財政過程と交換
山之内 光躬
一
﹁人びとのあいだの交渉はすべて︑贈与と返礼が等価であるという図式に基づいている︒無数の贈与と営為が等価
であることが強いられる︒サービスとお返しとしてのサーどスの互酬一これがなければ社会的均衡と凝集は存在し
ない一を︑法制は︑法的形式による経済的交換のすべてに︑一定のサービスに関する確定した同意のすべてに︑合
法的関係に伴う義務のすべてにおいて強要し︑かつ保証している︒﹂これは︑℃08鴇寓.しd冨仁がその主著﹁交換と権
浬の冒頭で引用している・・訟§免の﹁社会学﹂の一節である︒社会的結合のプ・セ餐︑﹁個人間の活動の交 ︵2︶換︑有形ないし無形の︑そして多少とも報酬ないし犠牲を伴う活動の交換﹂とみなすところに︑いわゆる社会交換理
論︵ω09寒国×oげ毬αqφ↓げoo蔓︶定式化の核心があった︒しかし︑社会行動を交換という視座から定式化するという
理論的基盤は︑けっして新しいものではない︒たとえば︑切.鳥①竃夕汐Φく竃︒の有名な︑私益即公益の︒パラドックス
で展開された︑分業論の基礎は︑︾山導qD慧島の分業論に多大の影響を与えたが︑これらはともに︑基本的には︑社
早稲田社会科学研究 第30号(S6G.3)
127
図 (1)
撫F
E
/交換フロンティア
\\/ ン\
N●/、
F UB
契約フロンティア
会的交換の考え方に立つものにほかならなかった︒また︑古典
学派の政治経済学は︑少なくとも経済的視点から︑社会の基盤
を︑個人の合理的行動にもとづいた交換に求め︑特に︑市場行
動に関する︑のちの︑精緻な定式化の出発点を提供したのであ
った︒ いま︑ここで︑交換の概念を経済的交換に限定しよう︒もと
もと︑社会が人間の自然状態から開放されるべく︑そこに︑社
会契約が成立し︑個人の財産権が定義されたとき︑人びとの厚
生状態は改善されたはずである︒相互に容認しうる社会契約の
もとで︑人びとの行動範囲が制約されるが︑それによって︑ア
ナーキーの状態におけるよりも︑人びとは実質的に改善される
ことになる︒しかし︑これは︑社会契約による財産権の定義が
設定されるときの︑原初の状態からの改善であって︑いわゆる
パレート的厚生改善フロンティアの実現を意味するのではけっ
してない︒財産権の定義は︑財の一定の配分状態を決定するこ
とになる︒だから︑個人は︑この配分状態における所有構成に
よって︑最大可能な厚生が保証されるのではない︒この所有構
128
財政過程と交換
成を修正することによって︑相互に改善される可能性があるならば︑財︑サービスの請求権を交換することが相互間
で容認されるであろう︒この関係は︑図1ωによって示されている︒N点は出発点としての︑人間の自然状態におけ
る︑二個人A︑Bの効用水準を表わしている︒このときハ社会契約による財産権の定義は︑それぞれの厚生レベル
を︑N点から東北方向にシフトさせ︑たとえば︑C点へ到達させるだろう︒だが︑C点は︑最終的な効用可能フロン
ティア上にもたらされる保証はない︒むしろ︑通常のケースでは︑C点は︑この厚生改善可能フィールドのフロンテ
ィア︑つまり︑蜀一鳴線よりも原点寄りに在るはずである︒このとぎ︑交換が合意されるならば︑それぞれの効用水
準は︑C点から︑さらに東北方向にシフトすることになり︑たとえば︑E点のような︑より高次のレベルへと改善さ
れることが可能になる︒
ここでの交換行動のプロセスは︑主として︑私的財レベルの経済的交換に限定されており︑これは根底的には︑個
人の市場行動を︑典型的に説明するものにほかならない︒そして︑経済理論は︑この市場交換プロセスについての︑
極めて精緻な理論定式化を完成したのであった︒そして︑このとき︑経済理論が想定する厚生改善経路は︑合理的交
換領域をC点から東北方向に︑パレートのフロンティアまで︑合意的に進行することになる︒市場では︑合理的交換
領域は合意領域と定義されており︑利害対立領域ではないからである︒
しかし︑財政過程で主役を演じることになる︑公共財の選択決定は︑市場過程ではなく︑政治過程を通じて導出さ
