの来宿について、統一閣の関 係者のあいだで反感をもつ者たちがいたらしい。妹尾は、宗教を論ずる者として恥ず べきだと怒っている。29日には、妹尾は和合・上條・小池と共に明治神宮に参拝 し、武蔵野の青年団寮に伴った。同夜は4人で統一閣に泊り、翌30日には一同で車坂 の簡易食堂に行き、朝食を攝った。その際の妹尾の一句は、「簡易食堂に浮世を味ふ や年の暮」であった。和合は正月に入っても統一閣で過ごした。食事は上記の食堂で 攝ることにしていたが、ある朝、貨物駅夫の汚い法被を着た労働者と同席したとこ ろ、彼はなかなか食事を運んでもらえず、憤ったり諦めたりする哀れな姿を見て、和 合はおそれや同情やつよい印象をもった

1年の7月28日、妹尾は甲府での伝道活動を終えて、松本を初めて訪れた。佐藤 という学生が同車し、妹尾をもてなした。丸山岩雄が出迎え、妹尾は中学校で講演を おこなった。三村校長が開智小学校を案内し、その「古雅」は妹尾に忘れがたい印象

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(14)

を与えた。午後、丸山の家で二、三の人と談笑していると、和合が訪ねて来たので、

妹尾はたいへん喜んだ。和合はその時の妹尾の印象について、前回会ったときよりも

「少しやつれた様ではあるが本質的な表現は相変らず柔和質直と光明に生きる大きな 力」を表していたと記している。和合はただ嬉しく、「矢張りすべてを超えて絶大な 仂きをなす永遠の光は人格だとの歓喜に充ちた信念」が、胸の内に燃えあがった。

夜は、公会堂を会場として、妹尾が「光明の人生」と題して約2時間、清水龍山が 2時間半にわたる熱烈な講演をおこなった。和合は、そうした講演を聞く能力におい て自分が成長していることを感じ、喜ぶとともに「家のことや苦しい人々を思へば、

済まない気がした」と書いている。実は、和合の父は仕事上のことで借金をかさねて おり、その父のことが旅行中の和合には「京都でも比叡の山でも琵琶の湖でも、絶え ず心配の種であった。家では蚕を飼っていたが、手伝いに来ている人たちはやせて骨 と皮ばかりになっており、妹の

もこけてきた」ように見えた。皆が生命を傷けてま で仂いているというのに、「のんきな気分で旅をして金を使ひ家をあけた自分が馬鹿 げて見え」、帰宅後は力の限り仂いて罪亡ぼしをしようと思った和合であるが、妹尾 が来松していることを耳にしては、矢も盾もたまらず、妹尾の「快いリズムを持った 人格の波に浸」って、くだらない悩みなど克服したいと、丸山邸に駆けつけたので あった。

翌29日、日蓮主義講習会がおこなわれ、内容は午前中が清水龍山の「開目鈔講義」、

午後は妹尾の「思想問題と日蓮主義」と題する講演であった。夕刻、青年たちが丸山 に招かれ、「本化会場」で30名ばかりが話し合いをし、何人かが日蓮主義青年団への 加盟を申し出、支部を作ろうということになった。和合はそのことを深く喜びつつ、

積極的にイニシャティブをとれない自分の性格の弱さに悩んだ。

7月30日、妹尾は和合・唐木昭雄と共に伊那町に赴いた。小学校を会場に妹尾と和 合が話をした。聴衆は少なかったが、眞摯な気分がみなぎり、妹尾は「快よき会なり き」と書いている。夜、午前中の聴講者に誘われたらしく、農学校の生徒が60名ばか り旅館を訪ねてきた。妹尾・和合はたいへん喜んで若者たちに話をした。その夜は、

妹尾・和合と伊那の

の3人で泊った。

翌日の早朝、伊那を発って松本へ帰った二人は、千葉医専の学生や中学生2人と共 に日本アルプスに登った。有明停車場で降りてから、中房温泉まで歩いて泊まり、翌 8月1日に燕岳に登り、大天井岳から開いたばかりの喜作新道を通って鎗澤小屋に泊

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(15)

まった。一枚の布団に4人が寝るという一夜で、寝不足のままに一同は槍ヶ岳に登頂 し、記念撮影と唱題をし、上高地に降りた。3日には、徳本峠を越えて昼に島々に出、

一時には丸山宅へ帰着した。妹尾は夕刻発の列車で東京に戻った。和合は妹尾を駅ま で送る途中、妹尾から「青年団や晴明会のことを頼みます」と言われたが、またまた

「自己の弱さを痛感してつらい」思いをした。和合にとって当面する課題は、家庭の ことや性の問題で動揺する自分の信仰を深め、確固として自立する自己を形成するこ とであって、他者の教化、正法弘通のことに取り組む余裕はなかったのである。

