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一所謂密命説の再検討を中心に一

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一所謂密命説の再検討を中心に一

澁 谷 浩 一

はじめに

1712(康煕五十一)年から1715(同五十四)年にかけて,清朝がシベリアを 経由してヴォルガ川流域のトルグート部に派遣した使節団については,使節団       Vの一人トゥリシェン(tulisen図理環)が帰国後著わした『異域録』(1)によっ て広く知られている。

清朝がこの時期に使節団を派遣した目的については,従来よりいくつかの説 がある。今西春秋氏は,『異域録』の記述からその目的は大きく分けて二つあっ たとして,次のように整理する(2>。使節団の公式の任務は,当時清朝に身を 寄せていたトルグートのアラブジュル等の返還交渉であった。このアラブジュ ルは,トルグート部長アユキが1698年にチベットに派遣した使節団の団長であっ たが,この使節団は,チベットからの帰路,ジュンガル部とトルグート部の不 和のために道を遮られ,やむなく清朝に助けを求めたのである。康煕帝は,ア ラブジュル等のために嘉硲関外に牧地を与え,厚遇した。康煕帝としては,ア ラブジュルの返還によって,トルグート部の懐柔をねらったとみられる。これ には,当時中央アジアにおいて強大な勢力を有していたジュンガル部のツェワ ン・ラブタンへの対処という側面があった。

『異域録』はまた,使節団の出発に際して,康煕帝がロシアの国情を視察す るように命じたことを記しており,このことが使節団派遣のもう一つの重要目 的であったことを示している。

今西氏は使節団派遣の主要目的を以上の二つに集約するが,これとは別に,

この使節団には隠された真の任務一密命一があったという説がある。これ はフランスのカーアンによって強く主張された説で,清朝はこの時,トルグー ト部にその故地である東方への帰還を勧め,その場合には清朝が防衛と支持を 与えることを伝えたというものである。そして,史上有名な後の乾隆年間のト

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ルグート東帰は,これによって導かれたとする(3)。トルグート部は,清朝か らみてジュンガル部の背後に存在し,かつジュンガル部とは敵対関係にあった のであるから,これはすなわち,当時清朝がトルグートとの間に反ジュンガル の軍事同盟を結ぼうとしていたことを意味しよう。カーアンの密命説の根拠の 一つは,雍正年間に清朝からロシアに派遣された使節であるトシ(托時)等か ら,ロシア側が聞き出したという情報であった(4)。今西氏は,カーアンが根 拠とする雍正年間の遣露使節の存在そのものに疑問を呈する…方,当時の清朝 を取り巻く情勢及び『異域録』の記述から考えても,密命説など存在したはず がないとして,カーアンの説を否定した(5)。これに対して吉田金一氏は,雍 正年間の2回の遣露使節(第1回の使節にはトルグート行きの使節が同行した)

の存在を再確認し,今西氏を批判した。吉田氏は,雍正年間の遣露使節派遣の 目的が,ジュンガル部・トルグート部対策にあったことを指摘し,この使節に はトルグートの東帰勧誘という密命が存在した可能性が高く,康煕年間の使節 にも同様の密命が存在したと考えられるとする(6)。その他,中国及びロシア の研究においても,この密命説或は清・トルグートの同盟締結説は,おおむね 支持されているようであるω。

本稿は,この所謂密命説を再検討しようとするものである。従来,密命説の 根拠となってきたのはロシア側の,しかも使節派遣より後の時代の史料であり,

使節団を派遣した当事者である清朝側の事情は十分に検討されてきたとは言え ない。吉田氏の論文においても,氏の主要な論点はあくまでも雍正年間の使節 の実態を明らかにすることにあり,今西氏が触れている康煕年間の使節団派遣 当時の情勢について検討が加えられている訳ではない。雍正年間の使節の場合,

当時清朝はすでにジュンガルへの武力行使を決定していたのであり(8>,吉田 氏が述べるように,対ジュンガル軍事作戦の一環としてのロシア・トルグート への使節派遣という側面が濃厚であり,その意味で東帰勧誘の密命の存在も可 能性が高いと言えよう(9>。一方,康煕年間の使節の場合,果たして当時,と

りわけ使節団派遣の直前において,清朝とジュンガルの関係は,雍正年間の場 合と同様に緊迫していたのだろうか。この点を明らかにするために,第1章に おいては,ツェワン・ラブタンと清朝の関係を,両者が接触を開始した康煕三 十年前後にまで遡って論じる。

また,この使節団に関する清朝側の中心史料である『異域録』には,密命に 関係する記述は一切認められないだけではなく,むしろそれと矛盾する記述が

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見られる。『異域録』は真実を伝えていないのであろうか。第2章においては,

『異域録』に記された使節団派遣に至る清朝側の事情を,その他の史料と突き 合わせることによって検討してみたい。そして,以上の検討を踏まえた上で,

第3章において,ロシア側史料及び清の使節団に対するロシア側の見方につい て若干の考察を加えることにする。

これらの問題を検討するためには,従来利用されてきた『欽定平定準鳴爾方 略』『皇朝藩部要略』『大清実録』等の編纂史料では不十分である。とりわけ,

使節団派遣前後,すなわち康煕五十年前後の事情についてはこれらの史料は多 くを伝えていない。ところが,中国第一歴史棺案館に所蔵される康煕年間の満 文棺案の中には,これらの不足を補う史料が存在する。本稿では主としてこれ

らの満文棺案を利用して論を進めてゆくことにしたい。

なお,満文史料の引用は,和訳のみを掲げる。また,引用文中の〔 〕内は 筆者が補った部分,{}内は皇帝が殊批によって加筆修正した部分を示す。

また,文中の漢数字は陰暦を,算用数字は当時ロシアで使用されたユリウス暦

を示す。

1.ツェワン・ラブタンと清朝との関係

(1)ガルダンをめぐる清朝とッェワン・ラブタンの関係

トルグート部への使節団派遣前後の清朝とツェワン・ラブタンの関係を述べ る前に,それ以前の両者の関係について概観しておきたい。

清朝とッェワン・ラブタンが最初に接触したのは,康煕二十九(1690)年で ある。ハルハに侵入して清朝と事を構えるに至ったガルダンに対して,ツェワ ン・ラブタンは反旗を翻した。その事情を関知した康煕帝は,対ガルダン対策 のために,ッェワン・ラブタンのもとに使節を派遣し,その懐柔を図ったので ある。これに対しツェワン・ラブタンも使節を康煕帝のもとに遣わして恭順の 意を示し,康煕帝はその後も数度ッェワン・ラブタンへ使節を派遣して対ガル

