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近代日本における学生の教養

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(1)

近代日本における学生の教養

――青年期の知的自己形成の問題――

宮 坂 広 作 1.はじめに ―テーマとモティフ―

山梨学院生涯学習センター紀要にこれまで発表してきた論稿を中心に、 『自己形成 者の群像』と題する拙著の刊行を計画した。昨

(05)

年夏、東信堂という出版社に企 画を持ち込み、その後複雑な経緯の末に、明

(07)

年春には刊行される予定となった。

つまり、本稿と前後して世に出る訳だが、その本の序章は「日本における教養の死と 再生」というタイトルの書き下ろしである。本稿はそれの補遺・補足ということにな る。上記の序章では、近代日本における教養論の系譜が書かれており、その点本稿と 類似している。ただし本稿では昭和初期までしか扱っていないのに対し、序章の方は 戦後・現在にまで及んでおり、また今後構築すべき「新しい教養」のあり方まで取り あげられている。本稿の方ではそこまでできず、歴史的スケッチにとどまっている。

枚数がないのと、時間不足と、なによりも筆者の研究・執筆能力の低下によるもので ある。それでも、序章の方で当然取りあげられるべきであり、そうしたいと思いなが ら果たしえなかった課題のうち、かなりの部分を今回達成できることに喜んでいる。

この歳になると、いつどんなことで作業を中断されるかわからないので、とにもかく にも完成に持って行きたかったのである。

いまの若者、その中でも知性と教養の形成の条件に恵まれているはずの大学生に、

さっぱりそれがないという批判がさかんにおこなわれるようになり、教育上配慮が必 要だという意見が出されるようになった。かつて大阪市立大学文学部長の片山智行氏 は、文部省による「大学設置基準」の大綱化によって、教養教育をカットして専門教 育を強化しようとする傾向が各大学で現われたことに警鐘を鳴らし、教養教育の重要 性を強調した。専門的知識の詰め込みが不可欠な司法試験受験者は別として、商社・

銀行・企業等に就職する大多数の法学部学生にとって必要なものは、 「総合的な判断 力」 「幅広く深い教養」なのであって、必ずしも法律の専門知識ではないだろう、と いうのである。専門教育拡充のために外国語教育を刈り込むような風潮を嘆き、国際 化時代だというのに、異文化理解の能力の重要性を軽視すべきでなく、 「モノ」だけ でなく「ココロ」の面でも国際的に貢献すべきであると論じ、 「豊かな人間性」の育 成を目ざす教養教育の意義を指摘する。

科学史を専門とする村上陽一郎氏は、学生を早くから文科・理科に分けてしまうこ

−55−

(2)

とに批判的で、戦争を機に行政・政治・産業が科学を利用するようになり、科学は社 会に影響を与える存在になったので、科学者は社会に関する素養を持たねばならず、

政策決定への最終的な責任と権利がある一般市民も科学の素養が必要になっている、

と説く

(1)

。重要な科学技術政策についてパブリック・コメント

(市民の意見)

を求め られる機会が最近増えていること、国民が身に着けるべき科学の素養を模索する動き がいろいろなレベルで始まっていることを紹介する。そして、戦後の大学が旧来の学 部・学科を温存し、専門家養成型のカリキュラムを墨守してきたのを改めて、学部4 年間では教養教育を行ない、専門教育は大学院でやる仕組みに変えるべきだ、と提言 している。

法政大学大学院特任教授である青木保氏は、ハーバード大学がギリシャ・ローマ文 化とヘブライ・キリスト教文化の二つの伝統を継承し、それらを自らの存在意義の起 源としていることを実見し、翻ってアジアの大学には明確な文化伝統が見えず、日本 では文化伝統を継承する教養教育が軽視されていることを批判する

(2)

。専門優先の掛 け声の下、偏向する知識と狭小な技術主義に陥っている、と見ている。有名大学出身 の若手官僚や技術人がバランスのある知識や教養を持っていないことを嘆き、大所高 所に立って物事の判断ができる教養人を育成しないと、日本は世界から信頼されない と警告している。

こうした、教養・教養教育の復権・再評価を主張する言説は、なにも従来の教養教 育をそのままやっていれば良いという主張ではない。村上氏は、9 0年代に大学の教養 部がすたれたのは「自然なこと」だとし、新しい教養教育は現代的なテーマを分野横 断的に教えるようなものであるべきだと述べている。片山氏や青木氏の場合、教養教 育の目標については言うが、内容や方法についての言及はない。しかし、各分野の専 門研究者が、新しい教養のあり方について、意見を開陳している。早稲田大学の客員 教授で文芸論専攻の佐藤亜紀氏は、古典文学について無知でも、フーコーやベンヤミ ンなどを引用縦横・応用自在であるならかまわないと言い、学生たちに最近のテクス トを理解する柔軟性があり、才気や感覚にすぐれた学生が存在することに感嘆す る

(3)

。京都大学文学部の教官たちが、現代の大学で存在意義が疑われがちな文学につ いて弁護する本を書いたが、そこでも漢文や古典を神聖視するのではなく、演歌を文 学作品と見るようなくだけた態度をとる教官もいる

(4)

。もっとも、 「学問は、人間に 知識を与え、人間に教養を与え、人間に楽しみを与える。知識・教養・心情は、人び とを洗練された存在でおおらかな気質に変え、こころ楽しませ、機械的でない生を過 ごさせ、精神生活上の超越、日常的気分のおだやかさをもたらす」という、きわめて オーソドックスな学問効用論を述べる教官もいる。文明とはある意味で教養そのもの だという主張を読んで、この本の書評に当たった山内昌之氏は、 「何という感動的な 説得力であろうか」と書いているが、まさかこれは皮肉ではあるまい。当節こういう

−56−

(3)

まともな意見を言うのが気恥ずかしく、また学生が聞いても感動しないのが実態だと 思うのだが。

東大文学部の教官で日本近・現代史専攻の加藤陽子氏は、日本語もろくにできず、

著名な

(はずの)

学者の名前も知らぬ学生が東大文学部に最近出現するようになった ことを紹介し、少子化に比例して学生定員も教員定数も減らされなければ、大学の知 的荒廃は防げない、と述べている

(5)

。かつて大学の学生定員が増やされたとき、 「こ んなに学生が水ぶくれすると質が低下し、大学はダメになってしまう」という議論が さかんになされたものである。加藤氏は、人生に必要な知恵を大学以外で学んだ安保 世代・全共闘世代に比べて、 「我ら共通一次世代」ははっきりと役者が数段階落ちる、

と自認する。先行世代ははたして何を学びえたのか、それは大学の教育よりも良質 だったのかを問うべきであろう。安保世代よりももうひとつ上の世代に属する筆者な どは、大学の教室でよりも大学構内の寮で読んだ本や、友人たちとの語らいの中で得 たものが教養だったと思っている。

たまたま文学・文学部の教養教育について論じたものが多く目に付いたので、そう したものばかり取りあげたようになっているが、文学あるいは広く人文科学系の学問 こそは文化の研究であり、それは伝統的教養の中核をなすものであった。その分野の 学問の存在意義が問われるような、実利主義の時代になったということである

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。か つて社会科学――マルクス主義とほとんど同義だった時代もある――が青年学徒をひ きつけ、文学や自然科学を専攻する学生たちでも「左翼文献」を読むという状況が あった。つまりマルクス主義が諸学を統合する世界観、諸学をつらぬく研究方法論と して、教養の地位を占めていたのである。経済至上主義のこんにちでは、経済学は花 形であり、不可欠の教養とされている。それはかつてのマルクス主義経済学のように 社会変革の実践を導く学でもなければ、己れの生き方を決するような指標でもない。

