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近代日本における教育農場の展開

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近代日本における教育農場の展開

その理念と実践に関する歴史的考察 1

一恵泉女学園の場合一

技術科(職業教育) 石 原 秀 志

       うな政治的社会的風土を母胎としてであった。しかしそ1.まえがき

の具体的な活動のあり方は多様であり,たとえば,それ 教育の場において,いわゆるく教育農場〉の存在なら  らの中でも顕著な動きとして知られる「八大教育思想」

びにその教育課程への積極的導入を通して,我々は,ど  自体,そのような状況の中で,創始者あるいは提唱者た のような学習効果を期待することができるかという点に  ちが,種々の模索と苦闘とを通して到達した体験的教育 ついて,主要な論点を,幾分かは明確にすることができ 観であった )

たものと考える魏勿論未だ残された問題点があること,  体験的ということは,実践的更には試行錯誤的な面を

接近方法についでもさらに考慮されねばならないという  もっていたと言うべきであるが,より一般的には,西欧

ことを念頭においた上で,上に掲げた問題一理念と実践  の新しい教育運動の大きな波が,種々の屈折を経ながら,

に関する歴史的な考察に立入りたいと思う。      その受け入れに必要な動きを示しつつあった日本の教育

       土壌にも押し寄せてきたということであり,その結果と2.近代日本における教育農場の展開

して,あるいはデューイの教育方式一Learning by およそ国民教育2)ということばはかなり多義的であっ  Doing一ならびにその影響下にあるドルトン・プラン

て,現在問題になりっっある生涯教育をも含めて,一国  などの土着化となり,あるいはペスタロッチやフレーベ の国民のあらゆる段階と形態とを含んだ概念であると言  ルを原点とする児童中心の,更にはルソーに始まる自然 えるが,近代日本の教育というとき,そこには所謂「学  中心の,人間形成それ自体を目ざした教育観の展開であ 制百年」ということばによって代表される封建制から新  ったり,また,北欧・ドイッ的な傾斜としての労作教育

しい体制国家へと転換していった明治期以降,いわば列  方式の具体化への努力であったりした。

強から見れば正しく後進国として位置づけられていた日  それらの試みの各々について,今詳しくふれることは

本の,近代化のための教育一ことに公教育に焦点をあて  できないが,我々の主題であるく教育農場〉的な教育の

るべきであろう。いうまでもなく,明治政府のとった政  場の形成や設置,さらにそれをカリキュラムの中に取り 策は,教育の場にも国家主義の徹底と,冨国強兵的なも  入れるという方式も,そのような流れの中から生れてき のへの傾斜というかたちで取り入れられたが,他方で,  た新しい教育改革のための努力として評価してよいであ 漸く国民の中に起りつつあった個の自覚と人格の完成と  ろう。

いう価値意識を重要な媒介として,所謂大正デモクラシ  今,〈人間のための教育〉の復権がさまざまな側面か

イとして評価される社会的存在としての国民の人権意識  ら真剣に模索されつっあるとき,「大正自由教育」の流 や階級意識の成長一それはすでに明治中期の民権思想の  れの中で展開された教育活動として,教育農場的発想を 高まりと政治的組織化の進行というかたちで徐々に形成  ふまえた幾つかの試みにっいて再検討してみることは,

されつつあったといえる一が,近代日本のナショナリズ 我々にとって,現代教育についての重要な反省と新しい ムの高まりや資本主義国家形成への動きに対する対応と  展望とをもたらす契機となりうるのではないか。

いうかたちで出現しつっあった時代であったρ)     そのような意図のもとに,現在に至るまで,その精神

「大正自由教育」とよばれる強力な教育改革運動が国  が活かされていると思われる代表的な事例として,河井

内の各地で広汎に展開されるに至ったのは,正にそのよ  道による恵泉女学園,羽仁もと子,吉一夫妻による自由

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190       茨城大学教育学部紀要 第25号

学園,ならびに特殊な教育機関ではあるが,留岡幸助の   の好きな三,四人の生徒が,種子や球根を植える手伝 創設による家庭学校における活動について,その足跡を  いをした。…・・植物を愛する心は社会事業を好む心と

辿りながら多少の検討と考競加えてみた、、と思う。  幾分関連があるかもしれない.・9)

本稿では,その最初として,恵泉女学園を対象として,  10年后,創設の時から責任をもっていたYWC A(基

その創設と発展について創立者河井道を中心に考察して  督教女子青年会)の専任者として津田塾を離れ,以来,

みたい。       国内,国外での忙しい活動が更に10年間に亘って続く。

1920年,スイスで開かれた国際会議に出席.戦争の傷痕

こ河井道における教育思想の形成とその       がなおなまなましく参会者の間に残っていることに身を 背景一創設への遍歴       もってふれ,平和への願いをさらに強く覚えながら,旅

河井道という名は,今は一部の人々にしか知られてい  に疲れ,重い心を抱いて旧知の住むニューイングランド ないが,戦后,教育刷新委員会がアメリカ側の教育使節  まで辿りついた時・そこでの豊かで恵まれた田園生活の 団との接衝組織として設けられ,占領軍の強大な影響力  中で・大戦后のヨーロッパことに敗戦国の人々の窮乏状 のもとに,新しい日本の教育のあり方について検討を開  況についての見聞と比べて・〈大地から産するもの〉か 始した時,婦人として参加した二委員(津田塾長の星野  どうしたら世界の人々に公平に分配されるのであろうか あいと河井と)の一人であったのみならず5!当時の占  という考えが,インスピレーションの如くに彼女を捉え 領政策に影鞭与えることのできた数少、・日本人の一人 たのである1°).