れる︒ここには︑自発的交換を保証する︒価格メカニズムは存在しない︒このプロセスでは︑純経済的要因のみが働
くのではない︒むしろ︑集団︑権力等の︑社会的要因︑政治的要因が強く作用するというのが︑この選択過程の現実
的特徴といえるだろう︒それでは︑このような︑非経済的要因が支配的である選択対象について︑果たして︑交換行
129
動が︑パレート的経路に沿った︑厚生改善を実現しうるのであろうか︒
130
二
ところで︑社会交換理論は︑非経済的交換を含む社会的交換を︑社会生活の中心的原理とみなすのであるが︑その
意味では・霧交換はその婁素を形成するにすぎ施・だから︑公共財の箸的決定ζセスとしての︑政治過程
もまた︑社会的交換としてとらえられるわけである︒この公共財をも含めた集合的決定プロセスの分析は︑しばしば
﹁新しい政治経済学﹂︑あるいは︑﹁政治の経済理論﹂のなかで︑活発に定式化がはかられているが︑この領域を︑明 ︵4︶示的に︑﹁社会的交換﹂として論じているものとして︑蜀轟旨ピ①ぎ興をあげることができる︒ここでは︑社会的交
換は︑個人とかれの社会的環境を結ぶ架橋なのであり︑まさに︑社会関係の核の部分は︑個人間の物質的ならびに非
物質的︑財およびサービスの交換にあるのである︒そして︑この交換を根本において規定しているのは︑希少性と分
業なのである︒これらはまた︑社会的分化︑不平等︑権力︑紛争等に︑交換を通じて︑根底的に結びついているとい
う︒つまり︑社会的交換は︑財の希少性が存在するとき︑はじめてその必要性が生じるわけで︑希少性をまったくも
たない社会では︑給付対反対給付という交換関係は成立しない︒そして︑典型的には︑まさに︑市場経済理論のみ
が︑分業的生産と︑多様な効用関数をもつ消費者が︑希少財の調達をめぐって行動する︑このような交換過程のメカ
ニズムに論及してきたのである︒しかし︑同時に︑分業と希少性は︑社会的交換を通じて︑社会的分化︑不平等︑権
力︑そして紛争に対する基礎的条件を提供することになる︒さらにまた︑これらは逆に︑社会的分業や希少交換財に
財政過程と交換
図一(2)
R
分業 希少性 社会的交換 不平等 社会組織 権力 紛争
TKAR
反作用をもたらす︒社会的分業は︑能力および社会における資源の分配に規定されており︑この格差が大きくなるほど︑労働の分化は進捗することになる︒また︑財の希少性も︑社会的紛争の強さに規定されている︒すなわち︑特定財の消費に関する紛争が激しくなるほど︑一般的に︑この希少性は大きくなるからである︒い①巨巽は︑このような観点から社会的交換の条件 ︵5︶と要素の関係を︑明示しているが︑図i②は︑これを修正し︑単純化して図示したものである︒ いずれにしても︑社会交換理論は︑その対象を︑典型的な個別交換としての︑経済的交換過程に限定することなく︑むしろ︑非経済的な領域の社会的報酬の交換を社会的統合の重要なファクターとして︑定式化をはかろうとするものであった︒これに対して︑経済理論は︑個人の経済的交換行動について︑合理的選択の理論定式化に︑基本的には︑携わってきた︒そして︑このとき︑この分野における選択行動は︑原則的には︑自
己完結的行動にほかならなかった︒これは︑市場の価格メカニ
ズムを媒介とする交換行動であって︑ここでは︑これらを市場
131
図一(3)
交換のフィールド︵M︶としてとらえることができる︒したが
って︑個人の社会的行動は︑社会的交換行動のフィールドと非
交換行動の分野に分類されるが︑交換行動のフィールドは︑社
会的交換としての非市場交換︵N︶と︑経済的交換としての市
場交換の二つのフィールドから形成されることになる︒そし
て︑この二つの領域は︑相互に交錯する部分をもっているが︑
この交錯フィールドこそ︑経済的交換行動でありながら︑非市
場的な諸要因が含まれているプ戸セスにほかならない︒これは
画一㈹のPフィールドで示される部分であり︑たとえば︑財政
過程を通じて導出される公共財の需要と供給︑その便益と費用
