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古代日本の「匂い」

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(1)

古代 日本の﹁匂

い﹂

高   橋 庸   郎

じめ

 日本語の﹁匂い﹂という語は︑もともと﹁丹︵に︶﹂という色の

秀でた美しさを表わした︑視覚的な様態表現語であったということ

は周知の通りである︒これに対して﹁香︵カ︶﹂の方は﹁気︵ケ︶﹂の

転訊とち言われ︑或いは﹁臭ぐ︵カグ︶﹂の語根に当たるものとされ

たりするが︑﹁ニホイ﹂も﹁カ﹂もいずれも純粋に﹁匂い﹂そのも

のを指す語であることに違いはない︒しかし上代文学︑例えば﹃萬

葉集﹂などでは︑実際には﹁カ﹂が使われることは少なく︑使われ

ている場合でも︑殆どは﹁カグハシ﹂という語の語根としてであ

り︑﹁カ﹂が単独で用いられるのは極く希である︒しかし﹁ニホヒ

︵フ︶﹂の方は﹁萬葉集﹂には頻出する︒即ち本来﹁匂い﹂そのも

のを表わす語ではない﹁ニホヒ﹂が上代日本文学では多用され︑本

来﹁匂い﹂そのものを表わす語であるはずの﹁カ﹂が︑殆ど用いら

れていないという事実は︑古代大和民族の匂いに対する観念を的確 に象徴しているように思われる︒つまり上代日本人は色彩に対しては︑可成り鋭敏な感覚を持っていたが︑それに比べて臭覚的な認識については非常に鈍感であったと考えられよう︒これは古代漢民族が匂いに対して極度に強い関心を示し︑敏感な感覚を持っていたのとは好対象である︒﹃毛詩・載更﹂には︑﹁酒を爲り醒を爲りて︑

一・・⁝銚たること有り其の香︑邦家の光なり︑傲たること有り其の

馨︑胡孝の寧なり﹂とある︒これは祖霊に奉げる酒醒が豊かに香れ

ば︑邦家は栄え︑一族は安泰であるということを歌ったもので︑馨

香の霊力に期待する一族の思いがこめられている︒中国現存最古の

詩集であるこの﹃詩経﹂には︑まだ他に﹁生民﹂﹁豊年﹂などにも︑

匂いの霊力を基礎として作られた詩が収められている︒中国の南方

文化に於ては︑匂いは更に重要な意味を持っていた︒例えば屈原の

﹃楚鮮・離騒﹂では︑文学的比職として賢臣や君主を︑申淑︑菌

桂︑蘭正︑茎などの香草で象徴させているばかりではなく︑秋蘭︑

江離︑辞正︑木蘭︑茄慧などの香草を身に纏うことによって︑身を

潔白に保つということが︑屈原自身によって行われるのを見ること

       一五

(2)

