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財政理論と政治行動

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財政理論と政治行動

山之内 光 躬

 今日︑経済学の一つの応用部門として分類され︑その研究に︑経済学的分析手法が大きな比重を占めている財政学

は︑もともと︑経済学の関連諸学科のなかでも︑とりわけ︑政治的要素あるいば行政制度の側面を重視し︑それらを︑

主要研究対象とするという伝統を形成してきた︒したがって︑経済学の理論分析の成果を応用することによって︑実

証的な科学的分析が財政理論のなかで積極的に展開されるようになったのは︑むしろ︑比較的最近のことにすぎな

い︒経済学が︑いわゆるポリティカル・エコノミーから︑実証分析による科学としてのエコノミクスに脱皮していっ

たのは︑一八七〇年代の限界革命以来のことであったが︑財政学では︑租税の転嫁の分析や超過負担の分析に︑部分

的に︑価格理論の応用としての︑経済学の分析用具が導入されてはいたものの︑今世紀の半ば頃までは︑すぐれて制

度的側面が重視される財政学の伝統は︑連綿として続いてきたといえる︒だが︑このような制度的研究に︑大きな分

析的努力を傾けてきた伝統的財政学も︑財政論決定の形成過程︑政治的行動の特質︑政策形成の因果要因等は︑当初

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から︑財政学研究領域の外部に排除してきたのである︒       58      1 このような︑伝統的な財政学研究の方向に︑一つの大きな転換の契機をもたらしたのは︑ケインズ経済学による︑

マクロ経済分析の発展にほかならなかった︒いわゆる︑ フィスカル・ポリシーの理論展開によって︑租税︑政府支

出︑公債等の財政諸変数が︑家計や企業の経済行動に︑いかなる効果を及ぼすのか︑そしてこれが︑国民総生産︑消

費支出︑物価水準︑国際収支等に︑いかなる効果をもたらすのかを追跡し︑理論定式化を拡張することが︑財政学に

おける新しい研究課題となったのである︒そして︑このような傾向が︑およそ︑一九六〇年代までの財政学研究の主

流を形成してぎた︑といっても過言ではない︒

 このような財政のマクロ分析の発展とは別に︑もう一つの財政理論発展の重要な方向がある︒それば︑特に︑一九

五〇年代以降︑経費論の展開ならびに租税分析において顕著にみられるように︑ミクロ経済分析の用具が財政学研究

に積極的に応用され︑これによって︑財政理論の精緻化が一段と進展することになったことである︒特に︑この過程

で︑厚生経済理論の分析手法が︑財政理論の発展に果たした貢献は注目に値しよう︒このようにして︑財政の純粋理

論ともいうべぎものが︑財政学のなかに浸透し︑経済分析が積極的に導入されてくるとともに︑伝統的に︑制度的側

面の記述的説明が主題であった財政学には︑いよいよ理論的精緻化が進捗し︑理論的な精密さと整合性が厳しく要求

されることになった︒そして︑ここでも︑純粋経済理論におけると同様︑洗練されたモデルの構築とその華麗さを競

うことが︑研究活動の誘因となる傾向が生じてきている︒

 このように︑近年にみられる︑財政のマクロ分析ならびにミクロ分析は︑財政の経済理論的発展に大きな貢献を果

たしたが︑このような財政の経済理論も︑政策決定の重要な因果要因︑財政決定過程の特質等の問題は︑依然として︑

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財政理論と政治行動

研究対象から除外したまま︑これを政治学や社会学等の隣接学問領域の研究課題として委ねてきたのである︒

 いまさら指摘するまでもなく︑財政理論が経済学の理論形成を模範として︑理論的な厳密性と整合性を志向し︑み

ずからその科学性を主張するという︑ ﹁財政学の経済学化﹂が進行していくにつれて︑経験科学としての財政理論か

らの︑具体的な政策的提言は︑より局部的になり︑錯綜した政策形成過程の因果要因を︑予測のなかに織り込むこと

がますます因難となった︒科学的分析のメスが磨ぎ澄まされてくるに照応して︑理論と現実との乖離がより拡大する

という事実は︑社会科学が個体化され︑分化︑専門化をとげ︑対象を局限化していく過程では︑不可避の宿命ではあ

った︒理論構成が洗練され︑科学性が高められるにつれて︑その現実的実用性を犠牲にしなければならないという︑

社会科学︑とりわけ経済理論における相克的関係は︑政策過程と特に密接に関連しあって発展してきた財政学にとっ

ては︑逃がれることのできない一つのディレンマにほかならなかったといえよう︒

 たとえば︑市場の失敗の理論の一環として定式化された︑公共財の純粋理論は︑理論的精密化の点では︑一九六〇

年代から七〇年代を通じての︑注目すべき分析的努力によって︑大きな成果を残してぎた︒しかし︑そこでは︑便益

の主要部分が︑どの集団に帰属する公共財を供給するのか︑そして︑その給付費用は︑だれが︑どのような方式に基

づいて負担するのかという︑政策過程ではけっして避けては通れない問題に︑適切な解を提供しないまま︑ただ︑公

共財決定の最適条件の定式化を追跡してきたのである︒そして︑この理論モデルの精密さや華麗さに反して︑現実に

は︑それが何らの有効な政策提言をもなしえず︑財政の研究者や実務家の側から︑ぎびしい批判にさらされているの

は︑このような事情によるものといえよう︒理論分析における鋭利なメスは︑実践面では︑その有効性において︑棍

棒を凌駕しえないというのは︑何という皮肉であろうか︒

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 財政は︑元来︑課税と政府支出にかかわり︑国家政策学として発展してきた︒つまり︑政府︑集合体の活動がその