ダン戦争への協力を呼び掛けた。ガルタンという共通の敵を挟んで,この時期 の両者の関係は友好的であったと言えよう(1°)。ガルダンの滅亡後も,康煕三 十七年には清側の要求に応じてガルダンの屍を献じ,康煕四十年にはガルダン の娘ジュンチハイを清側に引き渡した(11>。このジュンチハイの引き渡しにつ いては,当初ッェワン・ラブタンは清側の要求を拒否していたのだが,康煕帝 の「引き渡さないのであれば今後貿易を行うことを許可しない」という内容の

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勅書によって,ようやく実現したものであったω。

(2)康煕四十年代の清朝とジュンガルの関係

康煕四十一年に一つの事件が持ち上がる。この年の春,ジュンガルのダンジ ン・ラブタン(=アラブタン)が康煕帝に対して,ッェワン・ラブタンから離れ て清朝に来帰したい旨を伝え,康煕帝はこれを許可した。ところが,ダンジン・

ラブタンが属衆を連れてハルハの領域に入った後,ツェワン・ラブタン属下の ッェリンドンドブ等が二千の兵をもってこれを追撃したのである(13)。これに 対して康煕帝は同年九月にツェワン・ラブタンに使節を派遣して勅書を下した。

その中で康煕帝は,この時奪った女子・牲畜を返還するよう要求し,もし応じ なければ,かつて返還を求めなかったガルダン属下の者達を再び返還するよう 要求する旨告げている〔14)。これに対して,ツェワン・ラブタンは,清側の使節 にその一部を返還したようであるが,康煕帝は翌年十月に再度ツェワン・ラブ タンに使節を派遣し,一部の返還を行ったことを誉めながらも,さらに調べて すべてを返還するよう伝えている(15)。

その後,康煕四十四年には,ジュンガルからの逃亡者が,ツェワン・ラブタ ンがハルハに侵攻しようとしているとの情報をもたらし,清側もハルハ辺境の 一ド倫(哨所)の防備を強化した。この時,清側は,ツェワン・ラブタンに理藩カルン

院名義の文書を送り,これがあくまでも防備であってジュンガル征討の意志は ない事を表明している。そしてさらに,先に触れたダンジン・ラブタン属下の 女子等,さらには清側からの逃亡者の返還を求め,返還すればツェワン・ラブ

タンが派遣した使節であるアブドラ・ザイサン等を返し,交易も従来通り行わ せる旨を告げている( 6)。これに対してッェワン・ラブタンは,翌四十五年に使 節を派遣したが,これは清側の意に沿うものではなく,清側は再度理藩院名義 の文書をツェワン・ラブタンへ送付した。この文書の中で清側は新たに,アラ ブジュルがジュンガルの地に残されたトルグートの人を収容したいと派遣した 使節に対し,ツェワン・ラブタンが略奪を行った事実を取りあげ,ツェワン・ラ ブタンを非難iしている(17)。当時清のもとにあったアラブジュルとッェワン・ラ ブタンの間に交渉があったことが窺われる。この時の理藩院の文書では同時に,

会盟を行うことによって問題を解決すべく,会盟に適当な日時と場所を指定す るようツェワン・ラブタンに呼び掛けている。そして,会盟には康煕帝自らが 赴く意思のあることを伝えているのである。この時期,ツェワン・ラブタンと

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清朝の問には若干の緊張関係が生じていたが,清側が平和的手段によって問題 解決を図ろうとしていることがわかる。

この清側からの会盟の提案に対して,ッェワン・ラブタンはなかなか返答せ ず,清側は翌四十六年に,再度使節を派遣して理藩院名義の文書を送り,至急 会盟の日時を決めて知らせるよう求めた(18)。翌年秋に帰還したこの使節は,

ツェワン・ラブタンが,皇帝の勅書ではなく理藩院名義の文書であることを理 由にして文書の受け取りを拒否したことを伝えた。そこで清側は翌康煕四十七 年になって再び皇帝名義の文書(勅書)をッェワン・ラブタンに送付する。そ の中で清側は,理藩院名義の文書の受け取りを拒否したことを非難しながらも,

一ド倫に配置した兵は征討を目的とするものではないことを繰り返し表明し,カ ザーフとの戦争によって苦境にあるという情報の真偽を伝えるよう呼び掛け,

最後に重ねてジュンガルを征討する意思のないことを告げている(19)。

これに対し,同年末,ッェワン・ラブタンはようやく返書をもたらす。その 中でツェワン・ラブタンは,清側の会盟の提案について,辺境にあってカザー フと戦争状態にあるので,容易には赴けない旨を伝え,康煕帝に対して恭順の 意を示したのである⑳。清側はこれを喜び,さっそくツェワン・ラブタンに使 節を派遣する。この時ツェワン・ラブタンに下した勅書には,ハルハや青海の 王公等が,汝を封号を受けていない異なる部の人であると疑う恐れがあるとし て,封号を求めるよう命じ,そうすればカザーフが侵攻してきた時に保護を与 えること,また青海・ハルハ等との関係も良好となるであろうことを告げてい る。そして,さらに続けて,

汝が封号を請い上奏しても請い上奏しなくても関係なく,朕は汝が元来よ い〔者〕であることを思い慈しみ,ことごとく汝に益があり,属下の者た ちが生活するために考え,特にこの勅諭を下した。今回の汝の上奏した言 葉は従順であるので,貢品を受け取り,来た使節に照らして賞賜を与え,

アブドラをともに返した。………(21)

と述べている。一方で封号を受けることを求めるよう命じながら,求めない場 合でも厚遇するというのである。清側の気の使いようが窺われる文面である。

また,康煕四十四年以来清側に抑留されていたアブドラ(・ザイサン)もジュ ンガルに戻ることが許されたのであり,この時点で,清朝とッェワン・ラブタ ンの関係は好転するかにみえた。

ところが,ツェワン・ラブタンは,この清の使節を抑留する挙に出た。清側

(6)

のこの時の使節派遣には,ッェワン・ラブタンとその属下が平安に暮らせるた めに,すべての回子一この場合はツェワン・ラブタンと当時敵対関係にあっ たカザーフ及びキルギスを指すと考えられる一に今後戦争をやめるように伝 えるという意図があったようである。そして,これに対してツェワン・ラブタ ンが疑い拒んだという事情(22)から見て,ツェワン・ラブタンとしては清朝が直 接カザーフ等と接触するのを恐れたのかもしれない。また,清側からの封号を 受けることを求めるべしという要求が,却ってジュンガルの部衆のツェワン・

ラブタン対する不満を増大させたようであり(23),これが清の使節の抑留とい う行為を引き起こす要因となった可能性もある。これによって清側は再び態度 を硬化させ,今後使節の往来・貿易を禁止すること,もし従来通り行いたいな ら会盟に応じることをツェワン・ラブタンに告げた(24)。ここに至って,清朝と ツェワン・ラブタンの関係は再び緊張することになったのである。

