天神信仰の地域的拡大 : 十三世紀前半頃までを中 心に
著者 竹居 明男
雑誌名 人文學
号 171
ページ 1‑42
発行年 2002‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004275
天 神 信 仰 の 地 域 的 拡 大
││十三世紀前半頃までを中心に││
竹 居 明 男
はじめに
小稿では︑菅原道真歿後︑比較的早い時期から︑いわゆる天神信仰の拠点ないし磁場となった天満宮安楽寺︵現︑
太宰府天満宮︶︑北野社・北野宮寺︵現︑
北野天満宮
︶︑
道明寺
・ 道明寺天満宮
︑ 吉祥
院︵現︑
吉祥院天満宮
︶ 以 外
に︑地域的にも次第に拡大していく天神信仰の場について︑様々な角度から探って行きたい︒ただし当面は︑年代の
下限をほぼ十三世紀半ば頃に置き︑可能な限り確実な史料に基づいて︑まずは寺院の鎮守社・惣社への勧請︑及び天
神道真を祭神とする﹁天満宮﹂﹁天神社﹂の地域的普及の様相を跡付けて行きたいと思う︒
― 1 ―
天神信仰の地域的拡大
一寺院の鎮守社・惣社への勧請
まず︑既往の寺院の鎮守社や惣社の一つとして北野社ないしは天神道真公が祀られるケースを取り上げる︒
︵1︶播磨極楽寺
兵庫県神崎郡香寺町須加院︵古くは播磨国神崎郡的部郷内︶の常福寺境内に︑かつて極楽寺という寺院があった︒
十二世紀半ば近くの康治元年︵一一四二︶頃から天養元年︵一一四四︶にかけて︑当寺の別当大法師禅恵︵﹃高野山
往生伝﹄に見える密厳房阿闍梨禅恵に比定する説もある︶が諸種の曼荼羅・仏菩薩像・五輪塔・顕密経典・諸真言等
を清浄な瓦に彫り︑図写焼成して氏寺である当寺の後の峰に埋納した︒その瓦経が江戸時代に発見された際に姫路藩
主によって作成された拓本の一部が遺存し︵瓦経そのものは一旦失われたが︑近年に一部が再発見︶︑天養元年六月
二十九日付の﹁願主東寺真言宗禅恵﹂以下︑計一〇人︵その中には書写山客僧︑弥高寺・増井寺・八徳寺の僧が含ま
れている︶の連名になる長文の願文があり︑これによって当寺の由来が知られるのである︵この項︑保坂三郎﹃経塚
論考﹄︹昭和四十六年十二月︺︑﹃兵庫県史﹄第一巻︹昭和四十九年三月︺︑日本歴史地名大系﹃兵庫県Ⅱ﹄参照︶︒
すなわち極楽寺は︑﹁我朝賢王前一条院之御願寺︑鎮護国家之大伽藍﹂で︑禅恵の先祖藤原有国︵九四三〜一〇一
一︶とその正室従三位橘徳子︵?〜?︒一条天皇乳母︶が﹁同心合力﹂し︑その息である参議藤原広業︵九七七〜一
〇二八︶と三位︵日野︶資業︵九八八〜一〇七〇︶が播磨国の国司であったとき︑﹁奉為聖朝安穏・国土豊饒﹂に建 天神信仰の地域的拡大
― 2 ―
立された︒その本尊は阿弥陀如来像で︑あわせて﹁勧請八幡大菩薩為鎮守︑加以︑金峯蔵王・熊野権現・丹生・高野
・春日・北野・日吉・住吉・広田・南宮等諸大明神同勧請之︑又為鎮守﹂たという︵願文は﹃平安遺文﹄金石文編に
第二九九号として収載するが︑﹁誤脱︑誤植がかなり多い﹂ので︑前掲﹃経塚論考﹄による︶︒
右によれば︑藤原有国が寛弘四年︵一〇〇七︶正月から同七年︵一〇一〇︶二月まで播磨権守に在任した後︵正室
徳 子 の 父橘仲遠も播磨守に在任していたことがある
︶︑
息広業も長和五年
︵ 一〇一六
︶ 正月から
︵ 推 定
︶ 寛仁四年
︵ 一〇二〇
︶ 正月まで播磨守に在任
︑ 万寿三年
︵ 一〇二六
︶ 二月から長元元年
︵ 一〇二八
︶ 二月まで播磨権守に
在
任︑その直後に資業も長元元年二月から同七年︵一〇三四︶正月まで播磨守に在任していたから︑当寺のおよその草
創年代が知られよう︒
その極楽寺の鎮守の一つとして﹁北野﹂が勧請された理由ないし背景については未詳だが︑勧請神の一つに﹁金峯
蔵王﹂も含まれていることを考慮に入れると︑願主禅恵の父祖藤原有国の周辺に︑少なくとも一つの鍵があろう︒有
国と天神信仰の関係については︑大宰大弐として任地に赴いた時に︑道真公を祀る天満宮安楽寺で年中行事として正
月の内宴を始めたこと︑道真の孫文時を師匠としていることを自ら表明していることが指摘されているが︵真壁俊信
﹃天神信仰史の研究﹄︹平成六年三月︺︶︑これに加えて有国が﹁金峯山賛﹂︵﹃金峯山秘密伝﹄下に一部引用︶なる文章
を 作 成 している事実も付加しておきたいと思う
︒ それには
﹁ 私 云
︑ 長保第六甲辰
︵ 一〇〇四
︶﹂
という傍注があっ
て︑もしそれが該文章の作成年代だとすると︑﹁蔵王﹂権現については︑例の著名な藤原道長ゆかりの奈良県金峯神
社経筒銘をさらに溯る︑貴重な文献史料となるからである︒この際は︑有国が藤原道長の家司を勤めて深い関係があ
ったこと︑また天神信仰の発展・展開における一条天皇朝の画期的意味も考慮に入れるべきであろう︵その一端につ
― 3 ―
天神信仰の地域的拡大
いては
︑ 拙 稿
﹁ 天神信仰の生成と展開
﹂︹
東京国立博物館ほか編
﹃ 天神さまの美術
﹄ 所 収
︑ 平成 十三年七月
︺ 及 び
﹁天神信仰の歴史││怨霊から天満大自在天神へ││﹂︹﹃国文学解釈と鑑賞﹄第六七巻第四号︑平成十四年四月︺で
も︑ごく簡潔に触れた︶︒
︵2︶蓮華王院惣社
蓮華王院は︑後白河院が︑鳥羽上皇の白河得長寿院に倣って︑その御所法住寺殿内に︑長寛二年︵一一六四︶十二
月に千体観音堂を建立供養したのに始まり︑以後︑建立年代が知られるものでは︑治承元年︵一一七七︶十二月に五
重塔︑寿永二年︵一一八三︶十一月に北斗堂がそれぞれ供養を見ているが︑実は︑それらより早く承安五年︵
=
安元元年︒一一七五︶に草創を見たのが惣社であった︒
当院惣社の草創︵後掲史料では﹁宮始﹂︶︑ならびに実態を知り得る史料としては︑A﹃百練抄﹄安元元年︵承安五
年︶六月十六日条の
蓮華王院惣社鎮座八幡已下廿一社︑其外日前・熱田・厳島・気比等社本地御正体図絵像︑但日前宮・熱田御本地
無所見︑仍只被用鏡︑︵新訂増補国史大系による︶
と︑B﹃旧記故実条々﹄所収﹃吉記﹄逸文承安五年︵安元元年︶六月十六日条の
十六︵蓋︑承安五年六月十六日︶蓮華王院惣社宮始也︑当御堂乾角被建立檜皮葺三間朱塗宝殿一宇︑吉時奉渡正
体︿非旧御体︑又未供養︑仍無別儀︑新日吉社之時如此云々﹀︑
八幡若宮十一面︑於大菩薩者︑依為宗廟︑不奉勧請︑ 天神信仰の地域的拡大
― 4 ―
加茂下上鏡三面︑上一面︑下一面︑︵本ノマヽ︶︑
松尾鏡一面︑
平野鏡一面︑
稲荷下社大宮︑如意輪︑田中︑不動︑中社大宮︑千手︑四大神︑毘沙門︑上社︑十一面︑
客神十禅師︑地蔵菩薩︑
春日一宮︑鹿島武雷︑不空羂索観音︑二宮︑香取斎主命︑薬師︑三宮︑平岡天児屋根命︑地蔵︑四宮︑
会殿姫神︑十一面︑若宮︑文珠︑
大原野同春日︑
大神大日︑聖観音︑
石上十一面︑文珠︑不動︑
大和一宮︑弥勒︑二宮︑薬師︑三宮︑聖観音︑
広瀬大宮︑聖観音︑小折大明神︑阿弥陀如来︑災神︑不動︑三大神︑十一面︑若宮︑薬師︑
龍田釈迦︑
住吉一神︑薬師︑二神︑阿弥陀︑三神︑大日︑四神︑聖観音︑
