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近代来間の公教育のあゆみ
〜下地・来間両小沿革誌を中心に〜
仲 宗 根 將 一一
1.はじめに
2.下地小学校の創立とその概要
(1)公的行事と地域行事
(2)在籍数と教科目
(3)その後の下地小学校 3.来間小学校の創立と沿革
(1)沿革大要と校舎施設等の推移
(2)学校を訪問した人びと
(3)学校行事
(4)児童生徒数の推移
(5)職員の動向
<附記>
1°はじめに
近代宮古の教育は1880(明治13)年4月、県の要請にしたがって、下地寛清、砂川昌治の 両名を師範学校入学のため派遣したことに始まる。師範学校は同年4月那覇の県庁内に事務 取調所を設けて開校準備を進め、実際に創設したのは同年6月22日なので、両名の入学もそ れ以後であろう。同月23日、宮古蔵元内に沖縄県宮古島役所が開設され、前年来の在番に代っ て所長、所員が配置された。翌7月22日、役所員は初めて平良在の南・北両学校の授業状況 を視察している。以来度々訪問、学業の激励に当ったようだ。県達によって所員のなかから 学務委員2人を挙げて担当させたが、翌1881年6月、宮古全域を平良、西辺、伊良部、下地、
城辺、新里、多良間の7学区に分け、各一名の学務委員を定めている。ついで1882年1月に
マ マ
は県から4等訓導中山輝慰、同松永一郎の両名が派遣され、翌2月から新学制にもとづく教 育が南北両校で始められるようになった。この年から学校費の名目で住民一般から賦課徴収
している。
同年10月30日、隣接していた南北両校を合併、平良小学校と名も改め、名実ともに近代宮 古における普通教育の草分けとなった。現在の平良市立北小並びに平良第一小の前身である。
ついで4年後の1886(明治19)年、西辺小(狩俣)、下地小(与那覇)、伊良部小(国仲)の
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3校が開校、さらに1890年、福里簡易小(現城辺小)、池前簡易小(現佐良浜小)、新里小(現 上野小)、翌1891年平良小多良間分校(93年独立)、1895年下地小来間分教場と、順次全宮古
に設立され、明治末期にはほぼ現今のような小学校区が定まっていった。
本稿では下地・来間両小学校の沿革誌等によって、来間における戦前教育の歩みを跡づけ ようと試みるものである。来間小は前述のように下地小創立後10年めの1895(明治28)年に 分教場として設立されている。そこでその前景をなす下地小のあらましを追った上で、来間 小について詳述することになるが、その前に学校沿革誌についてあらましふれておきたい。
学校沿革誌は日誌と違いそのつど記入するものではなく、通常学年末に学校管理者が学校 日誌等をもとにその年の主要事項を抽出、編年体で記入するものである。それゆえ卒・修了 式に管理者の異動等が重なってしまうと、沿革誌への記入がとどこおってしまうことも間々 起こりがちのようである。さらに繁忙にくわえて日誌等の所在不明ということもあったよう だ。来間分教場の場合、「明治30年より32年マデ曰誌ナク書類不備二付記載出来ズ」、さらに
「自37年至41年五ヶ年間」は同様趣旨の記述があり、その間の経緯をうかがうことができる。
しかし記入もれはともかく記入された内容そのものは、永久保存という沿革誌のもつ性格上、
きわめて貴重なものである。教育状況はもとより学校行事や生徒・教職員の動向、行政当局 への対応、地域社会とのかかわりあいなど、みるべきものが多い。
それでははじめに下地小の概要を追い、その上で来間の戦前公教育についてふれていきた
い。
2.下地小学校の創立とその概要
(1)公的行事と地域行事
下地小学校は1886(明治19)年11月13日、下地間切与那覇村(現字与那覇205番地)の俗称 ンナトに新築、開校している。新築とはいうものの、旧藩には瓦葺きは頭職クラスといえど も禁止されている。おそらく茅葺き平屋であったろう。生徒数は40名である。沿革誌冒頭に は「此時二当リテヤ人智未ダ開ケズ普通教育ノ何タルカヲ知ラズ子弟ヲ就学セシムル事ヲ容 易二肯ゼザリシガ時ノ役所長其他当路者ノ尽力ニ依り百方説諭ヲ加へ漸ク40名之就学ヲ見ル ー至リタリ」と記している。教師は県外出身の訓導1、宮古出身の授業生1の2人である。
同年12月には生徒は50名にふえている。
明けて1887(明治20)年1月23〜25日は「陰暦正月」のため、「出席生徒僅少ナルヲ以テ認
可ノ上臨時休業」とある。同年8月31日〜9月2日は「旧盆祭」のため「出席生少ナキヲ以
テ認可ノ上臨時休業」している。どちらの場合も文面からは本来休業ではないが、生徒の登
校が思わしくないので休業にする、いわば地域における旧慣行事を追認するというふうによ
みとれる。所謂旧正月については1890年、1892年にも同様記述があり、その間にあっても休
業していたであろうことをうかがわせている。1894(明治27)年1月1日には「職員生徒一
同出校遥拝式ヲ挙行ス」とあり、新正月による年始式が始まっていることを示している。そ
の後は旧正、旧盆など旧慣にもとづく地域行事はとりたてて現われていないが、必ずしも体
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業しなかったということではないようである。
1887(明治20)年11月3日には「平良馬場二鯵テ各小学校運動会ヲ挙行」とある。このこ ろの宮古には平良、西辺、下地、伊良部の4校があり、明治天皇の誕生日を祝って合同運動 会を催したのであろう。伊良部小はわざわざ海を渡って来たのであろうか。同年末の生徒数
は5級43人、6級56人、計99人、教師は訓導1、授業生2である。
1888(明治21)年4月1日付で小学校令が改正されて尋常科と称され、4学年編制となる が、創立3年め、未だ4年生はいない。8月1〜31日は夏期休暇であろうか、毎日3時間ず つ「温習」が施され、職員は8月6日から1週間、平良小で「体操ノ練習」に従事させられ ている。この年の生徒は1年78人、2年生26人、3年生13人、計117人。職員は訓導1、授業 生2、授業生見習1、計4人。訓導以外の3人は宮古出身である。
1889(明治22)年2月11日「平良馬場二鯵テ各小学校大運動会ヲ施行」とある。今回は「紀 元節」を祝賀しての合同運動会であろう。11月3日の「天長節」には「職員生徒一同出校奉 拝式ヲ挙行」と記している。同年12月末初めて生徒在籍表が男女別に記され、一年生に女子 の初入学もみられる。男子の34人には及ばないが、最上級生である4年生11人の2倍近い数、
20人と記録されている。