青木氏のひそみにならって、 「偏向する知識と狭小な技術主義」でよいのかと問うて みたいところである。人文科学も、現代の風潮や学生の嗜好に媚びて、 「知のたのし み」 「学のよろこび」といった軽さに流れるのではなく、山内氏の提案する「生の苦 しみ」という重いテーマに取り組まなければならないだろう。また、インドの古典の 翻訳や『史記』のテキスト・クリティークのような、地味ではあるが、人類普遍の「知 の基盤作り」をライフワークにするようなアカデミズムが尊重されなければならな い

(7)

上記のような諸家の教養論をさらに広く渉猟し、深く学んで、筆者なりの提案をす ることが有益な作業なのであろう。しかし、それをする資格

(権利)

と義務を持つの は、現役の研究者・教員である。それなのに、大学の知的荒廃は、学生の学力・質の 低下だけによるのではなく、教員の方のレベルの低下と相まってのことだから、 「こ の教師にしてこの学生ありと瞑すべきなのかもしれない」などと、シニカルに達観し

−57−

(4)

てもらっては困るのである

(8)

。同じく、戦前・戦後、さらに現代の日本の教養の問題 について鋭利な分析をおこない、その才筆で読者を魅きつけた若手――筆者との年齢 的対比で言うのだが――研究者が、教養や教養主義に対する態度において、 「批判な のか擁護なのかよくわからない」と読者が首をかしげることを予想している

(9)

。人間 をその複雑さのままに示してみたいというのが、執筆にあたっての趣旨であり、教養 は人間の複雑さと切りはなしては考えられない、と弁明する。宿痾の近親憎悪に引き ずられ、愛する教養主義の負の側面をつい強調してしまうこともあったろうが、日本 的教養の陰の部分というか、リアルな側面を見なくては、教養復権は不可能だ、とい うのである。

筆者のような、現役ならざる老朽の学徒にできることは、近代日本における学生の 教養の変遷や教養論の動向につい関係文献を読み、紹介するくらいの仕事である。旧 制高校に学んだ経験はないが、教養主義文化の中にどっぷり浸かって育ったので、若 手研究者とは違って、教養主義の論理だけでなく、その雰囲気や体臭について知ると ころがある

(10)

。そういう世代の人間として、教養主義に対して甘く、批判性に欠け る傾向があるかもしれない。少なくとも、 「近親憎悪」などという屈折した心理は持 たず、その長短、歴史的意義と限界について偏見なき認識を有していると思ってい る。いずれにせよ、本稿はただちに現代教養論の構築に直接貢献できるような知見を 提示するものではなく、またそれを目ざしているのでもない。そもそも近代日本の教 養ないし教養主義についてどう理解すべきかについて、筆者なりの認知を示してみた までである。全容の解明には程遠く、いくつかの部分・側面について取りあげてみた にすぎず、歴史的研究としてもごく基礎的・予備的なものであり、現代教養論探求へ の距離ははるかに遠い。

2.明治期における学生の修養

19世紀末における知的青年の問題

1 9世紀末といえば1 8 9 1

(明治24)

年から1 9 0 0

(明治33)

年迄の1 0年間ということにな ろうが、この期末の起点となる1 8 9 1年に刊行された一冊の青年論がある

(11)

。著者の 鈴木力

(天眼子)

は漢・洋の素養を持ち、教育界、とくに官私の高等教育界の実情に 通じている。 「社会の存在は道義に由る。故に身は道義と終始せざる可からず」と主 張するような人物であり、国家への貢献を説き、国民としての自覚を促し、用武の地 を世界に拡大しようと論ずるようなタイプではあるが、 「秩序なる者は、社会に必要 なると同時に亦社会の進歩を沮礙するの傾向あるもの」だとして、保守の気風を排し て進歩の機軸となるのが青年の特性であり任務である、としている。

彼の青年論をもう少し詳しくみておくことにしよう。彼は「青年の社会的地歩」に

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(5)

ついて、社会活動の原力、刺激の本因だとし、その特性は活気と霊識であり、その責 任は自らの特性を貫いて「天下の文縟涸滯を救ふ」ことだとする。鈴木は社会がひと つの組織体である以上、必ず秩序の存在を必要とするが、貴者・学者・富者はすでに 優勝者の地位を占め、門地威福を経営してその保守に汲々としており、後輩の侵入を 拒否するために「秩序」の一語を金城鉄壁にしている、と言う。政権は君主の身辺を 取り巻く少数藩閥党の手にあり、財富は与党・権力に依存・仰迎する政商が占領し、

学者社会にあっては博士・大博士などの称号を持つ者が特権を弄して教育を左右して いるといった秩序の支配のもとでは、一国の正当な進歩発達は期待すべくもない。鈴 木は、秩序と階級は紙一重だと言い、秩序が尊重されすぎると社会は保守の気風にみ たされ、進取・活動は抑圧されるようになって、社会は枯死するに至る、と論じる。

こういう社会の停滞を打破し、進歩の方向に動かすのは、青年の特性によってだと言 う。鈴木は青年が「霊性の蕾」 「活気の蔵」であり、直往勇進してやまざる「血性」

を内包するとし、青年の真面目は「霊識」と「活気」であり、これによって沈滞の気 習、社会の腐敗をのりこえていく、とする。軽快単純・真摯敢為が青年の気風であ り、老成より活 、着実より変通、保守より奮進を好む。また、そうせざるをえない のである。

1 9世紀末の世界にあって日本はどのような立場にあり、日本の青年は何をすべきな のであろうか。鈴木はかく言う。 「大日本は世界の文明および事功の中心点なるべき 地歩を占め、希望を有す」と。日本は世界の中でもっとも多望の地であり、また当代 が最多幸であるのは、東洋の文化と西洋の学術を綜合した新文明をつくりあげ、霊心 界・経世上で不滅の価値基準を確立するという課題に直面しているからである。日本 は西洋と交通する以前、インドの霊心哲学、中国の経世哲学といった東洋のあらゆる 学芸知識を吸収し、これを発展させて「東洋文化の秘庫」となった。さらに社会の組 織、美術・文学の発達、壮美・純精なる日本魂などによって、日本は東洋文明の先駆 者・眼目・骨髄となり、今や泰西的知識を獲得することで、世界文明の中心となるべ き好地歩を占めている。日本の青年は、東西両文化の精粹を修得し、五大陸未曾有の 新文明を開くべく、学問・科学・政治・経済の諸分野で大人物になるべき責任・本 分・義務を有するというのが、鈴木の所論である。

ところが現実の日本青年は、こうした歴史的課題の解決に取り組むのに必要な、独 立・自任・進取・剛健の徳、ひとくちに剛毅の精神を持たない。鈴木は、 「咄、満天 下の青年腐敗せり。六十余州一の活青年無し」と絶叫する。当世書生気質は、活気な く、青年の特性に欠け、虚飾、陰柔、正大の風なく、利己主義的で親友を持たぬ。学 風の面では、知識を詰め込むだけで、これを吟味して真に理解し、独創の資としよう としない。書物に「呑まれ」てしまい、死学に恋々とするので、学識を運用すること ができない。そもそも学問をする目的が立身出世であり、そのための手段としての洋

−59−

(6)