ができる︒またこのほか︑木蘭露︑秋菊花片を飲んだり食したりす

ることにより︑体内に香物をとり入れて︑身の浄化を企てるという

ことも行われている︒また同じ﹁楚鮮・湘君﹂では多くの香草が︑

神降しの為の欠かすことのできない道具立てとなっている︒つまり

香草を敷きつめ︑芳香のたちこめる舞台を設定して初めて神を誘う

ことができるのである︒芳香は︑それを身に纏えば自分の身心を清

らかにするぱかりでなく︑体内に摂取すれば更に自己の日常的存在

から脱して︑一段上のより天に近い存在になることができるのであ

り︑またそうした清らかにして脱人問的存在のみが︑体内に神的力

を生じせしめ︑その力が神を招くことができるという観念が当時か

なり強く一般化していたのである︒こうした基礎的な観念から発し

て︑漢代以後匂いについては二つの発展の道が開かれることにな

る︒その一つは︑香物を体内に摂取するという事から︑香物の薬物

的効力が期待されるようになり︑それが本草学的探究の芽生えとな

ったことである︒もう一つは︑自己の内に神的力を生ぜしめる事か

ら︑香物は人に不老長生への生命力を与え︑人を単なる人問として

の存在から︑神仙的な存在に昇華させることができるという︑謂ば

道家的な小道具となったという事である︒後者の場合︑その香物の

力をより強力に︑より有効に発揮させる為に︑﹁薫香﹂﹁焼香﹂の事

が始まるのである︒﹁焼香﹂という習俗が本格的に行われるように

なるのは︑インドからの仏教東流以後ではあるが︑﹁西京雑記﹂な

どによると後漢の頃にはもう已に一部で焼香のことが行われていた

ことが理解できる︒       一六 以上︑上古以前を例にとって考えてみただけでも︑漢民族が匂いに対してどれほど多大な関心を払って来たかが理解できよう︒しかも匂いが道家的神仙思想と繋っているという点から︑匂いは漢民族文化の成立の為の重要な一翼を担っているということも理解されよう︒こうした歴史を通じて︑匂いは現代中国文化の中でさえ重要な基盤の一つであり︑匂いに対する漢民族のこのような感性は今なお生きつづけでいると言えるのである︒ ところが日本文化の中での匂いは︑残念ながら中国文化の中でのような文化発展と︑多様化の為の役割りを果たし得なかったし︑またそうであるべき期待も︑扱いも受けたことはなかったのである︒それでは日本で匂いは歴史的文化の上で全く顧みられることはなか

ったのかと言えば︑必ずしもそうではない︒今でも仏教の典礼では

必ず﹁焼香﹂が行われているし︑﹁聞香﹂は典雅なあそびの一つと

して伝世されて来ている︒

 ここでは以下︑日本の上代文献などを辿りながら大和民族と匂い

の係わりについて考えてみたい︒

二︑古代歌謡と匂い

﹃日本書紀﹄﹃古事記﹄の歌謡︑

みつみつし くめのこらが

ねがもと そねめつなぎて

 ︵美都美都斯 久米能古良賀 久米歌に︑あわふには かみらひともとうちてしやまむ

 阿波布爾波 賀美良比登母登

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(3)