対象であり︑財政学は︑政治と経済の広範な交錯領域に深く立ち入るところに︑伝統的経済諸学科とは異なる特徴を

もっていたのである︒よく知られているように︑経済学が自然科学の分析手法を手本にしながら︑社会科学のなかで

もひときわ︑精密科学として一つの地位を築ぎえたのは︑社会現象のうちで︑それが︑計量︑計測化しうる対象を︑

相対的に多くもっていたという理由による︒しかし︑主として︑消費者︑生産者︑企業家︑労働者等の活動のよう

な︑非政府的意思決定にかかわる伝統的経済諸科学とは異なり︑政治の領域では︑計量化が不可能な対象が大きな部

分を占めており︑これらに自然科学的分析を加える余地は︑もともと大きく制限されていた︒だから︑政治と経済の

交錯領域で︑政府︑集合体活動にかかわる財政学が︑厳密な経済分析を適用して︑経済学化をはかろうとするとき︑

このような政治的要素は︑できるだけ排除されなければならなかった︒このように︑財政学の経済学化が進み︑その

研究が︑経済理論の応用として︑資源の配分︑所得分配︑経済の安定の各部門において︑財政変数の経済効果に視角

を限定して︑精密化の方向に分析的努力が集中していったとき︑財政学における政治的側面︑制度的側面への関心

は︑次第に退潮していくことになった︒具体的に︑このような財政学の経済学化によって︑その内容の大きな変化を

経験したのは︑一九五〇年代以降のことであった︒もちろん︑現代の財政学の研究が︑その政治的︑行政的制度の側

面をまったく顧みないというのではない︒現実の財政活動が︑根底において︑法律制度によって支えられている以

上︑財政制度の側面を全面的に排除するわけにはいかないからである︒しかし︑それはしばしば︑記述的制度論にと

どまっている場合が多く︑これを政治行動の基本的なゲームのルールとして︑一つの理論体系にまで高められている

とはいいがたい︒

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財政理論と政治行動

 このような財政理論の分析上のギャップが︑徐々に補填されはじめたのは︑勺信三凶︒Oげ08①の発展によってであっ

︵1︶た︒その先駆的作業は︑すでに十九世紀の後半において︑国ヨ一一ω麟×Oひqo竃⇔NNo一音竃9跨Φo℃9葺巴Φo旦∪Φく#一

Uoζ碧8糟囚づ暮冬8厨①一一といった経済学者によって着手されていた︒かれらの定式化は︑かならずしも同一方向

を示すものではなかったけれども︑かれらが︑私経済の活動を説明するにあたり︑公経済を導入した点では共通項を

もっていたことが指摘されている︒つまり︑課税と政府支出の選択過程が︑明示的にとりあげられたのである︒しか

し︑これらの先駆的業績は︑財政理論においても︑経済理論においても︑ほとんど評価されることなく約半世紀が過      ︵2︶ぎたのであった︒そして︑ついに︑伝統的な財政学の研究者のなかから︑ヨーロッパ大陸の古典的文献に啓蒙され

て︑集合的選択の領域について理論展開を開始した︑注目すべき二人目研究者が出現した︒その一人︑∪§8口国9︒o屏      ︵3︶は︑もともと財政学の研究分野で︑所得税の転嫁をテーマにしてきた︒イタリアおよびスウェーデγの文献の影響を      ︵4︶うけたのち︑あの委員会の理論の古典的名著を生んだのである︒他は︑ 9ζ●Ud琴げp轟昌 であり︑ かれの最近の

勺巨80げ︒凶8における精力的な活動と︑指導的役割は今日では周知の通りである︒しかし︑かれも当初は﹁連邦国      ︵5︶家の財政的公平﹂というテーマにも表われているように︑標準的な財政学の研究から入っている︒しd仁︒げ雪ぎもまた

イタリアの文献および≦ぎ器①一一の著作に強い刺激を受けて︑次第に︑その関心が︑政治的決定過程︑立憲的ルール      ︵6︶の方向に移り︑財政学の伝統的問題から離れていったことを︑かれ自身が告白一している︒そこでは︑関心を惹くの

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は︑たとえば︑︿租税負担はいかに配分すべきか﹀という旧い問題ではなくて︑︿民主主義においては︑租税負担は 62       1いかに配分されるのか﹀という新しい問題であった︒つまり︑財政的決定の結果が導出される政治構造︑そこで︑ど

