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鈴鹿山地北部にゐける一峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

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(1)

鈴鹿山地北部にゐける一峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

昭和四十年代後半になってからの︑いわゆるわが国の過疎地域(過疎地域対策緊急措置法の適用地域)における人

口・世帯数の減少の鈍化傾向については︑一般的にはその原因が︑大都市圏の飽和限界論や低経済成長下の労働市場

縮小論︑および国民の意識変化とか︑国・地方公共団体による過疎対策事業の成果等に︑求められてきている︿るけ

れども︑従来の山村の過疎化要因の分析の場合と同様に︑かかるマクロな国民経済論的視点からの概括だけでは︑充

分な結論に達しているとはいいがたい︒

実際︑個々の居住地移動の実態をみると︑共同的・集団的なものから個別的・突発的なものに至るまで︑様々な移

住形式をとっており︑移住先や移住動機︑隣接住民への影響度などといった移住内容についても多様である︒したが

1 9 1  

って︑これらから一般的な問題性や移住要因などを析出するには︑単に静態人口統計などを使った︑単なる総量的な

対比ではなく︑個々の移住を追跡調査したうえでそれらの質的な類型化に従って量的処理をしていく必要があるよう

(2)

1 9 2  

に思われる︒わけても︑移住というのは通常は従来の地域生活からの離脱・離反・放逐などの形をとり︑かっその移

住先については︑従来の居住地における通学・購買・販売・行政・通勤・通婚・宗教生活・出稼ぎなどといった日常

的な生活行動空間や情報・経済活動空間と密接に関連していて︑本来的に地域現象としての性格を強く担っている︒

したがって︑それの分析においては︑まず第一に移動のプロセスを地域生活のあり方や地域システムの変容過程と対

比させながら︑客観的に事実把握をしたうえで︑全国的な傾向などの問題にも言及していくのでなければならないと

思われる︒しかも︑その地域生活の領域の扱いについても︑統計単位としてはよく用いられるが︑実質地域としての

検証の繁雑な市町村域以上のレベルからはじめるのではなく︑基本的には一応地域的諸原理を内包する最小の単位と

︿

2u

集落程度のレベルで検討していくべきであると考える︒

そこで︑われわれはいわゆる過疎の現象を集落の衰滅現象としてとらえ︑その過程や機構および要因について︑実

態調査に依拠しながら︑とくに集落の生活便益や産業形態︑宅地・耕地・林地などの規模および形態︑社会組織︑土

地所有構造などといった諸側面から把握される︑地域生活単位としての集落の総体的な生活立地環境ないしは人口支

および隣接集落の性格並びにそれらとの結合関係︑および行政区・各種生産組合といった地域形成に関わる様

々な組織体への所属関係︑さらに地方都市や大都市などとのシステマティックな連関性等々に着目して分析していこ

いわゆる地域機能論的ないしは地域システム論的な立場からの考察を進めていくことにしたい︒

ニ︑鈴鹿山地北部の地域的性格と集落立地の動向

犬上川以北の滋賀県北東部にひろがる鈴鹿山地北半部分は︑その大半が︑東西を霊仙山衝上と仏生寺街上の急崖に

(3)

1 9 3  

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(玄僧)の廃村化過程と移住域

廃村(部分廃村を含む)

集落

‑・地方町,地方都市 CiLJij)  山地

~・断層線

‑‑̲..ー県境

4km 

..J

1 鈴鹿山地北部の廃村と集落分布

(注) 廃村(部分廃村を含む)1.樽ヶ畑

2 .

武 奈

3 .

男 鬼

4 .

落 合

5 .

今畑

6 .

五 僧

7 .

保月

8 .

9 .

向之倉

1 0 .

桃 原

1 1 .

甲頭倉

1 2 .

屍 風

1 3 .

後 谷

1 4 .

仏 生 寺

1 5 .

笹 尾

集 落 1.河内

2 .

下丹生

3 .

上 丹 生

4 .

西坂

5 .

善 谷

6 .

入 谷

7 .

安 原

8 .

宮前

9 .

中村

1 0 .

下 村

1

1.上水谷

1 2 .

南 後 谷

1 3 .

佐自

1 4 .

大君ヶ畑

1 5 .