日吉大宮︑釈迦︑二宮︑薬師︑聖真子︑阿弥陀︑八王子︑千手︑客人︑十一面︑十禅師︑地蔵︑三宮︑
普賢︑行事︑毘沙門︑早尾︑不動︑
梅宮一殿︑如意輪︑二殿︑聖観音︑三殿︑不空羂索︑四殿︑信相菩薩︑
― 5 ―
天神信仰の地域的拡大
吉田同春日︑
広田一大殿︑聖観音︑二大殿︑阿弥陀︑三大殿︑高貴徳王大菩薩︑四大殿︑阿弥陀︑五大殿︑薬師︑
園天王︑薬師︑婆利女︑十一面︑八王子︑八字文珠︑北野十一面︑
丹生薬師︑
貴布祢不動︑
已上廿一社︑
日前国懸鏡︑
熱田︑鏡︑
伊津岐嶋大宮︑大日︑中御前︑十一面︑客人︑毘沙門︑
気比大日︑
兼日被尋各本地於本社︑随彼申状毎社一鋪︿不依仏像体数也︑紗表紙塗軸付紐﹀︑被図絵之︿可為絵像哉如何之
由︑事起叡慮︑被尋仰之︑申云︑法成寺惣社正体為絵像者﹀︑社申状間︑雖残疑殆不可不信︑不及覆問被用之︑
本地無所見之由令申所々用鏡︿不顕本地者︑其明神之由︑可打堺歟之由︑兼雖有其沙汰︑猶被止之︑雖無銘︑何
無影向哉之由︑有御定者﹀︑︵田中教忠﹃蓮華王院三十三間御堂考﹄巻中より引用︒︵︶内は田中教忠の補記︒
また︿﹀内は小字割注を一行書きに改めたもので︑以下同様︶
がまず挙げら
れ
︵ B については竹居明男
・ 吉澤陽
﹁﹃
吉記
﹄ 逸文承安五年
︵ 安元元年
︶ 六月十六日条をめぐって
﹂
天神信仰の地域的拡大
― 6 ―
︹﹃文化史学﹄第五七号︑平成十三年十一月︺参照︶︑さらに関連する史料として五味文彦氏御指摘の︑﹁春日御社御本
地并御託宣記﹂︵﹃春日社旧記﹄のうち︒﹃神道大系﹄所収︶に収載された︑C同年の二月二十七日付院宣及び三月一
日付請文・注進状の一連の文書がある︵五味文彦﹁﹃平安遺文﹄と﹃鎌倉遺文﹄の間﹂︹﹃鎌倉遺文研究﹄第三号︑平
成十一年四月︺︶︒
以上のうち︑A・Bよりは︑︵一︶当院惣社が︑御堂︵本堂千体観音堂︶の乾︵北西︶の方角に建てられた︑檜皮
葺三間朱塗宝殿一宇の結構であったこと︑︵二︶当惣社の祭神︵勧請神︶は︑伊勢神宮を除く二十一社︵ただし石清
水八幡は若宮のみ︶︑及び日前・国懸︑熱田︑厳島︑気比の四社であったこと︑︵三︶当惣社安置の﹁正体﹂は︑あら
かじめ各社に本地仏を問い合わせ︑それぞれの﹁申状﹂に基づいて︑その本地仏の数にかかわらず﹁毎社一舗﹂ごと
にその姿を描いた絵像であり︑本地仏の所見が無い神社については︑絵像の替わりに鏡を用いたこと︵Bの大部分の
記事が︑勧請諸社の本地仏一覧表であることは言うまでもない︶︑が主要事実として知られ︑Cは︑︵三︶に対応する
春日社側の動向を知り得る史料なのであった︒
こうして︑蓮華王院惣社には︑二十二社ないし二十一社の一つとして北野社も勧請され︑その本地仏の十一面観音
の姿を描いた絵像が︑他社の絵像あるいは鏡とともに安置されたことが知られよう︒
また当院惣社の場合︑草創を見た年の十月三日には惣社祭が始められ︑以後恒例となった
ことも注目される
︒ 以
下︑惣社祭を中心に︑その後の当院惣社の動向を次に整理しておこう︒ちなみに︑蓮華王院は建長元年︵一二四九︶
三月に本堂︵千体観音堂︶や五重塔が焼失しているが︑その後の惣社に関する史料は管見に入っていない︒
安元元年︵一一七五︶十月三日︑惣社祭始行︒以後︑恒例化される︒︵﹃玉葉﹄︑﹃百練抄﹄︑﹃師光年中行事﹄︶
― 7 ―
天神信仰の地域的拡大
治承三年︵一一七九︶十月二〜四日︑惣社祭︒︵﹃山槐記﹄︑﹃玉葉﹄︶
養和元年︵一一八一︶十月三日︑惣社祭︒︵﹃玉葉﹄︶
建久九年︵一一九八︶十月三日︑惣社祭︒︵﹃自暦記﹄︶
正治元年︵一一九九︶十月三日︑惣社祭︒︵﹃猪隈関白記﹄︶
仁治三年︵一二四二︶十二月二十一日︑惣社破損功程注文が民部卿平経高に下される︒︵﹃平戸記﹄︶
︵ママ︶宝治元年︵一二四七︶七月一日︑院評定により︑惣社の﹁御体都田﹂のことを議論する︒︵﹃葉黄記﹄︶
九月二十五日︑臨時除目があり︑惣社功として︑後鳥羽院大原法華堂に阿闍梨二口を加え
置く︒︵﹃葉黄記﹄︶
十月一日︑惣社遷宮︒︵﹃経俊卿記﹄︶
十月三日︑惣社祭︒︵﹃経俊卿記﹄︶
当院惣社祭に関しては︑少なくとも恒例化した当初は││恐らく後白河院在世中は││︑院宣によって公卿・殿上
人・僧綱が馬長を進め︑相撲・神楽等も行なわれて︑﹁凡其風流過差不可云︑敢未曽有如此事云々︑国家之費︑無物
于取喩︑法皇於七条殿桟敷見物︑凡洛中貴賎︑無不見物人云々︑余独不見﹂︵安元元年度に関する﹃玉葉﹄︶と批判さ
れるほど盛大を極めていたらしいこと︑また治承三年度に関する諸史料が記録しているように︑十月二日に試楽︑三
日に祭礼︑四日に後宴という三日間に渉る行事であったらしいことが注目される︒
こうした惣社祭の実態も含め︑総じて当院惣社のありようが︑先行する藤原氏ゆかりの法成寺惣社のそれに倣って
いる節もあり︵前掲Bの記事︑参照︶︑今後︑法成寺・蓮華王院のみならず︑広く他寺院にも見られる惣社の実態か 天神信仰の地域的拡大
― 8 ―
らも︑改めて当院惣社の意義を検討してみる必要があろう︒
︵3︶奥州平泉の鎮守
﹃吾妻鏡﹄文治五年︵一一八九︶九月十七日条に引用する﹁寺塔已下注文﹂は︑奥州平泉において︑藤原清衡以下
四代にわたって建立された寺塔や館の概要を﹁衆徒注申﹂に基づいて書き記したもので︑その中に︑﹁一関山中尊
寺事﹂﹁一毛越寺事﹂﹁一無量光院︿号新御堂﹀事﹂の各項目に続いて
一鎮守事
中央惣社︑東方日吉・白山両社︑南方
園社・王子諸社︑西方北野天神・金峰山︑北方今熊野・稲荷等社也︑悉以模本社之儀︑
との記載がある︒
このうち︑まず北方の﹁今熊野﹂社が︑例の後白河院の御所法住寺殿の鎮守として永暦元年︵一一六〇︶に勧請さ
れたものに基づくものと見て︑これら一連の鎮守社の成立の上限をその年とし︑実際には養和元年︵一一八一︶にお
ける藤原秀衡の陸奥守就任を契機に整備されたとする説が有力である︵菅野成寛﹁都市平泉における鎮守成立試論││
霊山神と都市神の勧請││﹂︹﹃岩手史学研究﹄第七七号︑平成六年二月︺︑同﹁藤原秀衡・泰衡期における陸奥国衙
と惣社││都市平泉研究の視角から││﹂︹同上第七八号︑平成七年二月︺︒ただし︑これより溯る時期の成立と見る
説もある︒従来の研究の概要については前川佳世﹁平泉の都市プラン││変遷と史的意義││﹂︹﹃寧楽史苑﹄第四五
号︑平成十二年二月︺参照︶一方︑西方に配されたのが︑北野天神と金峰山とのペアであることは︑道賢上人日蔵の
― 9 ―
天神信仰の地域的拡大
冥界遍歴譚︵逸文﹃道賢上人冥途記﹄︑﹃日蔵夢記﹄ほか︶を媒介とした︑両者の密接な関係を踏まえたものと想像さ
れて興味深いが︑これら鎮守社に関する最大の問題は︑そもそもこれらが何の鎮守社であるか︑と
いうことであろ
う︒
かねてより︑これらは︑﹁寺塔已下注文﹂の中の記載様式などからみて︑﹁都市平泉﹂全体の鎮守社と解する説があ
り︑﹁都市平泉﹂の広がりが考古学的調査成果によって次第に裏付けられて来た近年においては︑一層︑その解釈が
改めて脚光を浴びているように見受けられる一方︑単に﹁平泉にあるさまざまな鎮守を書き連ねたもの﹂にすぎない
