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イタリアの黒死病関係史料集(八)

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イタリアの黒死病関係史料集(八)

著者 石坂 尚武

雑誌名 人文學

号 186

ページ 193‑315

発行年 2010‑11‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012296

(2)

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料

集 ︵ 八

︶ 編 訳

石 坂 尚 武

第 二 二 章 大 規 模 ペ ス ト を 生 き 抜 い た プ ラ ー ト の 商 人 ダ テ ィ ー ニ の

﹁ 遺 言 書

│ キ リ ス ト 教 徒 の ペ ス ト へ の 反 応 か ら そ の 心 性 を 探 る

│ 目 次

﹇ 解 説 と 考 察

﹈ 人 は ペ ス ト を ど の よ う に 感 じ

︑ ど の よ う に 反 応 し た か

│ 一 四 世 紀 の キ リ ス ト 教 徒 の 心 性 と 行 動

﹇ 一

﹈ な ぜ ダ テ ィ ー ニ に 注 目 す る の か

│ 本 章 の ね ら い と し て の 心 性 史 研 究 の 実 践

﹇ 二

﹈ ダ テ ィ ー ニ 文 書 と ダ テ ィ ー ニ の 生 涯

︵ 一

︶ ダ テ ィ ー ニ 文 書

︵ 二

︶ 遺 言 書 に よ っ て 現 代 に な お も 生 き る ダ テ ィ ー ニ

︵ 三

︶ ダ テ ィ ー ニ の 生 涯

﹇ 三

﹈ ダ テ ィ ー ニ の ペ ス ト 体 験 と 心 性 へ の 影 響

︵ 一

︶ 第 一 回 目 か ら 第 五 回 目 ま で の ペ ス ト 体 験

― 193 ― イ

タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

(3)

︵ 二

︶ ダ テ ィ ー ニ と こ の 時 代 の 人 び と の 宗 教 的 心 性

﹇ 四

﹈ 六 度 目 の ペ ス ト と 心 性 の 現 れ と し て の ダ テ ィ ー ニ の

﹁ 実 行

︵ 一

︶ 第 一 の

﹁ 実 行

﹂ と し て の ビ ア ン キ の 改 悛 巡 礼 へ の 参 加

︵ 二

︶ イ タ リ ア 北 部 の 改 悛 の 巡 礼

│ 一 三 九 九 年 の ビ ア ン キ の 巡 礼 団

︵ 三

︶ ト ス カ ー ナ 地 方 の ビ ア ン キ の 運 動 の 展 開

︵ 四

︶ ビ ア ン キ の 改 悛 巡 礼 へ の ダ テ ィ ー ニ の 参 加

︵ 五

︶ 一 四

〇 年 の ペ ス ト と 心 性 の 現 れ と し て の 第 二 の

﹁ 実 行

﹂︵ 遺 言 書 の 作 成

︶ お わ り に

│ 時 代 を 支 配 し た 峻 厳 な 神 観 念 と

︑ 民 衆 へ の 対 決 者 ル タ ー に よ る 宗 教 改 革

│ 史 料

﹁ フ ラ ン チ ェ ス コ

・ ダ テ ィ ー ニ の 遺 言 書

第二 二 章 大 規 模 ペス ト を 生き 抜 い たプ ラ ー トの 商 人 ダテ ィ ー ニの

﹁ 遺 言書

│キ リス ト教 徒の ペス トへ の反 応か らそ の心 性を 探る

││

﹇ 解説 と考 察﹈

人 は ペス ト を どの よ う に感 じ

︑ どの よ う に反 応 し たか

│ 一 四 世 紀 の キ リ ス ト 教 徒 の 心 性 と 行 動

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

― 194 ―

(4)

﹇ 一

﹈ なぜ ダ テ ィー ニ に 注目 す る のか

││ 本章 のね らい とし ての 心性 史研 究の 実践

││ 人

はペ スト に対 して どの よう に感 じ︑ それ にど のよ うに 反応 した ので あろ うか

︒そ の宗 教的 心性 に迫 るの が本 章の ねら いで ある

︒ こ こで は︑ ペス ト史 研究 にお ける 心性 史的 アプ ロー チの 試み とし て︑ プラ ート の商 人フ ラン チェ スコ

・ダ ティ ーニ

︵ フラ ンチ ェス コ・ ディ

・マ ルコ

・ダ ティ ーニ

Francesco di Marco D atini

︶︵ 一三 三五 年〜 一四 一〇 年︶ とそ の周 辺の 人び とに 焦点 を据 えて

︑そ こか ら認 めら れる

︽心 性と 行動

︾を 具体 的に 見て いく

︒ま ず最 初に

︑ど うし てダ ティ ーニ に着 目す るの か論 じた い︒ ペ スト は︑ ヨー ロッ パの 歴史 にお いて 不幸 極ま りな いも ので あっ たが

︑そ の衝 撃が あっ たか らこ そ︑ 人び とが それ に反 応し て︑ その 反応 から 我々 の目 の前 に明 るみ にさ れる 当時 の人 びと の﹁ 心性

﹂│

│も のの 見方 や感 じ方

││ が理 解さ れる ので はな いだ ろう か︒ 反応 や行 動は 心性 の表 象で ある

︒│

│で は︑ いっ たい どの よう にし て当 時の 人び との 心性 を理 解で きる ので あろ うか

︒そ の鍵 のひ とつ は﹁ 生活 史料

﹂で ある

︒当 時の 人び との この

﹁心 性﹂ を︑ 日常 生活 を生 きた 一般 的な 人び とが 書き 残し た貴 重な

﹁生 活史 料﹂

︵ 手紙 や日 記や 覚書

︶か ら見 てい くべ きと 考え る︒

﹁生 活史 料﹂ は︑ い わば 等 身 大 に映 し 出 され た 意 識と 人 間 像 を提 供 し てく れ る も ので あ る︒ そ の史 料 を 利用 す る こ と に よ っ て︑ 彼ら が生 きた 世界 は︑ 我々 が身 近に 感じ 取れ るレ ベル にま で引 きお ろさ れる

︒そ れに よっ てい わば 当時 の人 びと の肌 の温 もり を我 々が 感じ 取れ る距 離に まで 近づ くこ とが でき る︒ それ によ って ペス トを 人が どう 感じ たか をこ ころ

― 195 ― イ

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︵ 八

(5)

非疫病死 38%

166人

疫病死者 62%

272人

のか よっ たか たち で見 てい きた い︒ これ まで のペ スト 研究 では

︑視 点と して

︑ペ スト とい う﹁ 窓﹂ から 見え る深 層の 世界

︑そ こか ら見 える 人び との 心性 の世 界を 扱っ た研 究は 存在 しな かっ たよ うに 思う

︒様 々な テー マで なさ れた 西洋 史 のこ れ ま で の研 究 に おい て も︑

﹁ 心性 の 歴 史﹂ と 銘打 っ て も︑ 視点 の あ いま い さ か ら︑ 長い 通 史 の 記 述 の な か で︑ それ が 薄 めら れ て し まう 傾 向 があ る よ うに 思 わ れ るが

︑こ こ で は私 は

︑時 期 を比 較 的 限 定し て

﹁ペ ス トの 心 性 史﹂ を素 描し てみ たい と思 う︒

死 者台 帳を 扱っ た前 章で は︑ フィ レン ツェ のS

・M

・ノ ヴェ ッラ 聖堂 に埋 葬さ れた 様々 な職 種に 属す る﹁ 市民 集団

﹂に つい て︑ その 全体 の六 割に あた る約 一〇

〇〇 名を 抽出 して

︑そ れを パソ コン で解 析す るこ とで

︑私 はそ の死 亡傾 向│

│季 節・ 性・ 年 齢に よ る 死 亡 傾 向 の 違 い

││ を 新 た に 数 量 的 に 提 示 す る こ と が で き た︒ 死者 台帳 を解 析し たこ の成 果に よっ て死 者に おけ る高 い疫 病死 の割 合が 確認 され た︒ 一三 四〇 年か ら一 三八 三年 の四 四年 間︵ 五度 の大 規模 な疫 病発 生期