でもあった。       4.〈理想の学校〉への模索 彼女は英文による自伝的著書を二冊書いている。一つ

は創立10周年記念でもある1939年発行(づMy Lantern   1925年秋・河井は10年間に亘るYWCAの責任ある地

(日本訳1968)であり,今一つは1950年,彼女の死の三  位(総幹事)を退いた。彼女のうちに・自ら学校を創設

年前に出された Sliding Doors・である。     すべきときがきたのだという思いが一段と強められたか

1877年,西南の役の年に,伊勢神宮の元神職の家に生  らである。彼女が第一次大戦后の・更には関東大震災后 れた彼女にとつて,少女時代,家庭の経済事情のために  の・困難な国際間ならびに国内の諸問題に・置かれた立 一家をあげて北海道に渡り,函館次いで札幌で創設期の  場にあって為しうる最大の努力を傾けてきた間・日本で 北星女学校のミス・スミスのもとに学んだこと,更には  は,大戦后に備えての教育改革一臨時教育会議一が進め

蟹謬繕轄撫購繕姦講跳購管も灘禦熱奮欝㍊

東京での津田梅子との出会い,この二人の後援によって  構想した私立の学校が次第に増加しつっある機運にあり・

新渡戸と同行して1899年アメリカ東部にあるブリンモァ  成城学園や自由学園等はそのような動きの中で・大正自

好大学に留学当時のニュー.イングランド峨って 由鞘の実験の場として発足して・・た11).

いたフロンティァ・スピリットに親しくふれることを通   彼女の新しい学校への夢は次第に具体的な内容になっ して,彼女の人間的成長と深められたプロテスタント的  ていった・

教養に基づく教育者としての基礎は形成されていつたと    わたしの学校1それはどういう種類であるべきだろ

いわねばなるまい。       う。規定されているカリキュラムと共に,実践的宗教

1904年,留学を了えて帰国后,ブリンモアの先輩でも  教育を与えるかたわら・国際の勉強をその教育の具体 ある津田梅子が開設して間もない女子英学塾の教授とし  的な教科目とすることはできないだろうか。……それ

て迎えられることになるが8!その間,彼女自身の理想   からまた園芸はどうであろうか。日本人は自然愛好者

とする学校を自ら創設したいという構想が少しずつふく   であるといわれる。しかし一方・どんなに美しくても らんでいった。その間の経緯を彼女自身の筆によって辿   名の知れない野生の花を無視して・歴史的に伝統的に

れば,       たたえられているからといって,きまりきった花や鳥

学校(津田塾)の隣に空地があって,そのうち学校   だけほめそやすのは不自然な鑑賞の仕方である。どこ

が買うつもりでいた。それを見た時,私は,花壇にし  の女学校にも園芸科が・さもなくても簡単な花作りで

たいという熱望をおさえることができなかった。園芸   さえもとり上げていないというのは,おかしいように

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石原:近代日本における教育農場の展開一その理念と実践に関する歴史的考察1    191

思われる。しかし,ありふれたものの美しさを味わい, な状勢の中での有力なバック・アップはありがたかった。

懲鵬驚鱒欝ることば身も心構転と成長一専門学校の設立まで

このようにして,彼女にとっては,高等女学校の普通   翌年更に20名の一一年生を加えて,新しい校舎と校地と のカリキュラムに加えて,キリスト教と園芸及び国際の  を用意する必要に迫られたため17),苦心して適当な教 ような新しい科目をもつ学校を目標とすべきだという考  育の場を物色した結果,当時の府下千歳村現在の世田谷

え方が次第に強められていくのであった。そこには,人 船橋に,経営難から廃校となっていた女子商業学校を買 問教育の最も基本的なものとしてく人格教育〉とく労作 いとることを決意,思わぬ特志家の援助もあって,6ha

教育>13)と,そして〈平和教育〉という三本の柱の重視さ の土地と25・人収容の教室とを入手し得て,ここに漸く

れることの必要性を,第一次世界大戦と,関東大震災と 本格的な学園建設のための第一歩を踏み出すこととなっ

いう二つの大きな事件を背景にして,更には,やがて訪  た。必要な建物の増設と併行して,彼女自ら先頭に立っ れようとしている日本の軍事的膨脹を前にして,しっか  て,花壇造り,温室の設置,果樹の育成,庭園樹の植え りと見すえていた醒めた眼があった。現行の教育基本法 込み,草花の増植,というように,長いあいだ荒地のま 第一条がここでは,正に20年も前に,先取りされていた。 まに放置されていた校地は,漸次整備され,やがて見ち

      がえるような美事な教育環境へと変容していった。園芸翫設立準備から学園の創設まで

に適していることというのが土地選定条件の一つであっ 1926年,〈この種の課目〉の実際的な取り上げ方を確  たが,その点でも,新校地は申分なかった。彼女が幾度

かめるために,欧米の教育事情視察に出発,ペンシルヴ か夢みてきたく私の学校〉が,漸くこのようにして,実 アニア女子園芸学校を最初に,イギリズのスワンレー 現しつつあった1『!31年春の植樹祭は記念すべき第一歩

にある王立女子園芸大学の夏期講習会では10日間の教育  となった。

を体験し,ついでデンマークでは男女ともに農民の教養  数少いすぐれた国際人としての教養と体験とに裏付け の高さ・国民高等学校の精神や協同組合活動などに共感  られたく国際=平和〉の教育も,また熱心な信仰者とし

と感動を覚え,更にベルギーでも二っの女子園芸学校を ての歩みから生れる宗教的教育も,新しい教育環境を十 見学して14),第一次大戦后この国では女子が植物や土  分に活かした労作臨園芸的教育と相侯って,次第にそ

壌の問題に対する興味が高まっていることに注目してい  の真価が認められ1ジ彼女の理想とする女子のための中

る。〈国際〉の問題についても,あらゆる機会に各国の 等教育一開設6年目から,普通科5年の上に,更に2ケ l々の蹴の深さを確かめることができ,翌年春既に年の高等部が設けられて眈_力蒲く花開きつつあ禦。

経済恐慌に入り込んでいた日本に戻ってきた。       この労作・園芸的教育について,後に彼女は, その そのような困難な経済的環境の中で,一一ケ年の準備期 最初から私のハイ・スクールのカリキュラムの中に,さ 間の后に,1928年,いよいよ待望のく私の夢みる学校〉  さやかな園芸(gardening)コースが設けられたが,

の創設作業に踏み切ったのである。         若い少女たちに,園芸の技術(the art of gardening)