明けて1890(明治23)年3月、4年生11人が初めて卒業していくが、このうち10人は平良 在宮古唯一の高等小学校に進んでいる。同年12月3日「教育二関スル勅語」並びに「文部大 臣ノ訓示」を宮古島役所より受領、1日おいた5日には「勅語奉読式」を挙行している。教 育勅語は同年10月30日付で「下賜」されており、わずか1か月そこらでここ辺境の地まで届
けられたことになる。
1891(明治24)年1月27日「聖影奉迎」と記し、雨のなか「陛下ノ御真影奉迎ノ為職員生 徒一同出平」している。交通機関のまったくない当時のこと、6伽余の平良まで徒歩で往復 したことであろう。2月11日の「紀元節」には「職員生徒一同出校拝賀式ヲ挙行」しており、
以下毎年同様記されている。6月6日には「北条侍従、今西(相一)参事官」らが役所長の 案内で学校訪問しているが、内容についてはふれていない。9月13,14日の二晩は「幻灯会」
が催されている。さらに同14日からは生徒の「温習ノ便」をはかるために「会所」なるもの を設置している。
10月30日「勅語奉読式ヲ挙行」、ついで11月3日の「天長節」には役所長から「生徒一同へ 祝酒ヲ給与」し、「式了テ職員一同ハ平良馬場へ参集」である。「勅語奉読式」も「天長節」
も「紀元節」同様こののち毎年記録されている。11月16日には「士族生徒へ星功、平民及上
女生徒へ紙、石盤、算盤ヲ賞与」とある。何故の賞与であろうか。星功とは旧藩時代、役人
が昇進するための勤務表なるものであり、事実上の役人予備軍たる士族の子弟は、このころ
なお従前の権限を保証されていたことを意味するのであろうか。普通教育の場にあっても旧
慣が存続していることを示しているということなのであろうか。この年の卒業生は19人、こ
のうち平良の高等小学校に進むもの6人、他の13人は「実業二従事」とあるが、それこそ旧
慣の生きる人頭税制下、農業以外の産業とてない当時のこと、「実業」とはいっても、おそら
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くは親とともに農業に従事したということであろう。
1892(明治25)年1月20日の旧正は、生徒の登校が少いために「2,3時間ノ授業ヲナシ テ早引」させ、ついで22日まで3ケ曰は休業しているのは従前同様である。2月10日は役所 長の更迭で、転出する役所長を見送るために職員は「3,4年生ヲ引率シテ出平」している。
3月30日は旧暦3月3日、サニツ〃である。ここでも「出席生徒数僅少ナルヲ以テニ時間ノ 授業ヲナシ早引」とある。さらに4月3日は「神武天皇祭」で、「職員生徒一同出校儀式挙行」
とつづく。毎年催されてはいたであろうが、この年はこれまでになく各種式典がその式順と ともに記録されている。しかもそのつど教育勅語が「奉読」されている。つぎのとおりであ る 。
9月1日始業式日ナルヲ以テ勅語奉読式ヲ挙行ス。
10月17日神嘗祭式ヲ挙行ス。式順左ノ如シ。1.両陛下遥拝2.勅語奉読3.演舌4.両 陛下聖寿萬歳三呼5.君ガ代唱歌6.敬礼7.運動会
10月30日本日ハ勅語発布日ナルヲ以テ記念トシテ勅語奉読式ヲ挙行ス。其式順左ノ如シ。
1.生徒一同入場2.職員一同入場3.最敬礼4.首席教員勅語奉読5.謹告6.職員演説 7.退場。
11月3日平良尋常小学校二砂テ拝賀ヲ施行ス。式了テ平良馬場二齢テ運動会ヲ催ス。其 ノ式順左ノ如シ。1.旗取競争2.2人3脚3.1人1脚4.体操当校ヨリ賞品ヲ受ケシモ ノ左ノ如シ(注:記入なし)。
11月11日開校記念式ヲ挙行ス。其ノ式順左ノ如シ。1.入場2.敬礼3.式挙行ノ旨ヲ告 ク4.勅語奉読5.職員演説6.唱歌7.敬礼。
12月7日奈良原(繁)本県知事及師範学校長児玉喜八君臨校。知事公ヨリ各生徒へ時間 ノ必要ヲ諭告セラレ、職員へ校舎ノ構造法及本島教育ノ難事ナルコトヲ談話セラレ、后各生 徒へ土産トシテノ白紙五十帖、鉛筆4ダースヲ授与セラレタリ。
マ マ
12月9日高等校等庭前ニテ各校運動会ヲ催ス。本県知事公、児玉師範学校長、師中両校 教諭諸氏参観セラル。
この年の卒業生は25人、うち平良の高等小学校に進学するもの10人、「実業」に従事するも の15人である。
1893(明治26)年も、10月30日「勅語奉読式」、11月3日平良馬場における全宮古「小学校 運動会」開催の記録がでている。1894(明治27)年は、1月1日「遥拝式」、2月11日「紀元 節」、10月30日「勅語奉読式」、11月3日「天長節」等の儀式にまじって、「巡視」の見出しで、
8月20日「学務担当員両角政之君来校、訓導及学区内役人聰聴、地佐事、二才頭ヲ召集シ校 舎新築及学務委員生徒等二関スル事件ヲ協議セラレタリ」というのがある。蔵元や村番所役 人でない、いわば庶民層が学校建築に関与させられていることをうかがわせる記述である。
また、1895(明治28)年2月11日には「紀元節ノ儀式ヲ挙行シ生徒一同二菓子ヲ与ヘタリ」
ともある。他校でも支給したのか?どんな菓子なのか、自家製なのか、それとも宮古に菓
子屋が誕生していたのか、未だ人頭税廃止以前の宮古の商経済を考える上でも興味あるくだ
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りである。
ともあれ以上が来間分教場設立以前の、その母校たる下地小学校10年の、おおよその歩み である。年賀式や紀元節、勅語奉読式、天長節など、天皇にかかわるあらゆる公的行事が、
型通り確実に式典を挙行した反面、旧正月やサニツ、旧盆等の地域行事は生徒の出欠状況を みてから、休業を追認するなど、硬軟自在な対応をしていたということをうかがわせている。
(2)在籍数と教科目
ところで創立以来の10年、教授内容はどのようなものであったのか、まったくふれられて はいない。「小学校沿革誌編輯手続」をうたった訓令第13号には、「教授方法等、状況」も明 記することをうたっているが、この訓令の公布が1894(明治27)年1月11日付であるからで あろうか。それ以後ともに明記されていないので、詳細を知ることはできないが、「図書」の 項目だけは比較的毎年のように見えるので、教科目だけは一応理解できそうである。表1は 教科目に在籍数を対照して作成したものである。
年 度 明治19 在 籍 数 50人 教 員 数 2人 修 身 書
−教 育 書
−体 操 本
−読 本
−掛 図
−算 術 書
−習 字 帖
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■作 文 書
−歴 史 書
−地 理 書
−辞 書
−唱 歌 本
−22年度からは「読本」、
数である。
明治20 明治21 明治22 明治23 明治24 明治25 明治30
98 117 120 146 152 152 232