   曾泥賀母登 曾泥米都那塾弓 宇知弓志夜麻牟︶

 とある︒第四句目の﹁かみら﹂は︑﹁韮﹂とも﹁臭韮﹂とも釈文

されるが︑原文では﹁賀美良﹂である︒つまり読音は﹁カミラ﹂で

ある︒﹃本草和名﹂には︑﹁韮鵠斌操一名白窮︑一名豊本胴趾仁鮎一名寒

茱銚折一名草鐘乳脂触狽臥馳繊和名古美良﹂とある︒即ち﹁ミラ﹂とは

﹁ニラ﹂のことで﹁韮﹂である︒韮は本来韮と書き︑ ﹁読文﹂も韮

でとり︑﹁地︑韮茱也︑穫而久生者也︑故謂之韮︑象形︑在一之上︑

一地也︑此與嵩同意﹂と説解している︒ここにいう嵩は﹁説文﹂の

韮の前項にあり︑﹁妾︑物初生之題也︑上象生形︑下象根﹂とある︒

つまり韮も嵩と同じく︑草本が地上から芽を出しのびているのを象

形したものであるということである︒四部叢刊本﹁重修政和護類本

草﹂なども韮字を用いて︑韮字は用いていない︒居延や武威の漢

簡︑馬王堆出土の用書の中にも韮はあるが︑韮はない︒韮は六朝以

後に使われるようになったらしい︒唐の﹃廣韻﹂には︑﹁韮︑俗作

韮﹂とある︒恐らく﹁切韻﹂にもそうなっていたのであろう︒宋の

﹃集韻﹂にも︑﹁韮︑或瓜岬﹂とある︒﹃爾雅・緯草﹂の香菜を集め

た部分には︑﹁穫︑山韮︑蓉︑山葱︑勤︑山睡︑薦︑山蒜﹂と韮は

蒜と同類に扱われている︒︵ここにいう穫は﹃政和本草﹂等にいう

﹁穫香﹂とは別もので︑葱︑蒜などと同類の香りの強い単葉の植物を

指すものと思われる︶︒また誰は﹁音澤﹂に薙とあるから︑これも

韮︑蒜などの同類の薙︵ラッキョ︶の一種なのであろう︒﹃爾雅﹂

のこの部分についての郭撲の注は︑﹁今山中多有此草︑皆如人家所

種者﹂とある︒山韮ももとは山中に生えている野生のものであった が︑のちに人が栽培するようになったということである︒﹁本草和名﹂に言う﹁白窮﹂というのは﹃爾雅・稗草﹂に︑﹁荷芙渠︑其董茄︑其葉蓮︑其本薔﹂とあるのに郭撲が注して︑﹁董下白窮在泥中﹂というのに当たる︒泥土の中にうずまっている柔くて白い茎という普通名詞であったのであろう︒﹃読文﹄には︑﹁窮︑蒲子︑可以爲卒席世謂蒲窮﹂とあって︑これはある特定の植物についての箇有名であったらしい︒段玉裁の注には︑﹁蒲子者︑蒲之少者也︑几物之少少者謂之子︑或謂之女︑周書蔑席貰部日︑繊窮席也︑馬融同王粛日︑繊窮華席也︑某氏愉書傳日︑底席蕩革也︑鄭注閲榑日︑華今之蒲華也︑■緯名日︑蒲卒以蒲作之︑其鶴卒也︑奉者席安隠之欄︑此用       ■蒲之少者爲之﹂とある︒これは﹃誼文﹂の蒲字の項に︑﹁樵︑水〃也︑或以作席﹂とあり︑その注に段玉裁が︑﹁周檀察祀席有蒲箆﹂      ■とするのに続くものである︒つまり弱というのは若い蒲︵ガマ︶のことで︑それでむしろを編んだというのである︒故にそれは﹁本草      ●和名﹂にいう︑そしてっまりは﹃兼名苑﹂に言う韮と同じという白窮とは別ものである︒同一の物について和漢で表記上の名を異にし︑和漢で同名であっても︑物を異にするということは実はよくあることであるが︑ここでは恐らく唐土の書に︑韮の様態が若い蒲と      ●似ているということで窮といい︑更にその土にうづもれた白い所ということで﹁白窮のようなもの﹂という意味で︑この﹁白窮﹂と言ったのを﹃兼名苑﹂が名と解したのであろう︒また﹃本草和名﹂にいう﹁豊本﹂というのは︑﹃檀記・曲穫下﹂に︑﹁几祭廟之橦︑牛日

一元大武︑家日剛憲︑豚日踊肥︑羊日柔毛︑難日翰音︑犬日嚢献︑

       一七

(4)

