資本の物神性と資本利子率
*一宇野弘蔵説と武井邦夫説の検討一
新 田 滋
*紙幅の関係で割愛した後半部分については, はない。経済学(批判)にとって重要なことは,
「所得分配と資本利子率の物神性 一山口重克 透明な社会関係が物象的に隠蔽されているといっ 説の検討と資本物神論の再構成一」(『茨城大学 た初歩的な事柄を暴き立てたり,物象とは関係の 教養部紀要』第28号,1995,3)として発表した。 物象化された姿であることを言い立てて満足する
ことではないのである。
内容構成 そもそも,「関係主義」ということならば,マ 第1節 物神性概念の来歴と問題の所在 ルクスの経済学批判ならずとも,「近代ブルジョ 第2節 宇野弘蔵の物神性論 ア」の経済学は物象間の関係にかんする貨幣数量
(1)宇野弘蔵における商品・貨幣物神概念の偏 説や一般均衡理論というかたちで当たり前のよう 衙 に用いてきた(丸山圭三郎「貨幣と言語記号のア
(2)労働一賃銀の構造 ナロジー」『現代思想』1977,10を読むと,ソシュー
(3) 「それ自身に利子を生むものとしての資本」 ルの構造主義的言語学に示唆を与えたのはマルク 論の論理的困難 スの価値形態論ではなくワルラスの一般均衡論で 第3節 武井邦夫の利子生み資本の理論 あったように思われてくる)。経済学(批判)に
(1)土地の商品化論の位置 とって重要なのは,物象化論=隠蔽論よりも,い
(2)土地の商品化と資本の商品化の媒介規定 かにして関係の物象化された物象がたんなる物象 としてではなく人格性をもって振る舞うかのよう な神秘化が生じるのかということを分析する物神 第1節 物神性概念の来歴と問題の所在 性論なのである。もちろん,そのことには人間的
マルクス経済学にとって「労働価値説」が重要 関係の物象的関係化という契機が基礎に含まれは な意義をもつとすれば,それが定性的な意味で理 するが,それの指摘だけでは何事も説明したこと 解されるときである。つまり,商品・貨幣・資本 にはならない。
の物神的諸形態(価格,利潤,利子,地代といっ また,マルクスにおいては「物神性」「物象化」
た価格現象と所得範疇)の実質的内容は労働およ 「自己疎外」などは徹頭徹尾,現象記述およびそ び労働生産物,すなわち生きた労働(労働フロー) の解明の「実証的」な場面で用いられており,み と死んだ労働(労働ストック)であるという関係 ずからの「学知」へのソクラテス的な自己懐疑と について,この関係がいかにして形成されるかと は無縁な,ルサンチマンの恣意的な表出以上のも いうことを上向法的な原理論体系として解明する のではない社会「批判」・日常性「批判」なるも ということにほかならない。それは,たんに透明 のの「規範的」根拠への「物象化」概念の転用は な関係が物象的な関係に「隠蔽」されているとい 後世の通俗化の産物にすぎない。
うことの下向法的な確認でのみ尽くされるもので 商品交換関係において,人格と人格の関係
(Verh巨ltnisse der Personen)は物象と物象の 会的属性をもった自然物の形態で,これをなして 関係(Verhaltnisse der Sachen)へと転移する いるということをみなかった。そして上品に重金
(『資本論』第1巻,マル・エン全集第23巻第1 主義を見下している近代の経済学も,資本を取り 分冊,Das Kapita1, Teill, M. E. W., Band 23, 扱うようになると物神崇拝に取り愚かれているこ S.87,以下,K〜. S〜.と略記)。同じことは, とが明白になるのではないか」(K.1, S.97)。
「剰余価値学説史』では,「社会的な関係が物(生 すなわち,商品・貨幣物神論は,市場交換的な 産物,使用価値,商品)のあいだの関係として現 社会的人間関係の物象化から展開される物神化の 象する」とより直接的に表現されている(『剰余 メカニズムを論じたのであるが,それは主として 価値学説史』第3巻,全集第26巻,Theorien哉b l7世紀の重金主義的表象を対象としたものであっ er den Mehrwert, Tei13, M. E. W., Band26, た。それに対して,資本物神論は,18−9世紀の S.127,以下,Mw.と略記)。このような転移を 古典学派が囚われていたよりいっそう複雑な構造
「人格の物象化」(Versachlichung der Person, をもった労資の階級関係の物象化から展開される Kl,S.128)という。このとき,逆に「物象の 物神化を問題としたものだというのである。
人格化」(Pers6nifizierung der Sache, Ib.),擬i マルクスによると,商品物神は,「リンネルは 人化もおこっているが,たんなる物象がそれ自身 上着がリンネルに等しいとされ,したがって価値 に社会的力能をもつかのように立ち現れるところ であるかぎりにおいて,リンネルと同一の労働か から,物象の「物神」Fetischへの転化ともいわ ら成っているという」(KI,S.66−67)内容を「商 れるわけである。そして人格化・擬人化Person一 品語」Warenspracheを使って語る,とされる。
finikationされた物象は商品・貨幣・資本とい そこで使われる「商品語」とは,価値形態または う経済的諸範疇δkonomischer Kategorien(K.1, 交換価値にほかならないだろう。同様に,貨幣物 S.16)となり,それら諸範疇の交換・購買・支 神が語る「貨幣語」なるものがあるとすればなに 払・蓄積などといった経済的関係行為δkonomis か。価格である。では,資本物神が語る「資本語」
chen Verhaltnisseの担い手Trδgerとしてあら とはなにか。利潤であり,地代であり,利子であ われる諸人格のもつ 経済的人格の仮面 δkono ろう。資本物神の世界では,三つの所得である mischen Charaktermaskenは,経済的関係行為 「利子(利潤ではなく),地代,労賃は,生産物の の人格化・擬人化die Personifikationen der 価値の三つの部分であり,… 貨幣で表現すれ δkonomischen Verhaltnissenである(S.100)。つ ば,ある貨幣部分であり価格部分である」(K.3,