時山

地質については松岡長一郎他(1

9 7 9 )

:滋賀県地質図(滋賀県の自然、付図) を参照。

(4)

1 9 4  

はさまれた地塊山地となっていてハ

3 V

第一図)︑準平原遺物と考えられる山頂小起伏平坦面が東から西へ緩やかに傾(

(

高度は岐阜県境付近で標高一

0 0 0 1

OO

東側に対しては霊仙山衝上や時山断層な

どによって︑牧田川低地にまで︑比高七

OO

米前後の急崖をなして落ち込んでおり︑西側では標高六五

01

O

にまで低下したうえで︑仏生寺衝上によって比高四

OO

米前後の急崖をなし︑標高一ニ

O O l

O

米の低い古生層山

地ないしは扇状地へと落下している︒この広い︑比較的に平坦な衝上地塊山地は︑そのほとんどが古生代のシャl

スタイン(塩基性火山岩類﹀と︑その中に塊状ないしは層状・レンズ状に含まれる石灰岩を主体とする︑いわゆる霊

仙山石灰岩層からなり︑一部の場所では典型的なカルスト地形もみられるほか︑石灰・セメント工業の原料の採掘が

行われている︒そして︑最近まではその純度の高い石灰岩地帯を除いて︑

lルスタイン地帯を中心にかなり多く

の集落が立地してきた︒

この山地の主要な排水河川は芹川(流長三二粁︑流域面積六回・一平方粁)と丹生川(流長七・五粁︑流域面積二二平方

粁﹀で︑前者はおおむね西流して︑旧彦根城下町の南縁部から菅琵湖に注いでおり︑後者は北流して︑鈴鹿山地北縁

部を流れる天野川に合流している︒ともに山地部では峡谷をなし︑谷底平野をほとんど形成していないため︑集落は古

い地形面に当る谷頭とか谷壁の肩の部分などに立地しており︑谷底にあるものは少なかった︒今日では︑その高位置

にあった集落がほとんど廃村化し︑谷底のものが戸数規模を縮小しながら︑かろうじて残存しているだけである︒

これらの集落の起源については明瞭ではないが︑この地域は木地屋の全国的な中心といわれる愛知川上流の君ケ畑

‑蛭谷や︑多賀杓子系統の木地屋集落とみられている犬上川上流の大君ケ畑などに北接し︑木地屋伝承も不鮮明ながら

(

一つにはこうした木工産業との関係も考えに入れられるべきであろう︒しかし︑鈴鹿

(5)

山地における木地業は既に絶えて久しく︑実際に木地類を製作していたという痕跡はこの一帯にはほとんどみあたら

ない︒わずかに︑落合や男鬼に木地屋が宿をとり︑盆や椀を作っていたという言い伝えがあって︑各家庭にその製品

が残されているとか︑上丹生のように木地屋についての伝承はないが︑

品の製造に集落あげて従事している官﹀ほか︑ 寛永時代以来といわれる仏壇の素地や木工芸

少し系統が異なるかもしれないが︑甲頭倉や後谷をはじめ杉・保月な

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

ど幾つかの集落で︑明治時代まで木挽きを冬の重要な仕事にしていて︑そこから多くの大工を輩出したというような

例がみられるくらいである︒

一方︑これらの高位置に立地した集落の近辺には︑石灰岩層の風化土壌に覆われた畑地が比較的にまとまって広く

あり(第一表﹀︑麦・稗・粟・黍などの自給食糧とともに︑早くから里芋・馬鈴薯・菜種・牛莞・大根・大豆・小豆な

どの商品作物が栽培され︑わけでも牛葬は﹁多賀牛葬﹂の名で優良品として知られ︑彦根・高宮・北勢地方などへは

明治以降は京都市場まで直接出荷されてきた?)︒したがって︑﹂れらの集落は第一義的には開畑開田を

目的としたとも考えられるが︑地表水が欠之して水田が皆無に近く︑結局は農業と林業が相互補完的に営まれてきた

とみられるべきであろう︒

もっとも︑この地域の気候は冷涼で平均気温は八月約二三度C

Cで︑彦根や大津に比べてほぼ三度C

つ低く︑年間最低気温もマイナス五度C以下である︒初霜は十月中旬にあり︑降雪は十一月中句にみられ︑十二月

l

三月には根雪となる︒平均積雪量は一米で︑最大一・五米となり︑冬期聞は耕作不能である︒降水量は年間約二

00

1 9 5  

O

粍であるが︑やや内陸型に属し︑仏生寺衝上から西の︑標高四

00

八月には多くない

(8 3

植生についていえば︑

米以下の非石灰岩質古生層山地には︑アカマツの二次林が比較的よく発達していて︑

マツタケの産地になっている

(6)

由由同

1

鈴鹿山地北部における廃村および部分廃材の戸数変化

明 治 11 年※ 全面宅地廃 昭和

5 5

集 落 (米)