学であるから、先進先輩の西洋文物に屈従し、その是非を問わぬ直訳・模倣をおこな うことになる。教育は商売となり、学校は商店、学生・生徒は顧客のごとくであり、

学校・教員は彼らの歓心を得て自己の地位を固めようとし、人の師範としての品格・

威厳・識量・気幹を顧り見ようとはしない。

鈴木は、書生たちの行状について具体的に非難している。まず服装について、髪 形・帽子・羽織・木履など華美・贅沢であり、そのために郷里の親に金をせびり、学 生はその金で寄席や玉突き場、料理屋に入りびたる。貸し本屋から淫猥な本や春画を 借り、トランプや花合せに熱中する。鈴木は学校名をあげ、淫猥な図書をさかんに借 りるのは福沢塾生・哲学館生であり、高等中学生徒は試験でカンニングをし、その方 法を「魔術政略」

(マジカル・ポリシー)

と呼んで得意になっている。東京大学はかつ て医学部

(赤門)

と三学部

(一ツ橋外)

とに分かれていて、医学部学生は町医者ふうに

「にやけて」おり、他の学部の方は快活敢為の気象に富んでいたが、全学部が赤門に 集められて以来、ことごとく医学部ふうに化されてしまった。

鈴木は高等中学について、とくに非難の声をあげている。 「大学の門戸として最世 人の属望する」この学校では、教師に大学の新卒者が多いので、年齢の近い生徒たち は教師もわが仲間とみなして敬意を払わず、 「どろ熊」 ・ 「腎虚」 ・ 「眼鏡」などの符牒

(渾名)

を付けて軽侮する。久原教頭はかつて生徒に向かい、 「科学を学ばんと欲せ ば、脳裏に国家とか国民とか云ふ考え有ては大成期し難し」と述べた。科学の境界線 は高遠深大、地球上の小区画に束縛されて真理の探求を縮めるべきでないことは当然 だが、学理と実際とは別であり、国家・国民の観念を失ってはならないというのが鈴 木の批判である。内村鑑三の勅語拜礼問題にもふれ、国体を知らぬという理由で内村 を排斥したことを善し、としている。だが、教育勅語の発布以来、学校教師がにわか に忠君愛国の士のような顔をして、やたらに勅語をかつぎまわっていることを非難 し、彼らの平生の行状が勅語の内容から遠いのは偽善・虚徳であり、国家人心の上に 悪影響を及ぼすということでは、内村以上に有害な人物がいる、と述べている。

第一高等中学の木下広次校長が、学校篭城の演説をしたことについて、鈴木は当時 局外にいたが、青年書生は青年らしく、文弱界に卓立して真面目を守るべきだという 考えから、木下校長を称賛したのに、それが演説だけにとどまって校内の風儀の上進 を見ないと言って慨嘆する。また、木下がその演説の直後、倫理講堂で宇田講師の講 義を参観していたとき、講師の傍の椅子で居ねむりしたのに憤った宇田が辞表を出し たという一件を記し、しゃべることと実践がくいちがっていたのでは、生徒に侮られ てもしかたがない、と述べている。

教育論ということでは、鈴木は近時の教育が「 他的注入的」になってしまい、書 生が「主我的自発的」な修養を怠っていることを問題だとする。学校はますますさか んになったが、 「真正智識学問の研究」にはますます遠ざかり、 「器械的俗学の風」に

−60−

(7)

陥っている。西洋学識を伝播する機械的媒介物を製造するだけで、 「活用的創作的の 学者」を養成しえない。学生たちの勉学の目的は、学識そのものの修養ではなく、卒 業免状をもらうことである。だから学生は成績の高下、点数の多少を競うことが関心 事となり、教科書の暗記に追われることになる。教師は請け負い仕事の職人よろし く、知識の提供を義務として給金をもらえばよしとし、生徒の儀表たる責任を果たそ うとしない。学生には国家・生民のために学ぶという責任感がない。かくして、霊識 と活智の代表者たるべき青年は、自任自発の精神を消磨して一片の木偶になってしま う。

鈴木は、現今の青年が浮華文弱に流れて活青年という理想像から遠いのは、学風が 頽廃しているからだとし、帝大をはじめとする各学校を非難しているのだが、学校を 通じての弱点として彼が指摘するのは、知識の教授に終って人物を養成していないと いう点である。その弊の最たるものが高等中学だとして、そこの教育課程での教育内 容があまりにも広範・多量なので、生徒は暗記に精力を取られて内容の吟味にまでは 及ばないことを指摘する。鈴木は曽国藩がわが子に読書法を教えるべく、朱子の「虚 心涵泳切巳体察」を引用し、心読・霊識によって精神を涵養せよと語ったことに感銘 している。そもそも人間はは生まれながらにして独立の精神と自主の気象を天賦され ており、本然の霊性や活気を、ゆがんだ学風・国風によって消耗させられてはならな いのだと鈴木は言い、俗誉を求めたり、社会の流行に毒されたりするのではなく、独 立不覊・主観自発を心がけて活学を実行すべしと諭す。

鈴木はケンブリッジ大学に留学した友人から聞いた話として、そこでは自由放任の 主義を取り、知識の暗記を斥け、試験でも独創力

(オリジナリティ)

を重視することで 卓偉の識見家を育てていることを紹介する。詰め込み主義の日本の学風とは正反対で あることを羨望する鈴木は、自由快活を保持しようと思えば大学に入るべきではない し、いま在学しているのであれば、無用の勉強で霊性を失わないよう、点数や落第か ら超然としているべきだと激語する。 「独学は本なり学校は末なり。自修は主なり受 教は客なり」という訳である。鈴木は幕末維新の当時の青年の豪壮・闊達を恋い、文 明開化が青年の特性をだめにしてしまったとすれば、これほど「いみじからぬ者はな し」と言い放つ。西欧の文明・学術は既に停滞期に入っていると断じ、平民主義は人 間を物体視すると非難するなど、鈴木の立場は進歩的とは言いがたいが、発布された ばかりの教育勅語への拝跪に甘んじない、自立独立の気概にみちた立論と評しえよ う。そこで指摘されている日本の学校・教育の弊風を、われわれはこんにちでも克服 しえてはいないのである。

20世紀初頭における知的青年の実況

1 9 9 0年代に入ってすぐ刊行された学生論がある

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。何人かの「同人」が寄稿した

−61−

(8)

文章を、戸所竹雄なる人物が編集した、1 6 2ページの小冊子である。 「意気地なき軽薄 書生を鞭撻」することを主旨として、 「着実真摯の言」ではなく、あえて「激語粗言」

を採ったと述べている。大言壮語・危言激語を喜ぶのが当代の流行ではあるが、自分 たちは世流におもねって虚名を得ようなどと思ってこのスタイルを選んだ訳ではな い、と釈明している。彼ら同人は「名もなき青年」たちで、互いに相磨励して滔々た る濁流に投じないことを期しており、読書講学の閑を見出して集まり、炒り豆を咬み つつ高談清話する。その際、 「浮華を誇り淫靡を競ふ徒」を批判し、俗流を罵る発言 が多く、粗野にして激なる天真が暴露される。その天真をそのままに吐露した文章で あり、激語の中の微衷、粗言の中の寸志を汲み取ってもらいたいというのである。