との見解もあり︑現状では︑なお両説とも検討の余地があるように見受けられる︵平泉文化研究会編﹃日本史の中の
柳之御所跡﹄︹平成五年七月︺︶︒
しかしながら︑問題の記事に見える鎮守社各社の比定地もまた︑必ずしも確実ではない現在︑私は︑今一度﹃吾妻
鏡﹄の原史料に立ち戻って︑なお検討しておくべき事柄があるように思う︒︵以下に述べることとは別に︑結局﹁鎮
守﹂としては中央の﹁惣社﹂のみで︑その﹁惣社﹂のそれぞれ東・西・南・北の勧請社を挙示したもの︑すなわち問
題の記事の﹁惣社﹂は東西南北の諸勧請社とは別のものではなく︑その総称もしくは実態そのもの︑という解釈も一
つの可能性としてはあるように思うので︑ここに記し留めておきたい︒︶
まず鎮守社の記事に注目すると︑確かに現状において︑問題の記事は︑﹁一関山中尊寺事﹂﹁一毛越寺事﹂﹁一
無量光院︿号新御堂﹀事﹂に続く独立項目になってはいるが︑その実︑中尊寺の項には﹁鎮守即南方崇敬日吉社︑
北方勧請白山宮﹂︑また毛越寺の項にもやはり﹁鎮守者︑惣社・金峯山︑奉崇東西也﹂と見えているのに︑無量光院
の項には︑鎮守社の記載が無い︒すでに記載のあるものも含めて﹁平泉にあるさまざまな鎮守を書き連ねたもの﹂と 天神信仰の地域的拡大
― 10 ―
解する場合︑前後で明らかに矛盾が生じることはすでに指摘がある通りで︑それの反論としての﹁等社也﹂の文字の
解釈も当時の通用例にはそぐわないものであって︑ただちには承服しがたい︒なおまた︑
無量光院の項の
﹁ 三重宝
塔︑院内荘厳︑悉以所模宇治平等院也﹂の文句と鎮守の項の﹁悉以模本社之儀﹂との文句の類似も注意されるところ
であり︑結局私は︑問題の鎮守社の記事はすべて︑直前の無量光院のそれではないかとの可能性を新たに提起したい
と考えるものである︒
これに関しては︑この際さらに︑﹁寺塔已下注文﹂全体の問題も︑私はなお検討の余地があるように思う︒すなわ
ち︑まず第一に︑﹃吾妻鏡﹄文治五年九月十七日条の冒頭に﹁清衡已下三代造立堂舎事︑源忠已講・心蓮大法師等注
献之︑親能朝臣覧之︑二品忽催御信心﹂云々と見える一方︑これに対応すべき﹁寺塔已下注文﹂には小字で﹁衆徒注
申之﹂と見えるのとは︑明らかに不整合がある︒この点は︑これに先立つ︑同書文治五年九月十日条に﹁奥州関山中
尊寺経蔵別当大法師心蓮﹂︑また同十一日条にも﹁平泉内寺々住侶源忠已講・心蓮大法師・快能等参上﹂と見えるこ
とからすれば︑一層︑不自然の感が深い︒
また第二に︑﹃吾妻鏡﹄収録の﹁寺塔已下注文﹂は︑原形を保った形での引用がなされておらず︑何らかの省略な
いし削除部分があったはずである︑との指摘もあり︵前掲﹃日本史の中の柳之御所跡﹄︶︑したがって現状の記事の様
態を絶対的なものとして拘泥する必要は無く︑﹃吾妻鏡﹄編纂上の錯誤等も皆無であったとは言えなかろう︒
さらに第三に︑例えば﹁毛越寺事﹂の中に見える﹁仏師雲慶﹂のエピソードを取り上げてみよう︒﹁雲慶﹂なる仏
師のことは︑同じ﹃吾妻鏡﹄では︑他に建保四年︵一二一六︶正月十七日・二十八日︑同六年十二月二日︑貞応二年
︵一二二三︶八月二十七日の各条にも見え︑その他若干の史料に
も所見し
︑ 古 来
︑ 有名な仏師運
慶︵?〜
一二二三
︶
― 11 ―
天神信仰の地域的拡大
その人と見るのが通説であろう︒しかしながら︑﹁寺塔已下注文﹂に見えるエピソードに限って言えば︑その内容か
ら︑早くより︑その史実性が疑われており︑﹁おそらく本寺︵毛越寺││竹居︑注︶の縁起を飾るために付け加えら
れた説話にすぎないものと思われる﹂とも評価されている︵小林剛﹃仏師運慶の研究﹄︹昭和二十九年九月︺︒また三
山進﹃鎌倉と運慶﹄︹昭和五十一年七月︺も参照︶︒
もしそうだとすれば︑従来等閑に付されていた問題は︑そうした説話の成立年代であり︑ひいては︑この説話を含
む﹁寺塔已下注文﹂全体の成立年代が問われて来よう︒確かに文治五年を一つの定点としてみると︑それより以前の
文治二年には平︵北条︶時政の注文に応じて伊豆願成就院の諸像を造り始め︑同五年にも平︵和田︶義盛を願主とす
る逗子浄楽寺の諸像を造っているから︑当時東国に在住していたかどうかは別にして︑すでにこの時点で東国の有力
武士との深い係わりがあったことは認められ︑問題の説話が生まれる必要条件は文治五年当時に存在していたとは言
えようが︑その一方︑逆に︑そうした時期に︑あのような内容の説話が果たして生まれ得るかどうかの積極的背景︑
言わば十分条件を問うてみると︑文治五年当時もしくはそれ以前としては年代的に早きに過ぎ︑むしろ︑その年代の
頃にはかえって︑あのような内容の説話は生まれ難いと見るべきではなかろうか︒すなわち︑文治五年を随分下った
時期︑あるいは早くとも運慶歿後に︵貞応二年︹一二二三︺十二月十一日歿︶登場しうる説話ではなかろうか︑とい
うのが私の見解である︒そのあたりは︑なお今後の精考に待つとしても︑従来は︑﹃吾妻鏡﹄の記載に従って文治五
年九月十七日の日付を疑うことなく︑取り扱われて来たが︑この際は︑先入観を取り払って再検討してみる必要があ
ることを問題提起しておきたいと思う︒
以上の諸点より︑﹃吾妻鏡﹄引用の﹁寺塔已下注文﹂それ自体にまだまだ問題点が少なくなく︑現状では︑問題の 天神信仰の地域的拡大
― 12 ―
記事は︑何らかの錯誤によって独立項目とはなっているが︑実際には無量光院の鎮守社と見うる可能性も︑なお皆無
とは言えないとの問題を提起し︑今後の一層の検討を期したい︒
︵4︶大和長谷寺の鎮守︵与喜天満宮︶
大和の長谷寺の鎮守神もまた天神道真公で︑同寺では︑これを与喜天満宮として
祀っている
︒ で は
︑ 天神の勧請
︵後述のように︑文献の上では地主神の交代という形をとっている︶はいつ頃のことであろうか︒今︑逵日出典氏の
﹃長谷寺史の研究﹄︵昭和五十四年十一月︶第八章﹁長谷寺にみる天神信仰﹂に従って通説を見てみよう︒
この件に関する最古の文献は﹃長谷寺験記﹄で︑同書上巻によれば︑まず天慶九年︵九四六︶九月二十日に菅公が
初瀬の里に影向して︑滝蔵権現に代わって新地主神となり︑ついで天暦二年︵九四八︶七月に鎮守社与喜天満宮を創
建︒その年の九月二十日には同天満宮祭礼を始めたという︒ただし︑そこに示された年代は︑史実としてただちには
受け入れがたく︑永井義憲氏によって提示された﹃長谷寺験記﹄の成立年代︵一二〇〇〜一八年の間︶からすれば︑
与喜天神︵天満宮︶の鎮座は平安極末期のことと見なすべし︑と結論づけられている︒
一方︑長谷寺と天神信仰と言えば︑これまた著名な伝菅原道真筆﹃長谷寺縁起文﹄の存在も注目される︒逵氏によ
れば︑伴信友以来の指摘通り︑これもまた菅公在世中のものではなく︑実際には十二世紀半ば頃の成立と目されてい
る︒ただ︑もしそうだとすると︑伝菅公執筆の﹃長谷寺縁起文﹄成立の方が︑長谷寺への勧請よりも時期的に先行す
ることとなるが︑その点にはなお検討の余地があるように思われる︒