3 4 5 5 6 7 6
3冊 11 21 21 21 21 325
2 2 2 2 6 6 16
1 1 1 1 1 1 4
−
8 193 193 208 208 638
−
1 1 1 1 1 6
−
7 8 4 8 8 14
一 −
8 8 8 8 □
− − −
4 4 4 8
一 − − − − −
4
− ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ − 1 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ − −
3
− 一 − ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ − −
1
− − q ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ − − −
2
て、明治20〜21年度はすべて教師の指導用図書と考えられる。しかし
ついで30年度は「修身書」にも生徒用カヌ入っていることを感じさせる
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(3)その後の下地小学校
なお来間分教場設立後の下地小の校地・校舎・施設等にかかわる沿革概要はおよそつぎの
とおりである。
1897(明治30)年7月13日新築校舎落成ニツキ本日引移リタリ(字与那覇185、俗称大道)。
1899(明治32)年6月19日川満分教室新築落成シ開校式執行。
1902(明治35)年10月23日本校第1、2,3学年ノ半日ヲ解ケ第4学年ヲ与那覇村33番 地二仮教場ヲ設置スル件認可。10月27日本日より第4学年ヲ仮教場二移シ教授ス。
1905(明治38)年3月26日本郡間切会二齢テ当校新築費6000円支出ノ議確定ス。4月5 日当学区ノ安良城恵状外人民ヨリ当校新築費2400円の寄附アリ。4月1日入学式ヲ挙行ス。
本学年度ヨリ国定教科書採用。7月19日本日ヨリ向う4日間平良高等小学校二齢テ国定教科 書使用上二関スル講習会へ出席ノ為職員一同出発。5月1日卒業生40名二高等小学ノ教科 ヲ課ス。5月20日付ヲ以テ高等科併置並二学区変更ノ件認可セラル。6月9日洲鎌村字竹 新303番地へ校地ヲトシ仮教場新築工事ヲ始ム。6月17日第3、4学年、高等科第1学年川 満、嘉手苅ノ1,2学年竹新学校二移シ本日授業ヲ始ム。9月1日暴風雨ノ為メ竹新仮教 室2軒顛覆ス。2日竹新仮教室顛覆二付高等科二尋常科4学年トヲ与那覇校舎二移セリ。
10月11日曇キー顛覆セシ竹新校舎落成二付高等科並二尋常科4学年ヲ再ビ之二移セリ。11 月2日暴風ノ為メ顛覆セシ竹新仮校舎亦々倒ル。
1906(明治39)年8月28日竹新仮校舎二棟顛覆シ備品ノ損害甚ダ多シ・10月21日暴風 ノ為メ竹新仮校舎5棟顛覆。23日校舎ノ顛覆ノ結果児童ヲ左ノ通り配置シテ授業ス。高1 与 那 覇 村 尋 1 , 2 川 満 村 尋 2 上 地 村 尋 3 洲 鎌 村 尋 1 嘉 手 苅 村 。
1907(明治40)年9月18日学区内人民ハ学校新敷地二石垣ヲ築ク。
1908(明治41)年1月9日川満仮教室ヲ引揚ゲ本校二移ス。4月11日尋常科卒業生31 人第5学年二入学ス。第5、6学年並二第1学年ハ本日新校舎二移転ス。5月12日職員児 童ノ労力ニテ校内ニ小池ヲ掘り築山ヲ築ク。5月13日校内二井戸ヲ掘ル水量多ク泉質良好 ニシテ飲料二適ス。5月17日新築落成式及聖影奉遷式ヲ挙グ。
1911(明治44)年4月18日県令第25号ヲ以テ下地尋常高等小学校二改称ス。
1914(大正3)年6月2日暴風ノタメ第4教室顛覆第3校舎傾斜ノ度甚ダシタメニ御真 影ハ校長室二奉遷シ嘉手苅、洲鎌、上地、川満、与那覇ノ青年会場ヲ仮教室ニ充ツ。暴風ノ タメ破損セル器具器械数左ノ如シ◎児童用机95、腰掛95、黒板7、小黒板5、オルガン1、
踏台7、テーブル5、小テーブル3、椅子5、担当箱3、バケツ13、児童用水入15、寒暖計 1、水ガメ1、球竿11、旗竿3、黒板掛11、疾壷4.9月29日大暴風ノタメ教室3、御影 奉安殿共顛覆、教室ニアリシ机、腰掛其他全部破壊、校長住宅大破損。御影ハ校長室ノ内二 奉遷奉安ス。残リノ校舎坪数69坪75勺、東側13教室40度傾斜危険ニシテ教授ヲ得ズ。1,2,
3,4学年ハニ部授業ヲナス。
1917(大正6)年1月31日昨年5月17日着手ノ改築増築校舎175坪落成、工事費7525円也。
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4月27日職員児童一同石ヲ運搬シテ校地周辺ノ東方ト西方二石垣ヲ積ム。11月13日改築 増築校舎落成式並二秋季運動会ヲ挙行ス。
1921(大正10)年4月住宅ヲ改築シテ普通教室トナシ玄関ヲ前庭二移シテ職員室ノ模様 換ヲナス。5月村有地オホナト学校前方民有地ト交換シテ農業実習地トナス、同時二運動 場ノ拡張ヲナス。実習地ト洲鎌字有地ト交換シテ校地ノー部トナシ校地前方二幅4間ノ道路 ヲ通シ引続キ与那覇、上地、川満ノ学道ヲ変更シ通学ノ便ヲ図ル。6月小使室ヲ建設ス。
1925(大正14)年1月12日増築スベキ校舎ノ屋根瓦2万5千枚ヲ上地壺屋ヨリ第3、4 時限二齢テ全児童二運搬セシム。6月1日本日ヨリ新校舎全部ヲ使用シニ部教授ヲ解ク。
1929(昭和4)年11月5日下地校及新里校々舎改築工事請負入札、結果4万2300円ニテ 山口森清氏落札。
1930(昭和5)年10月30日午前10時ヨリ校舎落成式挙行。玉城(常和)県視学、山城(盛 貞)宮中校長、富永税務署長、各小学校長等多数参列。午後1時ヨリ高卒同窓会ヨリ寄贈セ ル校旗ノ樹竿式ヲ挙行シ引続キ記念運動会開催午後5時終ル。
1931(昭和6)年8月9日昨夜ヨリ暴風兆アリシガ午前9時頃ヨリ俄然猛烈ナル台風ト ナリ午後2時頃造二暴威ヲ振ヘリ。第二校舎(4教室)、第五校舎(4教室)、西ノ便所、小 使室及堆肥舎2棟倒壊。第四校舎、校長住宅ノ被害モ甚大。鉄筋校舎ノ窓(枠共)硝子障子
ノ被害甚大。職員室、校長室ノ窓破壊ノ為室内ノ備品及書類ノ破損、遺失等極メテ多シ・
1932(昭和7)年10月24日午後2時ヨリ下地、新里、来間3校復旧校舎落成式挙行、午 後3時閉会。立石(尚純)支庁長外10余名ノ来賓及200余名ノ村内有志参列、式後祝賀会アリ。
1941(昭和16)年4月1日下地国民学校トナル(尋常科は初等科と改称)。
1944(昭和19)年5月8日新校舎、振農塾、講堂側、兵舎ニアテラレ午後10時頃多数入 舎ス。5月9日本日ヨリ第一、第二、第三校舎二総テニ部授業ヲ実施ス。5月11日第三 校舎部隊倉庫及医務室二使用サル。授業ハ教室内二齢テニ部授業ヲ行上、一部ハ林間授業ヲ
ナス。教室卜林間トハー週間交替トス。