まり,人々がかぶることになる商品所有者,貨幣 S.824)。同時に,利子は資本用益の,地代は土 所有者,資本家といった経済人としての キャラ 地用益の,労賃は労働用益の価格であり,価格と クター・マスク への擬人化である。 してえられた対価が所得となるのである。それゆ このように,単純な商品生産のもとでは,その え,商品・貨幣物神としてのく価格現象の物神崇 神秘的な性格が「社会的諸関係をこれらの物 拝〉は,当然,資本物神としてのく所得分配の物 Dingそのものの諸属性に転化させ,またもっと 神崇拝〉にも共通の基礎となっている。そのうえ はっきり生産関係そのものを一つの物」すなわち で,「資本一利潤(利子)」,「土地一地代」,「労働一 貨幣に転化させるのだが,これに対して,「資本 賃銀」からなる「三位一体公式」が,このような のもとでは,この魔法にかけられ転倒された世界 く所得分配の物神崇拝〉を具体的に定式化したも はさらに発展する」(K,3,S.835)のだとマル のとされているのである。
クスはいう。 「収入の形態と収入の諸源泉とは,資本主義的
「重金主義は金銀に対してそれらが貨幣として 生産の諸関係をもっとも物神的な形態であらわし 一つの社会的生産関係を表しているが,特別の社 ている。それらの表面にあらわれているとおりの
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定在は,隠された関連や媒介項から分離されてい するわけにもいかないであろう。そこで本稿では,
る。こうして土地は地代の源泉となり,資本は利 宇野弘蔵と武井邦夫の業績を詳細に検討すること 潤の源泉となり,労働は労賃の源泉となる」(Mw. をつうじて,「三位一体公式」や「資本の物神性」
3,S.445.)。 というマルクスの発案した概念装置を実証的分析 そして,このように定式化された「三位一体公 用具として実用的に彫琢してゆく基礎固めとした 式」に対するマルクスの批判は,新古典派ミクロ い。
理論への批判の基礎にも通じているとして,高須
賀義博は次のように述べている。 第2節 宇野弘蔵の物神性論
(1)商品価格=費用総額=生産費 問題を混乱させかねないが,宇野弘蔵は資本物 ここでは正常利潤はゼロとみなされる。しか 神規定におけるマルクスの混乱を批判するに先立っ し,それは産業資本家の利潤をあたかも監督賃 て商品物神規定に批判を加えていたのだが,この 銀のようにみなす錯視によって可能となってい 先行する部分ではかえって宇野はマルクスの意図
る。 を十分に汲み取ってはいなかったということを確
(2)フォン・ノイマン・モデル(労働者の貯蓄ゼ 認しておかなくてはならない。にもかかわらず,
ロ,資本家の消費ゼロ,利潤はすべて再投資さ 宇野はより高次の資本物神規定や三位一体公式導 れる);均等利潤率=最大成長率 出についてはマルクスの曖昧さに鋭く批判的再構 この命題を同じ条件のもとで,成長率は将来 成のメスを加えていったのである。以下,順次み 財の価値を希少な現在財の価値に割り引く利子 ていこう。
率に等しいというオーストリア学派的な定義で
書き換えれば, (1)宇野における商品・貨幣物神概念の偏椅 根岸隆命題;利子率二最大可能成長率 周知のように宇野弘蔵は新旧の両『経済原論』
となる。 において,物神性規定を生産論で「労働価値説の こうした根岸理論に集約される新古典派ミクロ 論証」を行ったあとに移行させている。それは,
理論に対しては,「資本の蓄積過程を複利の蓄積 「物の社会的関係としてあらわれ」る商品の価値 と考えることができるのは,利潤(剰余価値)の 関係が確立されるのは,労働力商品化を前提とし うちの資本に再転化させられる部分,すなわち, てであるという認識によっている。
新たな剰余労働の吸い上げに役立つ部分を利子と 宇野のいうところによると,「需要供給の関係 呼ぶことができるかぎりのことである」(K.3, によってあらわれる価格の変動を通して,事後的 S.499)とするマルクスの批判が依然として有効 に社会的規制を受けることになる」価値法則は,
である,と(高須賀義博「経済的『三位一体範式』 「自然法則とは異なって,個々の資本の下に労働 の解剖」一橋大学『経済研究』38−1,1987,PP. する人間の行為自身によって形成せられる法則で 78−79。この論文は「三位一体公式」を文献学的 ある」から,「人間が自ら形成する法則によって
にではなく経済学的に論じた数少ないものである)。 支配せられることになるのであって,マルクスの しかし,このような含意をもつ「三位一体公式」 いわゆる商品経済の物神崇拝的性格の根拠を明ら 批判を導出するに至る『資本論』でのマルクスの かにするものとなる」というのである。こうして,
論理展開にはさまざまな問題が存在していること 「価値関係は物の社会的関係としてあらわれ,貨 は,かつての一時期,宇野弘蔵によって指摘され, 幣が商品に対しては物として直接に価値物とせら 以後,幾人かの論者によって追究されてきたこと れる一という商品経済に特有なる性格が,こ である。そのことを顧みることなしに,安易に公 こではいわば生産過程自身に基づいてその根拠を 式批判だけを取り出して新古典派批判として追認 明らかにせられる」のだが,「資本の生産過程に
おいては,人間の行動自身が資本の運動としてあ かを明らかにし得ない」のだと強調されている。
らわれるのであって,その物化が現実的となるの このことは,価値尺度の規定において宇野が,繰 である」(宇野弘蔵,新『経済原論』岩波全書, り返しの購買を通じて価格を規制する価値が尺度 1964,PP 62−63,以下,新『原論』と略記)。 されるとしていることと不整合をなしているとい だが,だとすると,「貨幣が商品に対しては物 わねばならないが,むしろ,宇野としては,価値 として直接に価値物とせられる」という場合も, 尺度についても物神性同様に流通論では「想定せ 価値は基準としての価値を意味していることとな ざるを得ない」ものにとどめておかねば一貫しな