のような政治行動が働いているのかが︑理論展開の動機にほかならなかったのである︒

 本稿は︑目障げ一80げ900と財政学との関連をトレースしょうとするものではない︒そして︑また︑勺⊆σ一ざOげ98

が上述した財政の経済理論の有効性のギャップを︑十分に補填しうる程度にまで︑成長する可能性があるかどうかに

ついても︑確信をもって答えることはできない︒℃ロ三一︒Oげ︒一8の現状は︑依然として︑明確な乱撃が定められない

まま︑多様な内容が流動している︒ただ︑℃ロ三一︒Oゴ︒一8は︑基本的には︑政治的行動の分析をその共通のテーマに

もっているはずであり︑財政の経済理論のギャップの一つが︑この要因の欠落にあったとすれば︑われわれも︑財政

理論の形成に︑政治活動という要因を︑いかに有効に織り込んでいくかが︑これからの大ぎな課題となることを主張

したいのである︒

 註︵1︶ このような︑財政学に関連した℃仁玄ざOげ︒ざ①の発展過程については︑一・竃甲ゆロ︒冨冨P勺ロ三ざOゴ︒ド①曽民集信三一〇

  国コ碧8︑ミ苛︒ミミ§織︑ミ導ミミ§ら♪℃88・島轟ω︒h9Φω心土︒︒畠︻Φωω︒h昏①図葺死期p二8巴ぎω二ε8︒h

  ℃ロ三一︒聞冒9︒昌8口㊤ヨげ置注H㊤刈︒︒︾お︒︒Oを参照︒on9寓・切信︒匿呂P℃⊆三一︒Oゲ︒一89︒巳℃ロ三一〇聞冒p︒昌︒P≧ミ§ミ

  ↓織娩誉ミ︑識ミ噛H㊤刈9

︵2︶ bdβ︒9昌碧によれば︑イギリスの経済学が︑これら大陸の文献を無視してきた部分的説明として︑古典学派政治経済学

  の非生産的国家観︑ベンタム派功利主義および理想主義政治哲学をあげている︒しかし︑一般に︑経済学者が︑かれらの分

  析用具を︑私的選択よりも︑むしろ公共選択において行動する個人に拡張するのに︑何故︑かくも躊躇してきたのかは︑依

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  然としてミステリーであるとしている︒だが︑政治行動のプロセスでは︑投票の分野などの一部をのぞいては︑計量化がぎ

  わめて困難なところがら︑この傾向は︑政治的要素を排除して︑理論の精密化をはかろうとした︑経済分析の発展状況から

  は︑容易に説明がつくであろう︒

︵3︶ ∪・空きぎ↓ミ智亀ミ§ミ駄﹂§oミ鳴↓黛慈9一〇ωP

︵4︶∪●bdζ︒ピ↓ミ§S遷ミO§ミ蛛§恥§職韓ミ叫§恥08︒︒陰

︵5︶9罫bd口︒冨岳P︑ぎ貸h恕ミ嘗§轟守職ミミ欝ミ恥口潔︒︒.

︵6︶匂■客切琴ぎ§P皆三一︒Oず989&皆三ざ国益昌8し㊤︒︒ρ︒P鼻こP目ド

財政理論と政治行動

 近年︑政治行動に対して︑経済分析を応用して︑いわゆる︑ ﹁政治の経済学﹂の定式化をはかろうとする試みが︑

活発になりつつある︒しかし︑政治行動に対する経済学者のアブ戸ーチは︑政府行動についての前提の差異によっ      ︵1︶て︑二つのフレームワークに大別することができる︒ 一つは﹁市場失敗のアプローチ﹂であり︑他は℃⊆三一〇〇げ90①

あるいは﹁利益集団のアプローチ﹂である︒

 すでに経済学は︑市場経済活動の定式化のなかで︑市場の価格メカニズムに内在する不完全性を指摘し︑資源の効

率的配分や適正な所得分配を実現するためには︑この市場の有効圏外領域に︑政府活動の補完的機能が不可欠である

ことを認めていた︒それらは︑政府機能分析の定式化からいえば︑いわゆる︑ ﹁市場の失敗﹂の理論にほかならな

い︒この市場失敗の認識は︑すでに︑素朴な形態では︑十八世紀の社会哲学および政治経済学のなかに現われており

早くから理論展開の並立をみせていたが・近代理論の蕎によ・て・この問題について・厳密奎式化が試みられた鵬

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のは︑﹀.O.コσqo=の﹁厚生経済学﹂においてであった︒このような℃黄oρの市場欠陥の理論を出発点として発展      ︵2︶した︑その後の理論展開を︑包括的にピグー・アプローチと呼ぶことがでぎる︒