「学校の特色とは何ぞや」という文章の中で,彼女は, を通して,肉体的労働への尊敬と,自然に対する愛情と

藷高雲搬欝し欝宴孚撫饗鶏藻難麟爾 がこめられていたのである と述

的に教育すると同時に,未婚既婚を問わず,海外植民   しかし,彼女のうちには,さらに進んだレベルの園芸

地への渡航志望婦人,又職業として農園芸を専修せん 教育への願望が胚胎しつつあった。1928年の趣意書につ

とする女子のために,近き将来において農園芸学校を いてはさきにふれておいたが,より直接的な契機は,

も新設せんとするにあります 15)       1934年の経験であった。この年外務省の招待によって,

と書いているが,そのような夢をも託して,信仰と善意  100名を超えるアメリカ婦人園芸クラブの代表団が日本

との表白でもあるく恵泉女学園〉という名をもつ,生徒  の庭園見学のため訪れたのであるが,このとき案内にあ

9名,教師10名の小さな学校が,東京牛込の彼女の自宅  たったガイドたちは,訪れてきた米国の婦人たちと比べ

を校舎に改造して発足することができたのは1929年であ て,日本人でありながら,自分たちの国の庭園や植物に

った 6)津田塾やYWC Aでの教え子や友人たちの困難i ついての知識魁問題にならない程低いことを告白した

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】92       茨城大学教育学部紀要 第25号

のであつた・このことが微に大きな示唆を与えたので設立に必要な35万円(当時として1ま大金勢つた)の準

?驍ェ,さらに,今一つ彼女の少女時代の経験として,  備金を期日ぎりぎり迄に漸く工面した上で・文部省の責

札幌でミス・スミスによって喚起された個人的興嚇付儲を遂に欄させて・本邦最瑠女膿芸専門学校と

ッ加えられねばならない。ニュー・イングランドのパイ  して設立の認可が与えられたのは・敗戦の色が濃厚にな

オニア・スピリ・トに盗れていたこの姓は・花を撤・りつつあった1嚇3月のことで雪6た一働蜘后に

xリー類や野菜を植え,プリザーブ(砂糖づけ)を作り, はあの東京大空襲が控えていた中で・

ピックルズを作ることによって,若き日の彼女に,深い   ついで4月に・最初の一年生44名を迎えて・日本で最

影響を植えつけていたのである2噌      初の女子のための園芸(農芸)教育のための専門学校が

これらの二つの新旧の出来事が,彼女の学園に,園芸  発足する。5月に・彼女にアメリカ向けラジオ放送をナ 分野についての高いレベルの教育課程を設置すべきだと  る機会が与えられたが・その中で・この女子のための農

いう鰍蠣き起こさせたのである・    芸専P弓学校㎏「°う゜「t cu tu「a C§δ}ege鰍のこと

@しかし,実際問題として,当時の東京にある女子の学  にふれて・凡そ次のように述べている。

校では,実際的な園芸コースを,生活科(ホーム・エコ    そのような学校が・何故今必要なのか。日本の歴史 ノミックス)と結んで指導しうる能力をもった女子指導   以来・農業は婦人にとって尊敬すべき仕事 Ahon一 者を見つけることは困難であった。       oured occupation であるということを答えておきた

彼女は,唯一つの道として,若い有望な女性を留学さ   い。

せることを決意した。その結果,学園で英語を担当して   現在における実際面について言えば・我々の国民は・

いた一人の教師が選ばれて,1940年秋さきの海外事情   今までにない程の食糧を生産しなければならない……・

視察で熟知していたペンシルヴァニァにある女子園芸学   かくて・この専門的な分野で・農村や都市において指 校に留学することに決定,渡米したが,1年后の12月,   導者たるべき入物の訓練をする我々のようなカレッヂ

日本と米国との戦争突入によって,1942年夏,この若い   に対する非常な必要性ができてきたのである…… ・ 留学生は,卒業と共に交換船で帰国することになった一

@      Z戦后の改革と短大の発足

予定されていた諸外国における農園芸事情の見学や視察

は実現し得ないままに2?       8月15日が来た。平和は,日本が諸国民に与えた多大

間もなく,今までの高等科(英文科と家事科とからな  の犠牲と・同時に・空襲・原爆を含めて・日本人が蒙っ る)の中に,さらに園芸科を新設することになり,この  た少からざる破壊や犠牲のあとに実現したのであるが・

新帰朝の教師を中心として,1943年春新しく16名の園  間もなく彼女は・占領軍・ことにアメリカと日本とを平

芸科専攻生が3名の専任教師の指導の下に学習を始めた。 和裡に結合する上で・なくてはならない人物となった。

当時の方針では鯛必修塒間(各科共通)・コース選鶉戦后最初に米大使館をィた嚇彼女とその

@       協力者である一人の婦人であった。択12時間(園芸科の場合は作物,花卉,果樹等の13科目)

のカリキュラムが組まれ,拡張された校地の外に,3K  戦后日本の教育改革については・さまざまな評価を下

離れた畑80aを借入れて,本格的な農園芸教育が進めら  すことが可能であるが・その中で・彼女は・教育刷新委

れることになった26)       員会(后に審議会)の重要なメンバーの一人として活動

灘羅灘縢蕪毒垂灘罎灘磨難警鷲露橋購欝

更に飛躍を求めていた彼女は,文部省に対して,女子園   敗戦の結果,占領軍の管理下に移された旧日本軍の施 芸専門学校の設置を申請した。      設の相当部分が直接占領軍の利用するところとなったが・

戦況は次第に不利になり,物資は一層乏しさを加え,  同時に,かなりの敷地や建物が・戦災を受けた学校その 経済面から考えれば,このような設置計画の実現に対し  他の用途に向けられることになった。そのような中で,

て,四囲の状況は明らかに不利であり,申請が受理され  都下小平にある1日陸軍経理学校東校舎施設が転用可能性 るには,数多くの難関が控えていた。しかし,彼女の確  のあることを知って,その建物と敷地とを,発足間もな

信は益々強め鵬迫りくる空襲の鰍にしばしば自ら膿芸専門学校のため禾ll用すべく誘蔵省に転用の輔       当面,家を       46年5月,許可が与えられた。但し,の生命をさらしながら,遂にあらゆる困難を乗り越えて, をし・

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石原:近代日本における教育農場の展開一その理念と実践に関する歴史的考察1     193

失ったり,引揚げの結果一時居住者となった家族等の立  寮舎がある 全寮制の近代的園芸教育の場としての整備 退くまでには,相当の努力が必要であったし,さらに施  が実現し,略々完成の域に達している。