り,貨幣による商品の購買もいわば理想的平均の かったのだというべきであろう。
状態でとらえられることとなってしまっていると しかし,宇野は,マルクスの商品の物神性の概 いえよう。つまり,宇野においては「労働価値説 念をとらえそこなっている。マルクスは,商品物 の論証」がなされる資本主義社会でのみ商品の物 神すなわち「労働生産物が商品形態をとるや否や 神性は成り立つと考えられているのである。それ 生ずる謎にみちた性質」は商品形態そのものから は,彼の「価値」概念がそのように狭く規定され 生ずるものであり,人間労働の抽象的同質性や労 ているからにほかならない。 働時間としての長短や生産者相互の関係が,それ この点,宇野の旧『経済原論』(1950,52,岩 それ労働生産物そのもののもつ「同質的な価値対 波書店,合本版,以下,旧『原論』と略記)の流 象性」や「価値の大きさ」や,「労働生産物の社 通論のなかに,貨幣の購買手段機能の背後におけ 会的関係という形態」としてあらわれることなの る社会的諸関係の隠蔽に関して述べた注があるが だといっている(K。1,S.86)。労働生産物の社会 そこでは「物神性」という用語が避けられながら, 的関係とは,商品と商品が「商品語」Warenspra 次のように述べられている。 che(lb.S.66)で関係し合うような転倒した世
「他の社会では他の形態で,いい換えれば商品 界であり,交換価値=価値形態の世界にほかなら 形態を通さないで行われる物の社会的交換が,商 ない。しかも,この価値形態の世界は,「われわ 品経済ではこういう商品の形態転換を通して,社 れは実際,商品の交換価値または交換比率から出 会的に商品の流通として行われているということ 発して,そこに隠されている商品の価値の痕跡を になる。… しかしまた他面では人と人との社 発見した。いまやわれわれは,価値のこの現象形 会的労働の関係が,ここでは物と物との社会的な 態に戻らねばならない」(S.62)というように起 関係として,いい換えれば商品の関係としてあら 点が設定されたように,「労働価値説の定量的論 われ,商品が互いにその交換を価値によって規制 証」とは分離された次元にある。「どのように一 するということも,この点に基礎を有するもので 商品の単純な価値表現が,二つの商品の価値関係 あることを想定せざるを得ない。われわれはしか に隠されているかを見つけだすには,価値関係を しなおここでそれがいかにしてそうなるかを明ら まずその量的関係から全く独立して考察しなけれ かにし得ない。ただ商品の流通部面だけをとって ばならない」(S.64)。「一商品の等価形態は,む みても,その背後にかかる社会的過程の行われつ しろなんらの量的価値規定をも含んでいないので つあることを予想しないではいられないといえる ある」(S.70)。価値形態論の文脈で「労働」が だけである」(旧『原論』PP.54−55)。 語られるのは,定量的な価格変動の重心との関連
人と人との社会的労働の関係が物と物との社会 ではなくあくまでも定性的な同質性との関連にお 的な関係としてあらわれ,商品交換が価値によっ いてなのである。
て規制されるということは,流通論ではただ「想 貨幣物神も,「商品語」における等価形態の直 定せざるを得ない」ものにとどめられ,「われわ 接交換可能性を一般的に独占した形態であるかの れはしかしなおここでそれがいかにしてそうなる ようにみなされるものとされているのだから,物
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神性に関係するのは,宇野のように価値関係,し (2)労働一賃銀の構造
かも均衡労働編成によって価格変動の基準を与え 以上のように,宇野弘蔵の商品・貨幣物神概念 られた価値関係というわけではない。ということ の変更はマルクスのそれをかならずしも前進させ は,「労働力商品化」を基礎とした資本主義社会 るものではなかった。だが,資本物神,三位一体 で「労働価値説の量的論証」が行われるような世 公式などについてはマルクスの曖昧さを鋭く尽き 界でのみ商品物神が成立するのではなく,種々な つつ,そこからまた新たなる難問を派生させてい 生産関係によって生産された商品の交換にあって るといえる。以下,労働一地代と資本一利潤(利 も成立するものといわなければならないのである。 子)に焦点をあてて,その点を考察してみよう。
宇野は,マルクスのいわゆる「蒸留法」におけ まず,労働一賃銀について,旧『経済原論』の る労働価値説の単なる質的定義と量的論証の混同 「賃銀形態」では,この「旧来の労働賃銀なる形 に対して,まるごと「労働」を生産論に移行させ 態」による隠蔽について次のようにマルクスとは るという方法をとったのだが,商品は労働生産物 異なる説明がなされている。
であり,労働生産物は労働の対象化であるといっ 「いずれにしろ労働賃銀なる形態は労働に対す た質的「定義」と,それを逆に上向的に辿った商 る報酬として,むしろ資本主義的生産方法以前か 品・貨幣物神規定を商品・貨幣論から消去する必 らある形態が,商品化したる労働力の売買に援用 要はなかったといわなければならない。 されたものにすぎない。… 労働賃銀と資本の
なお,晩年の宇野は,『資本論研究1』(筑摩書 利潤とがつねに一方の増加は他方の減少となると 房,1967,P.266)のゼミナールにおいて,流通 いうような考え方も,この形態による剰余価値率 論の中で貨幣物神の規定を形態的なものとして説 の歪曲された表現に基づくのである。それは労働 いておき,生産論で「労働価値説の論証」を踏ま 賃銀を資本の利潤と同様に,一方は労働者の労働 えて根拠,根源としての商品物神を説くというよ に対する所得,他方は資本家の資本に対する所得 うに修正する旨を述べている(山口重克『経済原 として理解し,労働者と資本家とは,資本の生産 論講義』東大出版会,1985,では,この修正が踏 過程における生産物を互いに分配するものとする まえられてか貨幣形態のところでだけ物神性が規 常識的なる経済学的見解に外ならない」(P.133)。