維日跣趾︑兎日明硯︑蹄日ヂ祭︑藁魚日商祭︑鮮魚日艇祭︑水日清

篠︑酒日清酌︑黍日蒲合︑梁日鞠糞︑穰日明棄︑稻日嘉疏︑韮日豊

本︑騒日戯鮭︑玉日嘉玉︑幣日量鋤﹂とあるのにもとづく︒﹁祭廟

之稽﹂では動物は︑牛︑琢︑豚︑羊︑難︑犬︑維︑兎︑繍︵ほし

肉︶︑藁魚︵ほし魚︶などが用いられているが︑植物では︑黍︑梁︑

稜︑稻︑韮のみである︒この中で穀類以外は韮だけである︒韮が疏

菜類の代表として非常に重要視されていることが解る︒﹃本草和名﹄

もこの豊本の名を﹃兼名苑﹂より得たという︒この場合も︑白窮と

同様︑察祀に合わせて︑呼ばれたところの︑もともとその性質︑特徴

を表わす語︵それは純粋な意味でのいわゆる名ではない︶を︑名と

して取ったのであろう︒豊本について李時珍は﹃本草綱目﹂の中

で︑﹁穫記謂爲豊本︑言其美在根也﹂と述べ︑また︑﹁韮叢生豊本︑

長葉青翠︑可以以根分︑可以子種﹂と述べているのは︑その語が韮

の性質︑様態を表わした語と解しているからである︒李時珍の解説

から察するに︑﹃穫記﹂で韮が重要視される理由はどうも︑その増

殖繁茂する生命力の強さにあるらしい︒﹁幽豆本﹂の﹁ゆたかなる﹂の

意味が雄弁にそのことを物語っている︒﹃檀記﹂の祭廟之礼に於け

る植物名にはすべて︑鞠︵穀類のもつよい香り︶︑明︑嘉︑豊など

謂ば美語ともいうべき文字が用いられている︒これは︑これ等の呼

び方が一般名称ではなく︑この祭礼に於いてのみ用いられるところ

の様態表現語の一種の雅称的な用法であることを示している︒また

﹁本草和名﹂には︑韮について寒菜という名が見えるが︑その基く

﹃千金方﹂という書は︑﹃本草綱目﹂に見える唐孫思遡の撰になる        一八

﹃干金食治﹄﹃千金備急方﹂或いは﹃千金翼方﹂などを指すのであ

ろうが︑一いま判然としない︒この寒菓というのもいわゆる名ではな

く︑その殖物としての性質を表わしていた語をそのまま︑その名称

と解してしまった結果であろう︒こうした誤解は当然漢籍相互に於

いても当然あり得ることであるが︑その漢字表記という性格上︑外

面には現われ得ないことが多い︒その点和書にまで引きずって来ら

れた時には︑時としてその裏が見えることがあるのは注意すぺき点

である︒﹁本草和名﹂には韮についてまた草鐘乳の名が見えるが︑

これは﹁本草綱目﹂に︑﹁藏器日︑俗謂韮葉是草鐘乳︑言其温補也﹂

と見えるものであり︑﹃稗名﹂に︑﹁草鐘乳︑起陽草﹂というのと︑

意味的に一致して肯ける︒

 扱︑本題に立ちもどって︑紀記歌謡の久米歌の﹁かみら﹂である

が︑﹃本草和名﹄﹃蟹心方・一・十八﹂ともに︑﹁韮︑和名古美良﹂      ■とみえる︒こちらはカミラではなくコミラであろう︒両書ともに韮

の前項に薙があり︑それに﹁和名於保美良﹂とあって︑それはオホ

ミラ即ち大ニラのことであるからである︒つまりコミラとは小ニラ

のことである︒それは﹃本草和名﹂の蒜の項に︑﹁和名古比留﹂と

し︑小麦を﹁和名古牟岐﹂とするのと同じである︒それでは久米歌

に言う﹁賀美良﹂の﹁賀﹂とは何如なる意味であろうか︒例えば同

じく﹃本草和名﹂に桜桃の項があり︑それには︑﹁和名波く加乃美︑

一名加介波佐久良乃美﹂とある︒これは﹁重訂本草綱目啓蒙﹂によ

れば︑ユスラウメ︑ユスラゴなどとあり︑更に︑﹁庭際ニウヘテ花

ヲ賞ス自生ナシニ三尺ノ小木ニテモ花實アリ⁝⁝葉ノイヅル時花盛

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(5)

ニヒラタク色白ク形梅花ノゴトクニシテ小ナリ薯ハ櫻花ノ薯ノゴト

シ葉モ櫻葉二似テ短ク⁝⁝﹂とする︒これで見ると﹁加介波佐久

良﹂■とはどうも本来﹁古ホ波佐久良﹂であったと思われる︒﹁古﹂

が﹁加﹂に転詑したものと考えられる︒そうすると︑久米歌が形成

された時代と︑﹁本草和名﹂の編纂された時代とは年代的にかなり

の差があるが︑それでも﹁賀美良﹂は﹁古美良﹂の誰音化したもの

とも考えられよう︒しかしここでは﹁加﹂ではなく﹁賀﹂であって

その用字が異なっている︒そこでいま﹁賀﹂を﹁匂い﹂の意味の      かみら   かみら﹁香︵か︶﹂にとって釈語したのが﹁臭韮﹂﹁韮﹂である︒しかし

語頭の部分に︑﹁匂いの強い﹂といった意味での﹁香︵か︶﹂をつけ

て︑それに直接植物名︑或いは何らかの物品名をつづけて一名とす

る例を管見では他に見ない︒そこでいま一つ可能性として考えられ

るのは︑﹁賀﹂は﹁辛︵から︶﹂から﹁ら﹂がはずれたものと見るこ

とである︒それは﹃税詞・所年祭﹂に︑大野の原に生ふ物として

﹁辛茱﹂の名称が見え︑また﹃重訂本草綱目啓蒙﹂の菜部︑﹁韮﹂

の項に︑ ﹁コミラ納名⁝:・辛葉辮〃舘⁝⁝﹂と見えるからである︒し

かしこの場合も︑﹁辛﹂の意の﹁カラ﹂が﹁カ﹂だけで接頭語的に

物名に用いられた例を知らない︒尤も﹁カグハシ﹂の﹁カ﹂と﹁カ

︵香︶﹂は同語であるように﹁カラシ﹂の ﹁カ﹂も﹁ツラシ﹂など

の﹁ラシ﹂の存在を考えると︑同根の語であるかもしれない︒

 以上見て来た如く﹁賀︵カ︶﹂については様々な考え方ができる

のであるが︑ 一応ここでは﹁香﹂﹁辛﹂の意にとって﹁口にはピリ

ピリと辛く︑鼻にツンとくるようなニラ﹂と解しておく︑そうする とこの久米歌の中でニラは決していい意味で詠み込まれてはいない︒その解釈をあげておくと︑  いかめしく強い久米部の兵士たちの粟畑には︑ニラが一本生え  ている︒その根もとから︑芽もろとも︵引き抜くごとく︶撃ち  敗かさずにおくものか︵岩波思想大系木﹃古事記﹄︶ この歌で︑ニラは久米の子等の打倒の対象である土雲や登美砒古を象徴している︒それは久米の子等が丹精こめた粟畑に刈っても刈