(3)康煕五十年のジュンガルへの使節派遣とその後の両者の関係

しかし,清側は,その後もッェワン・ラブタンとの関係修復に向けて努力を 継続した。康煕四十九年,ッェワン・ラブタンはハルハのジェブツンダムバ・フ トクト及びハルハの王等のもとへ友好の目的をもってナマシヒなる使節を派遣 した。康煕帝はこれを知ると,この使節をジェブッンダムバ・フトクトに会わ せ,さらに北京に呼び寄せて,副使としての待遇を与えたのである(25>。続い てツェワン・ラブタンは翌康煕五十年,今度は康煕帝に使節を派遣して,恭順 の意を示した。これに対して清側はさっそく返使を遣わすが,その際,康煕帝 は議政大臣・大学士等に次のような勅諭を下した。

ツェワン・ラブタンの使臣チョイムペル(coimpel)をここから送るがよ い。そこで,散秩大臣ロブツァン・シラブ(lobdzang sirab),侍衛キリデ イ(kilidei祁里徳)を・・……・使臣とともに送れ。彼等はやや厚い服を準 備し,駅逓を使わせてここから行くがよい。彼らがトゥイ川に着いた後,

ハルハ等から馬,ラクダ,糧食を集め,使臣チョイムペルの来た路を通っ て行くがよい。ツェワン・ラブタンに文を送れ。送る文を朕自身が書き,

大学士は,そこにいる議政大臣等とともに議するがよい。ツェワン・ラブ タンが封号を受ける受けない〔のこと〕をなお議することはない㈱。

これ以前のツェワン・ラブタンへの勅書は,理藩院等によって起草されるこ とが大部分であり,皇帝が自ら起草するのは異例のことである⑳。また,前

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回の勅書で示した封号の問題を棚上げしようとしていることも注目されてよい であろう。そして,この時のツェワン・ラブタンへの勅書も興味深い内容を含 んでいる。そこでは,先ず,清の使節を抑留したことが使節・商売を止めた原 因であることが述べられる。続いて,昨年ジェブッンダムバ・フトクトへ,今 年康煕帝へ使節を派遣して来たことを誉め,使節がちょうど狩りをしている康 煕帝のもとを訪れたので恩を施した,とする。そして,さらには,

汝等の暮らしを我等はすべて知っている。汝の人はすべて方々から集めて きた者で,正規の兵は非常に少ない。我等のこちらの一切の事を隠してい ないのであるから,汝等のそちらでも〔こちらの事情を〕明らかに知って いるであろう。汝のところから我等にもまた益〔がある〕。汝がいなけれ ば,ハサク〔=カザーフ〕,ブルト〔=キルギス〕はともに獣の如き人で あり,また汝のところに進んで来て,事を起こすことがないなどと言える だろうか。㈱

と述べているのである。清朝側はジュンガルを,カザーフ及びキルギスという 共通の敵に対する同盟者として位置付けようとさえしていることがわかる。こ の康煕五十年のジュンガル部への使節派遣は,そこに至る経過と合わせて,当 時清朝がツェワン・ラブタンとの安定した平和的関係の構築に向けて努力して いたことを示していよう。

この時派遣されたキリデイ等は,翌康煕五十一年,後に述べるようにトルグー ト部への清使節の出発より後に北京に帰着したと考えられる。この時のキリデ イ等の報告内容の詳細は不明であるが,清側の意図したツェワン=ラブタンと の友好関係の確立は実現しなかったようである。康煕五十二年五月十四日の領 侍衛内大臣アリンガ等の議覆によれば,清側はキリデイ帰着後にツェワン、ラ ブタンから派遣された使節を,そのもたらした文書の内容がキリデイの上奏と 異なるところがないという理由で追い返している(29)。ただし,この時の議覆 では,返事の文書を与えない場合,ッェワン・ラブタンが自分の奏文が皇帝に 取り次がれていないことを口実にする恐れがあるとして,これまでの経過を記

し,ツェワン・ラブタンの青海・ハルハに対する態度を非難する文書を彼の使 節に与えたい旨が述べられている。清側は再度ツェワン・ラブタンに対して態 度を硬化させた訳であるが,それでもなおッェワン・ラブタンと完全に敵対す ることは避けたいという意図も見て取れよう。

両者の関係が完全に悪化するのは,康煕五十四年三月のツェワン。ラブタン

(8)

のハミ襲撃からである。この時,清側は遂に武力行使を決意するに至る(3°〉。

しかし,同年五月,ハミ襲撃の際に捕虜になった一人からジュンガル部の内情 を聞き,ツェワン・ラブタンの支配下の人々が重税に苦しんでいること,昨冬 の大雪で家畜が大損害を被ったこと,ジュンガルがその兵力を誇大に宣伝して いること等を知ると(31),康煕帝はッェワン・ラブタンに使節を派遣して会盟を 呼び掛けた。『蒙古堂棺』所収のこの時の勅書の末尾には次のようにある。

今,会盟して顔を合わせて話さなければ,終わる日はないのであり,兵を 興せば,問に〔いる〕すべての民は苦しむだろう。汝が恐れて来ないなら ば,朕自身或は王,皇子等,大臣等を派遣してただちに汝のところへ行っ て話したい。汝は今,再びあれやこれやと引き延ばすことはできない。こ の派遣した使臣に,はっきりと決断して書を書いて上奏せよ。囮 武力行使を決意した後でさえ,なお平和的解決の道を探ろうとする康煕帝の 意思が窺える。なお,この勅書の漢訳と見られる文書が,『欽定平定準鳴爾方 略』にも載せられているが,その内容を満文文書と比較すると,武力行使の意 図をより強調する表現になっている(鋤。

2.アラブジュルの返還問題とトルグート部への使節団の派遣

(1)使節団派遣に至る事情

トルグートへ向けて清の使節団が派遣されるのは康煕五十一年五月のことで ある。以下に,使節団派遣に至る事情について検討してみたい。

『康煕朝満文殊批奏摺』中に,次のような康煕帝の勅諭がある。

今すぐ筆帖式一人,領催一人を任じて,貝子アラブジュルのところへ派遣 せよ。アラブジュルに勅諭を下せ。先に,汝の一人のラマ・ウラン・ゲル

ン(uran gelung)が彼の元の場所に行こうとして,†倫の者達が{事情 を知らず}捕まえ送ったことを澗い質して1聞き,彼の元の場所へ帰り たいというのを知って,朕は馬・食料を賞賜して†倫を出して送らせて帰 した。アラブジュルは{来てから慈しみ養いかくも1多くの年がたった。