戸 数 │ 畑 地 : 町 反 畝 歩 │ 水 田 : 町 反 畝 歩 村化の時期 米 原 町 樽 ケ 畑

420‑500  5 1   1 5   4 0  0 9   1 6 0  2 4  

昭和

2 7

l

多 賀 町

540‑550  1 8   1 2   0 3  2 7   5 7  1 5   4 6   。

495‑505 

11 

2 0 5  1 7   4 7  

向 之 倉

340‑360  2 0   3 3 2  1 7   5 0  

彦 根 市

470‑480  3 7   1 5   6 0  2 3  

5 0  

410‑420  5 0  

2 7   7 2 2  1 8  

仏 生 寺

260‑290  3 3   1 9 6  1 4   9 7 8  0 3   5 3  

多 賀 町

410‑430  1 7   5 4  

600‑610  6 5   2 6   4 4  0 6   1 1  0 5  

l

3 4 0   2 0  

400‑430  3 0   5 7 8  0 4  

E

390‑410  1 2   3 7 2  2 3   4 4  1 7  

t

280‑360  5 2   1 7   2 6  1 6   9 2  0 2  

甲 頭 倉

340‑390  3 3   7 7 3  1 6  

彦 根 市

220‑240  3 4   2 0 9  1 6   1 6   3 8  1 9   3 

4

l 1 5   4 6 0   3 1  

※:滋賀県物産誌

( 1 8 8 0 )

,滋賀県市町村沿革史(第

5

巻)

( 1 9 6 2 )

復刻所収。

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(7)

197  鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

E

5

E三]5 ‑10% 

E10.1‑15%

図盟国15.1‑20%

E20.1‑30%

医~30.1-50%

E1I50.1‑70%

̲70.1‑100% 

自廃村(部分廃村を含む)

・山間部の集落

2

図 多賀町における林班別立木地面積に対する樹令

3 0

年以上(昭和

2 2

年以

前植栽分)の人工林と天然松林の面積の比率

資料;滋賀県林業課:昭和543月調整,森林資源構成表

(8)

1 9 8  

人為的な影響なども強く受けていて︑そのミズナラ帯も本来はブナ・ミズナラ帯になる可能性をもちながら遷移を停

止しているとみなされるし︑標高八

OO

米以上の霊仙山や鍋尻山・高室山の頂上ではササ原やススキ原になってい

て︑森林が形成されていないす)0

ここでは森林は一度破壊されればその復元は容易でなく︑そうした

ことが木地屋の活動をも制約し︑また︑彦根落時代からの大きな薪炭需要の継続とも相まって︑用材林業の発達を阻

害してきたものと思われる︒

今回︑この衝上地塊山地の人工林率は約四五%(多賀町域分の集計︑一九七九年)に達しているが︑その大部分は最

近十五年以内の植栽分で︑樹令三十年以上のものは第二図のように極めて少なく︑それがまとまって見られる所は明治

三十三年に犬上郡が下流域に対する治水と水源酒養のために地元と分収林契約を結んで︑大正四年まで逐次に造林し

てきたもので︑やや特殊な事情下にあったものに限られる︒かくして︑エネルギー革命と過疎化の進行につれて︑新たに

造林事業が進展しはじめる昭和三十五年ころまでは︑もっぱら林野利用の中心は薪炭生産に置かれていたといえる︒

なお︑これらに加えて︑昭和の初めころまでは︑麻・苧の加工や石灰焼き︑養蚕︑交通位置を利用した駄賃稼ぎ︑

犬上川や愛知川上流域への茶摘みとか京都の伏見酒造地への季節出稼ぎ︑合衆国・カナダなどへの海外出稼ぎなども

盛んに行われ︑それらを組み合わせた複合的経済がこの地域の山地集落の維持機能として働いてきたものとみなされ

る︒しかるに︑第二次世界大戦とその後のわが国の社会経済の変化は︑これらの多くのローカルな小規模経済部門を

逐次急激に衰滅させることになり︑それとともに集落内の社会的諸関係の変化とか︑あるいは地域の空間組織的な諸

問題が絡み合って︑個々には独得なプロセスを辿りながらも︑ほぼ同時的に︑多くの集落が過疎化ないしは廃村化し

ていくことになったとみられる︒

(9)

