太宰治におけるコミュニズムと転向
序 相席正一氏のいわゆる実証的研究以来、太宰治のコミュニズム に対する関わりを、実際南においても内実においても否定的にと らえる見方が一つの流れを形成している。しかし、コミュニズム との関わりをはっきりと作品化している﹃虚構の彷線﹄はもちろ ん、二見するとコミュニズムとは全く無縁なところで成立してい るかにみえる﹃晩年﹄も、太宰のコミュニズム体験をぬきにして は読み舛いていくことができないと思われる。相属氏の研究をい わゆる実証的研究と呼んだのは、氏が、太宰はコミュニストタイ プの人間ではなかったという前提のもとに、氏の,発掘した膨大な 資料を、半ば意図的に半ば無意識のうちに、その前提に沿うよう に読んでいる面が少なからずあると思われるからである。逆に言 えば、氏の膨大な無料収集に関する労は多とするにしても、少な くともコミュニズム関係に関しては、その資料は氏の読み方以外川
崎
和
啓
の読みもできるのではないかと思うのである。ここでは﹃晩年﹄ ﹃虚構の彷捜﹄に収められた計十七票の作品に具体的にふれるこ とはできないが、それらを読み解く基礎作業として、太宰のコミ ュニズム受容の特質がどのようなものであったか、太宰における 転向はどのように行われ、どのような意味をもっていたか、とい うことをもう一度洗い直してみたい。 上 コミュニズム受容の特異性 < 一 ∨ すでに述べたように、相馬説にはいくつかの亜要な疑義がある。 たとえば東郷克美氏は、﹁逆行と変身− 太宰治﹃晩年﹄ への一 視点﹂ 帝ゐ中で ﹁上京後の太宰の非合法運動との関係については 二 百相属氏の精撒な研究も多くは推定の域を出ていないように見える﹂ としたうえで、﹁太宰におけるコミュニズムの影響はきわめて重 大であり、その文学はやはり特異な﹃転向﹄文学としての側面を もつ﹂ としている。同様に安藤宏氏骨も ﹁太宰文学におけるコミ ュニズム受容の特異性﹂をふまえて﹃晩年﹄のもつ意味を解明し ている。これらは、太宰の作品を分析する中から ﹁コミュニズム の影響﹂ を蒐祝せざるをえないとする点で共通している。他方、 渡部芳紀氏のように、相馬氏の実証的事実そのものに疑義を提出 しているものもある。相属氏は太宰のコミュニズム連動への関わ りは工藤永蔵を通じて行われたとし、そのうえで、コミュニズム 遊動への参加は ﹁二義的理由や外在的な力の作用﹂ によるもの、 ﹁もののはずみ﹂、﹁文学志向への誤算から生じた左傾﹂と断じ ているわけだが、渡部氏は工藤ラインとは別に、太宰が ﹁反帝東 大班﹂ の一員として学生運動に参加していた可能性があることを 指摘している。また、さきの安藤氏も渡部説をうけて、太宰が工 藤ラインとは別のところで﹁学内組織に配属され﹂、r単なる資 金提供以上の地区連絡活動﹂ に関わっていた可能性が高いとして いる。そして、とくに工藤永蔵が ﹁昭和六年二月頃﹂ 太宰宅を久 しぶりに訪問したとき ﹁修治が学生連動や昔年運動から手を切る こと、殊に金協などの人と接触しないよう注意した﹂ という事実 ④は、﹁逆にそれまでの段階でこれらの組織に関与していた可能 性を示唆するものといえる﹂ という注目すべき指摘を行っている。 この安藤説に補足して言えば、工藤永蔵はこの回想記の最後近く で次のように述べている。 修治が学生運動をしていた時期どんな活動をしたか、文学部 の資金組織へいくら位カンパを出したか、私は一切たずねた ことはないし、私が逮捕されてから党のためにどんな活動を したかも知らない。 つまり、工藤は、自分が ﹁知らない﹂ ところで ﹁修治が学生連 動をしていた時期﹂ があったことをはっきり語っているのであるは そして、それが ﹁文学部﹂ の学生組織であったことも明瞭に示し ている。その ﹁時期﹂ が昭和五年だったのか、六年以降だったの. かはわからないが、安藤氏のさきの指摘を援用して考えれば、そ れが昭和五年だった可能性がきわめて高い。また、田村文雄や南 部農夫治の回想⑥も太宰が工藤ラインとは別のラインでコミュニ ズム運動に関わっていた事実を示している。たとえば、南部農夫 治は次のように述べている。 三寅
昭和六年は川崎の武装メーデー事件で有名である。その日 の午後、大講堂のそばにあった帝大新聞の事務室に、思いつ め、疲れ果てた、蒼白の津島が姿を現わした。あとで車間が 〝津島のやつ、短刀をもっていた汐と教えてくれた。︵中略︶ その秋、ぼくも結婚生活に入った。津島が江の島で有夫の女 性と心中をし、片割れの身で生き残ったときいて、安心はし たものの、紋の不安とともに、時世の不安が身にしみるので あ っ た 。 この南部の回想は、山内稗史氏の痛になる﹃人物書誌大系7太 宰治﹄ ︵日外アソシエーツ、昭和58・7︶ の年譜にも﹁昭和六 年﹂ のこととして記載されているが、文献⑥にあたる限り、これ は ﹁昭和五年﹂ の記憶違いである。昭和四年の四・一六事件で壊 滅的な打撃を受けた日本共産党は、翌五年一月の拡大中央要員会 で ﹁武装﹂ の方針を正式決定し、のちに ﹁武装其座党﹂ と呼ばれ るようになる。そして、この頃から逮捕に向った刑事がピストル や七首などで重傷を負わされるという事件が何件も起きており、 事態はコミュニストの側にも官憲の側にも鹿追したものがあった。 このような中で、同年のメ﹁デーでは ﹁武装﹂することになるの だが、実際に ﹁武装﹂ して甘窓と衝突したのが川崎市だけだった ということで、その計画や指令は東京を含めて全国各地におりて いた。しかし、この ﹁武装メーデー﹂ に対する批判は、メーデー 前から下部組織の中でくすぶっており、メーデーの後、﹁武装﹂ を支持する﹁全協﹂と、﹁全協﹂ の極左性を批判するグループが 結成した﹁全協刷新同盟﹂との根深い対立を生み出すことになっ た。両者は同年八月にモスクワで開かれた第五回プロフィンテル ン大会にそれぞれ代表者を送り、自派の正当性を主張するが、大 会では ﹁武装﹂方針を出した党中央=全協中央の指導の誤りが批 判されることになり、以後、戦前において、共産党が ﹁武装﹂ の 方針をうち出したことは一回もない。従って南部の言う﹁川崎の 武装メーデー事件﹂ は ﹁昭和五年﹂ のことでなければならないし、 ﹁有夫の女性﹂との心中事件と同年のこととされていることから も、年譜に入れるなら ﹁昭和五年﹂ の方が適当と思われる。 南部の回想にはここ以外にも﹁年﹂ に関する記憶違いがいくつ かあるが、﹁思いつめ、疲れ果てた、蒼白の津島﹂ ﹁津島のやつ、 短刀をもっていた﹂ ﹁彼の不安とともに、時世の不安が身にしみ るのであった﹂ という記憶自体は、日時や場所等の具体的指定も あって、ほとんどそのまま信用してよいと思う。﹁人間失格﹂ の 中の ﹁武装蛤起、と聞き、小さいナイフを男ひ﹂ ﹁それを、レイ ンコートにいれ、あちこち飛び廻って、所謂﹃聯絡﹄をつけるの 四庄