︶に この 聖堂 に埋 葬さ れた 七一 七人 のう ち︑ 疫病 死と 特定 され る死 者は 四〇 一人 であ り︑ 五五

・九 パー セン トに も及 ぶ

︒ この 時 期 に死 ん だ 市 民の 半 数 以上 の 人 が疫 病で 命を 落と して いた ので ある

︒こ れを 男性 だけ に限 定し てみ ると

︑い っそ う高 い疫 病死 亡率 がわ かる

︒男 性は 疫病 に弱 かっ たの であ る︒ すな わち グラ フ1

﹁サ ンタ

・マ リア

・ノ ヴェ ッラ 聖堂 に埋 葬さ れた 男性 の疫 病死 者と 非疫 病死 者の 割合

︵ 一三 四〇

〜八 三年

︶﹂ から

︑こ の期 間の 男性 の死 亡者 の六 二パ ーセ ント が疫 病死

グラフ1 サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に埋葬 された男性の疫病死者と非疫病死者の割 合(計438人)──1340〜1383年夏冬──

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

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― 196 ―

(6)

によ るも ので あっ たこ とが わか る

︒ こ の解 析が 対象 とし た時 期は

︑一 三四

〇年 に始 まる

︒一 三四

〇年 は︑ 実は 一四 世紀 の最 初の 大規 模な

﹁疫 病﹂ のひ とつ が発 生し た年 であ る

︒こ の﹁ 疫 病﹂ は﹁ ペ スト

﹂︵ 特 定 の病 気 の 名前

︶で は な か った

︵中 世 末 ヨー ロ ッ パに

﹁ペ ス ト﹂ が来 る の は 一三 四 七 年か ら で ある

︶︒ そ し て 解析 が 対 象と し た 時期 は 一 三 八三 年 の 四度 目 の ペス ト で 終 わ る︒ 史料 が欠 損し てい てそ れ以 後は 扱う こと がで きな かっ たか らで ある

︒ そ こで

︑続 く以 下の 二つ の章 では

︑ね らい とし て︑ 大規 模疫 病期 の﹁ 疫病

﹂の 被害 のあ りさ まを

︑墓 地に 埋葬 され た市 民の

﹁集 団レ ベル

﹂の 死亡 傾向 を見 る視 点で は な く︑

﹁個 人 レ ベ ル﹂ に ま で 視 線 を 降 ろ し て︑ 個 人 の人 生に おけ るペ スト の影 響と いう 視点 から

︑ペ ス トが 日常 生活 を営 む一 人ひ とり の人 間の 心性 に対 し てど のよ うに 作用 した か︵ 打撃 を与 えた か︶ を見 て みた いと 思う

︒ ま ず

︑本 章 で は︑

﹁ ひ と り の 商 人﹂ フ ラ ン チ ェ ス コ・ ダテ ィー ニ︵ 図1

﹁プ ラー トの コム ーネ 広場 に 立 つダ テ ィ ー ニ像

﹂︶ に 視 点を 据 え て そ の 生 涯 を ペ スト との 関係 から

︑主 に一 般市 民の 宗教 的心 性の あ り 方 を 中 心 に し て 見 る

︒さ ら に

︑そ れ に つ づ く 章

1 プラートのコムーネ広場のダティーニ像

― 197 ― イ

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︵ 八

(7)

︵ 第二 四 章

︶で は﹁ 家 族の レ ベ ル﹂ で見 る

││ すな わ ち︑

﹁ ひと つ の 商 人 の 家 族﹂

︵モ レ ッ リ 家

︶に 視 点 を 据 え た い︒ そし て︑ その 三代 に及 ぶ家 族の 人び との 生涯 とペ スト との 関係 を見 る

︒大 規 模ペ ス ト の 時代

︵す な わ ち一 四 世 紀後 半︶ に相 次い で発 生し たペ スト は容 赦な く個 人の 生命 を奪 い︑ その 家族 に多 大な 危機 をも たら した が︑ そう した ペス トが いか に人 びと の心 性│

│特 に宗 教的 な│

│に 作用 して

︑ど のよ うに その 行動 様式 に影 響を 及ぼ した のか

││ この 問題 につ いて

︑彼 らが 残し た﹁ 手紙

﹂や

﹁覚 書︵ リコ ルデ ィ︶

﹂ から 検討 して みた い︒ なお

︑﹁ 日記

﹂に つい ては

︑一 五世 紀の 史料 であ るが

︑す でに 第一 九章

︵﹁ ル ーカ

・ラ ンド ゥッ チの

﹃日 記﹄ より

﹂︶ にお いて 検討 し︑ その 心性 史的 考察 を展 開し た︒ こ こで 大事 なこ とは

︑あ くま で市 民・ 庶民 の心 性の 把握 に照 準を 定め るこ とで ある

︒人 間社 会の 構成 員の

︑ご く一 部の 存在 でし かな い人 たち

︑す なわ ち著 名な

﹁君 主﹂ や﹁ 思想 家﹂ では なく

︑当 時の 一般 的な

﹁市 民﹂ とい うレ ベル にお いて 心性 を見 るこ と︑ すな わち 我々 にと って ごく 普通 の人 が抱 く︑ 等身 大に 映さ れた 心性 を見 るこ とが 大事 なこ とで あり

︑そ れを ペス トと いう

﹁窓

﹂を 通じ て見 てい きた いと 思う

︒ な お︑ 本章 は︑ 先行 研究 とし ては

︑C

・グ ァス ティ

︑B

・ベ ンサ

︑F

・メ リス

︑I

・オ リー ゴ︑ G・ リー ヴィ など のダ ティ ーニ 研究 者が

︑膨 大な ダテ ィー ニ文 書の なか から

︑苦 労し て︑ いわ ば発 掘し

︑編 纂・ 刊行 した 書簡 など の史 料 や 研 究 に 負 っ て い る

︒ま た

︑﹁ プ ラ ー ト 国 立 古 文 書 館

﹂︵ ダ テ ィ ー ニ 館

︶︵ 図 2﹁ プ ラ ー ト 国 立 古 文 書 館 の 陳 列 室﹂

︶ のホ ー ム ペ ージ が 提 供す る ダ ティ ー ニ 関 係の 膨 大 な量 に 及 ぶ手 紙

︵静 止 画 像と 活 字 化︶ に負 っ て いる

︵そ れ は驚 くべ き量 であ るが

︑そ れで も全 体の ほん の 一 部 でし か な い︶

︒本 考 察 の意 義 は︑ そ れ らを 利 用 して

︑ダ テ ィ ーニ 文書 をペ スト 史の 視点 から 心性 史的 に構 成し 直し て︑ ダテ ィー ニと 時代 の心 性に 光を 当て よう とす ると ころ にあ る︒

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

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― 198 ―

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本 章が 黒 死 病 関係 史 料 とし て 提 示す る ダ テ ィー ニ の﹁ 遺 言 書﹂ は︑ 貧 民救 済の 大規 模な 慈善 事業 と財 団の 創設 を盛 り込 む︑ イタ リア 中世 史 上注 目す べき 遺言 書で ある が︑ 実は

︑内 容は それ 自体 とし ては 決し て おも しろ いも ので はな い︒ しか し︑ それ にも かか わら ず︑ 実は

︑そ の 奥底 には

︑ダ ティ ーニ の胸 の内 に秘 めら れた マグ マの よう にど ろど ろ した

︑苦 悶に 満ち た心 的状 態︵ 心性

︶│

│地 獄に 行か ずに 天国 に行 き たい とい う思 い︵ 救済 願望

︶な ど│

│が 存在 して おり

︑そ こで は基 本 的に は︑ 善行 によ る救 済の 獲得 が目 指さ れて いる

﹁ 中世

﹂と い う 時 代に し て も︑ ある い は 一四 世 紀 と いう 時 代 にし て も

︑我 々 に と って

︑そ れ は あま り に 異質 な 世 界 であ る か もし れ な い︒ 実 際︑ ロシ アの 中世 史家 アー ロン

・グ レー ヴィ チは

︑こ の時 代に 生き た

﹁中 世人

﹂の 抱い たも のの 見方 や心 性を 理解 する には

︑特 別の 尺度 が必 要で ある と考 えて

︑彼 らを 理 解す る た め の﹁ カテ ゴ リ ー﹂

││ 一種 の 装 置│

│を 用 意 して

︑そ の 想 定の も と に︑

﹁ 時間

﹂﹁ 空間

﹂な どに つい て中 世人 の抱 いた 特殊 な心 性に つ い て︑ 興味 深 く︵ し か し少 し 観 念的 に

︶説 明 した

︒し かし

︑我 々と 中世 人の 間に は︑ ここ ろの 通う 接 点︑ 心 的 に共 有 し 合え る 領 域は

︑全 く 存 在 しな い の だろ う か︒

﹁ 中世 人﹂ をい わば

﹁宇 宙人

﹂の よう に異 質な 特別 の存 在の 人種 とし て見 て︑ すべ て割 り切 って しま うの では なく

︑我 々と

2 プラートの国立古文書館の陳列室図

― 199 ― イ

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︵ 八

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彼ら との 距離 を埋 める もの は存 在し ない ので あろ うか