 この分析では︑公共財︑所得分配︑外部効果︑費用逓減構造の存在が︑市場メカニズムの不完全性の問題との関連

において︑厳密に定義され︑市場経済における適正な資源配分と︑所得分配が失敗する構造が説明されている︒そし

て︑そこから︑これらの市場メカニズムの障害の結果を︑課税あるいは負の課税のような政策手段で調整すべく︑政

府活動介入の必要性が説かれたのである︒すなわち︑政府活動は市場経済の機能を補完するために存在するのであ

り︑政府はまず︑市場機構の配分を困難とする公共財の供給主体でなければならない︒そこから︑社会が︑その便益

を共有することになる公共財を︑最適に配分するための条件が︑追求され︑定式化される︒また︑市場経済の結果の

歪みを是正するために︑外部経済︑外部不経済をいかに内部化していくことができるのか︑費用逓減産業をいかに規

制して︑資源の効率的配分を復元するのか︑さらに︑公平な所得分配を実現するためには︑どのような基準を導入す

べきなのかについて︑方策を模索しながら︑その理論的定式化をはかるのである︒

 このような︑ピグー・アプローチにおける市場失敗の理論は︑政府介入の根拠と正当性を経済理論的に明確化し︑

政府過程を︑現代経済の不可欠な補正要因としながらも︑かれらの経済分析には︑政治的要因は︑まったく排除され

ているところにその特徴がある︒市場機構における行動分野に介入しながら︑その欠陥を補填する役割を果たすべき

﹁政府﹂とは︑ピグー・アプローチでは︑いったい︑どのように特徴づけられているのか︒このアプローチにおいて

は︑まず︑政府は完全な能力をもち︑市場機構に内在する欠陥は︑つねに政府によって余すところなく補完すること

ができるという︑不動の前提が設定されていることが看過されてはならない︒政府はそのような要求に︑即座に︑対

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財政理論と政治行動

応できるのである︒政府は︑市場経済社会にとっては︑全幅の信頼をおくことができる︑完壁な救世主にほかならな

いのである︒意思決定過程でのコストはゼロである︒このように︑全知︑全能の慈悲深き政府こそが︑この理論構成

の根底に︑暗黙のうちに想定されているのである︒たとえば︑すでに︑ケインズ経済学の理論形成の出発点に︑ ﹁ハ

ーヴェイ・ロードの前提﹂が在り︑﹁哲人王仮説﹂に基づいて︑具体的な政策提言が行なわれていることが指摘され︑      ︵3︶その現実妥当性の問題が批判されている︒しかし︑最高善のみを行使する政府を想定しているのは︑ひとり閤Φ讐①ω

のみではない︒ピグー・アプローチにおける︑市場の失敗の理論もまた︑政治過程に関しては︑まさに︑ ﹁哲人王仮

説﹂の上に立っているのであり︑政府は市場の失敗に対する︑信頼に足る補正用具となっているのである︒

 だが︑政策過程において︑政府行動は︑真に信頼のおける市場補正用具を提供しうるのだろうか︒利益集団アプロ

ーチとしての℃二三8070一8 の理論では︑むしろ︑政府活動そのもののもつ特質︑政府政策の形成の問題が︑主要

な分析対象となっている︒だからこの理論の側からは︑ピグー・アブ戸ーチが︑政府の理論としては︑有効性をもた

ないこと︑そしてまた︑市場の欠陥を補填するのに︑完全な︑そしてゼロ・コストの仕様で︑政府活動に依拠するこ

とが︑まったく保証されていない根拠に基づいていることを衝いて︑このアプローチが政府の理論としては︑信頼す      ︵4︶るに値しないものとして︑きびしく批判している︒

 政府活動は︑厚生の再分配をもたらすとすれぽ︑それは︑国の経済的厚生を︑つねに改善することができるのか︒

政府活動の結果は︑厚生を︑総体的には︑改悪することはないのか︒また︑厚生の個人間︑あるいは集団間の分配

は︑かならずしも︑パレート最適の範囲では︑保証されないのではないか︒

 政府活動の結果が︑社会のメンバーにもたらす厚生︑あるいは便益の分配パターンは︑究極的には︑正和かゼロ和

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か︑あるいは負和のいずれかであろう︒利益集団のアプローチは︑政府はいかに行動するかが︑社会的厚生分布の重要

な因果要因であるという認識から出発する︒そして︑﹁多くの場合︑経済への国家介入のための経済合理性基準と︑特       ︵5︶定の国家介入の実例がもつ特性との間には︑かなり大きなギャップが存在するという︑経験的な観察に基づいて﹂理

論の展開が開始されるのである︒つまり︑ピグー・アプローチでは︑経済社会における︑市場の欠落する部分を政府

の機能が補填することによって︑社会の厚生を正和の方向に変更しうるという規範的仮説が︑理論の根底に横たわっ

ているのに対して︑利益集団アプローチでは︑政府の行動がかならずしも︑最高善と結びつかないことを︑経験的事

実として認め︑政府の失敗︑あるいは政府の不完全性を出発点として︑分析が始められるのである︒そして︑このア

プローチの基本的な前提は︑個人の行動が︑市場領域においても︑非市場的な集合的あるいは政治的領域において

も︑ひとしく︑自利に基づいているということである︒だから︑市場と政治のセッティングの差異の根源は︑けっし

て個人の行動の動機づけにあるのではない︒個人の行動について︑ ﹁重要な点は︑︿政治的な﹀自己と︿私的な﹀自

己との間で︑人格が分岐することはないということである︒われわれは︑投票をするときには︑︿公共の利益▽を求

め︑食料品を買うときには︑八私的利益∀を充足しようとしているのではない︒どちらの場合にもく自利﹀を追求し

ているのだ︒ジキル博士とハイド氏の物語ば︑映画としては適切であっても︑政治行動を分析する基準としては︑役

    ︵6︶に立たない﹂のである︒

 このように︑個人は︑市場においても政治においても︑根本的には自利によって行動するとすれぽ︑この二つのプ

ロセスの本質的な違いは︑いったいどこから生じるのか︒すでに︑公共財の理論は︑この問題について︑市場財と政

府が供給する財の技術的特質等の観点から︑説明を試みてきたが︑それとは別に︑たとえば︑ ζ8自ヨ伸マ円9=ωo昌

166

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はこの差異を︑私有財産権のセッティングの在り方に求めている︒すなわち︑市場においては︑財産権の設定によ