でした﹂ という記述は ﹁昭和五年の部分に当てる方が妥当﹂ との 渡部芳紀氏の指摘③があるが、ここの記述が実体験をふまえて書 かれているとすれば、南部の ﹁津島のやつ、短刀をもっていた﹂ という回想ともピタリと重なるのである。欄鳶氏は昭和五年段階 の太宰は﹁まだ比較的気ままな生活の中で簡単な仕事だけを引き うけていた﹂ とするが、﹁武装メーデー事件﹂ の ﹁午後﹂という 商部の記憶に間違いがなければ、すでに昭和五年の五月には﹁思 いつめ、疲れ果てた、蒼白の津島﹂ がいたのである。そして、そ れは工藤永蔵の知らない ﹁津島﹂ の姿であり、工藤ラインからの みコミユェズム遊動への聞わりを烹準証﹂ した、相場氏の調査網 からこぼれ落ちた ﹁津島﹂ の姿なのである。 伊藤誠之氏は昭和四十七隼六月十八日に行われた青森県金木町 の桜桃忌に参加して、相席氏と工藤永蔵の講演を聞いたときのこ とを次のように述べている⑦。 程度の主体性が無かったとは考えられない﹂ と、そのように 言 っ て い ま し た 。 このように、相應氏の記述の仕方は、工藤氏の証言をもと にして書かれているはずなのですが、ニュアンスの点で、か なり歪められてしまっているようにも思えました。 相鰯氏は、太宰を一方的に工藤氏が引っ張りこんだといった ふうに言われたわけですが、そうしましたらですね、これに たいして工藤氏が反論しまして、相席氏の言われることは、 いちいちカンにさわると前置きして、 ﹁あのころ自分たちの 主張や訴えが津島修治に受け入れられたのは、修治にもある 東郷克美氏の諾うように、本当は ﹁相場氏の特級な研究も多く は推定の城を出ていない﹂ のだが、その ﹁推定﹂ の仕方にもいく つかの問題があるように思われる。工藤永蔵の証言に立脚しなが ら、その工藤自身に ﹁相鳶氏の言われることは、いちいちカンに さわる﹂ と言われること自体、その ﹁推定﹂ の倍憩性を疑わせう る。たとえば、捕虜氏が太宰とコミュニズムの囲係を否定的に考 える根拠のひとつに、工藤永満を始めとする当時の友人たちや本 多秋五などの ﹁とても党活動に堪えられるタイプの人間ではない﹂ という指摘③がある。﹁当時の太宰が革命思想とか階級的意識と は、無関係の人間であったことは、誰よりも当の工藤が立証して﹂ いるという主張⑨も、ひとつにはこのような観点からなされたも のと思われる。しかし、現実の ﹁党生活者﹂ になりにくいタイプ の人間だということと、彼の感性や意識がコ∴、、ユニズムの思想に 深い共感を寄せるかどうかということとは全く別の問題であり、 五 二 見
東郷氏の ﹁太宰がついに其の意味でのコミュニストでなかったと いうことと、コミュニズムとの出会いが彼の文学精神に決定的な 影響をもたらしたという考え方とは矛盾しない﹂ という指摘廿や、 安藤宏氏の ﹁実際の活動面における非主体性と、<自尊心Vに与 えた内的な衝撃とはここで明確に区別されなければならない﹂と いう指摘②は傾聴に臆するのである。﹁とても党活動に堪えられ るタイプの人間ではない﹂という認識をただちに ﹁コミュニズム を思想として生理的にうけつけなかった﹁⑧というように短絡さ せたところに、相属氏の ﹁推定﹂ の一両性があり、それが工藤の 欄属氏へのいらだちにつながっているように思える。 太宰は、コミエェズム連動への参加・維脱やコミュニズム思想 への共感・関心を、随筆を含め為と二十余垢の作品の中で書いて いるt。発表隼で見ると、昭和八年から同十四年までが盛も多く、 戦争中はほとんどないが、戦後になっても五篇ほどある。一例を あげれば、昭和十一年発表の ﹁虚構の馨しで ﹁唯物論的弁証法に 拠らざれば、どのやうな些々たる現象をも、把捉できない。﹁年 来の信条であった。肉体化さへ、されて居る。十年後もまた、変 ることなし﹂ と言った太宰は、戦後になっても、 ﹁かつて私たち の敬愛の的であった田舎親爺の大政治家レニン﹂ ︵﹁返普﹂︶、 ﹁私は社会主義といふものはやはり正しいのだといふ実感をもっ て居りますし ︵﹁わが半生を語る﹂︶などと書いている。欄應氏 は、高校時代の太宰がプロレタリア文学風の作品を書いたのは、 プロレタリア文学全盛期における ﹁作家的野心﹂⑩からだとし、 コミュニズム運動への参加を ﹁文学志向への誤算から生じた左傾﹂ ⑧と断じた。しかし、あの過熱したプロレタリア文学の季節が過 ぎ、自立した作家の道を歩み始めた後もなお、太宰はくり返しコ ミュニズム思想への共感を言い、コミュニズム運動への参加と離 反を書き続けているわけである。この文学的事実を無視し、コミ ュニズム連動への関わりを﹁文学志向への換算から生じた左傾﹂ ﹁もののはずみ﹂ と断定してしまうのはあまりにも一面的にすぎ るけ 相腐氏が調べあげた事実はあくまでも太宰をとりまく状況証拠 であり、状況証拠をつなぎあわせた ﹁推定﹂ にすぎない。状況証 拠の中で何を考えていたかということは本当は本人にしかわから ないことであり、私たちがそれを知る手がかりは作品の中にしか ない。奥野健男が作品中の記述をそのまま事実と信じて歪んだ太 宰像をつくりあげたと言うのなら、相席氏は津島修治に関する事 実を調べあげ、作品中の記蓮よりも氏の見つけた事実の方に重き を置き、その結果、実生活者津島修治の姿は明瞭にしえたが、そ の分作家太宰治の像を歪めてしまったという面が、多分にあるよ 六 氏
うに思える。作品中の記述をそのまま事実と思いこむのが非なら ば、事実を絶対化し、虚構の中に表現された真実をも事実に従属 させかねない方法は、さらなる誤ちと混乱を生み出すかもしれな い の だ 。 私は以下の部分で、主に初期作品を検討しっつ、実生活におい ては非マルキスト的装い凌見せながら、内面ではコミュニズム思 想を深刻にうけとめていた、太宰のコミュニズム受容の特異性を 明らかにしたいと思う。 ∧二∨ 日本のプロレタリア文学連動の特徴は、青野孝吉の ﹁自然生長 と目的意識﹂ ︵大正15・9︶ や戯庶惟人の ﹁プロレタリア・レ アリズムへの道﹂ ︵昭和3・5︶、あるいは、昭和三年に起きた 芸術大衆化論争、同四年の芸術的価値論争等によって説明される ことが多い。これらに比べるとあまり注目はされないが、当時の マルキストたちに自明のことと考えられていたものに、自己の内 なるプチブル性の克服ということがあった。たとえば、昭和四年 に宮本顧治は ﹁敗北の文学﹂ の中で、芥川龍之介が越えようとし てついに越えることができず、しかも、自分たちの内部にもひそ んでいる ﹁小ブルジョア的な限界性﹂を克服し、彼を ﹁敗北﹂ に 至らしめた﹁その階級的土壌﹂ を ﹁踏み越えて往かねばならない﹂ と主張した。また、太宰と同年︵昭和五年︶ に東京帝国大学に入 学した平野証も、昭和七年の ﹁プティ・ブルジョア・インテリゲ ンツィアの道﹂ の中で、﹁プティ・ブルジョア・インテリゲンツ ィアをめぐる血液﹂ を揚乗すべき決意を語っている。さらには、 戦後になって本多秋五も ﹁プロレタリアートの闘争に役立つもの はいい、そうでないものは悪い、という絶対至上の価値基準が、 小ブル・インテリ性のあたうかぎり大至急の清算という方向にむ かつてし いったと述べている⑪ように、当時の左巽知識人にとっ ては、自己の内部に巣食うr小ブル・インテリ性﹂ を克服するこ とは、きわめて紫急かつ重要な課題としてあった。彼らが自己の プチブル性の ﹁清算﹂ に性急だったのは、もちろん自己のプロレ タリア化とプロレタリア解放実現のためにはそれが不可欠の要件 であると信じたためだが、彼らの性急さは、一方では、彼らから 表現すべき主体を完全に奪い去ることになった。インテリ・プロ 文作家が自己否定を完成させたあとに残ったのは、全く同一の個 性と全く同一の発想・文体だけであり、ワンパターンの作品を手 を変え品を変えしながら紡ぎ出すしかなかった惨状が、その遺産 として私たちに残されている。そこには多くの没個性が展示され 七重