負担のパターンに関する行動分野は︑この領域の主要部分を構
成するであろう︒
財政決定︑したがって︑公共財の決定を︑市場交換のアナロ
ジーとして定式化する試みは︑すでに︑財政の自発的交換理論
として︑はやくから展開されてきた︒しかし︑これらの試み
が︑財政理論のなかに定着しえなかったのは︑公共財という︑
市場経済過程では︑その配分の有効性を期待しえない︑したが
132
財政過程と交換
図一(4)
X
y
E 恨 /
D
ノ
〃︒勿 〃
、
鞠 一
︑覧
N
FIF
uAR〕
L一一一一一一一一一一一一一一一一」一一UB Fo Fl Fo−Fo・・…第1次交換フロンティア
F1−F2……公共財に関する第2次交換フロンティア
って︑政治過程という︑非市場的行動が支配する領域で︑はじ
めてその配分が可能になるという選択対象こそが︑財政の主役
であったからにほかならない︒たしかに︑交換の概念を︑個別
経済主体間の自己完結的交換︑したがって︑個人相互間のパレ
ート的改善を保証しうる交換に限定するならば︑公共財の選択
が主役になる財政過程を︑交換プロセスとしてとらえることに
は︑かならずしも妥当性をみいだしえないだろう︒だが︑交換
を社会的交換の観点から広く解釈するとき︑集合的意思形成過
程を︑一つの交換プロセスとして定式化することが︑是認され
なければなら碗・そして・このとき・社会的交換に関連する
便益は︑経済的交換とは異なり︑共通の交換媒介としての価格
をもたない︒ここでは︑個人の選択は︑自己完結的ではなく︑
他の行為主体と相互拘束的であり︑しかも︑利益集団︑結託︑
圧力︑権力︑世論形成等︑本来︑経済分析を拒否する諸要因
が︑大きく介入してくるのである︒
このとき︑図〜ωで示された︑交換行動による改善経路は︑ 塒図1ωのように修正されなければならないだろう︒このケース
では︑交換は︑もはや市場メカニズムによる個別交換に限定されないで︑原初的基本ルールの設定としての社会契約
もまた︑交換の概念で説明されることになる︒人間の自然状態としてのジャングルのもとで︑社会的に財産権の定義
が明確にされ︑個人の行動上の制約が決定されるとき︑ここに交換が成立しているとみなすことができる︒人びと
は︑他人の財産権や生存権を侵害しないという︑行動上の制約を容認するのと引き換えに︑自己の財産権︑生存権の
保証を確保することになるからである︒ここでは︑このような基本ルールの設定によって︑可能になる人びとの厚生
改善の境界を︑第一次交換フロンティアと呼ぶことにする︒この第一次交換のレベルでは︑完全な社会的合意を条件
とするかぎり︑改善経路は︑N点から︑東北方向を︑閏︒1周︒線へと向かうであろう︒さらに︑図1ωに示されたよ
うに︑このフロンティア上の一点での︑市場メカニズムによる個人間のトレードは︑パレート的改善をもたらすはず
であった︒しかし︑いま︑選択の自己完結性をもたない︑公共財を導入しよう︒このケースでは︑個人や集団の選択 ︵7︶行動は︑すでに︑別の機会にふれたように︑経済理論が想定する︑効用フロンティアへの改善領域を︑かならずしも
保証しないであろう︒すなわち︑公共財の世界では︑たとえ︑合意領域における選択行動であっても︑パレート的改
善を︑つまり︑相互の合意的協力を︑つねに期待することはできないわけである︒だから︑第一次交換フロンティア上
のC点で︑公共財に関する第二次交換が意図されるとき︑結果は︑たとえば︑O←∪のような経路に向かい︑O×網
で示される合意的交換フィールドである斜線部分を︑第二次交換フロンティアまで到達することは︑けっして保証さ
れない︒しかも︑ゲームの︑不断の反復性を想定しないかぎり︑国←菊への転位すら︑公共財のケースでは︑けっし
て例外的な経路とはいえないだろう︒
市場メカニズムを経由する︑経済的交換を支えているの.は︑当事者双方が負うべき義務規範が︑明確に︑個別的
134
に︑そして︑有効に働いているという事実である︒これに対して︑非経済的な社会交換の部分を含む公共財の世界で