設の中の備品の相当部分が持ち運ばれていた。      現在では200名の学生が,農場での自発的な観察や実

整備は決して容易ではなかったが,とにかく,このよ  習を重要な学習の核としながら,併せて,園芸と生活と うにして,敷地15,㎜坪,建物6棟180(坪を含む全寮制  に関する専門的な学科目を,一般教育ことに人格の形成 の専門学校が,世田谷の仮校舎を引払って,独立の農園  ならびに国際理解に関係した教科を含めて学びつっある。

蒼惣難罵震再藩諜1鷲叢鰺嘗遮驚畿灘蒙薯を欝駝

繁裟馳欝に燃えた若人たちに鼠記繍を麟灘灘欝霧暴醜謹

その間の事情については, Slidi㎎Doors に詳し  や生産物の加工,生物学等を含めた学習によって,多方

いが,英文科(専門学校としての)第一期生である教え  面の分野に活動しうる卒業生が送り出されている。

子もまた,その時の苦心を, 水を小川で汲んで食事の   なお,世田谷にある女学園の生徒や,英文科の学生た 用に供し,まず井戸を,建物を,荒地を耕地に,寄宿を, ちのためにも,この都塵を避けた,自然と生産と生活と

w校を渓糊具を,一・と述べて、・る剥全校を挙が_体化された教育の場である伊勢原の園芸生活科の施

げての協力の下に・無から有を生み出すに近い苦労が,  設を利用する機会が与えられているが,ことに女学園の 肉体的,精神的,経済的に連続する日々であった。    中学校2年生全員にとって,毎年夏季一定期間ワーク・

世田谷の学園を本拠としながら・70才の老躯に鞭うつ  キャンプに参加,この園芸生活科で生活を共にし,額に て,彼女は週一度,日曜日の夕から月曜日にかけて,当  汗して勤労の尊さを体得する場となっている。

時の至って不便な交通事清の中を・2時間かかって,小   勿論現在も,世田谷にある学園それ自体,中学校では,

騨叢翻鍵藁灘:譲島農二蕪欝灘獣禁竃繍潔ξ1∵

ってくるという生活を続けたのであった。       キュラムが組まれていることも付記されねばならない。

 1950年,彼女自身,教育刷新審議会の中で短大制度に

@      9河井道の遺産=「恵泉」教育の現代的意義関して責任ある立場にあったが,47年に専門学校への昇

格を認められていた英文科と,園芸生活科とを含めた恵   創立者である河井道が世を去ってから22年が経過して

泉欝姿;驚麗轍議と量灘錨潤1驚雲驚灘驚甥灘

の理想の大きな部分を占める 女子のための園芸教育   育理想の実現形態としての,この短大園芸生活科という が,短大レベルとして実現し,更に着実に充実していく  教育の場一我々の理解によれば一つの教育農場的存在一 姿を見ながら,その75才の生涯を終えたのは53年2月で  の中に,どれだけ生かされ,あるいは継承されていると

あった一その死の前年までの苦闘から漸く解放されて。 言えるのだろうか。それらの点に焦点をあて乍ら,多少

      の考察を加えてみたい。8.園芸科の移転と発展

恵泉女学園が発足してから凡そ50年,そ して彼女が理 創立者の没后,数年ならずして日本経済は本格的な成  想の教育を夢みたのはさらに遙か以前であるとしなけれ 長期に入るが・それに伴って園芸科の所在地であるノ1・平  ばならないが,そのような近代日本の教育史上かなり早

も漸く都市化工業化の波を受け始めることとなり,より  い時期に,一一人の先見的な女子教育者の抱いていた夢が,      36)適当なキャンパスを物色する必要に迫られるに至った。      現在見るようなかたちで,今なお生きっづけており,さ

多方面の努力の結果,丹沢山塊の麓に近い神奈川県伊  らにその教育の場を巣立っていッた多数の卒業生たちが,

勢原町(現伊勢原市)に凡そ7haに及ぶ緩傾斜の起伏に  各地にあって,彼女の理想の小さな実践老として活動し 富んだ土地を入手することができ,1965年秋以来,新農  ていると言うことは許されよう。

場の建設ならびに校舎,研究室,畜舎等の設置が順次進   河井とならんで,近代日本のすぐれた女子教育のパイ

められ,凡そ10年を経過した現在, 農場の中に学校と  オニァであった安井哲は,同じく新渡戸稲造の援助と協

(6)

194       茨城大学教育学部紀要 第25号

礫畿警瀞灘享鍍罐歪難::㌔憲灘鷺ナ離璽嚢箕讐蠣竃懲       42)緒繋鰹蒼灘溜穽覚禦竺翼?甲蔓窮綴簑膿議鷺遊驚鴛瀞

ングランドのフロンティァ・スピリットと実学的一彼女  このこと自体・法をではなく・現寒を無視すべきでない の場合にはそれは主として園芸的な淘冶に傾斜していた  という判断に踏み切ったものだと言わねばなるまい。

一な精神が,その創設した女学園の中に生かされ,やが   行政当局の判断は別として,今の日本で,小学校から て専門学校から短大にまで発展していったことを考える  高等学校まで,真にあるべき教育の場として機能してい とき,そこに,等しく海外に学んだ二人の女子教育者の  るかどうかが,改めて問われねばならない。予備校や学 一方のイギリス的教養主義一一般教育・人格教育の重視  習塾が,必要悪として是認されるような教育環境を,我

と,他方のアメリカ・ニュー・イングランド的な人格教  々はいつまで容認しなければならないのか。

育と実学主義との総合への傾斜とを対比できるように思   それでは,我々にとって,今どのようなことが可能な

われる。       のか。それぞれの発達段階や適応能力に焦点を合せた,

河井の先輩であり,彼女の留学に助力を与えた津田梅  一人一人の人格を尊重しながら次代の形成者として淘冶 子も,再度の渡米で,等しくクェーカー的な女子カレッ  する人間教育,全人教育をほんとうに充実しなければな

ジであったブリンモァに学び,帰国後独自な教育組織を  らない時期が来ているのではないか。      41)作りあげたが,梅子の場合は,その開校式で述べた 今   そのような点で,河井道の構想し,実践してきた教育