っても生えてくるあの憎らしいニラのようだ︑しかもそのニラの葉

はぴりぴりと辛くて︵食べられたものではない︶⁝⁝という訳であ

る︒ニラはここでは嫌われものである︒

 ﹃記﹄﹃紀﹄の久米歌には他に

  みつみつし 久米の子等が 垣本に 植ゑし淑 口ひひく 吾

  は忘れじ 撃ちてし止まむ

  ︵美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登ホ 宇恵志波士加美

   久知比く久 和薩波和須橦志 宇知亘斯夜麻牟︶

 というのもある︒この淑は原文では﹁波士加美﹂である︒﹃名義

抄﹄には︑    キヤウ ○蔓︑音姜 クレハシカミ 谷方アナハシカミ ツチハシカミ

  ハシカミ ナル・  ⁝

 ○蜀淑 ナルハシカミ

  フサハジカミ

 ○楊淑 イタチハシカミ 一云ホソキ

 ○昊茱萸 カハ・シヵミ

       一九

(6)

 ○紫蔓 モェハシカミ

 とある︒また﹃本草和名﹂には

 ﹁秦桝 和名加波く之加美﹂

 ﹁募桝 和名保曾岐 一名以多知波之加美﹂

 とあり︑﹃重訂本草綱目啓蒙﹂には︑

 ﹁秦淑 サンシャウ ︹一名︺房淑鰭轍﹂

 ﹁蜀淑 ナルハジカミ繍名 フサハジカミ間上 アサクラザンシャ

  ウ﹂ とある︒ハジカミには様々な種類があるようであるが︑上記の諸

書を参照するに︑秦淑と蜀淑とはほぼ同じものでナルハジカミ︑フ

サハジカミ︑カハハジカミなどと呼ばれて︑相互に亜種的なちがい

のみで大きく種類が異なるものではないらしい︒そしてそれ等はひ

っくるめてサンシャウと呼ばれているものなのである︒﹃名義抄﹂

によればハジヤミにはもう一つ﹁蔓﹂に当たるものがある︒﹃重訂

本草綱目啓蒙﹂には

 ﹁生蓑 クレハジカミ湘名 ハジカミ セウガ・ハナハジカミ腕名﹂

 とある︒即ち﹁董旦﹂とはセウガ︵ショウガ︶のことである︒山淑

は灌木であるのに対して生蔓は草本である︒この久米歌の﹁波士加

美﹂については﹁山淑﹂と釈されることが多いが︑しかし歌中の

﹁垣本に﹂は垣の根本辺りという意でそれは植えられたものが草本

であることを示唆しているようであろうし︑また﹁植ゑし﹂の語も

それが草本であることを示しているようである︒木である場合は一

度植えたらあとは二度と植える必裏はなく︑植えた者と植えられた        二〇木との関係は希薄であると認識される︒いまこの歌の場合の︑﹁久米の子等が垣本に植ゑし﹂という表現は︑﹁久米の子等﹂と﹁植ゑる﹂という行為はより近しい関係にあるように思われる︒つまりこの場合の﹁波土加美﹂は木の山淑ではなく︑一年に或いは数年に一度は植えるという行為が必要とされる草本の生蔓であろうと考えてよいであろう︒ しかしまた一方﹃魏志・倭人傳﹂には︑ ﹁蓄︑橘︑淑︑嚢荷有るも︑以って滋味なるを知らず﹂ とあり︑三世紀前半の魏の時代と久米歌の時代とは年代的に大きな差はあるものの︑この時代まだ久米の子等も﹁以って滋味なるを知らず﹂であった可能性もある︒とすると彼等はことさらに﹁波士加美﹂を植える必要もなかったことになる︒そうした場合を考えると︑﹁久米の子らが︑垣下に 植ゑし淑﹂の﹁植ゑし﹂は︑﹃古事記﹂歌謡に見える︑ ﹁海が行けば 腰泥む 大河原の 殖草﹂ の﹁殖草﹂︑或いは﹁うゑ竹﹂﹁うゑ槻﹂などと同じ﹁植っている﹂﹁生えている﹂と同義ととるべきであろう︒そうすると﹁久米の子らが﹂のがは主格助詞ではなく前の韮の歌と同じく所有格助詞ということになる︒そうすると︑韮も淑も草本であるということと相いまってこの二首の歌の歌材としても対となって均衡のうまくとれた歌とみられるであろう︒今解釈をあげておくと︑ ﹁堂々とした 久米の兵士たちの 垣の根もと辺りに生えている