1945(昭和20)年3月23日から連日のような空爆つづきで校舎は破壊され、また残存施設 は軍に持ち去られるなどで、5月5日「下地国民学校仮事務所ヲ字与那覇164友利完一宅二設 置ス」とある。授業は思うにまかせず、ようやく「空婁低調」となった6月30日以降部落別
に分散、再開している。
3.来間小学校の創立と沿革
来間小学校沿革誌は表題の下に「大正八年調整」と記している。同年下地尋常小学校の分 教場から独立、来間尋常小学校として正式にスタートしたことによる沿革誌の整備であろう。
但し沿革内容は独立した年からではなく、分教場として設置された明治28(1895)年から書
き起こされている。中央に「宮古郡小学校」と印刷されたB4判二つ折りのタテ罫紙の上段
ほぼ四分の一に横線を入れて、「年月日」とし、下段四分の三を「事項」と記してそれぞれ年
月日順に書きつぐようになっている。ついでにふれると先の下地小沿革誌の用紙は「宮古島
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小学校」で、「宮古郡」と変わるのは明治34(1901)年度記入からである。来間小沿革誌の冒 頭はつぎのとおりである。
明治28年7月1日下地尋常小学校ノ分教場トシテ設置 校 長 代 理 糸 数 昌 保
担 任 准 訓 導 下 地 恵 祥 入 学 児 童 男 7 人 校 舎 2 間 角 ノ 掘 立 小 屋
当時人民ハ学問ノ何タルヲ問ワズ剰サヘ頑固ナ役人ハ表面入学出席ヲ勧誘セシモ裏面ニ ハ却ツテ之ヲ厭フノ言行アリシカバ無智ナル人民力喜ンデ入学出席セシムル筈ニアラズ校 長教師ノ苦心知ルベキナリ
「入学児童男7人」のところに「(2年生)全員37人」、「校舎」には欄外に「2,5間、3 間7坪半」の書き込みが入っている。沿革誌起筆時の書き込みというより、後日の追記と 思われる。当時尋常科は一応4年制ではあるが、設立されたばかりの分教場に4年生まで全 学年そろっていたとは考えられない。仮りに在籍していたと仮定して、あえて2年生のみ表 示する理由は何であろうか。その後とも十数年にわたって新入男児童は10人内外であり、1
〜4年生の学令男児は37人で、うち7人が実際に入学したというべきなのであろうか。また 校舎の方の7坪半は、沿革誌整備後ともに開校当初の状況を知る教師なり、成人した生徒な りの記憶で追記したのであろうか。訂正でなく書き込みのかたちをとったのも直接の当事者 でないゆえ後証を待つ意味があったのかもしれない。
さらに分教場設置年月日にしても肝心の本校である下地小沿革誌とは異なった記述になっ ている。下地小のそれには、明治28年沿革のくだりに「(分教室設置)9月12日来間島二仮教 室ヲ設置シ生徒26人ヲ入学セシメタリ」とある。名称の一定しないのはさておくとしても、
月日といい、入学生徒数といい、来間小との違いをどうみたらいいのであろうか。生徒数に ついては下地の26人は男女合わせての就学年令児童数、分教場は実際に入学した数と考えら れなくもない。また「校長代理」とは本校在勤職のことであろう。
ともあれ戦前期来間における公教育のあゆみについて、沿革大要と校舎施設等の推移、学 校を訪問した人びと、学校行事、児童生徒数の推移、職員の動向等の順でみていきたい。
(1)沿革大要と校舎施設等の推移
1895(明治28)年7月、分教場設立時の敷地は下地間切来間村1番地である。現在も字来 間1番地であるが、ここは近世以来の来間村番所の所在地でもある。分教場開設当時は所謂 旧慣温存期、旧藩以来の蔵元と沖縄県宮古島役所が並立しているころであり、村番所自体も 機能しているわけで、番所転用もならず敷地内に7坪半の茅葺き教室を建てたのであろう。
翌1895(明29)年2月には「学校記念木植林」と記されている。1903(明治36)年12月14日
「分教場改築落成ス。3問、5間、15坪」とある。さらに1911(明治44)年11月26日「校舎
新築工事着手」とある。翌年5月17日職員・生徒の参列で落成式を挙行している(下地小沿
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革誌)。欄外に「校舎ハ間口7間、奥行5間、35坪、教室25坪、住宅15坪」と記されている。
生徒も次第にふえ、職員住宅も設置されたことを物語っていよう。職員住宅とは当時の風潮 としては校長住宅であろう。
大正8(1919)年4月1日下地尋常高等小学校から独立、来間尋常小学校となった。翌9 年12月2日には「本校舎並に校長住宅工事着手」とあって、さらに次のようにつづけている。
「同月19日落成。本校舎ハ昨年4月村会ノ際区長保良正雄ノ奮起ニヨリ当字ヨリー千円ノ寄 附ヲナスコトニ願出デタルニヨリ村会ハ坪当80円ノ経費ニテ可決セシニヨル実二全ク保良 区長ノ尽力ニヨレルモノナリ尚ホ同氏工事監督ニモ甚ダ熱心ナリキ」。日数にしてわずかに 13日間、このときも茅葺きであったろうか。
翌10(1921)年4月1日高等科が併置されている。それ以前高等科へ進むものは海を越え て上地や洲鎌に下宿して下地小に通っていただけに、物心両面父母の負担は軽くなり、大い にプラスしたといわれている。その上、初等科を卒えた大方が高等科へ進めるようになった という。
同年9月には実業補習学校も併置されている。実業補習学校は明治26(1893)年実業補習 学校規程によって制度化され、同32年、実業学校令によって実業学校の1種となった。この ころ各学校に附設、さらに大正15年青年訓練所を附設、翌昭和2年9月には両校を合併、昭 和10(1935)年青年学校へと発展させられた。高等科を卒えた若もの(勤労青年)を国家の
ために錬成する機関である。
大正13(1924)年4月20日「校舎ノ北方二教材園ヲ設置シ植物種子百種バカリヲ播種ス」
とある。何の種子かは不明だが、情操教育の一環としての草花栽培であろうか。さらに5月 20日には当校ノ農業実習地トシテ字有原野壱段3畝歩ヲ(南北13間、東西30H)測量分割セ シム」とある。しかし同年12月5日「校舎西方ノ菜園凡ソ80坪ヲ運動場二変更シ職員児童一
同地均シニ従事ス」ともでている。
大正14(1925)年は新学期早々から諸帳簿、備品整理などに繁忙をきわめている様がうか がえる。次のとおりである。4月1〜2日職員一同ニテ当校ニアルダケノ備品ノ調査整理 ヲナシ新二備品台帳ヲ作成ス。3日職員一同ニテ大正8年以降ノ公文書類甲号乙号ヲ調査 分類シテ11綴トナシ表簿目録二記載ス。6〜8日放課後ヨリ職員一同ニテ地図掛図ノ大修 繕ヲナス、裏打ニハ仙花紙ヲ用フ。24日西方運動場二職員児童総掛ニテ土俵場ヲ造ル。29
日住宅ノ前方二学校園ヲ設置シ職員児童作業二従事ス。