は︑これらの義務規範の効果は︑部分的には不明確であり︑また︑個別的に︑均等な効果をもつことに失敗している
といえよう︒この点に︑公共財の選択が主役となる︑財政決定過程の分析に︑経済分析の用具を直戯に適用していく
ことが困難である理由がある︒公共財の交換は︑経済的交換と非経済的交換の︑いわば混合ゲームであって︑経済学
的アプローチのみでは︑有効な説明を提出しえない部分が含まれている︒だから︑このような集合的行動の分野に経
済分析を適用し︑経済理論的に定式化を試みるためには︑非経済的要因のすべて︑あるいは大部分を︑分析の視野の
外部に排除することが必要であった︒だから︑現代の公共財理論が代表しているように︑このような手法は︑まさ
に︑極めて抽象的な︑虚構の世界を論じているにすぎないことになる︒
三
財政過程と交換
非市場交換を対象とする社会交換理論と︑市場の経済交換に関与する経済理論は︑ともに人間の交換行動を研究対
象とするけれども︑それらは︑分析のフレームワークそのものを異にするものである︒すなわち︑市場交換の分析を
主たる対象とする経済理論は︑市場における経済的交換を支配している原理︑そのメカニズムを解明し︑市場メカニ
ズムにおける個人の交換行動の均衡条件や最適条件に関する明確な解を導出するために︑精緻な理論構成を展開して
ぎた︒これに対して︑社会交換理論は︑交換を︑社会的諸関係を解明する理論的構造としてとらえており︑非市場的
交換のメカニズムそのものを解明しようとしているのではない︒それは︑特定の交換対象について︑社会交換プロセ
135
スから︑特定の解が導出されるのを予測するのではけっしてない︒このように︑人間の交換行動について︑経済学的
アブ戸ーチと︑社会学的あるいは心理学的アプローチのギャップは︑依然として残されたままであるとい︑兄よう︒
政治過程の分析について︑このプロセスを︑交換概念でとらえることで定式化をはかる試みが︑最近では︑勺信巨利︒
Oげ︒一8あるいは︑Z①ロΦ℃oヨ冒︒げ①O閑08一票︵O犀︒昌︒ヨ♂oゴ①目げ①〇二①自巽℃o一三貯︶において︑活発に進められて
きている︒これらは︑個人の投票行動︑政党競争︑多数派工作︑結託形成︑官僚機構など︑広範な領域にわたってい
るが︑それらの定式化の多様性にもかかわらず︑これらは︑基本的には︑ ﹁合理的行動の経済理論﹂という一般理論
を共通の基盤としてもぞ鹿・その意味では・・れらの手法は︑政治過程という非経済的媛に︑経済分析を適用
することを意図するものにほかならない︒しかし︑このような新しい理論展開が︑経済学的アブ戸ーチと社会学的ア
プローチのギャップを十分に補填しうるかどうかは︑いまのところ不明である︒
われわれが︑ここで関心をもっているのは︑本来︑政治プロセスにおいて︑その配分が決定される公共財の領域︑
つまり︑集合的概念が不可避的に分析の出発点にすえられた分野︑さらに換言すれば︑いわゆる財政学が伝統的にカ
ヴァーしてきた︑権力の要素をも含む領域に関連した︑交換の問題なのである︒具体的にいうならば︑このプ戸セス
を︑合理性原理にもとづいた︑交換行動としてとらえることができるだろうかということである︒
ここでは︑さしあたり︑公共財における交換行動を規定する一つの要因として︑個人が負担しなければならないコ
ストの問題をとりあげることにする︒交換の決定は︑一つの選択決定であり︑個人が選択に直面するとき︑コスト認
識が最も重要な要因となるからである︒
民主主義の分析フレームワークをとる財政論︑あるいは︑℃二σ一ざOげ︒ざ︒における財政論は︑当然のこととして︑
136
財政過程と交換
個人の経済合理性の基準にもとづいて定式化がはかられている︒したがって︑個人が公共財の選択に直面するとき︑
公共財の選択量とそれに対する費用負担が︑つねに︑同時的に比較考量されなければならない︒理論的には︑支出レ
ベルの決定と︑その費用負担としての租税の決定との間に︑一つの架橋が試みられなければならない︒伝統的財政論