和合は1

(大正1 1)

年に松本高校を卒業し、東京帝大の印度哲学科に入学したが、

この年の夏鎌倉の楽園に泊まりこんで伝道活動に従事した。松本関係者も参加してお り、妹尾がかつて日本アルプスに登山したとき、登山のための洋服を貸し、親交する ようになった倉下徳永や少し遅れて市川雄吾も加わった。夜、海辺で和合・倉下らが 聴衆に向かって「真剣な絶叫」をし、それに涙する人もいた。妹尾は、「若い求道者 がその真実を吐露してゐる」全体の光景は大芸術というべきもので、「流れゆく兄弟 のあつい叫びをきいていると、自ら無我の境に引き入れられて、純真のみの世界が展 開する」と書いている。和合たちは、連日おこなわれた妹尾の法華経講義を聴聞し、

専門的知識はなくとも、「文句を離れ直感する釈尊の生命にふれ」んとする妹尾の経 典色読の姿勢に学ぶところ大であったはずである。

妹尾・和合らは松本行きのため8月23日に帰京したが、翌24日は暴風雨のため中央 線が不通となったので、信越線廻りで行くことになり、妹尾の他、和合・河野・高野 の一行4人が夜10時に池袋を発った。翌日の夜、公会堂で講演会がおこなわれ、和合 が開会の辞を述べ、妹尾は「仏陀を背負ひて街頭へ」と題する講演、ついで清水龍山 が「大乗時代の文化生活」と題する講演をおこなった。満堂の聴衆が謹聴し、妹尾は 和合の開会の辞について、「何だか力のある男性の気分がありありと見られた」と評 している。教化活動の経験も積んで、和合は以前のようにシャイではなくなったので あろう。八月末の数日間、妹尾は昼間は日蓮主義について連講し、夜は円乗寺に合宿 している若者たちを訪ねて語り明かしたり、中学校の道場で開かれた懇親会に参加し たりしている。8月30日に松本を出立、甲府を経て帰京した。

さて、この年の春東京帝大に入学した和合は、妹尾の主宰する日蓮主義青年団の合 宿所である若人社

(雜司谷)

に入舎した。庭の桃の蕾がはやくもふくらみ、信州では 見られない棕梠などが生えている暖かい東京の春に、新生活への期待をみなぎらせた

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(16)

和合であるが、大学にははやくも不満をもった。「大学の授業に蝕ませる生命が惜し くなること」があり、「屈竟な若者がはかない智識の城に閉籠って三年も暮らすのが 勿体なくてたまらない」という心境であった。根底のぐらついた文化生活では眞の幸 福が得られないのではないかという疑問を抱き、真実の人間として天地の間に徹底し た生活がしてみたいという願いがつよくなったのである。

現代の世の中にはあまりにも無駄が多く、隙だらけで、名や利や権にあこがれる青 年が多いことに驚き、妹尾と共に「さびしいなあ」と嘆声をもらす和合であった。妹 尾は、こうした世の中にあって、仏法の伝道をし、病人の力となって歩きたいと言う が、和合の方は「黙って百姓の仕事でも何でも手伝はせて貰ふ」ことに憧れる。しか し、家族、とくに父親のことを思えば学業の放棄もできぬと考え、ここしばらくは学 生生活に最上の精進を捧げ、なにものにもとらわれない眼で真実をはっきり見すえ、

魂の糧にしようという決意を、和合は姉のところへ書き送った

入学まもなく、和合はある富裕な商店主と知りあい、彼の謙虚な心に好意を抱き、

店員十数名の夜間教育を引き受けた。その後、某男爵家の家庭教師に住み込みで入っ たが、これは1ヶ月ももたなかった。華族の家庭生活が虚飾とぜいたくと不満とで非 人間的なことを認識し、和合はこの人びとが救われるよう力を尽くそうとしたが力及 ばず、退いたのであった。鎌倉の夏を前述のように妹尾と伝道活動ですごし、共に松 本に帰った和合は、秋以降大学には戻らず、「読まず書かずで仂らきながら心身の力 を養ひ、成仏道の上に一新生面を展かう」という考えで、信州伊那谷の代田鐘応の所 に住み込み、「食客兼半人足」の生活を送った。このかん、時には上京して若人社の しごとを手つだったりしたが、主に農作業に従事し、妹尾とも二、三度文通をした。

(大正1 2)

年3月27日に、和合への返書で妹尾は、「新寮の露台に立ちて北の方ふ りさけ見つつ君をし思ふ」「草枕旅にし行くも君が家に一夜ねる夜はたのしからま し」の二首を送っている。信州訪問の誘いに応じたのであろう。