この本は、硬派の青年が軟派の同輩、 「俗流」を罵り、非難してその覚醒を迫ると いうものであり、同人たちは「豪侠多感」の若者を同志としているのだが、 「活溌」

「勇壮」を売り物にしている「運動家」たちの頽廃ぶりや、短褐弊衣、豪傑を気取っ ている「無 書生」の横暴ぶりを批判する。同人は、一般の教育が徳育に薄く知育に のみ重きを置いている弊風を嘆き、知育と徳育の兼備を主張する。学科試験の成績が 良く、学校を卒業しさえすれば成功と考え、そのかん酒色をもてあそんでも、青楼に 上がっても恥じない鉄面皮を、同人は「ノラ犬」 「羊形虎心の怪獣」と罵倒する。虎 形のゴロツキ学生は一見して警戒されるが、羊形虎心の書生は、授業に欠席せず、試 験にも及第し、表面は模範学生の風を装うものの、内面に徳義なく、裏面で醜い汚行 をして恥じない。こうした「羊形虎心」「虎面猫心」の徒は、金ボタンぴかぴかの「赤 門先生」や「運動天下無双」と呼ばれる「向陵豪傑」の中にもいる、と述べている。

羊形虎心論に同調して、地方の高校の出身で帝大医学部に進学した学生が、大学生 の堕落ぶりを詳細に描写している。彼は湯島に下宿したのだが、同宿の医学生たちが 日々琴を弾じ笛を弄するだけで、談笑聞くに堪えず、醜行見るに忍びずという有様を 見て、大学構内の寄宿舎に移った。ところが、先輩の医学生たちは絹布を身に付け、

車馬で出入する連中ばかり、話といえば「嫁さん養子入」 、歌うのは「都々一」 ・ 「義 太夫」 、夜はたいてい外出・他泊、その淫柔と堕落・放逸に反発して、彼は寄宿舎を 出て白山の寺で自炊生活をおこない、住職の老師に指導を乞うようになった。

医学部学生の服装はばらばらで、金ボタン羅紗の制服の他、黒縮緬紋付、二重廻 し、モーニング、絹・紗の衣に嘉平治袴、中折帽の着流しまであり、高校時代の弊衣 破帽と比べれば、いったいこれは何だと著者は慨嘆する。彼の親友の一高出身学生 は、 「尋中で覇気、一高で虚勢、大学で奢侈」と喝破する。向陵にあって、腰には荒 縄を結び、一銭草履をはき、新聞や牛乳を配って苦学していた学生が、大学に入るや 富家に養子入りをしたり、婚約したりして、美衣・佳肴に飽くようになる例が少なく ない、というのである。しかも一高時代に独立独行とか誠意誠心とか呼号していた学 生ほど、そういう変身をする傾向があるという。ならば、彼らのかつての壮語は、身

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を売り勢を得るため、世を欺き人を偽るための道具にすぎなかったのではないか。

彼らに遠大の志はなく、邦家のために憂うる心はない。その理想は、社会において 天職をつくすということではなく、金と美人を得て独り楽しもうとすることである。

大学に入る目的は、最高学府で世界的大発明をしようとか、社会人心を裨益しようと かではなく、学士の称号を金と美人を獲得する手段としようとすることである。それ 故に、十万両の身代と佳人が手に入る養子口でもあると、昨日までの親友同士が餓狼 のごとく相争い、離間中傷、汚い謀計を使ってまで相手を蹴落とそうとする。

著者の罵倒は、医学生の日常生活の詳細に及んでいる。下宿であれ寄宿舎であれ、

花札がさかんに行なわれ、玉突き場でも賭博をする。いかがわしい料理店に出入り し、花柳の巷に出没する。講義の筆記を本屋に売り、盛装して音楽学校の演奏会や運 動会に現われ、そこを異性との交際の場としている。大枚の学資を投じて女性へのプ レゼントを買う者がいる。さらには未婚の女性に通じて、これを種に金銭を強請した 卑劣漢さえいる。この著者は、学生の中には善行美徳の賞すべき者があることを認め つつ、敗徳汚行の者がいかに多いかを強調する。

高校生や大学生の風紀は、中学生に大きな影響を与えるが故に、その自戒をきびし く要求する同人もいる。当今の中学生は、角帽・二本筋帽に憧れ、大学生・高校生を 模範とする。ところが、模範たるべき当の学生たちの方は、粗豪磊落の影に隠れて放 蕩し、風流酒脱の幕をおろして乱痴気騒ぎをしている始末である。堕落書生に至って は、学校にも行かず遊び廻っており、国もとの親に書籍代だ何だと請求し、送って来 た金は遊興飲食に費やす。そういう詐術が効かなくなると、富豪の息子を誘惑して友 人の金で遊蕩しようとする。後輩を勧誘して徒党を組み、集団で待合に繰り込むよう になる。無理算段がいよいよだめになると、高利貸の厄介になる。それでもなんとか 卒業できれば、持参金付きの細君をもらうことで借金の清算をする。結婚しても家庭 がおもしろくないので、またまた遊里に足を運ぶようになり、放蕩紳士となれば、賄 賂も買収も平気の平左ということになる。同人たちは、大学生や学士がいまだに世間 からもてはやされ、料理屋や待合の受けが良いとか、3千円・5千円の持参金を喜ん で出す親がいるとか、世間があまりにも開けていないことを嘆いている。

同人たちは、世間からもてはやされる運動選手についても、たいへんきびしい論評 をしている。野球が流行しているが、地方に野球を普及する、技術を伝授するといっ て高額の謝金をもらい、わがまま三昧の振る舞いをする者がある。陸上競技の選手 で、運動会があれば賞品を狙って出場する。柔道を少しやった連中が、夜分に二、三 人で組を作って市中を横行し、 「辻投げ」という暴行を働く。選手は学校のため、ク ラスのためにと、刻苦奮励して練習にうち込むので感心だが、ボートレースの合宿費 が自分持ちで負担に悩むという場合もある。学生の風紀対策として運動に期待する向 きもあれば、逆に運動が風紀を悪化せしめるという偏見で禁圧する学校当局もある。

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(10)

同人の意見では、運動の真価を発揮すれば廉恥礼譲の美風、活発勇壮の気風を涵養し うるとする。

以上、この書物で重視されているのは学生の品行・徳性の問題であり、知育・知性 の内容についての立論は見られない。編者は文と人とが往々乖離し、その人を知れば 文を信じえなくなることを嘆いている。彼は正岡子規に「満腔の敬意」を表するのだ が、和歌や俳句については何も分からないので、正岡の作品に対して云々することは できないものの、病苦に悩まされ、しばしば瀕死の境に臨みつつも、多くの図書に目 をとおし、新説を発表し、後進を誘導する、 「勇猛熱心の行動」に対して敬恭の念を 持つのだ、と述べている。これでは、科学的知識の研究と徳義的道理の養成とを二者 並行すべきだという、同人たちの理念に忠実ではないことになる。

ただ、知育の発達を重んじて徳育を問わないという風潮は、文明開化に随伴するも のとみる認識を、ある同人が示している。文明・開化は巧みに醜体をおおうもので、

アフリカの蛮族は棍棒で人を殺すが、欧洲人は財と権で人を殺す。かくて、貧富の懸 隔はますますはなはだしくなり、憐れむべき貧民の心身は富者の食膳をにぎわすこと になる。文明開化というのは、巧みに蛮行をなすことであり、偽善が文明・開化の本 質である。 「如是き、陰険狡猾の境にあらんよりは、むしろ赤裸々の蛮境に投ぜんこ とを思ふ」とまで、同人は激語している。文明開化の内容は科学的知識であり、近代 の文化である。それの偽善性・非人間性が指摘されているのである。