ており、彼らが表現すべき自己と主体を取り戻すべきことに気づ くのは、作家同盟解体後の転向文学の時期だったことも周知のこ とである。その意味では、亀井秀雄氏の ﹁茂原理論の本質的な欠 陥ともいうべき点は、それが作家固有の発想や文体の重要さに関 しての鈍感、あるいは無視の上に立って組み立てられていたこと にある﹂ という指摘⑲は正しい。しかし、それ以上に注意すべき ことは、亀井氏の言う ﹁蔵原埋論﹂ が、磯原ら指導部から押しっ けられただけでなく、プロ文作家自身がそれを全面的、積極的に 容認し、信奉し、進んで自己放棄したということである。﹁作家 固有の発想や文体﹂を無視した点では、蔵原も他のプロ文作家も 全 く 同 一 な の だ 。 しかし、太宰治の場合は全く違っていた。﹁花火﹂ ︵﹃弘前高 校新聞﹄昭和4・9︶、﹁虎徹宵話し ︵﹃弘前高校校友会誌﹄昭 和4・10︶ などでコミュニズムへの深い共感を寄せながらも、 彼はついに<自己Vを放発しようとはしなかった。内なるプチブ ル性の克服という契機は一度として披を訪れることはないのだ。 むしろ、彼の<自己Vが主体的に受けとめたコミュニズムの思想 をどのように生きるかが彼にとっての強大のテーマであり、その テーマの前には、磯原らのプロレタリア文学埋論はどのような影 響も与えることができなかったと思われる。 * 太宰治の初期作品を読むと、昭和四年の秋から被は急速に左傾 化していっている。同年九月に、さきの ﹁花火﹂ を発表した後、 同十月には、改稿﹁虎徹宵話j を発表し、同﹁月の﹃弘前高校新 関﹄ の ﹁文芸時評﹂ では、徳永直の ﹁能率垂員会﹂ を絶督してい るのである。そしてこれ以後は、r哀蚊﹂ のような抒情的な作品 も、﹁此の夫婦﹂ のような横型的な作品も発表せず、同十二月の カルモテンによる自殺未遂をはさんで、翌年一月からは、﹁地主 一代﹂ と ﹁学生群﹂ を青森の文芸誌﹃座礫﹄に連載している。 同年二月のストライキ以後、半年もたった境になって急に左傾 の度を深めた埋由はよくわからない。ただ、一つだけ考えられる のは、宮本融治の ﹁敗北の文学﹂ の影響である。改稿 ﹁虎徹宵話﹂ が載った﹃校友会誌﹄には、太宰も委員を務めていた弘前高校新 問雑誌部妻畠・石上玄一郎が、﹁敗北の文学﹂ に ﹁直接の刺激﹂ をうけ、﹁幾日も授業を休み、ほとんど夜通しかかつて﹂書いた ﹁灰色なる思弁哲学への訣別﹂ を発表している⑯。﹁敗北の文学﹂ は﹃改造﹄が懸裳募集した﹁文芸評論﹂部門の第一席入選作だが、 石上によると、太宰もストライキ直後に書きあげた ﹁学生群﹂ で 同年の﹃改造﹄の懸紫小説に応募したという画。また、さきの ﹁ 文芸時評﹂ では、﹃改造﹄十月号から久米正雄、野上弥生子、川 八東
端康成、岩藤雪夫の作品をとりあげて批評している。これらの事 実や ﹁注﹂ の⑧に記した事情から、太宰は﹃改造﹄にかなり親し んでおり、同人月号の ﹁敗北の文学﹂ を読んでいた可能性もきわ めて高い。石上が ﹁敗北の文学﹂ に ﹁直接の刺激し をうけたよう に、私淑してやまない芥川を扱った、新時代の文学の提唱である この文章に、太宰もなんゝわかの感銘をうけて左傾化していった可 能性は十分にあるように思われる。ともあれ、改稿した ﹁虎徹宵 話﹂ に太宰は次の一節をつけ加えたという⑩。 ﹃あいつ等は時の流れといふものを知らない。替っては俺 もそれを知らなかった。だが俺は多くの事実を見た、しかも 正しい服でだ! そして、そして知ったのだ、つまり昨日の 賽は今日の悪であり縛るといふ事をだ。だから世の中も其れ に従って土台から建て直さなければウソだ。い1か、おい、 今に見ろ、あいつ等の夢想だもしなかった、素晴しいどんで ん返しがあいつ等の悠々閑たる足下から、むっくり起るぞ!﹄ う労協歌なんか嘲鳴りやがつてゐる奴があるぜ。/さあ火進軍だ。 /僕達も早く行かう﹂ ︵﹁花火﹂︶と言うとき、太宰の中にある のは、コミュニズム思想への共感と共産主義革命到来の確信であ る。立花降は﹃日本共産党の研究﹄ ︵講談社︶ で、三・一五事件 のとき﹃無産着新開﹄の編集をしていて逮捕された石堂清倫や作 家杉森久英の回想を紹介しながら、昭和初期には、﹁党員の間だ けでなく、知識人﹂ や ﹁モダンボーイといわれた人たちに近い享 楽家﹂ の間にも、﹁ 革命近し の幻想﹂が広がっていたこと、 そしてその反対に ﹁共産党幻想によって体制側が共産革命の恐怖 に支配されつづけ﹂ ていた事実を述べている。このような時代背 兼の中で、﹁僕は幼い時から、曲った事は廉だったし ︵﹁学生群こ という太宰の感性が、時代の子としての変貌を鮮やかに遂げてい る の で あ る 。 しかし、翌五年の ﹁学生群﹂ では、早くも作中人物に次のよう に言わせ、レーニンの芸術論=﹁蔵原理諭し への違和を示してい る。 このいかにも意気ごんだ口吻の中で、 ﹁正しい恨J ﹁昨日の蓋 は今日の惑﹂ ﹁索喘しいどんでん返し﹂ と諾い、 ﹁奴等の思想は、 奴等の方針は、統一されて屠る﹂ ︵﹁虎徹宵詰﹂︶、﹁おや、も それからレェンの功利性一点張りの芸術論。しかも其の芸 術論は全然正しい。だが同時に青井には到底礎へられん。 九貢
太宰は中学時代に芥川龍之介の ﹁株楠の意薬﹂ を模した ﹁保橘 楽し や ﹁儀健﹂ 等を書き、芥川や菊池寛の心埋小説やテーマ小説 に影響されたと思われる小品をいくつも書いている。また、中学 一年のとき井伏鱒二の ﹁幽閉﹂ ︵のちの ﹁山機魚﹂︶を読み、﹁ 埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って典蕾した﹂体収を 後年語っているように、抜群の読書量と早熟な才にもとづく豊か な文学体験を中学時代から行っていたこともよく知られている。 その太宰が、ここでレーニンの芸術論を ﹁正しい﹂ としながらも ﹁到底堰へられん﹂ と言っているのは、彼がこの時点ですでに ﹁ 蔵原理諭し に屈服しない文学的主体と感性を育んでいたことを意 味する。他のインテリ・プロ又作家が、ことごとく自己の内なる プチブル性の克服に向い、自己と自己の感性をプロレタリア文学 理論に収放させたとき、同じくコミュニズム思想を信じてプロレ タリア文学に進みながら、太宰一人だけは自己の内なるプチブル 性㌦フルジョア性を保持し、芥川をはじめとする日本の近代作家 の作品を通じて形成した彼の文学的感性と文学観を、プロ文理論 に毒されることなく守り適しているのである。 相鳶正一氏によると、﹁地主一代﹂ を ﹁プロレタリア文学とい ふには相当問題がある﹂ とし、その内容を ﹁怪膏的なエロティシ ズムである﹂と批判した淡谷悠蔵は、﹁学生群﹂ についても昭和 五年﹁二月七日の﹃東奥日報﹄で次のように評したという噂。 彼の筆が、いはば学生群の敵役ともいふべき久保校長の身 の上に赴く時、その癖の中に真実の人間らしさを逸早く見出 して居る。大藤君︵太宰治のことー引用瀞芭は、掲げられ ヽ \ \ ヽ ヽ ヽ ヽ た真実らしさの底の真実に、しみ︹\となる作家である。醜 でも悪でも、真実なるものに心惹かれる作家である。そこに 彼の怪奇藁が誕生する。その新興的な取材の盛に世紀末的傾 向を多分に革む作家である。 ﹁久保来校嬉し がストライキを決行した ﹁学生群の敵役L であ る以上、校長の ﹁虚し を徹底的にあはけばいいのに、﹁火藤君﹂ は校長の ﹁感﹂ の中にすら ﹁真実の人間らしさ﹂ を兄い出して、 それを﹁しみ川′\と﹂拓こうとしている。前面に出されたストラ 1 1 1 \ \ 1 、 イキという﹁真実らしさの底﹂ で ﹁敵役﹂ の ﹁真実﹂ にも同帰し ようとする限り、いくら ﹁新興的な取材﹂ をもってこようとその 作品は ﹁惟紀未的傾向﹂ をもたざるをえないというのである。 プロ文埋論に毒されていない作家がプロ又理論の信奉者から ﹁ 怪奇蒸しや﹁世紀末的傾向﹂ を指摘されるのはある意味では当然 であって、そのこと自体は大した意味をもたない。むしろ、この 十亘