定されている)。ところが,このような修正は, このような宇野のいう労働賃銀なる形態が資本 いまだ商品物神を価値形態,価格との関連で捉え 主義的生産方法以前からある形態をひきついで援 るのではなく均衡的な基準としての「労働価値」 用したものであるということについては,新『原
との関連でのみとらえようとするものである。だ 論』の注記がより詳しい。
が,そうなると,共同体間や小生産者間の流通に 「労働賃銀という形態は,元々,例えば大工,
は貨幣物神はあるが商品物神はないとすることに 植木屋等がいわゆる職人としてする仕事に対して ならざるをえない。このような理解の仕方は宇野 受けとる報酬を意味するものであって,単なる労 が,「商品と貨幣」の相即性(価値形式論)にお 働力を商品として販売する近代的な賃銀労働者の いて商品物神と貨幣物神の相即性をみようとしな 賃銀には適当しないものといってよい。おそらく いために首尾一貫した論理として生じてきている 手工業労働者が機械的大工業の労働者に転化する のである。この論理体系は内在的には首尾一貫し 過程において,この形態はそのまま受けつがれた うるが,その代償として,マルクスが商品分析を ものと考えてよいのであろう。実際また労働力な つうじて灸り出した交換過程・流通形態という社 る商品にあっては,その特殊性のために,一般に 会的関係行為の特殊歴史性を,なんらの手続きも 商品の販売に対して直ちにその代価が支払われる なしに前提として外在的に導入してくるという方 という原則にはよらないで,労働のあとから支払 法的安易さを帰結してしまっているのである。 われるということになり,しかもその労働の後と
いうことになれば,それは小生産者としての大工 体系・中』(1931)で資本の循環・回転の部分を や植木屋の場合と同様に,特定の仕事としての, 詳細に研究していたので(再生産表式論の部分の 有用労働にほかならないのであって,この形態の 担当は山田盛太郎),この些細な文言に着目して 引き継ぎは当然といってもよいのである」(新 独特の労働賃銀論を展開したものと思われる。宇
『原論』P.78注13)。 野においては,職人のような小生産者の労働やそ このように,賃銀形態が旧来の職人などへの報 の生産物は労働価値規定の対象外とすることで,
酬形態から引き継がれたものだとする規定は, 「労働の価格」=職人の賃銀形態には価値は無縁
『資本論』第1巻第17章「労働力の価値または価 であるとして「労働力の価格」の背後にのみ価値 格の労働賃銀への転化」におけるマルクスの規定 規定があるとするマルクス経済学の根本原理と整
とは全く異なっている。マルクスは,第一に例え 合するように再構成が図られていることは,従来 ば12時間労働日の価値の規定が「12時間の1労働 あまり注目されてこなかったことである。
日に含まれている12時間労働時間によって」なさ では,宇野体系において,形態としては職人の れるなどということは「馬鹿げた同義反復である」, 労働に対する代価としての賃銀=報酬wage,
第二に「商品として市場で売られるためには,と Lohnにひとしいとされる近代的な無産労働者 にかく労働は,それが売られる前から存在しなけ の賃銀が,内実的には異なるとされるのはどのよ ればならない」,第三に「貨幣と生きた労働との うな機構によってであるとされているのだろうか。
直接の交換」は「価値法則」(等価交換原則)を それは,相対的剰余価値の生産過程を通じて説明 廃止するか,それとも剰余労働を搾取する「資本 されている。
主義的生産そのものを廃止する」かという背理に まず,「協業」のところで,産業に投ぜられる 陥るとして,「労働の価値と価格」または「労働 一定量の貨幣資本額の増大は,「資本家が資本家 賃銀」という現象形態は,「一つの想像的表現で として労働者から分離し,労働過程を資本の生産 あって,たとえば土地の価値というようなもので 過程としてますます確立してゆく過程」であり,
ある」と言い切っているのである(K1,S.55 それをつうじて「資本主義の下においては,労働 7−559)。そこでは,とても旧来の職人の報酬形態 者は自らかかる社会的生産を発揮し得な」くなる
としても容認されそうにない気配であった。 のであり,協業は,「労働者が個別的にはもはや だが,これではマルクスが旧来の職人の報酬形 かかる生産力を発揮し得ないという点で,生産労 態はいうに及ばず,資本主義社会でもいわゆるサー 働者の資本の下における無産労働者化の一般的基 ビス労働(特定の仕事としての有用労働)の規定 礎をなすものということができる (旧「原論』
に行き詰まりを生じてくることは見やすい道理で PP.119−120)という。ついで,「分業」では,
ある。そのためマルクス自身も,晩年の『資本論」 「マニュファクチュアの発展が手工業者を近代的 第2巻執筆過程においては,貨幣資本の循環にお な賃銀労働者にかえ」るとともに,「特に不熟練 けるG−Aを論ずる箇所で,「ところが,貨幣は, 工としての労働者は,その労働力を完全に商品化
fが資本に転化されるとか,経済の一般的性格が してくる」こととなるが,「マニュファクチュア 変革されるとかというこどがなくても,すでに非 の分業は,結局,労働者の手工業を基礎とするも 常に古くから,いわゆる勤労Diensteの買い手と のであって,その分化も手工業的に制限せられ,
して現れている」(K.2,S.36)ことに気づい 決して全労働者を完全に無産労働者化するもので て一言書き付けているが,そのことが従来の論理 はない」(同前,P.123)ところにとどまる。こ 構造とどう整合するのかについては明らかではな れに対して,「機械的大工業」にいたって,「工場 い。 労働は原則として肉体的労働として単純な平均労 これに対して,宇野は戦前に改造社版「資本論 働化し,労働力はいずれも普通一般の人間の労働
新田:資本の物神性と資本利子率 101
力として売買される客観的基礎を与えられる。社 ということは,宇野の論理構造においても「労 会的にも資本は,必要に応じて商品としての労働 働一賃銀」なる公式を資本の物神性がそのうえに 力を購買し,不必要となればこれを工場外に放出 展開されることになる根源として批判し去り,付 することが出来ることになる」ことになって, 加価値(V+M)にたいする「労働分配率」(V