︒私 はそ れは ある と思 う│

│我 々と 彼ら の距 離を 埋め るひ とつ の 可能 性 は

︑中 世 の一 般 の 人び と が 日々 の 生 活 のな か で 残し た

﹁生 活 史 料﹂

︵手 紙

︑日 記

︑覚 書 な ど 日 常 的 な 書 類︶ にあ ると 思う

︒﹁ 生 活史 料﹂ によ って こそ

︑我 々は

︑観 念 的 では な し に︑ ここ ろ の 通っ た か た ちで 彼 ら 中世 人 と の接 点│

│心 的共 有領 域│

│が 見出 せる ので ある

︒ し か し︑ 私 の 考 え る﹁ 生 活 史 料﹂ は︑ さ す が に 今 日 ま で 残 存 さ れ に く く

︑そ れ が 手 に 入 る の は︑ 私 の 知 る 限 り︑

﹁ 中世

﹂と いう より も﹁ 中世 末﹂ の世 界︑ さら に︑

﹁農 村﹂

︵ 農民

︶と いう より も﹁ 都市

﹂︵ 都市 民︑ 商人

︶の 世界 にお いて であ る︒ 中世 末期 イタ リア 中部 のト スカ ーナ 地方 の商 人世 界に は︑ 私の 考え る﹁ 生活 史料

﹂が 豊か に残 され てい る︒ 確か に︑ すで にト スカ ーナ では

︑活 動す る世 界が 広域 の交 易に よっ て拡 大し

︑都 市の 広場 に時 計が 設置 され

︑貿 易商 人・ 産業 家の 支配 する 新し い世 界が 形成 され てい た︒ それ は︑ グレ ーヴ ィチ が抱 いた 典型 的な 中世 人と は︑ 少し 異な るか もし れな いが

︑中 世末 を襲 った ペス トへ の反 応を 見る かた ちで

︑そ の心 性に アプ ロー チを 試み たい と思 う︒ ト スカ ーナ 人で ある ダテ ィー ニと モレ ッリ の二 人の 事例 のい ずれ の場 合も

︑一 四世 紀に して は豊 かな 史料

︵前 者に つい ては 奇跡 的な ほど 豊か な史 料︶ に恵 まれ てい る︒ それ とい うの もダ ンテ の文 学を 生ん だ一 四世 紀の トス カー ナ地 方で は︑ 富裕 な都 市商 人は 早く から 学校 で文 字を 習得 し︑ その ペン をも って 実務 のみ なら ず︑ 日常 的な 様々 な事 柄に つい て記 録す る習 慣が 定着 しつ つあ った から であ る

︒ 彼ら のこ の生 活 史 料で は

︑ペ ス ト とい う 大 惨事 は

︑近 親 者の 命を 奪う かた ちで

︑彼 らの 人生 に直 接否 応な しに 関わ り︑ その 悲し い出 来事 は彼 らの 記録 に克 明に 記載 され て︑ 今も 我々 に生 々し く伝 えら れて いる ので ある

︒そ の記 述は

︑多 くの 場合

︑修 道会 の修 道士 や都 市の 年代 記作 家や 人文 主義 者ら の︑ 特定 の立 場か ら書 かれ たイ デオ ロギ ー性 の強 い内 容と 異な り︑ 比較 的あ りの まま の思 いが 認め られ るよ うに

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

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(10)

思う

︒ ま ず︑ 一四 世紀 後半 の時 代に つい て概 観す ると

︑そ の時 代は

︑一 一︑ 一二 世紀 頃か ら本 格的 に始 まっ てい たヨ ーロ ッ パの 長 距 離 貿易 が 持 続し て 営 々と 展 開 さ れ︑ それ は 近 世の 世 界 的 な貿 易 シ ステ ム へ と通 じ る 途 上に あ っ た

︒し か し︑ その 一方 で︑ 同時 代人 ペト ラ ル カ が嘆 い た よう に

︵本 史 料集

︵三

︶第 一 二 章 参照

︶︑ 飢 饉・ 疫 病・ 地震 な ど の深 刻な 災難 が多 発し た時 代で あり

︑そ れと 無縁 では なし に︑ いや 直接 その あお りを 受け て不 況の 嵐が 吹き すさ び︑ ヨー ロッ パ的 規模 で労 働者 や農 民の 反乱

・内 乱が 勃発 した 時代 であ る︒ また

︑こ の時 代は

︑イ タリ ア諸 都市 間で 領域 支配 や商 業利 益を めぐ って

︑さ らに は

︑ゲ ル フ ィ︵ 教皇 派

︶・ ギ ベッ リ ー ニ︵ 皇帝 派

︶の 覇 権 をめ ぐ っ て︑ 争い や 戦 争が 繰り 広げ られ

︑都 市は 軍事 費で 財政 的に 疲弊 し︑ そう した なか で傭 兵や 傭兵 隊長 がの さば った 時代 であ った

││ 傭兵 隊 長は

︑こ の 時 代 を象 徴 す る﹁ 必要 悪

﹂で あ った の か も しれ な い︵ 彼 らの 目 線 か ら見 え た 歴史 が 生 き 生 き と 書 け た ら︑ それ はお もし ろい もの にな る だ ろ う︶

︒ま た

︑こ の 時代

︑ア ル プ スの 北 で は︑ 英 仏百 年 戦 争︵ 一三 三 九〜 一 四五 三年

︶な ど︑ 長期 的・ 慢性 的な 争い がつ づき

︑ロ ーマ

・カ トリ ック 教会 にお いて も︑ 複数 のロ ーマ 教皇 が争 う大 シス マ︵ 教会 分裂

︶︵ 一 三七 八〜 一四 一七 年︶ が起 こ る など

︑実 に 様 々な 問 題 に見 舞 わ れ た︒ また

︑フ ィ レ ンツ ェ な どで

は︑ 市壁 に囲 まれ て安 全な はず の都 市や その 周辺 にお いて すら

︑極 悪非 道な 犯罪 に走 る豪 族︵ マニ ャー ティ

︶が 跋扈 して おり

︑そ の犯 罪に つい て数 多く の生 々し い記 録が 残っ てい る

︒ しか し

︑ほ と んど す べ て 悲惨 の 極 にあ っ た この 時代 にお いて

︑最 も悲 惨で 最も 苛酷 なか たち で人 命を 直撃 した

︑最 悪の 惨禍 は︑ まさ に周 期的 に発 生し たペ スト にほ かな らな かっ た︒ 気 候史 的に 見れ ば

︑こ の 時代 は

︑﹁ 年 輪 解析

﹂の 方 法 の成 果 で ある グ ラ フ2

﹁年 輪 解 析に よ る 一三 C

.