しかしながら、その批判は徹底したものではなく、分析は詳細ではない。知識論・

知性論として展開されず、品性・徳性の次元にとどまっている。だから、罵倒や現象 記述を超えた積極的提言としては、源氏が豪侠に偏して優雅の情操に欠け、平氏は優 雅に流れて豪侠の気を顧みなかった、源平二氏興亡の歴史に学んで、われらは武健豪 侠の気と優尚典雅の心を兼ね持ち、一方で豪放粗大の野鄙に流れず、他方で淫靡に陥 落することなく、真の「桜花男児」たれと説くにすぎないのである。 「切腹」をテー マとして、かつて日本の士風を維持した武士道の要点は、 「恥を知る」ということで あり、恥を知れば切腹という行為でそれを示したと述べ、これを現代に復活せよと提 案する同人がいる。現今の、人の良心を食い、人の熱血を飲んではばからない世情と 比較すれば、切腹は野蛮にあらずと言い、切腹は廉恥・剛直の心を励ます方便になる と述べている。激語というレトリックであり、本気の復活論ではないだろうが、こう いう立論をしなければならないほど、知性論の備えがないのである。

1910年代初期の修養論

「1 9 1 0年代初め」というのは、明治末年のことになるが、この時期の代表的な修養 論として取りあげるのは、新渡戸稲造の『修養』である

(13)

。これは、明治期の修養 論の帰結・頂点であるとともに、その後の時代、大正期から昭和初年まで広く青年た

−64−

(11)

ちに読み継がれた、近代日本における修養論の代表というべきものである。筆者所蔵 の『修養』は1 9 2 9

(昭和4)

年刊行であるが、1 3 6版となっており、ロングランのベス トセラーということになる。発刊後2年4ヶ月となる1 9 1 3

(大正2)

年末迄に既に2 8 版を重ねたが、翌1 4年2月に縮刷2 9版を刊行してから、発行部数はさらに伸びた。こ の種の書物でこれほど読者を獲得したものは、他にはあまり見あたらない。

著者、新渡戸は、この本の刊行当時第一高等学校の校長であった。書き下ろしでは なく、増田義一の主宰する『実業之日本』誌に毎月2回連載していたものが百回にな り、多くの読者からの懇望があったので、ひとつの単行本にしたと、著者が「序」で 説明している。時に感じての随録であるが故に、整然とした順序もなく、ひとつの偶 話にすぎないものを、一冊の単行本とすることの価値について自ら疑うとしながら、

本書が1人でも2人でも、迷う者のための指導者となり、 「落胆せんとする者に力を 添へ、泣くものの涙を拭ひ、不満の者の心をなだめ得る」なら、筆者望外の幸だ、と 述べている。

著者はまた、自己の専門学研究の余暇に述べた随想随感なので、自ら浅薄だと思う 点も多く、もう少し深く立ち入って説きたいと思う事もあるが、 「初から可成通俗を 旨とし、車挽く人、柴刈る野の人にも、尚解し得る程度に話したい」と思い直し、 「専 ら平易を主とし、浅く平たく綴った」とも述べている。時々友人から、談話があまり 通俗平易に流れるのは、著者の位置・職務からして感心しないので、 「も少し趣をつ けたらよからう」と忠告を受けた、という。こうした助言を斥けてまで通俗的な原 稿・著書をあえて刊行した理由として、著者は序文冒頭に「忘却先生」のエピソード を書いている。昔、博覧強記の儒者がいたが、博学を活用する機会を得ないうちに年 老い、学問どころか日常の事柄まで忘れ去ってしまって、世人の嘲りの対象となった という話であるが、著者は自分も「将に五十の坂を越へん」としつつあり、忘却先生 の轍をふまぬよう、自分の知識・経験を後進の青年たちに分かち、参考にしてもらい たいという志で、恥を忍んで公刊した、というのである。

著者は、一高校長を引き受ける条件として、東京帝大の教授も兼ねており、 「殖民 論」を講義していたのであるから、それだけでも「二足の鞋」を履いていた訳で、そ の上にこうした啓蒙活動をすることについて、非難する声もあった。増田義一と深い 関係を持ちすぎ、実業之日本社を特恵的に扱っているのではないかと、他の雑誌社か ら攻撃され、また、原稿料・印税稼ぎに狂奔しているのではないかという非難さえ あった

(14)

。この著書の中で新渡戸が、他から中傷されたときの対処の仕方について しばしば書いているのは、こうした事情に対応するものであろう。新渡戸に対する非 難や攻撃は、外部からだけでなく、足もとの一高生の間でも、激しく行なわれてい た。書中で新渡戸は、いわれなき中傷には取りあわず、無言で対応せよと述べている が、一高生からの批判に対しては、懇切に所思を開陳して理解を求めた

(15)

。一般読

−65−

(12)

者と高校生とでは、対応に違いがあっても当然だろうが、新渡戸が人を見て異なる法 を説いたということではない。新渡戸は一高生に対して倫理講話をおこない、また休 日に自宅で有志の生徒に感話をしていたが、それらで語られるものと雑誌で記される ものとは、基本的に同一であった。だから、哲学・宗教・文学などを深く研究してい る生徒の中には、新渡戸校長の話を卑俗・浅薄と聞く者がいたのはやむをえないが、

新渡戸の話は富国強兵・立身出世といったコンベンショナルな、時流に同調するもの ではなく、その意味では決して俗流に棹さす議論ではなかった。職業選択について、

各自の性質と嗜好に従って選べとか、貯蓄について、金銭・体力・知識・徳を貯蓄せ よとか、 「決心の継続」と「集中力」が必要だとか、彼の言説は常識的である。しか し、これは天下国家を論じて大言壮語したがる学生や、難解な哲学書を読んで「煩 悶」を気どるような学生に対しては、解毒剤の作用を持っていたと言えるだろう。新 渡戸はこの本で哲学上の論争に深入りすることを意識的に避け、努めてプラクティカ ルな次元での話に終始しようとしている。 「そんな高尚なことは、僕らのような者に はわからない」と述べ、空理・空論を斥けるのである。現実を無視して観念の世界に 逃避するのは、青年の陥りやすい罠であり、大正期教養主義はその弊の顕著なるもの であった。新渡戸の修養論は、それへの批判を先取りするものであった。

著者はこの本の「総説」で修養の目的とするところの内容、養心するときの「心」

の解釈が論者によって違っていることを指摘し、ニーチェ主義・ゴルキー主義・自然 主義・本能主義、極端な自愛説・我利々々論などを排撃する。しかし彼は、それらの 諸説の「学理上の根本思想」に立ち入る力もないし、わざと立ち入らないと述べ、避 けても実践上ではさしつかえない、とする。道徳的・倫理的思想は純粋の理論で説き 尽くせるものではないとして、カントの禁欲、実践道徳への傾斜を引証するのであ る。道徳的判断と知的・科学的認識とは異なる次元だと言い、われわれが日々の生活 の中でくりかえし求められる義務は、平凡な問題で常識的な判断ですむものだ、とす る。しかし、実はこの常識的判断こそがむずかしく、さらに実行こそが困難だとし て、平凡な務を成し遂げることによって難題の解決も可能になると主張する。

新渡戸の修養論は、いたずらに高尚深遠を追うのではなく、日常卑近のところで実 践可能な生活倫理、生活の知恵を教えようとするものであった。彼は、 「勇気」の徳 の修養について論ずるにあたり、勇気には Physical Courage