「要するに機械的大工業の発展は労働者を無産労 /V+M)や「利潤分配率」(M/V+M)を,
働者化すると共に,その労働力をも現実的に商品 「労働者と資本家とは,資本の生産過程における 化するのである」(PP.126−127)というのである。 生産物を互いに分配するものとする常識的なる経 以上でいわれていることは,言い換えると,協 済学的見解」(旧『原論』P.133)だとして否定 業,分業,機械的大工業をへて,みずからの労働 し去ることは,論理整合的な根拠付けにじつは失 サービス(生きた労働)ないし労働成果(死んだ 敗していたのだといわざるをえないのである(結 労働)を(v+m)労働時間分の商品として販売 論的には三位一体公式のうち「労働一賃銀」公式 してその代価として賃銀=報酬を得る手工業者・ が物神的であることは論証できないと考える。こ 職人・小農にとって,零細な土地・道具などの不 の点,別稿で山口重克説の検討をつうじて確認し 変資本部分(c)が原蓄によって収奪されるとと た箇所を参照されたい)。
もに,厳しい競争条件のもとc部分の回収も困難
となる中で次第に「二重に自由な」無産労働者に (3) 「それ自身に利子を生むものとしての資本」
転化して,ひとしく(v+m)時間分の労働サー 論の論理的困難
ビスないし労働成果を譲渡しながらもv部分に相 つぎに,土地一地代の公式について,地代論で 当する賃銀=報酬しか得られないものとしていく, は土地貸借とそこでの地代の決定メカニズムが論
ということである。ここに,形態としては(v+ じられているが,宇野は,地代論の末尾で土地の m)を賃銀=報酬としながら,内実としてはv部 売買の関係としての「土地の商品化」に触れ,そ 分しか代価として得られなくなったものとして, れは「貨幣市場の利子率を基準にして… 資本
「労働力」商品が「労働」商品から分離されてく 還元を受けた,いわゆる擬制資本」(新『原論』,
るというわけである。 P.219)としての「それ自身に利子を生むものと ところが,このような規定によると,両者は形 しての資本の発生による資本の商品化」が前提さ 態的にはあくまでも労働商品形態=労働賃銀形態 れていなくてはならないとする(同前,P.195)。
なのであり,ただ労働商品市場において決定され すなわち,土地一地代の関係から,地代を利子率 る賃銀が圧し下げられるようなメカニズムが原蓄 によって資本還元した土地価格が成立することを をつうじて歴史=制度的に形成されてきたという もって,物神性の成立とみるのである。つまり,
ことにしかならないのである。つまり,「労働力」 三位一体公式における資本一利子,土地一地代は,
なる商品形態は流通形態としてはどこにも存在し それぞれ利子,地代を利子率で資本還元すること ないのであり,労働商品市場が買い手市場化して によって「それ自身に利子を生むものとしての資 v部分の賃銀へと圧し下げられているだけだとい 本」に同質化され,それと同時に利子と質的に分 うことである。マルクスの曖昧さを回避しようと 割された企業者利得のほうは労働一賃銀公式に含 した宇野弘蔵の論理展開においても,「労働力」 まれるものとなるというのが,宇野弘蔵の論理構 なるものの商品としての売買が本質的で,それが 造であった。こうして三位公式が一体のものとし
「労働」なるものの商品としての売買へと転化し て成立したときに,資本の物神性は完成するとさ て本質が隠蔽されてしまうというマルクス経済学 れるのである。
の根本原理は,論理的に導出されることに成功し この「土地の商品化」については,武井邦夫説 えていないのである。 の主要論点をなしており,詳しくは次節で検討す
ることとして,ここでは宇野の資本一利潤(利子) 220)とされる。つまり,原理論で解明しえない についての論考の検討に絞ろう。 具体的関係としての「株式資本形式」において
周知のように,宇野の分配論における産業資本 「それ自身に利子を生むものとしての資本」は利 を起点とする貸付資本一商業資本一「それ自身に 子を価格とする「資本の商品化」を完成するとい 利子を生むものとしての資本」一株式資本という うわけである。
論理的連鎖は,きわめて錯綜したひとつながりの もともと機能資本家と区別された貨幣資本家の 論理の糸で結ばれている。マルクスは,利子生み 資本市場が前提として存在するならば,ストレー 資本を論ずるにあたって,二つの重大な誤りを犯 トに「質的分割」や「資本一利子」観念の成立を していたと宇野は考える。第一は,はじめから貨 説けるのだが,宇野は資本市場の成立を「金融資 幣資本家と機能資本家を分離して設定して利子生 本段階」とみなしたのでそうすることはできず,
み資本の貸借関係を分析しようとしたことであり, 商業資本を媒介にして「理念」としては成立する 第二は,貨幣市場と資本市場,あるいは貸付資本 が実現するのは株式会社の普及する「金融資本段 と株式資本とを同一視したことである。 階」だという論理的アクロバットを演じてみせた
宇野は,第一の問題に対しては,貸付資本は産 のである。
業資本の遊休貨幣資本から派生するものとして, 商業資本において利潤の分割の観念が成立する 登場人物を産業資本家に一元化し,そこから商業 論理にも,その観念が産業資本に移入されるとす 信用一銀行信用一商業資本が展開される論理を提 る論理にも,また,商品化された貨幣としての資 示した。宇野は原理論における所有と経営の一体 金の価格である利子とあくまでも金貸資本・貸付 性を大前提においたのである。 資本が得るものとしての利潤との「利子生み資本」
また,第二の問題に対しては,貨幣の商品化と 概念をめぐる混同など,宇野の論理展開には理解 資本の商品化を明確に区別したうえで,両者を商 できない点が多いが,これらはすでに多くの論者 業資本一「それ自身に利子を生むものとしての資 によって批判されているところなのでここではそ 本」を媒介項とした論理で繋ぐ方法を提示したの れには触れない(2)。
であった。商業資本においては,一方では商業労 ここでの問題は,「利潤」の「分配」と「利子」