時点における太宰の優れた資質は、淡谷が批判するつもりで言っ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ た﹁真実らしさの臆の真実にしみじみとなる作家﹂ ﹁鵬でも感で も真実なるものに心惹かれる作家﹂という吉葉の中にある。ブル ジョア的なものは ﹁悪﹂、プロレタリア的なものは ﹁善﹂という 二者択一的な形式理論からはどうしても埋解できないだろうが、 自分にとっての ﹁敵役﹂ の ﹁感の申し にすら ﹁真実の人間らしさ﹂ を兄い出しうるところに、太宰の独自性、人間理解の柔軟さと作 家的資質の優位があった。淡谷の批評は、コミュニズムへの共感 からプロレタリア文学に向った太宰の文学的感性が、いかにプロ レタリア文学理論と異質なものであったかということをよく示し ている。彼は、一方ではコミュニズム思想をうけいれながら、他 方ではいわゆるブルジョア作家的資質を根深くもっており、プチ ブル性の ﹁清算﹂ という蔵原的課題とは全く無縁の存在だったの で あ る 。 少し後のことになるが、昭和六年ごろ、工藤永蔵や渡辺惣助が プロレタリア文学の立場から太宰の習作をさんざんにけなすと、 太宰は ﹁自分は死後十年たって作品が認められればよい﹂⑧﹁俺 の小説の櫨打は、あと十年経たなければ判らない﹂⑯などと反論 したという”また彼は、後年、プロレタリア文学にどうしてもな じめなかったことも告白している。彼は確かにコミュニズム思想 には共感したが、必ずしもプロレタリア文学をめざしはしなかっ た。共産主義思想やその運動に対する共感と、プロレタリア文学 に対する違和とは全く別物なのである。他のプロ文作家が ﹁磯原 埋諭し にのつかって、文学を政治に従属させ、文学の政治的実現 を図り、政治と文学を統一させようとしていたとき、太宰だけは、 政治と文学を明確に区分していたと言ってよい。﹁磯原埋諭し の 信奉者には理解しにくいことだが、一方でコミュニズムへの共感 を示し、他方では近代日本の ﹁ブルジョア文学﹂ の継承者である ことが、彼の体内では必ずしも矛盾していないのだ。左傾思想の 持ち主でありながら、同時に、 ﹁ブルジョア文学﹂ の血が絡みこ んだプチブル的感性の持ち主であること、この点にこそ太宰治の コミュニズム受容の第一の特異性があった。従って、彼の作品の プロレタリア文学作品としての不完全さや、彼が、当時左翼側か らナンセンス作家と呼ばれていた井伏鱒二のもとで、非プロ文的 作品の修業に励んでいたことをもって、ただちに彼がコミュニズ ムと本来的に相容れない人物だったことの例証とすることはでき な い の で あ る 。 <三∨ 十 一 貢
﹁学生群﹂ の 二C︶敗惨者﹂ の輩に、太宰の分身と思しき﹁ 青井﹂ と、その友人 ﹁小早川﹂ との会話部分がある。﹁僕は君達 のやうにプチ・ブルできへ無いんだぜ。直接搾取行為に携って居 るブルジョアなんだぜ﹂と言い、﹁僕達マイナスの人間は皆死ん だ方がいいのだ﹂ とわめく菅井に小早川は次のように答える。 だ。あんまりだ。⋮⋮﹄ 突然、青井は夜具の襟に顔を埋めて、弱く鴫噛り始めたけ 小 早 川 は 一 時 呆 然 と し た 。 が 直 ぐ l 、 l 一 切 を 了 解 し た 。 ︵ 中 嶋 ︶ ⋮⋮さうだ。青井は大地主の血を受けた息子だ。 ﹃属鹿!何を言って居やがる。︵中略︶青井、君に死ぬ程の 覚悟があるなら、どうだ一つ死んだ恩ひでやって見ないか。 君の気性として、今迄のやうなどっちつかずの噴味な暮し方 がいやならば、君も横と同じやうな生活をやって見ろ。とに かく君の生活は根本から改める必要がある。先づ、僕と同じ 水準の生活を始めろ。い∼か、さうすれば第一、どれ位の小 −使銭が浮くか。活動へ行った積りで五十銭。芸者をあげた積 りで二﹁円。ヘチマコロンを買ったつもりで瓦﹁銭。レコー ドを買ったつもりでいくら。コーヒーを飲んだつもりでいく ら。洋服を新調したつもりでいくら。⋮⋮とまあ言つたやう な工合で金をためる。そして其れを××の腐食なり何なりに 番付するのだ。どうだ、出来ないか?h 小早川は本気に怒って、声をはげましながら言った。 ?・⋮出来るかも知れない。⋮⋮だが、それぢや、あんまり さきに ﹁レニン﹂ の ﹁芸術論﹂ を ﹁到底堪へられん﹂ と拒否し た太宰の感性は、ここでもまた ﹁小早川﹂と﹁同じ水準﹂ のプロ レタリアート的r生活﹂ を送ることを ﹁それぢや、あんまりだし と拒まざるをえない。己の内なるプチブル性の揚乗が全体的な命 題になっているとき己が守り密ててきたブルジョア的文学観を掘 って離さなかった太宰は、実生活レベルでもまた自己のブルジョ ア的感覚を投げすてることができないのだ。しかし、こんどは文 学の場合とは決定的に違っていた。文学の場合は、いわゆるブル ジョア文学をもとに確立した自分の文学観や感性や作風に対して、 たとえば﹁俺の小説の相打は、あと十年経たなければ判らない﹂ という自信をもてた。自信をもてたからこそ、コミュニズムへの 信奉とブルジョア文学的感性の二元的同属ということも可能であ った。しかし、実生活レベルにおける彼のブルジョア趣味、貨族 趣味は、彼の理性にと′つては決定的に呪うべき悪徳と自覚された。 ﹁それぢや、あんまりだ﹂ と泣き出すとき、彼の感性と感覚はあ 十 二 症
くまでも貴族趣味に拘泥して放れない。﹁大地主の血を受けた息 子﹂ としての生活感覚はどうしても払拭しきれないのであるけ し かし、その一方で彼の埋性は、そのことにぬきがたい己の負の証 明を見てしまう。彼の埋性が ﹁君達はプチブルだし、僕はブルジ ョアだ。僕には君達の持って居ない色々な血が流れて居る。一番 手っ取り早い話が、僕には父の徳原的な放蕩の血がぬらぬらと流 れて居る﹂ ︵﹁学生群﹂︶と言い、被のブルジョア的血流への絶 望を語るのだ。コミュニストたろうとする意志と埋性を衰ざる、 自分の中のブルジョア的感性。理性と感性の矛盾。平野証の言う 自己の ﹁肉体の不可変性﹂ に対する絶望が太宰を訪れているので あ る 。 しかし、 ﹁コミュニストたりえぬ﹂ 太宰の<絶望Vを指摘する だけでは決定的に不充分である。彼の真骨頂は、内なるブルジョ アの血を呪い、己の<負性Vを痛切に自覚はしても、他のインテ リマルキストたちのように、それを揚発しようとは決して考えな かった点にある。絶望的な自己を革命めざして変革するのではな く、革命への負の関わりを決意するのだ。彼が択んだものは、自 己の内なるプチブル性の克服というストイシズムではなく、自己 のプチブル性・ブルジョア性を先験的に付与された校糖として楳 持したまま、あえて ﹁徳原的な﹂ 階級の ﹁放蕩﹂ 者として ﹁撃ち ころされ﹂⑯、﹁滅亡﹂ ⑩していこうという<滅私Vのロマンテ ィシズムであった。 本当に死ぬかも知れないと小早川は思った。︵略︶、其の 時も披︵青井−引用者証︶ はカルモナンで自殺を企てて三日 も昏睡し続けた事さへあったのだ。︵略︶、︵菅井は︶ 三日 許り続いてP市の病院に適ひ、其の伝染病合の傍の泥溝の水 を掬って飲んだものださうだ。︵﹁学生群﹂︶ そんならば、僕達マイナスの人間は皆死んだ方がいいのだ。 ︵ ﹁ 同 ﹂ ︶ もちろんここでは、太宰がコミュニズムのためにカルモテン自 殺を企てたり、﹁泥溝の水を掬って飲んだ﹂ ことが、事実として あったかどうかということが問題になるのではないけ 大切なのは、 他が明日の革命のために自己の中の旧い要素を全否定してたくま しく生きようとしていたときに、太宰一人にあっては、自己の存 在を抹殺することが明日の革命のために役立つと信じられていた、 という内的事実なのである。﹁私を葬り去ることは、すなはち、 建設への第一歩である﹂ ︵﹁虚構の春﹂︶という思いがはっきり とあったのだ。他のプチブル・コミュニストと太宰を分かつ、第 十三東