(物質的勇)

と大勇

(道徳 的勇)

の二つがあり、前者の修養法は簡単であるが、後者は複雑であり、礼や義との 関わりを心得ることが必要だとしている。そして、日々の生活で出会うようなこまか いことに耐えるくらいの勇気なら、だれでも持つことができ、1年か2年に一度くら いしか起きない重大な事件に堪えることも、修養によって可能になる、と言う。勇気 の修養には、第一に「正義を守って怖れないこと」が大切であり、第二には、ものご とについて最悪・極限の事態を考えてみることによって覚悟を定めること、第三には

−66−

(13)

それと逆に、難局に直面したときもその裏面に存在する希望や、困難を克服したとき の快楽を思うことで勇気が湧き出る。

勇気の修養の第四の方法は、第二の方法と似たものであるが、それが具体的に起こ りつつある現実の困難に係る想像であるのに対し、これは大火事・失職・冤罪などの 不祥事が起こることを空想し、それに比べれば現在の境遇で堪えられぬものはないと 考えるやり方である。第五の方法は、偉人の伝記を読んで彼らの勇気に学ぶこと、第 六は身近な人たちの不幸を想起し、わが不幸などはそれに比べれば何程の事でもない と感じることである。第七の方法は、ふだんしているものよりも少し重い仕事を引き 受け、その責任を全うすることで自信や勇気を身につけることである。このように、

修徳せよと訓戒するだけではなく、具体的な方法を示すところに新渡戸のプラクティ カルで懇切な態度が現われている。他方、勇気には苦難に耐え忍ぶ辛抱

(「フォーテ チュード」)

、つまり「沈勇」と、前進し、実践する勇気

(「カレッヂ」)

の二種があり、

後者は派手で進取的なので、青年はついこれに傾きやすく、ためにやらなくてもよい ことをやったり、乱暴したりすることになりやすいので、二つの勇気を兼備しなけれ ばならぬと、著者はいきとどいた注意も与えている。

新渡戸の本は、単なる徳目の説教ではなく、社会的な存在としての人間が、社会に 対してどのように関わっていくべきかを考察している。市民的倫理といってもよいの であろうが、彼の主張は彼の明確な社会観に裏づけられたものである。もとよりかれ は帝国憲法体制つまり天皇制の下にあって、それを支えることを任務とする高級官僚 であったから、その言説がそれを逸脱するものでなかったのは当然であるが、欧米社 会の美点や日本社会の欠点について率直に記述している。もっとも、彼の立場は、 『武 士道』にみられるように、和・洋それぞれに独自かつ共通の価値があるという、穏健 で調和的な思想であるから、折衷的・八方美人的と評されるような面があった。

しかし新渡戸はこの著書の中で自分の経験を随所で紹介し、率直に自己を開示して いる。私事について語ることについてためらいつつも、自分の恥をあえてさらすこと で後進の人たちの参考になればとの気持ちを表白している。知的修養の方法としての 読書についても、自分が少年時代以来多読にすぎて、眼を害し、頭脳が粗雑になり、

自分の定説がなくなったなどの弊害の反面、唯一速読の力が身に付いた、と述べてい る。多くの知識を有しているが、それらの知識の出典までは記憶しておらず、知識が 役に立っていないことを悔やむ。そこで新渡戸は青年たちに、多読の利を活かしつつ その弊を防ぐ読書法として、準拠すべき最良の書を決めておいてこれを反覆精読し、

他の書物は標準書の補足・参考として読むことを勧める。研究のためには多くの書物 を読まねばならぬが、岐路の方に入り込まぬよう用心すべきこと、書物の中の重要な 部分にはマークを付けておいてのちに再読するようにすること、一章ごとにその大意 を掴むようにすることなど、具体的な助言をおこなっている。

−67−

(14)

さらに新渡戸は、日本人が英米人に比して読書力・読書量の点で劣っており、中学 から大学迄教師の講義を筆記するのが主たる学習法となっていて、学生時代に読書し ないので、卒業後に書物を読む習慣がないのだ、と述べている。 「文明国民中で日本 人ほど読書せぬ国民はあるまい」と言う新渡戸は、これに対する治療法として、家庭 読書会や学生における友人間の読書会を推奨している。彼の育った家庭で父親が家族 に『八犬伝』を読んだこと、欧米の家庭では『バイブル』などの家庭読書がおこなわ れていることを踏まえての提言である。かくも読書を重視する新渡戸であるが、修養 の方法として「耳学問」の重要性も指摘し、談話の他に友人から来た端書きまで材料 とすることで、英米人のごとく読書・学問と実生活とを結合すべきだと論ずるのであ る。

3.大正期教養主義の論理

唐木順三の大正期教養主義批判

大正期の教養主義について卓越した論評をおこなったことで、唐木はよく知られて いる。彼の論稿は、太平洋戦争が終わって間のない時期に書かれたものである。彼は 1 9 4 8

(昭和23年)

3月、 『展望』誌に「型の喪失」を発表したが、これは「現代史への 試み」の第一節であり、以後の節は『展望』やその他の雑誌で書き継がれていっ た

(16)

。 「個性に立つ教養派の擡頭」

(第2節)

・ 「教養 派 の 歴 史 的 社 会 的 規 定」

(第3 節)

・ 「教養派の一見本」

(第4節)

・ 「読書と行」

(第5節)

・ 「教養派の後退と新たなる 型」

(第6節)

など、教養の問題がさかんに取り上げられているものの、彼のテーマや モティフは、 「型と個性と実存」であり、とくに「型」の問題に終始こだわっている。

このことは、 「型そのものとその崩壊」

(第7節)

・ 「個性から実存へ」

(第8節)

・ 「コン ボシビリテ」

(第9節)

・ 「型への憧憬」

(第10節)

という構成からも明らかである。

唐木は上記の第1節で、ロシア革命

(1917年)

に際会した森鴎外が、 「古き意義を盛 るに堪へたる新なる形式」の創出を急務としていた、とする。そして、戦後の日本が、

「シンからの無形式」 ・ 「根こそぎの無形式」にまで立ち到った理由について解明する ためのひとつの方法として、教養という問題を唐木は検討するのである。彼は、鴎外 以後の3 0年間、無形式な教養が形式・型・生活体系の代用として通用した、とみてい る。ところで、鴎外の言うところの旧い形式とは、唐木のみるところでは、武士・藩 閥者流の形式であり、具体的には儒教道徳・礼であって、それを亡ぼしたものは主と して日露戦争後のブルジョアジーである。封建的なイデオロギーはまず自由民権論に よって攻撃されたが、大きな批判勢力になったのは自然主義であり、それが形式や型 にまで至らないうちに、明治末から大正へかけてヒューマニズムが取って代わった。

白樺派や無我苑・一燈園・新人会・民人同盟会などがヒューマニズムの運動だ、とさ

−68−

(15)

れている。

さて唐木は、ヒューマニズムのもうひとつの現れとして、 「教養」を取りあげる。

教養は儒教的な「修養」に対置される概念であり、形式主義・型を斥け、人類の遺し た豊富な文化遺産を享受すべく、読書によって自己の個性を拡大しようとする。教養 主義は、究極の拠り所を個性に求め、すぐれた個性の生み出した過去の文化財を読書 によって攝取し、それらを尊崇し、人間と人生の問題を中心に据えていた点で、まさ にヒューマニズムの一形態なのである。教養主義派は、全と個、神と個性を直結させ ようとし、中間項としての種を排除した。普遍的真理を無媒介に感得する天才、国 家・社会の事には超然として自己の内奥にこもる天才、神の啓示に耳をすます天才、