働を媒介として資本家的活動にもとつく利潤取得 との関係である。そもそも,マルクスや宇野では の外観が生じ,他方では借入資金にたいする利子 その理論的意義が明確といえない面があるが,産 の控除から自己資本部分についての利子に相当す 業資本論で対象とされている「利潤」は流通費用 る部分の控除が行われるようになって企業利得と も減価償却費も含まれた粗利潤に該当する。この いう観念が成立し,商業資本において「それ自身 粗利潤から流通費用や減価償却費だけではなく地 に利子を生むものとしての資本」の観念が成立す 代費用や利子費用その他の間接的諸費用も控除さ るが,この観念が産業資本にも移入されて一般的 れるのであるが,さらに結合資本(所有)パート に資本がそれ自身に利子を生む観念が成立すると ナーへの配当(分け前)報酬および経営パートナー いうのであるω。それを踏まえて,「産業資本も への重役報酬,自分自身への報酬である企業者利 株式形式をもって形成され,その運営によってえ 得が(資本それ自身にとっては一種の流通費用と られる利潤が,株式に対して配当として分与され して)控除され,さいごにのこった残余が資本そ ることになると,資本は,この配当を利子として のものにとっての純利潤(蓄積元本=内部留保)
資本還元される擬制資本を基準として,商品化さ とされるのである。マルクスや宇野が「利潤の利 れて売買されることになる。… 原理論で解明 子と企業者利得への分割」というときには,この しえないヨリ具体的な諸関係を前提とし,展開す ような粗利潤と純利潤の関係が明確でないために るものとなるのである」(新 『原論』P. 「企業者利得」の位置づけが資本にとっての費用
新田:資本の物神性と資本利子率 103
なのか純利潤なのか曖昧になっている。宇野でい を本来低リスクへの「信用」というサービス系商 えば, 「重役報酬」と「配当」の関係と「企業者 品の価格である「利子」ととらえる観念が生じて 利得」と「利子」の関係との対応が不明確なもの くる。宇野理論では,バター状の完全市場を想定 となっている(旧『原論』P.510)。 する新古典派とは異なって,「労働(力)商品の ある種の条件設定のうえでは,この純利潤率 特殊性」「固定資本の制約性」等々を強調するに
(純利潤/資本)は,ほかの運用機会で得られた もかかわらず「資本一利子」が「理念」としては 利得の犠牲(cost)すなわち「機会費用」の考慮 成立するとされたのは,このような自同律的な均
をとおして結合資本の配当利回りおよび貨幣市場 等化の論理においてであった。
の利子率と比較されてもっとも有利なところに投 宇野が解明しようとしたのは資本主義社会の根 資される結果,純利潤率,配当利回り,貨幣利子 本的な行動原理となるような,いわば機会費用を 率の三つが量的に均等化すると考えられる(3)。し 含意する「それ自身に果実を生むものとしての資 かし,量的に一致しても三者は別のものなのだが, 産」=「擬制資産」による「資産の商品化」だっ それが質的に同一化することに混同されることと たと考えることができる。それは,ようするに資 して,新古典派的な「資本一利子」の物神化は解 本主義社会においてはありとあらゆるものが果実 明できよう。この物神性によって一般均衡状態に としての「利子」を生み出す資産としての「資本」
おいて「超過利潤」ゼロのときにも「資本」がそ に擬制され,「資本」が稼働することなく遊i休し れ自身に「利子」を生むものとされるが,この て余暇をとる「機会」を得るばあいに犠牲cost
「利子」とは,じつは諸費用としてすべて控除さ となった果実が「機会費用」としてあらゆる場面 れたのちにのこった残余であり,資本そのものに で考慮されるようになることが行動上の根本精神 たいする純利潤にほかならないのである。一般均 となり「理念」となるということといってよい。
衡論的な完全市場では,貨幣資本が貨幣市場にも 「理念」とはすなわち資本主義社会の経済人の行 実物資本にもバターのように滑らかに移動するこ 動原理であり,「それによって資本はその運動を とができるという非現実的な想定がなされている 律せられるのである」(新『原論」,P.222)。機 ため,貨幣市場の貨幣利子率と,結合資本の配当 会費用概念がなかったために,宇野は物神的な 利回りおよび実物資本の純利潤率(「自然利子率」) 「理念」という,ミスリーディングにもカントや が均等化するように投資が決定されるので三者は ヘーゲルの哲学用語を容易に連想させてしまう言 量的に等しくなるものとみなされ,さらに量的に 葉を用いつつ,難解な論理に頼らざるをえなかっ 等しいものが質的にも同一であるとみなされるこ たのだといえよう。
とによって,「資本一利子」 「資本利子率」の概 しかも,宇野においては新古典派とは異なって,
念が成立するのである。 このような機会費用をとおした均等化が具体的に 他方,土地一地代,資本一純利潤・配当を貨幣 成立する要件としては,その基礎として高度に流 市場の主要とみなされる利子率で「資本還元」 動化された資産市場が要請され,それゆえに株式
(Kapitalisierung,資本化)すると果実を生む擬 会社形式が論及されねばならないことが洞察され 制資産となる。この果実の利回りが貨幣利子率と ていたのであった。そして,資産市場での流動性 等しいのは,分母の擬制資産が貨幣利子率によっ の高まりの背後で,株式会社の発展はまたまった て「資本還元」されたものだから自同律的である。 く異なる経済構造を生み出すことになるという点 この循環論法的に導出されたにすぎない理論的仮 を,宇野は強く意識していた。そもそも,産業資 構の結果として,この二つないし三つの質的に異 本の粗利潤の分割からそのまま純利潤の機会費用
なる果実が量的に収穫率が等しいというだけで質 をつうじた均等化によって利子との混同,物神化 的にも同一化したとみなすところに,資産の果実 は解明できる。しかし,このような機会費用をつ
うじた均等化が具体的に成立する要件としては高 展開」しているわけだが,そうすると,「土地価 度に流動化された資産市場が歴史=制度的に前提 格形成機構の説明抜きに,空洞化した形でその商 されねばならず,それは株式会社形式の普及とそ 品化を論じなければならなくなるし,また地代論 れによる経済構造の変質が随伴するものと考え, の末尾と商業信用論とがつながらなくなる」と批 原理論の範囲に収まりきれないとしたのであった。 判するのである(『利子生み資本の理論』時潮社,