二の決定的な違いがここにあった。 ブルジョア的自己の抹殺による革命の達成。完全な自己抹殺が もたらす他のための輝ける階級的未来。この破天荒なロマンティ シズムを信じることによってしか、太宰はコミュニズム思想を生 きることはできなかった。歴史の法則が命ずるままに、﹁滅亡の 民﹂ ︵﹁花燭﹂︶として滅びるという殉教の美学を生きることが、 そのまま革命への賛助になりうると信じたのだ。太宰のコミュニ ズム受容の独創性と国雄がここにあった。しかし、この点に普及 した論考は今までほとんどなく、わずかに山内稗史氏の指摘を兄 い出すことができるだけである⑪。 ﹁学生群﹂ の青井の矛盾した言動を、このように、内なるプチ ブル性克服の契機の欠如、という視点から見る限り、﹁学生群﹂ は、従来言われているような太宰の左傾化を示す好個の作品でも なければ、太宰の似商非左翼性を露屈させた作品でもない。むし ろ、コミュニズムへの共感と内なるブルジョア性の矛庸・轟離に 悩む太宰の∧混乱Vを浮かびあがらせ、ついには死によってコミ ュニズムに奉仕しようとする絶望の想いを伝えてくる濱物なのだ。 自己のブルジョア性をあえて揚兼せず、ブルジョアとして ﹁撃 ちころされ﹂ ることに革命的意義を兄い出していた太宰を考える ならば、その太宰が高校時代にマルキストらしからぬ放蕩生活を 送っていたことを、彼とコミュニズムとの無線さを示す傍証にし ようとする試みは、全く無効であると言わざるをえない。﹁僕に は父の頼鰯的な放蕩の血がぬらぬらと流れて居る﹂ という﹁青井﹂ の自己嫌悪にみちた普葉をもち出すまでもなく、太宰の ﹁放蕩﹂ が文字通り享楽的なものであったとは考えられないのだ。それは 普悩の末の選択か、少なくとも心理的葛藤やうしろめたさを随伴 せずにはおかないものだった。当時の太宰が、友人知人の脇にい かに享楽的で非マルキスト的人物に見えていたかということは、 このさいいかほどの意味ももちえない。﹁おもてには快楽をよそ ひ、心には悩みわづらふ﹂という﹁渡り鳥﹂ のエピグラフは、太 宰治の一面をかなり的確に言い表している。実生活上の享楽的な 貌をよそに彼の中で演じられていた、あの破天荒なロマンティシ ズムの観念劇を、周囲の人たちが充分に見抜いていたとは考えに くい。外貌の享楽ぶりをただちに内面の享楽性と結びつける楽天 主義を、そのまま信じるわけにはいかないのだ。むしろ、﹁屡々 その顔や身体に、疲労と盛密が、暗い影のように蔽いかぶさって いることしがあったという大高騰次郎の思い串⑯の中にこそ、こ の時期の太宰の真の姿が隠されていたと考える方が自然なように 思われる。また、﹁姥拾﹂ の中の ﹁滅亡するものの感をエムプア サイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、 十四亘
それだけ強くはぬかへって来る、それを信じてゐたのだ﹂ という 叙述や、﹁虚構の春﹂ の ﹁私は派手な衣服を着る。私は叩高い口 調で話す。私は独り離れて居る。射撃し易くしてやって居るので ある。私の心にもなき鴎慢の擬態もまた、射手への便宜を思って の振舞ひであらう﹂ という叙述は、さきの、自己抹殺ののちの輝 ける階級的未来への確信ということにつながっている。だとすれ ば、被の ﹁兢廃的な放蕃﹂は、﹁滅亡するものの悪をエムフアサ イズしてみせ﹂ るというきわめて変形された革命意識から、意図 的に演出されていた可能性すらあるのだ。 * 私たちは、作家の実生活に触発されて作家研究に入るのではな いけ 作品によって作家への関心をそそられるのだ。作家の実生活 はあくまでも作家研究の補助材料にすぎない。太宰自身言うよう に⑲、どんな偉大な作家も、実生活においては普通人同様の雉小 な存在にすぎない。作品の記述をそのまま事実とうけとるのが経 ちであるように、実生活をそのまま作家精神につなげるのもまた、 重大な過誤を生む国になるのである。実互活の資料に惑わされず に太宰文学を虚心にみていけば、前期太宰文学において、コミュ ニズムが太宰に深刻な影を落しているのは明白であるように思え る。プロレタリア文学理論を倍率できないコミュニスト。その結 果、革命によって粛活される臼を待つコミュニスト。1 あの破天荒 な<滅私Vのロマンティシズムと変形された革命意識の中で、こ の逆説を生きようとしたところに、太宰のまれにみる独自性と不 幸があったと思われる。 下 転 向 周知のように、太宰治は昭和七年七月、青森警察署に ﹁自首﹂ することで、社会主義連動と抱擁し、文学に専念していくことに なる。いわゆる主義者たちが、なだれをうつように転向していく のは翌八年六月の佐野学・銅山貞親の獄中転向声明以後だから、 太宰は、一般的な転向現象が始まる約一年前に、すでに自分だけ の転向をひそかに完成させていたことになる。太宰の ﹁自首﹂ を 風聞したときの驚きを、弘前高校時代の友人右上二玄一郎は次のよ うに述べている呼。 ﹁まさか!﹂ 私は言下に否定した。 この連動に首をつつ込むにはみなそれぞれ相当の信念と覚 悟をもって入ったはずである。つかまって拷問をうけ、それ に抗し切れず自白することはあったにしても、みずから進ん 十五二見
で ﹁申し上げます、申し上げます、私めはこんな悪いことを いたしました。悪うございましたL などと ﹁駆け込み訴え﹂ をするなんてことは考えも及ばなかったのである。 に明かにしていくはずである。 ∧ 一 > 石上のこの盈きは、社会主義連動に対する太宰と他のマルキス ト達との落差をおのずから浮き彫りにしている”落差とは、もち ろん、太宰のコミュニズムへの関わりが非主体的であったという ことを意味していない。太宰がコミュニズムの思想をどのように 受けとめたかということは前章で見た通りであり、それは常人離 れのしたものではあっても、決して非主体的なものではなかった。 しかし、コミュニズムへの槻わりが強いられた非、五体的なもので なかったとすれば、彼はどうして ﹁つかまって拷問をうけ﹂ たわ けでもないのに﹁みずから進んで﹂警察に出頭し、政治連動から 離脱して、披だけの砿向を完成させることができたのか。また、 この ﹁自首﹂が、彼の政治運動に事実上のピリオドをうつものだ ったとすれば、彼はなぜ転向慮後に ﹁思ひ出﹂ のような全く政治 臭のない抒情的な作品を書くことができたのか。同じく<故郷∨ を拓きながら、中野垂治の ﹁村の家﹂ のような転向の苦渋をにじ ませた作品にならなかったのはなぜか。これらの間を問うことは、 コミュニズムに対する太宰と他のマルキスト達との落差を必然的 昭和七年七月の太宰の r自首﹂ のいきさつを調査した相席正一 氏惨は、﹁内密に青森に赴き、警察署に出頭して左翼運動からの 離脱を誓約すれば、太宰卒業まで送金を継続するけ さもないとき は今後一切絶縁する﹂と長兄文治に迫られて ﹁結局は左翼連動か らの離脱の道を避﹂び、﹁長兄同道で青森警察署に出頭LL、﹁ おそらく供述番の中で﹃転向﹄を誓約したと思われる﹂ としてい る。﹁当初、巌兄の忠告をけく考えていた太宰﹂ は ﹁長兄に強い られて確かに﹃覚書﹄廟に署名捺印はしたが、当初からこれの効 力を太宰は大して問題にして﹂おらず、﹁いわば、体のいい長兄 の威しかいやがらせ程度にしか考えていなかった﹂ ものの、﹁こ の二者択一を迫る切り札をつきつけられて、はたと当惑し﹂、﹁ 結晶は左衆連動からの離脱の迫を避﹂び、﹁大学卒業まで送金を 継続﹂ してもらうことになった、というのである。﹁甘く考えて いたL、﹁これの効力を太宰は大して問題にして﹂ いなかった、 ﹁威しかいやがらせ程度にしか考えていなかった﹂、 ﹁はたと当 惑LL などのように、本当は太宰本人しか知りえない被の心の中 卜 六 頁