この地域において最初に廃村化した集落は米原町樽ケ畑で︑昭和十年ころからすでに連続的な挙家離村がおこり︑

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

昭和二十七年には全面宅地廃村となった︿日︒次いで︑昭和四十八年に多賀町杉︑四十九年に同五僧︑五十年に同向之

倉︑五十四年に彦根市武奈︑同仏生寺︑多賀町ム7畑が全面宅地廃村化し︑彦根市男鬼も昭和五十二年以来冬は無人化

している︒また︑多賀町保月︑落合︑後谷︑扉風︑甲頭倉︑桃原と彦根市笹尾ではほとんど老人ばかりの一

1

二人世

I

八戸程度残っているのみで︑全面廃村化寸前の状態となっている︒この部分廃村をも含めた廃村一

の︑明治初期以来の減少戸数は︑実に四四

O

戸にも達しており(第一表)︑まさにそれは小さな行政村の規模にも匹

敵するものである︒実際︑このうち杉・五僧・保月の三集落は︑昭和三十年に多賀町と合併するまでは︑脇ケ畑村と

して独立した行政村を維持していた所で︑合併後とはいえ︑そのわずか二十年間ほどのうちに︑かつての一行政村が

丸ごと無住地になってしまった次第である︒

かくして︑この鈴鹿山地の北部地域は︑廃村現象についての体系的な比較研究を進める上でも︑またさらに廃村地

域の地誌学的研究を行う上でも重要な場所と考えられ︑本稿はそうした研究の一部に位置づけていこうとするもので

三︑五僧の集落的性格

五僧は芹川源流の権現谷と揖斐川支流の牧田川との分水界をなす︑鈴鹿山地横断路の一つ︑五僧峠(五

OO

)

1 9 9  

江側に浅く聞けた凹地に立地する県境の峠集落で︑明治初期以来ほぼ一一戸が峠道や小流に沿い疎集村をなしてい

た︒その起源については︑岐阜県側の峠下集落の時山(養老郡上石津町﹀から五人の僧が移住して聞いたとの言伝え

(10)

200 

がある立﹀が︑天正十九年︿一五九一)の御水帳には耕地九反余︑高三石一斗とあり

a v

明治十三年の滋賀県物産誌に

ある耕地二町五畝歩と比べれば小規模ではあるが︑すでに当時︑一応集落の体裁を整えていたものとみられる︒もっ

とも︑五僧越えの道は︑地元の伝説では︑多賀大社の祭神伊邪那岐・伊邪那美神が伊勢の石樽から美濃を経て近江の

多賀に鎮座する径路になったとされ︿日︑その開発ははるかに以前にさかのぼるものと考えられよう︒

近江と美濃・北勢を結ぶ間道として︑とくに中近世には茶商人をはじめ多くの人々が往来し︑明治から昭和初期にか

けても︑彦根周辺の行商人が一反風目敷に呉服・雑貨・日用品などを背負って通ったり︑月に一度は近江牛を連れて

湖東の博労が通過したし︑一方︑高宮の恵比須講や多賀大社の祭礼には美濃方面からの参拝者の列が続き︑保月ほど

ではない臼)にしても︑交通集落的な機能を担ってきただろうし︑彦根藩領時代はもちろん︑その以前からも国境の

集落として軍事的に重視されてきた所と思われる︒

とはいえ︑もちろんこの集落の基本的な維持機能が林業と農業にあったことは云うまでもない︒そのうち︑林業の

中心は重量軽減率の大きい木炭生産にあって︑その生産量は昭和二十九年で約九

O O

O

俵)

O O

O

俵﹀に

達していたおぢこれを隣接する保月の九

O O

O

俵(一戸平均三五

O

)

O O O

(

O

)

五僧における製炭業への依存率の高さが何えよう︒また︑この場所は地質上はシャlルスタインと石灰岩の接触地に

あたり︑谷水の豊富なシャIルスタイン地帯に宅地が立地し︑それに接続する石灰岩の南斜面に耕地がまとまって開

けている(第三図)︒ただ︑耕地は畑地ばかりで︑その面積も明治二十年の土地台帳で二町七反五畝歩にすぎず︑

林も同じく約一一一二町歩白﹀と必らずしも広くはない︒したがって︑戸数についても︑元禄八年ハ一六九五)の記録

には一一一戸(立︑宝暦五年ご七五五)の犬上郡北畑二ハケ村御水帳之写には二一戸︑幕末の書附けには一

O

(11)

150m 

』ー」

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域 201 

各家番号所有地

明治

1 9

1

日月改正の犬上郡五僧村番押絵図に基づく土地利用と土地 所有

3

(12)