汝の叔父・父の消息を全く得ることができない。{必ずあせり慕い思って いるだろう。朕も気にかけていたが}今,商売に来たロシア〔人〕に聞け ば,汝の叔父アユキは彼らにとってとてもよく,たいへん利益をもたらし た人であり,アラブジュルを彼らのところから彼のもとの場所へ送れば通 過させることができると言ったので,朕思うに,今ある{この機会に}汝

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は手紙を書き,汝の人を4,5人出して急ぎ{京城へ}送れ。ロシアの人 と一緒に,汝の元の場所に送り,牧地,家の生計,様子がどのようである かをともに明らかにしてくるがよい。送る文,派遣する人を筆帖式・領催

と一緒に持ち連れてくるがよい。汝等の人〔=アラブジュルの人〕には決 してすべてのものを準備させるな。{一切の騎乗のものはすべて院から完 全に準備させ1急ぎ送れ。閣

この勅諭は無年月であるが,内容から見て明らかに使節団派遣の少し前のも のと思われる。これによれば,ウラン・ゲルンなる人物の逃亡事件を契機とし て,康煕帝はアラブジュルの返還を考え始めたことがわかる。そして,ロシア 隊商とともにアラブジュルの属下の者数名をトルグート部へ派遣し,トルグー ト部の状況を調査させようとしている。この時点では,まだ清側は使節団の派 遣を考えていなかったようである。ところが,ちょうどこのころ,サムタン・

クリュコフを長とするアユキからの使節団が北京に到着した。この使節の公式 任務はアラブジュルの返還交渉であったという(35>。これに対して,清側も正 式な使節団の派遣を決定する。この事情について,康煕帝がアユキに下した勅

書には,

アラブジュルは彼の父,汝から離れて,年がたった。どんな方法で通過さ せて送るかのことをロシアの商売の長コミサル〔商務監督〕に尋ねたとこ ろ,コミサルは,〔ロシア領を〕通過させることができるというので,朕 は勅を下し,アラブジュルの人を連れて来させ,ロシア〔人〕とともにま さに送ろうと考えている〔時〕に,汝の遣わした使節サムタン(samtan)

等が我が意図にあわせてちょうど到来したのである。そこで,特に侍読学 士の街としたインジャナ(injana股札納)………等に勅書を持たせ,ア

ラブジュルの人を共に遣わした。岡

とあり,『異域録』にも,より簡略ではあるが同様の記載がある例。すなわち,

トルグートからのサムタン・クリュコフを長とする使節団の到来によって,清 側も使節団を組織し,アラブジュルの属下の者達と共に派遣することになった のである。

ここで使節団の構成員について一言しておきたい。トゥリシェンが使節団の 長ではなかったという指摘は従来からある閲が,今西氏は,トゥリシェンが 官職においては他の二人の主要人員一インジャナ及びナヤン(nayan那顔)一 の下であったことを認めながらも,「疑いもなく彼〔ニトゥリシェン〕は3名

(10)

中の最年長者で」あり,「46歳で同時に最実力者」であったとする働。しかし,

インジャナは使節団派遣当時すでに57歳になっていたと推定され,また,これ 以前にハルハに何度か赴き,康煕帝の対ガルダン親征にも従ってガルダンに皇 帝の勅書を届ける任務に従事している。そして,何よりもインジャナ自身が使 節団の長として派遣されたことを明言しているのである㈹。使節としての経 験もトゥリシェンより豊富であり,インジャナが使節団の団長格であったこと は間違いないであろう。

(2)康煕五十年のジュンガル遣使とトルグートへの使節団派遣

前節で述べたごとく,シベリア経由によるアラブジュルの返還を模索してい た時に,アユキからの使節が来京したことが使節団派遣の契機となった訳であ るが,これより以前,清側はジュンガル経由でのアラブジュル返還についても 検討していたようである。『異域録』には,使節団出発の直前に康煕帝が使節 団員に対して与えた訓令(勅)が記されているが,その中に,

侍衛キリデイをアラブジュルのために,ツェワン・ラブタンに,路の事で 話させに派遣した。まだ帰着していないが,帰着すれば,汝等を追って書

を送ろう。(41)

という一節がある。これは時期から考えて,前章で述べた康煕五十年のキリデ イ等の使節を指すと考えられよう。キリデイ等が帰着した正確な日付は明らか ではないが,康煕五十一年中であることは間違いなく吻,トルグート部への 使節団が出発した同年五月以降のことであったと考えられる。今西氏は,キリ デイの派遣は,「アユキとッェワンとの不仲の程度を知るため,またかねてツェ ワンの清朝に対する意向のほどを探るため」に行われたのであろうと推測し た圃。先に述べたように,キリデイ等の派遣の主要目的は,ッェワン・ラブタ ンとの平和的関係の確立にあった。それでは,『異域録」にあるように,キリ デイ等には,アラブジュルの返還のための経路についての交渉という任務もあっ たのであろうか。ジュンガルの領域を通過することがトルグートへの最も近い 経路であったことは確かであるが,前章で引用したキリデイ等に託された康煕 五十年のツェワン・ラブタンへの勅書には,アラブジュルに関しては全く触れ

られていない。

しかし一方,『康煕朝満文殊批奏摺』中には,次のような無年月の康煕帝の 勅諭がある。

(11)

…… Aラブジュルは,今ここに来て〔路が〕遮られ,これほどの年を経て,

〔なお〕行けなかった。朕は彼を貝子として養い,〔彼は〕大変豊かになっ たのである。彼の祖父・父に会わせに送りたいといっても,汝等のそこか

らまた遮られている。汝等のところを過ぎても,〔その〕向こうにハサク

〔=カザーフ〕がいる。どの道を通って,いかに送り届け,彼の祖父・父 に会わせれば,朕の思いが果たせよう。また,トゥルファンはもともと中 国に進貢していた。今,すべてツェワン・ラブタン{の属下となった。こ れを朕は取ろうというところはない。汝の属下であっても,なお旧例に照 らして進貢すれば,大方の見るによいようである。}働

康煕帝が殊批によって改めた部分の原文は,

……ノ進貢している。この後,なお前〔例〕に従い,進貢するがよい。

貢品はただ,二〔頭〕の馬,一塊の玉だけである。決して他の物はない。

となっている。この勅諭は,まさにアラブジュルのトルグートへの送還に関し てツェワン、ラブタンに下されたものとみなせる。後半のトゥルファンの進貢 に関する部分も,康煕帝によって書き直された部分が,より穏やかな調子になっ ていることが注目されよう。トゥルファンが以前清朝に進貢した事は事実であ るが(45),ガルダン以降ジュンガルの支配下に置かれていたのであり,わずか な貢品を納めさせることによって面目を保とうとしながら,ジュンガルの支配 を事実上認めているのである。この内容もジュンガルとの平和的関係を求めて いた康煕五十年頃のものと考えれば矛盾しない。この勅諭がキリデイ等を通じ てツェワン・ラブタンに下されたものかどうかは確証がない。しかし,たとえ そうではなくても,キリデイ等の派遣と極めて近い時期のものであることは確 かであり,キリデイ等にもアラブジュルの返還ルートの協議という任務があっ たとする『異域録』の記事には信愚性があると言えるのではないか。

