[資料] 納屋制度論 (二) : 日本賃労働史の一断面
その他のタイトル A Note on "Naya‑Seido" in Our Mining Labour
著者 市原 亮平, 田中 光夫
雑誌名 關西大學經済論集
巻 14
号 4
ページ 83‑116
発行年 1964‑11‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15390
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
募集地又は山元における宿泊費
いる
︒
八
鉱夫募集に当って要する費用は明治三十九年の調査による募集費の負担は次のようになって
納屋頭による圧制と中間搾取
次ぎに納屋頭の大きな収入源となったものは労働者募集を通
しての搾取である︒
納屋制度をとっている炭鉱では募集は﹁鉱山ガ直接二行フコ
トハ稀ニシテ多クハ飯場頭又ハ受負人二鉱夫供給ノ責務ヲ負ハ
( 1 )
シメ﹂るのが普通で納屋頭にとって鉱夫の募集︑調達は最も本
質的な職務であった︒ 募集人の旅費︑日当 募集
第二章 八
資 料
>
納 屋 制 度 論
など
であ
る︒
納屋頭が鉱夫を募集する場合は原則として自己の責任と計算
を以ってこれに当ったので︑経営者からは直接には何等の報酬
も受けず募集費は自らの負担となる場合が多かった︒
5
4 周旋世話料 料3
募集地での前貸金︑着山後の賄料︑物品代等2
募集地から山元までの交通費︑宿泊料︑食費︑荷物連搬 田中 日本賃労働史の一断面││'︵ 二 ︶
市 原 光 亮 夫 平
ハ傭入ノ節他県ノモノ四︑五円︑県内ノモノニ︑三円貸付 ス 付金三円ヲ支給スル定メニシテ此内一円五十銭ハ最初募集ノトキ下付シ一円五十銭ハ三十日間勤続ノ場合二交付ス︒
上山田炭坑︑一人二付三円乃至五円ヲ鉱主ョリ納屋頭二貸与
シ納屋頭報酬金ノ内ヨリ返却セシム︑而シテ募集鉱夫二
シテ県内ノモノハ勤続三ヶ月以上二至リニ円︑県外/モノ
ハ四ヶ月以上勤続ノトキニ至リ旅費ノ実費ヲ納屋頭二給与
新入炭坑︑納屋頭二於テ募集ヲナスヲ普通トシ其傭入鉱夫二 又は全部を支給することもあった︒ っているが︑募集鉱夫がある期間勤続した場合には︑その一部 貸与し︑彼等の受ける報酬金の中から逐次返却させることにな 尤モ臨時募集ノ必要アリテ募集スルトキハ旅費トシテ一先上山田︑芳雄の如く二円︑三円ー五円を納屋頭又は周旋人に 募集費ハ納屋頭ノ負担ナリ 一欠員アルトキハ直二募集セシムル場合トノニアリ︑其ノ 闊西大學﹃網済論集﹄第一四巻第四号
﹁夕張第一坑︑飯場頭ハ鉱夫募集ヲ託セラレシトキ日当ヲ受ク
ルノ外鉱山ョリハ何等ノ報酬ヲ受クルコトナシ﹂
合募集に要した期間日当一円を支給されている︶
﹁小野田炭坑︑募集費ハ納屋頭ノ負担ニシテ納屋頭ョリ坑夫へ
ハ実費ヲ貸与へ稼高ノ内ヨリ漸次差引精算ヲナセリ
製鉄所二瀬炭坑︑鉱夫不足ノトキハ納屋頭二募集員数ヲ割当
テ募集セシムル場合卜納屋頭毎二鉱夫ノ定員ヲ定メ置キ之
︵此
の場
ヲ為シ他県ノモノハ六ヶ月間︑県内ノモノハ四ヶ月間無事
勤務スルトキハ該貸金ヲ給与ス
芳雄炭坑︑募集ノ旅費ハ周旋人二於テ負担シ鉱業人ヨリハ一
セシメ募集ノ鉱夫力ニ十日以上勤続スルトキハ一先二付募
( 3 )
集手当二円ヲ支給ス﹂
則であったが二瀕の場合は臨時募集の場合にだけ例外として一
先につき三円を補助している︒
又三井田川では﹁明治三三年当鉱業所創業の頃には鉱夫雇入
の周旋をしたものに家族持の場合には一名について金五0
銭 ︑
独身者の場合には金四〇銭︑家族で稼働するものがあるとき
は︑その稼働者一名の割で周旋料を給与していた︒
その後三七︑八年頃になると日露戦争の影響もあって周旋料
は二円に値上げされ︑周旋された鉱夫が︑三〇方出役すれば︑更 右の如く納屋頭は自己の負担において鉱夫募集を行うのが原 先二付二円ヲ周旋人二貸与シ其受クル報酬金ノ内ヨリ返却 八四
に一円を加給する定めとなった︒尚周旋人に対する前貸金制度
( 4 )
を設け五円以上︑一五円までを貸与することとしたが﹂ーー
の場合は三円を貸与するが鉱夫が一ケ年以上勤続した場合はこ
( 5 )
れを給与しニケ年以上の場合は更に二円を追加している︒
夫が三ヶ月以内に逃走した場合には募集の平均額を返納させる
ことにしていが
0 5 )
後においても﹁納屋頭力募集ヲ為ス場合ニハ︵中略︶種々ノ態
様アルモ普通ニハ手数料ヲ支給セズ全ク納屋頭ノ計算ヲ以テ鉱
夫ヲ募集セシメ鉱夫入籍後ノ稼働賃金ノ一定割合︵通常一割以
内︶ヲ納屋頭手数料トシテ支給スルヲ例トスルモ又
M
炭鉱ノ如ク募集費トシテ納屋頭二対シ其ノ募集鉱夫中採炭夫一先︵ニ
名︶二付キ三十円︑独身者ニハ︐一名二付キ七円ヲ貸与シ入籍後
六十日間二十方稼働シタルトキハ一先二付テハ十円独身者ニハ
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