3月31日、妹尾は夕刻松本着、和合・市川に迎えられて緑屋に泊まった。翌日、和 合・市川の二人と松本市内を散策し、人を訪ねたあと和合家を訪ねた。夜、近所の若 い衆たちを集めて、妹尾と和合で話をし、妹尾は和合の家で寝た。翌日は和合と池田 に赴き、登波離橋の見物をした。4月3日、和合は野沢中学に赴任するために妹尾と 分かれた。妹尾は、「此のよい君が遂にゆくのだ。何かしら物足りなさを感じる。野 沢中学に赴任すればきっとそこで何事か尊い下種をするであらう。この仏使、自愛せ

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(17)

よ、この仏使に幸あれや」と、和合の前途を祝している

夏休みに和合はふたたび鎌倉の海岸布教に参加し、8月15日には妹尾・倉下と宗教 劇「心の幸」を演じた。彼の役は、「村人その二」である。妹尾は8月23日に甲府か ら松本に倉下と共に向かい、夜、「野沢閣下」と公会堂で講演した。妹尾の在松中、

和合は任地の佐久にいて、野沢中学の生徒たちと「修道会」を組織し、その発会式に 妹尾が出席するよう懇請した。妹尾は8月30日に松本から中込へ向かった。野沢中学 で一番腕白な、退校を命ぜかけられた少年が、先ごろ鎌倉の夏の楽園に来てすっかり 改心したのに再会し、妹尾は喜んだ。翌日から修道のプログラムが進行し、4時に起 きての坐禅に妹尾もつきあった。どういう事情があったものか、和合は突然松本に行 くことになり、妹尾は篠の井まで同車し、そこで別れて長野市に赴いた。

その翌日の9月1日に、関東大震災が起きた。その報せを聞く前に妹尾は長野を出 立し、約束に従って池田で数人の娘たちに信仰談をしていたとき、グラリと来た。東 京から遠く離れた信州でも、かなりの揺れだったらしい。9月2日、劇の練習中に東 京の惨状を知った妹尾は、急ぎ上京した。

和合は9月1日の夜、市川と共に池田の妹尾を訪れたが、関東大震災の報を聞い て、勤め先には無断で東京に出て、救援活動をおこなった。日蓮主義青年団の救護班 をつくり、救恤に尽力したのである。野沢中学の方は、無断欠勤一ヶ月に及んだ。

(大正1 3)

年1月8日から21日まで、妹尾は池田町・和田村・入山辺村などに 滞在したが、この時は和合と会っていない。22日の夜に岡谷で講演し、そのあと上諏 訪の旅館で岡谷の人たちにご馳走になった。上諏訪には、日蓮主義青年団の関係者が いなかったのであろう

9月27日に妹尾は長野を訪れ、重病の床にある友人を病院に見舞い、28日には午後 若人の会に出席、夜は公開講演をおこなった。若人の集いは盛会で、市川・和合も話 した。妹尾は和合について、「いつあっても気持ちよい男だ」と、日記に書いている

39。和合は妹尾に会うために、佐久からわざわざやってきたのである。公開講座は市 川の司会で盛会であり、和合も「よい話」をし、妹尾は「人生の根本問題と日蓮主義」

について語った。年末の24日、和合が上京して寮に泊まり、倉下も訪れたので、妹尾 たちは3人で豚肉をつついて語りあった。翌29日は妹尾・和合・石井で終日語り、夜 は伝通院の偕楽園で上田家の店の忘年会が開かれたのに招かれて3人で行った。上田 家は、和合が帝大に入ったすぐあとに一時店員教育に当たった所だと思われる。この

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(18)

宴会でも、日蓮主義の人生観や実行形式などが熱心に語りあわれた。

(大正1 4)

年に妹尾と和合が会ったのは、11月21日、長野県の飯田であった。

妹尾はこれより先関西の教化行脚で健康を害し、信州行を中止しようと思ったのだ が、無理をして静岡から甲府を経て下伊那河野村に赴いた。ここでは和合が先着して いて、日蓮御遺文を騰写し、熱心に講義していた。妹尾は夜製糸工女を主な対象とし て話をした。翌日、二人は松本に向かい、里山辺の小学校で妹尾が講演した。11月2 日は入山辺小学校で妹尾が講演し、24日は松本高校のホールで有志学生と円座して語 り、さらに女子師範学校で1時間半講演した。そこへ和合と、和合の師である松本高 の鈴沢教授がやって来て、浅間の温泉宿で話しあった。25日、妹尾は錦部村の小学校 で上級生を相手に話し、午後は一般聴衆に講演した。26日は坂北村で講演をしてから 松本に帰り、28日午前は北信の若槻小学校で開かれた平坦部小学校教育会主催の講演 会で話をし、湯田中温泉に泊まった。翌29日、妹尾は和合と共に野沢の和合庵に赴 き、野沢の団員や教員たちと語りあい、夜は小諸で石井・和合・妹尾が講演をおこ なった。30日には、午前中女学校、午後野沢中学校で妹尾が講演し、夜も和合庵に3 人の先生と中学生が多数やってきた。12月1日には小諸女学校で講演し、夜は石井宅 で座談会がおこなわれ、青年たちがたくさん集まり、妹尾・和合・石井を囲んで話に 花が咲いた。この年12月30日、和合は上京していたらしく、上田宅で妹尾・和合らが 会食している