そして,『異域録』には,このキリデイ使節に触れた部分の直後に続けて,

次のような一節があるのである。

彼〔=アユキ〕がもしも,ツェワン・ラブタンを,我等挟み撃ちしたいと 言っても,汝等は断じて言質を与えるな。ただ,「ッェワン・ラブタンは大 ハンに甚だよい。何度も使節を遣わし,安泰を伺いに往来する。大ハンも また常に恩を施し慈しむ。いかに勢力が弱まり,窮乏しても我等が聖主は それを決して討伐するところはない。……」と〔アユキに〕言え。⑯ この部分は従来から注目されているのであるが,ここで康煕帝は,ジュンガ

(12)

ル討伐の意思がないことを明確に表明している。清側使節団の真の目的がトル グートに対する東帰勧誘ないしはトルグートとの軍事同盟締結にあったとする 立場から言えば,『異域録』のこの記述は,清側の本心を表わしたものではな いということになろう。しかし,キリデイのジュンガルへの派遣が,当時の清 朝のジュンガルに対する平和的姿勢の表れであることは,すでに明らかにした 通りであり,キリデイ派遣について触れた部分の直後に続くこの記事の内容は,

十分な説得力を持つと言えるのではないか。

また,ジュンガルを清朝とトルグートで狭撃しようという提案は,先に触れ たサムタン・クリュコフ使節団を通じてアユキの側からなされた可能性が高 い㈲。もし,これが事実ならば,清側としてはなおのこと拒否の意思をアユ キへ伝える必要があったと言えよう。なぜならば,このような提案は,対ジュ ンガル和平工作を進めていた当時の清朝にとっては,受け入れがたいものであっ たと考えられるからである。ただし,前章で述べたように,キリデイ等による 和平工作は結果的に成功しなかったのであり,『異域録』には記載がないが,

そのことがすでに出発したトルグートへの使節団に伝えられたということも考 えられよう。しかし,その場合でも,清側がトルグートに対して対ジュンガル の同盟を呼び掛けるべく即座に方針を転換したとは考えにくい。なぜなら,こ れもすでに述べたように,キリデイ帰着後も清側はジュンガルとの完全な敵対 関係に入ることを望まなかったからである。

(3)その後のアラブジュル問題

トルグートへの清使節が,アラブジュルの返還問題を契幾として行われたこ とは,以上の経過からも明らかであるが,これについては,清側がどこまで本 気で返還を行おうとしていたか疑問であるとする見解がある。今西氏は,トゥ リシェンがその帰着報告の中で,アラブシュルの問題に全く触れていないこと を問題としている圏。アラブジュルの返還が清朝のトルグート懐柔の手段に 過ぎないことは否定できないにしても,この問題は使節団の帰国以後全く清朝 の関心外に置かれてしまった訳ではない。以下,この問題について触れてみた いo

まず,トゥリシェンの帰着報告に,この問題が全く記されていないという点 であるが,トゥリシェンは,ナヤンとともに本隊と別れて先発して帰途に着い たのである(49)。インジャナ等の使節団本隊が帰国した後,アラブジュルの問

(13)

題について正式な報告がなされたことは間違いあるまい。このことを示唆する のは,康煕五十六年四月の理藩院からシベリア県知事ガガーリンに当てられた 文書である。この文書は,使節団とともにトルグートへ派遣されたアラブジュ ル属下の4名が,トルグートから戻って来なかったことを受けて,その返還を ロシア側に要求したものである。その中に次のような一節がある。

先に使節としてトルグートのところに行って来た侍読学士インジャナ等の 上奏したところに,「ロシアの総督マティフィエイガガリンが我等に言っ たこと,『この4人を私はわがチャガンハン〔=ロシア皇帝〕に申し上げ て,アユキから必ず取り,大院〔=理藩院〕に渡し送ります。』と言った。」

とあった。㈱)

彼等4名も使節団とともに北京へ戻るよう命じられていたことが確認できる が,これは先に述べたように,使節団派遣が決定される前からの清側の方針で あった。実は彼等はトルグート到着後に行方不明になったらしい(51}。上に引 用した史料は,インジャナが,ロシァ側に彼等の引き渡しを要求していたこと を示している。ロシア側は,1715(康煕五十四)年1月の清側への文書の中で,

清使節の先発隊(ナヤン,トゥリシェン等)を送り返す旨伝えると同時に,そ の送還を約束している(52)が,これはおそらく,インジャナの返還要求に応え たものであろう。これを受けて清側は,同年七月のロシア側への文書の中で,

使節団に対するロシア側の待遇に謝意を表すると同時に,再度彼等の送還を要 求している(お〉。そして,インジャナの帰国後,清側が重ねてその送還を要求

したのが,上に引用した康煕五十六年の文書である團。以上の経過から,ア ラブジュルの属下4名の返還問題は,使節団の長としてインジャナが責任を持っ ていたことが窺える。そして,これらの事実については『異域録』は何も伝え ていないが,清側が大きな関心を有していたことは間違いのないところであろ

、。

その後,このアラブジュル属下の者達に関して交渉が行われた形跡はないが,

後の雍正九年,ロシア・トルグートへの使節に対する訓令の中で,雍正帝はア ラブジュル問題に触れ,次のようにトルグート側に伝えるよう命じている。す なわち,これまでアラブジュルを返還しなかったのは,康煕年間の使節に同行 させたアラブジュルの属下の者をトルグート側が送還せず,また再度使節を清 側に派遣すると言いながらその後使節を派遣して来なかったからである,とい

う内容である倒。トルグート側が,ロシア皇帝の許可を得て再度清に使節を

(14)

派遣しようとしたことは『異域録』にも記されているが個,ロシア側が許可 を与えず,実現しなかったのである働。この雍正帝の言葉から推察すると,

清側はトルグート側からの返使を期待していたと思われる。また,康煕帝は,

使節団にアラブジュル自身を同伴させず,まず属下の者を派遣して様子を探ら せようとし,その属下の者たちの返還を執拗に要求したのである。これらの事 実も,清側に使節団の派遣を契機にして継続的にトルグートと連絡を取ろうと する意図が存在したことを示していよう。