同年内にはさらに次のような記載がでている。5月24日校規制定成ル、コレハコレマデ 度々職員会二齢テ決議シタル事項ヲ分類網羅シタルモノナリ。8月30日便所兼堆肥舎屋根 ノ葺替ヲナス。1.茅、萱、縄…字ヨリ寄附、2.葺手並二人夫…字ヨリ寄附。10月16日当校々 舎並二住宅ノ修繕本日終了ス、修繕費90円50銭。12月24日西方土俵場ノ南側二機械体操場
ヲ設置ス。1.金棒2本代金拾円也、2.柱ハ記念木敷地ヨリ伐採セシム、3.大工3人ニテ1日 間ニエ事終了コレハ字ヨリ労働寄附。
大正15(1926)年1月27日は「本日校門ノロ積ヲナシ替へ石材ノ門柱ヲ樹テシム、1.門柱
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代金25円也(コレハ校費ヨリ支出)、2.セメント代金2円也(コレハ児童ノ農場実習ヨリ得ダ ル金ナリ)、3.石材運搬ハ30人ニテー曰カカリタリ、コレハ字青年団ノ労働寄附右工事二関 シ区長来間武佐氏外字役員一同ノ彼是ト援助ヲナシタルコトヲ感謝ス」とある。
同年10月15日児童はもとより住民の唯一の水源である来間井の水質検査の結果が「其ノ筋 ヨリ通牒」されているが、色、臭、味など12項目にのぼる検査結果は「丁」と下されている。
「追而決定甲乙ハ飲料二適スルモ丙丁ハ飲料二適セザルヲ以テ他二適当ノ措置ヲ講ゼヨト ノコト」と記している。しかし他に水源はなく、学校はもとより字も村も対応に苦慮したこ とであろう。
昭和2(1927)年8月30日「校舎、住宅ノ肋木8本ノ入替ヲナス字民寄附」とある。
昭和3(1928)年5月23日〜8月31日「校舎南軒下ニガジマルヲ植付ク」で、すべて「青 年団寄附」となっている。その間、8月1日には「便所、堆肥小屋西方二移管ス1.茅グス キ大工ソノ他労力青年団寄附2.セメント大樽2個校費ヨリ3.石工賃10円ソノ他慰労上長 田校長寄附4.砂、小石処女団寄附」と、男女青年団の奉仕活動が明記されている。11月30 日は「補習学校生徒花園二蘇鉄6本ヲ植付ク」、ついで12月11日「校舎ヲ西方二増築シ古校舎 フキカヘ全部落成ス。本工事ハ本年2月ノ村会二齢テ当学区出身議員砂川玄徳氏ノ尽力ニヨ リ修繕費トシテ400円ノ補助ヲ受ケソノ他全部区内ノ寄附ニヨリテ古校舎フキカヘ並二12坪 増築ヲ見タルモノナリ。当時ノ字役員ノ大ナル努力殊二区長来間忠一氏ノ犠牲ハ特筆大書ス
ベキナリ」とある。
昭和4(1929)年3月20日は「高等科卒業生校地ノ南二松苗ヲ記念木トシテ植エ、ナヲ校 舎前中央二高サ1丈余ノ松木ヲ農場ヨリ移植ス」とある。6月13日「御大典記念水タンク完 成。ソモコノタンクハ昨年11月御大典記念トシテ学区民ヨリ学校へ寄附スベク字会二齢テ可 決シタルモ字ノ経済難ト字二膝テ村会議員選挙后、感情問題ト学区民ノ余リニタンクノ必要 ヲ感ゼザルトノ三ノ事情ニヨリ実現難トナリタルモ当時区長来間忠一氏ト校長トノ苦心ニヨ リヤウヤウ平良ノ或篤志家ノ寄附(セメント5丁鉄キン等約50円分)ヲ得、バラス、砂ハ処 女、青年ノ労力ニヨリソノ他ノ労力ハ青年、他ハ字内ヨリノ寄附ニヨリ合計80円余ニテ完成 ヲ見タルモノナリ」と記し、さらに欄外に「篤志家トハ砂糖委託業下地寛三氏ナリ」と追記 している。いつの時代にも選挙がらみとなると、子弟の教育問題さえも困難な事態に陥って いたようだ。7月2日「文庫拡張ノタメ左記ノ寄附ニヨリ左記ノ本を購入ス1.昨年運動会 寄附余り6円50銭他ハ児童拠出金2.児童文庫第一期〜第5期マデ」とある。来間小にす でに児童文庫が開設されていること、運動会に寄附をよせる慣例が生まれていることを示す
ものであろう。
この年は台風で校舎等の被害大きく、その修繕等が詳細に記されているが、併せてすでに
幾度もみてきたように、校長らの苦心、努力をしきりに賞賛している。7月18日「暴風ノタ
メ便所倒壊、其他校舎、住宅破損ス」、9月12日「昨年増築シタル新校舎ノ天井、ハリ並びに
雨戸、平戸、窓ガラス戸新調及旧校舎雨戸平戸ガラス戸ノ修繕、窓其他ノ新調其他模様替
修繕完成ス」、26日「住宅移転完成ス、便所改築落成ス。右ノ三大事業(校舎修繕、住宅便所
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改築)ハ去ル2月ノ村会二齢テ校長並ビニ砂川玄徳、保良正雄両議員ノ努力ニヨリヤウヤウ 300円余ノ経費支払スルコトトナリタルモ其后暴風ノタメ便所其他破損シタル為メ尚100円ヲ 増額セシメ、合計400円余ノ経費ト学区民ノ労力寄附ニヨリ事業ノ完成ヲ見タルモノナリ当 時校長ノ苦心一方ナラザリキ」。
12月2日には「学区民寄附ニヨリ蓄音機ヲ買う」とある。子どもたちの教育のために地域 が貧しいなかにも物心両面様ざまな努力を払っていたことがうかがえる。
昭和6(1931)年は、5月11日「村費25円ニテタンクノ修繕ヲナス」、20日「機械棒ノ建設 経費53円也、楠原市二、上地得之、赤瀬愛三郎ノ三氏ヨリ30円寄附、残額23円ハ字内ノ寄附 二依ル」ときて、8月9日「大暴風ノタメ校舎住宅便所全壊ス」とある。このときの台風は 古今未曾有といわれ、全宮古で死者5人、行方不明15人、家屋の全壊9064、半壊3754、学校 の倒壊24校、その他農林、畜産、船舶の被害著しく、当時の金額にして被害約100万円といわ れている。これを機に宮古に測候所の開設をとの声が大きく高まっていった。
来間小沿革誌は台風災害復旧状況について次のように伝えている。9月3日「仮校舎建設 学区内ノ労力寄附二依ル」、昭和7(1932)年5月10日「校舎敷地測量ノタメ小場、源治外3 人ノ大工来校」、23日「校長住宅建築二着手」、25日「校舎ノ穴ヲ掘り始ム」、6月10日「大雨 ノタメ授業出来ズ休業ス」、13日「住宅ノ屋根ヲ葺ク」、7月13日「本日ヨリ校舎ノ鉄筋ヲ建 ツ14日終了」、8月1日「暴風雨男教員仮校舎ノ警戒ヲナス」、9日「暴風雨記念日式挙行」、
14日「全校児童バラスノ運搬ヲナス」、15日「校舎棟上完了」、22日「職員児童バラスノ運搬、
校舎ノコンクリート終了」、29日「校舎屋根葺開始」、9月5日「全員バラス運搬ヲナス」、7 日「右同上」、8日「校舎ノ屋根葺終了」、13日「学校便所本日屋根葺終了」、28日「机腰掛新 調本日学校へ到着ス」、10月6日「学校工事本日完了」、11日「本日ヨリ新校舎二入ル」、欄外 に「鉄筋落成」と記し、24日「下地校二紗テ下地村三校(下地、来間、新里)落成式ヲ挙行 ス」とあって、11月20日「校舎落成祝賀会」を催している。その間、10月27日には「運動場 拡張ヲナス、福木ノ東道路ヲナクシ東隣ヲ運動場二編入ス、学区内寄附」とある。
昭和9(1934)年3月2日「新農場ノ整理ヲ男女青年団デナス」とある。