防止するためである︒
八五
納厖頭が鉱夫を募集する場合︑納屋の収容力や西穿集費の少額
ですむことなどの理由で単身者を瑳集することが多かったが︑
明治三九年六月末現在の調査によれば単身者の最も多かったの
は高島炭鉱の六.二割︑古河西部鉱業所の五︒二割で平均二︒ これはいうまでもなく募集金欲しさのための無責任な募集を 給するという条件付の場合が多かった︒ こうしたことは大正時代に入っても大体同様で大正一0
年前後一定の期間勤続した場合にはじめて︑その一部乃至全部を支
無条件に支給するのでなくあくまでも貸与であって鉱夫が雇入 めて世話料を支給することもあった︒然し此の場合においても る︒生野では部屋主に募集に要する実費を支給しているが︑鉱の一部を補充するか或は雇入決定と同時に一人につき幾許と定 るが︑鉱夫が一年以内に逃走した場合は右五円を返納させてい 又佐渡鉱山では募集鉱夫一人について五円の手当を受けてい ようになっている︒ 加納鉱山では飯場頭が家族持鉱夫を募集した時は五円︑単身者 これは炭鉱だけでなく金属鉱山の場合もほぼ同様であって︑ 三円ヲ十五方︑就業シタルトキハ夫々十五円︑五円二十方出役シタルトキハ夫々廿五円︑七円ヲ免除シ募集手数料卜為スモノアリ︑最後二募集手数料二就キテ注意スヘキハ長崎県鳥嶼地方ノ如ク鉱夫ノ供給ヲ主二鉱山所在地以外二仰グモノニアリテハ
( 7 )
鉱夫ノ業務ノ種類如何ヲ論ゼズ相当ノ手数料ヲ支出ス﹂という
以上の如く旅費︑宿泊料等︑募集に要する費用は原則として納
屋頭の負担となるのが普通であったが︑必要に応じて炭鉱がそ
第四条事業は総べて炭坑係員の指揮を受け附属納屋頭人繰の 炭坑の御都合により退坑を命せらるときは何時にても直に立退き可申自分より退坑せんとするときは先つ願就業時問は毎日十二時間以内たるへしと雖天災非常或は緊急を要する場合若しくは事業の都合により御命令あるときは右規定の時間外坑内は勿論坑外と雖労働を辞せざる事保証人納屋頭
( 9 )
新入炭坑支配人宛﹂ 氏名
@
月
日原籍住所氏名@)
鉱夫を雇入れると納屋頭はこれを納屋に収容して自らの支配
下に繰入れ自分が保証人となっておよそ次のような契約書を炭
第三条 法令は勿論一般御坑則堅く相守り決して違背仕間敷侯書を呈して御許可を受く可き事 前条契約其他御規則に違ひたるときは違約金若くは相当の処分相受候とも異議申間敷候事
今般貴坑々夫稼業の儀志願候処御許容相成候に付ては前記条項
屹度相守り稼業勉励可仕候依て保証人連印契約証如件 第十条 第二条
事
第九条衛生上の儀は常に注意し炭坑の御命令に従ひ不都合な
き様可致事 第一条間敷事 鉱に提出するのが例であった︒
﹁契
約証
第八条喧嘩口論は勿論賭博其他風俗を乱す可き所為は毛頭致 第七条炭坑の許可を得すして親戚朋友と雖勝手に宿泊せしめ
間敷事 可き事 隔西大學﹃繹済論集﹄第一四巻第四号
( 8 )
四割であった︒単身者は有配偶者に比較して移動率が高く︑そ
のため一方においては募集費の増大となり他方生産能率の低下
を来す原因となったので︑住宅施設を拡充して次第に有配偶者
を多く麗傭するようになった︒そしてこれがやがて納屋制度衰
退の一原因となったのである︒ 第六条飯米其他諸品の支給を願うときは附属納屋頭保証人の
名儀を以てし該物品相当の代価を稼き高内より仕払ふ 御規定の計算日に納屋頭名儀にて受取るべき事 第五条事業賃受取方は自分附属の納屋頭保証人に委託し炭坑 申付により従事可致事
八六
納屋制度論︵二︶
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︶
八 七
世保等二要スル人夫卜称シ欺購シテ高島二携へ来リシガ如キ是
( 1 0 )
也﹂の如く鉄道工事︑土木工事︑其他工場の人夫などと詐り詐
欺︑欺睛的な方法により︑三円︑五円の前貸金を餌として甘言
を以て窮民︑浮浪者等を釣り殆んど誘拐同様の悪辣な手段で炭夫を募集したが︑労働力の需要が急増したり︑募集が困難にな 納屋頭はこの肩入金と称する一種独特の前貸金を餌として鉱 夫の旅費︑仕度金となっていた︒ テ雇入レ︵中略︶例ヘバ昨年七月中誘拐セルニ百名ノ坑夫ノ如キ︑同上ノ手段ニテ京阪地方ノ悪漢二依頼シ︑九州鉄道又ハ佐九州地方の炭鉱では古くから鉱夫募集の際に﹁由来炭坑坑夫
( 1 1 )
には肩入金と称する一種特種の賃金前貸の風習が行われ﹂て鉱
こ ︒
t ハ各地方ノ博徒其ノ他ノ者二依頼シ︑殆ンド誘拐同様ノ手段 あった時代においては︑その労働力は主に炭鉱周辺の農村に停滞していた過剰労働力に依存していたが︑資本制生産の発展による炭鉱の大規模化は必然的に労働力需要の増大となり︑炭田周辺の狭小な労働市楊だけではその充足が困難になった結果︑労働者募集の範囲が地域的に拡大せられるとともに階脳的にも特に立地条件の悪い高島炭鉱や北海道の炭鉱等では﹁納屋頭 さらに下層にこれを求めざるを得ないようになった︒ 和時代に至るまで執拗に残存し得たことは反面において炭鉱における労働力の確保が如何に至難であったかという事実を衷書きするものである︒
