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Vol.66 , No.1(2017)085近藤 隼人「両面鏡比喩の両面性――古典サーンキヤ映像説変遷史――」

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両面鏡比喩の両面性

―古典サーンキヤ映像説変遷史―

近 藤 隼 人

1.緒言  古典サーンキヤ体系においては,精神的なるプルシャ(puruṣa)と非 精神的なる統覚(buddhi)との比喩的交渉,とりわけプルシャによる対象享受を 理論づけるために映像説と称される学説が活用された.映像説では水面に映る月 や水晶に映る赤い花など様々な比喩を通じて反映の方向性が種々に説明される が,その比喩の中でもきわめて特異な例が両面鏡(ubhayamukhadarpaṇa)である. この比喩は現存サーンキヤ文献には登場せず,専ら他学派文献,特にジャイナ文 献やチベット 述の宗義書(grub mtha)が伝える映像説に散見される.両面鏡比 喩は先行研究でも幾度か指摘され,偏に〈プルシャ→統覚〉という方向性でのみ 解されてきたが1),実際にはその方向性のみとは限らない.本稿では両面鏡比喩 に潜む二重性を解明し,さらにはこの比喩から映像説の展開史を考察する. 2.ジャイナ文献に登場する両面鏡  両面鏡比喩に言及するジャイナ文献は

マッリシェーナ著Syādavādamañjarī(SyM, 1292),グナラトナ(ca. 1343–1418)著 Tarka-rahasyadīpikā(TRD),ソーマティラカ(ca. 1355–1424)著Laghuvrtti(LV)の三点であ る.本稿では考察の端緒として三点中最も古いSyMから着手する. 感官を介して苦楽などの対象が統覚に転移し,そして統覚は両面鏡の様相を呈する( ubhaya-mukhadarpaṇākārā)から,それ(統覚)に〈精神性という能力〉が反映する2) SyMにおける両面鏡の比喩は,一面では対象を映し出し,もう一面ではプル シャを映し出すことで,統覚において展開されるプルシャの対象享受を喩えるも のとして用いられている.両面鏡比喩に対するこの解釈は先行研究においても一 致をみており,この文言を読み解く限り,その他の解釈は困難であろう. しかしながら,その後の文脈を追う限りこの解釈は必ずしも適合しない.SyM はこの後に「パタンジャリ」の言としてYogasūtrabhāṣyaからの引用を続け,プル シャがあたかも統覚のあり方に従うかのように顕れるとされる(SyM 97.5–7).さ

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らに,その後にはヴァーチャスパティ・ミシュラ(10世紀)著Tattvakaumudīから 引用し,統覚による精神性の獲得に言及している(SyM 97.7–11).そして,問題と なるのは続くVādamahārṇava(VM)からの引用,およびアースリ断片(Ā断片)と ヴィンディヤヴァーシン断片(V断片)との関係性である. また,統覚は非精神的ではあるが,〈精神という能力〉が現前することで精神性を有する かのように顕れるのである.VMも[次のように]述べている―「統覚の鏡に転移した対 象の映像が第二の鏡(dvitīyadarpaṇa)に等しい男性[原理](プルシャ)に立ち現れる.ま さしくこのことがそれ(男性原理)の享受者たる所以であって,アートマンが変異するの ではない」と.それと同様の趣旨でアースリも[述べている]― [統覚がプルシャから]独立しながらもそのように[対象の姿へと]変容する場合,[そ の]統覚においてそれ(プルシャ)が享受すると語られる.[その享受は,]例えば澄明 なる水面において月の映像が生起するようなものである. 一方,ヴィンディヤヴァーシンは次のように述べている― プルシャはその本質を全く変えることはないが,それが現前していることにより,非精 神的なるマナスに対して自らの顕現をもたらす.あたかも付帯特性(upādhi)が水晶に 対して[付帯特性自らの顕現をもたらす]ように3) ここで引用されるVMにおいても,鏡を用いた映像説を通じてプルシャによる 対象享受が説明されている.すなわち,最初に対象が第一の鏡に相当する統覚に 映り込み,次にその対象の映像が第二の鏡に相当するプルシャに映り込むこと で,プルシャの対象享受が果たされるという.この解釈は,両面鏡に喩えられた 統覚に反映の場を一元化する上の記述とは発想を異にしており,整合的には解し がたい.この不整合は,続くĀ断片を考慮しても明らかである.Ā断片とV断 片は各比喩との構造上の共通性を考慮すれば,いずれもプルシャから統覚(マナ ス)への反映を説くものであることが理解される4).このĀ断片は「それと同様 の趣旨で」(tathā ca)という句でVMと結ばれており,いずれもプルシャによる対 象享受を説く点は共通している.しかしながら,その享受に際して反映が起こる 場をプルシャに求めるVMと,統覚に求めるĀ断片とでは根本的に構造を異に している.Ā断片およびV断片には,両面鏡比喩における,対象の映像を映す 統覚という側面こそみられないものの,プルシャが統覚に反映するという構造は 共通している.その場合,VMの所説は文脈に合致しないことが理解される. このVMの所説は,シャーンタラクシタ(ca. 725–788)著Tattvasaṃgraha(TS)に 対するカマラシーラ(ca. 740–795)注Tattvasaṃgrahapañjikā(TSP)所伝の映像説に 等しい5).ただし,このVMが直ちにTSPを指すわけではない.VMはアバヤ