の社会に必要なのは,婦人に高尚な仕事を教える学校で  の理念,内容や方法は,既に古びてしまっているのだろ       ■   ●   ●   ・   ・

あり,将来英語教師の資格を与えるための教育 が塾の  うか。・…  我々は,彼女の考え方や足跡が,完全な 重要な目標であることを明らかにしており,河井の場合  ものであったとは考えない。しかもなお,彼女のように と比較するとき,実学的な共通面をもちながら,最初か  理想に燃え,子どもの一人一人に配慮し,その人格の形 ら高等専門の教育をめざした点で,行き方を異にしてい  成のために心血を注いだ教育愛の生きた歩みを,あらた る。梅子の塾がエリートの教育を目ざしていたとすれば, めて尊敬の念をもって想起することができる。

河井の場合は,あくまでも,日本の女性の向上にと向け   そのような教育愛の具体的な表現態として,彼女は,

られていたといってよいであろう。さらに前述した,河  若き世代のための,自然を愛してその美に感動し,更に 井の生涯の多感な時代であった少女期を送った,北海道  それに直接ふれることによって,額に汗する労働が生ま という日本のフロンティァにおけるさまざまな体験が,  れ,かくて身も心も健康になるのだという教育の方法を,

その背景にあったことも指摘しなければならない。    園芸あるいは農芸的な学習に結晶させることができた。

戦后,学制改革の中で生れた新制の中学校は,戦前の  しかも,単に学習の方法としてではなく,我々の主張に それとは全く違って,すべての小学校卒業生に中等程度  従って言えば,まさしくく教育農場〉を通しての,その の国民教育をという目標のもとに,学校教育法の定める  中での教育が,彼女のねらいのうちにあったのだと考え ところに従って,多数のものが卒業后職業人として巣立  る。

っていくのだということを前提としながら,職業基礎的   そのような教育を,今の学校教育の中に,はたしてど 内容をも含んだ全人的な国民教育の完成の場として期待  れだけ導入できるであろうか,またそれだけの価値を認 されていた。現在のように,高校への進学率が90%を越  めることができるであろうか。

える事態を予想し得た人は殆んどいなかったと言ってよ   戦后3」年の教育は,少し極言すれば,崩壊に瀕してい

い時代である。      る。そして,我々の高度成長追求型祉会もまた明らかに。

凡そ30年近い間に,事情は激変した。かつての高校進   小,中,高教育の中間段階である中学校だけを考えて 学率に匹敵する率で,若い世代が,今や大学に進学する  も,我々の耳目にふれる問題は,あまりに多い。そして,

に至ったのだ。      それが学校教育のみに責任を負わせるべき性質のもので

かくて,中学校は高校の,そして高咬とくに普通課程  ないことも明白である。

の大部分は大学の,夫々予備的存在へと変貌しつつある   しかも,その学習内容のうちで,我々の関係領域であ

ことは,あえて指摘されるまでもない事実となった。も  る技術・家庭科は,かつては職業・家庭科として,比較

(7)

石原:近代日本における教育農場の展開一その理念と実践に関する歴史的考察1    195

       46)的幅広い学習分野を含み・更に選択の余地も充分与えら  の一っの階梯としたいのであう。

れていた教科であった。現在は,大きく変って,全体と

10.あとがき

して,ことに男子では工的技術の基礎に大きなウエイト

が置かれている。そのことへの批判は,ここでは取上げ   河井道を一一人の実践的な女子教育者として捉えてみた ないが,一つだけ,どうしてもふれねばならない点が残  いと考えてから漸く五年,彼女の指導者としての存在と

る。それは裁培という分野に関してである。      その活動については,ある程度は知ってはいたが,具体

現行の技術・家庭科は男子向きとしての技術科と,女  的に,ことに表題のように,近代日本の女子教育の中で,

子向きとしての家庭科とからなる複合教科であるが・男  農芸乃至は農場的活動を重視してきたその足跡を辿るに 子向きには僅かながら取上げられている裁培が・女子向  は,少くとも文献的には極めて不充分であるし,時代的 きには全然考慮されていないという点で,我々は,河井  背景についても,ことに教育思想の流れにも,あまり学 道に従って言えば,女子のための教育にこそ重要な意味  んだとは言えない者にとって,むしろ軽率のそしりを甘 をもつ筈の裁培=園芸に関する領域が,何故無視された  んじなければならない取り組みですらあった。

ままでいるのかということに関して・当の女子向き=家   そのような中で,前の短大園芸科主任(現山梨英和女 庭科に関係をもつ立場の人々から指摘されないのかとい  学院長)山下安武,現主任山口美智子の両氏から種々の うことに大きな疑問を提起せざるを得ない。      教示をいただき・さらに女学園関係の方々からも資料そ

中高一体,あるいは小中高一貫という立場で・高校に  の他の点で種々のご配慮に与り,漸くにして,貧弱なが おける家庭科は・女子には必修となったのみでなく・現  ら一つの河井道像をまとめ得たことを,記して心より感

簾謙継醗嚢欝鑛黎謙謝離縁75年4脚本農業辮会で発表,

れている状況と比べて,少なからぬ異和感を覚える。      れた要旨にもとずいて展開されたものである。

現実は,女子高校においても,農業課程の女子向きコ

       注ならびに文献一ス的な生活科を除いては,公立の中で,園芸的学習を

正式な学習計画の中に取り上げている例は・寡聞にして  1.拙稿:教育農場論序説・茨城大教育紀要 2α1970 殆んど見当らない状況にある(クラブ活動は別として)・       同 上 そのH, 同上  241974

短大レベル以上の教育では,女子のための一般教育の  2。国民教育ということばに,少くとも7領域一宗教教 中で,食物科・栄養科・保育科等のコースの中で・ある   育でないもの,義務教育的なもの,小学校普通教育

程度,園芸,家庭園芸・造園等の名で取り上げられてい    的なもの,一切の国民たるべき教育,社会教育,政

る例は・比較的各地に存在する。但し,女子のための専    治的教育,国民化的国民精神の教育一が含まれてい 門の課程は恵泉短大の外に・同じ神奈川県の大和市にあ    る。鰺坂は,私教育を含め,国民教育制による全国

る大和学園好短大儂芸家暫濃芸栄養科及幼児教 民対象の繊的鮪とする・育科からなる)しか見られない。要するに・現実は・小,   参照:小林澄兄:教育百科辞典 1954