自己表現が忽ちにして法則となる天才を教養派は憧憬した。よしんば自らはそこにま で到達することはできないとしても、その価値や意義を理解し、味得するために努め ようというのである。

では、教養派・教養主義派の歴史的意義とは何だったのであろうか。唐木はヒュー マニズムが一般に、不合理なるもの、不自由なるもの、俗なるものに対立する、と述 べている。彼の見解では、日本のヒューマニズムは反封建であると同時に、 「日本の 複雑な歴史性に従って」 、日露戦後のブルジョアジーとも対立せざるをえなかった。

有島武郎の所有地解放、西田天香らの無所有主義、新人会の「文化運動」 ・ 「解放運 動」は、ブルジョア・イデオロギーへの批判的要素を含んでいる。

それでは、大正教養主義は反封建・反ブルジョアジーの旗幟を明確に打ち立ててい たのであろうか。唐木は、教養派が天才を崇拝する反面、大衆に対する優越感を持っ ていたこと、当時国家・民族・経済の急迫する諸問題をないがしろにして、文化主義 に隠遁したことを指摘する。教養主義が現実を逃避した理由について、 「伝統的なも の」 ・ 「人性一般」をあげ、専制政治下・乱世下における文人・賢人の処世術であろ う、と言う。定家・西行・利久・芭蕉から永井荷風に至る系譜を叙述したり、経世済 民の営為を黙殺して自己の中に閉じこもったストア派へ連想を広げたりする。こうい う先達たちは克己のために意志の鍛錬・修行に精進したのに、教養派は一つの理想、

一つの古典を選ぶことをせず、さまざまな古典の花から花に蜜を集めた、すべてのも ののエピゴーネンであり、模倣者であったと貶すのである。

唐木ほんらいのテーマである「型」ということで言えば、大正期ヒューマニズム、

その一部である教養には型がなかった、型にまで自己を一般化・普遍化せしめえな かった、と唐木は指摘する。鴎外・漱石・露伴など、明治維新前後に生まれ、幼時に 四書五経を教え込まれた「素読派」世代は、儒教的・武士的な、卑屈を嫌う高潔なも のを持ち、日本と外国、東洋と西洋、封建制と近代の間隙を綜合しようとして苦悩し た。その苦悩は本物であり、矛盾は真に矛盾として明確となった。彼らには、 「内心 に於ける相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形・型・人格・性格があっ

−69−

(16)

た」と唐木は述べる。

これに反して教養派世代は、新式の学校で、欧化主義が表面化している時に育ち、

上記のような先達の著作や講義・談話から学んで育ち、文筆活動をおこなったが、大 正期というのが複雑・混沌たるものだったこともあり、この時代を創造的な時代にす ることも、自らを創造的な第一代とすることもできなかったというのが、唐木の評価 である。藩閥・財閥と政党と労働階級が三つ巴の渦を巻いていた時代と社会に対し て、創造的でなく批評的に、高踏的に、個人的な苦悩に沈潜していったのが教養派だ と言うのである。自らは社会的基盤を持たず、貴族・藩閥は英知なき野蛮人、資本 家・政党人は俗物、無産階級は附和雷同する大衆

(マッス)

だと、すべてを否定的に 批評しつつ、己れは国家・社会の圏外に立ち、自己優越を信じながら扶持を受ける精 神貴族として、現状を根本的には肯定していた「寄生的文筆人」が教養派だというの が、唐木の見解である。

唐木は、さらに教養習得の方法たる、古典の読書について考察する。書斎におけ る、文字を通じての静的な享受が、はたして自己の中心を確立しうるかという問題で ある。彼は素読派世代の西田幾多郎の場合を取りあげ、乱読を自戒し、朝夜の参禅・

打座があったことから、 「教養とともに行があった」こと、むしろ「行第一」であっ たことを指摘する。これに対して、修養や修身の形式主義に反撥して起った教養主義 は、行為と鍛錬を欠いた批評と享受に終わったのではないか、と言う。かくして教養 は美的なものとして洗練に接近し、俗化すれば趣味・娯楽となり、読書は散歩・映 画・碁将棋と並ぶ趣味の一つとなり、さらには文化住宅・文化天火から文化国家・文 化省・ポケット版文庫へと安直化していく。唐木は、大正教養主義が行為・身体的鍛 錬を欠き、ギリシャにおけるごとき克己・節制・忍耐等の徳の養成をないがしろにし たことを問題とする。この欠落が、精神を個人主義的・享受的にした、とみるのであ る。

さて、唐木は大正期的教養の無力を象徴的に示すのが、芥川龍之介の自殺だ、とし ている。最高の教養人だった芥川は、 「新時代」への関心を持ちつづけ、ロシア革命 にも注目したが、階級闘争の激化しつつある現実社会にあって、自己の去就を決する ことができなかった。唐木はそれを、小市民的教養の意味喪失だとし、芥川の死以 後、教養派・教養論が社会的発言をしなくなり、これに代わって無産階級とファシズ ムが、人類と個性、普遍と個別の中間項としての特殊・種・国家・社会・階級を問題 とし、個性よりも型と形式を中心とする実践的な行為を問題として、自己主張するよ うになったと述べている。唐木は前者について、マルクス主義は新しい型を創造しよ うとしたが、政治と文化、人間性と個性といった問題について、個人のモラルを超え た一般的 Sitte を創出しえていないと論じる。他方、軍部は天皇・国家・統帥部・自 己を機械的に絶対化し、自己の型を社会に強制し、教養人・知識人はこれに抵抗する

−70−

(17)

ことなく屈服した。唐木に言わせれば、もともと教養派は国家・社会・政治を軽蔑 し、それらを無視して、傍観者の位置に立った。一冊の古典を選びえず、自己形成を なしえなかった教養人は、いたずらに饒舌だっただけで型を持ちえなかったが故に、

軍部の単純で、しかし確固たる信念に支えられた型によって圧倒された、というので ある。現代史を型・形式の喪失と復興・創造によって説明しようとする唐木のこだわ りに同調しなくてもよいだろう。大正期教養主義の実態や本質について、さらに検討 してみたい。

大正期教養主義の典型〜阿部次郎の人格主義〜

唐木順三は、 「教養派の一見本」として阿部次郎

(1883〜1959)

を取りあげ、 『三太 郎の日記』について論評している

(17)

。なぜ阿部次郎かといえば、唐木の次のような 経験によってである。ひとつは、戦時中に発表された旧制高校生徒の愛読書調査で、

多くの生徒がこの本をあげていたこと、ふたつには、戦後においてもそれが多くの学 生によって争い読まれている事実を知ったことである

(18)

。唐木は古本屋で高額の値 段が付けられているこの本を購入し、長い引用をして教養派の特徴と弱点を明らかに しようとする。

第一に、三太郎つまり阿部の社会に対するスタンスについて、明治から大正へかけ ての社会的大変動の時期にありながら、外の社会には目をつぶって、もっぱら自分の 内面生活に沈潜しようとしていること、自然と人生と自己、普遍と個を問題にする が、種も社会もないことを、唐木は指摘する。