(大正1 5)

年1月初めにおこなわれた妹尾の甲府教化では、2日から和合・石 井・代田の3人が増穂村で4日まで支部講演会をおこなった。4日には妹尾も出かけ て、和合は午前中原始仏教について、夜は法華経と日蓮御遺文について講義し、妹尾 も夜の部で話をした。3月1日、妹尾は岡谷から松本に入り、和合も翌日佐久から来 た。しかし、和合は丸山・代田・平林と共に、「こんどの新しい試み、国民高等学校 の敷地下見方」に出かけた。妹尾は各地で講演して3月6日に松本を立った。このか ん、和合は行動を共にしなかったようである

この年の暮に妹尾・和合にとって盟友だった倉下が水戸で死去し、遺骨は市川が倉 下の郷里、坂北に運んだ。妹尾は15日、下伊那大島の小学校で補習学校生徒を主な 対象として講演、翌16日は河野村の小学校で4年生以上の生徒に話をし、17日には神 稲小学校で教員たちに講演した。これらの先約を果たしたのち、18日に坂北での倉下 の葬儀に参列した。和合・上條・市川・代田らも出席した。和合はこの年の春、野沢

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(19)

中学から長野高女に転勤していた。妹尾は翌日、長野の和合庵で午後は女学校生、夜 は師範二部生のために信仰談をした。妹尾は和合庵について、「この自然生活が羨ま しくてならなかった。雪に月、善光寺の空は美しい美しい浮きぼりのやうに見えた」

と叙述している

0日に和合庵でみそ汁と白菜の漬物に玄米飯をふるまわれたあと、妹尾は甲府に向 かったが、22日にはふたたび長野に戻り、和合に迎えられて和合庵に落ちつき、夜師 範二部生が多数訪ねて来たのと話をし、翌朝佐渡への旅に立った。

(昭和2)

年2月13日、妹尾は夜行列車で長野に向かい、翌日8時到着、和合 の出迎えを受けた。午後2時から女学校の裁縫室で有志の学生・教員2〜30名を相 手に講演した。この夜は和合庵に泊まり、翌朝は例の玄米食をいただいた。「くすぶっ た台所で関口君と三人でかきこむところがまた当代の稀観か。良寛和尚などの生活も しのばれる」というのが妹尾の感想である。妹尾はこの朝松本に発ち、16日には甲府 へ向かった。3月25日には和合恒男が青年団員の出浦柳子と長野市で結婚式をあげ た。妹尾は出席しなかったが祝電をうった。

この春、和合はたった1年間だけで長野高女を辞し、設立されたばかりの日本国民 高等学校に講師として赴任した。しかし、4月28日におこなわれた立宗会聖日・若人 寮建設記念日法要には、市川雄吾の司会で、和合恒男や妹尾が講演をおこなった。翌 9日には妹尾が早朝に発って信州に向かい、野沢高女同窓会で講演したあと、南佐久 の相木村などで講演をおこなった。9月21日に妹尾は、松本の女子師範の講演会に出 かけている。11月22日も松本の丸山宅で法華経の講義をし、翌日河野村で午後と夜の 2回講演したのち、甲府へ向かった。12月19日にも松本を訪れ、無量義経説法品の講 義をし、翌20日には甲府を訪れた。

初期の瑞穂精舎と妹尾の来講

(昭和3)

年に入ると、妹尾と和合とのあいだに少し隙間が生じるようになる。

この年1月2日、和合は妹尾を訪れ、信仰談をしたが、和合は妹尾に「忠告」し、妹 尾はそれを感謝すると日記に誌している。忠告の内容は不明だが、妹尾についての良 からぬ評判を耳にし、それをつたえたのではないかと、日記の行文から推察される。

妹尾は1月22日に松本へ行き、会染村の青年団員20名に2時間の講演をし、夜は丸 山家で法華経講義をおこなった。さらに23日には午前に神林村、午後に和田村で青年

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