の想いを相席氏は断定的に書いているわけだが、太宰にとっては、 ﹁左巽連動﹂ よりは ﹁送金﹂ の方が大事であった、ということに でもなるのだろうか。しかし、ことはそれほど単純ではない。 昭和五年十一月、太宰は芸者初代との結婚と引き換えに﹁分家 除籍﹂ を承諾させられている。しかし、この ﹁分家除籍﹂ のもう 一つの狙いが太宰の左翼連動からの離脱を迫る点にあったことは、 翌六年一月に交わされた、さきの ﹁覚書﹂ の内容からも明らかだ ろう。太宰は、﹁分家除篇﹂、﹁覚書﹂ の締結という長兄の圧力 にも拘らず、六年の早春境から再び左翼運動に関与していくこと になるわけだが、この一連の長兄の圧力を太宰が単なる ﹁威しか いやがらせ程度にしか考えていなかった﹂とはとうてい考えられ ないのである。五年十一月十九日付で正式に ﹁分家除籍﹂ された 太宰は、その十日後の二十九日に田部シメ子との心中未遂事件を おこす。長兄文治を驚愕させたこの事件を回想して、傍島正守は、 昭和五十五年十一月十四日付の﹃朝日新聞﹄ ︵青森版︶ に掲載さ れた ﹁津島家﹂ という文章に次のように書いているという②。 知識があるからー引用著︶ 理屈っぽくて困るじゃ。行って始 末してげろじゃ﹂と書われた。︵註 文中の ﹁引用者﹂とは 相馬正一氏のことである。︶ 東京に講習に行く用事があり、青森の塩谷旅館に文治さん を訪ねたら、植治者の心中を知らされた。文治さんから、﹁ 共産主義で困ったもんだ。もの覚えてるはんで ︵学問をして この傍島の回想は、﹁分家除籍﹂ に関わる長兄と太宰の話し合 いの中で次のようなことがあったことを示唆している。一つは、 前述したように、二人の間で ﹁共産主義﹂ のことが話題になり、 長兄が﹁共産主義﹂ 運動からの離脱を太宰に迫ったであろうとい うこと。もう一つは、運動からの離脱を迫られた太宰は、﹁共産 主義で困ったもんだ﹂ ﹁理屈っぽくて困るじゃ﹂と長兄に愚痴を こぼさせるほど頑強に抗弁したと思われる、ということである。 その太宰に対する長兄の最終回答が ﹁分家除籍﹂ であったと考え られるが、この処置に痛憤︵あるいは絶望︶した太宰④は、女と の心中という形で長兄に報いたということになる。このようない きさつの約二ケ月後に交わされた ﹁覚書﹂が ﹁体のいい長兄の威 しかいやがらせ﹂ としか受けとれないとすれば、そのように受け とる人間の感性がよっぽどどうかしているわけで、﹁覚書﹂は、 そのいかめしい書式といい、文体といい、内容といい、単なる ﹁ 威しかいやがらせ﹂ と考えうるようなものではない。﹁覚書﹂ を 読む限り、ここには長兄文治の津島家家長としての決意の全てが 十七貢
こめられているはずであり、太宰も長兄のその決意を知りつつ、 あえて再び左翼運動の中へ入っていったと思われる。﹁それがあ る日、ひょっこり私の下宿を訪ねて来たのである。友人たちのと ころをみんなお詫びして廻るつもりだという。角帽をかぶり、学 生服を着て、ていねいに帽子を脱いでおじぎをして﹃済まなかっ た、申訳ない、心を入れかえて、やります﹄と誓ったのである。 その誓いの通り、彼はその後かなりの意欲をもって積極的に、非 合法組織の中に働いていたし、彼の顔つきはきりりとひき繋って きて、とても私など近よれないというほどのものを感じさせた﹂ という田村文雄の回想ふたも、長兄の有形・無形の圧力をおしの けて決意も新たに自分の道を歩み直そうとする太宰の姿が見える ように思われる。この出直しの決意は、後述するようにあるもろ さをはらんでいるのだが、﹁友人たち﹂ に ﹁お詫び﹂ して﹁非合 法組織﹂ に復帰するという想いは、少なくとも太宰の主観内では 真剣なものと考えられていたはずであるけ その太宰が、昭和七年七月の ﹁自首﹂ に際しては、r長兄から 烈しい叱責を受けたが、すでに覚悟はできていたので二言の弁明 もしなかった﹂ という②。﹁すでに覚悟はできていたのでL とい うのは相鳶氏の推測だろうから、事実としてあったのは、﹁長兄 から烈しい叱責を受けた﹂ということと、それに対して太宰は ﹁ 一言の弁明もしなかった﹂ ということの二つである。同五年秋の ﹁分家除籍﹂事件では、長兄を ﹁埋屈っぼくて困るじゃ﹂と嘆か せ、あげくのはてには、女との心中未遂事件まで起こした太宰が、 長兄の ﹁烈しい叱責﹂ に﹁一書の弁明﹂ もしなければ、追いつめ られて<自死Vという方途を選ぶこともなく、示わば簡単に ﹁自 首﹂ に同意しているのである。この変貌の意味はどのように考え たらよいのか? もちろん、﹁二者択一を迫る切り札をつきつけ られて、はたと当惑し﹂、﹁左翼遊動からの離脱の道を選﹂ んだ とする見解は、皮相にすぎる。 <二∨ 昭和七年の転向後に太宰が ﹁恩ひ出﹂ を書いた意味については、 東郷克美氏が ﹁逆行と変身﹂ ⑥の中ですぐれた洞察を行っている。 太宰が ﹁恩ひ出﹂ を書き、﹃晩年﹄所収の他の作品でも<故郷V を描いていることについて東郷氏は次のように述べる。 太宰にとってコミュニズムの運動とは幼少年期をすごした家 を中心とする ﹁思ひ出﹂ の世界の否定・禁忌を意味したので あり、転向とはすなわちそのタブーから自己を解放してその 十八東
﹁思ひ出﹂ の中へ回帰して行くことだったのではないか。そ の意味では転向者一般にみられる回帰現象と軌を一にする。 家郷追放による故郷喪失、転向による自己喪失によって、己 の拠って立つべき現実の基盤を失ないつくし、もはや実在せ ぬ過去の ﹁恩ひ出﹂ の世界に逆行して行くことが初期太宰治 の文学を貫くモチーフであった。連動離脱後一月後に書きは じめた作品が ﹁恩ひ出﹂ でなければならなぬ必然性がそこに あ っ た 。 太宰にとって転向とは、﹁幼少年期をすごした家を中心とする﹃ 恩ひ出﹄の世界﹂ への ﹁回帰﹂ であったという指摘や、﹁転向に よる自己喪失﹂ のために ﹁もはや実在せぬ過去の﹃忠ひ出﹄の世 界に運行して行く﹂ のが太宰の ﹁モチーフ﹂だったという指摘⑦ には、ほとんど異論はない。また、ここには引用しなかったが、 ﹁﹃恩ひ出﹄ の世界﹂ へ ﹁回帰﹂ していく太宰の心性についての 説明もきわめて示唆に富むところが多い。しかし、にもかかわら ず、転向の三∼四年後に書いた作品で ﹁転向者の苦悩﹂ ﹁議切着﹂ ︵﹁虚構の春﹂︶などという言葉を使った太宰が、﹁思ひ出し以 下の転向直後の作品で転向の影を全く見せることなく∧故郷∨に ﹁回帰﹂ し、抒情的な ﹁恩ひ出﹂ の世界を拓きえたのはなぜか、 という間はいぜんとして残るように思われる。同感に、∧思ひ出︶ の世界に ﹁回帰﹂していた太宰がなぜ再び<転向∨という生々し い現実の問題を扱わねばならなかったのかという間もまた、問わ れなければならないだろう。 山内祥史氏の年譜⑧によると、太宰は七年の七月中旬に青森警 察署の特高課に出頭して社会主義連動との絶縁を誓約したあと、 同七月三十一日には静岡県下磨東都の坂部啓次郎方の二階を間借 りし、﹁中断していた創作に専念して、﹃恩ひ出﹄を書き始めた﹂ ことになっている。﹁つかまって拷問をうけ﹂ たわけでもないの に ﹁自首L L、転向半月後には全く政治臭のない ﹁転向小説﹂ を 書いたという事実には、太宰のコミュニズム受容と転向の特異な あり方がよく表われているが、この事実は太宰のコミュニズム受 容の底の浅さということには決してつながらない。そういう観点 からは、後に転向に対する倫哩的負い目が書かれる意味が全く説 明できないからである。むしろ、太宰の転向の本質は、それが外 的な警察力によってもたらされたものではなく、披にのみ固有な 内面の劇によってもたらされたところにある。彼が自己の転向に 事実上のケリをつけたのが青森警察への出頭と誓約であったにし ても、それに先立つ数カ月前、もしくは一年数カ月前には、彼の 十九要
