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保險資本の構造とその生産性

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保険資本の構造こその生産性

西

         ままこ  ﹁保瞼は経済学の継子である﹂︵.δ器く理のざ冨歪ロ暢≦①の。勝陶馨留のの寓9犀巳山①角く。涛ω三腎ω∩富津・,冨鐸①..・︶ と嘆じた・ヘルマ ン︵缶Φ鐸ヨ弩“国噛︶の有名な言葉は、十九世紀の終り︵一八九七年︶のことであるが、 二十世紀の半ばを過ぎた今口に於て も、やはり、そのままの姿があてはまる。すなわち、事業としての保陰は、資本主義の発展に伴って、いちじるしい進歩 をとげたし、 一方、学問としての保険⋮の歴史も、かなりの年数を重ねたのであるが、なお依然として、他の多くの学問に 比べて、低い水準をさまよっている。いわば、霊活学は、その原生的な形熊のままにとどまり、糟密な学問としての体系 を、そなえていないのである。  もとより、こういう遅日たる発展の申からも、経済学としての保険学を組立てようとする努力は、全くないわけではな い。すなわち、最初は、保険の契約を主として取り上げる法律論であったり、或いは、確率や、保険料の計算を中心とす る保険数学であったり、或いは、古代の冒険貸借︵旧WO汁けOヨ吐矯︶から始まり、資本主義的海上保険に至る進歩を始め、火災 保険や生命保険などの発展を明かにする歴史論であったり、更にまた、これらの知識と、医学や商晶学や経営学に関する      保険資本の構造とその生産性       一

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     保険資本の構造とその生産性      二 断片的なもろもろの知識を、雑然と集合した百科辞典的形態にとどまっていた中からでも、保険学が、何よりもまず、経 済学であることに着目して、経済学の一分科としての学問に組立てようとする努力は、徐汝ながらも、なされて来たので ある。  この努力の跡は、仔細に観察すれぽ、或いは、今世紀の始まりの頃にまで遡り得るであろう。そうして、やがて、保険 商品説ともいうべき形をとって、経済学としての保険学の最初の体系を、ひとまず打ち建てたのである。それは、ぼぼ一 九三五−四〇年の頃であったと考えてよい。いま私は、この点について、詳しく触れるつもりはない。それはまた、お のずから別の重要な課題として、他日論じられるべきことがらである。  然し乍ら、このような学問樹立について、真劒な努力がなされている際、学問一般に対する去る方向への強い流れが、 保険学にも押し寄せて来た。第二次世界大戦がはげしくなるにつれて、いわゆる全体主義的思想が支配的となり、保険学 もまた、その例外となることが閏露なかった。いなむしろ、保険学が、純緯な学問的体系とその自覚とを持たなかっただ けに、まことに他愛なく、その支配に屈服したと見られても、またやむを得ぬのである。  ともかくも、いわゆる保険協同体理.論︵目冨。ユ①登口くΦ邑。冨毒置帥亀農①筥①冨ω。冨障︶なるものが、洪水のように入り込んで来 て、それが、保険の本質論に置きかえられた。この場合に、その理論的根拠として、しばしば引き出されたのは、ゴット ル︵OO㎡ニーO叶銘空閑①揖︷Φ一島い喝・く自︶の構成体理論︵目冨。ユ①留ωO①σま①ω︶であって、それを最も強く、保険学の領域に導ぎ入れた のは、piルベック︵幻Oゴ同び①O評獅ぐ唄,︶であった。保険に於ける、いわゆる﹁万人のための一人、 ︺人のための万人﹂︵。肉冨9 融﹃昌ρ帥H冨隷塊①造語、.︶の関係を、協同体感情︵O①旨①冒の魯鋒ωひqΦま置︶に置き、 そこに本質を求めるこの種の理論は、ま ことに不思議なことながら、当時の保険学を根底から揺さぶり、保険学もまた、これに対して、殆んど反省を加えない状 態であったのである。      一