このような清側の姿勢は,使節団派遣当時すでに清側がジュンガルに対する 和平工作の失敗,さらには戦争状態への突入という最悪の事態をも想定してい

たことを窺わせる。この時の使節団に,トルグートとの将来的な軍事協力関係 の可能性を探るという目的があったことは十分考えられるのである。しかし,

使節団派遣当時,清朝はなおツゥワン・ラブタンとの平和的関係の確立をより 重視しており,それはあくまでも将来的な可能性でしかなかった。ところが,

使節団帰国後の情勢の変化一康煕五十四年のジュンガルのハミ襲撃を契機と して清・ジュンガル関係は完全に悪化する一により,それは俄かに現実味を 帯びてきたはずである。先に引用した康煕五十六年のアラブジュル属下の返還 要求文書は,以上のような状況の中で,再度トルグートと連絡を取りたいとい

う清側の意図を表しているのかもしれない。

3.清の使節団に対するロシア側の見方

以上のように,当時の清朝を取り巻く情勢一とりわけ対ジュンガル関係一 及びトルグートへの使節団派遣に至る事情を詳細に検討してみると,この使節 団に,トルグートの東帰勧誘或は軍事同盟の締結といった具体的な使命が与え られていたということは,やはり考えにくいと思われる。とすれば,密命の存 在を伝えるロシア側史料の扱いはより慎重にならざるを得ないであろう。それ では,密命説の根拠となっているロシア側の史料についてはどのように考えれ ばよいのであろうか。以下に若干の検討を加えてみたい。

雍正年間の清側使節からロシア側が聞き出したという情報については,すで に今西氏が,これは使節団がトルグートから帰国した後に中国で作られた風説 を伝えたものではないかとしている闘。清・ジュンガル関係が決定的に悪化

したのは,まさにトゥリシェン等が帰国した康煕五十四年のことである。トゥ リシェン自身,清朝のジュンガル討伐をロシア側に知らせるためにセレンギン

(15)

スクに派遣されている(59)。このような状況の変化により,清側に,この時の 使節団にはトルグートの東帰勧誘ないしはトルグートとの同盟関係の確立とい

う任務があったとする誤解が生じた可能性は否定できない。前章で指摘したよ うに,当初から清側に将来的なトルグートとの軍事的協力関係を模索する意図 があったとすれば,よりその可能性は大きくなる。また,雍正九年に成立した

『聖祖実録』には,康煕五十年ころまでの清側のジュンガルに対する使節派遣 の記事はほとんどなく,康煕五十四年のハミ襲撃以後突然ジュンガル関係の記 事が豊富になる。これをもって証左とすることはできないが,雍正年間にロシ ア・トルグートへ派遣された使節団が,康煕年間におけるジュンガルへの使節 派遣,すなわち清側からの平和的関係構築の努力について十分に認識していな かったことも考えられる。今西氏の考えも単なる想像として退けることはでき ないのではないか。

一方,ロシア側には当初から,清使節の目的がトルグートとの軍事的協力関 係の確立にあるのではないかという見方が存在する。清使節のトルグートへの 派遣は,北京滞在中のロシア隊商(フジャコフ隊商)を通じてロシア側に伝え られた。この報告を受けたシベリア県知事ガガーリンは,ロシア中央への報告 の中で,ジュンガル部との戦争にトルグート部を誘うために使節が派遣される のではないかと推測している。その理由としてガガーリンは,中国がこれまで どこへも使節を派遣したことがないから,小さな目的のためであるはずがない,

とする(6°)。清使節のシベリア通過を最終的に認めた元老院の決定においても,

清使節の真の目的を探り,ジュンガル部に対する戦争へ誘うためであることが 明確になれば,清側の要求を受け入れないようにアユキを説得すべきことが述 べられている(61)。ロシア側がこのような見方をとった背景には,ロシアとト

ルグート部の関係があると考えられる。当時のロシアとトルグート部は同盟関 係にあり,オスマン帝国やスウェーデンとの戦争において,トルグート部の軍 事力はロシアにとって貴重な戦力だったのである(62)。清使節の目的がトルグー

ト部に軍事的協力を求めることにあると推測するのも,ロシア側にとっては至 極当然のことであった。そして,雍正年間の清使節を迎えた時も,ロシア側に

は同様な見方が最初からあったはずである。

これに対して,康煕年間の使節派遣当時,清朝側はトルグート部の実際の勢 力或はロシアとの関係等について,確かな情報を有していなかったのである。

雍正年間の使節の場合,まさに康煕年間の使節派遣によって清側はトルグート

(16)

部の事情をある程度把握していたのであり,この点においても康煕年間と雍正 年間の使節を同様に考えることはむずかしいと思われる。

むすびにかえて一清側における使節団の位置付け

前章で述べたガガーリンに代表されるロシア側の見方は,実はそのままカー アンによって踏襲され,密命説を主張する重要な前提となっている。すなわち,

中国のように重要な使節を派遣したがらない国が,アラブジュルの返還などと いう小さな目的のために種々の慣例を破って使節を派遣するはずがない,とい うのである㈹。それでは,清側はこの使節団をどのように位置付けていたの であろうか。最後にこの問題について述べて結びにかえたい。

まず注目したいのは,清側がトルグート部への使節派遣をジュンガル部に対 する使節派遣と同列に考えていたことである。康煕帝は,出発前の使節団員達 に,アユキに会う場合は,ツェワン・ラブタンに会う場合と同様にするよう指 示を与えている燭。ジュンガルもトルグートも,当時の清朝からみれば独立

した勢力であり,ジュンガルのツェワン・ラブタンに対して,清側が頻繁に使 節を派遣していたことは,第1章で詳述した通りである。少なくとも,この時 期の清朝が,どこへも使節を派遣したことがない,或は使節を派遣したがらな い国であると言うことはできない。主要使節団員の官位も,侍読学士(インジャ ナ)・郎中(ナヤン)・侍読(トゥリシェン)であり,これに対し,例えば康 煕五十年のツェワン・ラブタンへの使節では,散秩大臣(ロブツァン・シラブ)・

頭等侍衛(キリデイ)・理藩院員外郎(スジンタイ)である(65)。官職の品級 から言っても,また侍衛という皇帝の腹心とも言える人物(66)が含まれていた ことからみても,むしろ後者の方が格が上とさえ言えよう。さらに,インジャ ナ及びトゥリシェンは,使節団の派遣以前に罪を得て官職を剥奪されており,

使節団への参加の際に,原官に復されているのである(67>。これらの事実から も,この使節団には重大な使命がなければならない,とする考え方は必ずしも 当たらないのではないだろうか。

ただし,清の使節がロシア領のシベリアを通過したことが前例のないことで あることは確かであり,また清側がロシア皇帝との接触も辞さない意図を有し ていたこと(68)は注目に値しよう。これについては,当時の露清関係がその背 景として存在する。

康煕五十(1711)年頃といえば,ネルチンスク条約締結から20年余りが経過

(17)