しかし,はたして株式会社形式や資本市場が登場 1972,PP.200−201)。
すると原理論的世界は変質してしまうのであろう 第二は,商業資本論の位置づけについてである。
か。これは,利潤率均等化機構,景気循環機構, 宇野は, 「流通費の商業資本化の根拠として,遊 そしていわゆる「金融資本」的な産業組織などの 休資金の貸付資本化をあげているが,利子を生む 諸側面からあらためて検討されねばならない課題 関係が利潤を生む関係の根拠となることができる であり,別の機会に委ねざるをえないが,そうし かどうか,疑問というしかない」 (P.201)し,
た固定観念にどれだけの妥当性があるのかには, 「このような構成では,商業資本論抜きに恐慌を 十分に検証される余地があると考えられる㈲。 論ずることになるが,それでは恐慌の必然性の論 証はきわめて困難にならざるをえない」(P.201)
第3節 武井邦夫の利子生み資本の理論 とする。さらに,信用論の後で商業資本論を展開 以上のように,マルクス理論の諸問題を鋭くと することの難点として,[1]「再生産過程のW 一 らえて批判的に再編成を行った宇野理論にも,多 G をG−W−G という形式で直接代位する商 くの問題が残されていた。宇野以降,多くの論者 業資本のほうが,間接的に媒介する信用制度より によって微修正が試みられてきたが,ここでは最 も『基本的』である」 (P.125),[2]「このよ も独異の視点から宇野説を批判的に検討した武井 うな展開順序では,資本家相互間の交換を媒介す 邦夫の所説を検討していくこととする。 る商業資本の導入は,逆に困難になる」(P.126),
[3]「『近代的信用制度のもとでは,商人資本は
(1)土地の商品化論の位置 社会の総貨幣資本の一大部分を支配』(K.3,S.
武井邦夫は,宇野弘蔵の資本利子論の問題点と 316)しているという事実… と,原理論にお して,まず大きく三つのことを指摘している。 ける展開が信用論→商業資本論という順序をとら
第一は,「『分配論』展開順序の基準を各範躊の ねばならないということとは,全く別である」
利潤率均等化におよぼす作用度におくならば,均 (P.126),[4]「本来的な空費である純粋な流通 等化の媒介機構である信用制度は均等化の障害と 費が商業資本の一部として自立すると利潤を生む なる土地所有よりも先に論じられなければならな 資本に転化する根拠は,商業資本の自立によって くなる」のではないかということである。その点 純粋な流通費が節約される… ということにあ を重視すると展開の順序は,「信用論の末尾で利 るのであって,… さらにまたそのような利子 潤率均等化媒介作用を説くのに続けて,均等化作 を生む資金を流通費として投じたからといって,
用の特殊的貫徹機構の産物である差額地代を説き, それは利子を要求する根拠にはなっても利潤を要 さらにその基礎上に均等化作用の撹乱的産物とし 求する根拠にはならない」(P.127),という4点 ての絶対地代」説き,「そして地代論の末尾で地 が指摘されている。
代を資本還元した価格での土地の商品化」を説く 第三の問題は,「商業利潤の資本利子と企業者 というかたちになるだろう。そうすることによっ 利得(企業利潤)とへの分割がおこなわれるかい て,「資本収益を資本還元した価格での資本の商 なかにある」(P.201)。すなわち,「宇野氏の資 品化の展開が可能となる」。宇野弘蔵は,「利子論 本利子・株式資本論の構造は,(一)信用論につ の前で地代論を説き,その末尾で土地の商品化を いで展開される商業資本論において,商業利潤の
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資本利子と企業者利得(企業利潤)とへの分割が Begriff)であり,客観的な真理であり,ある おこなわれる,(二)この分割が産業利潤に『移 いは真なるものそのものである。』(『大論理学』
入』される,(三)これを『具体的に示す』のが 下巻,武市健人改訳,岩波書店刊,ヘーゲル全 株式会社である,(四)原理論では株式流通= 集8,二五七頁)… 「カントは理念を必然
『資本の商品化』は,「理念』としてのみ展開され 的な或るものと見次のような目標と見ている。
うる,というにある」(P.199)のであるが,こ 即ちその目標は,格率の原型として立てられる れらにはそれぞれ次のような問題点があるとする。 べきものであって,現実性の状態をその原型に
(一) について。「商業的機能が商業資本家自ら 次第に近づけるように努力がなされなければな によって営まれるならばともかく,… 商業 らないものなのである。/けれども,これまで 労働者によって営まれているばあいには,… の結果として,理念が概念と客観性の統一であ 商業利潤は資本家の商業的機能にもとつくとい り,真なるものだということが明らかになった うよりは資本そのものに内在的な果実として観 以上,理念は単に目標と見られるべきではない。」
念されるにすぎないであろう」。また,「もとも (同前,二五九頁)/… 宇野氏は「理念」
と資本は利潤を生むものとしてあるのであって, という言葉をヘーゲル的というよりカント的な 資本所有とは利潤を生む資本を所有することに 意味で用いているのである。しかし,もともと
ほかならないのであるから,これだけでは『資 経験科学である経済原論で,現実的存在からは 本所有の果実としての利子』なる範疇は生じよ 超越した架空の観念形態が生じ,現実そのもの うがない」はずである(PP.265−266)。 は後からこれを追いかけるというような方法を
(二) について。「産業資本のばあいには… , とることが許されるであろうか」(P.206−207)。
資本価値の圧倒的大部分が固定資本として存在 以上の宇野批判の論旨はいずれも鋭く妥当なも しているために,商業資本のごとく自由にある のといえ,商業資本の自立化によって純粋流通費 時は預金され,ある時は投資されるというよう 用の節約が行われるといった細部の論点を措けば,