り︑個人は︑自分の行動の結果を︑その帰属便益の変化によって︑直接受けとることになる︒だが︑政治過程では︑

私有財産権は設定されえず︑自分の決定がもたらす経済的結果を︑かならずしも︑そのままの大きさでは受けとるこ

とはない︒二つの行動が異なるのは︑それぞれの行動目標が相違するからではなく︑その行動を規定する条件が異な

るからなのである︒

財政理論と政治行動

 註︵1︶ oh・男09二国・竃oOo﹃ヨ言三儀開︒げΦ二U.↓o=δoPぎ︑馬ミ馬§辞卜鵡ミミご日貸醤亀導恥肉8謹ミざ︸蕊﹂謹ミ︑ヒ馬ミ︒導Q

  ぎ︑ミ跨㍗O︑o§↓ミミヒミOoミ§ミ§きお○︒一

   なお︑竃oO自尊?目︒霞ωo昌では︑この分類の基準にかならずしも︑政府行動の在り方の前提を︑明示的に導入してはい

  ないが︑ここでは︑ ﹁市場失敗のアプローチ﹂と︑頃ロ三一〇〇﹃o一8あるいは﹁利益集団のアプローチ﹂という︑かれらの用

  語法にしたがうことにする︒だが︑剛二げ=oOげ080をどのように理解するかは︑現在のところ︑かならずしも︑意見の一致

  をみないであろう︒たとえば︑近年︑その刊行が軌道にのってきた︑℃ロ三ざOげ︒ざ︒誌を例にとれば︑そのなかには︑かな

  り広範な内容のものが含まれており︑これらをすべて︑ ﹁利益集団のアプローチ﹂として︑一括分類することは︑不適当で

  あるかもしれない︒

   もともと︑勺ロ三ざO﹃98誌は︑当初︑一九六六年の発刊第一巻から︑一九六七年の第三巻までは︑℃⇔ロ︒話︒コZo〒

  竃舘吋Φ江昌oqUo9ωご昌竃ゆ吋凶昌oqという誌名で︑Ooao昌↓三ざ︒吋によって編集されており︑その後︑知犀げ嵩oOげ900ω090な

  の創設とともに︑一九六八年の第四巻から︑現在の誌名勺仁びぎOぴ98に変更された︒目三一〇︒吋は︑第一巻の序文で︑本

  誌発刊の事情をおよそ次のようにのべている︒経済学の学術専門雑誌は︑政治領域をテーマにした経済学の論文を︑アウト

  サイダーとみなし︑また︑政治学の学術誌は︑これらを︑風変りな方法をもった︑アウトサイダーの侵害として︑反対する       67  傾向にある︒したがって︑非経済的社会現象への経済学的アプローチの諸研究にとって︑このような状態を改善するのが︑ 1

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  発刊の目的であると︒       68      1︵2︶ ℃茜︒減のアプローチでは︑非市場領域に属する︑典型的な対象としての︑公共財の問題を︑明示的には定式化しようとし

  てはいない︒しかし︑ここでは︑政府行動の全能を︑インプリシットな前提として︑ ﹁市場失敗のアプローチ﹂の枠組のな

  かで︑定義化をはかる公共財の理論も︑ピグー・アプローチとして分類できるであろう︒

︵3︶ oh・七竃●︼W藍6げ碧雪9︒昌山戸国陰≦Ω︒αq昌︒ぴb鳴ミ︒q蕊逗慧b§ミひ↓ミ勺︒︑ミらミト轟§兄駄トミ職肉亀篭恥明目$S ︵深

  沢・菊地訳﹁赤字財政の政治経済学﹂文真旦︶⁝︸.寓曾切琴曇霞P一〇げ昌切賃二〇ロp三図・国.≦9︒oqロ︒さ↓魯恥O︒誠爵巽§ミ肋

  ミミぎ映遷ミ曾H㊤↓o︒冒︵水野・亀井訳﹁ケインズ財政の破綻﹂日本経済新聞社︶

︵4︶9戸国.竃︒6︒§8曽住図.∪目︒白8pε・葺・︑︵5︶8・葺﹂暑.や9︵6︶8●9こO・9

 われわれは︑個人の行動が︑市場のセッティングにおいても︑政治のセッティングにおいても︑ひとしく︑自利に

動機づけられているとした︒しかし︑われわれの現実の政治的決定は︑個人間の原子論的レベルで行なわれているの

ではない︒立憲的基本ルールに基づいて︑代議制民主主義の枠組のなかで︑政党行動のプロセスから︑それは導出さ

れる︒だから︑財政決定過程における政治行動の分析をはじめるとき︑政党︑政治家の行動が︑その中心に据・兄られ

なければならないだろう︒

 ここで︑われわれは︑政治家を︑ゲームのルールの供給者として行動するという想定から出発するが︑まず︑はじ

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財政理論と政治行動

めに︑ゲームのルール設定の基本的セッティングから始めなければならない︒

 目ず︒苫田ω出︒ぴσ①ωは︑い①<貯9きのなかで︑入びとの︑アナーキーの世界での行動を説明し︑人びとが相互に敵対

する闘争の時代では︑労働の余地はなく︑土地は耕作されず︑航海もなければ輸入財貨の消費もない︒技術も文字も

社会もない︒﹁そして︑もっとも悪いことには︑継続的な恐怖と︑暴力による死の危険とが存し︑人間の生活は︑孤独      ︵1︶で︑まずしく︑険悪で︑残忍で︑しかもみじかい﹂と書いた︒そして︑人びとがこの状態を回避するために必要なの