昭和10(1935)年5月3日「青年団員全部農場整理奉仕作業ヲナス」、さらに6月27日「青年 団員学校ノ周囲二樹木ヲ植栽ス、椿樹各組5本宛」作業している。11月30日「貯水タンク修理村 費30円砂バラス児童ノ奉仕作業」がされている。ついで12月8日「男女青年団員左記奉仕作業
ヲナス。1.小学校敷地周囲ノ石垣整理、蘇鉄植付2.玄関両側ノ蘇鉄植付」をしている。
昭和11(1936)年4月20日「堆肥舎新築落成坪数10坪。老人会屋根葺壮年青年カヤ、
マ マ
ススキ村寄附ダル木50本、円本3本其ノ他ノ費用約50円農場収入其ノ他ヨリ捻出ス」、つ いで5月11日「校地周囲阿旦、サニン、バンシロー、竹ヲ植樹ス」、12月30日「学校風呂場竣 工ス」とある。
昭和12(1937)年9月20日「遠見台二通ズル道路ヲ改修ス(高学年及男女青年団員)」、10 月26日は「男女青年及上級児童運動場ノ地均作業」をしている。
昭和13(1938)年3月12日「学校備品トシテ双眼鏡購入着荷ス」当時来間〜前浜間の渡し
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船は来間側のみにあって、前浜で火をたいたり、木の枝を並べたり合図するのを確認して船 を出したという。双眼鏡は理科備品であるばかりでなく、来間〜前浜間の人の往来にも重要 な備品であったろう。5月10日「学校掲示板竣工ス」、15日「職員室戸棚取付工事終了(6日 間)」、10月31日「仲宗根耕一ノ家敷ヲ学校敷地二合併」、11月2日「上地松金ノ屋敷同右」、
16日「前記=屋敷ヲ校地トシテ地均シ作業ヲナス」、21日「御大典記念タンクヲ移動セシム」
とつづいている。
昭和14(1939)年2月24日「学校タンクエ事着手職工上地長造」、3月3日「学校タンク エ事本日終了」とある。6月3日「学校住宅移転作業開始」している。9月27日には「植林 講演、来問学報創刊」とあるのみで、いずれも内容は定かでない。学報とは学校新聞のこと であろうか。11月15日「来年度ヨリ中等学校入学試験ハ撤廃シ学校長ノ内申、口頭試問、身 体検査ニヨリ採用スベク決定セルヲ児童二告示ス」とあるのは、日華事変の長期化にともな
う措置であろう。
中等学校への入学試験ばかりでなく、昭和15(1940)年からは各面にわたって大きな変化 が生じてくる。2月2日「学校堆肥舎屋根葺ヲナス、学区民労力寄附」、創立以来このような 学校施設等にかかわる作業の大方が学区民の寄附と奉仕によってなされてきたが、3月7日 には今さらのように「学校後援会組織ノ件字集会ニテ可決会則ノ主要部分『会ヒハ児童 一人10銭宛トシ児童二人以上ハー人ヲ増ス毎二5銭増スモノトス』」である。学区挙げて財政 面から継続的に公教育を後援していく体制の整備は、行政当局の指導であろうか。20日「昭 和15年度国定教科書前期分需要冊数ノ代金ヲ徴収ス。即チ例年ハ大野書店ヨリ個人自由購入 セルヲ本年度ハ各学級ノ需要冊数ヲ取纒メ代金ハ大野二通知シ教科書ハ各学級受持チニテ児 童二配給スルコトナレリ」と変わる。さらに4月28日「本年度ヨリ小学校教員俸給ハ全額国 庫支辨トナリ4月分俸給本日受領」とつづく。この時期きわめて珍しい記述もある。6月15
日「職員4名ヲ左記ノ通り各組ヲ分担シ大鼓購入寄附募集開始。第一組国仲、第二組具志堅、
第三組仲田、第四組長間」、ついで28日には那覇出張中の下地校長並びに国仲訓導が「本日帰 校、学校大鼓購入持参ス(17円也)」とある。7月2日「児童用シーソーヲ作ル」、21日「推 定風速24.5米ノ暴風雨学校堆肥舎倒壊ス」、8月3日「本日ヨリ国民学校講習会ハ三週間ノ 予定ヲ以テ開講。下地校長、国仲訓導受講ス」、15日「国民学校講習本日終了」となる。昭和 16学年度から学制が改革され、従来の尋常高等小学校が国民学校と変わることに備えての講 習であり、受講者はそれぞれ校内研修を通じて伝達講習をしている。さきに台風で倒壊した 堆肥舎は、10月23日「組立工事着手、吉丸大工」とある。11月29〜30日は平一小で「国民学 校研究会列席ノタメ左記ニヨリ出平。理数科下地校長、国民科仲田訓導、芸能科国仲訓導、
体錬科具志堅教員」が参加している。「皇国民の錬成」を教育目的に、来るべき米英との決戦 に備えての学制改革であったが、当時学校現場はもとより一般国民の知り得ようはずもない、
超国家主義、軍国主義一色へのすべりだしであった。
昭和16(1941)年1月7日「本日午前9時頃ヨリ相当ノ降雨アリ、五年以上ノ児童ヲ国仲、
仲田両訓導指揮ノ下二字ノ用水池ヘノ水路ヲ開通シテ多量ノ用水ヲ溜メ得タリ。作業中豪雨
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ニヅブ濡レニテ、二時間作業ヲ決行ス、字民大イニ感謝セリ。コノ作業二率先シテ参加シタ ル狩俣太郎君、砂川芳江君、篤行ハ甚ダ賞スヘシ」、15日は「五年以上ノ児童及男女青年学校 作業、去ル1月7日排水ノ為二破壊シタル道路二暗渠ヲ掛ケル」、2月4日「具志堅三郎、下 地金吉二名学校堆肥舎壁ノ組立奉仕作業ヲナス、高等科男児ハコレニ助勢ス、午後5時終了」、
17日「平一校二齢テ国民学校初等科教育研究会アリ、下地校長一理数科、仲田訓導一国民科、
具志堅教員一体錬科、国仲訓導一芸能科、研究ニソレゾレ出席ス」、18日「全校児童薪取り作 業」、3月1日「下地校長、沖縄師範附属ノ国民学校研究会列席ノタメ出覇」し、14日帰校し ている。4月7日昭和16年度入学式を挙行、同日の項に「本年度ヨリ全国小学校ヲ国民学校 ト改称ス」とある。尋常科は初等科と改称されている。6月10日「教授研究会指導者新里 仁 一 高 等 科 国 史 」 と あ る 。
この夏6月19日〜8月19日までの2か月、来間は旱ばつに見舞われていた。8月17日「伊 江孫清主任、来間島食料調査ノタメ来島。一坪当り7斤半、腐敗セルモノ7斤、食用二供セ ラルルモノ半斤二吃驚ス甘藷ノ自給自足ハ当分見込ナシ」、ついで9月2日「農場芋ヲ収穫 ス総斤数400余斤、10斤40銭にテテ字民二配給ス(長期干害ノ為来間ハ食料不足ヲ来シ目下 他字ヨリドシドシ購入シテ補給シ居しり)」、翌3日「下地村各改良組合ヨリ来間ノ食料補給 二充当スベク寄附シタル芋第一回分1500斤本日着荷各戸15斤宛配給ス」、11月17日「父兄狩 俣太郎牡山羊(時価約7円)ヲ学校へ寄附ス」とつづいている。
昭和17(1942)年1月12日「紙芝居舞台到着ス」、19日「学校オルガン山葉6号品本日学校 着荷。客年3月注文書発送以来実二11ケ月目也。一昨年8月ベピーオルガン破損以来音楽教 育ノ不備不紗、役場補助100円、学区内寄附250円、オルガン代金234円65銭、雑費約20円、計 255円位」、3月13日「指揮台到着、代価25円也」、8月1日「甘藷250斤収穫、売却澱粉製造 ヲナス」、9月23日「ラヂオ平良ヨリ運搬シ来ル、早速下地校長、山城訓導二人で据付ヲナス。