中,高ならびに短大までを含めて・広くはく教育農場的〉     鰺坂二夫:世界教育事典(平塚編)1972

狭くは園芸乃至は農芸的な教育実践は,極めて特殊例外  3.近代国家としての日本の歩みを要約すれば, 主と

的と言わざるを得ない。      して民間を主流とする自由主義の動きと,政府と軍

高校希望者全入制という考え方も,大学進学者の著増    を主流とする強力な国家主義との対立闘争 と見る も,それによって日本の教育水準が高まると受けとめる    ことができるが,学制発布以来, 教育勅語を中心

ならば,それは妄想であろう。       とする皇国民形成のための教育思想と,自由な人間 教育それ自体の抱えている重大な危機と,それからの   性の開発を求めた教育観との対立 をも,そのよう

脱出という課題をはらんだこの転換期に,明治,大正,    な流れの中で捉えることができよう。

昭和という三っの時代・戦后に亘って・その生涯のほと    矢内原忠雄:現代日本小史上1952(P50〜)

んどを・確固たる教育理想の追求ならびにその具体的展    海後 宗臣:現代日本小史下1952(P259〜)

開に用い尽した,一一人の先見的な女子教育者像を辿るこ  4.中野  光:大正自由教育の研究1967

とによって,我々の今后のあるべき教育への模索のため      (序説P9〜18ならびにP147〜)

(8)

196      茨城大学教育学部紀要 第25号

小原 国芳:全人教育論1969(p109〜)       に大きな影響を与えたことも記憶されねばならない。

中内 敏夫:近代日本教育思想史1973(P309〜)    なお,山口教授によれば,河井に最も影響を与えた

白揚会自由教育論争を紹介している。    のは,スミス,新渡戸と植村である。

5 1946年春アメリカ教育使節団が日本に到着する直    佐渡亘編:植村正久とその時代1937皿P.783,

前,占領軍の要請によって,文部省が人選したく日         Vp.608,708 本教育家の委員会>29名のうちにあって・河井は・  9.河井:マイ・ランタン P.188 第一分科会(日本おける民主主義教育)に参加・兼  1α同上 P237

ねて第三分科会(日本の教育制度の行政的再編成)    なお,〈大地への求愛〉という考えの中で,タゴー の一員でもあった。同年8月・教育刷新委員会と改    ルが,「ロビンソン・クルーソーの島こそ,人間と 組され49名に増員されたが,「教育の理念及び教育    自然との一体化を学ぶに適しい場」として想定した

基本法の問題」を扱う9人の第r特別委員会が設け    ことにふれて, 人間の労働の作り出した自然もま

られて河井も加わり,46・11・23にその報告は総会    たく自然環境の人間化〉のあり方だと とデュボス で採択されている。49年6月,刷新委員会は更に刷    は述べているが,河井のく大地から産するもの〉こ 新審議会となるが,内閣直属の機関として独自な審    そ正にく大地への求愛〉の結果だと言えよう。

議を行い報告すると共に,首相の諮問に答申する任    R.Dubos:So Human an Animal 1968(邦訳,

務をもっていた。短大制度の決定にも河井は努力し         人間であるために,第6章)

ている。      11.成城学園は1917(大年6)年,自由学園は1921年,

海後宗臣編:教育改革(戦后日本の教育改革D     玉川学園は1929年,と次々に設立されている。

1975P104・330・345  12.河井:前掲 p266

6.新渡戸からうけた影響は少くなかったが・く恩師新  13.日本の軍国主義化に伴う中学校施行規則の改正(昭

渡戸博士〉と題した短文の中で・女学校2年の頃よ    6・1・10文部省令)により,男子の普通教育の中

りの博士の指導や・学園創設の時の博士の特別な配    に,基礎科目としての作業科と増課々目としての実 慮に関して,彼女は感謝をこめて書いている。「恵    業が設けられるに至った二年前に,彼女は,別の理

泉」2:1α 1933       念によって,女子の普通教育の中でく園芸教育〉の

7.新渡戸の彼女に及ぼした影響は・ある意味で,「札    重要性に目をむけてその導入に踏み切っていたので

幌バンド」あるいはくクラークの系譜〉に属するも   ある。但し省令によらない自由学園の教育も,すで

のであった。少くとも,札幌農学校の1,2期生た    に同じ趣旨による教育課程が組まれていた。

ちに与えたニュー・イングランド的フロンティア   14.ベルギーを訪れる直前,彼女はジュネーブで国際連

スピリットのすぐれた保持者たるW・クラークの影   盟事務次長でめる新渡戸博士夫妻に会い・学校建設 響は,新渡戸稲造らによって日本の風土に根を下し   の相談をした時,博士からは事の困難さを告げられ

ていったのであるから。 南北戦争の失業軍人くず    ている。しかし,彼女の設立の意志は一層強められ

れのクラークが流れ者として日本にやってきたと    ることになった。       ●   ●   ●

いうある作家の説は・開拓使長官の懇請によって・    河井:前掲 P270〜278

一年間,マサチュセッ州立農科大学学長の職を離れ  15.河井:恵泉女学園創立趣意書 1928・1月

て来日・日本の将来を担うべき青年たちの訓育にあ  16.開校当時のカリキュラムは次のようであった(数字 たったという事実を無視しているのではないか。     は週時数)

「エコノミスト」75:1月号参照。       規定科目:国語6,数学3,地歴2,理科2,英語6,

大島正健:クラーク先生とその弟子たち 初版1937        和裁3,歌遊戯2,図画2.