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 ところで、戦後、わが経済機構の変化はまことにはげしく、 国民の幅祉を屠指すいわゆる社会保障︵のOO図四一 ω①O自同同汁圓①oo︶ は、国の政策の、きわめて重要な部分を形づくるこ之となった。国営保険や社会保険の思想と結びついて、この社会保障 が、保険学に大きく取り上げられるに至ったのは、学問としての問題の所在という点から見て、まことに注意すべきこと がらである。事実、卑近な例であるが、一般民衆の用語のひびきを繕えて見ても、保険といえば、昔は生命保険の勧誘を 想い出したが、今では、すぐに健康保険を連想するぼどである。自己の属する職業が、健康保険の組織を持っているかど うかということは、まことに切実な生活問題となって来ている。  保険学の問題が、理論の上でも実際の上でも、こういうところまで、その領域を広めたことは、それだけこの学問が、 新しい重要性を帯ぶるに至ったことを示すものである。しかしながら、他方それだけに、経済学としての保険学の純粋さ が、保たれがたくなるというのは、それほど云いすぎではなかろう。いまもし、このような点ありとすれば、学問として の保険学の体系を組立てるという立場から、他の領域に亘るべき問題については、明かにそれとして、保険学からは区別 して、これを考えなければならない。それによって、保険学に接した部面に於て、悔しい学問が、その成立を主張し得る こととなる。密接な関連を持つからといって、すべてのものを一つの学問で取扱うということは、ただ、その学問を混乱 させるにすぎない。決して、純粋な学問を発達させるゆえんではないのである。  社会保障ないしは健康、失業、労災などの一連の保険は、国の政策に湿る問題である。単に経済のみならず、厚生、労 働、文化など、多くの分野に亘る。のみならず、それらが、国の政策として円滑に実施せられるためには、法的な制度を 必要とする。ところが、およそこういう一連のことがらの内には、多くの異質のものが含まれているのである。そこで、 いわば政治の問題として、取り上げられなければならない。同質の理論の体系としての経済学に於て、これをすべて取扱 うということは、それ自体として、不可能に属する。 保険学が経済学であることに着目する限り、 そう考えざるを得な      保険盗ハ本の構造とその生産性        一二

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     保険資本の構造とその生産性      四 い。異質のものをそれ自体のうちに含み、国の一定の目的と、それに対応するいくつかの政治を、政策の問題として考察 するときに、始めて、それは、新しい学問の分野を主張し得るのである。  とにもかくにも、戦前戦後を通じて、保険学の内外に、重大なる問題が、立替り提供されて来た。そうして、たまたま 学者の注意は、その時その時の問題に奪われているけれども、やはり、学問の本質を明かにするという点からは、そうい う移り行きに注意しながらも、なおその奥に、 一つの動かしがたい理論的体系を、静かに見出さねばならない。ヘルマン をして嘆かしめた言葉を、再びこ玉でくり返さぬように、保険の本質の所在を、ここでもう一度たしかめるということは 決して無用のことがらではない。しかも、その点が、従来の保険学にとって、いわば盲点であったのであるから、この意 味に於ても、また重要である。私が、ここに、保険資本の構造を改めて論じ、その資本の生産性について論じようとする のも、またこのことに由来する。 二  およそ経済は、商品生産の機構として、これを理解することができる。流通、金融、消費などは、これに働きかけ、こ れから働きかけられるものとして、不可分にこの生産機構を形づくる。この機構は、いうまでもなく、再生産のそれであ る。多かれ少かれ資本主義的な社会のもとでは、それ以外に考えようがない。  周知のように、この機構では、資本は、次の形をとって循環する。       勺ヨ       :・:・≦、一○、       O一薫く すなわち、企業によって一定の貨幣資本が用意せられ、もろもろの生産手段と労働とが買入れられる。そして、それらの 結合の結果、新しい財が獲得せられる。次いで、その財が売られて、新しい貨幣が入手せられる。この貨幣の量は、最初

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のそれより大きいことが期待せられる。つまり利潤である。かくして、貨幣も財も、すべて、この利潤実現という過程の もとに置かれることによって、資本としての資格を獲得する。商品生産の機構は、資本的生産の機構であり、貨幣から貨 幣に至る、財の結合によって新しい財を獲得するところの、機構である。  この財の結合による新しい財の獲得の過程は、具体的には、それぞれの企業によって異り、それが、その企業の技術的 基礎を形づくる。もろもろの産業の、経営上の種類と特長とは、資本循環の立揚より見れば、このそれぞれの技術的基礎 によって与えられるのである。  いったい、経済たるこの生産の機構は、ひろく企業によって支えられる。われわれおたがいは、或いは労働の提供者と して、或いは財の買入れの相手方として、直接聞接に、企業に結びつく。そして、これら企業相互の問の、それぞれ種類 と段階とを異にした複雑な有機的関連が、 全体としての経済を形づくる。それゆえに、 商品生産に於ける右の資本循環 は、もとより社会総資本の循環を問題とするのであるが、観察の立場は、企業の経営に置かれている。それは決して、個 別資本を捉え、経営そのことを問題とするという意味ではない。ただ、企業の経営に着目することなくしては、機.構とし ての経済を論じがたい、というにとどまる。保険に於ける資本を問題とするに当っても、その態度は、いささかも異ると ころがあり得ないのである。  さて、調達された貨幣資本は、もろもろの生産財や労働から、新しく獲得せられた商晶を経て、最後に貨幣として、企 業の手に還って来る。このことは、資本が、貨幣から財、財から貨幣へと、その姿を変えたことを意味する。この揚合、 最後に現われる貨幣としての資.本︵O、︶は、新しい財︵毛、︶の対価︵国主茜①δであるが、 それは同時に、その財からその 貨幣への体化︵<㊦昆9℃Φ凄置︶を意味する。この体化という点から見れば、 最初の貨幣資本から、第一に生産手段と労働 への移り行きも、第二に生産手段と労働との結合による財の獲得も、すべて同様に、体化として理解せられる。かくして      保険資本の概 造とその生産性      五