しており,両国の関係は概ね安定していたと言ってよい。当時の両国関係の中 で主要な部分を占めていた北京貿易一ロシアが隊商を北京に派遣して行った 貿易一においても,まさにこのころ清側の受入れ体制が完成したとみられ る㈹。また,この少し前の康煕四十七年には,内閣俄羅斯文館が設立されて いる。これは,中国最初のロシア語学校であり,当初教師は北京に滞在してい たロシア隊商の人員から選出されたのである(7°〉。これらの状況から見て,当 時の清朝が,ロシアへの対応にある程度の自信を抱き,さらに一歩進めてロシ アの事情について探ろうとする意図を持つに至ったことは,容易に想像できる。

北京滞在中のロシア隊商への打診,シベリアを通過しての使節派遣といったこ の使節団をめぐる一連の動きは,以上のような当時の露清関係を背景として考 えるならば,極めて自然なものと言えるのではないか。

しかし,トルグートへの使節団が帰国したころから,清とロシアの関係は新 たな段階に入る。両国の間には貿易及び国境をめぐって幾つかの間題が生 じ⑳,これを契機にやがて後のキャフタ条約締結へとつながる交渉が開始さ れるのである。トルグートから清への使節がシベリアを通過できなかった事も あり,その後康煕年間中に清とトルグートが再び接触することはなかった。そ して,ロシアとの諸問題がキャフタ条約締結によって解決され,ツェワン・ラ ブタンの死後新たにジュンガルの支配者となったガルダン・ッェリンに対する 武力行使を決定した時,清朝は再びトルグートへの使節派遣を行うのである。

本稿では,主として清側史料を利用して,康煕年間の清のトルグートへの使 節には,従来言われているような東帰勧誘或は軍事同盟締結という使命が存在 した可能性が小さい事を論じてきた(72)。この使節団派遣の意義を歴史上に正 しく位置付けるためには,その後の清・ロシア・ジュンガル・トルグートの諸 関係について,さらに検討を加える必要があるが,これらは今後の課題とした いo

(1) 『異域録』はもともと満文と漢文で著わされたが,今西春秋『校注異域録』(天 理,1964)は,満文を逐語訳して詳細な注釈を施し,併せて漢文の完本も収録し,

解題を付したものである。また,同書を元にした現代語訳として,トゥリシェン,

今西春秋訳注,羽田明編訳『異域録一清朝使節のロシア旅行報告一』(平凡社,

1985)がある。

(18)

(2)今・西春秋前掲書,26−29頁。

(3) Caherl, G., H 8 oかθ(9θs rθごα痴orLs dθZαRμssごθωθc ZαCん 几θsoμs

P θrrεZθGrαηd(1689−1730),Paris,1912,pp.130−133.(邦訳『露支交渉史序 説』東亜外交史研究会訳,生活社,1941,82−85頁。以下邦訳の対応頁はいちいち示

さない。)

(4)Cahen,こう 4.,p.131.なお,カーアンは,もう一つの証拠として乾隆帝の言葉 を引いているが,これについては,早く張維華「土爾雇特西徒與図理環之出使」

(『邊政公論』2−3・4・5,1943)によって批判が加えられている。また,BaHTb皿一 KaMeHcKH勇, H.,丑HnJloMaTHqecKoe co6paHHe八e,πMe}K八y PoccH前cKHM H KHTa曲cKHM rocyAapcTBaMH c 1619 no 1792一曲roム, Ka3aH,1882, c.76.に は,後にキャフタ条約締結交渉の際のロシア側の全権大使に任じられたサヴァ・ヴ ラディスラヴィチの証言が引かれているが,これは史料の出所がはっきりせず,同 書を重要著作と認めているカーアンも,この史料については言及していない。

(5)今西春秋前掲書,29,57−58頁。

(6)吉田金一「雍正年間に清国からロシアに派遣された二回の使節について」(川越 高等学校図書館『紀要』第2集,1964)。なお,羽田明氏は,この吉田氏の論文に より今西氏の説に修正を加え,密命の存在を確認している。『異域録一清朝使節の ロシア旅行報告一』232−234頁参照。

(7) 中国における近年の代表的な研究として,馬汝桁・馬大正『漂落異域的民族一 17至18世紀的土爾雇特蒙古』(北京,1991)があり,第5章「土爾雇特汗国與祖国 的密接聯係」においてこの使節団について詳述する。そこでは,祖国(中国)とト ルグート部の関係を密接ならしめたという点において,この使節団の意義を高く評 価し,密命の存在についてもカーアンの説をほぼ受け入れている。また,ロシア側 では,PyccKo−KHTa曲cKHe oTHo田eHHH B18 BeKe.酬aTepHaπb【H皿oKyMeH一

Tbl, ToM.1,1700−1725,赫ocKBa,1978(以下PKOと略称), c.631−632.のこ とく,密命(或は反ジュンガルの軍事同盟締結の意図)の存在を認めるものが代表 的な見解と言えよう。

(8) 『世宗実録』巻七十八,雍正七年二月癸巳の条。

(9)吉田金一前掲論文。なお,雍正年正間の遣露使節については,その後清側の櫨案 史料の存在が明らかとなり,トルグート部への使節派遣には,ジュンガルに対する 攻撃を呼び掛けるという目的が存在していたことがより明確になっている。雍正十 年三月十二日付け理藩院発ロシア元老院宛文書。中国第一歴史櫨案館所蔵『満文俄

(19)

羅斯櫨』編号5,50−58頁。漢訳は『清代中俄関係櫨案史料選編』第1編,北京,

1981(以下『選編』と略称),560−562頁。

(10)初期のツェワン・ラブタンと清朝との関係については,若松寛「ッェワン・アラ ブタンの登場」(『史林』48−6,1965)を参照。

(11) 『聖祖実録』巻二百五,康煕四十年九月癸丑の条。

(12) 『親征平定朔漠方略』巻四十八,康煕三十七年九月癸未の条。

(13) 『外藩蒙古回部王公表伝』巻七十七,伝第六十一,厄魯特孔薩克多羅郡王阿劇布 坦列伝。

(14)康煕四十一年九月二十一日のッェワン・ラブタンへの勅書。中国第一歴史棺案館 所蔵『蒙古堂櫨』編号34,47−50頁。同棺案は内閣全宗に属し,主として満文・モ ンゴル文(一部漢文)からなる榿冊体の櫨案であり,すべて原文書から内閣におい て作成された写しと考えられる。ジュンガルへの勅書やガルダン及びツェワン=ラ ブタン等から清朝皇帝への奏文を多数含み,多くの文書に内閣における文書処理の 過程を示す原注が付せられている。以下,同櫨案は編号(この場合は櫨冊番号と考 えてよい)及び頁数でその所在を示す。ただし,槽冊によっては頁数が記されてい ないものも存在するが,その場合は筆者が便宜上付した頁数による。