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デーヴァ(11世紀)著Tattvabodhavidhāyinī(TBV)の別称としても知られており, しかもこの一節はTSPTBVがほぼ同文を収めているからである6).しかしなが ら,VMTBVを指すとしても,VMと両面鏡比喩との不整合は解消されない. 考察対象のうちLVの文脈はSyMと同じであるため7),残るTRDの考察に移る. 3.グナラトナの両面鏡解釈 TRDにおいてはSyMLVとは異なり,両面 鏡比喩に二度言及される.TRDの文脈は両面鏡解釈1,VM,Ā断片,V断片,両 面鏡解釈2,「パタンジャリ」の言という構成である.この解釈2はSyM等と共通 しているが8),それとは異なる両面鏡解釈1を検討する. [プルシャは]確かに享受者であるが,直接享受するわけではない.そうではなく,プラ クリティの変異物にして両面鏡の様相を呈する統覚に苦楽等が転移する限り,プルシャは 汚れなきそれ自体に単に映像が生起するだけで享受者であると表現される9) TRDによると,両面鏡に喩えられる統覚が対象の映像を映し出すと,その映像 はプルシャ本体にも映し出されるという.ここでは統覚とプルシャの両者に鏡面が 想定され,反映を統覚に一元化する上掲解釈とは構造を異にする.この場合の両 面鏡は,一面では対象に向けられてその映像を取り込み,もう一面ではプルシャ に向けられるもその映像を取り込むのではなく,対象の映像をプルシャに振り向け る媒体としても想定されている.この解釈こそ二枚の鏡面を想定する後続VMに も合致しており,TRDが「混乱を示している」(村上1978, 403)という批判は当たら ない.ただし,その場合はĀ断片,V断片と齟齬を来しかねないが,TRDには両 断片の解釈が示されない.そこで,デーヴァバドラ(ca. 1150)著NyāyāvatāraṭippaṇaNAṬ)を参考にTRDのĀ断片解釈を想定する.NAṬ は両面鏡にこそ言及しないも のの,Ā断片直前のVM引用に際し二枚の鏡面を想定するため,本解釈の考察に 対して有用だからである10)NAṬ はĀ断片の比喩を「月が汚れなき水に反映する ように,特定の[対象の]姿へと変容した統覚がアートマンに[反映する]」とし て〈統覚→プルシャ〉という反映の方向性で解しており11),上掲解釈とは構造を 異にする.その一方でV断片に対しては〈プルシャ→統覚〉という方向性で解し, 両断片の反映関係を逆方向に解している.そして,TRDはV断片引用後に両面鏡 を再登場させ,SyM等と共通の解釈2を示す.その場合,NAṬ の解釈をTRDに適 用すると,TRDはV断片を〈対象→統覚←プルシャ〉(鏡面は統覚のみ)と解してい ることになり,一方のĀ断片は両面鏡解釈1およびVMと同じく〈対象→統覚→プ ルシャ〉(鏡面は統覚とプルシャ)と解していると考えられる.要するに,TRDは解釈

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1をĀ断片,解釈2をV断片として使い分けているのである. 両面鏡比喩においてプルシャも鏡面に喩えるこの解釈1は,既存の文献に ら れるのであろうか.サンスクリット文献としてはジャヤーナンダ(11–12世紀)著 Madhyamakāvatāraṭīkā(MAṬ)に見受けられるが(チベット語訳のみ現存),同書には 反映面を統覚に一元化する解釈しか見受けられない12).そこで,より頻繁に両面 鏡に言及されるチベット 述宗義書に解決の を探る. 4.チベット 述宗義書にみる両面鏡比喩  統覚を両面鏡に比する比喩は チベット 述宗義書に散見されるが13),とりわけ着目すべきはウパロセル14

紀前半)著Blo gsal grub mtha (BSGT)である.BSGTの両面鏡比喩は茂木(1984, 168)により報告されているが,同書は後世宗義書の典拠の一つと考えられるた め14)BSGTの検討は有用である.BSGTでは次のように両面鏡に言及される.

