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『宗教とジェンダーのポリティクス──フェミニスト人類学のまなざし──

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Academic year: 2022

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書評と紹介  『宗教研究』93巻2輯(2019年)

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欧米のフェミニストによる第三世界におけるフェミニズム言説の﹁周回遅れ﹂の流用など︑主体をめぐる議論の﹁ねじれた反転﹂が指摘される︒そして宗教伝統やファンダメンタリズムによって抑圧された女性の人権の問題を指摘された後︵七︱一三頁︑編者の立場から各執筆者の意図を汲んだ紹介がなされる︵一三︱一八頁︶︒なお本章の論述はかなり簡潔であるため︑同著者による﹃妻帯仏教の民族誌││ジェンダー宗教学からのアプローチ﹄︵人文書院︑二〇一二年︶の第一章﹁宗教とジェンダーの交差するところ﹂を丁寧に読む必要があろう︒

  第1章﹁フェミニスト人類学がまなざす女性と宗教﹂︵川橋範子︶において︑川橋はフェミニスト人類学のリサーチャーが女性を描く時のジレンマと可能性を考察する︒人類学が他文化との経験の共有・一体感を目指すのに対し︑フェミニズムが文化︑社会におけるジェンダーの不均衡︑抑圧︑不正義を批判し︑その改革を求める以上︑両者の要求は共存困難なように思われる︒だがフェミニズムの要求には︑女性の経験をフィールドワークに基づいて判断し説明する人類学の知も不可欠であろう︒そこに両者を結合した︑批判的な知の営みとしてのフェミニズム人類学の意義と可能性がある︵二六︱二九頁︶︒むろん︑他文化の女性の経験を語るために︑フェミニスト・エスノグラファーに求められることは﹁自らのテクストの権威を絶対化しない自己言及性や他者のまなざしへの応答責任﹂である︵三一頁︶︒川橋は︑この具体的な例をマカーシー・ブラウンによる﹃ママ・ロラ﹄を取り上げて説明し︑﹁フェミニスト・エスノグラファーにとっては︑自分がどのような立場から︑誰に向け 川橋範子・小松加代子編

﹃ 宗 教 と ジ ェ ン ダ ー の ポ リ テ ィ ク ス

││フェミニスト人類学のまなざし││

昭和堂  二〇一六年一一月刊四六判  二二三+ⅴ頁  二七〇〇円+税

矢  内  義  顕   本書は︑フェミニスト人類学のアプローチを用い︑ジェンダー研究に依拠した批判的視点を中心に据えて︑多様な文化︵日本︑エジプト︑ミャンマー︑中国︑インド︶の中の女性の宗教的実践を掘り起こし︑再構築する試みであり︵二頁︶︑編者二名に若手の宗教学者・文化人類学者を加え計七名の論考から成なる︒本書の﹁あとがき﹂︵小松加代子︶によると︑構想自体は二五年前に遡るが︑具体的には二〇一三年から一五年にかけて行われた研究会の積み重ねおよび日本宗教学会学術大会におけるパネルの成果が本書となる︒

  序章﹁宗教研究とジェンダー研究の交差点﹂︵川橋範子︶において︑川橋は︑宗教研究とジェンダー研究が二律背反すると見なされるが︑むしろ両者は交差し︑共存可能であり︑宗教研究にジェンダーの視点を導入することは︑ジェンダー平等の宗教の再構築につながると述べる︵四︱七頁︶︒さらに︑宗教における行為主体としての女性のあり方について︑例外的な女性をロマン化する危険︑またバーバラ・アンブロスなどの研究や

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める女性たちの主張との葛藤を描き︑行場の解放の問題解決に関して︑教団︵聖護院︶に対し︑ジェンダー視点に立った提言がなされる︵五九︱六四頁︶︒

  第3章﹁宗教言説を使う︑開く︱エジプトのムスリム女性とイスラーム﹂︵嶺崎寛子︶は︑イスラーム世界における︑宗教を参照軸とした︑女性の権利の確立・拡大のためのさまざまなレベルの運動の中から︑高学歴エリート女性による権利獲得︑政治参加を目指す運動と日常生活で宗教言説を用いるエジプトの女性たちを取り上げる︒前者に関して嶺崎は文献に依拠しながら︑イスラームを参照軸としてムスリム女性の権利のための社会変革を目指すNGOが多く設立されていること︑イスラーム法を参照軸とした家族法改正︑さらに﹁権利﹂概念自体の変容を例として挙げ︑こうしたアプローチの背景︑問題点を指摘する︵七一︱七六頁︶︒これに対し︑後者はエジプトにおいて宗教上の悩みに関して電話で回答︵ファトワー︶を提供するNPO﹁イスラーム電話﹂のフィールドワークの成果である︒著者は︑女性質問者︑ファトワアーを提供する男性ウラマー︑それを管理する女性スタッフによる品質管理部門の相互的関係を事例に即して記述し︑宗教的言説を工夫を凝らして使うエジプト女性たちを描き出し︑このイスラーム電話を︑宗教的言説が女性たちに開かれていく可能性をもつ重要な場・回路として位置づける︒︵七七︱九四頁︶︒