内部では実質的な転向が経験され、進行していたと考えられるの である。法橋和彦氏は今甘一の回想をよりどころにして ﹁思ひ出﹂ が ﹁自首﹂以前に書かれていた可能性を指摘する⑦が、ここでい う実質的な転向は、おそらく法檎氏が考えるよりも以前の段階で 経験されていたと思われる。 太宰治が、社会主義連動の実践者として活動していたことをは っきりと語っている小説に﹁列車﹂ ﹁道化の準﹂ ﹁狂言の神﹂ ﹁ 虚構の春﹂ ﹁花燭﹂ ﹁おしゃれ童子﹂ ﹁東京八景﹂ ﹁苦悩の年鑑﹂ ﹁十五年間﹂ ﹁人間失格﹂などがある⑨。このうち、﹁花燭﹂ ﹁ おしゃれ童子﹂ ﹁苦悩の年鑑﹂ ﹁十五年間﹂ を除く六篇では、主 人公が社会主義運動に関わっていた時期が特定できるようになっ て い る 。 私は或る期間、穴蔵の中で、陰鬱なる政治運動に加担してゐ た。月のない夜、私ひとりだけ逃げた。︵嶋︶ 私は仲間を衰 切りそのうへ生きて居れるほどの恥知らずではなかった。私 は私を思って呉れてゐた有夫の女と情死を行った。︵﹁虚構 の 春 ﹂ ︶ 七年まへには若き兵士であったさうな。ああ、恥かしくて死 にさうだ。或る月のない夜に、私ひとりが逃げたのである。 ︵咤︶喪切者としての液酸なる刑罰を待ってゐた。撃ちころ される日を待ってゐたのである。けれども私はあわて者。こ ろされる口を持ち切れず、われからすすんで命を断たうと企 てた。︵疇︶有夫の婦人と情死を図ったのである。︵﹁狂言 の 神 ﹂ ︶ 二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の恐怖 して居たあの日蔭の仕事に、平気で手助けしてゐた。︵略︶ その一期間、純粋な政治家であった。︵略︶自分の其の方面 に於ける能力の限度が、少しつつ見えて来た。私は、二重に 絶望した。銀座義のバアの女が、私を好いた。好かれる時期 が、誰にだって一度ある。不漁な時期だ。私は、この女を誘 って一緒に僚倉の薄へはひつた。︵﹁東京八景﹂︶ この三つの作品に共通していることは、﹁純粋な政治家﹂として 社会主義運動に関わっていた時期がすべて女との心中事件以前と して叙述されていることである。これは残り三つの作品において も同様で、﹁道化の華﹂ では、女との心中の原因のひとつとして ﹁行動隊のキャップ﹂として﹁ずゐぶん、はげしくやってゐたし 二十東
ことが示されているし、﹁人間失格﹂ では ﹁マルクス学生の行動 隊長﹂だった時期を女との心中以前のこととして善作ている。ま た、﹁列車﹂ の ﹁数年まへ私は或る思想団体にいささかでも関係 を持ったこと﹂があるという表現については、﹁昭和五年後半の 学生運動組織への関与をその下敷にして﹂ いるという安藤宏氏の 論証⑩がある。つまり、 ﹁列車﹂ が発表された昭和八年から ﹁人 間失格﹂ が発表された同二十三年までは約十五年あるわけだが、 その間太宰が、 ﹁純粋な政治家﹂ として ﹁或る思想団体﹂ の ﹁政 治連動に加担し﹂、ついにはそれを ﹁適切﹂ るにいたった叙述を 行うときには、その時期を特定できない作品を除けば、つねにそ れを ﹁有夫の婦人と情死を図った﹂ とき、すなわち ﹁昭和五年後 半﹂ までの実生活を ﹁下敷にして﹂ いることがわかる⑪。逆に、 同七年七月の ﹁自首﹂ を政治連動からの離脱と見、それに ﹁私ひ とりが逃げた﹂、﹁適切﹂ った、という叙述を加えていると判断 できる作品は二篇もないのである。これは単なる偶然や太宰の気 まぐれとはとうてい考えられない。むしろこのことは、実証的な 事実はいざ知らず、太宰の意識内部では、転向が ﹁昭和五年後半﹂ のこととして刻印されていたことを明瞭に物語っている⑬。 前輩で見たように、太宰が相席正一氏の実証的研究の網目から 洩れたところで、少なくとも昭和五年初夏以降には、すでに社会 主義学生連動と密接に関わっていた可能性はきわめて高い。﹁二 学期は、学校へは、ほとんど出なかった。世人の恐怖してゐたあ の日蔭の仕事に、平気で手助けしてゐた﹂ という ﹁東京八景﹂ の 中の言葉も、太宰の脚色とみるよりは事実に立脚したものと考え る方が自然である。戦時色が強まりつつある昭和十六年一月号発 表の作品に、わざわざ脚色してまでかつて社会主義連動のために ﹁奔走﹂ ︵﹁東京八景﹂︶していた時期を設定してみせなければ ならない必然性はどこにもない。だとすれば、少なくとも昭和五 年九月から﹁分家除算﹂ 事件がおきる十一月中旬ごろまでの約二 ケ月間は、太宰が自己に課したあの<滅私Vのロマンティシズム や ﹁コミュニストたりえぬ負性の自覚﹂ ⑲をそれほど意識するこ となく、 ﹁純粋﹂ に ﹁政治家﹂ として燃焼することのできた唯一 の期間だったと考えることができる。 従来、太宰の転向は昭和七年の七月︵もしくは、青森検事局に 出頭して社会主義運動との絶綾を誓約した同十二月︶と考えられ、 転向に伴う﹁苦悩﹂ や ﹁裏切り﹂ 意識もこれ以降のこととして論 じられることが多いようである。しかし、今見てきたように、﹁ 行動膵のキャップ﹂ ﹁盛切り﹂ ﹁転向者の苦悩﹂ という言葉は、 昭和五年秋までの実体験をふまえて使われている蓋然性がきわめ て高い。昭和五年十一月には、太宰は連動からの決定的な脱落を 二 十 一 員
痛覚し、実質的な転向をすでに内部体験していたと考えられるの で あ る 。 <三∨ 太宰が田部シメ子との心中におもむく直接のきっかけとなった のは、長兄の ﹁分家除籍﹂ という処置である。しかし、この処置 が<自死Vへおもむく直接の契機になったということは、相属正 一氏の考えるように、女との心中がコミュニズムからの脱落意識 と無線に行われたということを決して意味してはいない。﹁分家 除籍﹂が太宰にどのような衝撃を与えたのか、それはなぜ太宰に <死∨を思わせるほどの衝撃でありえたのか、ということは、彼 の特異なコミュニズム体験の分析ぬきには語ることができないと 思われる。太宰は、長兄による初代との結婚承認から田部シメ子 との心中にいたる心的過程を ﹁東京八景﹂ で次のように叙述して い る 。 一人、無智な自信でぐったりしてゐるのは、みつとも無い事 である、と思った。︵鴫︶ Hは、自分ひとりの幸福の事しか 考へてゐない。おまへだけが、女ぢや無いんだ。おまへは、 私の苦しみを知ってくれなかったから、こういう報いを受け るのだ。ざまを見ろ。私には、すべての腐親と離れてしまっ た事が一ばん、つらかった。Hとの事で、母にも、兄にも、 叔母にも呆れられてしまったといふ自覚が、私の投身の最も 直接な一因であった。 女はひどく安心してしまってゐるらしかった。私には、それ が不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母に は地獄の苦しみを嘗めさせてまで、戦ってゐるのに、おまへ ここに記されている ﹁投身﹂ の埋由は、さきに引用した ﹁ころさ れる日を持ち切れず、われからすすんで命を断たうと企てたし と いう記述や ﹁私は仲間を鶉切りそのうへ生きて居れるほど恥知ら ずではなかった﹂ という記述とは明かに異なっている。あるいは、 ﹁道化の準﹂ で主人公の葉蔵が ﹁ほんたうは、僕にも判らないの だよ。なにもかも原因のやうな気がして﹂ と述懐しているように、 ここにあげられた以外の栗田も複雑にからんでの心中未遂だった のかもしれない。しかし、にもかかわらず、﹁私には、すべての 肉親と離れてしまった事が一ばん、つらかった。Hとの事で、樺 にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまったといふ自覚が、私の 投身の最も直接な一因であった﹂ という叙述は注目に値する。こ 二十二 頁