は︑かれらを導びく諸戒律としての自然法であることを指摘した︒つまり︑人びとは︑ゲームのルールとしての法を

遵守することによって︑アナーキーのジャングルを脱することがでぎるのである︒

 アナーキーにおいては︑人びとは︑生存権についても︑所有権についても︑明確な定義をもたない︒人びとは︑そ

れぞれの欲望の命ずるままに︑相互に生活圏を侵害しあう︒つまり︑生活圏の障壁を定義するルールと︑そのルール

を行使する権力が存在しないからである︒このような︑いわゆる︑ホッブス的ジャングルの社会では︑人びとは︑自

己の生活圏を防衛するためには︑まさに︑野生動物がそのテリトリーを守るのと同様の行為を必要とする︒そしてこ

の生活圏防衛のための労力は︑他の目的の労力を断念して投入されるものにほかならないのである︒

 いま︑このようなホッブス的ジャングルの状態を単純化して︑少数メソパーの社会︑たとえば︑二個人の社会を想

定してみよう︒ここでは︑個人の生命をも含めた私有財産権についての定義は存在しない︒すべての個人の生活行動

圏は︑他の個人の行動によって︑侵害され︑相互に交錯し合うことになる︒だから︑このようなシステムでは︑他人

の行動から孤立させて︑特定個人の行動領域を定義することはできない︒つまり︑ホッブス的ジャングルでは︑図i

1が示すように︒各個人の生活行動圏の領域は︑相互に重複し︑共通のフィールドをカバーすることになる︒この社

169

(14)

       ド  会でば︑私有財産権に関する基本ルールが存在しないから︑個人にとつ       ル       て︑基本的生存の保障もなく︑公共財理論で定義されているような︑いわ

      ゆる︑純粋私的財の消費についてすら︑どこにもその安全地帯は存在しな

       いからである︒

       人間行動の重要な動機が︑︿利得﹀とく保全﹀にあるとすれば︑人びと

       は自己の満足を︑より拡大すると同時に︑現状を保全することに努力す

       る︒このとぎ︑基本ルールの設定について︑その限界利益が限界コストを

 一       超過するかぎり︑双方の個人はルールの設定に合意するだろう︒したがっ       て︑ホッブス的ジャングルの状況は︑けっして︑ゼロ和の状態ではない︒

      個人間の協力的戦略の合意が不可能ではないからである︒

   B圏      まず︑人びとは︑私有財産権を明確に定義することによって︑最も基本   人動   個行      的なゲームのルールを確立するだろう︒さらに生活行動に関するいくつか

の基本ルールが設定されるとき︑図11に示されたような︑個人間の生活行動圏のフィールドの完全重複は︑図12

のように修正されるだろう︒転および玩で示されるフィールドは︑それぞれの個人の独立的な生活行動圏であり︑こ

の領域内では︑個人は他人の行動によって侵害されることはない︒そして︑斜線部で示されるフィールド︑Kは︑個

人間で利害を共有し︑個入の行動が他方の利害に影響を与えあう領域を示す︒つまり︑図11の二個人の重複した生

活行動圏のフィールドは︑その大部分がスライドして一部だけを残すことになる︒それは︑両者の協力的戦略の導入

の生活

1

1

のブイールド ⁝1

II

 1@⁝1

1

1

u一

1

1

1⁝1

i

個人Aの生活 行動圏のフィー

170

(15)

図一2

LA

KZ

LB

上昇し︑アウトプットは低減しなけれぽならない︒

り︑結局は︑ゲームのルールを設定することに合意するだろう︒    によって︑双方が同様に改善される余地があったことを   意味している︒だから︑このスライドの可能な領域で   は︑社会的合意の可能性が残されており︑われわれは︑   このフィールドを合意領域と呼ぶことができる︒しか   し︑協力可能なフィールドで合意が進行し︑ついに斜線   で示されるフィールド︑Kが残されたとき︑この領域   で︑個人の利害は相互に対立する︒このフィールドが利   害対立領域︑あるいは紛争領域である︒    このようにして︑人間の自然状態︑つまり︑いかなる   ルールも存在しない社会では︑社会経済生活のコストばしたがって︑個人がそれぞれの合理性を追求して行動するかぎ

財政理論と政治行動

 註︵1︶ 目げ︒ヨ器出︒げげ①9卜鳴ミミ魯礒斜

  二∩︶三一二っ四ページ︶ 幸く①曙ヨ雪︑︒︒ピ一耳費ざ一壷ω層雲・①や⑦9 ︵水田洋訳﹁リヴァイアサン﹂日 岩波文庫

171

(16)

172

 われわれは︑ゲームのルールというとき︑具体的な法律制度だけにとどまらず︑社会的な便益再分配効果を︑直接

行使する︑予算制度をも含めることにする︒しかし︑このルールの設定および変更は︑個人的選択レベルで︑したが

って︑合意領域の内部でのみ実現されるのではない︒ルール設定のプロセスが︑個人間の交渉レベルから︑集団間の

交渉になるとぎ︑そこには︑一つの距離概念が入ってくるため︑人びとの交渉認識は︑より直戴ではなくなるだろ

う︒その結果︑集団のメンバーは︑自己集団の利益追求を明示的に強化し︑代理交渉機関を通じて︑しばしば︑ ﹁公

益﹂の名のもとに﹁自利﹂追求を正当化して︑対立領域︑Kフィールドの内部での︑ルールの設定や変更を主張する

ことになる︒したがって︑この代理交渉機関を構成する政治家は︑ここでは︑ゲームのルールの供給者にほかならな

い︒ここでは︑まず︑このようなルールの供給者によって︑利害対立領域に導入せられるルールの問題にふれておこ

う︒ さて︑このようなゲームのルールが︑政治家によって供給されるとぎ︑社会の便益の分布が修正される︒つまり︑

ある特定のルールについての集合的決定は︑社会の利益集団に︑正和か負和か︑あるいはゼロ和か︑いずれかの効果

をもたらすことになる︒しかも︑このとき︑いずれの場合にも︑各集団の利害が一意的な方向を示すという保証はな

い︒ たとえば︑公共サービスの給付決定にさいして︑いかなるタイプの公共サービスを供給するのか︑そして︑その給

(17)