プルシャが音声などの対象を享受しようと望むとき,原因としてのプラクリティである根 本原因は音声などを引き出して,両面鏡(me long ngos gnyis pa)のごとき統覚に映し出す. (中略)そのとき,[プルシャの]精神性(shes rig)の映像が両面鏡のごとき統覚に立ち現

れて,[対象の]映像と一体となった[精神性]は[対象の]享受という目的[を成就す る]一方で,それは些かなりとも活動していないのである15)

この両面鏡解釈自体は〈対象→統覚←プルシャ〉という方向性を示し,上掲解 釈2に等しい.ただし,その批判に際しBSGTはプルシャに対して「第二の鏡」

(me long gnyis pa, *dvitīyadarpaṇa)という表現を用いているが(BSGT 25a1–2),それは 無論TSPに淵源を有している.この第二の鏡は両面鏡映像説に対する批判の中 で言及されているため,ウパロセルは二枚の鏡面を想定する映像説においても両 面鏡が成り立つと考えていたことが推察される.もとよりBSGTTSP)の思想 を強調するものとされ,このサーンキヤ章も同様と考えられる16).実際に同章にTSP)からの引用例が多数見受けられ17),同書を典拠としていたことは明白で ある.その場合,ウパロセルの用いる両面鏡という術語の由来が問題となる. ここで考察すべきはウパロセルの所属するカダム派の文献である.両面鏡とい う術語はウパロセル以前のカダム派文献にも見受けられるが18),特筆すべきは

チャパ・チューキセンゲ(1109–1169)による宗義書Phya pa grub mtha (PhPGT)で ある.それはPhPGTが後伝期最古の宗義書にしてBSGTの主要典拠とされてい るからであり19),実際にPhPGTにみられる両面鏡の記述もBSGTと大差はない20)

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等に負うたとされるが21),管見の限りそれらの文献に両面鏡という語は見受け られない.PhPGTのサーンキヤ章にはインド 述文献のうちTSPにのみ引用さ れる詩節が見受けられ22),チャパが同章の記述に際してTSPを典拠としていた 可能性は高い.その場合,チャパは二枚の鏡面を想定するTSPの映像説を知っ ていたと考えられ,その映像説における統覚を両面鏡と表現した可能性が想定さ れる.その両面鏡という術語の由来を探求するに,チャパがジャヤーナンダと論 争を交わしたという史伝を踏まえれば,チャパの両面鏡比喩はMAṬ に由来する とも考えられる.ただし,MAṬ は西夏に渡った後の著作と考えられるため, チャパはMAṬ を知らなかったとされている23).しかし,この点はチャパ著dBu

ma shar gsum gyi stong thunについての推察であるため,必ずしもPhPGTに該当す るとは限らず,同書はMAṬ を受けて著されたという可能性も考えられる.そも そも,両面鏡という表現自体はSyM等ジャヤーナンダ以降にも見受けられる以 上,チャパが創出したものとは考えがたく,両者に共通する典拠も知られていな い.PhPGT他章とMAṬ との関係性をはじめ今後の研究に俟つところは大きい が,直接間接を問わずチャパがジャヤーナンダから何らかの影響を受けた可能性 は完全には否定しきれない.そして,MAṬ にTSPの足跡が見受けられない点を 考慮すれば,チャパはプルシャと統覚の双方に鏡面を想定するTSPの映像説を 念頭に置きながら,既存の両面鏡という語をもって統覚を表したと推定される. TSPの映像説でも統覚が両面鏡と表現されえたという点は,VMを通じ間接的に TSPを知っていたジャイナ文献も同様であり,特にTRDが与える二重の両面鏡 解釈に関してその正当性を保証するものといえる. 5.結語 TRDによると両面鏡比喩は〈プルシャ→統覚〉という方向性のみな らず,〈統覚→プルシャ〉という解釈も可能であり,チャパやウパロセルの宗義 書からはTSPにおける二枚の鏡面の記述が両面鏡という術語を用いる契機と なったという可能性が導き出された.その場合,TRDが与える二重の両面鏡解 釈は,Frauwallner(1953, 396–98)が想定した映像説の展開史を裏付けるものとな る.その展開史によると,プルシャと統覚の両者を鏡面と想定したTSP所伝の 映像説から,プルシャの非変容を強調するに際して反映の場を統覚に一元化する 発想へと展開したとされるが,それは両面鏡解釈1(Ā断片)から解釈2(V断片) への史的変遷に相当する.かくして,両面鏡比喩の両面性を解明することで,両 面鏡という術語が映像説の史的発展の一斑を表しうることが明らかとなった.