調節器ヲ当テタ時ハッキリ聞エルラヂオノ第一声二快哉ヲ叫ブ、夜ハ学区民多数来校シテ音 楽ナリ、ニュースナリヲ聴取ス」。沖縄放送局がラジオ放送を開始したのは同年3月19日から であり、5か月後来間島でも聴取したことになる。10月10日「来年度新入スベキ児童ヲ召集 シ普通語励行奨励ヲナス」とある。所謂「標準語励行」なるものは初出、ついで20日「新里 校(国語、標準語)研究会と、下地校長外全職員出席」のかたちで以後継続されるようにな る。12月31日「三種ノ神器ノ模様ヲ配シダ紋アル美麗ナル校旗及其ノ附属品到着、代価左ノ 如シ。校旗代一金98円06銭、オルガン代残額一金89円89銭也。不足額一金8円17銭也、不足 額ハ学校後援会費中ヨリ支出。紀元二千六百年記念事業ノーツトシテ校旗並ニオルガン(学 区民一同)ヲ寄附シ、オルガンハ先二到着セリ」とある。
明けて昭和18(1943)年1月1日「新年祝賀式挙行、校旗樹立式挙行及祝賀会ヲ開催、敬
老会開催」とつづいている。31日「教職員研究物(5名分)本日提出」とあって、つぎのよ
うにつづけている。「下地校長、南蛮貿易最古ノ記録密牙古人、川満教頭農村教育、具志堅
訓導標準語励行状況、下地ヨシ沖縄県婦人ノ曰本人的自覚」。宮古人の南方貿易最古の記録
研究も、「南進政策」に呼応する性質のものであったのであろうか。2月13日「少年団報国農
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場開墾」、ついで3月3日「村長、助役、工場長、其ノ他役場吏員、村会議員合シテ30名、当 校視察ノ為来校。下地校長「宮古人頭税撤廃ノ恩人」(近衛公、大隈公、其ノ他)二就イテ研 究ヲ発表ス。視察ノ好評次ノ如シ」と記している。「村長=学区ノ礼儀作法、備品消耗品ノ整 理、農道至ツテ良好ナリ。下地利寛議員=第一清掃運動徹底セリ、礼儀作法ヨシ、校長、職 員ノ熱誠ノ賜物、学校備品ノ整理良好、机腰掛二傷ナシ。下地義雄議員=図書、掛図整然タ
リ、教室内ニモ児童ノ教育参考資料多ク教師ノ努力熱誠、歴然タリ、校舎窓ガラスノ破損少 ナシ、児童ノ賎、礼儀作法良好、復命復習ノ児童アルハ感心ナリ。垣花義次議員=学校ハ外 観ヲヨク内面ハ押シテ知ルベク至ツテ良好ナリ。農道良好、荒地、ハケ地ノ利用工夫スベキ ナリ、将来漁業二発展スベキモノナリ」。24日挙行の昭和17学年度修業式並に卒業式では「中 等学校入学者賞」とともに「標準語励行賞」「貯蓄励行賞」も授与されている。12月9日には 字来間は「標準語礼法優良部落トシテ表彰式アリ。大舛支庁長、新城警察署長、当銘(由金)
県視学、其ノ他来島」しての表彰式である。
昭和19(1944)年10月11日「本校兵舎トナリテ教育十分ナラザリシ」とあり、翌20(1945) 年11月28日(本来間島守備隊隊長以下120名引揚」と記されていることで当時の状況がうか がえる。11月2日「教育勅語、戊申詔書、教育者二賜りダル御勅語(二)青少年学徒二賜り ダル御勅語ヲ野原越御奉遷所へ奉遷」している。下地小沿革誌によると、10月12日から「御 真影」勅語等を米軍の爆撃から守るために野原越に奉遷所を造営することになり、男教員1 人2日間宛奉仕作業、「3名、3名、2名」の3回参加している。ついで11月2日奉遷したあ
とは、「全郡男教員輪番ニテ護衛当直」している。
昭和20(1945)年4月2日「敵機来雲機銃掃射ニヨリ負傷者2名、焼失家屋2軒ヲ出ス」、
5日「機銃掃射ノタメ消失家屋2軒ヲ出ス」、6月7日「学校ヲ中心トシテロケット弾6発投 降サル。国仲照子氏、奥平清光氏宅少々被害アリ、其ノ他異常ナシ」、7月23日「防衛隊演習 中事故アリ。投射機ノ自爆ニ依り死亡者2人ヲ出ス、死亡者砂川芳江、高原秀雄」と、米軍 爆撃と演習事故が記録されている。砂川芳江は「義士会」で神崎与五郎役を演じたり、率先 労働奉仕したり、家族ぐるみ「標準語励行賞」を受賞、また、子どもたちからは「ジョウキ チ(常吉:旧名)オジサン」と、親しまれるなど、多くの人びとから敬愛されていたが、来 間島に守備隊が来て防衛隊に召集され、守備隊の命令でさせられた試作実験の事故で、あた
ら命を失ったのである。
(2)学校を訪問した人びと
沿革誌には様々な階層の人びとが学校訪問していることを克明に記している。上は県知事 や県視学、支庁長から、下は他校の校長、村役場の職員に至るまで実に多彩である。訪問の 目的は必ずしも鮮明に記されているわけではないが、永久保存の性質をもつ沿革誌に登載す るには、それなりの理由、重要性を認めていたのであろう。
来問小沿革誌は分教場時代は職員の動向中心に記されているため、訪問者名は余り見当ら
ないが、それでも明治44(1911)年10月10日に「平良ノ校長立津春方学校参観トシテ来校」
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とある。立津は宮古出身初の東京高等師範学校出身で、長年県(郡)外の中等学校で教鞭を とり、この年の春、県当局の強っての要請で平良尋常高等小学校長として帰県したばかりで ある。事実上の宮古駐在県視学のような存在で、宮古島司橋口軍六の相談役でもあったと伝 えられている。機会あるごとに馬で宮古中をめぐり、学校訪問、あるいは教職員の下宿先を たずねて指導助言に当ったという。分教場訪問は伝えられるその種の行動の一環であったろ うか。
大正6(1917)年3月24日卒業・修業式には「島司山内権次郎授与式御臨席」とある。前 日23日の本校下地小の卒業・修業式には、来賓としては島庁視学饒平名長陣らが出席してい ることからみれば、島司の出席は分教場ひいては離島重視ということになろうか。翌7年10 月1日には「島司高橋彦七、譽察署長渡辺省一学校視察トシテ来校セラル」とある。高橋島 司は同年6月赴任したばかりで、6月25日には下地小を視察「職員ハ国家ノ期待二副フベク 児童ヲ教育スルコト、児童ハ立派ナ人ニナル為メ礼儀ヲ正シクシ大二勉強スルコト」と「訓 示」している。
大正8(1919)年4月1日独立を祝う記念式典は、4月25日「当校内創立開校式挙行」と 記し、つづけて「島司松方太次郎、視学饒平名長陣、各校長、村内有志区長議員参列セラル」
とある。松方島司、饒平名視学らは前日は下地小を視察しており、来間へ渡るために当夜は 下地で、あるいは渡島して来間で一泊した上での出席であろう。初代校長には分教場詰訓導・
勝連盛誠が任命されているが、翌9年3月29日付で病気退職している。同年10月6日「郡視 学当山正堅氏並二下地村長奥平恵勝ノー氏授業参観、一泊」とある。同日「青年夜学発会式 挙行」とあり、当山視学らの来間訪問はこれへの出席も兼ねていたのであろうか。