  はじかみは 口に含むとびりびりと辛くて そのように辛くて

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(7)

  つらい痛手を受けた我々は決して仇を忘れず︑うち倒さずにお

  くものか

 となる︒ここでもこの口辛的植物﹁波士加美﹂は久米の子らの仇

敵を象徴するものとして詠まれていて︑決していい意味では使われ

ていない︒

 以上二首の久米歌に見える匂いの強い植物はいずれの場合も古代

大和民族にはあまり歓迎されていない︒古代歌謡の時には已に︑

﹁魏志倭人榑﹄が語るように︑全く食用にすることさえ知らなかっ

たという訳でもないであろうが︑さ程の興味を示していないことは

確かなようである︒

 ﹃騰紳記﹂には

 ﹁いざこども のびるつみに ひるつみに わがゆくみちの か

  ぐはし はなたちばなは もとえは とりいからし しづえは

   ひととりからし みつぐりの なかつえの ほつもり あか

  らをとめを いざささば よらしな﹂

  ︵伊耶古梓母 怒砒流都美適 比流都美遜 和賀由久美知能

   迦具波斯 波那多知婆那波 本都延波 登理章賀良斯 志豆

   延波 比登く理賀良斯 美都具理能 那迦都延能 本都毛理

    阿加良衰登売衰 伊耶佐佐婆 余良斯那︶

 という歌謡が記載されている︒この﹁怒砒流﹂﹁比流﹂は︑﹃本草

和名﹂に︑﹁蒜︑和名古比留﹂﹁萌︑蒜︑和名於保比留﹂とあるのに

当たるものである︒﹃重訂本草綱目啓蒙﹂では︑﹁蒜︑ヒル繍名山蒜

ヲ圃ニテ培養スル者ニテ︑印小蒜ナリ 故ニコビルト云﹂とある︒ ここに言う﹁野びる﹂とは﹁山蒜﹂のことであろう︒この歌ではその野びるを取りにいこうと言っているのであるから野びるを食用としていたのであろう︒しかし野びるは︑前掲歌にある韮や蔓とちが

って熱を加えて処理すればその辛味は甘味に転化する性質のもので

ある︒よってこの場合も︑もし熱を加えて食用としたのであれば︑

野びるが本来持っているその強い香味を当時の上代人がそのままに

摂取した訳ではないということになる︒しかしいずれにしてもこの

歌の詠み人は蒜︑野蒜に興味があるのではなくて寧ろ後句の﹁かぐ

はし はなたちばな﹂の方に関心を寄せている︒花橘とは花の咲い

ている橘のことであろうが︑橘の花は︑ほのかですがすがしい︑ど

ちらかと言うと︑やや甘味のある香りである︒これは一般に言うい

わゆるイイ匂いである︒この詠み人はその程度の意味に於いてのみ

匂いを評価したものと言えるであろう︒﹁あからをとめ﹂を象徴す

るのには最適であると思われるが︑しかしこの詠み人は敢えてそれ

をしなかった︒即ち﹁あからをとめ﹂を﹁なかつえの ほつもり﹂

という語で象徴させている︒つまり乙女の美しさを臭覚ではなく視

覚的に捕えている︒こうしたところにも大和民族の匂いに対する感

じ方があらわれていると言える︒

一一一︑ ﹃風土記﹄の匂い

 都に於ける万葉人達の匂いに対する感覚はそう鋭敏なものでな

く︑また殊更に匂いを表わし得た花などの種類も極く限られたもの

       一二

(8)