以 降 の 気温

― 201 ― イ

タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

(11)

+3

+2

+1

(℃)0

−1

−2

−3

1200年 1300 1400

変 化﹂ から 端的 にわ かる よう に︑ 気温 が急 激に 下降 し た寒 冷期 にあ たる

︒そ れは 直接 的に は凶 作と 飢饉

︵ヨ ー ロ ッパ に お いて 最 も 有名 な も の が

︑一 三 一 五 年

〜一 三 一 七 年 の﹁ 大 飢 饉﹂ と 呼 ば れ る 飢 饉 で あ り

︑そ れ は 多大 な 人 口 減少 を も たら し た︶ を 導 き︑ そ れは 間接 的な かた ちで

︑疫 病の 流行 や経 済の 危機 の 助長 に作 用し たの であ る︵ 商業 貿易 の七 五〜 八〇 パ ーセ ント が農 作物 であ った 農業 中心 社会 では

︑凶 作は 非常 に 深 刻な 被 害 を もた ら し た

︶︒ そ う し た苦 境 を 背 景に し て 政治 的 な 対立 や 戦 争・ 内 乱が 加 速 され た と いえ よう

︒こ の 時 代は

︑ヨ ー ロ ッ パの 成 立 以後 の 歴 史に お い て︑ お そら く 最 も苦 難 を 強い ら れ た 時代 の ひ とつ で あ り︑ まこ とに 同情 を禁 じ得 ない 時代 であ る│

│こ うし た苦 難の 時代 にお いて

︑宗 教が どの よう なか たち で受 容さ れた かと いう 問題

︵宗 教的 心性 のあ り方

︶は

︑重 要で あり 興味 深い とこ ろで ある

︒そ れな しに は人 びと の心 性は 語れ ない と言 って 過言 では ない

︒ 一 四世 紀の キリ スト 教社 会に おい て︑ 一般 の人 びと はど のよ うな 心性

︑と りわ け﹁ 宗教 的心 性﹂ を抱 いて 日々 の生 活を 営ん でい たの であ ろう か︒ これ は︑ 我々

︑現 代の 日本 に生 きる 者に とっ て︑ 宗教 意識 と時 代状 況が あま りに 異な るせ いも あり

︑な かな かイ メー ジし にく いこ との よう に思 われ る︒ また

︑そ れを 知る 有効 な史 料も 少な いの も事 実で ある

︒そ のた め︑ そう した ここ ろの 内に 秘め られ た︑ あい まい な捉 えに くい もの を追 い求 める より も︑ むし ろ権 力者

グ ラ フ2 年 輪 解 析 に よ る13 C.

以降の気温変化 宮原博子「有史上の気候変化と その原因」(日本西洋史学会第58 回大会(2008年度)のレジュメよ り部分(改変)利用

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

― 202 ―

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が引 き起 こし た﹁ 政治 的事 件﹂ につ いて

︑新 聞記 事の よう に︑

﹁ いつ

﹂﹁ どこ で﹂

﹁ 誰が

﹂﹁ 何を

﹂起 こし たか

︑そ こに どの よう な﹁ 利害 関係

﹂が あっ たか

︑は っき りと

﹁か たち

﹂と して 表面 に現 れた 事柄 に目 を向 け︑ それ をも って 中世 や近 世を 客観 的に 理解 でき たと 済ま す方 が楽 なの かも しれ ない

︒し かし

︑果 たし て﹁ 十字 軍﹂ や﹁ 叙任 権闘 争﹂ など の︑ 一部 の指 導者 によ る事 件を

︑利 害対 立に よる 政治 的事 件と して 認識 して

︑そ れで 時代 性を 理解 した とし て済 ませ るこ とが でき るの であ ろう か︒ しか し実 際に は︑ その

﹁理 解﹂ が︑ その 時代 の本 質的 な理 解と 言え るか は疑 問で あろ う︒ なぜ なら

︑第 一の 問題 とし てそ こに は行 動を もた ら す 内 的構 造 や 心性 の 把 握が 欠 落 し てい る か らで あ る︒

﹁ 利害 関 係﹂ がも た ら し た要 因 の 大き さ は 認め る も の の︑ 人を 行 動 に駆 り 立 て るも の が 本当 に そ れだ け で あ った の だ ろ う か︒ また

︑第 二の 問題 とし て︑ それ が︑ 彼ら 一部 の指 導者 を含 め︑ 時代 に生 きた 人び とに 共有 され

︑行 動へ の要 因と なる よう なも のの 考え 方や 心性 につ いて しっ かり 把握 した 理解 であ るか は疑 わし いか らで ある

︒ す なわ ち日 本の 高校 の世 界史 の教 科書 では

︑ヨ ーロ ッ パ 中 世に つ い ては

︑商 業 や 荘園 制 に つ いて の 記 述の ほ か に︑

﹁ 十字 軍﹂ や﹁ 叙任 権闘 争﹂ とい った 権力 者に よる 政 治 的な 事 件 が中 心 的 に扱 わ れ て いる

︒し か し︑ 時 代全 体 の 把握 とい う見 地か ら見 ると

︑そ れは 時代 を生 きた ごく 一部 の 権 力 者の 行 動 でし か な いと い う 問 題が ま ず 存在 す る︒

﹁ 十字 軍﹂ や﹁ 叙任 権闘 争﹂ とい った 政治 的事 件は

︑中 世全 体を 構成 する 人び との 全体 から 見れ ばご く一 粒の 人間 が関 わっ たに すぎ ない 事件 であ ると いう こと

︑つ まり

︑そ こで 指 導 的 で中 心 と なっ た の は︑ 一般 の 人 び と全 般 と いう よ り も︑ 貴族

︵騎 士︶ や聖 職者 のな かの 最も 上層 部に 位置 する ごく 一部 の人 たち や︑ ごく 一握 りの 兵士

・俗 人た ちな ど︑ つま り人 口の せい ぜい 数パ ーセ ント か︑ 時に は一 パー セン ト に も 満た な い 人た ち で あっ た と い うこ と で ある

︵そ も そ も︑ 当時

︑豊 かな 資力 をも ち︑ はる かエ ルサ レム に達 し う る 人間 は

︑全 体 から 見 れ ばケ シ 粒 ほ どの 人 間 でし か な い︶

︒そ

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タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

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の時 代の 圧倒 的に 大多 数を 占め る一 般の 市民 や農 民に とっ ては

︑十 字軍 のよ うな 政治 的事 件は

︑時 期に もよ るが

︑押 しな べて

︑直 接関 係の ない

︑ほ とん ど無 縁の 事件 であ った かも しれ ない

︒当 時︑ 新聞 など のマ ス・ メデ ィア が存 在し なか った こと から

︑﹁ 十 字軍

﹂や

﹁叙 任権 闘争

﹂な どの 事 件 が︑ どれ だ け 多く の 人 びと に 身 近 に感 じ ら れて い た かも 疑問 であ る︒ およ そ人 は︑ 新聞 やテ レビ で知 らさ れな けれ ば︑ 自分 の生 活に 直接 に関 係の ない こと には あま り関 心を もた ない もの であ る︒ この よう に見 ると

︑大 多数 の 人 び とと あ ま り関 わ り のな い

︵と 思 わ れる

︶︑ 一 部 の者 に よ る政 治的 事件

︵そ れが 重要 であ って も︶ をも って

︽時 代と その 人び と︾ のこ とを 高校 生に 教え たと 思っ てい いも ので あろ うか

︒む しろ

︑損 得や 利害 のみ なら ずそ うし た事 件を 引き 起こ した 内な る心 性に 目を 向け るべ きで あり

︑そ こに は指 導者 も含 め一 般の 人び とに よっ て共 有さ れる

︑も のを 動か す大 きな 本質 的な 力が 存在 して いた と考 える べき であ る︒ さ らに 言え ば︑ 事件 の評 価に つい ても 問題 があ る︒ たと えば

︑十 字軍 の失 敗に よっ て教 皇権 が動 揺し たと

︑そ のよ うに 高校 の教 科書 には 書い てあ る︒ しか し︑ 現代 から の判 断で はな く︑ 当時 生き てい た人 びと は︑ 教皇 権に つい て実 際に どう 見て いた ので あろ うか

︒こ の観 点か ら見 ると

︑判 断は そう 容易 なも ので はな い︒ 実際

︑一 三世 紀に おい て本 当に 教皇 権が

﹁動 揺﹂ した とい うな ら︑ その 判断 の理 由を 同時 代の どの よう な史 料に もと づい て言 って いる のか

││ その 実証 的な 根拠 を示 して もら いた いも ので あ る︒ そ こ には 日 本 人的 な 思 い込 み

︵﹁ 失 敗 した の だ から

︑当 然 権 威は 失墜 した はず だ﹂

︶ が作 用し てい る可 能性 があ る︒ 相手 が日 本 人 だか ら そ れで 十 分 説得 で き て しま う 要 素が 作 用 して いる 可能 性が ある