従って一旦獲得した鉱夫を如何にして長く定着させ︑労働力
の抱留を図るかということが納屋頭の最も重要な任務であっ 弊害を認められながらも時代とともにその形態を変容しつつ昭 の発生の当初から消滅に至るまでの間︑この制度に伴う多くの と存続の根本要因が労働力の調達︑確保であり︑納屋制度がそ さきにも述べた如く炭鉱に於ける資本制生産の発達が未熟で充足してゆくことは容易なことではなかった︒納屡制度の発生
けで
ある
︒
地方の炭鉱でも労働力の不足は慢性的であって︑これを不断に を通して行われているので中間搾取はその意のままになったわ炭鉱の共有であるとさえいわれた筑豊地方だけでなく︑何れの 飯米其他生活必需品の支給も納屋頭の名儀を以て︑納屋頭の手炭鉱労働の特徴である労働移動の異常な激しさは︑鉱夫は全 右は三菱新入炭鉱の例であるが第五条の賃金受取も第六条の鉱に送り込んだ︒
労働強化を強いられることになるのである︒ 更にこれが足枷となって一種の債務奴隷的な立場に追い込み︑ らこれが彼等をして納屋頭へ身分的に隷従させることとなり︑ 又この肩入金は納屋頭に対する債務として残るものであるか 勤続性を失うという結果ともなった︒ 次ぎに移動を繰返えすこととなり︑そのために却って貯蓄心と 開西大學﹃網済論集﹄第一四巻第四号
ったような場合には肩入金を逓増して鉱夫争奪の具とした︒肩
入金は其の日暮しで貯蓄力の少い鉱夫にとっては一見便利なよ
うであるが︑実際には弊害が多く﹁肩入れ当初は肩入金の束純
を受けて一時熱心に稼動するも暫時にして放縦惰慢の心を起
し︑漸く移動性を現わし︑更に他を頼りて肩入金を調達し︑終
( 1 2 )
始之を反覆し各地を転々浮動する弊習を作す﹂の如く鉱夫は肩
入当時は前貸金の拘束を受けて一時熱心に稼働するけれども︑
やがて又移動性をあらわして他を頼って肩入金を調達して次ぎ
従って納屋額はかりに鉱夫募集の費用を直接炭鉱から支給さ
れない場合でも前貸金によって鉱夫を縛りつけ︑前貸金には水
増しをしたり法外な利子をつけるなどの手段によって中間搾取
をほしいままにしたので募集を通して︑その懐に入る収入は相
当大きなものがあったようである︒るので鉱夫を長く定着させその移動を防止するためには凡ゆる 納屋頭にとっては前貸金が経済的な負担として残ることにな 増大をはかったのである︒
(1
)
﹃ 鉱 夫 調 査 概 要
﹄ 二 八 頁
(2)﹃鉱夫待遇事例﹄ニ︱八頁
( 3
)
同 二 五 ー ニ 七 頁(4
)
﹃三井田川鉱業所沿革史﹄草稿第八巻
(5)﹃鉱夫待遇事例﹄ニー頁
(6
) 同 ニ ニ ー ニ 三 頁 (7)﹃鉱山労働資料﹄一
0
頁(8)﹃鉱夫待遇事例﹄一
0
頁( 9 )
﹃ 筑 豊 炭 砿 誌
﹄ 三
0
七i三0
八頁
( 1 0 )
﹃明治文化全集﹄第六巻社会篇一
0
頁( 1 1 )
日本鉱山協会﹃鉱夫稼働状況調査報告﹂l
( 1 2 )
同労働者抑圧と奴隷的労働 収入の増加と︑配下鉱夫数を多くすることによってその勢力の 浮浪者その他を誘拐同様の手段まで弄して雇入れ︑募集による そのために納屋頭はより多くの鉱夫を募集することに狂奔
し︑手下を督励し各地の顔役や仲間と連絡をとり︑貧窮農民︑
八八
会二出ルノ望ミナキニ由テ︑悲歎憂憤ノ余リ或ハ隙ヲ窺ヒ脱走
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
八 九
セント欲シ︑或ハ故ラニ罪ヲ犯シ︑警察ノ手ヲ借リテ本坑ヲ離船させなかった︒その上外部との通信も禁止したので外界との 者や漁師と結託して炭鉱の認可を得ていない者は何人と雖も乗 々には見張番を置き︑昼夜に互って警戒する一方島内の通船業 この結果彼等の姦計に欺醐されて高島に連行された者は﹁ソ
註
段を用いて窮民を雇入れたのである︒ 鉱夫の賃金は年四回に分けて炭鉱から納屋頭に渡したが︑納 は如何なる非人道的な手段をも選ばぬという苛酷︑酸鼻をきわ 即ち労働力の調達︑確保の困難さが︑その離脱防止のために 監獄部屋的︑拘置檻禁的方法となって現われた︒
高島炭鉱は離島という立地条件の不利とその極端な鉱夫圧制
とが嫌悪されただけでなく︑当時に於ける我が国炭鉱の最先端
をゆくところの資本制生産様式が却って敬遠されて﹁近年高島
炭鉱の鉱夫募集と聞けば如何なる窮民と雖も之に応ずる者一人
( 1 )
もあらざるなり﹂という状態であったため殆んど誘拐同様な手
排水・通気・運搬系統の機械化にもかかわらず︑単純作
業である切羽の採炭作業は殆んど人間の労働力だけに依
存することが多く︑機械化によって労働が軽減するとい
うよりも寧ろ︑これによって労働が強化される傾向が強
かった︒又資本制生産方式下における労働者としての陶