すなわち︑逵氏は︑﹁菅天神の長谷鎮座︵与喜天神の鎮座︶に就いて︑﹃︵長谷寺︶験記﹄に初めて出てくるが﹃︵長
― 13 ―
天神信仰の地域的拡大
谷寺︶縁起文﹄には出てこない︒従って﹃縁起文﹄の成立は︑﹃験記﹄より先でなければならないといわれたことに
就いて︑私も全く同感である﹂とされるのであるが︑私は︑それは根拠にはならないと考える︒何故なら︑寛平八年
︵八九六︶二月付をもって制作されたことになっている﹃長谷寺縁起文﹄に︑天慶九年︵九四六︶から天暦二年︵九
四八︶にかけてのこととされる天神の影向・鎮座の話が︑仮にすでに成立していたとしても︑書かれるはずがないか
らである︒
その一方︑私は︑﹃縁起文﹄の冒頭近くに﹁行基菩薩国符記七巻﹂云々︵群書類従本ならびに架蔵の複製本による︶
と見える事実にもっと注目する必要があり︑かつまた︑その点は例の伝行基作﹁日本図﹂の成立年代とも必ずや関わ
るものであろうことをこの際提言したいと考える︒後者について言えば︑﹁日本図﹂自体の成立と︑それが行基によ
って制作されたとする説の付会とは︑もとより別個のものとして考えなければならないが︑その時期の特定は︑今日
なお一致した見解を見ていない︒ただし︑いわゆる﹁行基式日本図﹂には﹁
仁和寺蔵日本
図﹂と﹁
金沢文庫蔵日本
図﹂との二系統があり︑後者は十二世紀末から十三世紀中頃までの東大寺に成立環境を求める仮説が近年提起されて
いる︵応地利明﹃絵地図の世界像﹄︑平成八年十二月︶︒ちなみに伝行基作﹁日本図﹂の現存最古のものは︑嘉元三年
︵一三〇五︶書写の仁和寺本である︒
また前者の﹁行基菩薩国符記七巻﹂については︑その実在すらも定かではなく︵七巻という分量は︑五畿﹁七道﹂
よりの案出とも考えられる
︶︑
﹃ 縁起文
﹄ 以外では
︑ 永仁二年
︵ 一二九四
︶ 書写の元奥書を留める
﹃ 本朝 書籍目録
﹄
︵一名﹃仁和寺書籍目録﹄︶の写本に﹁国府記七巻︿行基菩薩撰﹀﹂と見えるにすぎないのが現状であり︑同目録の
原形は十二世紀末にさかのぼりうるとしても︑﹁国府記﹂云々の記載が増補・ないし追記された可能性も皆無とは言 天神信仰の地域的拡大
― 14 ―
えない︒
さらに右両者に関わりが深いと推定される︑行基の日本国内遍歴説は︑﹁問︑以我国習独古形方如何︑答︑行基菩
薩記云︑日本其独古云︑謂意行基菩薩日本遍歴定国境開田畠給︑其時十人可作田変十人被雇︑乃至百人可作田変百人
被雇︑如此変作我国田畠開給︑其時感見様︿片﹀図給︑其形独古形也云々﹂︑あるいは﹁日本国独胡形事︑行基菩薩
記曰︑日本国独胡形云々﹂などという形で︑それぞれ天台僧光宗撰﹃溪嵐拾葉集﹄の﹁山王御事﹂・﹁弁財天縁起﹂の
各項目に所見し︑後者は文保二年︵一三一八︶の成立であることも考慮に入れる必要があろう︒以上の諸点を総合す
るに︑いずれにしても﹃縁起文﹄の十二世紀半ば成立説には無理があり︑早くとも十二世紀末期︑恐らくは十三世紀
に入ってからの成立と見るべきではなかろうか︒
その点︑長谷寺と天神信仰との関係を示す年代の確実な史料の一つとして︑与喜天満宮に伝えられている木造男神
像があり︑その背部には﹁奉造立/与喜大明神/御正体一体/勧人善阿弥陀仏/正元元年︿己未﹀五月八日﹂という
墨書銘があり︵正元元年は一二五九年︶︑頭部には﹁長谷寺の十一面観音﹂を陰刻した六葉形の鏡が蔵められていた
ことが知られているが︑銘文には例えば﹁与喜天神﹂ではなく﹁与喜大明神﹂とある事実は︑天神信仰勧請の観点か
らは少しく注意を要しよう︵岡直己﹃神像彫刻の研究﹄第二編第五章︑昭和四十一年三月︶︒
なお︑藤原経光の日記﹃民経記﹄嘉禄二年︵一二二五︶十月の条によると︑この月の二十日から二十四日までの連
日︑経光の父頼資が北野に参詣し︵時に賀茂社とともに︶︑時に経光らも同行しているが︑これは︑同月二十二日の
長谷寺再興供養︵長谷寺は建保七年︹一二一九︺に本堂ほかを焼失している︶に際して︑父頼資がその供養願文を草
する任にあったこと︵﹃民経記﹄同月一日・十七日・二十二日・二十五日の各条︶と無関係とは思われず︑長谷寺と
― 15 ―
天神信仰の地域的拡大
菅公との密接な関係を踏まえたものとして︑今後に注意を促しておきたいと思う︒
︵5︶摂津仏照山寺
a正治二年︵一二〇〇︶二月日付仏照山堂舎造作目録︵図書寮叢刊﹃壬生家文書﹄一三八三号︒﹁僧真空堂舎造作
目録﹂の名称で﹃鎌倉遺文﹄にも一一一四号として収載︶に︑
□□所仏照山堂舎已下造作目録
合弐拾宇者
講堂念仏堂
食堂鐘楼
経蔵物︵惣カ︶社
拝殿僧房十二宇内︿大房六︑庵室六﹀
已上︑此外惣門・高蔵・馬宿等可在之︑
︵以下︑省略︶
またd建永二年︵一二〇七︶七月日付の沙弥真空願文︵﹃願文集﹄収載︑﹃鎌倉遺文﹄一六九二号︒なお続群書類従本
﹃願文集﹄では︑冒頭目録に﹁摂津国仏照山堂供養願文一首﹂と見え︑願文冒頭にも﹁摂津国仏照山堂供養﹂の文字
がある︶に︑
敬白 天神信仰の地域的拡大
― 16 ―
︵中略︶一建立総社一宇
所奉勧請八幡・稲荷・春日・々吉・住吉・広田・
園・北野・熊野・日︵白カ︶山・布留・伊豆権現并十二所等也︑︵以下︑省略︶
さらにe嘉禎二年︵一二三六︶十月日付の摂津仏光寺供養願文︵﹃願文集﹄収載︑﹃鎌倉遺文﹄五〇七六号︒なお続群
書類従本﹃願文集﹄では︑冒頭目録に﹁能勢郡仏光寺堂供養願文一首﹂と見え︑
願文冒頭にも
﹁ 能勢郡仏光寺堂供
養﹂の文字がある︶にも︑
敬白︵中略︶鎮主神殿一宇︑奉勧請八幡大
門下十二所大明神︑右堂舎仏経甄録如此︑︵中略︶又建立鎮守社︑奉勧請諸神明︑︵以下︑省略︶
と見え︑その間の関連史料としてb建永二年二月十五日付僧真空寄進状︵﹃壬生家文書﹄一三八二号︑﹃鎌倉遺文﹄一
六七〇号︶︑ならびにc同年三月十六日付左大史小槻国宗下文案︵﹃
壬生家文書
﹄ 八五号
︑﹃
鎌倉遺文
﹄ 一六七四号
︶
の計五通の文書︵年代順にa〜eの記号を付した︶を総合すると︑摂津国能勢郡の仏照山寺︵仏光寺︶の伽藍中に︑
八幡以下十二所の権現を祀る惣社があり︑その内の一体が北野であったことが知られる︒
今︑同寺について最も詳しい﹃豊能町史史料編﹄︵昭和五十九年八月︶ならびに﹃豊能町史本文編﹄︵昭和六十
二年十一月︶によると︵ただし︑両書にはcの史料への言及が無いので︑以下には若干の私見を加える︶︑当寺は︑
― 17 ―
天神信仰の地域的拡大
摂津国能勢郡の与野山︵のち仏照山︶の山村を故郷とする僧真空が︑能勢採銅所の管領者小槻国宗を檀越として︑採
銅所ならびに付近の山村住民らのために建立した寺院であった︒そして︑前記五通の文書のうち︑伽藍の明細が知ら
れるa・d・eの記述を整理して︑堂舎と安置仏等︵彫刻・画像︶の要点を整理すると次のようになる︵同一と思わ
れる堂舎ごとに1〜
1 4
の通し番号を付す︶︒1a講堂
d三間四面檜皮葺講堂
皆金色八尺阿弥陀如来像一体︵修復安置︶
三尺五菩薩像各一体
図絵釈迦三尊像一鋪
天井図絵両部曼荼羅︑母屋四柱図絵諸仏菩薩像
仏後壁図絵釈迦八相并大地獄
2a念仏堂
d三間四面檜皮葺念仏堂