F

85 

80 

一 一 一 . 一 ‑一 一 ' ‑ 一 一 . ‑ . ,

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2 5   2 0   1 5  

10 

戸 ︒

昭和元年10 

4 0

5

E 年 35  30 

2 5  

明治初年ハU

4

図 旧 脇 ケ 畑 村

3

集落の戸数変化

(注) 保月に関しては,除籍の年をもって戸数変化の年としてあるものが一部 含まれている。

と︑いずれも少数であったが︑明治

以降も昭和十年まで一一戸︑昭和三

十九年まで九戸となっていてあまり

変化をしておらず︑むしろ小規模な

がらも近世近代を通じて最近まで︑

比較的に安定を保ってきた集落とみ

なされる︒このことは︑隣接する大集

落の保月(第四図)や同じような鈴鹿

山地の峠集落である茨川の廃村白υ

などと比べたときに︑著しい特色と

なっている︒それはさらに戸数規模

の変化だけでなく︑明治以降に関し

ていえば︑分家・転入・離村といっ

た家の異動や︑耕地・山林の所有権

の異動などについても同じことが伺

(

)

﹂こではもともと︑土地の私有化

(13)

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

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はかなり早く進んだようで︑共有地は多くないけれども︑村外者に取得された分もほとんどなく(第七図)︑また︑私有

2 0 3  

噛羽田一凶

θ1 0 

地については村内者によって比較的均等に所有されていた︒もっとも︑その中でも上位の四戸とそれ以下の聞には若干

(14)

2 0 4  

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の格差があったが︑それでも上位の四戸が占有した土地は︑大正初期まで畑地全体の約四七%︑山林では約五五%にす

ぎず︑しかも山林の少ない家には共有林の大部分にあたる四・五町歩の名儀と用益権を与えるなどして︑階層聞の平

準化をはかつていた︒それに︑上位とはいっても︑輸送手段の制約から木炭でも増産できなかったため︑時には持山

だけでかろうじて生計をまかなうこともあったかも知れないけれども︑大抵は大なり小なり杉・保月・時山などの隣

接集落から立木を買って補わねばならなかった︒

このように︑経済的基盤が全般的に之しい所において︑なお比較的フラットな階層構成を保持してきたことが︑こ

の集落の安定性ないしは固定性を生む重要な要因となっていたと思われる︒さらに︑これらの事情にも関連する問題

(15)

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

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π

として︑五僧の集落的な辺境性ないしは孤立性といった地理的・歴史的条件についても︑次に概観しておく必要がある︒

205 

五僧は芹川の源流に位置しながら︑その途中の権現谷が﹁犬戻り﹂とも呼ばれるほどに険阻なため︑彦根方面への

連絡にはこれを標高四

OO

米で横切って︑権現谷支流のあさはぎ谷谷頭の小起伏平坦面上にある保月集落ハ六

OO

米)

(16)

2 0 6  

やはり芹川支流のエチガ谷谷頭にある杉集落(五四

O

米)を通り︑杉坂峠(五九

O

米)から比高四四

O

米の急崖にかかる杉坂を下り︑山後麓の八重練(一五

O

米)に至 に出て︑さらに寒坂峠(六三八米)︑地蔵峠(六四

O

)

り︑多賀・高宮・彦根に通ずる道を久しく利用してきた︒その距離は保月まで二・五粁︑保月から杉まで三粁︑杉か

ら八重練まで二・五粁あり︑五僧から彦根までの合計は約二ハ粁となるが︑かつてはそれを炭を背負って往復に一四

︿るす日帰りしていたわけである︒昭和十年に杉から栗栖(一五

O

米)へ四・二粁の新しい車道が建設され︑

馬車が通ずるようになったし︑昭和二十八年ころにはトラックも保月にまで入るようになったが︑今なおそれは急坂

で︑平常時においても軽自動車での通行は困難である︒そのうえ︑

保月と五僧の聞は早くから県道にはなっている が︑昭和四十一年に権現谷林道が延長されるまでは︑幅一米弱の徒歩道でしかなく︑五僧からの往路で比高一

OO

の下り道と同二

OO

米の急な登り道をもっ悪路のため︑往復には一・五時間を要し︑とくに学童の通学には積雪期や

出水期に危険をともなった︒そして今でも︑権現谷林道と五僧の聞の

0

・五粁は︑以前のままの状態が続いている︒

このようにして︑滋賀県側からみるならば隔絶された最奥地集落であるということと︑岐阜県の時村からの出郷とい

われた事情などもあってのことと思われるが︑後継者の婚姻対象地がほぼ自集落内に限られていて門型︑入婚圏が極

めて狭域的で︑そのために本分家関係は少ないけれども︑ほとんどの家が姻戚関係で結ぼれていて︑比較的に親密な

隣人関係が保たれてきた︒

これに加えて︑この辺境地の日常的な生活空間について次にながめてみると︑明治初期までは生産物や日用品の販

売・購入園については︑岐阜県の時山方面に属しており︑背駄で木炭や牛葬︑人参などを搬出し︑米・茶・塩・味噌

その他の生活必需品と交換してくるのが普通であった

し ︑

a )