財政理論と政治行動

図一3

/F

!︑

・ドKの

付費用を︑だれが︑どのような基準に基づいて負

担するのか︑という決定を下すとき︑そこに適用

されるルールは︑社会諸集団への利害配分のパタ

ーンを支配する︒

 まず︑単一利益集団のみの︑自利極大化ルール

への行動をとりあげよう︒図13は︑ある集団の

メンバーの効用関数を︑単純化して︑同等と想定

したうえで︑その効用序列を︑無差別等高線で表

わし︑そのピークを餌点で示している︒点線F

は︑その集団の行動可能フロンティアである︒したがって︑集団の最終目標点はqにあるが︑少なくとも︑短期的に

は︑B点が最適点である︒いま︑ルール設定に関連して︑集団の行動が︑Bに向う経路で︑もしKフィールドの境界

線を越えるならば︑このとき︑経路A−Bと︑A点に至るまでの経路とでは︑状況が一変する︒ここでは︑AlB経

路で︑他の集団との摩擦を︑陰伏的に低減して︑可能なかぎりB点に接近することが︑ルール供給者の目標となる︒

そして︑このような最適点への接近行動は︑各利益集団相互の間で行なわれるから︑このときの行動経路は︑万一4

におけるフィールドで示されるようになる︒ここでも︑同一集団のメンバーの効用関数を同等と想定し︑たと︑兄ば︑

ある予算項目の選択的構成内容のもとで得られる︑さまざまな効用序列が︑それぞれの集団の無差別等高線で表わさ

れている︒このとき︑切H>Z炉のフィールドのうち︑ゆら出の経路を除外したすべての点は︑無差別等高線の交

173

(18)

図一4

Bl

       点で形成されており︑経済理論が教える通り︑ま

  N      だ︑集団間の協力によって︑社会的改善が可能な

       領域である︒矢線Rは︑その経路の一例を示して

       いる︒この︑いわゆる合意領域では︑それぞれが

       遵法行動をとり︑契約を破棄しないかぎり︑相手

       の行動によって︑自己の利益が侵されることは

       ない︒しかし︑調整がbd脳︾の経路に入ったと

       き︑この経路上での行動は︑まさに︑ゼロ和ゲー

       ムであり︑真の利害対立が生じる︒

      パレートの意味での︑ノソ・オプティマムであ

       社会は改善されることになる︒しかし︑

  このフィールドの任意の一点から︑社会的に合意の得られる︑改善への可

     だから︑経済理論が社会的改善を示唆する︑ノソ・オプティマムか

     合意形成を保証しないことに注意しなければならない︒たとえば︑

 集団!のみが改善の機会をもち︑集団2は︑厚生分配の修正を受けない︒こ

    明らかに社会的改善をもたらし︑ピグー・アプローチでは︑その政策

         このような社会的改善経路に関する︑合意形成が可能であ

174

OP2

A

    臨 鋭    ・    ︑電   ﹂   ︑一llV

 経済理論の分析成果によれば︑合意領域のすべてのフィールドは︑

り︑それは︑利害対立領域としての︑パレート最適に転位することにより︑

われわれが合意領域というとき︑それは︑

能性が開かれているということを意味している︒

らオブティマムへの転位経路は︑かならずしも︑

図1−4の軌←残←取←域への経路では︑

の方向へのルールの変更は︑経済理論的には︑

的実現に何らの障害もない︒だが︑利益集団間において︑

(19)

ろうか︒ ある具体的な政策決定が︑特定集団にのみ便益改善を与えるとき︑これは厚生の分配についての︑公平基準の問題

を提起する︒経済理論における厚生分析は︑周知の通り︑公平の問題を回避してきた︒しかし︑ノン.オプティマム

領域の社会的合意可能性の問題を解こうとすれば︑利益集団のメンバーによって感知される︑便益分布のパターンと

いう要因が︑導入されなけれぽならないだろう︒社会的改善経路の状況は︑明らかに︑正和ゲームであるけれども︑

集団間における便益分布状態について︑一方の集団の側に不満が残るかぎりは︑たとえ︑合意領域の内部であって

も︑その円滑な合意形成は保証されない︒それぞれの利益集団は︑自己集団への便益の最大分布を求め︑相手集団の

利益を侵害するか︑あるいは︑侵害しないまでも︑便益分布を︑自己集団により多くが帰属するように︑意図するか

らである︒

 このようにして︑このフィールドでの合意形成を︑利益集団の行動を基準にして考察するかぎり︑対立領域と合意

領域との間には︑利益集団の相対的な摩擦の大きさの差異はあっても︑根本的なちがいはないことになる︒

ノ、

財政理論と政治行動

 全知全能の政府仮説によれぽ︑合意領域における決定は自動的に導出される︒また︑対立領域についても︑一つの

理想的状態が定義され︑これが︑いかなる摩擦もともなうことなく︑政策結果として導出されることになる︒伝統的

学説の根底には︑政治的決定を行なう政治家の行動は︑ ﹁公益﹂という行動目標に向って︑倫理的に行動するとい

175

(20)