︒ 政 治 中 心 のも の の 見方 は

︑こ の 時代 の 人 び との も の の見 方

︑人 を 動か す 心 性 のあ り 方 に つ い て は 触 れ ず︑

﹁ 結 果﹂ や﹁ 利害 関係

﹂︵ こ れら を言 われ ると 人は すぐ に納 得し てし まう もの であ る︶

︑あ るい は表 面に 現れ た事 件だ けを なで

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

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て いる に す ぎ ない 危 険 性が あ る︒ し かし 実 際 に は︑ 中世 人 の 行動 は

︑そ れ だ けで は 我 々に は 理 解 し に く く

︑た と え ば︑ 同時 代人 にと って は重 要で あっ た﹁ 贖罪 意識

﹂や その 他の 内的 な︑ 宗教 的な もの

︵心 性︶ に目 を向 ける べき であ る︒ ふつ う心 性は 利害

・損 得だ けで は構 成さ れな い代 物で ある

︒損 得だ けで は一 六世 紀に なっ てル ター が宗 教改 革を 引き 起こ した 本質 的な 要因

︑す なわ ち心 性的 要因 は︑ 決し て高 校生 には 伝え られ ない であ ろう

︒ こ の意 味で ひと つ具 体例 を挙 げよ う︒ 同じ 一三 世紀 につ いて いえ ば︑ 私見 によ れば

︑む しろ 社会 全般 にお いて 最も 注目 すべ き出 来事 がひ とつ ある

︒そ れは

︑ふ たつ の托 鉢修 道会

︑フ ラン チェ スコ 会と ドミ ニコ 会が 全ヨ ーロ ッパ 的規 模に おい て︵ さら にそ れを 越え て︶ 一大 宗教 運動 を展 開し たこ とで ある

︒十 字軍 がこ とご とく 不調 に終 わっ た一 三世 紀は

︑同 時に 托鉢 修道 会の 世紀 であ った

︒彼 らは

︑説 教活 動や 日常 的司 牧活 動に おい て精 力的 にロ ーマ

・カ トリ ック のキ リス ト教 信仰 を推 進し たの であ る︒ この 運動 のな かで カタ リ派 など の﹁ 異端

﹂が 排除 され

︑カ トリ ック の秘 跡が 市民 生活 の奥 深く に浸 透す るよ うに なり

︑人 びと の生 活に 強い 影響 力を もっ たの であ る︒ これ は︑ ごく 一部 のリ ーダ ーに よっ てお こな われ た先 の政 治的 事件 より も︑ 当時 の人 びと の全 体を 巻き 込む 運動 であ り︑ 中世 社会 その もの に遥 かに 大き な影 響力 をも つ出 来事 であ った だろ う︒ イ タリ アに つい てい えば

︑托 鉢修 道会 は︑ 一三 世紀 の二

〇年 代頃 に本 格的 に活 動を 開始 した が︑ その 世紀 の残 るわ ずか 八〇 年間 のう ちに

︑イ タリ ア内 のあ らゆ る地 域の 諸都 市に

︑猛 烈な 勢い で五

〇〇 以上 の托 鉢修 道会 の教 会を 建築 して しま った ので ある

││ これ は極 めて 驚く べき 勢い であ る︒ そし て托 鉢修 道会 はそ の都 市の 人び との 宗教 的︑ 社会 的︑ 文化 的生 活に 強い 指導 力を 発揮 した ので ある

︒ 地 図1

﹁一 三世 紀に 建築 され た托 鉢修 道 会の 教 会

﹂︑ 地 図2

﹁一 三 世紀 に イ タリ ア の 北 部・ 中部 で 建 築さ れ た 托鉢

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フランチェスコ 修道会

ドミニコ修道会 地図113世紀に建築された托鉢修道会の教会(TouringClubItaliano,Abbazieemonasterid’Italia.Viaggioneiluoghidellafede,dell’arteedellacultura,Milano,1996,11.) イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

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修 道 会 の 教会

﹂を 見 て みよ う

︒托 鉢 修道 会 の 教 会 が︑ イ タ リア に お いて 密 集 し て 建 築 さ れ︑ 西 ヨー ロッ パに おい てほ とん ど満 遍な く建 築さ れ

︑さ らに ヨー ロッ パを 越え てま で広 がっ て建 築 され てい るこ とが わか るで あろ う︒ 一三 世紀 の ヨー ロッ パの 多く の都 市民 にと って

︑た とえ ば

︑︽ 近 々︑ 我 々 の都 市 に も 托 鉢 修 道 会 が や っ て 来 て︑ 教 会 を建 て る ぞ

︾と い っ た 知 ら せ は︑ 彼 らの 生活 その もの に直 結し たも ので あっ たこ と から

︑強 い興 味を 持っ て受 けと めら れ︑ 実際 に その 教会 が建 築さ れて

︑い ざ托 鉢修 道士 の活 動 が始 まる や︑ それ は生 活に 極め て多 大な 影響 を 及ぼ した ので あっ た︵ 都市 を拠 点に した 彼ら の 活動 は周 辺の 農村 部に も少 しず つ影 響を あた え る こ と にな っ た

︶︒ そ し て

︑こ の も の す ご い 勢 いの 教会 建築 は︑ 托鉢 修道 会だ けの 勢い で可 能 にな った ので はな い︒ 彼ら 托鉢 修道 士を 都市

地図2 13世紀にイタリアの北部・中部で建築された托鉢修道会の教会

(Touring Club Italiano, 11.)

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に受 け入 れ︑ その 建築 費を 惜し まず 喜捨 した 都市 の信 徒の エネ ルギ ーに よる とこ ろも 大き いの であ る︒ いわ ば︑ 托鉢 修道 会の 側の

︽使 命感

︾︵ 新 約聖 書の 福 音 的生 活 の 実践

・普 及

︶と

︑都 市 の信 徒 た ち の側 の

︽救 済 願望

︾や 内 的 な欲 求と が︑ 合致 した 結果 とし て可 能に なっ たと 見る べき であ る︒ とす ると

︑修 道士 の使 命感 とと もに

︑都 市の 信徒 たち の側 の内 的欲 求や

︽救 済願 望︾

││ 宗教 的 心性

││ を 見 なく て は︑

︽ 時代 と そ の人 び と︾ の 本 質を 無 視 した こ と にな るで あろ う︒ そ して 重要 なこ とに

︑そ の托 鉢修 道会 は︑ 何よ りも 教!!!!!!!!!!!!!!!

︑ その 上で 運動 を推 進し たの であ る︒ 彼ら は︑ 教皇 に忠 誠を 尽く し︑ 教皇 権を 至上 のも のと して 崇め て︑ 一三 世紀 に│

│さ らに それ 以後 も│

│全 ヨー ロッ パ的 規模 で非 常に 多く の都 市に 進出 した ので ある

︒そ して 人び との 宗教 生活 と宗 教的 心性 やそ れを 越え た多 くの もの

︵学 問・ 教育

・文 化・ 政治 など

︶に おい て指 導的 であ った ので ある

︒こ の一 三世 紀の 托鉢 修道 会の 運動 によ って

︑は じめ てキ リス ト教 がヨ ーロ ッパ に浸 透し た と い える ほ ど であ る

︒こ の 浸透 こ そ︑

︽ 教 皇を 頂 点 とす る 教 会制 度︾ とそ れと 密接 に関 わる

︽キ リス ト教 的な 救済 シス テム

︵﹁ 七 つの 秘跡

﹂等

︶︾ の浸 透で あり

︑人 びと の︽ キリ スト 教的 心性

︾の 浸透 でも あっ た︒ この 意味 で︑ 一三 世紀 とい う時 代は

︑当 時の 多く の人 びと には

︑世 界史 の教 科書 の記 述と は違 って

︑教 皇の 権威 が︑ 動揺 する どこ ろか

︑む しろ 高ま った と思 われ たで あろ う︒ 高校 生に ヨー ロッ パ中 世の 本質 に触 れさ せる には

︑政 治史 で表 面を なで るだ けで なく

︑土 台と なっ てそ れを 動か した もの への

︑社 会史 的︑ 心性 史的 アプ ロー チを も示 すべ きで あ る︒ お よ そ物 事 を 理解 す る には

︑ど の よ う なも の で も︑

︽か た ち︾ や︽ 行 動︾ とと もに

︑そ れを もた らす

︽内 なる もの

︾を 理 解 し なく て は なら な い︒

︽ かた ち

︾と

︽内 な る もの

︾と の 両 方を 重 視 する この 見方 は︑ ごく 当た り前 の見 方で ある

︒そ れは ごく ふつ うの

︑オ ーソ ドッ クス な歴 史学 であ る︒

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も ちろ ん︑ 君主 など の一 部の 権力 者の 起こ した 政治 的出 来事 であ って も︑ その 影響 が時 代と とも に下 部︵ 一般 の人 びと