冶の不十分な︑未熟練労働者たる鉱夫は寧ろ機械化され
ていない粗放的経営の炭鉱で働くことを好む傾向が強か
った
︒
ノ最初ノ誓約二反スルノミナラズ︑斯ル悲境二陥リ終身復夕社 手段︑方法を講じたのであるが︑特に高島炭鉱に於てはこれが
海中に身を投ジ︑
﹁或
ハ
( 3 )
或ハ山上二餓死シ又ハ坑内デ屠腹緑死スル
等﹂の如き悲惨な状態さえ出現することとなった︒
めた地獄島的状況の出現となるのである︒
屋頭は年二回︑盆と暮とに食費︑前貸金︑諸雑費を差引いて渡
すにすぎなかった︒希望のない生活は勢い放縦にも流れ易く貯
蓄のない鉱夫は傷病等の楊合︑納屋頭に借金する以外に方法も
なかったので負債は年々増加するばかりで︑大部分の鉱夫が十
円乃至︑五︑六十円の負債を負っていたのであった︒中にたま
たま貯蓄を心がける者がいると納屋頭はこれを最も条件の悪い
切羽に廻して賃金が上らぬようにし︑何時までも債務に縛られ
て身動きのとれぬようにした︒
脱走防止のため一切島外へ出ることを厳禁し︑島内の要所々
( 2 )
脱セント計ル者アリ﹂更に甚しきに至っては悲憤の極︑
﹁約
定書 閥西大學﹃網済論集﹄第一四巻第四号
此の生地獄を脱する方法は故意に罪を犯して警察に拘引され
罪人として監獄に護送されるか︑身を海中に投じて対岸に泳ぎ
渡るか︑或は自ら我が生命を断つ以外になかった︒漁船を盗ん
で脱島を試みるものや︑無謀にも海峡を泳ぎ渡ろうとする者も
﹁捕えられて島へ連れ戻されると大納屋の土間に坐らされ︑
半死半生の目にあわされて改心を誓わされるか或は真裸にさ
縛られて島中を見世物のように引廻されて見せしめにされるよ
( 4 )
うなこともあった﹂
炭鉱では脱走防止の目的で納屋頭と島民を結束させて次の如
き約定書を作った︒
今般貴殿作物番人給扶助費トシテ明治十九年ヨリ向ウ毎年金
四十五円ヅツ高島村地主総代へ贈与ノ約定相整へ候二付テハ︑
各地主二於テモ左ノ廉々堅ク約定致候事 れて背中に﹃けつ・わり﹄と大きく墨で字を書かれ荒縄で両手を 戻されるなどでその多くは失敗に帰した︒ 溺死したり︑又運よく対岸に達しても監視網に引かかって連れ
川 下 和 三 太
村 下 伝 作
樫 山 芳 蔵
金 松 久
諸 岡 金 蔵
永 田 寅
吉
少くなかったが︑事前に発見されたり︑途中で潮流に呑まれてトシ在島坑夫ヲシテ他所二逃走ノ便宜ヲ与へ︑其他貴殿ノ営 一︑我々所有ノ地所二居住スル寄留人ニシテ︑通船営業ヲロ実 報知スルコト 交渉︑連絡の方法は全然なかった︒一︑各納屋坑夫ニシテ我々身体財産二対シ不都合ノ挙動ヲ為ス者アル乎︑或ハ山林畑地二潜伏スル者アル乎︑其他脱走セン
トスル者アルヲ認ル等ノコトアルトキハ︑直二取押へ雇主二
業ヲ害セント計ル者アルトキハ︑直二地主ョリ其地所ヲ引揚
ゲ退去セシムルコト
右条々誓ヲ相守リ可申︑後日ノ為メ我々当村人民二代リ翠二署
名捺印スル者ナリ
十九年九月二十九日
高島村人民総代
金 松 造 酒 蔵
九 〇
我我同業者二於テモ其厚情二対シ左ノ廉々堅ク相守可申候
一︑明治十九年ョリ向フ我々該営業中毎年八月十五日限リ︑作
物番人給扶助費トシテ現金四十五円宛無相違地主総代二贈与
スル事
右誓テ違反致闇敷︑後日ノ証トシテ我々同業者数名二代リ姦二
十九年九月二十九日
高島村人民総代七名宛﹂
民と結託しての脱走防止対策であった︒
納屋制度論︵二︶ 署名捺印スル者也
人夫受負業納屋総代五名連名
︵市
原・
田中
︶
右の約定は表面上は作物番となっているが其の真の目的は村 今般貴殿ョリ我々営業保護ノ為メ約定書差送ラレ候二就テハ︑
九
明治時代から犬正時代までは相当規模の大きい炭鉱でも請願
巡査を置いていた程度だったが﹁何しろ無茶な連中が多いので
毎月一日︑一六日の勘定日︵毎日切符を受取り︑この両日に引
換える制度が多かった︶には忽ち酒色と賭博︑つまり飲む︑打
つ︑買うに浪費してしまい︑納屋頭は前借の申込みに忙殺され
る状態で︑この前借の紛掛から殺偽事件の起るのは尋常茶飯事
( 7 )
となっていた﹂という有様だったので一︑二名の請願巡査ぐら 権限は一切あげて納屋頭の手中にあった︒ 権を行使し炭鉱役員はただ納屋頭を指図するに止り鉱夫取締の も及びかねる一種の治外法権的存在で納屋頭はある程度の笞察 し︑之がために不当の取扱いを蒙りたるもの亦少なからざるな
( 6 )
らん﹂︵犬旋毅報告﹃高島炭鉱の実況﹄︶の如く納屋は密察権 約定書 多しと聞けり︒
非行
に当
り︑
腕力
を用
ひ︑
一眼叱陀をもって是非曲直を裁判
山 田 幾 太 郎 殿
納屋頭なるものは一般の人足頭と同一の者にして︑其子分の
荒 木 佐 平 殿
石 山 甚 八 殿
所に訴出づることをなさずして其規則に由て之を処分するもの
福 井 直
吉
殿
取締附属︹炭鉱の雇員︺︑納屋頭及び其雇人は︑之を巡査駐在
佐 藤 友 五 郎 殿
人夫受負業納屋頭総代﹁納屋頭は其配下に小頭及人繰と称するものをおき︑自已と