  第4章﹁宗教と民族の境界を護る︑越える︱民主化後のミャンマーにおける宗教対立と女性﹂︵飯國有佳子︶は︑民主化の進むミャンマーを取り上げる︒ここでは仏教徒とムスリムの大 て︑何のために語っているのか︑熟考することが求められる﹂と述べる︵三二︱三四頁︶︒この自己再帰性・自文化への再帰性を伴う作業は︑エスノグラファーとフィールドの女性たちとの関係性を未来へと開き︑終わることはない︵三七頁︶︒

  第2章以下の執筆者たちは︑この序章と第1章の内容を参照軸として︑各々のエスノグラフィーを執筆する︒上述のように第2章以下の各章の内容に関しては︑川橋による紹介がなされているが︑できるだけ重複を避けて︑評者なりの紹介を以下に述べることにしよう︒

  第2章﹁ロマン化されたイメージに抗う︱日本における霊山と女性行者﹂︵小林奈央子︶は︑日本における霊山とそこで修行する女性について︑ジェンダー視点の不在のゆえに生じるロマン化されたイメージに抗い︑女性行者が女性というジェンダーのゆえに直面する困難と彼女たちによる行場の獲得と活動の継続を︑著者自身が同行した木曽御嶽講と聖護院門跡の大峰奥駆修行を事例として明らかにする︒これに先立ち小林は︑霊山と女性に関する従来の民俗学と宗教学の先行研究におけるジェンダー視点の不在・軽視を概観し︑ジェンダー視点を﹁客観性・中立性を欠く﹂とする偏見を指摘した上で本題に入る︵四六︱五三頁︶︒まず﹁困難﹂に関して︑﹁女人禁制﹂が﹁穢れ﹂を理由とすることはなくなったが︑医学的・生理学的な根拠および﹁霊的なものに感じやすい﹂との理由で︑以前として制約が課せられている実態を明らかにする︵五三︱五八頁︶︒ついでこうした制約にもかかわらず︑地道な努力を積み重ね︑自らの修行の場を切り開いてきた女性行者の信心と新たな解放を求

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さらに病気の回復︑安産︑旅の安全等を祈願する非定期のターンを調査した事例をとおして明らかにし︵一四一︱一四八頁︶︑さらに女性たちをこうした儀礼参加の動因として﹁家族の成長や健康を見守り支えること﹂という道徳的責任を指摘する︒むろんこれは性差別の構造である︒しかし︑ここで磯部は︑フェミニスト哲学者エヴァ・キティの﹁依存労働﹂を導入し︑彼女たちの道徳的責任は﹁﹃誰かのおかあさんであれ﹄という社会的要請に答えたものと考えること﹂︵一五〇︱一五一頁︶の可能性を提案し︑そこに男性中心から女性中心の仏教儀礼・宗教実践への変革の可能性を見いだす︒

  第6章﹁信じること︑あてにすること︱インドにおける不妊女性の宗教実践の選択﹂︵松尾瑞穂︶は︑インド・マハーラーシュトラ州の中西部に位置するムルシ郡農村地域における調査に基づき︑プネー市のデータを補足的に用いて︑インド社会において不妊という﹁苦/苦悩﹂からの脱却を求める女性たちの行なう宗教的実践を論じる︒松尾は︑彼女たちの実践︵選択=賭け︶として︑民族神である女神サッティ・アスラへの信仰︑この女神が憑依する霊媒師の託宣に基づく儀礼の実践︑﹁アンマ︵母︶﹂と呼ばれるマーター・アムリターナンダマーイーや﹁グジャラートの母﹂と呼ばれる聖者の廟・寺院の参拝その恩寵を求めること︑断食︵というポリティクス︶の事例を報告し︑それら一つ一つを解説し分析する︵一六九︱一八五頁︶︒そして彼女たちが︑特定の宗教実践にこだわるのではなく︑複数の﹁規則︱信念﹂が併存・同時進行し作用しあう﹁複ゲーム状況﹂︵杉島敬志︶の中で主体的な選択を行なっていること︑ 規模な宗教衝突以降︑仏教保護を名目とする反ムスリム運動が展開する︒その中心となるのが﹁民族宗教保護協会﹂︵通称マバタ︶であり︑彼らは仏教徒女性と少数民族のための﹁民族宗教保護法﹂の草案を作成する︒これは大幅な修正を加えられた上で︑二〇一五年に﹁人口統制保健保護法﹂﹁宗教改宗法﹂﹁ミャンマー仏教徒女性婚姻特別法﹂﹁一夫一婦法﹂として連邦議会で承認︑成立する︒飯國は︑年齢︑民族︑教育水準の異なるミャンマー女性へのインタビューをとおし︑彼女たちがマバタ︑ムスリム女性︑民族保護法︵特に一夫一婦法︶に対してどのように関わる/関わらないという選択をしているかを明らかにした上で︵一〇九︱一二一頁︶︑︵本章で取り上げられた限りの︶事例では︑反ムスリム運動に対する女性仏教徒の関与について﹁﹃女性﹄というジェンダーを共有することによる共感よりも︑むしろ女性間の差異や分断が際立っていた﹂︵一二二頁︶と述べ︑最後に︑こうした状況にフェミニズムが関わることの重要性を述べる︵一二二︱一二三頁︶︒