︶に 及ん でき て社 会的 重要 性を もた らす こと が多 く︑ そう した 意味 での 重要 性は 否定 でき ない

︒む しろ

︑こ こで 言い たい のは

︑一 部の 政治 家が 時代 の心 性を 代表 し︑ 時代 の代 表者 とは 限ら ない とい うこ とで ある

︒ 同 様の こと は︑ 思想 家の 思想 的著 作に つい ても 言え るこ とで ある

︒た とえ ば︑ 中世 を代 表す る﹁ 思想 的著 作﹂ であ る︑ 一三 世紀 のト マス

・ア クィ ナス の﹃ 神学 大全

﹄を 理解 すれ ば︑ 中世 社会 に生 きた 人び との 宗教 的心 性を 理解 でき るか と言 えば

︑こ れも また 問題 であ ると 言わ ざる を得 ない

︒大 思想 家︵ 神学 者︶ は時 代か ら生 まれ るが

︑非 凡さ ゆえ に平 均的 な時 代人 から 離れ

︑む しろ 時代 を越 える

││ 彼は 時代 の神 学的 課題 に新 しい 方法 で応 え︑ 時代 を越 え︑ 思想 界に おい て次 世代 を導 くラ イト

・モ チー フと なる

︒ア クィ ナス は︑ その 思想 史的 名著 によ って 時代 を代 表す るか もし れな いが

︑︽ 時 代の 人び との ここ ろを 映す 鏡︾ と い う意 味 で は︑ 決し て 代 表で は な い︵ ま た︑ そも そ も それ が ど れだ け人 に読 まれ たか も極 めて 疑問 であ る︶

︒ 思想 家 は︑ 一 九世 紀 後 半の ニ ー チェ の よ う に︑ 極端 な 場 合︑ 意図 的 に 時代 への 反逆

︑︽ 反 時代 的な

︾立 場か ら﹁ 思想

﹂を 打 ち 出す

︒時 に そ の思 想 は︽ 時 代の 人 び と のこ こ ろ を映 す 鏡︾ か ら程 遠い 内容

︑む しろ はっ きり と正 反対 の内 容を 映し たも のと なる

︒大 思想 家の 思想 は︑ 時代 の産 物で ある もの の︑ 往々 にし て︑ 時代 の心 性と は別 物で ある 場合 があ る︒ で は︑ どう して 思想 の把 握が 心性 の把 握に 結び つく とは 限ら ない ので あろ うか

︒こ の問 題を 考え てみ よう

︒﹁ 思 想﹂ は︑ ふ つう

﹁思 考

﹂に よ っ て論 理 的 に構 築 さ れる

︒し か し

﹁心 性﹂

︑﹁ 感 性﹂ を主 体 と し た 一 種 の︵ 捉 え に く い︶ 浮遊 物で ある

︒そ れは 多く の 場 合︑ 思 想︵ 教義

︶の 傘 の 下に あ る が︑ 時に は そ れ に拘 束 さ れず

﹁自 由

﹂で あ り︑

﹁感 じる

﹂ま まに 漂い

︑か なら ずし も論 理的 とは 限ら ない

︒そ れと いう のも

︑心 性と は︑ 伝統

・習 慣・ 風習

・風 土・ 民族

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性な どに よっ て蓄 積さ れた 様々 な意 識・ 無意 識・ 価値

・利 害が

︑論 理的 に整 理さ れず に︑ 重層 的に 蓄積 され る性 質の もの であ るか らで ある

︒さ らに

︑そ の時 代に 新た に形 成さ れた 精神 風土 や︑ 生々 しい 事件 や思 いが けず 起こ った ショ ッキ ング な出 来事 など

︑様 々な 要素 によ る作 用を 受け やす い︒ 心性 は時 代状 況に 非常 に敏 感で あり

︑た とえ ばペ スト など によ って 強く 反応 する

︒た とえ ば︑ 近代 日本 の 場 合︑ 関 東大 震 災 の勃 発 に よる 被 害 は︑ 現 在の 我 々 にと っ て は︑ 大規 模な 物的 な被 害し か思 い浮 かば ない かも し れ な いが

︑実 は

︑﹁ 文 明化

﹂を 目 指 して い た 当 時の 人 び との 心 性 その もの にも 深刻 なダ メー ジを 与え たの であ る

﹁論 理﹂ だけ が人 を動 かす ので はな い︒ 理屈 はわ かっ てい ても

︑人 はそ の理 屈ど おり には 行動 でき ると は限 らな い︒

﹁ 思想

﹂を 与え られ ても

︑こ ころ のな か で まず

﹁納 得

﹂し な けれ ば

﹁行 動﹂ に 移せ な い の が人 間 で ある

︵納 得 し ても 動け ない 場合 さえ ある

︶︒ 理 屈や 思想 が︑ 心性 に浸 透し て︑ つま り︑

﹁頭

﹂と

﹁こ ころ

﹂と

︑さ らに 置か れた

﹁生 きた 状況

﹂が 一体 とな って はじ めて 行動 に出 るこ とが でき る︒ 心性 が行 動に とっ て重 要な のは

︑こ れゆ えに そう なの であ る︒ この 意味 で︑

︽ 行動

︾は

︽思 想︾ の表 象で はな く︑

︽心 性︾ の表 象で ある

︒こ の意 味で

︑ど れだ け読 まれ たか わか らな い一

〇〇 冊の 著書 より も︑ たっ た一 回だ けの

︑人 のこ ころ に痛 烈な 衝撃 を与 える 出来 事の 方が

︑直 接的 に心 性に 響き

︑人 を行 動へ 駆り 立て ると いう こと はあ りう るこ とで ある

︒こ の意 味で

︑歴 史研 究に おい ては

︑生 きた 状況 から 作用 され やす い心 性の あり 方を 重要 視す べき で あ り︑ そ れを よ く 理解 し た 上で

︑歴 史 上 の 個人

・集 団 の 取っ た 行 動︑ 歴 史的 事 件 に アプ ロ ー チし な け れ ば な ら な い︒ 心 性 と そ の 結 果 と し て の 表 象 で あ る 事 件

・行 動

︵あ る い は 不 作 為︶ は︑ 状況 のな かで 結び つけ て考 えら れな けれ ばな らな い︒ で は︵ 宗教 的な

︶心 性は どの よう に認 識さ れる ので あろ うか

︒こ こで は︑ あま り厳 密に こと ばの 意味 を規 定し ない

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

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が︑ およ そ心 性は

︑原 則と して

︑ま ず彼 らが みず から

﹁文 字﹂ をも って 表現 した 場合 にお いて

︑そ の認 識が 好都 合と なる もの であ る︵ 文字 によ らな い表 現媒 介 も 重 要で あ ろ うが

︑こ こ で は立 ち 入 ら ない

︶︒ 心 性 は︑ 過去 や 伝 統︵ 蓄積 され たも の︶ を底 に秘 めつ つ︑ 時代 状況 の新 たな 変化 にさ らさ れつ つ︑ 宗教 と宗 教的 生活 と宗 教的 活動 につ いて