昭和初期でもまだ通過交通が残っていたために︑美濃

(17)

側との関係を持続していた︒しかし︑一方で︑近江側とは彦根藩時代の所領関係があったうえに︑附近における最大

の生産物の消費地が彦根(城下町)︑高宮(宿場町)︑多賀(鳥居前町)であったことや︑明治二十二年の東海道本

線︑同三十一年の近江鉄道の開通などによって︑生産物がますますその方面に多く搬出されるようになり︑さらに大

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

正時代になると八重練より先きの平野部では大八車の使用が盛んとなり︑昭和初期になると杉坂に車道が開通するな

どして︑湖東平野部との結びつきが強化されていった︒

それともに︑明治六年には県境が決定され︑明治十八年に保月・杉・五僧の連合戸長役場が保月におかれ︑明治二

十二年からそれらが滋賀県犬山郡脇ケ畑村となった︒なお︑その以前の明治十六年に︑保月に晩成学校が設立され︑

それが同二十年に簡易科保月小学校︑同二十五年脇ケ畑尋常小学校となり︑五僧も︑その通学区に属することになっ

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その他︑保月には明治三十

i

大正四年に巡査派出所︑明治四十一年に脇ケ畑農会︑昭和三年に薪炭組合︑昭

和十六年に電信電話取扱所︑昭和十七年に脇ケ畑森林組合︑昭和二十二年に郵便局及び脇ケ畑中学校(昭和二十三年

犬上束中学校脇ケ畑分校)が次々と設置され︑保月を中心に脇ケ畑村を範域とする狭域の行政的︑地域組織的な活動

空間が確立されていった︒

ただ︑宗教生活の面では︑杉と保月には寺院があったが︑五僧にはなく︑ここは慶長七年三六

O

二)以来湖東平

野の豊郷町四十九院にある唯念寺(真宗)の掛所となっていて︑約二

O

粁の道をも遠しとせず︑門徒として通った

ハ号︒また︑神社もかつては五僧では︑山の神だけを祭っていて社がなかったが︑

に水神の恥駒山拠齢殻耐を祭る美奈戸神社を建て︑山の神の祭礼のほかに︑家番号@(第二表参照)が美奈戸神社の宮

芹川の水源地の一つ

207 

同時に五僧は多賀大社の氏子域にも入っていて︑座頭となって︑春秋の祭礼をとりおこなってきた

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(18)

~

家 番 号

1  2 

4  5  6  7  8  9  1 0   1 1   1 2  

(

20

)  所(

2 0

町 反 畝 歩 反畝歩(筆数)

1 7   5 4 28  3 9 1 5 ( 1 8 )   1 6   2 4 0 3   1 7  2 4 (  6 )  

1 6   0 5  00  2 4 0 7

(1

5 )  

1 2   8 5 0 0   4 6  0 6 ( 2 3 )   10  1 7 2 1   1 2 1 8 (  8 )   9 0 7  20  2 2  0 5 ( 1 9 )   7 5 0 0 0   2 5 1 5

(17) 

5 1 000  1 1  2 6 ( 1 1 )   4 7 1  1 4   8 1 8 (  9 )   4 6 0  00  1 4 1 3 (  6 )   3 4 000  1 3  2 5 ( 1 1 )  

2

表五僧の挙家離村過程

転入・分分家時期及

び転入・ 家先 離村時期 離村タイプ(動機,その他備考)

昭42 懇耕烹顧偲舘問菌 製 炭 不 振 惜 学 問 題 )

昭49 ;子村)(昭4

1

(転) 

昭43 米原町(¥署再殺転害更)

E Z F 3

鉱 泉 国 語 分 譲 契 約i

昭44 名古屋市 )(昭4

4 3 4

=

1

昭40 米原町(駅寵)製炭不振

昭1

1

廃絶 火災で再建せず,戦病死

昭2

2

(多賀)大滝村萱原母脱落の実型家(へ戸主引揚の早げ), 母子家庭,

昭49 長浜市 合併型(昭3

4

以来老女

1

人世帯)

昭4

5

(

s (

木4

7

団地)放通学逐問型題(中学校分校の閉鎖)

昭40 堺市 製炭出不振ぎ(昭

5

には戸)主がカナダ

へ 稼 に 出 て い た

昭1

1

(屋4

0

)事故型 (大火の火元)

入,明20蒲生郡 明3

0

関東地方 短期転入者

(19)

鈴魔山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

... 