(1973年版P71)   特種科目:聖書修身2,国際1,園芸2.(合計31時間)

8.留学を了えて帰国した彼女は・間もなくその教え子    河井:前掲 P283

たちと共に・植村正久の教会に出席し注目を集め・  17. できるだけ早くもっと広い所に移らねばならない

更に植村の企画による台湾伝道の仕事に彼女も参加    ことはもうはっきりしていた……ある建築家に設計

し重要な役割を果し,それらを通じて,植村が彼女    を頼んで,一方私は1930年の夏を必死になって敷地

(9)

石原:近代日本における教育農場の展開一その理念と実践に関する歴史的考察1    197

探しに奔走した。都らにあまり遠くなく,心地のよ   つくような夏の日・寒い肌を刺し通すような冬の日・

い環境で,地代が高くなく,近くに他の学校がなく・   私達は草を採り畑を耕し学園の汲取り屋さんになり 飲料水がよくて,土壌が花や野菜作りに適していな    大事な肥料を製造するのです。然しこの時間は実に

くてはならない…… というのが彼女の選定の方針   楽しい。私達の手で色々の野菜が作られ,美しい花 であった。      を咲かせるのです。自然に親しみ立派な体が養われ,

河井:前掲 P.286      すくすくと成長することは愉快なことです 一生   一

18.この時期の学園の姿を,教師の一人は,〈全き教育〉   徒のく園芸の時間の感想〉である。「恵泉」112号

という短文の中で次のように述べている一 我が恵    1943。

泉女学園が画一主義詰込み主義に反対し,人性の 22K卸ai:Slidi㎎Doors 1950. p.19〜

健全なる成長を希い自由主義的要素を多分に取入れ    なおこの点に関して,中野が,自由学園や赤井米吉 て創立されたのも現在日本の教育にあきたらなかっ    の明星学園が,生活教育,労働教育を積極的に取り

たからである……更に一歩を進め個性の基礎となり   入れたことに一定の評価を与えていることは,恵泉

自由の源となる宗教教育を教育の根本とした。之は    にも妥当するが,下中弥三郎らのく万人労働の教育〉

従来の日本の教育の根本に疑いをもち全き教育の基    の主張や「児童の村小学校」の設立は,ある意味で

●  ●  ●  ■  o  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ■  ■  ●  ■  ・  ●

礎には宗教がなければならぬという確信からであっ   より進歩的であったけれども,遂に十分継続しない

た……我が学園は特に聖書の時間を設け……普通科    ままに終っている。

目以外に特に国際,美術工芸・園芸・公民科の如き    中野:前出 P.203以下

特設科目を課して,宗教教育の助けとなしている。   なお労働教育と労作教育と,何れも Arbeit Sch一

●   ●      ●   ●

又学園を一つの家族となし,教師も生徒も一団とな    ule の原理に基いているが,強いていえば,恵泉 って真実と愛との交りを志し,生徒はまた自分たち    の場合は,労作的であり,更に自然に対する愛情と の学園生活を自治的に生活し,互に学園の活動を分    いう立場は,50年を経て,再び人間教育の原点の一

担して責任ある生活をなすよう努力している。     つであることを再認識させつっある点で,歴史の評 土居誉雄:「恵泉」1:2,1933(傍点引用者)    価に耐える方向であったと考えたい。(恵泉や自由

19.〈本学園の教育目的〉一昭和11年入学案内によれば,   学園が,戦時中の国家主義的教育の強要に対して,

従来の智育偏重,画一主義教育の弊を避け1基督    どのような対応をしたかにっいては,批判の余地は 教の精神に基き敬慶,聖潔,博愛,勤労の徳を養い,   あるにせよ,河井の一時拘留も含め,できる限りの 女子に必須の学術技芸を教えると同時に,よき国民    努力はあった)。

の特権としての自治奉仕の良習慣を養い,一・面国際    参照,一一色義子:河井道子先生 1953,p97 知識を与えると共に,自然に親しむ機会を豊かに与  23.なお,〈労働教育〉を専らく労働者教育〉に限定す

えて,高潔温和にして見識のある女性の養成を目的    る考え方もあ轟二,他方では川野辺は,「ソ連で生

とする とあるが,同14年(1939年)には, ……   徒を労働に参加させることによって全面的発達を促

個別的,全人的に指導すると共に,所謂自由主義教    す教育体系」とし,平塚は,来るべき教育改革では,

●   ●   ■   ●   ●

育の欠陥たる智育軽視,放任をさけ,……,園芸実   勤労者としての教師の自覚の上に,小中高の全段階

.    ●   ●    ●

習を通して自然に親しむ…… と多少の苦心がみら   さらに社会教育の中で,HOMO FABERの人間観 れる。「恵泉」68号,1939(傍点引用者)      の下,全国民を勤労者たらしめるための目的,内容,

2α1934年に発足した高等部は文科,家事科を含めて15   方法が求められるとし,また労働と勤労とは明別さ

→←→←

名が定員であったが,漸増して42年には60名厘に園   れる。      畳芸科が認められた43年には,8(路となっている。な   仲新外:日本近代教育史事典 1971

      ・)←苦

お,35年に文部省は普通部を5年制高等女学校と同    平塚編:世界教育事典    1972 程度と認定した。       24.Kawa i:前掲 p20

21. 近頃勤労,勤労と叫ばれますが,此の学園が14年  25.ペンシルヴァニア・アンブラー園芸学校の生徒たち

前の創立の時から此の学科を正課として実施したこ   が,貧しい子供たちの地区に出かけて子供たちと遊 とは,さすが河井先生だと感じています。暑い焼け   ぴを共にし,あるいは空罐を利用した裁培の喜びを

(10)

198      茨城大学教育学部紀要 第25号

指導する活動に,彼女は強い印象を受け,更に女子    教授による)

でも十分農業がやれるのだという感を深くした。   34.「恵泉」132号,1946

(山口教授による)      35.一一色:前掲 p.109

2aこの高等科の園芸コース設置にあたってのアッピー  36.園芸科の小平からの移転については,既に創立者在

ルによれば,「……元来我国においては園芸は男子    世中から,公害の心配がなく,世田ケ谷から比較的 の手に委ねられていたが,考えてみると,草木を生    便利で,更に山のキャンプの本る御殿場との連絡も 長させ,動物を愛育する仕事は,正に女性の天賦の    考えて,小田急の沿線が考えられていこが,直接の 性に適しているし,また現在の男子の手不足,食料    キッカケは,1963年筑波学園都市への移転を文部省

や家庭園芸の必要を考えると,女子の園芸界への進    より打診されたことであり,その結果,比較的速

出は必然的のことと考える……真に園芸を好み労働    かに移転予定地の入手が決定することになった(山 をいとわない生徒の入学を切望する。」        口教授による)。

「恵泉」113号,1943       37.恵泉女学園案内 1975参照。

27.〈創立15周年を迎えて〉という文章の中で,河井は  38.いわゆる普通科の高校で選択科目の中に園芸を課し 農専設立のために理事会,父母会,卒業生,在校生    ているのは皆無ではないが,ここでは創設以来の基