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     保険資本の構造とその生産性      六 企業と外部との闇の交換の過程︵≦、!Ω、︶に実現ぜられる対価は、実は、その企業の内部に於ける技術過程︵瞬言⋮≦、︶ の結果として、もたらされるのである。        ヘ へ  ところで、この技術過程たる生産は、為すなわち有形長息のものについてである。これを価値的に見れば、使用価値に 他ならない。この点からいうならば、右の資本循環は、使用価値の体化によって、交換価値を生み出すところの、一連の 過程として理解できよう。いま使用価値をひろく解釈して、商業や金融なども、この生産のうちに含ましめることも、或       ヘ  へ いは不可能ではないかも知れない。しかし、嚴密には、多分の無理がある。けだし、いずれも、有形無形のものの創造に 関係しないからである。        ヘ  へ  このような点から見て、資本の生産性︵胃。曾割く閲叶韓︶ということは、もともと、 有形無形のものの使用価値を生み 出すところの関連として、これを理解することができよう。資本の生産性というのは、言葉をかえれば、資本の循環が、 このような技術過程に於て行われるということである。そして、その大いさは、右の体化の比率として、これを表現する ことができる。  そもそも資本の循環は、経営という企業の操作に寝て、資本がどのように働くかという、その道行きを意味する。この 道行きを、いわぽ前面に於て捉えるとき、資本の支出すなわち費用︵図。簿Φ口︶であり、背面に向って考うるとぎ、資本の 牧遺すなわち牧益︵潮目霞茜︶である。 したがって、資本の循環は、経営と名づけられる企業の操作にとっては、費用から 態様に至るところの、一連の結びつぎに他ならない。この点から見れば、生産性というのは、このような資本循環を、現       ヘ  へ 実に技術的に基礎づける、或る形の道行きであり、しかもそれは、有形無形のものの使用価値に関連する。  技術過程として、現実に企業の操作を基礎づける生産性は、このように、支出から枚益への一連の結びつぎのもとに捉 えられるのである。この結びつきは、いうまでもなく、その両者の差額たる、利潤の実現を目指すものであるから、右の

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生産性は、実は、この利潤実現の道行きのもとに考えられるところの、或る形の技術過程ということになる。その意味に 於ては、生産性は、そのまま、牧早早︵罰①寒け帥ぴ昌團酢曳け︶のもとに於て考え得られる。  ところで、企業にとっては、生産性は、つねに公利性のもとに於てのみ、考え得られる。すなわち、利潤を如何にして 増大するかという点から、その技術過程としての生産性が、問題とせられる。この意味から、生産性ということが、しば しば牧薦骨に置きかえられる。しかしながら、両者の立揚は、もともと互いに異っていることに、注意せねばならない。 すなわち牧利性は、もつぼら企業の立場に於て、利潤追求の意図のもとに考えられるに対して、生産性は、それの実現の ための技術的な関連として、社会的に考えられる。いまこのことを、資本の循環に即していえば、前者は、いわば個別資 本の立揚から捉えられるに対して、後者は、いわば社会総資本の立場から捉えられる、と見得るであろう。  生産を、直接に使用価値に関連して考え、交換価値に関連しては、間接にこれを考える限りは、右に述べたところは、 おのずから明かである。したがって、直接に使用価値に関連しない商業資本や金融資本については、生産性を、そのまま 牧利性に置きかえて考えることはできない。それらの技術過程は、 本来の生産に対して、 闇接に結びつき、これに作用 し、これに貢献するという意味に於てのみ、生産性を持つといい得る。商業資本や金融資本に於ける技術過程は、このよ うなものとして理解せられるのである。そこで、これらの資本循環は、それぞれ次のように現わされるであろう。       O一≦﹁一O、︵商業資本︶       ○一OIO、︵金融資太・︶  すなわち、 企業に点て調達せられた貨幣資本は、 それぞれ商晶︵ミ︶ならびに貸付という将来財︵O︶に支出せら れ、やがて回牧されて、 再び貨幣の形に還る。 その技術過程︵Ol乏一Ω、・O−O一○、︶がつねに、 企業と外部 との交換にもとつくという点では、企業内部で行われる生産の技術過程︵吐ヨ⋮・薯、︶と、根本的に異るけれども、とも      保険資本の構造とその生産性      七