皆金色三尺阿弥陀如来像一体
3a食堂
d三間四面檜皮葺食堂
皆金色八尺阿弥陀如来像一体 天神信仰の地域的拡大
― 18 ―
同十二光仏像各一体
彩色等身地蔵菩薩像一体︵修復安置︶
4e三重塔
釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩像各一体︑梵釈四王六天︵第一重︶
図絵釈迦八相儀・阿弥陀三尊光明像・阿弥陀来迎儀・九品浄土儀︑
五部大乗経各一部ほか安置︵以上︑第二重︶
地蔵菩薩・舎利弗尊者・
魔法王像各一体︑図絵
魔宮并十王像・六道衆生往生人︵以上︑第三重︶5e三間四面堂舎
阿弥陀如来丈六像
観音・勢至二菩薩像︑十二光仏像各一体
6a鐘楼
d鐘楼
e鐘楼
四尺八寸鐘︵舎兄右衛門尉大江長資⁝⁝︶
7a経蔵
8a物︵惣カ︶社
― 19 ―
天神信仰の地域的拡大
d惣社
e鎮主神殿︵鎮守社︶
9a拝殿
1 0
a僧房十二宇内︿大房六︑庵室六﹀d僧房十二宇
皆金色阿弥陀如来像・薬師如来像各一体
図絵阿弥陀如来像三鋪︑観世音菩薩像二鋪︑地蔵菩薩像一鋪
1 1
a惣門1 2
a高蔵1 3
a馬宿1 4
d温室e湯屋︵浴室︶
以上の整理結果と︑他のb・c二史料を併せて︑当寺の造営経過を整理すると次のようになろう︒
正治二年︵一二〇〇︶二月︑僧真空︑仏照寺の造営を企画し︑その堂舎造作目録を記す︒
建永二年︵一二〇七︶二月十五日︑僧真空︑仏照寺堂舎を能勢郡採銅所の祈祷所として寄進する︒
三月十六日︑仏照寺山内での狩猟を禁止する︒
七月︑講堂・食堂・念仏堂・鐘楼・温室・惣社の諸伽藍の建立供養︒ 天神信仰の地域的拡大
― 20 ―
嘉禎二年︵一二三六︶十月︑新たに三重塔・三間四面堂を建立し︑鐘を懸けて供養︒
真空は︑建久六年︵一一九五︶当時の年齢が二十五歳であることを自ら書き記しているから︵d︶︑生年は承安元
年︵一一七一︶と逆算され︑また年代の最も下る嘉禎二年︵一二三六︶当時は六十六歳と推算される︒eに︑﹁舎兄
右衛門尉大江長資﹂︑また﹁亡兄右金吾校尉幽霊在世之時﹂云々と見え︑嘉禎二年の堂舎追加供養は︑亡兄の追善で
もあった事とともに︑僧真空が大江氏の出身であることも知り得て興味深い︵ただし︑今のところ﹃尊卑分脈﹄ほか
の系図類に大江長資の名は管見に入らない︶︒
︵6︶久米寺
﹃和州久米寺流記﹄の﹁天満天神御託宣事﹂の中に
天暦六年︵九五二︶二月三日︑託于八歳之少女而言︑我在世之時︑詣于斯寺而結縁︑於此留神於斯砌︑七軸之
経王者︑雖弘于世︑三粒之駄都者︑留猶在奥︑即垂跡於当崛︑永為擁護鎮将云々︑仍天暦六年国宣符云︑去春
依霊託︑久米寺東塔基︑敬奉祀天満御霊︑是為鎮護国家興法利生也︑自今以後︑久米長者民人等︑毎年八月廿
五日︑応奉祭之者云々︑︵﹃大日本史料﹄引用本︶
と見えている︒これによると︑天暦六年︵九五二︶二月三日の託宣に基づき︑その年のうちに﹁国宣符﹂によって久
米寺の﹁東塔基﹂に祀り︑これより以後︑﹁久米長者民人﹂が毎年八月二十五日に祭ることを恒例化したというので
ある︒しかしながら︑これを直ちに歴史的事実と見なせるかどうかは検討を要する︒
久米の仙人で名高い久米寺︵大和国高市郡内︑現奈良県橿原市内に所在︒古義真言宗︶には︑金堂・講堂・鐘楼・
― 21 ―
天神信仰の地域的拡大
経蔵・大門・中門のほか東西両塔が早くに建てられ︑後︑インドより来日した善無畏三蔵が東塔院大塔︵多宝大塔︶
を建て︑入唐前の空海がこの塔の下で﹃大毘盧遮那経﹄を感得したという伝承がある︒当寺の山号を霊禅山東塔院と
称するが︑ことほどさように当寺にとっては︑この大塔が信仰の中心伽藍であり︑﹃流記﹄中の﹁東塔﹂もこれを指
すものとみてよかろう︒
その上で︑﹃流記﹄には﹁代々天皇臨幸事﹂として︑宇多天皇が寛平七年︵八九五︶十月八日に︑また醍醐天皇が
昌泰元年︵八九八︶十月二十三日にそれぞれ当寺に臨幸し︑そのいずれにも菅原道真・都良香・素性法師の三人が同
行していたという記事を載せている点が注意される︒しかし︑前者については行幸の史実そのものに傍証を欠き︑後
者については傍証はあるが︑事実は宇多上皇の御幸であり︑三人の同行者のうちの都良香︑また御幸先のうちに久米
寺の名も見えない︒ただ︑十月二十三日には少なくとも久米寺の近辺を通過したことは確かで︑しかも一行がその日
は﹁大和国高市郡右大将︵
=
菅 原 道 真
︶ 山 庄
﹂ に 留 宿している事実がある
︵﹃
扶桑略記
﹄︒
また
﹃ 後撰集正義
﹄ 所 引
﹁菅家御記﹂にも同趣の記事がある︶︒
他方︑﹃流記﹄中の︑天暦六年託宣以後の経過についても傍証は無く︑今のところ︑久米寺の近辺に道真の山荘が
あった史実を核にして︑﹃和州久米寺流記﹄の成立までに︑そうした伝承が発生したものと見るほかなかろう︒その
﹃流記﹄の成立年代そのものが未詳で︵﹃群書解題﹄︑鈴木学術財団版﹃大日本仏教全書﹄解題︶︑現存写本で最も年代
のさかのぼるもの︵高野山大学蔵本││元亨三年︹一三二三︺︑宮内庁書陵部蔵本││鎌倉時代︒以上﹃補訂版国書
総目録﹄による︶を手掛かりとせざるを得ないのが現状である︒ 天神信仰の地域的拡大
― 22 ―
二各地における天満宮・天神社の鎮座
次に︑各地における天満宮・天神社の鎮座の様相を︑やはり十三世紀半ば頃までに限って︑確認しておきたい︒
︵7︶摂津国天満宮
平安時代末期成立の漢詩集﹃本朝無題詩﹄の巻十には︑﹁九月尽日陪天満天神祠︿摂州﹀﹂と題する藤原敦基︵一〇
四六〜一一〇六︶・敦光︵一〇六三〜一一四四︶兄弟の七言十二句の詩各一首がおさめられている︒今︑本間洋一氏
注釈﹃本朝無題詩全注釈﹄三︵平成六年五月︶に従って︑次に原文・読み下し文を掲げてみよう︒
・藤原敦基の詩
渡口社壇訪土民渡口の社壇を土民に訪へば
説言天満是天神説言く天満是れ天神なりと
華栄便祝瑞籬菊華栄便ち祝る瑞籬の菊
蒸礼近羞幽澗蘋蒸礼近く羞む幽澗の蘋
葉錦敗風秋尽夕葉錦は風に敗れたり秋の尽きなんとする夕
木綿翻雪日晴辰木綿は雪を翻したり日の晴れたる辰
重巌松老無知歳重巌の松老いて歳を知ること無く
― 23 ―
天神信仰の地域的拡大
激浪花飛鎮駐春激浪の花飛んで鎮に春を駐めたり
城北霊祠猶仰徳城北の霊祠に猶徳を仰ぎ
河陽古廟更歌仁河陽の古廟に更に仁を歌はん
村閭遠近低頭至村閭遠近より頭を低れて至り
報賽黄昏帰海浜報賽して黄昏に海浜に帰る
・藤原敦光の詩
枌楡社下思丁寧枌楡の社の下思ひ丁寧なり
天気蕭条地勝形天気蕭条として地は勝形
渡口潮添寒浪白渡口に潮添ひて寒浪白く
江干松老暮煙青江干に松老いて暮煙青し
叢祠基趾多経歳叢祠の基趾多く歳を経て
槐鼎官班昔応星槐鼎の官班昔は星に応ず
菊混紙銭花已悴菊は紙銭と混りて花已に悴け
林欺錦繖葉将零林は錦繖かと欺はれて葉将に零ちんとす
三秋徂景帰羈路三秋の徂景は羈路に帰すとも
万代祝言唱廟庭万代の祝言は廟庭に唱ふ
蓬島李門尋累跡蓬島李門累跡を尋ね 天神信仰の地域的拡大
― 24 ―
寄望高仰徳風馨望を寄せて高く仰がん徳風の馨しきを