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ととのみやの大祭の時には保月・杉とともに︑栗栖の調宮への神幸の神輿を三年に一度は担ぐ習わしであったし︑明治二十五年

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と昭和三年の六月祭には家番号①が頭人に選ばれたりしていて(型︑早くから湖東山麓平野部の宗教活動闇に編入さ

このようにして︑五僧の日常的な生活空同には︑集落内の比較的に濃い姻戚関係や親密な隣人関係の中で営まれる

奥地での生産活動空間と︑山麓の平地農村や地方都市との聞に形成された商業活動空間や宗教活動空間が伝統的に存

在し︑それらの中間位置に︑明治以降︑隣接する保月杉というほぼ同質の産業集落との聞で行政的・制度社会的な活動

空間を作り(号︑それらが三重にオーバーラップした構造を示すようになっていたものとみなされる(第八図A

B)

しかるに︑この行政活動空間の中心をなした保月の著しい人口減少(第四図﹀と︑政府の町村規模の合理化政策に

よって︑昭和三十年に町村合併が行われ︑脇ケ畑村は多賀町に吸収合併されることになった︒さらに昭和四十三年に

2 0 9  

は多賀中学校脇ケ畑分校の廃校︑続いて翌年小学校の一時閉鎖という事態に及んで︑ついにこの三重構造をなしたう

(20)

210 

明治中期 昭和

2 0

四十九院

葬 務 静

. 集 落 空 間

@ t

也方行政・通学空間

告 吉 経 済 交 流 空 間

ζ3

宗教活動空間

夢ア

昭和

4 0

年代前半

ちの一つの生活空聞が消滅するに至ったのであ

る︒なお︑昭和四十七年には町役場保月支所︑

同四十九年には郵便局も廃止され︑ここに明治

五僧の日常的な生活空間の変遷

以来︑制度的な地域形成機能を蓄積し︑山地集

落と山麓平野部との媒体空間として創出された

二次的な生活空聞が空洞化することになり(第

C

D)

︑再び五僧は山麓地域と直接に接触

して︑その影響力に直にさらされるようになる

とともに︑廃村化への道をつき進むことになっ

昭和30年代前半

静 鮮

C  昭和30年代後半

8

なお︑ここで若干この集落の生活便益に関す

る特色に触れると︑電灯線については昭和二十

五年に脇ケ畑村全域で一斉に導入された宕﹀が︑

電話線は昭和十六年に保月にまでついただけ

水が豊富で︑簡易水道を作らずにこれを用いてきたが︑防火用水には不足し︑元禄十三年と︑昭和十一年に大火に遭 で︑五僧にはない︒また︑飲料水については谷

(21)

臣︑廃村化過程と挙家離村の移住域

既に述べたごとく︑五僧では昭和三十九年までは︑挙家離村も戸数変化もあまりみられず︑極めて固定ないしは安

鈴鹿山地北績におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

定した状態が続いてきた︒しかし︑その後は急変して︑挙家離村が連続し︑わずか十年間で全面廃村化することにな

る︒そこで︑ここではまずこの安定期と急変期における挙家離村の特色をそれぞれに把握し︑そのうえで五僧の廃村

化過程とその廃村化の機構および要因を検討していくことにしよう︒

まず︑昭和十年までは家番号@(家番号は明治二十年の山林所有面積の大きいものから順に付してある︒以降は単

に①︑家番①のごとく一使用することがある﹀の短期転入出を除けば︑一一一戸の状態が続いた︒この⑫は明治二十年に

湖東の蒲生郡八幡町から転入し︑同三十年ころには関東方面へ転出していったもので︑もちろん集落内には資産を持

たない︑単なる一時的寄留者とみられるが︑詳細はわからない︒このほか︑この間には大正

l

昭和初期に戸主が単独

でカナダへ出穣ぎに出た家番⑪があったが帰国している︒そのようなところへ︑昭和十一年に大火が起り︑①④を除

く九戸が全焼した︒この時︑火元となった⑪は保月に空屋をみつけて離村し︑また︑すでに家族構成が悪化していた

@がそのままで︑修復できなかったが︑他の七戸は全部再建されてた︒@は両親の死後のことで︑翌年には後継者が

日中戦争に召集され︑病気で復員してまもなく死亡し︑姉妹も他所に嫁して廃絶したものであり︑火災のこともさる

2 1 1  

ことながら戦争の犠牲者ともいえる︒それはともかく︑かかる大災害にもかかわらず︑減少は一応二戸だけにとどま

り︑@もまた遠方には離れず︑従来通りもとの畑地や山林を利用していた︒

(22)