では︑この二つの決定レベルは︑つねに二元的にとらえられてきた︒つまり︑二つの決定レベルは︑完全に分断され
たまま︑個別的に定式化が進められてきたのであった︒この公共財とコスト負担の二元的定式化の手法こそ︑民主主
義財政論が鋭く衝いた点であった︒すなわち︑個人の選好体系を︑定式化の基礎的前提とするとき︑予算の二つの側
面を分断する方法には︑論理的整合性が欠落するということが指摘されたのである︒
たしかに︑財政の自発的交換理論が想定するように︑公共財に対するそれぞれの租税 価格に照応して︑個人が真
の選好を表明しうるような世界では︑予算の二つの側面の架橋を通じて︑市場交換の分析フレームワークに還元する
ことが可能であろう︒このとき︑経済理論の分析手法の有効性は︑財政決定過程に対しても︑すぐれて発揮され︑精
緻な︑最適決定解が︑経済理論的純粋培養装置のなかで︑導出されることになるのである︒
しかし︑いかなる個人主義的民主主義のシステムにおいても︑集合性を基本的特徴とする財政決定は︑すべての個
人が︑同等の程度に︑決定過程に参加しうるような構造をもってはいない︒現実の民主主義システムのもとでは︑財
政決定はいかなるプロセスを経由するのかを問うとぎ︑すでに︑いくつかの機会に指摘したように︑それは︑各個人
間の対面交渉から導出されるものでもなければ︑各個人が︑財政支出計画とその費用負担方式を︑直接比較考量して
投票する方式によるのでもない︒財政決定が具体化される政治過程では︑集合性そのものの特質によって︑支出項目
の決定と︑租税負担方式の決定の間に︑直接的架橋を試みることは︑少なくとも︑個人主義的民主主義の枠組内にど
137
どまるかぎりは不可能であるからである︒そしてこのとき︑われわれは︑経済的財︑サービスとしての公共財につい
て︑これを︑純粋経済交換として︑理論定式化することを断念しなけれぽならないのである︒
個人の経済合理性の基準を︑理論構成の核としてきた︑℃信三80げ︒凶︒①の財政論が︑このディレンマを解くために
提出したのが︑立憲的ルール︵OO口ω一一一白け凶O口餌一 菊二一Φ︶︑あるいは︑社会契約のアプローチにほかならなかった︒ここ
では第一次交換としての立憲的ルールとして︑公共財の費用負担方式が︑社会的合意のもとに成立するということ
が︑根本において想定されている︒この第一次交換レベルで与えられた負担方式のもとに︑第二次交換としての公共
財の選択が行われるわけである︒もちろん︑これは︑財政決定についての虚構の世界を説明しているにすぎない︒現
実には︑原初的な基本ルールとしての社会契約が︑完全な社会的合意で成立するという想定を︑租税負担方式につい
て適用することは不可能である︒租税ルールは︑ゲームの進行過程で︑二次的に選択されなけれぽならないからであ
る︒ 公共財︑したがって︑財政支出項目と︑その費用負担を︑市場交換過程におけるように︑直接︑結合︑対応させる
ことには︑このように︑大きな障害が横たわっている︒われわれは︑このとき︑公共財の費用負担を︑どのように定
式化しうるのであろうか︒
138 四
経済理論は︑個人が経済合理的に行動するという墓礎前提のもとに︑コストを最小にするような選択を通じて︑自
財政過程と交換
己の効用を最大化するという予測を提出した︒だが︑個別的選択が不可能である︑財政的決定においては︑投票者で
ある納税者は︑自分の選択が社会の全体的結果に及ぼす効果を︑その選択と同一の方向に評価することができない
し︑また︑自己の選択によって︑自分自身の負担額を︑通常のケースでは︑変更さぜることはできない︒だから︑選
択メカニズムとしては︑このような非弾力的な財政決定機構を通じて︑個々の納税老は︑いかにして効用最大化を実
現するのか︒
納税者は︑租税を公共財のコストとして認識しうるであろうか︒近代経済理論では︑コストの概念は︑断念された
選択対象という観点からとらえられている︒何かを獲得するためのコストは︑そのために断念しなければならないも