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     保険資本の構造とその生産性      .       八 かく、貨幣から貨幣への一連の結びつきという点では、生産︵産業︶資本と、商業資本と金融資本との三者は、 共通している。  資本の循環ということについて、われわれは、右のようなことがらを知った。然らば、保険に於ける資本は、 循環に於て、第一にどのような形を持ち、第二にどのような関連のもとに、右の三者に結びつくか。それらが、 である。私の見るところでは、保険の本質は、この点を明かにすることによって、姶めて明かにせられる。 いずれも その資本 次の課題 三  保険は、保険企業をめぐって、多数の加入者がこれに結びつくところの機構として、成立する。この場合、保険企業 は、多数の加入者から保険料を受取り、保険事件の発生を条件として、保険金を、その加入者に支払う。この保険料の受 取りから、保険金の支払に至るまでには、保険の種類にしたがって、ともかく集る期簡の経過がある。その期闇は、この 保険料は、責任準備金︵一二B七月①・,青く①︶として集積せられる。いま、確率計算の正しい限り、 その責任準備金は、 すべ て保険金として支払いつくされるはずである。 この関係が、 一般に給付反対給付均等の原則︵胃凶欝憤山盛9Φ8穿息貯さロ い①冨εロαqロ巳ΩΦ喰①昆⑦凶ωε昌αQ︶または給付反対給付予定比例の原則 ︵Ω目§留卑N鮎巽興’爵﹃ε凝ωひ身①ヨ凶器①頃8℃9慧。轟鋒警く8 ド①凶・。εロαq二呂○①ぴq①昆①凶ω且凝︶と呼ばれる。  ところで、保険企業は、この責任準備金を、保険金支払の日まで、そのままで留めておくものではない。必ずや、保険 期間の長短に応じて、 これを運用するであろう。 この運用によってもたらされる利潤は、再び責任準.備金にくり入れら れ、保険金の支払に当てられる。したがって、保険料の計算には、遡ってそれ丈けが織込まれる。均等もしくは予定比例 の原則は、現実には、この責任進・備金の運用を、そのことの申に含んで考えられるものである。

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 保険企業をめぐる、このような保険料の受取りと保険金の支払、ならびに責任準備金の運用は、この企業の内部に於け る貨幣の流れとして、これを理解することができる。その意味で、保険は、 保険料から保険金に至る、 貨幣的機構とし て、これを考え得るのである。それは、次のような形で現わされる。 ︵拙著、保険学新論、=一五頁以下︶       O⋮:男  力・.⋮:O﹁  ところで、この揚合の保険料は、いわゆる純保険料︵2①詳8鼠ヨδ︶であって、それが結局、保険金として支払いつくさ れる、という関係に置かれた保険料である。他方、これに対して、もう一つ別の形の保険料がある。すなわち、いわゆる 付加保険料︵Nq・。。三餌田鼠ヨδ︶であって、保険企業の諸経費の支弁に当てられる。 それは、保険金として、加入者に支払 われるものではない。しかるに、これが保険料と呼ばれるのは、ただ、右の純保険料に付加的に計算せられるがためであ る。現実にば、保険企業は、この二種の保険料の合計たる額を、加入者より受取る。これを総保険料︵oσ護叶8℃贔巳①︶また は営業保険料︵o建oo筏⑦ヨごヨ︶と名づける。  さて、純保険料から、責任準備金をへて、保険料に至る道行きに於ては、企業としての利潤の発生の余地はない。もし ありとぜば、それは責任準備金の運用に於て、その予定利、潤をたまたま超過するところの、利潤成績を挙げた揚合の、そ の超過部分にすぎない。したがって、企業としての本来の利潤の源泉は、経費の分担額としての付加保険料に、これを求 めなければならぬのである。  しかしながら、とにもかくにも、責任準備金の運用という点に着目する限り、利潤の実現がある。保険料も保険金も、 保険企業のもとでは、このような道行きを以て流れる。その意味では、保険料も保険金も、ともに資金︵8ロ山け勘ヨ8①楓︶ たる資格を持つ。すなわち資本たる貨幣である。 かくして右に示したO⋮⋮園、一零⋮⋮O、の形は、そのま玉資本循環 の方式として理解せられる。      保険資本の構造とその生産性      九

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     保険資本の構造とその生産性       一〇  このことを、責任準備金の構成に着目していえば、保険料は、 資本としての責任準備金の直前のすがたであり、 保険 金はその直後のすがたである。保険企業に於ては、資本は、特に貨幣の形をとって、保険料より責任準備金、責任準備金 より保険金へと、体化の道行きを挙る。これがここに、資本の循環として捉えられるのである。  ところが、このような道行きが、具体的に企業の操作として行われる限り、保険企業は、まず一定の貨幣資本を用意せ ねばならない。これと、右に述べた付加保険料とは、相合して、保険の労務︵<①生出①醤轟皿色ω汁言⑰q︶として、さまざまの 形をとる。すなわち、建物什器などの物的施設と、労働との結合としての労務である。ただ、大体に於て付加保険料は、 流動的費用に向けられるに対して、保険企業が用意する自己資本は、固定的費用に向けられる。企業としての本来の利潤 は、この保険労務の過程に於て発生するのである。 そこで、 これを次のような資本循環の形で現すことがでぎる。 ︵拙 著、前掲、=二四頁以下︶