の述懐は、彼がコミュニズムの立場からどんなに ﹁否定・禁忌L Lようとも、あの<思ひ出∨の世界が彼にとっていかに親しみ深 く、なつかしい世界であったかということを如実に物語っている からである。己の内なるプチブル性を克服する契機を自らに与え ることなく、むしろそれを先験的に付与された種槽として保持し たままあえて ﹁規廃的﹂ な階級の一員として滅びさることを自己 の階級的な生き方と規定していた太宰は、階級闘争の絶頂期にい たちようどそのとき、∧家Vとの訣別を突きつけられることによ って、まさに己の内なるプチブル性の象徴にはかならない、あの なつかしくも慕わしい<思ひ出Vの世界を鮮明に想起させられた のである。そして、その<世界Vが自己の深層世界の基幹を構成 し、頭ってしまうにはあまりにも親和にみちた世界であることを 改めて痛覚したとき、彼はその絶頂から急激に落下していかざる をえなかった。かつて彼の理性が汚濁にまみれたブルジョア的血 流の権化として呪諷した∧家Vが、たまらなく美しくなつかしい 世界として実感されたとき、彼がつみあげてきた<階級意志Vは 晋をたてて崩れ落ちたのである。それは、∧階級性>を志向した 彼の理性が、彼がなおざりにした紋の土着の感性に屈服した、劇 的 な 一 瞬 だ っ た 。 昭和初期のインテリマルキストたちが転向したとき、彼らは、 かつて揚菜したはずのプチブル性が依然として自己の心性に根深 く喰い込んでいることをいやおうなく発見したはずである。自己 の内なるプチブル性の克服という、各自の生の根源を放棄する試 みが、主観的な意志と案盛とによって成功するはずなどないから だ。しかし、左傾前と相も変わらぬ自己のプチブル性を発見して も、彼らにはもはやほとんどなすすべはなかった。彼らには、< 呆然∨<無力∨<虚無Vなどの心情とともに日常の中へ回帰して いくことはあっても、あるいは、政治的挫折に対する絶望とそこ からの転生の願望はあっても、ついに変革されなかった<自己V に絶望することはなかった。しかし、太宰にとっては、よりによ って連動の絶頂期にぬきがたい己のプチブル性に直面させられる ことは衝撃だった。﹁すべての肉親と離れてしまった事が一ばん、 つらかった﹂ とは、 ﹁すべての肉親と離れてしまう﹂ ことを辛い と感じる<自己Vを見出すことであり、コミュニズムの立場から ﹁否定・禁忌﹂ の対象とした ﹁﹃思ひ出﹄の世界﹂ に限りなく執 着する<自己∨を発見することでもあった。それは、かつて揚乗 しようとしても揚棄しきれないと断じ、揚発すること自体を断念 した<プチブル的自己Vとの出会いであり、今まで自覚すること はあっても、決定的な意味をもって立ちあらわれることはなかっ た ﹁コミュニストたりえぬ負性の自覚﹂ をはっきりと刻印される 二十三東
ことであった。一方では悲しみのうちに∧故郷Vを痍失し、他方 では、非マルキストたる負性の痛烈な自覚のために運動から脱落 し、自らに課したあの<滅びVの美学にすら佃しないと思ったと き、女との死にいたる道程はほんのわずかだったはずである。組 織を逓切ったという負い目まで加えれば、二登、三重の絶望が被 をとりまいていたのである。﹁分家除籍﹂が<死∨に結びついた ゆえんがここにあった。 戯後に、太宰の∧階級意志Vがこんなにももろく崩れ去ったの はなぜか、という間だけが残る。もろさはたぶん、コミュニズム 受容の観念性と結びついている。コミュニズムを観念的に受容し、 そのためにもろくも敗れ去った点では、太宰も他のインテリマル キストもおそらく同列であって、太宰の観念性は、あの<滅私V のロマンチシズムという美学に愚もよく示されている。 太宰は他のインテリマルキストのように、自己内のプチブル性 を克服しようとはしなかったけ しかし、自己内のプチブル性︵な いしはブルジョア性︶ を内包したままなおマルキストとしての道 を歩もうとする矛盾を実践したとき、彼の志向は明らかに彼の∧ 自然>や<内部現実>に運行していた。そして、自らの志向がそ の<自然Vや<内部現実Vに逆行していたというまさにその一点 において、太宰は他のインテリマルキストたちと全く同じだった のである。太宰の生活には、自ら憎悪し、打倒すべき階級的敵対 物は何もなく、従って階級闘争に参加すべき生活上の必然もなか った。あったのは、彼の観念がつくりあげた、大地主である彼の <窺Vと彼自身に潜んでいるはずの階級惑だけだった。そのため、 現実的な階級闘争の政治日程などは本質的には級の頭の申から疎 外されており、彼はもっぱら、<絶対真理Vとしての唯物弁証法 を己が生の倫理規範として内面化しっつ、<自己Vと<家Vとに 対する倫理的負債を負って連動に参加していくのである。しかし、 自己内のもう一つの∧現実Vを無視して行われる思想の観念的な 内面化の過程は、<現実>の容橡を招き入れる危シさともろさを つねにはらんでいる。他のマルキストたちに自己の<内部現実V を知らしめる直接の契機になったのは警察力という<外的現実∨ であり、このとき太宰を見細った<現実Vは、彼の感性が根深く 育んでいた<情緒∨という∧内的現実Vであった。この<内的現 実Vは決して他から強制されたものではなぐ、被の内部の<自然 ∨な感情として潜在していたために、それが融在化したとき、彼 のマルキストたるべLというつくられた理性はどのような対処法 も見出せず、一方的に敗北しなければならなかったのである。披L の転向は、埋性がつくりあげた観念に対する<情緒の世界∨の復 讐として現前したものであった。太宰の運動離脱と<故郷回帰∨ 二十四だ
に警察力の介在など全く不要だったのであるは <四∨ 以上見てきたように、昭和七年夏の早すぎる転向と ﹁﹃恩ひ出﹄ の世界﹂ への ﹁回帰﹂ は、すでに同五年十一月には太宰の内部に 充分にその芽を萌していたと考えてよい。しかし、この二つの間 にはなお的一年八ケ月の隔たりがある。この間の太宰の社会主義 運動への関わりはどのように考え、どのように評価したらよいの か。すでに引用したように、﹁彼はその後かなりの意欲をもって 積極的に、非合法組織の中に働いていたし、彼の顔つきはきりり とひき繁ってきて、とても私など近よれないというほどのものを 感じさせた﹂ という田村文雄の回想もある。また、昭和六年春以 降、太宰の家が共産党幹部のアジトとしてしばしば使われ、党の 機関紙﹃赤旗﹄∧三・一五記念特報号Vが太宰宅で印刷されたと いう事実も明らかになっている。これらの事実は同五年秋の太宰 の運動離脱とからめてどのように考えたらよいのだろうか? ひとたび<コミュニスト失格Vの決定的な烙印を自らに捺した 者が、再びコミュニストとして蘇ることがほんとうにありうるの か、私の問はここから始まる。私は田村文雄の回想や実証的に明 らかにされている事実の信憑性を疑うわけではない。また、 ﹁済 まなかった、申訳ない、心を入れかえてやります﹂ という太宰の 決意をありえないこととして斥けようという気も全くない。しか し、一切の実証的事実を容認したうえでなお、コミュニズムから の決定的な脱落感を味わった者が、再び ﹁純粋な政治家﹂ として 完全燃焼することがほんとうにありうるのか、という間は依然と して残ると思う。いくら ﹁心を入れかえて﹂ みても、ひとたび捺 されてしまった極印は、たえず内側から彼を脅かし続けたのでは ないのか、∧コミュニスト失格Vの烙印はそれほど彼にとって決 定的だったのではないのか、転向を作品化するとき、﹁昭和五年 後半﹂ までの事実がふまえられることはあっても、同七年の ﹁自 首﹂ が ﹁転向者の苦悩﹂ として語られることが全くないという前 述した事実が、そのことを雄弁に物語っているではないか、とい う想いをどうしても禁ずることができないのである。 太宰治の転向を語るときによく引きあいに出されるのに、﹁ぼ くには太宰の文学も生涯もすべて、コミュニズムからの陥没意識、 コミュニズムに対する罪の意識によって、律せられていると思え るのです﹂⑱という、奥野健男の有名な言葉がある。相席正一氏 の実証研究がこの奥野の見解に対する反発から始まったことは周 知のことだが、太宰の文学と生涯がコミュニズムに対する﹁陥没 二十五二見