な流動性を有しない」(P.266)。 首肯しうるものである(5)。
(三) 「もともと商業資本における分割が… つづいて,鈴木鴻一郎編『経済学原理論」(上・
産業資本にそのまま「移入』されるならば,産 下,東大出版会,1960,62,以下,鈴木『原理論』
業資本はこれを『具体的に示す』ためになにも と略記)における鈴木・岩田説については,利子 株式会社形式をとる必要はない」(P.267−268)。 率の「客観的な一様性」の過度の強調について批
(四) 「比喩的にいえば,株式資本という輸入禁 判する(P.211)。これらの点についても妥当な 止品がその上に『理念』というラベルを一枚貼 批判といえよう(6)。
ることによって堂々と原理論の関門を通過する また,日高普『経済原論』(有斐閣,1983)に のである。ところでこのような偉大な効力を有 たいしては,「資本利子の成立の根拠を商業利潤 する『理念」というラベルについてはなんらの の『質的分割』に求める宇野氏に対して,土地価 説明も与えられていないのであるから,われわ 格形成機構に求めようとするのが日高理論の特色 れとしてはかかるラベル添付による税関通過を であるが,このように土地価格を先に説くという 認めるわけにはゆかないのである」(P.270)。 点は大いに評価すべきであろう」としながら,株 宇野においては「理念」という言葉は,「もっ 式資本論を原理論から追放してしまうということ ばら実在しない単なる観念的存在という意味で や,宇野と同様に,「『分配論』を利潤・地代・利 使われているようであるが,ヘーゲルは『大論 子の順で説き,地代論の末尾で「土地の商品化』
理学』では,次のようにそのような用法を否定 を説いている」ことを批判する。しかも,日高の している。「理念は十全な概念(der ad五quate ように,「土地価格論によって利子生み資本観念=
資本利子観念が根拠づけられるとすると」,「地代 る所有関係の歴史・制度性を考えると,たんに競 の利子化」によって土地所有が「利子をもたらす 争機構的な対応だけによって解消しきれないもの 財産の所有」に転化するのと同じように,資本所 が残るという点で異質であるとはいえるのである。
有も資本還元によって擬制資本としての「利子を 武井理論における展開順序論は「土地の商品化」
もたらす財産の所有」に転化すると考えてよいこ を「資本の商品化」への媒介規定とした宇野,日 ととなるはずだと指摘している(PP.216−217)。 高の考え方を,その方向で徹底させれば必然的に このようにして,「利潤の質的分割」から株式 でてくる考え方である以上,重要なのはそのよう 資本を「理念」として説く宇野の方法も,「利潤 な「土地の商品化」を媒介規定とする考え方その の利子化」として金融資本段階の株式資本を規定 ものである。そのことを検討するためには,具体 する鈴木・岩田の方法も,原理論から株式資本論 的にその論理展開をみていかねばならない。
を追放する日高の方法も困難である以上,「地代
論を信用論の次に論じ,さらに土地の商品化を根 (2)土地商品化から資本商品化への媒介規定 拠にして資本の商品化へと進まねばならなくなる 以下ではまず,武井説の論理展開を叙述の便宜 であろう」(PP.219−220)というのである。 上1〜3として紹介する。
以上を踏まえた,武井邦夫『経済原論』(古今 1 「純粋資本主義社会」においても労働力商品,
書院,1989,以下,武井「原論』と略記)はその 土地所有,国家,世界市場等の「非資本主義的存 第3篇における,信用制度論と資本利子論のあい 在」は,「資本の『生活環境』」であるかぎり前 だに地代論がおかれるという展開川頁序は表面的に 提されねばならないとし,「労働力商品化の前提 は「資本論』に似ており,実際,第1章「利潤」, には土地の私的所有の確立」として「地代の最終 第2章「商業利潤」および第3章「利子」の1 形態である絶対地代」が存在するのだが,「地代
「信用制度」,2「地代」までは(第1篇,第2篇 の資本還元による価格での土地の商品化」が土地 のある種の部分同様に),似ている面も少なくな 所有のもつ「外的与件性を形態的に商品経済の内 いのだが,3「資本利子」において決定的に異なっ 部に内面化する機構」だとする。そして,このよ てくる。『資本論」においては,商業利潤論,利 うに「純粋資本主義社会」が全面的なものとして 子生み資本論地代論においてそれぞれ与えられ は想定されえない以上,マルクスのいわゆる「貨 た所得分配公式が,最後の第7篇「諸収入とその 幣資本家」にあたるものとして「引退した資本家,
源泉」であらためて総括されて,「三位一体公式」 ないしその子孫」が,商品化された土地の購入者 という規定を受ける構成となっているが,武井 となると想定してかまわないこととなるとされる
『原論』では,「土地の商品化」を媒介として最後 のである。ただし,「信用論の根幹的規定をこの に「資本利子」論が,信用制度論と別立てで論じ ような『資本家』にそくしておこなってはならな られているのである。 い」,というように,原理的規定は「純粋資本主 このような武井理論の考え方は宇野一日高説を 義社会」の想定を必要とする箇所とそうでない箇 前提とすればたしかに内的整合性があると考えら 所とが区別されなければならないのである(『利 れる。鈴木鴻一郎,日高普,大内力,山口重克ら 子』,PP.223−334)(7)。
の原理論体系にほぼ共通している,産業資本の利 2 そして「純粋資本主義社会」的ではない領域 潤率競争一均等化過程による超過利潤の処理機構 に該当する部分では,「原理論において,このよ
を生産技術については市場価値論,自然条件につ うな「貨幣資本家』と地主間,または地主相互間 いては地代論,流通費用等については商業資本・ での土地の売買を展開したばあい,資本所有それ 金融機構というかたちで展開する方法にとっても, 自身に対しても利子が与えられるということにな 自然条件はそれ自体の自然的所与性やそれに対す らなければ,『原理が一貫しない。』」こととなる。