(15)康煕四十二年十月十四日のツェワン・ラブタンへの勅書及び口頭でツェワン=ラブ タンに伝えられた勅諭。『蒙古堂櫨』34,51−66。

(16)康煕四十四年十月三十日の理藩院のツェワン・ラブタンへの行文。『蒙古堂櫨』

34.66−68。

(17)康煕四十五年六月二十一日の理藩院のッェワン・ラブタンへの行文。『蒙古堂棺』

34.68−76。

(18)康煕四十六年五月二十八日の理藩院のッェワン・ラブタンへの行文。『蒙古堂棺』

34.76−78。

(19)康煕四十七年五月九日のッェワン・ラブタンへの勅書。『蒙古堂櫨』34,79−82。

(20)康煕四十八年十二月十三日のッェワン・ラブタンへの勅書。『蒙古堂櫨』34,82一

88。

(21)前註に同じ。

(22)康煕四十八年十一月十五日のッェワン・ラブタンへの勅書。『蒙古堂槽』71,95一

105。

(23)前註に同じ。

(24)註(22)に同じ。

(20)

(25)康煕五十二年五月十四日の領侍衛内大臣アリンガ(alingga阿霊阿/阿陵阿)

等の議覆,『康煕朝満文殊批奏摺』機構包,編号9,マイクロフィルム7巻1871一 1879頁(コマ)。同棺案の概略については,拙稿「中国第一歴史槽案館所蔵『康煕 朝満文殊批奏摺』中の露清関係史史料について」(『北大史学』33,1993)を参照。

以下同楼案は,編号及びマイクロフィルムの巻号・頁数で所在を示す。

(26) 『康煕朝満文殊批奏摺』機構包,16,8:805−808。この勅諭は無年月であるが,

この勅諭に基づいて作成されたツェワン・ラブタンへの勅書の日付は康煕五十年九 月八日となっており(『蒙古堂槽』34,92−95),この勅諭はその直前に出されたも のと考えられる。

(27) 『蒙古堂楢』所集の文書には内閣による原注が付せられているものが多く,それ によれば,ツェワン・ラブタンへの勅書は理藩院によって起草される場合がほとん どである。他に康煕帝自身が起草したことが明確に確認できる例としては,康煕五 十四年六月の勅書がある(『康煕朝満文殊批奏摺』機構包,16,8:541−573)が,

この時も,ツェワン・ラブタンのハミ襲撃の直後という特殊な状況であった。ただ

『蒙古堂棺』には原注が簡略で起草者が不明のものもあり,また筆者は『蒙古堂棺』

のすべての櫨冊を確認し得た訳ではないので確実なことは言えないが,皇帝自身が 勅書の文面を起草するのはやはり特別な場合であると考えられよう。

(28)康煕五十年九月八日のッェワン・ラブタンへの勅書。『蒙古堂楢』34,92−95。

(29)註(25)を参照。

(30) ッェワン・ラブタンのハミ襲撃以後のジュンガルとの関係については,『欽定平定 準幅爾方略』前編,巻一・二に詳しい記事がある。

(31) 『康煕朝満文殊批奏摺』機構包,16,8:541−573。この時康煕帝は,捕虜を護 送してきた回子佐領章京セペル(seper)に直接会って自ら尋問している。『欽定 平定準鳴爾方略』前編,巻二及び『聖祖実録』巻二百六十三,康煕五十四年五月壬 子の条には簡略化された記事があるが,そこでは議政大臣が尋問した結果を康煕帝 が聞いたことになっている。

(32) 『蒙古堂櫨』34,97−103。原注によれば,同年六月九日に使節に交付されている。

なお,この勅書は,康煕帝自身が起草して,議政大臣等に検討を命じている。註

(27)を参照。

(33) 『欽定平定準鳴爾方略』前編,巻二,五月乙卯(二十日)の条。その末尾は,

「若不来会盟,断無了期,兵興之際,受傷生歯必多。爾畏催不来,則爾向称欲安人 衆之言皆為虚偽。朕必親征,或王大臣等領兵,直抵爾巣穴,必不容爾信口支吾也。

(21)

爾其定意,即於所遣使臣回時具奏。」となっている。

(34) 『康煕朝満文殊批奏摺』機構包,16,8:698−700。

(35)  BaHTb皿一KaMeHcKH疏, yKa3. coq., c.75.

(36) 『蒙古堂棺』77,3−23。康煕帝のアユキへの勅書は,中国の新彊で満文及びモ ンゴル(トド)文の原本が発見され,すでに馬大正氏らによって漢訳が紹介されて いる(馬大正・郭藏華「《康煕諭阿玉奇汗勅書》試析」『民族研究』1984−2,及び 馬汝葺1・馬大正前掲書,106−107頁参照)が,ここでは原本の写しである満文から 直接和訳した。原本には康煕五十一年五月二十日の日付があるとのことであるが,

写しに付せられた原注によれば,この勅書は康煕五十一年四月二十一日に理藩院に よって満文の草案が作成され,その後修正が加えられ,モンゴル文と併せて完成を 見たのは同年五月八日である。

なお,スウェン・ヘディン探検隊の一員であったハズルンドは,ウルムチ近郊で,

トルグートの東帰を呼び掛けた康煕帝の文書の現物を見たと報告した(Haslund,

H.,Mθπα雇Go4説Mo花go♂ α, London,1935, pp.307−308)が,これにつ いて今西氏はその信愚性に疑問を呈した(今西春秋前掲書,57頁)。ハズルンドの 見た勅書は,漢文とモンゴル文で書かれていたというが,実際の勅書は満文とモン ゴル文であり,たとえさらに別の秘密の勅書が存在したとしても,より機密を要す るそれが漢文で書かれていたとは考えられない。やはり,ハズルンドの報告は怪し いと言わざるを得ない。

(37)今西春秋前掲書,140頁。

(38) Cahen, oP. cごオ., P.125。

(39)今西春秋前掲書,24頁。

(40)中国第一歴史櫨案館所蔵『宮中楢満文殊批奏摺・雍正朝』内政類・職官項,雍正 元年六月十日の靖逆将軍・大学士フニンガ(funingga富寧安)の奏摺。この奏摺 は,当時フニンガの配下にあったインジャナからの高齢・病弱を理由にした離職の 願いを,フニンガが雍正帝に上奏したものである。奏摺中に引かれたインジャナの 言葉によれば,彼は康煕五十九年,ウルムチ攻略に従軍した年に65歳になったとい う。また,その前年の康煕五十八年にはツェワン・ラブタンのもとに使節として赴 いており,トルグート使節行から帰国した後も,主として西方の軍務に従事してい たことがわかる。

(41)今西春秋前掲書,59頁。以下『異域録』からの引用は,今西氏の満文からの文語 による逐語訳を,筆者の判断で現代語訳に改めた。

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