第二に、三太郎における自己卑下が、実は自己優越の前提であり、 「傲慢ともいひ たい内在的充足」が語られている、とする。 「決定した態度を以て人生の途を進んで 行く人」の勇姿を羨望し、彼らの日に輝く凛々しさに比べれば、こちらはただ指をく わえて陰に潜むより仕方がないと、ひとたびは卑下する三太郎であるが、どうしてお 前たちはそんなにぐずぐずしているのかと叱る人の「長き影には強制と作為と威嚇と 附景気と、更に、矯飾偽善の色さへ加はってゐる」と看て取る。そこで、彼らに比べ れば自分たちは「丸で品等を異にする上品の人」であり、彼らが偽人であるのに対し てこちらは真人であると、自己を高く評価する。劣等な生活内容を持ちながら強い自 信を持つ「自己肯定者」 、 「すべての真剣な努力に対して真面目な注意と同情と尊敬と を払はぬ」集団である「世間」を蔑視し、自分の方が高く、大きく、精緻であると、

三太郎は誇るのである。

そうした自己優越の根拠は、自分のつまらなさを知る者と、それを知らぬ者とのち がいであり、ソクラテスと愚人の差である。己の卑賤を知るが故に、より高く、より 大きく、より精緻になろうとする願望に促されて、三太郎は修養に励む。三太郎の三 つ目の特徴は、釈迦・キリスト・孔子・ソフォクレス・セネカ・ダンテ・シェークス

−71−

(18)

ピア・ルソー・ゲーテ、お互いに対立しているニーチェとトルストイなど、あれもこ れもすべてを学ぼうとする貪欲な探究心、synthesism である。三太郎は一切の存在 の中にその存在の理由、固有の価値を認めて、 「個々のものを真正に認識することに よって普遍に到達すること、凡てのものと共に生きて而も自ら徹底して生きること」

をわが理想とする。

唐木は、三太郎の四つ目の特徴として、次の点を指摘する。すべての先哲、国家・

民族、万象が研究の対象となりうるが、そして三太郎は観察者として対象よりも優越 的位置に立つが、可能性としての個性、包攝しきれない普遍についての憧憬・不安・

恐怖・絶望を感じざるをえない。これが三太郎の言う「内面的生活」であり、実社会 の葛藤に介入することを避けて、自己充足に専念しようとする。そのための方法が、

古典の幅広い渉猟であった。それは、直接的・人格的な師弟関係が成り立たない現実 の状況にあって、やむなく採らざるをえない手段である。唐木は、三太郎の教養主義 に対し、それが内省に閉じこもり、外面生活を無視することについて、古典への逃避 について批判し、それらは阿部の師である漱石の実存的苦悩に及ばないものである、

と言う。阿部は、こんにちにおける師弟関係の崩れの根本は、人と人との精神的信 頼・内面的関係の崩壊だと言うのだが、そういう崩壊をもたらしたブルジョア社会、

個々介立・個人的自由主義・自由競争・生存競争に対して阿部は批判も攻撃もせず、

教養派が社会的地盤を持たない小市民の自己優越と自己逃避の中に閉塞し、社会の欠 陥を別にして自己の内面に集注しようとしたことを、唐木はきびしく問責するのであ る。

唐木によって徹底的に批判された阿部次郎であるが、唐木の批判によって大正期教 養主義がすべて否定される訳ではない。阿部について見ても、唐木が主として取りあ げた『三太郎の日記』のあとに刊行された阿部の著作では、唐木の批判の外にある言 説が発表されている。阿部の『人格主義』は、雑誌や新聞に掲載した論稿を、 「第二 編 本論―人格主義」の6章と、 「第三編 餘論―応用」9章にまとめ、これに「第 一編 序論―理想主義」の2章を新たに書きおろして付け加えたものである

(19)

。雑 誌への寄稿に際して、それぞれが独立したものでありながら、一冊の本の各章を構成 するように意図して書かれたので、各章に重複はあるものの、かなり体系的な構成に なっており、内容的には哲学というより文明・文化をテーマとする評論である。阿部 はこれより先、リップス

(Lipps, T. 1851−1914)

の『倫理学の根本問題』を縮訳・刊 行しているが、 『人格主義』は、リップスの説を普及するための書物であった。著者 の立脚点は明らかにリップスであり、阿部はリップスの学説を自分のことばで語ろう とした。

序論の冒頭で阿部は、一つの主義を信じるということは、これによって生活の全体 を律する義務を負うことだったと述べている。思想のみならず、すべての実践をひと

−72−

(19)

つの原理でつらぬこうとする情熱を持続するということであり、生活原理としての主 義は、心の奥底に深い根を植えているものでなければならない、というのである。一 つの主義から、これと矛盾する他の主義に転ずるのは、旧い主義に従う生活が破綻と 矛盾を暴露し、その不合理が徹底的に自覚させられたとき、はげしい戦、 「生爪を剥 がすやうな痛ましい批判と破壊」を経たのちであると阿部は述べ、安易・軽薄な転向 を、 「生命として主義を信ぜずに名前としてこれを信ずる無主義者」だけができる行 為だ、と非難する。このことは個人の思想においてだけでなく、社会の思潮において も同じだとし、時代の主潮が安易に転変していくような社会は無性格を証明している と言う。教養主義――阿部のことばでは人格主義・理想主義――は、思想を飾りと し、あれこれの思想を渉猟して、美しい花から花へと飛びまわる蝶のような態度だと 見なされやすいが、阿部においては生死をかけるような、きびしく、リゴリスティッ クな態度が主張されているのである。

阿部の言うところの人格主義とは、人間生活において、 「人格の成長と発展とを以 て至上の価値となし、この第一義の価値との連関に於いて、他のあらゆる価値の意義 と等級を定めて行かうとするもの」である。物質は、人格の価値を増進する条件とし て価値が認められるのであり、物質の生産や分配の問題は、条件として重大であって も、目的として重大なのではない。阿部は物質的享楽主義を排撃し、 「衣食住の奴隷 の間に行はれる贅沢権争奪の問題」――富者と貧者のあいだの階級闘争を含む――

を、餓鬼道の問題として斥けようとする。しかし、人格の成長・発達を阻害している 現在の経済生活の問題点を指摘し、それらを改造すべきだ、と主張する。焦眉の急を 要する根本問題として彼があげるのは、生存権の保証、財貨の公共的使用、労働の享 楽化・芸術化・人格化、贅沢心の抑制と生活の単純化という四つの項目である。

当然のことながら、彼は資本主義社会の仕組みそのものがこうした諸問題を生み出 していると言う訳ではないし、天皇制国家が「大御宝」

(臣民)

の生存権を保証して いない現実を批判している訳でもない。ただ現象としての諸矛盾の改善を願望してい るにすぎない。それらを実現するための方法について提言しているのでもない。彼 は、 「私達の生活を如何にすべきか。私は自ら恥じながら、自分には具体的考案がな いことを告白しなければならない」と述べている。問題点を指摘したり、その改善の 必要を述べる程度のことなら、だれにでもできる、とも言えるであろう。 「経済生活 そのものの内部に関する問題でなくて、経済生活の倫理的意義に関する問題」を扱う のだから、経済学の門外漢である自分にも発言権があるだろうと阿部は言うのだが、

こういう見方では、経済の構造が諸悪を発生させていることを見とおすことができな い。

しかし阿部は、経済生活における諸欠陥が日本社会の内部から発生していることを 指摘し、発生源の改革には手を着けず、外来の思想の感染ばかり問題にしている「政

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参照

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