以上の二首は︑現在の大阪天満宮︵大阪市北区天神橋二丁目︶の前身にあたる︑摂津国の﹁天満天神祠﹂︑ならび
にその周辺の景観を詠じた詩として︑大正八年︵一九一九︶同天満宮境内に碑刻され︑また瀧川政次郎﹁大阪天満宮
境内に建つ藤原敦基敦光の詩と平安初期における天満の歴史地理││大阪天満宮創祀年代考││﹂︵﹃史迹と美術﹄第
五七一号︑昭和六十二年一月︒﹁大阪天満宮の創始年代考﹂と改題して︑大阪天満宮史料室編﹃大阪天満宮史の研究﹄
に再録︶によって詳細な考察が行なわれ︑近年にも北山円正﹁藤原敦基・敦光﹁九月尽日︑陪天満天神祠﹂注釈﹂上
・下︵﹃神戸女子大学文学部紀要﹄第三〇・三一巻︑平成九年三月︑十年三月︶によって両詩の詳細かつ新たな注釈
とともに︑両詩の詩趣の相違にまで踏み込んだ注目すべき見解を提示されているので︑両詩から知り得る︑同天満宮
の実態については︑以上の先行文献を掲げることに代えたいと思う︒
そもそも大阪天満宮は︑社伝によれば︑このあたりには︑難波長柄豊碕宮遷都に際して奉斎された大将軍社がすで
に鎮座し︑延喜元年︵九〇一︶道真が大宰府に向かう途中に立ち寄り︑天暦七年︵九五三︶に︑村上天皇の勅願によ
って道真を祀る天満宮を同社境内に創祀したのが始まりと伝えている︵日本歴史地名大系﹃大阪府の地名﹄︶が︑確
実な創始年代を知り得る最も重要な史料は︑今のところ右両詩のみであり︑したがって現状では︑両詩の制作年代を
手掛かりとせざるを得ない︒
これにつき瀧川氏は︑両詩を白河天皇寛治四年︵一〇九〇︶︑敦基四十六歳︑敦光三十歳︵年齢はママ︶の時頃の
作と推定した上で︑同天満宮の創祀を﹁敦基︑敦光の詩の成った白河天皇の寛治年中を距ること五︑六十年の昔であ
る後朱雀天皇の長暦年中と後一条天皇の万寿年中との間に在らう﹂との推断を提示しておられるが︑その推定作詩年
― 25 ―
天神信仰の地域的拡大
代そのものに根拠を提示しておられず︑なお検討の余地がある︒また北山氏の前掲論文では︑藤原敦光の大学寮入学
時︑すなわち延久年間︵一〇六九〜七四︶から承保年間︵一〇七四〜七七︶にかけての頃を上限としうるのみで︑こ
れ以上は明らかにできないとされ︑さらに最近では︑﹁︵敦基・敦光兄弟の参拝の年代について︶近年﹁天養元年︵一
一四四︶﹂と記した史料が見つかったのです﹂として︑その干支を一回り溯らせた応徳元年︵一〇八四︶説も出たが
︵高島幸次﹁藤原敦基・敦光の碑﹂︑﹃てんまてんじん﹄第三四号︑平成十年七月︶︑これまた基礎となる史料が明示さ
れておらず︑しかも一定の操作を経た結論であるから︑一つの可能性にすぎない︒しかしながら︑平安時代に限って
は︑同天満宮に関する確かな史料は他に見出せず︑右二首の詩は︑同天満宮の創始年代の下限││今のところ藤原敦
基の歿年の嘉承元年︵一一〇六︶││を示唆する貴重な史料と位置付けられよう︒
なお︑前者敦基の詩の︑第九句目の﹁城北霊祠﹂と第一〇句目の﹁河陽古廟﹂につき︑前者が北野社︵現︑北野天
満宮︶を指すことは異論が無いが︑後者を︑瀧川氏・本間氏とも長岡天満宮︵山城国乙訓郡内︑現京都府長岡京市天
神に鎮座︶と解しておられる点は問題があり︑むしろ吉祥院︵現京都市南区の吉祥院天満宮︶と解するべきことを拙
稿﹁菅原道真歿後の吉祥院││天神信仰の一磁場としての吉祥院の動向││﹂︵﹃文化史学﹄第五七号︑平成十三年十
一月︶に論じたが︑それより以前に︑すでに北山氏の前掲論文に同様な解釈が提示されているのを迂闊にも見落とし
ていたので︑ここに明記するとともに︑同論文をぜひ参看されたい︒ただし北山氏が︑右の﹁河陽﹂に関して︑﹁桂
川であった可能性がない訳ではない﹂とされながらも︑結局﹁鴨川の北にある︵古い廟所吉祥院︶﹂とされている点
には従えないことを︑付記しておく︒ 天神信仰の地域的拡大
― 26 ―
︵8︶山城国天満宮
同じく﹃本朝無題詩﹄巻九には︑﹁春日円覚寺即事﹂と題する︑菅原在良︵一〇四一頃〜一一二一︶作の七言律詩
が収められており︑本間洋一氏に従って左記に掲げるごとく︑平安京近郊の円覚寺の東に﹁天満宮祠﹂があったこと
が知られる︒
策馬脂車思眇焉馬に策ち車に脂し思ひ眇焉たり
乗春遊興望難遷春に乗じて遊興し望み遷り難し
路過華洛皇城地路を過ぐ華洛皇城の地
隣卜叢祠祖廟
隣を卜む叢祠祖廟の
寺東有天満宮祠︑故云︑
禅樹枝低松偃蹇禅樹の枝は低れて松偃蹇たり
清泉石浅水潺湲清泉の石は浅くして水潺湲たり
今来円覚勝形境今円覚の勝形の境に来り
念仏遥期九品蓮念仏して遥かに期す九品の蓮
山城円覚寺は︑藤原基経︵八三六〜九一︶の粟田山荘︵粟田院︶に由来し︑清和上皇の落飾︵八七九年︶直後に円
覚寺と号する寺院になったと見られ︑その所在地は現京都市左京区北白川下池田町の白川東畔あたりと推定されてい
る︵角田文衞﹁北白川廃寺の問題﹂︹橿原考古学研究所編﹃日本古文化論攷﹄所収︑昭和四十五年五月︒のち同著作
集2﹃国分寺と古代寺院﹄ならびに同﹃王朝の残映﹄に再録︺︶︒
― 27 ―
天神信仰の地域的拡大
このことは︑﹃諸院宮御移徙部類記﹄︵﹃伏見宮御記録﹄利四十八︶のうちの︑寛喜二年︵一二三〇︶八月二十一日
の︑北白河院︵藤原陳子︶が持明院殿から北白河殿に移徙された時の記録に
室町南行︑武者小路西行︑到町更又南行︑一条大路東行︑到室町又南折行︑陽明門大路又東行︑烏丸南行︑到
待賢門大路更東折︑洞院東大路又南行︑郁芳門大路□行︑到朱雀大路更北折行︑更到陽明門大路又東折︑到河
原北行︑自鷹司末東行︑過天満宮前︑到北白河殿︑
と見える︵﹃大日本史料﹄第五編之五による︶ことによっても傍証されるとともに︑以上二史料に見える﹁天満宮祠﹂
ないし﹁天満宮﹂は︑したがって現北白川天満宮︵左京区北白川仕伏町︶の前身
かと推定されている
︒ ただし同社
は︑足利義政以前は円覚寺推定所在地より西方の現左京区北白川久保田町にあったとする説もあり︑なお検討の余地
無しとしないが︑在良が﹁隣を卜む叢祠祖廟の
﹂と述べていることから︑円覚寺の東方隣接地に位置していたことは動かしがたいであろう︒
ただし︑菅原在良の伝・事績について福井迪子﹁菅原在良考││その伝と文学活動││﹂︵今井源衛教授退官記念
﹃文学論藻﹄所収︑昭和五十七年六月︒のち同﹃一条朝文壇の研究﹄に再録︶があるが︑右の詩の詠作年代は明らか
ではなく︑同天満宮の創始の時期や︑この地に創始を見た背景等は未詳である︒今のところは︑在良が︑菅家七代の
子孫として祖業への思いを絶やさず︑学儒としての顕職を兼帯する︵式部大輔兼文章博士に至る︶一方︑藤原忠実の
家司を勤め︑その子忠通の若き日の文芸サロン等で活躍するなど︑藤原氏摂関家との繋がりが深かったこと︑また︑
その間にあって長治元年︵一一〇四︶に摂津守を兼任し︵﹃中右記﹄二月六日条︒前項﹁摂津国天満宮﹂参照︶︑その
年の十一月には北野社奉幣使を勤めたこと︵同十一月二十二日・二十五日条︶が知られるほか︑さらに︑後世元徳二 天神信仰の地域的拡大
― 28 ―
年︵一三三〇︶十一月二十四日に従三位が贈られ︑やがて北野社摂社の一つ北野三位殿社として祀