大正11(1922)年2月17日「川俣島司、当山視学並二下地村長ノ視察アリタリ」とある。
その後学校訪問の記述はされず、大正15(1926)年2月22日「喜屋武(清栄)視学ノ視察ア リタリ」とでてくる。
昭和2(1927)年7月14日「県視学池村恒章氏の視察アリ」と視学視察が間歌的に記され ている。昭和4(1929)年12月20日にも「池村視学、平良(英一)宮中教諭、体操査閲ノタ メ来校」している。昭和6年3月9日「県視学玉城常和、宮中教諭平良英一ノ両氏体操査閲 ノタメ来校」し、10日「全校児童ノ体操査閲ヲナス」、11日「玉城視学ノ視察談アリ」と記し ている。3日間にわたって来間に滞在、査閲にあたっている。
昭和7(1932)年5月28日「西原(雅一)校医児童身体検査ヲ行う」とある。身体検査は 以前から実施されていたのであろうが、沿革誌にはこれが初出である。
5月15日「恩賜医療診療班来校」、6月2日「児童生徒職員身体検査挙行、西原校医来校」、
13日「定期種痘接種ヲナス西原村医、友利上席」、19日「検診ノタメ山口房真巡査、国仲昌道 書記来校」とつづいている。巡査の立会う検診とはどのようなものであろうか。
昭和9(1934)年5月12日「学務部長堀池英一来郡精神作興大会」とあり、開催地は来
間なのか、他地域なのか定かではないが、下地小沿革誌は同日に「午後6時堀池本県学務部
長、立石(尚純)支庁長、平良(彦一)視学視察セリ」とある。来間の帰途、下地小へ立ち
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寄ったと見られなくもない。
昭和10(1935)年9月1日「明知(延佳)支庁長外数名視察来校」とある。明知支庁長は 同年5月熊本県へ転出した立石支庁長の後任として三重県から赴任している。
昭和11(1936)年5月25日「視学委員女師校長川平朝令、宮中校長山城盛貞、視学与那国 善三視察ノタメ来校」し、6月3日「字上地女子青年団員50名字視察ノタメ来校ス」、さら に20日「宮国男女青年団員本字視察のダメ来校」とつづいている。
昭和12(1937)年3月10日「陸軍記念日平二校高一男50名金城勇訓導引率来校」し、さ らに15日「佐良浜高一、尋四児童80名平良校長、島尻訓導、当間訓導引率来校」している。
5月17日には「新里校職員13名来遊ス」とある。このころの職員は校長ふくめて5人であり、
相次ぐ訪問者への対応は大変なものであったろう。11月26日も「沖縄県立農林学校長近藤時 太郎氏来間青年学校視察ノタメ来校ス」である。
昭和13(1938)年2月28日「下地村会議員7名役場吏員2名学校備品調査ノ為来校ス」
この種の調査団の大挙訪問の沿革誌記載は初出である。4月30日「児童身体検査ヲナス」と あるが、校医名等は明記されていない。24日「農林省技師林義三氏外4名燐砿調査ノ為来校」、
ついで6月21日「国民精神文化研究所員河村只雄博士来訪」とある。
昭和14(1939)年2月1日「宮古職業紹介所長薮井千松氏外一人来校講演アリ」で対象等 については明記されていない。5月9日「児童身体検査(中村校医来校)」、ついで6月20日、
21日にも「身体検査児童職員」とつづいている。10月12日「八重山農林学校長島袋俊一氏 来校シ男女青年婦人会並二高等児童二講演ヲナス、午後ヨリ婦人会ヲ行う」とある。
昭和15(1940)年12月13日「来年3月ノ小学校卒業児童二対シ職業指導ノ為宮古職業紹介 所、勝連主事外来校ス」というのもある◎
昭和16(1941)年4月10日「恩賜医療班来校。新任宮古譽察署長内間棋明氏及宮古朝日記 者下地邦利来校」とある。警察署長の離島校への就任挨拶は時節柄であろうが、新聞記者の 同行は初出、先例があるのだろうか。9月10日「巡回診療班来校ス。視学嘉数正助氏、嵩原 社会教育主事モ同伴ス」と視学や社教主事同伴の診療もある。
昭和17(1942)年4月22日「堆肥原料状況調査員(洲鎌秀雄先生外1名)来校。堆肥総貫 数5679,19貫、児童1人平均84貫76匁、郡下第4位」、27日「恩師医療班一行来島(柴田医師 外8名)。児童、学区民ノ治療ヲナス。警察署長金城永三氏来島」している。
(3)学校行事
児童を中心とする学校行事は大正13(1924)年3月の修学旅行から書き始められている。
13日〜16日の4日間「尋5以上の児童ヲシテ平良、狩俣、西城方面二修学旅行ヲナサシム」
とある。交通機関のないころ、徒歩での3泊旅行であり、行く先ざきの学校で宿泊したので あろう。第二次大戦後のある時期までつづけられていた修学旅行の形態で、宿泊先の校区の 婦人会が児童持参の米を炊きだし、また寝具類を持ち寄ってくれたという。
同年4月18日には「左記3名県ヨリ派遣サレテ活動写真ヲ持チ来ル民力酒養主事嵩原久
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二社会教育主事徳元八一衛生課勤務仲村渠真吉島庁ヨリハ垣花恵和氏来校アリタリ」
とある。児童のみならず字民全体に「民力酒養」のため映写会を開いたのであろう。
大正14(1925)年の修学旅行は3月12日〜14日までの3日間「5年以上、児童39名ヲシテ 伊良部地方二修学旅行ヲナサシム」と前年度とは異なったコースをとることで宮古内での見 聞を広めさせている。
昭和4(1929)年1月8日「宮中昇格、体育協会創立記念大運動会二鯵テ当校女児A組二 等賞ヲ受ク。選手長間ツル、砂川カニメガ、国仲カメ、砂川ウメ」とある。県立宮古中学 校は設立期成会(盛島明長会長)を中心に郡民多年の懸案で、前年4月県立二中分校として 宮古支庁内で創立したばかり。1年後の4月から独立することになり、さらに宮古郡体協が 設立されたことを記念しての全郡的な運動会に離島の、しかも複式学級という小規模校の代 表が二等入賞したわけで、その歓びは学校はもとより、来間島を挙げてのものであったろう。
3月10日には「高l砂川玄公宮中合格ス」とある。設立2年めの宮古中学(定員50人)に 来間から初めて、二期生とし合格したものである。
昭和5(1930)年3月17日「5年以上ノ男女児35名城辺、西辺方面へ修学旅行ヲナス」と ある。期間は記してないが行き先からみて2泊の徒歩旅行であろう。
昭和7(1932)年5月11日「高等科生徒旅行伊良部出発国仲昌益引率13日無事帰校」
とある。高等科生のみの旅行は沿革誌では初出である。2泊3日間伊良部、佐良浜両校での 宿泊であろうか。7月11日には「夏季前後二鯵ケル施設水泳会始マル」とある。夏休みに入 る前に水泳教室が開かれているのも初出である。19日には水上運動会ヲ開キ水泳会ヲ終了ス」
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