  

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t騨 凵@ 閨A。・,一i冒森  ところで、ここに注意すべきことがある。 すなわち、付加保険料が、 自己資本と合して、資本として受取られる過程 ︵O・⋮⋮○。・︶には、既に企業の利潤が発生している。およそ利潤は、 牧益と費用との差額に現われ、 費用の体化として 実現されるところの、牧益のうちに含まれる。この際、牧益と費用のそれぞれの発生が、時間的に前後することは、いま 問題ではない。後に述べるように、付加保険料はもともと公益であり、費用たる保険の労務に先立って現われるが、そこ に、保険の特質が見出されるのである。  いま私は、保険に於ける資本循環について、二つの方式を示した。 然らば、それらはいったい、 どのような関係にあ るであろうか。まず第一の系統Ω⋮⋮鶉一等、・:⋮○、は、 実は保険の本質であるけれども、そのままの姿では、 具体的

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隻現せられない。いわば抽象的関係を意味する。・れに対して、第二の系統たるΩ。V−。.・fヌ曜は、・の本質 を現実にもたらすところの、企業の操作︵くΦN臨Pび目①昌︶である。しかもこれら両者は、不可分に相合して、始めて保険を形 づくるのである。保険の本質という点より見れば、 それは第一の系統に見出されるけれども、 なお第二の系統を離れて は、成り立ちがたいことを知らねばならない。さきに示した一般の資本循環では、いずれも、系統としては、ただ一つの ものを持つにすぎなかったが、保険がつねに、不可分の二系統のもとに表現せられるという点で、まず、保険の本質につ いての形式的特長を認め得るのである。  しかし、問題は、このような形式にあるのではない。われわれは、そもそも資本の循環が、企業に対して持つところの 意味という点に於て、根本的な相違が存在することを知るべぎである。資本の循環が、貨幣より貨幣への資本の道行ぎで あるという点では、保険もまた異らない。しかるに、その最初に現われるものは、保険に於ては牧益であって、費用では ない。これに対して、その最後に現われるものは、費用であって牧益ではない。何となれば、保険料は保険企業にとって は、つねに牧入であり、保険金は支出であるからである。いま、資本の循環を、費用と牧益との結びつぎと見る限り、そ う考えざるを得ない。  このことは、費用と牧益との時間的前後の関係であるが、単にそれのみではない。いいかえれば、これもまた形式的相 遠であるが、実はそれ以上に深い実質的意味を持っている。既に述べたように、一般に経営という企業の操作に於て、資 本を前面に捉えるとき、それが費用であり、背面に捉えるとき、それが牧益であるが、同時に、両者の間には、体化の関 係が存在する。すなわち、牧益は、費用の体化として実現せられるのである。ところが、これを保険について見ると、企 く逆となる。すなわち、資本たる責任準備金を、その前身に於て捉えるとき、牧益たる保険料であり、後身に於て捉える      保険資本の構造とその生産性       一一

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     保険資本の構造とその生産性       一二 とき、費用たる保険金である。保険料は、そのまx保険金の中に融け入るのである。体化の関係は、こxでは反対に、費 用が牧益によってもたらされたこととなる。  このような場合に、費用と牧益との概念に固執して、一般の意向を直ちに保険にあてはめることは、決して適当とはい いがたい。かりにこれを認めるとしても、 それはただ、特別の意味にのみ用いられなければならぬのである。 いなむし ろ、進んで異った新しい見地から、これを考えることが望ましい。そこで私は、この資本循環を、次のように、資本の形 成より資本の分解に至るところの、一連の道行きとして理解するのである。 ︵拙著、前掲、一四二頁︶       ︵一  建︶

ol芝く凶β・⋮⋮望  o、︵露︶

O       黒       ○、 ︵謝器︶ O       O       O、 ︵臨.轡︶   ︵蹄調㊦掛⇒︶一←︵黄誹㊦海韻︶ ︵粛  簿︶

〇〇 o 聴昌 : V :・

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ed h 国、:::・:・:○、   いく* ︵躊嶽㊦三島︶ ︵三三㊦融囎︶ 四  右の保険資本の循環に於て、その技術過程は、生産と見られるであろうか。もし何らかの意味で、生産を考えるとすれ ぽ、商品という概念が、ことに顔を出して来る。いったい、保険企業によって提供せられるものは、もともと保険金であ って、その内容は、つねに、ある量の貨幣である。保険料は、保険事件の発生に当って、この保険金が支払われるという 経済関係に対して、払込まれる。 したがって、この経済関係の獲得を︼種の権利と考えて、 これに商品たる性格を認め 得る、という考え方が成立するであろう。