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1)村上1978, 396–405等参照.   2)SyM Syādvādamañjarī of Malliṣeṇa, ed. A. B. Dhruva

[Poona: Bhandarkar Oriental Research Institute, 1933]) ad v. 15 (97.2–4).   3)SyM ad v. 15

(97.12–20).   4)近藤2014, 323–322参照.   5)村上1978, 400参照.TSP Tattva-saṅgraha of Ācārya Shāntarakṣita, ed. Swami Dwarikadas Shastri, vol. 1 [Varanasi: Bauddha Bharati, 1968]) ad TS 296–97 (145.18–19).   6)樫尾1985, 138参照.TBVVMという別称を有 する点はPrabhāvakacaritaPrabhāvaka charita of Prabhāchandrāchārya, ed. Jina Vijaya Muni, part

1 [Ahmedabad: Sañchālaka-Siṅghī Jaina Granthamālā, 1940], 213.10–13)参照.    7)LV

Ṣaḍdarśanasamuccaya of Haribhadra Sūri, ed. Mahendra Kumar, 2nd ed. [New Delhi: Bharatiya Jnanpith Publication, 1981]) ad v. 41 (481.5–23).   8)TRD see LV) ad v. 41 (151.11– 152.1).   9)TRD ad v. 41 (150.6–8).   10)NAṬNyāyāvatāra of Siddhasena Divākra,

ed. P. L. Vaidya [Bombay: Shri Jain Swetamber Conference, 1928]) ad v. 31 (96.33–97.18).   

11)NAṬ ad v. 31 (97.23–24).   12)MAṬ ad 6.121 (D ra 238a6–238b1; P ra 285b5–8).   

13)代表例としてはチャンキャ(1717–1786)宗義書が挙げられる.Buddhist Philosophical Systems, ed. Lokesh Chandra (New Delhi: Sharada Rani, 1978), 48.4–5参照.   14)御牧

1978, 98参照.   15)BSGT (Mimaki 1982, 19b3–6).   16)Mimaki 1982, 18, 19n45;

茂木1984, 169参照.   17)TS 8 : BSGT 18a6–18b1, 18b3–4; TS 14 : BSGT 19b2–3; TS 286 : BSGT 19b6; TS 294 : BSGT 21a6–21b1; TS 16–18ab : BSGT 22a6–22b2; TS 34–35ab : BSGT 23a3; TS 287–88 : BSGT 24a6–24b1; TS 309 : BSGT 24b2–3; TS 298 : BSGT 25a2–3; TSP ad TS 16 (29.11– 12) : BSGT 18b5.   18)Pramāṇaviniścayaに対するツァンナクパ(12世紀)注がその代表 例である.『知識論決択広 善釈要集』(臨川書店,1989)57b7–8参照.   19)西沢

2013, 67, 77–78参照.   20)PhPGT in vol. 9 of bKa gdams gsung bum [Chengdu: Si khron mi rigs dpe skrun khang, 2006]), 35.7–36.1.   21)西沢2013, 68参照.   22)PhPGT

(37.3–4)所収の詩節はTSP ad TS 16(29.10–12)からの引用と目される.   23)Vose 2009, 53–54参照.チャパがジャヤーナンダ著Tarkamudgaraを知っていた点はVose 2009, 54;

西沢2010, 73n10参照. 〈参考文献〉

Frauwallner, Erich. 1953. Geschichte der indischen Philosophie. Vol. 1. Salzburg: Otto Müller Verlag. Mimaki, Katsumi. 1982. Blo gsal grub mtha . Kyoto: Zinbun Kagaku Kenkyusyo, Université de Kyoto. Vose, Kevin A. 2009. Resurrecting Candrakīrti: Disputes in the Tibetan Creation of Prāsaṅgika.

Bos-ton: Wisdom Publications.

樫尾慈覚 1985「ヨーガバーシヤにおける映像説」『密教学研究』17: 137–52.

近藤隼人 2014「サーンキヤ映像説断片にまつわる伝承と仮託―アースリ断片の を解 く―」『印度学仏教学研究』63 (1): 324–320.

西沢史仁 2010「チャパ・チューキセンゲの認識手段論」『日本西蔵学会々報』56: 61–75.

̶ 2013「チャパ・チューキセンゲの教義書」『日本西蔵学会々報』59: 67–84.

御牧克己 1978「Blo gsal grub mtha について」『密教学』15: 95–111.

村上真完 1978『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』春秋社. 茂木秀淳 1984「他学派に関説されたサーンキヤ思想(III)」『宗教研究』57(4): 168–69.

〈キーワード〉 Sāṃkhya,dBus pa blo gsal,Phya pa Chos kyi seng ge,カダム派

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