2 1 2  

その後は︑昭和二十二年に⑦が戸主の早世によって犬上川上流域の妻の出身地にもどる︑一種の脱落型離村をして

八戸になったが︑翌年には⑬︑が分家したので︑九戸に回復している︒この⑦の場合には︑

たまたま他集落から主婦

が嫁入りしてきでいたために︑離村したが︑資産はほとんどそのまま保留したままであった︒それゆえ︑耕地はいつ

たんは農地改革で全て失うことになるが︑数年後にはそれも親戚筋から返還してもらい︑山林も一部は離村先付近の

ものに売っているが︑なおも若干の保有地がある︒また︑家屋も新しかったので︑そのまま残していて︑離村後も五

僧での村附合いを受けていたが︑昭和二十四年に保月の八幡神社が焼失して︑その社務所としてこの家が売却・移築

されている︒こうして︑災難その他の事故でやむなく離村したものを除けば︑ほぼ安定し

た状態が維持されていたとみなされる︒しかるに︑一方︑隣接の保月では︑その時すでに明治初期の八

O

戸から約四

分の一の二一戸にまで︑著減していたことが注目される︒

従前の長期にわたる安定状態を破り︑昭和四十年に突然二戸の挙家離村が生じてから︑

t

二戸の離村が

連続するようになり︑昭和四十五年には僅かに二戸のみとなり︑それらもついに同四十九年に離村して︑全面廃村化

した︒もっとも︑昭和五十二年までは夏には二戸が帰村していたが︑翌年からは二戸のみとなり︑同五十四年になる

とついに周年無住地となっている︒

このうち︑昭和四十年に離村した@⑬の二戸についてまず見ると︑⑤は共有地をも含めて保有山林五・二町歩︑畑

一・七反歩しかなく︑買山依存の強い製民主業者であったが︑次第に木炭の将来性が見込めなくなり︑また戸主の年

齢が比較的若く転職の可能性も大きかったことから︑妻の姉の往んでいた米原に空屋を借り︑急逮離村したものであ

(23)

る︒子供がまだ小さく︑通学問題もなかったので︑残留者には全く意外であったし︑土地や家屋もほとんどそのまま

保留したままで︑老人夫婦をも伴ない︑一家転住しただけに衝撃的な離村であった︒なお︑建物はその後自然倒壊し

ている︒職場については︑離村後に探しており︑まもなく新幹線の夜間保守についた︒⑬も共有地を含めて保有山林

鈴鹿山地北部におけるー峠集落(五僧)の廃村化過程と移住域

八・六町歩︑畑二・一反歩しか持たず︑老父と戸主の二人が買山と持山で製炭に専従していたが︑やはり製炭不振か

ら妻の兄弟が工務庖などを営んでいる堺市へ畏距離離村したものである︒この場合は︑若い後継者がすでに前年に単

身大阪へ就職離村しており︑本人は兄弟の斡旋で植木職についている︒土地などはやはり保留したままで︑家屋のみ

堺市の在住者に売却し︑二

1

三年別荘として利用されていたが︑ほどなく損傷が激しくなった︒こうして︑昭和四十

年には突然に買山製炭を主とする階層から転業型離村が生じ︑それがある程度まで予期されていたとはいえ︑村を押

しつぶす大きな波溝が︑ついにこの奥地集落にまで押し寄せてきたことを︑人々に肌で感じさせることになったので

かくして︑翌年には②の長男世帯も新婚早々に製炭に見切りをつけ︑世帯分離離村をし︑親戚の縁故によって彦根

市の伝統産業であるバルブ関係の鉄工所に勤めることになった︒なお︑この年になると脇ケ畑地区全体を通して︑

よいよ製炭業から用材林業へ組織的な転換がはかられるようになる︒すなわち︑同村単位の脇ケ畑森林組合が多賀町

森林組合に合併されたのをきっかけに︑保月を中心にして︑奥山にあった離村者および残留者の雰細所有地一六

O

(見込実測面積一五

O

町歩)を合わせて︑総勢六六名からなる脇ケ畑生産森林組合を結成し︑それの管理と大規模造

2 1 3  

林による雇用の創出をはかつて︑彦根市犬上郡営林組合との聞に造林分収契約を結ぶことにしたのである︿号︒事業

は昭和四十二年から始められ︑これによって降雪期の三ヶ月聞を除くと︑月間二

OI

二五日の就労が確保されるよう

参照

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( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

Q7 

(Ⅰ) 主催者と参加者がいる場所が明確に分かれている場合(例

①配慮義務の内容として︑どの程度の措置をとる必要があるかについては︑粘り強い議論が行なわれた︒メンガー