共に其︹坑夫の行動の︺取締の任に当れり︒坑夫に非行あるも
I 地 方 別 一 人 当費 用
筑 豊 地 方
9 , 5 7 0
再大 牟 田 地 方
2 6 , 7 2 0
届津、松浦地方
1 9 , 8 8 0
高崎戸島砿、 松 島
1 0 , 6 6 0
北 海 道 地 方
3 2 , 2 1 0
常 盤 地 方
3 , 3 1 0
,
註大正八年度に於ける鉱夫募集費実鋲 あったが︑高島ほど無惨なものはなかった︒ 開西大學﹃舘済論集﹄第一四巻第四号
いでは取締も不十分だったから︵又請願巡査は炭鉱主の息のか
かったものが多かったので会社に不利になるようなことはしな
かった︶納屋頭が警官の代りをつとめ或る程度警察権まで握っ
ていたため此の点からも鉱夫に威圧が加えられていた︒
無断退坑即ち逃亡は何れの炭鉱においても納屋頭の最も密戒
したところであって︑脱走に対する懲戒は何も高島に限ったこ
とでなく発見された場合は厳しい制裁を加えられるのが例では
但し北海道の炭鉱はその位する地理的条件から鉱夫募集が困
難であり且つ非常に募集費が高かったので高島の場合と同様に
拘禁的︑監獄部屋的形態をとることが多かった︒
と︑彼等の所謂罰とかいふものを与へたるによぼよぽしき老の 細き麻縄にて白米四斗二升を負わせられ︑三時間仲立すべし その一例をあげると﹁夕張炭山における労務者が如何に酷遇されつゞあるやは艇々報じたる如くにして︑就中清水沢部屋に居
仙台生佐藤某は何の因果にや︑最早耳順の令にもなりながら
働かねば喰はれぬ身なりしが︑此烈しき労働と酷遇とには何と
して堪へられるべきや︑幸い借金は働き返した筈なればとて暇
を取らねば叶はじと︑其旨雇主に頼み入りしところ︑扉主はこ
れを承諾すべしと思ひの外︑却って其契約期間を無視するもの
なりとて︑果ては打つやら蹴るやら酷い目に会はせしかば佐藤
は無念の涙を流しかつも固く決心するところあり︑その夜逃走
を企てたるに既に五︑六町も来しと覚しき頃憐れや追手のため
に取押さえられ︑土方部屋に引き戻され︑索裸にせられ極めて
身のさうでも堪え難き荒縄が︑メリメリと身体に喰い込む痛さ
に何として耐ゆられるべきや︑一回︑二回︑三回ついに六回ま り ︒ か猫かの惨しき状態にあるが弦に恐ろしくも奇怪なる事おきた あげく︑土間に造をしきて煎餅ふとんに包まって寝るという犬 る労働者の如きは︑早朝二時より夜八時までもこきつかわれた
九
いては平素の﹁前借金や吉凶その他の機会に配屈をうけるとい
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
景とする威圧を以て配下鉱夫に臨んでこれを顕使し︑他方にお
われ
てい
る︒
九
の妻や娘の貞操をさ‑るも犠牲にすることが珍しくなかったとい 一方においては或る程度の警察権を握り︑私的制裁の暴力を背い切羽を割当ててもらって︑賃金をより多くするためには自分 は許されなかったことは前にもふれた通りであるが︑納屋頭は 長野県の製絲工場では見番という監督がいて賃金の算定︑女 ムス︶というのがある︒に従事したが︑作業個所も納屋頭の手によって決定されるの 納屋鉱夫はすべて納屋頭に直結しその指揮︑監督の下で作業 出でたりしが︑如何にせん其夜より影も形も見えずなりたるも でも倒れたところ︑是非もなければ然るに鬼の如き棒頭とかいう奴其名詮自称の棒を握り舞はして情容捨もあらあらしく︑打つは︑蹴るはついに七回目に到りし佐藤は気絶するに到りたり︑ここにおいて棒頭等は医師に見せんとて古行李に入れ持ち誠に残酷の話なるが︑尚ほ斯る例は多々ある由なれば其筋の厳重なる調査こそ望ましけれ﹂︵明治三九︑八
1
︑北海タイ 0
納屋制度の下に於ける労働者の抑圧︑搾取は高島や北悔道の
炭鉱に限らず各地の炭鉱でも程度の差こそあれ︑広く行われた
ところであるが︑商島は離島という︑北海迫は日本の北辺に位
するという地狸的な条件が加って一屈これを悲惨︑苛酷なもの
とし
た︒
右の高島や北海道の炭鉱にみられたような極端な監獄部屋的
抑圧は筑豊炭田や紺津炭田地方の如き炭鉱の密集地帯において
( 9 )
う扶捉関係﹂にもとづいた﹁多年の縁故が自ら一種情愛の為め
( 1 0 )
に支配され互に親子の関係にあり﹂というような家族擬制的な
身分関係によって鉱夫に粉骨砕身的な献身を誓わせて労働強化
に追込んだのである︒前者の監獄部屋搾取的形態を高島型と呼
び後者の半封建的身分関係を基調とする搾取形態を筑豊型とで
も称することができるであろう︒
で︑良い切羽を割当ててもらうためには鉱夫は納屋頭や人繰
に︑焼酎一升と鶏一羽を持参するというようなことなどは普通
であ
った
︒
工の監督をその手に握っていたので﹁エ女ハ其歓心ヲ結ヒテ其
私ヲ済サント欲シ見番ハ之二乗シテ以テ其権カヲ濫用シ延イテ
( 1 1 )
工女ノ風紀ヲ索乱スルノ傾アルモノノ如シ﹂などというような