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 しかし、この平坪に、商品としての保険は、もとより労働の生産物ではない。したがって、それが持つところの使用価 値は、ここでは問題とならぬはずである。いいかえれば、保険金が支払われるとき、それがどのような形で使用価値とな るか、という点ではなくて、交換価値として、どこから、またどのような量に於てもたらされるか、ということが明かに せられなければならない。その交換価値は、いうまでもなく、保険料として、多数の加入者による、保険関係のうちに形 づくられるから、問題は、その保険料が、どのような社会的関係に於て、価値を形成するかという点に落ちつく。  保険料が価値を形成するか否かということは、それが、社会的に見て、生産費を形づくるか否かということに通ずる。 すなわち、このことは、その保険が生産過程に於ける資本に対するものであるか否か、 によって定まる。 言葉をかえれ ば、個別資本としてではなく、社会総資本として見るとき、保険が生産資本に対するものであるならば、その保険料は価 値形成的であり、これに反して、商業資本に対するものであるならば、その保険料は価値形成的でない、と考えられるの である。商業資本と呼ばれるものは、直接には価値を形づくらず、生産性に関係しないものであるから、このような資本 に対する保険料は、社会全体として見るとき、いわば一種の空費にすぎぬこととなる。  このような考え方は、いわゆる保険商品説の代表的なもので、経済学としての保険学では、最もすぐれた地位を占めて いる。 ︵例えば近藤文二教授︶しかしながら、いま保険に商品たる性格を認めるとしても、それは、保険の機構で生産せら れた使用価値としてではなく、この機構に流通する交換価値の形で、或る種の債権として、考えられるのである。したが って、生産性は、保険それ自体の機構に求められるのではなくて、これが関係するところの外部の生産の機構によって、 始めて与えられる。ここにあっては、企業にとって、牧利性の実現はあっても、生産性の実現ということは、もともとあ り得ない。資本を社会総資本に於て問題とする限り、そう考えざるを得ない。  およそ企業を、資本の担い手として捉え、それに於ける資本の循環を取り上げるについては、眼を、社会総資本の流れ      保険資本の構造とその生産性       置潮

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     保険資本の構造とその生産性       一四 に注ぐことは、経済学の正しい釜揚であるが、その立揚に撃ては、保険資本の生産性は、これを認めがたい。これは当然 の結論である。保険に於ては、その機構みずからが作り出す使用価値は、あり得ない。問題となるのは、貨幣の形で終始 する交換価値であり、右に商晶説として取り上げたものは、この交換価値を、債権の形で捉えて、これを商晶と見るので ある。しかし、これは、商品としては、いわば擬制であって、本来のものと考えがたい。進んでいえば、それは、法律学 的解釈と経済学的解釈とを、それぞれ混同したものと見るべく、むしろ、商品と考えないことが望ましいのである。 ︵拙 著、前掲、二七三頁以下︶しかしいまはこれに触れない。  さて、貨幣の機構としての保険は、一面、信用の機構である。そこで一歩を進めて、この信用を使用価値と考え、保険 がその使用価値を内容とする商品をつくり出す、とする見解がある。︵例えば岡部寛之氏︶その丁合には、右と異って、直 接に交換価値が問題となるのではなく、逆に、使用価値が商品を形づくるものとして、取り上げられる。ところでここに 注意すべきは、この交換価値は、保険料の形で、使用価値に対して支払われるのであるが、その際の交換価値は、社会全 体の価値量からの控除にすぎない。けだし、保険そのものとしては、何ら価値の創造も増殖もないからである。  したがって、右に、保険が使用価値に関係するというも、その使用価値は、実は、保険事件の発生の際に、保険が外部 の生産手段の更新に働きかける、すなわち再生産を確実にするということに他ならない。その意味での使用価値が、信用 の機構に於て実現する、というにすぎないのである。いわば、それは、保険の効用と名づけらるべきものにとどまり、商 品の概念を特に取り入れることは、むしろ困難といわねばならない。  いったい、信用を商品とすることそのことは、決して許されぬわけではない。しかし、その揚合の商品内容は、さきに 触れたように、もともと交換価値であって、使用価値ではない。 いまもし使用価値にこれを認めるとすれば、 実はその 際、外部の機構に対する信用の働きかけを問題にしているのであって、その信用機構自体について.これを考えた結果では