であった︒しかし大和の地を遠く離れた各地方では︑また一味違っ

た匂いに対する感覚があったように思われる︒

 先づ逸文﹃丹後國風土記﹂から見てみると︑ここにある浦喚子伝

説の最後の所に︑

 ﹁ここに︑喚子︑前の日の期を忘れ︑忽に玉厘を開きければ︑印

       かぐ■   すがたち膳ざる間に︑芳蘭し壱麗︑風雲に率ひて蒼天に翻飛けりき﹂

 とある︒この﹁芳蘭之誰﹂を︑﹁芳しき蘭のごとき髄﹂と釈文す

るものもあるが︑蘭は万葉集にはうたわれていないが文にはあって

﹃万葉﹂巻五︑大伴旅人の文に

 ﹁何図︑借老違於要期︑独飛生︒於牛路︒蘭室屏風徒張﹂とある︒

しかしこの蘭室は﹃文選﹄にとられている張茂光の情詩に

 ﹁清風動︒帷簾一展月照︒幽房一佳人慮選遠↓蘭室無二容光﹂

 とあるように佳人の部屋のことであって︑旅人の文にあっても蘭

そのものとは関係はない︒また﹃万葉﹂巻十七の大伴池主の書翰文

には︑ ﹁豊慮乎︑蘭惹隔薬︑琴罐無用︑空過令節︑物色軽レ人乎﹂

 とあり︑また池主の﹃晩春遊覧﹂の序にも

 ﹁既而也︑琴鱈得レ性蘭契和レ光﹂

 とあるが︑蘭慧︑蘭契ともに美しい友情を表わした表現で︑﹃楚

爵﹂や濡岳の詩などに散見されるものである︒池主は漢籍に深く親

んでいた為に︑そこからこうした表現を借用したのであってその思

いの中に蘭のかおりが込められていた訳では決してない︒浦喚子伝

説の場合も︑そこに書かれた内容︑及び用語︑例えば︑﹁闘蔓﹂︑        ニニ﹁棲堂﹂︑﹁玲醸﹂︑﹁竪子﹂︑﹁昂星﹂︑﹁梯仙﹂︑﹁風流﹂︑﹁肺女﹂︑﹁蓬山﹂︑﹁仙都﹂︑﹁玉厘﹂などを見ると︑中国六朝期の神仙思想︑志怪︑唐代伝奇小説からの深い影響を読みとることが出来るのであって︑丹後の地でこの伝承を口にしていた人々自身の表現として芳蘭の語があった訳ではないということが理解出来る︒ 蘭は﹃日本書紀﹄允恭二年にも登場する︒ ﹁且日はく﹃墜乞︑戸母︑其の蘭一望﹄といふ︒皇后︑則ち一根の蘭を採りて︑馬に乗れる者に與ふ︒因りて︑問ひて日はく︑﹁何 甘に用むとか蘭を求むるや﹂とのたまふ︒馬に乗れる者︑封へて日はく︑﹃山に行かむときに蟻擾はむ﹂といふ﹂ この場合の蘭は﹃名義抄﹄に ﹁蘭精閉ルフチバカマァラ︑キ﹂ とあるものでアララキと呼ばれるヒル︵蒜︶の一種を指しているものであろう︒皇后即位前の忍坂大中姫は︑離の内の薗に蘭を作っていた︒薗ははたけのことであろうから︑蘭は﹃名義抄﹄に言うフチバカマではなく食用に供する為の蕨菜類に違いない︒馬に乗れる者はそのヒルを食用としてではなく蟻︵プヨ︑ブユの類の虫という︶を振う為に求めたのである︒この時皇后は﹁馬に乗れる者の鮮の檀禿き﹂と思ったのは︑潮けって言ったその言葉が礼を欠いていたこともあったであろうが︑それとともに皇后が丹精こめて作った作物を食用としてではなく︑単に虫を振うだけの為に求めるということに怒りを覚えたのであろう︒ヒル︵蒜︶は︑ニラなどと同類の香り

の強い菜であるが︑ここでは已に食用として栽培されている︒﹁蟻

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(9)