ことがあったが︑炭鉱でもこれと似たようなことが行われ︑良
鐸空採炭策明名地産ー
7
I距理炭1 2 2
鉱に疇於夭けIる労働時間選炭夫 I運搬夫囃役夫1 2
時間1 7
堕圃. 小 帳
幾夕大内._張春野第別内
郷
辻田三―1 0 7 1 2 1 1 1 0 2 0 1 1 1 1
8 ‑ 1 2 8‑12 8 ‑ 1 2 ̲8‑12 ̲ 8
ゴ2̲
を 1 2 8‑12 8‑12 9 1 1
大 ノ 浦
, 1 1
8 1 1
, 1 0
8 1 2 1 0 1 2 1 1 1 0 1 2 1 0 1 0 1 2 1 2 7 1 2 1 2
峯赤 池地
1 0 1 1 1 1
7 , 1 1
海軍新原
, 1 1 1 2
悶 知
, 1 0 1 0
谷
8
坑外夫 は1 0
池
1 1 1 2 1 2
の一方的な命令によってこれを超過することも多かったものと 作業時間は一応︱二時間以内という規定の所が多いが天災︑非常等の場合は別とするも﹁緊急を要する場合若しくは事業の都合により御命令あるときは右規定時間外の労働を辞せさるこ
( 1 2 )
と﹂というように︱二時間という一応の規定はあっても︑炭鉱
考えられる︒
明治三九年頃における重要炭鉱の労働時間は次の如くなって
( 1 3 )
いる
︒
隔西大學﹃細済論集﹄第一四巻第四号
での往復時間等を加へると就業時間は少くとも十二時間程度は
の労働時間に比較して特に長かったとはいえないかも知れぬが
﹁事業は総べて炭坑係員の指揮を受け附屈納屋頭人繰の申付に
( 1 6 )
より従事可致事﹂のように二重の監督下に於ける労働密度は必
然的に高まらざるを得ない︒然もこれは納屋頭の暴力を背景と 問題はその労働強度にある︒ 普通であったものと思われる︒納屋鉱夫の労働時間が一般鉱夫
明治43年に於ける一日の平均就業時閻
ャ u 上
夫
1 1
時間選炭夫
1 1 . 2 0
職 工
1 0 . 5 0
運搬夫
1 1 . 0 0 ,
雑 夫
1 1 . 4 0
かつての高島炭坑の場合の 苦羞︑先づ第一に坑内一里二里の所に到り﹂という 又これを職種別にみれば
右によれば一見採炭夫の
労働時間が短いように見え
るが﹁坑夫の就業時間は十
夫が十二時間執る処の労業
如く︑坑口から採炭現場ま 二時間にして︵中略︶其坑
( 1 4 )
となっている︒
九
四
を帯びることとなり︑その典型的な姿を明治前期の高島炭鉱に
では切羽の温度や湿度が非常に高かったが採炭夫は其処で鶴嘴
う重労働の連続であった︒然し労働の厳しさは単に高島に限ら
作業はその殆んどの過程が人力に頼らざるを得なかったために
﹁小石ハナという女鉱夫は肥前多久の炭鉱で働いていた際︑夫
の後向きとなって伽初して三五〇斤の荷を挽き四三0間の運炭
( 1 7 )
道を二四往復して二日分の賞与を得たことがある﹂の如く採炭
﹁斯る驚くべき境界と斯る労働を為すにも拘らず︑炭坑舎の
規則として︑分秒の休憩も与えず︑小頭人繰をして採炭の個所
を巡廻監督せしめ︑少時を怠る者あれば︑携帯のこん棒を以て
殴打苛責せり︑是余が小頭人繰等を目して青鬼赤鬼と云うも堂
理なからんや︑又人夫中過度の労力に堪えずして休憩を請ひ︑
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
による作業督励に問題があった︒ 作業が重労働の連続であることは何処でも変りはないが納屋頭
九 五
﹁五︑六年前迄は該坑の規則に背きたる者は倒さまに見セシ
メ台にツリ下げ︑生松葉にて之をくべ︑其叫号の外へ洩れん事
を恐れて糸にして口を縫ひ塞ぎ︑或は肛門に薪木を突き込む等
( 1 9 )
の惨海を恣にせしむ其後は之を廃したりといへり﹂の如く甚し
﹁彼の坑夫なる者は身に疾病あるにあらざるよりは如何なる日
( 2 0 )
如何なる時と雖ども一日も休業することを得ざるなり﹂という
ような徹底的な強制労働が行われた︒
かかる暴力の威嚇による高島炭鉱の奴隷的労働は寧ろ鉄鎖と
鞭に象微せられる三池炭鉱の囚人労働以上の残酷さであった
が︑高島の監獄部屋的強制労働は最も極端な例で︑他の炭鉱の
納屋坑夫がすべてこれと同様だったわけではないが︑納屋頭を 忍を極め︑なぶり殺しにされることも珍しくなかった︒従って い場合は拷掠機に逆吊りして︑坑夫環視の中で打幣するなど残 れたことでなく︑機械化されていなかった当時の採炭︑運搬の を一・ニ町離れている坑内連炭軌道へ運んで炭車に積込むとい痛めつけて半死半生の目にあわせる︒ やマイトで採炭して香に盛り重量一五・六貫乃至二〇貫のもの配下の人繰が文字通り笞杖鞭撻し若し抵抗でもすれば徹底的に が仕事を怠けたり︑反抗したり︑規則を犯したりすると納屋頭 於てみることができる︒通気施設の不十分であった当時の高島 する監視︑監督下の採炭労働であるから︑努い奴隷労働的傾向或は納屋頭人繰の意に逆う者ある時︑見懲と称して其坑夫を後手に縛し梁上につり揚げ︑足と地と應尺するに於て打撃を加