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ない。それゆえに、この外部の機構が、たまたま生産の機構である集合に、社会的にはじめて生産性が問題とせられるの である。このようにして、生産性は、保険そのものについては、これを謡えることができない。保険商品説といわれるも のは、その色彩に於てもとより↓様ではないけれども、いずれにしても、保険の商品たることと、保険の生産性とは、全 く別の問題なのである。  さて商品の内容を、使用価値と交換価値のいずれに求めるにかかわらず、これらの見解は、その機構が、資本循環とし ては、どのような意味を持つかということを、必ずしも明瞭にしていない。すなわち、ただ、その場合の生産性が、社会 的に見て、生産の機構に結びつくときに成立する、という点を明かにするにとどまり、保険の機構に於て、資本の道行き そのものがどういう姿をとるかは、問題としていないのである。もっとも、それらの中にあっても、 一部の人は︵岡部寛 之、保険学雑誌三八三号、保険評論二面年入月︶これを芝iO︿○≦、、一○昏として示し、しかも、この資本の運動の可能性は、 現実の資本の再生産過程たる○一斗、︿賊日⋮⋮毛、−Qによって条件づけられる、としている。 しかし、それでは、 保険資本そのものの運動が、どのような機構をもつて行われるかということの、具体的な説明にはなっていない。単に、 一般の生産機構への関連が必要であることを、抽象的な言葉で述べたにすぎぬのである。       五  ここに注意すべき考え方がある。 ︵高田保馬博士、経済学新講︶それによると、 保険は、技術的には、 財の結合である が、その結合は、生産ではない特別のものに属する、というのである。すなわち保険企業は、まず一定の資本で、一方建 物設備と勤労とを、他方保険金支払準備金とを用意し、これらの結合によって、保険金の支払という財を売る。その対価      保険資本の構造とその生産性       一五

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     保険資本の構造とその生産性      一六 として受取る保険料の総額の申に、企業利潤が含まれている。そして、この関係は、次の形で現わされるとする。       Ω一]≦⋮:山≦、一O、  これによって知られるように、技術過程としての鼠⋮−冨、は、ともかく生産という種類のものではないが、さまざま の財や労働の結合過程であり、しかもそれは、保険金の支払という、いわば無形の財として実現する。この財との交換に 於て、加入者から保険料を受取るのである。したがって、この資本循環は、まず自己資本によって、財の結合のための費 用が賄われ、やがて最後に、保険料の牧益によって償われる、ということを意味している。この道行ぎは.さきに示した 生産や商業や金融の富合と比べて、財の獲得の技術過程に於て異るものの、その他の点では、本質的な差違はない。  しかしながら、それが生産という技術によらず、しかも財の結合の結果、財が獲得せられるとし、それを特別の資本循 環の方式で捉えたことは、まことにすぐれた見解といわねばならない。この財は、その獲得について、技術的に財の結合 を必要とするが、しかし本質的には、保険金支払という、いわば一種の関係財であって、労働の生産物ではない。けだし 労働の生産物というのは、その生産の成り立ちを遡れば、結局単純な労働に帰することを意署するからである。その点に 於ては、それは、右に述べたいわゆる保険商品説と通じており、その一つの形と見られるのであるが、とにもかくにも、 独自の資本循環として、その内容を具体的に説明した点では、きわめて注目すべきものといわねばならない。  この見解については、次のことに注意する必要がある。いま保険金を、その支払の労務という点に着目して、財と見る としても、それは、自己資本によって獲得されたものではない。くり返し述べたように、それは純保険料によって賄われ る。いいかえれば、保険金は保険料の体化であり、決して自己資本の体化ではない。さらにまたその保険金は、保険料を 価格として、保険企業と加入考との間に売買せられるものでもない。加入者は、つねに、保険労務と呼ばれる企業の操作 を媒介として、みずからのものをみずからが受取る、という関係に置かれるのである。それがまさしく、保険の本質たる

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機構であり、これを経営として実現する保険企業は、別に自己資本と付加保険料とによって、これを賄うのである。  保険企業にとっては、それが用意する自己資本は、ただ保険の労務としてのみ体化する。もとより付加保険料は、その 労務の価格として、これを考えることはできる。けれどもこのことは、資本の道行きとしては、右の本質としての機構と はまた別のことである。およそ財を提供するということは、 具体的には、それだけとして一つのものであるが、 観念的 には、財それ自体と、それの提供という労務とを、それぞれ区別して考え得よう。あたかも保険に於ては、この両者の源 泉は、全く別個のものとして理解されるのである。そこで、私は、これらを二つの系統のもとに、たがいに不可分のもの として捉えることとした。それは、一般にただ一つの系統に示される一般の資本循環と、単に形式の上での差違を意味す るにとどまらない。まさにそのことにこそ、保険の実質的な性格があり、保険の資本は、まさしくこのような構造を持つ ものとして、理解せられるのである。  資本循環の方式が、 一つの系統によるか二つの系統によるかは、いま論外としても、保険商晶説と呼ばれる右の一群の 見解には、依然根本的な問題が残されている。保険が、どのような意味で商品であるとも、それは、すべて貨幣に関する        ヘ  へ ことであり、有形無形のものに関することではない。そこで、その商品たる性質を、もっぱら保険金の側に求め、これに 対して、価格たる性質を、もっぱら保険料に求めている。これは、保険料と保険金との授受を交換と考え、しかも、たま たま、両者が、それぞれ牧入と支出であるからである。しかしながら、 この同じ貨幣は、立場をかえて、 加入者の側で は、逆にそれぞれ支出と牧入なのであるから、いま、商晶たる性格を保険料に、価格たる性格を保険金に求めることも、 決して不可能ではないはずである。所得を商機とし、資本をその価絡とするナイト︵囚昌に9,禺・︶ の考え方が、その可 能性を示している。 商品と価格との性柊を、それぞれ一方にのみ求めることは、 論理的には、別段の根拠がない。それ は、単に、無反省で恣意的な、半面の理論にすぎぬのである。 ”     保険資本の構造とその生産性       一七