擾はむ﹂とは︑蒜のもつ強臭が除虫の効果を持つということを意味

しているのかもしれないが︑他の文献や後世にそうした風俗が残っ

ていないことを見ると︑恐らくそこまでは意味していないと考える

方がよかろう︒

 逸文﹃甲斐國風土記﹂に︑

 ﹁かひの國のつるの郡に菊おひたる山あり︒その山の谷より流る

 る水︑菊を洗ふ︒これによりて︑その水を飲む人は︑命なかくし

 て︑つるのごとし︒価て郡の名とせり﹂

 とある︒これは地名起源謹である︒菊は上代大和民族には殆ど馴

染のないものであり︑﹃万葉集﹂にも詠まれた歌はない︒ましてそ

の菊に神仙としての不老長生の薬効があるとするこの話は当時とし

ては非常に珍しいとされなければならないが︑実はこれは中国に已

に先行の文献があり︑そのひきうつしにすぎない︒﹃初學記・菊﹂

所収の﹁風俗通義﹂に︑

 ﹁南陽螂縣に廿谷有り︑水は甘く美なり︑其の山の上に大菊有り

 と云う︑水山の上從り下に流れ︑其の滋液を得︑谷中三十鉄家有

 り︑復た井を穿せず︑悉く此の水を飲む︑上壽なるものは百二三

 十︑中なるものは百鉄︑下にして七八十なる者は大天と名づく︑

 菊花は身を軽るからしめ氣を盆し︑人をして堅彊ならしむる故

 也﹂ とあるのがそれである︒これは﹃抱朴子﹂にもとられている有名

な話である︒

 ﹃出雲國風土記﹂には︑出雲地方の山野に在る草木を郡別に挙げ てある︒それは全部で八十数種にものぼる︒この中でいわゆる香草        やますげ  い咄ぐすo のぜり かうらはじかみ を︸ら 吉わうど  ゆに当たるものは︑姿門冬︑石藤︑前胡︑高良姜︑白尤︑白正︑百主      寸も苦くすの皇 加ははじかみ なる咄じかみ合︑ぐらいであろうか︑また木の方では︑李︑楠︑秦淑︑蜀淑などであろう︒これらの植物は食用に供されていたかどうかは解らない︒醍醐天皇の勅を奉じて︑藤原忠平等が︑弘仁貞観二式を集大成し︑延長五年︵九二七年︶に撰進した﹃延喜式﹄ の﹁典薬寮﹂には︑﹁諸國進年料雑薬﹂とあって出雲国は五十三種の植物を貢進することになっていた︒その中には︑前胡︑白市︑姿門冬︑蜀淑などがふくまれている︒諸国に﹃風土記﹂の撰進が命じられたのは和銅六年︵七二二︶の頃である︒﹃延喜式﹂のもとになった﹃弘仁式﹄の弘仁は八一〇〜八二六年の間である︒その間約百年︑出雲では庶民の間に恐らく普通の食料として供されていたであろう︑前胡や夢門冬︑白尤などが朝廷で薬剤としてとりあげられるようになるのに百年という歳月がかかっている︒しかもこれは飽くまでも薬としてであって︑食用ではない︒﹃延喜式﹂には︑日本国内のみならず唐使︑新羅使︑渤海使などによって相当量の薬草類がもたらされている︒しかしそれらの多くは日本国内各地からも貢進させているも・のである︒日本国内で調達されるものは︑恐らくその処狸︑量︑質に於いて︑渡来物より劣ることがある為に︑優良晶は外国物にたよって       わさぴいたのであろう︒また﹃播磨國風土記﹂には山蔓などが生えているという記述があるが︑こうしたところに注意を向げているのは︑多分それ等を食料ともしていたからに違いない︒こうした諸国の﹃風

土記﹄にはこの他︑各地の地名由来の中に匂いがからんでくるもの

      三二

(10)

      たくみ  吉とがいくつかある︒ ﹃豊後國風土記﹂の球軍の郷の由来︑あるいは        く吉かみ﹁播磨國風土記﹂の草上の名由来などがそれである︒しかしそれ等

は単純に︑水が臭い︑或いは草の根が臭かったというところから来

たとされ︑いわゆる︑香りを賞揚する意味からつけられたものは一

つもない︒       f買アラ︑キ ﹃延喜式﹄の﹁典薬寮﹂には︑この他の諸国から︑香需︑菖蒲︑       ︐カエ

サハアラ︑キ       クサキ       カハ・シカ■澤蘭︑ 橘皮︑桃花︑恒山︑紫蘇︑青木香︑黄菊化︑呉茱萸︑木蘭

皮など香のものを多く朝廷に入れさせている︒しかしこれらも結局

のところは薬としての効用を期待されたものであろう︒        二四無縁な生活を送って来た為に︑匂いに親しむということもなかったのである︒匂いは結局ごく一部の高級貴族たちの遊びの域を出ることはなかったし︑またそうした遊び以上の必要性もなかったのである︒こうしたことは現代の日本人にも︑その生活用式は已に多くの部分で西洋化されたといいながら︑まだまだあてはまることであろう︒日本人の中に匂いが一つの文化としてその足場を得る為には更にもう少しの時間が必要とされるであろう︒

︵一九九一年十月十四目受理︶

日       日

 以上見て来た如く古代日本民族は匂いに対して殆ど感心を示さな

かった︒その理由はいろいろ考えられてであろうが︑主な理由は日

本人の食生活にあるであろう︒日本人の主食は穀類であり︑副食と

して野菜︑魚介類が供された︒これらのうちで食用とするに当たり

その障害となるような匂いを発するものはない︒もしあるとすれば

魚類であろうが︑それも多くは新鮮なうちに調理することにより︑

強い口辛料によって除去しなければならないような臭みを発するこ

とはない︒魚類の保存に当たっては塩潰の方法がとられた以外に︑

干物としての保存が多かったであろう︒この場合も殆どその匂いに

神経を使う程のことはなかったはずである︒古代大和民族は匂いと

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参照

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