られるに至った
︵﹃尊卑分脈﹄︒なお在良の父定義も︑後世に北野社摂社和泉殿として祀られている︶事実などが注目されよう︒
︵9︶筑後国天満宮
九州福岡県の梅津文書中に
・筑後国北野天満宮田楽政所職事
副料田壱町徳有法師
右︑以彼職所補任︹如︑脱︺件︑
仁平二年二月十三日
座主兼宮師大法師︵花押︶
地頭大藍藤原家実朝臣
・下︵花押︶
筑後国北野天満宮田楽政所職事
副料田壱町徳有法師
右︑以彼職所補任如件︑
永万元年五月六日
座主兼宮師大法師
― 29 ―
天神信仰の地域的拡大
地頭兼下司大藍藤原家兼朝臣
の二通の文書があり︵﹃平安遺文﹄二七五二号︑三三五七号︶︑それぞれ仁平二年︵一一五二︶二月十三日︑及び永万
元年︵一一六五︶五月六日付で︑徳有法師を筑後国北野天満宮田楽政所職に補任したことが知られ︑ひいて︑これ以
前に﹁筑後国北野天満宮﹂が鎮座しており︑さらに同宮には当時﹁座主兼宮師大法師﹂某が存したことも知られる︒
同宮は︑筑後国御井郡内︑現福岡県三井郡北野町に鎮座する北野天満宮に相当し︑京都北野天満宮の最初の神領と
される筑後河北荘の鎮守社として勧請されたとされる︵角川日本地名大辞典﹃福岡県﹄︑阿部猛・佐藤和彦編﹃日本
荘園大辞典﹄︶︒同社所蔵の﹃筑後国北野天神縁起絵巻﹄︵福岡県文化財︒江戸時代︶は︑天喜二年︵一〇五四︶に関
白藤原道隆の孫貞仙僧正による社殿の造営を伝えるが︑傍証史料を欠いており︑今のところ右二通の文書が当社の存
在を示す最古の史料といえよう︒なお元久元年︵一二〇〇︶六月には︑河北荘における︑﹁家兼﹂︵後者の文書に見え
る藤原家兼と同一人物とされる︶の地頭職を停止している︵﹃鎌倉遺文﹄補三六三号︶︒
︵
1 0
︶飛騨国天満宮宮内庁書陵部蔵﹃中右記部類﹄巻十六裏文書中の︑年月日未詳飛騨国雑物進未注進状︵﹃平安遺文﹄三四一〇号︶に
飛騨国
仁安元年色々雑物進未事
合
︵中略︶ 天神信仰の地域的拡大
― 30 ―
武行名十七町十ト
本田十六丁十ト
除田九反二百七十ト
五反一宮上分田内四反天満宮免五
︵以下︑略︶
と見え︑仁安元年︵一一六六︶当時︑すでに飛騨国内に﹁天満宮﹂の所在が知られる︒右の記事のうち﹁一宮﹂は飛
騨国大野郡内に所在した水無神社を指すが︵中世諸国一宮制研究会編﹃中世諸国一宮制の基礎的研究﹄︹平成十二年
二月︺︶︑﹁天満宮﹂の所在地は未詳︒やや後世の十五世紀後半には︑飛騨国荒城郡荒木郷内︵現岐阜県吉城郡国府町︶
に北野社領があったことが知ら
れるから
︵ 竹内秀雄
﹃ 天満宮
﹄︹
昭和四十三年三月
︺︑
角川日本地名大辞典
﹃ 岐 阜
県﹄︶︑その付近に所在した可能性もあり︑その場合︑飛騨国府との親近性も注目されるところである︒
︵
1 1
︶松崎天神︵防府天満宮︶現山口県防府市松崎町に鎮座する防府天満宮︵古くは松崎天神・松崎神社などとも︶は︑応長元年︵一三一一︶制
作の紙本着色﹃松崎天神縁起絵巻﹄六巻︵重文︶ほか多数の社宝を有する大社で︑菅原道真が大宰府配流の途中︑周
防勝間浦に立ち寄り︑﹁此地いまだ帝土をはなれず︑願は居をこの所にしめむ﹂と誓ったところから︑時の国司によ
り︑延喜四年︵九〇四︶に創建を見たと伝えている︵前記絵巻詞書︶︒
しかしながら︑それらの社伝は確実な傍証を欠いており︑今のところ︑社宝の一つ金銅宝塔︵重文︶の塔身背面の
― 31 ―
天神信仰の地域的拡大
刻銘︵﹃平安遺文﹄金石文編四一五号︶に
奉鋳
一尺三寸金銅塔一基
右意趣者山陽防州
院分御時忝為眼代
奉行国務仍為祈請
太上法皇現世百年
後生善所願主季助
奉公哀憐子孫繁昌
国土豊饒諸氏与楽
於件多宝当国守護
天神宝前所安置也
承安二年︿壬辰﹀二月廿九日
前筑後守従五位下藤原朝臣季助
とあるのが︑当社に関する最古の確実な史料とすべきであろう︵なお︑奈良国立博物館編﹃仏教美術﹄中国三︹昭和
五十二年三月︺も参照︶︒また︑これに近接する年代の史料としては︑俊乗房重源︵一一二一〜一二〇六︶が︑最晩
年に著した﹃南無阿弥陀仏作善集﹄に︵小林剛編﹃俊乗房重源史料集成﹄による︶ 天神信仰の地域的拡大
― 32 ―
奉造宮一宮御宝殿并拝殿三面廻廊楼門
遠石宮八幡宮小松原八幡三所末武宮御宝殿八幡三ゝ
天神宮御宝殿并拝殿三面廻廊楼門
と記されるうちの﹁天神宮﹂以下が当社に該当するものと見られる︒
すなわち︑前者によると︑眼代として周防国の国務を奉行した藤原季助が願主となって︑太上法皇︵後白河院︶の
﹁現世百年︑後生善所﹂をはじめ︑子孫繁昌・国土豊饒などを祈願して制作し︑﹁当国守護天神宝前﹂に安置したこと
が判り︑時に承安二年︵一一七二︶のことであるから︑当社の鎮座がこれ以前であることも判明する︒
ただ︑願主藤原季助の経歴﹁前筑後守﹂は︑他史料による傍証が管見には入らず︑検討の余地が皆無とは言えない
が︑いずれにしろ︑当社の位置が周防国府にも近接している事実は︵前掲﹃中世諸国一宮制の基礎的研究﹄︶︑本宝塔
銘文や︑先の所伝ともども︑当社の場合も周防国の国務との深いかかわりを示しているものとして注目されよう︒例
えば︑正治二年︵一二〇〇︶の左記三通の周防国務関係文書の起請文言中には︑それぞれ
・三月十日付周防国在庁官人起請文案︵周防阿弥陀寺文書︑﹃鎌倉遺文﹄補三六〇号︶
当国鎮守二百余社・一宮・二宮・天満天神宮神罰冥罰
・十一月八日付・周防国司庁宣案︵周防阿弥陀寺文書︑﹃鎌倉遺文﹄一一六一号︶
一宮・玉祖・天満天神・春日・八幡守護善神王
・十一月付周防国在庁官人置文︵東大寺文書︑﹃鎌倉遺文﹄一一六三号︶
当国鎮守二百余社・一宮・二宮・天満天神宮神罰冥罰
― 33 ―
天神信仰の地域的拡大
と見えているのは︑そのことを裏書しているものであろう︒
なお︑これらに関して前記絵巻の制作発願者は﹁従五位下土師信定﹂と明記されて︑国司クラスの位階を帯びてい
るが︵小松茂美﹁松崎天神縁起││従五位下土師信定の勧進﹂︹﹃松崎天神縁起︵続日本の絵巻
2 2
︶﹄︑平成四年十月︺は︑土師信定を周防守と考定しておられるが︑なお検討の余地がある︒ただし小稿では︑同絵巻自体の諸問題は論外
としている︶︑
これまた
﹃ 吾妻鏡
﹄ 文治三年
︵ 一一八七
︶ 四月二十三日条収載の同年二月日付周防国在庁官人等解
︵﹃鎌倉遺文﹄二〇九号︶末尾の連署中に︑五名の土師宿禰姓の人物が見えており︑信定はあるいはその後裔かと推測
されるとともに︑同解が︑東大寺造営料所に充てられた周防国内の杣山よりの材木伐採作業を地頭が妨害するのを訴
え た
︑ 同 年 三月一日付の僧重源書状
︵﹃
鎌倉遺文
﹄ 二一〇号
︶ に添えられたものであることも注意されよう
︒ こ こ
に︑当社をめぐる周防国衙︵在庁官人ないし国司︶と僧重源との三者のネットワークが改めて浮かびあがってくるの
である︒︵
1 2
︶相模国天満宮・荏柄天神社現鎌倉市二階堂に鎮座する荏柄天神社も︑古くから鎌倉幕府ゆかりの天神社として名高いが︑もと社宝の﹃荏柄天