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     保険資本の構造とその生産性       一八  さらに、これら一群の見解は、いずれも、保険そのことに於ては、生産性を考えがたいことを明かにしている。ところ が、このことは、実は、保険そのものの技術に由来するのである。保険に於ける給付は、第二の系統に示される保険の労 務の他は、如何なる意味に於ても、これを労働に分解しがたい。保険の本質は、単純に、需要と供給との対立によっての み成立する。保険はもともと、保険料と保険金とが、大数の法則のもとに均衡する場合に、始めて可能なのである。いい かえれば、 ただ需要と供給との関係そのことによって、それが成立するめであって、 そこには、商晶とその価格をめぐ る、いわゆる需要供給の法則は、そのままには適用せられない。保険は、この技術関係が満されるならば、需要に応じて いわば無制限に、これを供給することができる。このことを裏返せば、それが生産という方法によらないで、無形の関係 財として供給せられる、ということを意味するのである。 山 −s  さて、資本の循環ということは、企業に於ける資本の道行きが、どのような形をとるかの考察である。この道行きを、 企業利潤の実現という立食から見るとき、それは、費用から牧益への移り行きに他ならない。すなわち後者は、前者の体 化として、企業にとって利潤をもたらす。このことは、その技術過程が生産たると、商業たると、もしくは金融たるとに よって、いささかも異らない。しかるにこの関係は、保険に於ては全く逆である。すなわち、それは、牧益から費用への 移り行きであり、むしろ進んで、資本の形成から分解への過程と考うべきである。  この意味では、保険は、もともと金融であると見ることができる。 ︵拙著、前掲、三〇六頁以下︶しかしながら、 その揚 合の金融は、右に生産や商業とならんで考えられるそれとは、必ずしも、その性格を同じくするものではない。既に述べ たように、生産性の概念を、本来の技術過程としての生産にとどまらず、 いわば擬制的に、 商業や金融にまで拡めるこ

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とは、不可能ではなかろう。けだし、何らかの意味で、それらは使用価値を持つからである。ところが、保険について、 はそのものとしての使用価値を考えることには、多分の無理がある。これを考え得るとせば、保険が、生産そのことはも とより、商業や金融に作用することによって、社会的にあ,る機能を果す、ということを意味するにとどまり、それは、保 険の効用と見るべきことがらである。ただ、その揚面がたまたま生産であるとき、保険が生産性に関係する。  このようにして、保険が、生産そのことはもとより、商業や金融に作用することによって、つねに金融としての性格を 持つという、社会的には副次的な役割が、その資本循環に於て、形式的には二つの系統として、さらにまた、牧益から費 用への結びつきとして、表示せられるのである。しかしながら、そのことは、単に形式的な問題ではなく、実は、その点 に、保険資本の社会的な地位と、その構造的な本質がひそんでいる。  そこでいま、これらの関係を、それぞれ次のように示し得るであろう。まず、生産及び商業の資本循環に対して (じ

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     保険資本の構造とその生産性       二〇  しかし、金融資本については、 これだけが問題となるのではない。 保険がもともと金融の機構であるというのは、実 は、本源的な金融機構としての、銀行の機構の存在によって、はじめて考えられる。それは、いわば派生的な金融機構で ある。ここに流れるところの資本は、保険料についても、保険金についても、或いはまた責任黒熱金についても、いずれ の時にか、必ず銀行預金の形をとる。しかもこの銀行預金は、銀行に於ける資本循環としては、その始点を形づくる。こ の意味では、保険の資本循環は、そのいずれの点を捉えても、すべて金融資本のそれの始点に結びつく、ということがで きる。これは次のように現わし得るであろう。 ︵ら

Q︵臨融蹄勝︶  ところで、金融資本としての保険資本の性格は、現実には、右の結びつきの二つの形、すなわち第三と第四の揚面の綜 合されたものとして、これを理解し得る。 この観察によって、保険資本の構造は、 単に保険機構そのものとしてではな く、ひろく社会的に見て、どのような意味を持つか、ということが明かにせられるのである。いま生産性を問題とするに ついても、それは、つねに、このような観察によらねばならない。かりに、保険の商品性を否定するにしても、問題の所 在は、実はこのことなのである。

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