︑ふ つう の人 間が

︑﹁ 文 字﹂ と﹁ 紙﹂ によ って 思う ま ま に記 述 す る﹁ 習慣

﹂が 定 着 して い た 場 合︑ 我々 が そ の心 性 を つか み︑ 感じ 取る のに 好都 合で ある

︒そ して 三六 五日 の日 常生 活の なか で︑ 小さ な宗 教的 問題 から

︑生 死に かか わる 重大 な宗 教的 問題 に至 るま で︑ 日々 あり のま まに 様々 な事 柄を 記述 する 習慣 があ れば

︑そ れは いっ そう 認識 に好 都合 であ る︒ ガー ドせ ずに

︑あ りの まま に感 じる とこ ろを 吐露 して 表現 する 記述 媒介

︵文 字等

︶が ある こと が大 事で ある

︒ 人 がガ ード する のは

︑あ る一 定の 立場 にこ だわ るか らで ある

︒政 治的 立場 の団 体︑ たと えば 都市 政府 など の団 体・ 集団 が発 する 表明 は︑ 現代 の政 党や 職場 にう ごめ くセ クト 集団 と同 じく

︑自 己を 正当 化し

︑自 己の イデ オロ ギー や利 益 擁護 を 至 上 とす る た めの も の であ り

︑本 音 や 真意 の 吐 露か ら は ほ ど遠 く

││ よっ て 彼 らは 負 け や失 敗 を 認 め な い

││

︑そ こに は自 然の かた ちの 心性 の吐 露が なさ れず

︑心 性の 認識 には 困難 さが 伴う

︵そ れだ から とい って そう した 著作 を心 性の 一部 の把 握に 利用 する こと は放 棄す るべ き で な いの だ が︶

︒ 神学 者 や 哲学 者 な ど によ っ て 体系 化 さ れた もの

││

﹃大 全﹄ の類 い│

│も

︑同 じ意 味で

︑例 外も ある かも しれ ない が︑ 原則 的に は一 般の 人び との 心性 の認 識の 把握 にそ のま ま採 用す るに は問 題が ある

︒ こ のよ うに 見る と︑ ヨー ロッ パに おい て︑ 私の 知る 限り

︑︽ 宗 教的 心性

︾︵ 個人 でな く一 般的 な人 びと のも の︶ の認 識に 好都 合な 時代 は︑ 歴史

︵学

︶的 には ふつ う中 世末 期に 位置 づけ られ

︑精 神史 的︑ 美術 史的 には 初期 ルネ サン スに も位 置づ けら れる

︑一 種の 移行 期の 時 代と 私 の 考 える イ タ リア の

﹁ト レ チェ ン ト

﹂︵

﹁ 一三

〇 年代

﹂︑ 一 四 世紀

︶ま

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タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

(21)

で待 たね ばな らな いよ うに 思わ れる

︒す なわ ち︑ トレ チ ェ ン トに お い ては フ ィ レン ツ ェ な どの 都 市 の人 び と が︑

﹁文 字﹂ と﹁ 紙﹂ をも って

︑我 々の 認識 に好 都合 なか たち で︑ 日常 生活 にお ける

︵宗 教的

︶心 性を 自然 に吐 露し

︑し かも その 文字 と紙 が残 存し てい るの であ る︒ その 例の ひと つが

︑一 四世 紀の トス カー ナ地 方の 市民 階級

︵商 人階 級︶ の文 書で あり

︑そ のな かで も類 い稀 なほ ど豊 かな 史料 を提 供し てく れた プラ ート の商 人フ ラン チェ スコ

・ダ ティ ーニ と彼 の友 人で ある 公証 人ラ ーポ

・マ ッツ ェイ

︵一 三五

〇〜 一四 一二 年︶ らの 文書 であ る︒

﹇ 二

﹈ ダテ ィ ー ニ文 書 と ダテ ィ ー ニの 生 涯

︵ 一

︶ ダ テ ィ ー ニ 文 書 一 八七

〇年

︑中 部イ タリ アの トス カー ナ地 方の 都市 プラ ート

︵フ ィレ ンツ ェの 北西 約一 八キ ロ︶ で︑ 一五 万通 にも 及ぶ 一人 の中 世イ タリ ア商 人の 書簡 が発 見さ れた

︒そ れは 一四 世紀 後半 から 一五 世紀 初頭 を生 きた 商人 の経 済活 動や 日常 生活 にお ける 市民 のも のの 見方

・感 じ方 を身 近な かた ちで 伝え てく れる 貴重 な文 書で ある

︒ 一 個人 の︑ 今か ら六

〇〇 年も 前の 商人 とそ の 会社 の 文 書│

│五

〇冊 以 上 の帳 簿 や 覚 書︑ 一四 万 通 の商 業 書 簡︑ 何百 通も の契 約書

・保 険証 書・ 手形 等︑ 夫婦 間の 往復 書簡

││ が現 在ま で残 され て︑ その まま 現在 の﹁ プラ ート 国立 古文 書館

﹂︵ 図 1︶ に保 存さ れた のは

︑プ ラー トの 商人 フ ラ ンチ ェ ス コ・ ダテ ィ ー ニが み ず か らの 遺 言 によ っ て その 保存 を命 じた こと によ るほ か︑ いく つか の好 都合 な事 情が 重な った ひと つ の 奇跡 で あ る

︒ ポ ンペ イ の 発見 が 古 代世 界を 蘇ら せる ひと つの

﹁古 代史 の奇 跡﹂ であ った とす ると

︑こ のダ ティ ーニ 文書 の発 見は

︑規 模は 違う にし ても

︑中

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

― 212 ―

(22)

世の 商業 活動 と日 常生 活・ 中世 人の 心性 を蘇 らせ るひ とつ の﹁ 中世 史の 奇跡

﹂と いっ ても よい であ ろう

︒こ の発 見も

﹁ 歴史 の世 紀﹂ であ った 一九 世紀 のな し得 た 成 果で あ る︒

││ し かも

︑ダ テ ィ ーニ の 生 き た時 代 は︑ 黒 死病 が ヨ ーロ ッパ を襲 い︑ 繰り 返し 恐怖 とな った 一四 世紀 後半 の﹁ 大規 模ペ スト 期﹂ の時 代で あり

︑そ の文 書は

︑黒 死病 の危 機に さら され て生 きた 人間 のあ り方

︑黒 死病 が人 間に 与え たか もし れな い心 性を 知る 好都 合な 史料 のよ うに 思わ れる

︒ 以 下

︑本 章 で は︑ ひと つ に︑ イ リス

・オ リ ー ゴの 名 著﹃ プ ラ ート の 商 人 中世 イ タ リ ア の 日 常 生 活

│そ の 見 事な 翻訳 と綿 密な 監修 も称 賛に 値す る│

│を 活用 しな がら

︑同 時に

︑そ のほ かの 優れ た研 究に も注 目し て︑ 主題 はあ くま で宗 教的 心性 のあ り方 に絞 り︑ それ を考 察し

︑最 後に 黒死 病関 係史 料で ある

﹁ダ ティ ーニ の遺 言書

﹂に つな げた い︒ 歴史

︵学

︶に おい て最 も大 事な こと は︑ 現実 の豊 かな 具体 的な 事例 の凝 視を 通じ て本 質的 なこ とを 示唆 し︑ 再び 事例 にも どり 検証 する こと であ る│

│い わば

︑個 別と 本質 の往 復運 動で ある

︵い かに 個別 のみ に埋 没し てい る研 究者 が多 いこ とか

︶︒ 限 られ た条 件︵ 史料

・能 力︶ の た めに

︑そ れ が でき る か はむ ず か し いが

︑先 行 研 究を 活 用 して

︑広 い視 野か ら本 章に おい てそ れに 挑戦 して みた い︒ 史 料﹁ ダテ ィー ニの 遺言 書﹂ はブ ラン カの 編集 した 次の テキ スト から その 全文

︵イ タリ ア語

︶を 翻訳 した

Francesco Datini, “Testamento”, in Ricordi in M ercanti S crittori : Ricordi n ella Firenze tra Medioevo, ed. V ittore Branca,

Milano, 1986, 555−565.