(普通科を含めた)たちがいかに全面的に協力して    本的な方向が今も生きている。

くれたかを 4年生よりの手紙 を紹介しながら,  39.彼女は最終的には,英文科と園芸科とを柱とする短

感謝をもってしるしている。「恵泉」126号,1944   大を学園を土台として実現したが,この外に,かつ 1明      て高等科の中に家事科を設けていた考えを生かすべ

28.女子の農業教育機関としては,明治期に13校,大正    く,タイプ,ソロバン,簿記等を取入れた実務科の

10年までに16校が農学校に女子部を設立しているが,   如き専攻科をつくりたいと考えていた。「恵泉」

大平洋戦争前后から植民者の花嫁教育を含めて食糧    142号,1949

増産のための女子農業教育の拡充が行われ,昭19,20 40.安井もまた,その生い立ちの中での自然や耕地との のニケ年で100校を加え,終戦時には女子の農業コ    ふれあいに愛着を覚え,大学が今の井荻に移った時,

一ス設置は239校に及んだ。戦時下の高等農業教育    当時の純然たる田園的環境に対して強い共醸を覚え の拡充も進められているが,80年史には女専にっい   たことは〜 立派な人を築き上げようと望むならば,

ては記載がない。ただ,70年史の統計によれば,私    どうしても静寂崇高な自然に接触する必要がありま

立の農専数は昭12年までで2校,18年までで3校,    す ということばからも想像できる。ただ,新渡戸 19年に4校,20年には7校であるが,19年度新設の    によってく犠牲と奉仕〉こそ大学の柱であるとされ 1校は恵泉とみられる。      たその建学の精神を,井荻での学長就任式にあたっ

文部省:産業教育80年史1966及び70年史1956参照。    て,安井は次の四点に集約した。1)キリスト教主

29. 農婦を毎とし,北海道の開拓精神にふれ,ミス・    義に基いた人格教育の重視2)体育の重視3)リベ

スミスや新渡戸博士の感化を受けた先生の長い長い    ラル・カレッジ=リベラル・アーッの性格の堅持 祈りと「善い夢」の実現であった。       4)学究生活と社交生活との調和。

清水二郎:河井道(五人の先生たち)1960p.114    平塚益徳編:人物を中心とした女子教育史1965,

30.K{捌ai:Slidi㎎Doors p.37この放送がどのよ      P239,245。

うな経緯と要請によるものであるかはわからないが,   なお,経営の困難な時代にあって,彼女は専攻科 ここで彼女は,自ら一歩を踏み出した新しいプラン    (英文,国文,数学)が職業教育化することのない に,平和への願いを託していたものと思える。     よう配慮している。

3L一色:前掲 p.103      渋川久子:近代日本女性史1教育1970 p.183 32.清水:前掲 D.115なお前注5参照        41.西田 琴:津田梅子(五人の先生たち)p乏沿

33.農専認可の時の条件には,できるだけ早い時期(戦    平塚  :前掲p216,渋川 :前掲  p.245〜

后P)に,独立の校舎を設置することという項目が  42.これらの点にっいては,既に戦后20年という時点で

あったことも,移転の重要な理由であった。(山口   戦后教育の崩壊の進行にふれて,<学校だけがあっ

(11)

石原:近代日本における教育農場の展開一その理念と実践に関する歴史的考察1    199

て,その中に教育がなくなってしまった〉こと,<    教養科,家政科,食物栄養科,児童教育科,保育及 社会に出ていい生活をするための大学,高校と中学    幼児教育科等の学生のために,園芸あるいは家庭園 とはその進学のための過程,教師は進学させるため    芸が開設されているのみなちず,農場を設置してい の道具〉でしかないこと,従ってく真実の問題は     る例も数大学にみられる。公立の同レベルの学校,

(教基法の)その理想と現実との間隙を埋める努力   例えば保育専門学校でもこの種の科目は取上げられ

が払われているかいないかである〉という指摘がな    ているし,秋田県立農業短大では農村生活科が設け されているにも拘らず,事態はほとんど変っていな    られている。(主として女子短大に限定)教育年鑑

い。      1975及び昭和48年度全国短大職員録1974を参照。

村松 喬:戦后教育崩壊の危機(現代の眼1966・7  46.河井が学園を開設した昭和初期は日本農業もまた疲

月)戦后日本教育史所収 1967。      弊のどん底にあった時代であるが,河井にとっては 43.75・9・14(朝日)      日本農…業の改革もその目標の中にあり,単に利益追

44.家庭科教育を考える会:家庭科の男女共修について   求のためだけではなく・ゆるぎない文明の基礎とし       ■    o    ●    ●   ■    ●    ●    ●    ●    ●

1974      ての農業を確立するためには,若い人たちが進んで

なお,最近の報道に上れば,すべての中・高校で,    入り込めるような精神的支柱一神と人と土とを愛す

男女一緒に家庭科をという動きが,府教育委員会ぐ   ることをその根底において把握することが必要であ

るみでの京都府,また東京や長野等でも地道に広が    り,同時に教育的には・自然の中で,自然と共に働

っているという。75・9・18(朝日)         らく(その根底に神との共動を考えながら)ことに

45.全国の私立の短大の科目リストによると,北海道か    よって,真の人格の形成は可能なのだという確嗣た

ら九州に至るまで,かなりの女子短大教育の中に,    る教育理念があったと言えよう。(主として山口教 授の示教による)。

The Progress of Educational Farm in Recent Japan

aHistorical Study on the Idea and Practice of Educational Farm 一as for the Keisen Girl s School一

Hideshi I shihara

KeiserJoga㎞en is one of the excellent examples prac廿ced gardeni㎎course in Japan. Miss K『wai learned in Hokkaido and United States。 She e)ζperienced a teacher of Tsuda College, later the secretary of Y.W.C.A., while she had desired creating a new school nearly for twenty years lo㎎.

She opened her school in 1929, including the study of Bible, international affairs, and horticultu一 re. In1945,WbnBn結Agro−horticultural College started,the first school in Japan, then as the section(f

Keisen Junior College, the Gardeni㎎Course is now unique Educational−Farmcentered school, one of

the remarkable case of learni㎎by doi㎎, not only physical and practical, but also spiritual, as the realization of the total human education.

参照

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