( 1 8 )
へ︑他の衆坑夫をして之を観視﹂させて︑みせしめとし又坑夫
( 1 7 )
﹃ 頭
領 伝
﹄
仁政を看板とする藩庁の恩恵的な御仕着せであったが天保八年
(1)﹁明治文化全集﹄第六巻
( 2
)
同
( 3
)
同
(4)﹃高島町文化史﹄
( 5 )
﹃明治文化全集﹄第六巻
(6)隅谷三喜男﹃日本賃労働史論﹄
(7)﹃日本石炭読本﹄
(8)戸崎繁﹃監獄部屋﹄
(9
)
馬場克三﹃個別資本と経営技術﹄
( 1 0 )
﹃筑豊炭砿誌﹄
( 1 1 )
﹃職工事情﹄第一巻
( 1 2 )
﹃筑豊炭砿誌﹄
( 1 3 )
﹃日本鉱業発達史﹂下巻
( 1 4 )
同
( 1 5 )
﹃明治文化全集﹄第六巻
( 1 6 )
﹃筑豊炭砿誌﹄ 五頁 ︱ ︱ 頁
1 0
頁
1 0
頁
︱ニー一三頁
一四二頁 三三八頁
三八ー三九頁
一七四頁 五二四頁
二 0
頁 0
三 0 七頁
三八三ー三八四頁
四頁 三八四頁
三 0 七頁
t
こ ︒
此の両者を併用する所もあって炭鉱によってそれぞれ異ってい 搬夫は出来高制によるものもあり︑定額制によるものもあり又 るという点においては変りはなかった︒ とし︑私的制裁を労働強化の武器として労働力の搾取を強化す 封建的な親分︑子分の身分関係の上に立つ暴力的な圧力を背景覇 西 大 學
﹃ 網 清 論 集
﹄ 第 一 四 巻 第 四 号
頂点として︑人繰︑勘場等を巧妙に配置し﹁弱はる坑夫を励ま
( 2 1 )
して︑土を喰っても炭は出させる﹂の如く程度の差こそあれ︑
︵認︶﹃明治文化全集﹄第六巻
( 1 9 )
同
( 2 0 )
同
( 2 1 )
﹃ 頭 領 伝 ﹄
鉱夫の賃金と納屋頭の搾取
納屋制度の下に於ける鉱夫の賃金に関しては具体的な資料の
残されているものが非常に少いため賃金展開の過程を辿ること
は至難であるが断片的な資料を基礎として考察してみる︒元来
炭鉱では職エ︑雑夫等の坑外夫は日役といって︑定額時間賃金
であり︑採炭夫は出来高賃金を原則とし︑仕繰夫︑選炭夫︑運
黒田藩の仕組法の統制下に於ける労働者は自由な賃労働者で
はなかったので︑その賃金に相当する﹁山元救渡﹂は正当な労
働の報酬とはいえなかった︒
この山元救渡は年一回冬季に一割の利息をつけた前貸金で山
元労働者の最低限度の生活さえも保証できかねる程度のもので
四頁 一
四 頁
一 九 頁
九 六
五番の釘へ柴の葉を一枚刺し︑二度来ると二枚刺すという具合
にして各人の運搬数量を記録したが柴は破損し易く間違いが多
納屋制度論︵二︶
︵市
原・
田中
︶
荷担って坑口に来ると五番と呼んで柴刺は板に打ちつけてある同十銭
九 七
坑口に担い出した石炭の数量を調べた︑例へば五番のものが
一︑
小使
同七銭 坑口には検炭の役目をする柴刺という下級係員がいて坑夫が
一︑
石取
同九銭 りで最も大きくてこれが標準となっていた︒同十一銭 ﹁採掘した石炭は限又は天秤棒で連んだ︑旅には本旅︑八合筑七合床︑六合爪︑五合筑の大小五種類があり本筑は約八〇斤入
一︑
日雇
一︑
油方
一︑風呂焚夫
( 4 )
とあるが︑穿子即ち採炭夫の賃金一人賃︑一五銭但し一人穿︑
一七銭となっているが請負賃金の具体的な内容は不明である︒
四名
同十二銭 同下等 賃金算定については次のような方法をとった︒
一︑頭取両名
同上等十六銭
十五銭 永七年(‑八五四︶筑後三池に於ては︵中略︶一人の賃金三百匁﹂とあるだけで具体的な給与状況を知ることはできないが︑
同 下 等 十 五 銭
その賃金については 三池地方では早くから藩営マニュの下においてほぼ近代労働
者に近いものが形成せられており︑
﹁ 嘉
一︑
荷夫
一︑
手代
両名 同
一人賃十四銭 同 上 等 二 十 銭
但し
一人穿十七銭
低賃金を規定する基準となったことに間違いはない︒
﹁一
︑穿
子
無定員
一人賃十五銭
︵一八三七︶当時は石炭一00斤について五文となっていたの
で一日二︑五00斤の採炭能率であったとして計算すると一日
( 1 )
の所得は︱二五文となる︒其後再三に互る山元村からの嘆願に
対する封建支配者の慈恵的賃金が明治初頭以降の炭鉱労働者のによると よって少しづつ増額されてはいるが︑こうして奴隷的労働者に山炭山に対して各坑の定員及び賃金の統一を命じているがこれ かったため後には穴明きの一厘銭を使用したという原始的な計
( 3 )
算方法で採炭夫の出来高賃金を支払っていた︒
明治五年五月三涼県から三池藩の稲荷山炭山︑小野家の平野
同 同
小 計
右同日夕より一番
九円二十銭 番
一︑金一円三十二銭但一人に付二十二銭日役六人代
二番
一︑
金 五 十 四 銭 同 同
五 十 四 銭 同 同
三人代
三人代
三人代 .夜番
十二月二日一番
一
︑ 金 五 十 四 銭 同 同
同
一︑
金 て 金 五 十 四 銭
但一人に付十八銭水引三人代 十二月. .