︒ これ は︑ 本来 ラテ ン語 であ った もの を公 証人 マッ ツェ イ自 身が イタ リア 語に なお した もの であ る︒ な お︑ 本章 で引 用さ れる ダテ ィー ニや 同時 代の 人び との 手紙 は︑ すべ て直 接イ タリ ア語

︵中 世イ タリ ア語

︶の 原文 にも どっ て翻 訳し た︒ 手紙 等の テキ スト は︑ 第一 にM

・メ リス など の 研 究書

︑第 二 に マ ッツ ェ イ 書簡 集

︑第 三 にプ

― 213 ― イ

タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

(23)

ラー ト国 立古 文書 館の ホー ムペ ージ が提 供す る書 簡集

︑第 四に

︑オ リー ゴの イタ リア 語版 の﹃ プラ ート の商 人﹄ から 得た

︒第 四の 場合

︑注 では

︑オ リー ゴの 邦訳

︵ オリ ーゴ

﹃ プラ ート の商 人﹄ と 表記

︶と 区別 する ため に︑

Oligo, Il Mer-

cante

と記 した

ita Prefazione una con Ruffini Nina tra. Datini, Francesco di V Iris a L rato. P i d Mercante Il Oligo, di

Francesco Giavazzi, M ilano, 1957.

︵ 二

︶ 遺 言 書 に よ っ て 現 代 に な お も 生 き る ダ テ ィ ー ニ 二

〇一

〇年 は︑ 一四 一〇 年︵ 八月 一六 日︶ に死 去し たフ ラン チェ スコ

・ダ ティ ーニ のち ょう ど没 後六

〇〇 年に あた る︒ この ため 二〇 一〇 年八 月一 七日

︑彼 の没 後六

〇〇 年を 記念 して

︑プ ラー トの コム ーネ 広場 のダ ティ ーニ 像の 前で 高ら かな ファ ンフ ァー レと とも に 華や か に

﹁没 後 六〇

〇 年 記念 式 典﹂ が 開か れ た

︵筆 者 も出 席

︶︵ 図3

﹁ダ テ ィ ーニ 没後 六〇

〇年 記念 式典

﹂︶

︒ 遺言 書を 通じ てダ ティ ーニ が残 した 莫大 な遺 産︵ 一〇 万フ ィオ リー ノ︶ は︑ 一方 でフ ィレ ンツ ェの イン ノチ ェン ティ 捨子 養育 院︵ 一 四四 四 年

︑ブ ル ネッ レ ス キ設 計

︶︵ 図4

﹁フ ィ レ ン ツェ の イ ンノ チ ェ ンテ ィ捨 子養 育院

﹂︶ の 建築 資金 の一 部︵ 一〇

〇 フィ オ リ ーノ

︶に 役 立 てら れ る と とも に

︑他 方︑ 残 る全 財 産 は﹁ フラ ンチ ェス コ・ ディ

・マ ルコ の貧 者の 慈善 の施 設

︵財 団︶

﹂ に 遺贈 さ れ︑ 死 後ず っ と プラ ー ト の 貧民 救 済 に役 立 て られ てき た︒ この 貧民 救済 の基 金は

︑ダ ティ ーニ が︑ 遺言 書 を 通 じて

︑彼 が 所 有し た 農 地な ど か ら 毎年 得 ら れる 収 益 を︑ 彼が 特別 に設 立し たこ の財 団に よっ て管 理し

︑貧 民に 配分 する よう に命 じた ので ある

︒現 在そ の収 益は 毎年 およ そ二 万ユ ーロ に及 ぶと いう

︒ ダ ティ ーニ がお こな った この 慈善 活動 の偉 功を 称 え︑ プ ラ ート 市 は︑ 毎 年彼 の た めに 供 養 ミ サを 挙 げ てき て お り︑

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

― 214 ―

(24)

3 ダティーニ没後600年記念式典(2010年817日、コムーネ広場)

4 フィレンツェのインノチェンティ捨子養育院(ブルネッレスキ、15世紀)

これは、均衡・比例・簡潔さにおいてブルネッレスキによる最初のルネサンス 様式の建築物である。この施設のためにダティーニの遺産のうち1000フィオリ ーノが拠出された。

― 215 ― イ

タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

(25)

二〇 一〇 年も

︑記 念式 典に 引き 続い て︑ 例年 どお り八 月一 七日 に︑ 彼の 遺体 が埋 葬さ れて いる プラ ート のサ ン・ フラ ンチ ェス コ教 会で 供養 ミサ がお こな われ た︵ 図5

﹁ダ ティ ーニ の供 養ミ サ﹂

︶︒ ダ ティ ーニ は︑ すで に述 べた よう に︑ 貴重 な膨 大な 史料 によ って 有名 であ るが

︑同 時に 孤児 や貧 民へ の慈 善活 動を 命じ たそ の遺 言書 によ って も有 名で あり

︑こ の両 者に よっ てプ ラー トの 象徴 的存 在で あり

︑彼 はい わば 今も なお プラ ート に生 きて いる とい える

︒特 に没 後六

〇〇 年に あた る二

〇一

〇年 には

︑そ のこ とが プラ ート の通 りや 広場 など のあ ちら こち らで 感じ られ た︵ 図6

﹁リ カソ ーリ 通り

︵ コム ー ネ 広 場 の 前 の 通 り︶ に て﹂

︶︒ ま た

︑新 聞 報 道 で も︑ 式 典 行 事 の 予 定 が

﹁ラ

・ナ ツ ィ オ ー ネ﹂ 紙 で 紹 介 さ れ た ほ か

︵二

〇 一

〇 年 八 月 一 四 日︶

︑﹁ イ ル・ ティ ッレ ーノ

﹂紙 では

︑ダ ティ ーニ は﹁ プ ラー ト 人 の 企業 精 神 の 象 徴﹂

﹁初 期 ル ネ サ

5 ダティーニの供養ミサ(2010年817日、プラートのサン・フランチェ スコ教会)

これはドン・ロレンツォ・レンツィ司祭(Don Lorenzo Lenzi)によっておこな われたもの

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

― 216 ―

(26)

ンス の類 い稀 な商 人の 実例

﹂で ある と紹 介さ れ︵ こ の 見方 は オ リ ーゴ の 著 書の 影 響 が 強 い

︶︑ そ の 歴 史 的意 義が 強調 され た︵ 二

〇一

〇年 八月 一四 日︶

︒│

│ 本章 は︑ この 遺言 書が どの よう な経 緯で 執筆 され た かを 論じ

︑そ の執 筆に 至る 背景 にペ スト によ る強 い 影響 と同 時代 人の 宗教 的心 性が 作用 して いた こと を 実証 的に 論じ るも ので ある

︵ 三

︶ ダ テ ィ ー ニ の 生 涯 ダ ティ ーニ の生 涯の 概略 を述 べて おこ う︒ フラ ン チ ェ ス コ・ ダ テ ィ ー ニ は

︑一 三 三 五 年 に プ ラ ー ト

︵ 市 壁 内 人 口 約 一 万 人

︶に 生 ま れ た

︒父 親︵ マ ル コ・ ダテ ィー ニ︶ につ いて は︑ 詳し いこ とは わか ら ない が︑ プラ ート 近郊 の出 身の よう であ る︒ F・ メ リス によ れば

︑小 売商 であ った

︒そ の名 前が

︑プ ラ ー ト に あ る 一 四 あ る 組 合 の う ち︑

﹁ 商 店 主 組 合

l’arte dei tavernieri

︶に 登 録 さ れ て い る か ら で あ

6 リカソーリ通り(コムーネ広場の前の通り)にて

― 217 ― イ

タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集

︵ 八

図 3 ダティーニ没後 600 年記念式典(2010 年 8 月 17 日、コムーネ広場) 図 4 フィレンツェのインノチェンティ捨子養育院(ブルネッレスキ、15 世紀) これは、均衡・比例・簡潔さにおいてブルネッレスキによる最初のルネサンス 様式の建築物である。この施設のためにダティーニの遺産のうち 1000 フィオリ ーノが拠出された。 ― 215 ―イタリアの黒死病関係史料集︵八︶

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