う︑暗黙の前提が横たわっていた︒政治と公益とは不可分の結合概念であった︒だが︑伝統的理論では︑このプロセ

スが︑余りにも美化されすぎていなかったか︒ ﹁公﹂という概念の不明確さから︑行為の正当化が導出されはしなか

ったか︒われわれの社会が︑さまざまの利益集団によって構成されているとき︑ ﹁公益﹂の内容が︑集団間で異なる

ことはないのか︒特定利益集団にとっての﹁共益﹂が︑﹁公益﹂として主張されてはこなかったのか︒このとき︑﹁公

益﹂と﹁共益﹂とを同一概念でとらえてよいのか︒

 われわれは︑利益集団の概念を導入して︑政治行動の分析をはじめるとき︑この曖昧な公の概念から︑解放されな

ければならないだろう︒

 われわれのアプローチでは︑政府全能の仮説を放棄している︒ここでは︑利益集団の側での︑便益分布評価をも含

めたKフィールド内部での︑ゲームのルールの設定は︑事前的な立憲的基本ルールの枠組のなかで︑政党の戦略行動

として行なわれる︒この政治行動は︑究極的には︑利益集団間の便益分布を修正するから︑ある集団は︑便益配分の

勝者となり他の集団は敗者となる︒そして︑特定集団に便益が帰属し︑これが既得権化したとき︑この集団は︑この

既得権を全力で防衛しなければならない︒

 政治家は︑ゲームのルールの供給者として定義された︒このとき︑かれらの行動はいかなる誘因によって動かされ

ているのか︒政治家のルール供給活動は︑究極的には︑社会の経済的厚生の極大化を目的とするのか︑それとも︑か

れ自身の自利の追求から発しているのか︒利益集団あるいは集団の構成員が︑ゲームのルールの設定︑または変更を

意図するとき︑われわれのアプローチでは︑かれらは︑最終的には︑個人的利益追求の誘因に支配されている︒そし

て代議制民主主義では︑.社会のメンバーの選好が︑その選択代行者としての政治家の行動に反映されることになる︒

176

(21)

財政理論と政治行動

この舞台では︑政治家はルールの供給者として︑そして投票者は需要者として演技するわけである︒そしてこのとき︑

それぞれは︑利己心に動機づけられて行動する︒政治家は︑所得︑社会的地位︑利権等が究極的目標であっても︑当

面の関心は投票の獲得でなければならない︒かれは︑自利追求行動で直面する制約の範囲で︑これの最大化を求める

のである︒そして︑投票者は︑主観的な予想便益の最大値をもたらす︑ルールの供給者を支持する︒もちろん︑個人

の行動の動機のなかに︑利他心︑あるいは︑慈善的要因が︑完全に欠如しているというのではない︒この分析では︑

あくまで︑私的選択領域と同様︑政治的選択領域においても︑その重要な評価基準は︑個人的便益であるという想定

から出発するのである︒政治家は︑投票者にゲー跳のルールを提供して︑投票者の支持を通じて︑選挙に勝つ可能性

を高めなければならない︒政治家にとって︑特定のルールの設定や変更は︑便益分布の変化を通じて︑ある集団の投

票を確保することになる︒しかし︑同時にこのことが︑他の集団の投票の喪失をもたらすことになる︒かれらは︑こ

の投票の利得︑喪失を︑注意深く勘案しながら︑利益集団形成に努力を集中しなければならない︒

 このような︑政治行動における︑自利追求の側面は︑現実の経験によって︑十分に検証することができる︒政治過

程で︑ひとたび設定され︑すでに形骸化し︑非効率化してしまった制度が︑政治過程で何故撤廃できないのか︒税

制︑補助金問題という︑予算制度の側面一つをとりあげても︑それらの各項目と政治家の緊密な結びつきは︑公然の      ︵1︶事実としてとりあげられている︒われわれは︑このような現実の︑自利追求に動機づけられた政治行動を邪悪のレッ

テルを貼ることで︑片付けてしまうのは容易である︒しかし︑これが政治的現実として︑否定しえない︑行動の事実

的側面であるとすれぽ︑われわれは︑財政の理論形成のなかに︑自利的政治行動の要因を︑重要な因果要因として︑

積極的に導入していくべきではないだろうか︒政治行動によって形成される政策決定が︑最も具体的な形で導出され

177

(22)

るのが︑財政の分野であるからである︒      78      1 われわれは︑経済分析から導出される﹁処方箋﹂と︑政治的な政策過程からひき出される実践との食い違いに︑注

目しなければならない︒そして︑このギャップの部分こそ︑伝統的な財政学も︑経済学と同様の手法で︑政策過程に

おける政治行動は︑他の学問領域に固有の対象であるとして︑隣接領域の研究に委ねてきたものにほかならない︒

 ただ︑本稿は︑財政過程を︑政治行動との関連で考察していく場合の︑一つのフレームワークを提示したものにす

ぎない︒財政理論の研究の中心の一つに︑利益集団の要因が据えられた︑理論形成が望まれるのである︒

 註︵1︶ これらについては︑広瀬道貞著﹁補助金と政権党﹂

  年朝日新聞社 等を参照のこと︒ 一九八一年朝日新聞社︑朝日新聞経済部編﹁病める財政﹂一九八○

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