  第5章﹁仏教儀礼を支える︑変える︱中国シーサンパンナのタイ族女性と上座仏教﹂︵磯部美里︶は︑中国雲南省の最南端の地域に位置するシーサンパンナタイ族自治州におけるタイ族の女性たちの宗教実践を取り上げる︒タイ族社会は上座仏教だが︑伝統的な出家慣行は衰退し︑かつて中心的な役割を演じていた男性の儀礼参加も激減する中で︑これまで周縁におかれていた女性たちがその担い手となっている︒磯部は︑このことをタイ族のB村を訪れ︑毎年定期的に行なわれる住職の読経・説法を聴くターン・シンと写経した経典を寄進するターン・タム

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(484) 274 りを免れないだろう︒それはフィールドを同じくする専門家に委ねるほかはない︒だが︑つぎの二点だけは述べておこう︒第一に︑冒頭でも述べたように︑本書はフェミニスト人類学のアプローチを用い︑ジェンダーという批判的視点を中心に据え︑多様な文化の中の女性の宗教的実践を記述し︑再構築する試みである︒だが︑同時に本書はフェミニスト人類学の立場から︑従来の宗教研究に対して再構築を迫る試みでもある︒それが﹁宗教とジェンダーのポリティクス﹂という本書の表題に込められた意味であろう︒第二に︑本書には若手の研究者による意欲的な論考が収録されている︒それらの論考で語られたこと︑提起された問題点が︑十年あるいは二十年先にはどのような様相を呈しているであろう︒川橋は﹁エスノグラフィーは書く作業が終了すれば完結するのではなく︑フィールドの女性たちとエスノグラファーとの関係性は未来に向けて開かれている﹂︵三四頁︶と述べるが︑本書の続編が︑いずれ出版されることを期待したい︒ さらにこの選択が︑社会的要因・周囲との関係性の上に成り立ち︑葛藤の回避︑リスクを伴う賭け︑葛藤の軽減の闘いでもあることを指摘し︑﹁苦悩からの解放を目指す女性たちの信念の旅は終わらない﹂と結ぶ︵一八七頁︶︒

  第7章﹁日常の中の宗教性︱日本におけるスピリチュアリティと女性﹂︵小松加代子︶は︑既成宗教に満足しなかった女性たちのインタビューをとおし︑﹁普通の生活の中の一コマでの体験に見られる宗教性﹂としての﹁日常生活の宗教﹂︵M・マグワイヤ︑N・アマーマン︶という視点から︑﹁個人の覚醒や意識変容を目指すもの﹂︵島薗進︶としてのスピリチュアリティを考える︵一九二︱一九四頁︶︒本章で小松が報告・分析するインタビューに応じたのは︑男性中心的な職場︑妊娠︑子育てなどに悩み︑ヒーリングやスピリチュアリティと出会い︑自己の肯定︑前世と来世の生き方の意味づけ︑身体の回復などを体験し︑さらにはスピリチュアル・ヒーリングを主な収入源を得るための仕事とする女性たちである︵一九五︱二一二頁︶︒小松は︑彼女たちの中に﹁新しいフェミニスト・スピリチュアリティとも呼ぶべき考え方と実践を﹂見いだす︵二一三頁︶︒これは本章の最後で﹁︵彼女たちは︶スピリチュアリティが自分の中の霊性を呼び起こし︑自分に誇りを感じ生きることと深く関わっていることに気づき始めている︒こうした女性たちの行動は︑日本のジェンダー観の変容をうながしている﹂と簡潔に言い表されていることである︒

  フェミニスト人類学に関してまったくの門外漢である評者が︑各論文に関して何らかの評価を述べるなら︑僭越とのそし

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