神縁起絵巻﹄三巻︵前田育徳会蔵︑重文︶は京都北野天満宮の縁起を主題としていて︑当社の縁起は語っておらず︑
草創に関しては︑江戸時代の﹃相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起﹄に︑長治元年︵一一〇四︶八月二十五日の天神画像降
臨の奇瑞を機に︑同画像安置の社殿を造営し︑のち源頼朝が鎌倉大蔵︵大倉︶に館を造営した際にも社殿を造立し︑
鬼門守護神として崇敬したことを伝えているにすぎない︵岡田実﹃荏柄天神社誌﹄︹昭和四十七年六月︺︶︒ 天神信仰の地域的拡大
― 34 ―
もとより︑それらはただちには史実とは見なしがたく︑さしあたりは﹃吾妻鏡﹄の左記一連の関係記事を︑まずは
手掛かりとするほかなかろう︒
1建仁二年︵一二〇二︶九月十一日
﹁荏柄社祭﹂があり︑大江広元が幕府の奉幣使となる︒
2建仁三年︵一二〇三︶九月二日
比企能員が源頼家と謀って平︵北条︶時政らを滅ぼそうとした時︑時政が﹁荏柄社﹂の前で天野蓮景・新田
忠常両人に能員の追伐を命じる︒
3建保元年︵一二一三︶二月二十五日〜二十六日
泉親衡の謀計に加わって捕らえられた渋河兼守が︑明暁に誅せられるにあたって愁緒に堪えず︑﹁荏柄廟前﹂
に十首の和歌を詠進する︒ついで︑たまたま﹁荏柄社﹂に参籠していた工藤祐高が︑この和歌を将軍御所に持
参し︑将軍実朝が︑これに感じて兼守の罪を免じる︒
4建保元年︵一二一三︶三月二十五日︑四月二日
三月二十五日︑和田義盛︑﹁荏柄﹂の前にある和田胤長の屋地の拝領を︑女房五条局を通じて申請し︑認め
られる︒しかし︑四月二日︑平︵北条︶義時︑和田胤長の﹁荏柄﹂前の屋地を拝領し︑金窪行親・安東忠家に
分給するにあたり︑和田義盛の代官を追い出す︒
5寛元二年︵一二四四︶七月二十日︑八月三日
市河掃部允高光法師︵法名見西︶の旧妻藤原氏某が︑落合泰宗と密通したとの嫌
疑を高光法師からかけら
― 35 ―
天神信仰の地域的拡大
れ︑旧妻の論申の結果︑七月二十日に︑落合泰宗と旧妻との両名が七箇日﹁荏柄社壇﹂に参籠して起請文を書
き進めるよう仰せ付けられる︒ついで︑旧妻が﹁荏柄社﹂において︑落合泰宗と密通せざる由の起請文を書い
て参籠したところ︑七日七夜その失無きことが確認され︑八月三日に︑高光領を旧妻に領承せしめることとす
る︒
6建長三年︵一二五一︶十月七日
薬師堂谷の火事が二階堂大路の南に延焼し︑宇佐見判官祐泰の﹁荏柄﹂の家の前に到る︒
7建長四年︵一二五二︶正月十二日・十三日
刑部僧正長賢︵﹃吾妻鏡人名総覧﹄によれば︑正しくは長厳︶の霊︑少女に憑いて託し︑後鳥羽院の使とし
て時頼邸に潜伏していたところ隆弁法印の転経により追い出されてしまったこと︑また﹁荏柄﹂の後山にいた
間に少女を目撃していたこと等を述べる︒翌日︑昨夜の霊託のことが時頼に報告される︒
8弘長三年︵一二六三︶十二月十七日
﹁荏柄社﹂の前失火し︑塔の辻に延焼して︑御息所の御産所に定められていた︑宮内権大輔長井時秀の家も
燃える︒
以上︑﹃吾妻鏡﹄における荏柄天神社関係記事すべての要旨のみを掲げてみたが︑4・6・7・8のように︑荏柄
天神社そのものに関するものとは言えない記事も半数を占め︑かつまた3・5のように︑﹃北野天神縁起﹄諸本に収
載されている霊験利生譚を髣髴とさせるエピソードもあり︑さらに4と5との間に三〇年余の空白︵
=
荏柄天神社のことが全く出て来ない︶もあって︑全般的に見ると︑一般に想像されているほど鎌倉幕府が荏柄天神社に重きを置い 天神信仰の地域的拡大
― 36 ―
ていたとは思えないのが私の第一印象である︒この点は︑同じ﹃吾妻鏡﹄における鶴岡八幡宮関係記事の頻出状況と
対比してみると︑著しい対照をなしていることは誰の目にも明らかであろう︒
それだけではなく︑第一︑一般的にいわれている源頼朝の﹁崇敬﹂についても︑﹃吾妻鏡﹄に何らの記事も無いこ
とは不審であり︑1の記事にしても︑確かに︑その年は菅原道真公三百回忌の節目の年
に当たってはいるが
︵ 前 掲
﹃荏柄天神社誌﹄︶︑何故九月十一日に祭礼が行なわれたかも不審である︒
そもそも広く鎌倉幕府と天神信仰との関係については︑改めて詳細な検討を必要としようが︑現時点での私見によ
れば︑寛喜二年︵一二三〇︶六月における幕府落雷事件とその対応︑また貞永元年︵
一二三二
︶ 七月に定められた
﹃御成敗式目﹄末尾付載の起請文言中に︑伊豆・箱根・三嶋・八幡の幕府ゆかりの諸神に﹁天満大自在天神部類眷属﹂
が並列されたこと︑また仁治元年︵一二四〇︶十二月に︑諸社の神人・神官の起請文は他社で書くべからざること︑
また京都においては︑自社・他社を問わず北野社において書くべきことを幕府が命じたこと等︑いくつかの画期が考
えられるが︑いずれも︑藤原︵九条︶頼経の将軍在任時代││いわゆる摂家将軍││であることが注意されるのであ
る︒仮に荏柄天神社の鎮座が少なくとも源頼朝時代にさかのぼるとしても︑幕府にとっての意味付けについては︑確
かな史実に即して︑今後検討されねばならないであろう︒
なお︑﹃吾妻鏡﹄の記事以外で︑当社に拘わる十三世紀半ば以前の史料としては﹃大日本金石志﹄第二巻所収の鏡
銘に
荏柄天神宮
宝治二年戊申天三月日義順
― 37 ―
天神信仰の地域的拡大
と見えるものがあげられるが︵﹃大日本史料﹄第五編之二十八︑二七五頁による︒宝治二年は一二四八年︶︑義順につ
いては﹃吾妻鏡﹄に所見が無く︑文書類では︑寛元二年︵一二四四︶四月二十六日付の舎利講衆田地売券︵﹃鎌倉遺
文﹄補一三二〇号︶に﹁一和尚義順大法師﹂︑建長元年︵一二四九︶のものと推定される金剛峰寺千僧供養請定︵同
上七〇七五号︶に﹁義順房﹂がそれぞれ見えるが︑同一人かどうかは不明で︑経歴その他未詳である︒また社蔵の木
造天神坐像︵重文︶には︑弘長元年︵一二六一︶五月八日付の﹁荏柄神主平政泰﹂による墨書銘があって注目され
るが︑それには冒頭に﹁敬白奉造立大政威徳天化現御正体一
事﹂ と あって一般的な
﹁ 天満大自在天神
﹂ ではな
く︑かつまた﹁金輪聖主天長地久︑太政天皇宝祚延長︑大将軍家殿一門繁昌︑次将諸官円満︑国土安穏︑万民与楽︑
五穀成就︑献寿増長﹂云々とも見えており︵前掲﹃荏柄天神社誌﹄︶︑この時期における荏柄天神社の位置付けを示唆
していて興味深い︒
さらに今一つ検討すべき史料として︑建久三年︵一一九二︶八月九日に︑平︵北条︶政子の御産御祈として︑鶴岡
以下相模国内の諸寺社に神馬を奉献して誦経を行なった中に﹁天満宮﹂が見える﹃吾妻鏡﹄の記事である︒この天満
宮は︑これ以後﹃吾妻鏡﹄には全く所見しない一方︑その呼称からすればただちには荏柄天神社と同一とも考え難く
︵事実︑及川大溪﹃吾妻鏡総索引﹄︑﹃全訳吾妻鏡﹄別巻の﹁地名索引﹂等は別扱いとなっている︶︑今後両者の関係に
ついても研究課題としなければならない︒
︵
1 3
︶薩摩国天満宮現鹿児島県川内市国分寺町に鎮座する菅原神社の前身は薩摩国天満宮とされ︑これまた薩摩国分寺と密接な関係が 天神信仰の地域的拡大
― 38 ―