日一︑金一円五十四銭同
同 七 人 代
年 次
1
職 種 ! 賃 金明治
1 1
年 坑夫平均2 3
銭5
厘1 2
採 炭 夫2 2
゜
排 水 夫
1 8
゜
1 3
採 炭 夫2 3 0.
1 4 2 4 4
1 6 I I 2 4 D
日 役
1 8
゜
1 7
採 炭 夫3 0
゜
日 役 上
3 0
゜
日 役 中
2 5 D
日 役 下
1 5
゜
1 8
採 炭 夫: 8 言 D 坑
日 役 男
同 同二十九日
記
閥西大學﹃網済論集﹄第一四巻第四号
は次のとおりである︒
﹁明治十二年小倉篠崎山炭山勘定帳
十一月二十八日
三十日 一︑金一円五十四銭但一人に付二十二銭也
一︑金一円三十二銭但右同断
一︑金一円三十二銭同同 同
六人代 六人代 明治初期の納屋制度下における鉱夫の賃金についての記録は殆んど見当らないが︑明治︱二年の小倉篠崎山炭山の鉱夫賃金
日役七人代 十二月四日
排水夫は日給一八銭で同じく定額の日役日給の二二銭は排水
夫に比較して高額となっているが︑この日役の職種は不明であ
︱一月二八日から︱二月三日まで延べ四四人︑六日分の賃金
九円二
0
銭也が炭鉱から一括して雇頭に渡されているが︑此の中から何程かの手数料其他を差引いて鉱夫に支払ったものと思
われるが︑これだけでは実際の手取金額は判明しない︒
明治前期の鉱夫の賃金については正確な資料が少いが筑農地
( 6 )
方の平均賃金は大体次のようになっている︒ る ︒
雇頭高山久兵衛に支払﹂ 九八
︵ 註 ︶
( 7 )
筑盤地方の米価
賃金は各職種の平均で︑約何銭又は何銭前後となったも
のが多い︵﹃筑豊炭鉱誌﹄より摘出︶︒
納屋
制度
論︵
二︶
︵市
原・
田中
︶
筑豊地方各炭鉱一日平均賃金(明治3
0
年現在)肴金炭二鉱新名手田
賃 金 I炭 鉱 名 賃 金
̲5il
皇赤御本 池城徳
58 59 7 0 4 4
ー第一大隈
6 0 6 0
6 0
一 笠5 0 6 0
鯰 田6 0 6 0 庄 目
尾司6 0 6 8 6 0 8 0
満直小相_一雄野正田一
6 0 6 0 5 5 5 5 5 0
一夭 君
6 0 6 0
‑新‑‑第第第第二一三四_入
坑 坑 坑 坑
__碓笹忠下 ‑‑
山‑‑井
原隈田一6 0 5 7 7 0 5 9 . 5 6 5 5 8 . 2 6 0 5 企 ; i ̲
直小金川松採ケ炭浦田一
6 0
平第五均
坑 5 4 . 2 5 0
5 7 . 1 5 8
第一大の浦 ー豊豊
洲 国
、一6 0
上
6 5 5 0
中 5 0
糸 飛7 0
下
34 35
上 位 登7 0
年 次 玄の米時一価
石
明治
9
年5
円1 3
銭1 0 5 3 4 1 1 6 3 9 1 2 7 9 6 1 3 1 0 5 7 1 4 1 0 5 9 1 5 8 8 1 1 6 6 3 1 1 7 5 2 9 1 8 6 6 1 1 9 5 9 9 2 0 4 9 4
[ [ [ ロ ロ
相高岸杵.
墨
炭 詞 鯰 忠 三 赤 添 新 三 銭 銭 銭 銭 銭 銭 銭 銭
‑ 5 6 5 6 5 6 3 6 4 6 5 6 3 6 4
天 金 凜 織 直 虞
炭の
輝円
孤悶
瓜 国 醤事辱傘霜
採狂手ー︱ー
1 1
一 銭 銭 銭 銭 銭 銭 一 銭 円料
20
60
50
30
50
60
50
8 付
`
こ
'
宿炉炉炉五
日
寄 団 団 団
乃 蒲 蒲 蒲 1
1
︱ 二 知 内 張 一 辻 好 浦 入 浦 洞 治 名 第 第 夕 之 ノ 一 張 鉱
抄 タ
I I
空 幌 新 第 大 三 大 新 満 本 明
7 5
銭8 0
銭6 5
銭6
銭九九
〇三池、勤続
1
カ 年 未 満 寄 宿 料1 6
銭1
カ年以上1 5
銭3
カ年以上1 3
銭5厘〇明治ハ外二
2
銭ヲ鉱業人ヨリ補給ス各職種の平均賃金は馬場山香月の八0銭を最高として最
低は御徳の四四銭となっているが︑﹃筑盟炭砿誌﹄の数
字もおよそ大体の平均を示したものにすぎないので︑正
確な賃金を算定することはできない︒
単身鉱夫一日又ハ一カ月ノ寄宿料及ビ賃金︵明治三九年︶