ので表わされるのであり︑価値評価のプロセスは︑本質的には︑選択のプロセスなのである︒そして︑コストは︑こ ︵9︶のプロセスの︑まさにネガティブな側面にほかならない︒このような機会費用の概念は︑経済学の選択理論のなか
で︑広く用いられているものであるが︑この費用概念はまた︑公共財についても︑基本的には︑適用可能であろう︒
公共財の費用として︑納税者が租税を負担したとき︑それは︑課税が行われなかったならぽ︑消費し得たであろう︑
私的財やサービスを断念することを意味するからである︒
だが︑納税者は︑租税を︑公共財に関する機会費用の観点から︑出鼻に認識するであろうか︒
このような︑公共財のコストを︑選択の問題に直接結合していくという観点から︑冨目①ω冨.しd¢o冨轟⇔は︑コス ︵10︶トと財政決定の問題を︑民主主義モデル︑独裁的モデル︑および︑混合モデルに分けて検討を加えている︒それは︑
・ストと選択の問題を論じるとぎ︑直ちに選択決定主体が確認されなければならないので︑政治的決定構造と財政的39 1選択との関連を明確にすることは︑避けて通ることができないからである︒しかし︑ここでは︑ud二99轟コの検討と
は︑いくらか異なった観点から︑これらのモデルにふれておこう︒
最も単純な民主主義モデルでは︑ひとしく︑公共財の受益者であり︑その費用負担者としての納税者である個人
は︑すべて同等の程度で︑財政決定に参加することになる︒ここでは︑個人は︑自己の効用関数にもとづいて︑公共
財の便益と課税を考量する︒このとき︑特定の公共財の選択は︑租税の予想支払額で実現しえたはずの︑他の財の享
受を断念することを意味する︒もし︑このような価値評価にもとづいて︑公共財の選択が実現されるなら︑これは︑
市場の選択と類似したものになる︒だが︑公共財のもつ集合性の特質は︑選択の個別性を拒否する︒このとき︑選択
に直面する個人は︑社会のすべてのメンバーが共用する財に対する︑それぞれの支出額について意思表明をすること
になる︒このとき︑公共財の選択量と費用負担額とは直結しないから︑合理的な個人の選択行動では︑支出額の表明
は︑かならずしも︑公共財の機会費用の観点から︑正しく認識されたものとはいえないであろう︒たとえば︑フリー
ライディソグを目指す個人は︑公共財をゼロ評価しているのではけっしてない︒したがって︑極端に限定された民主
主義モデルにおいても︑公共財の選択を市場交換のアナロジーで説明することは︑断念しなければならないだろう︒
単一意思決定者を想定する︑財政決定の独裁モデルでは︑決定者自身の単一の厚生関数にもとづいて︑社会のメン
バーへの公共財とその費用負担方式が導出される︒このとき︑決定者自身は︑租税を負担することはない︒だから︑
単﹂決定者のモデルでは︑われわれが︑財政過程を交換としてとらえようとするかぎり︑選択決定老のサイドから
は︑定式化は困難となるであろう︒
現実の財政決定過程は︑この二つのモデルの混合システムである︒社会のメンバーは︑財政決定過程に参加するけ
れども︑その参加の程度︑決定に及ぼす効果は︑均等ではけっしてない︒また︑決定結果に︑直接的に大ぎな影響力
140
財政過程と交換
をもつのは︑強い凝集力をもつ利益連帯集団であり︑これらの行動要因を導入したとき︑公共財のコストは︑その選
択過程で︑明確に認識されることは︑けっしてないであろう︒もともと︑公共財では︑少なくとも民主主義のシステ
ムを前提とするかぎり︑コストと便益の直接架橋の試みは不可能であった︒なぜなら︑これらは︑租税支払額の選択
調整のプロセスが︑本来︑ゼロ和ゲームであるため︑二元的に評価されなけれぽならないからである︒このとき︑コ
スト認識は︑多数のなかに埋没してしまい︑もはや︑費用負担額は︑便益帰属の関数ではありえない︒このことは︑
立憲的ルールのアプローチのもとでも変らないだろう︒二次的な基本ルールとしての︑特定の課税方式のもとで︑ゼ
ロ負担の階層︑あるいは︑低負担のグループは︑大きな公共財要求圧力に結集するだろう︒費用負担額と公共財供給
量の間に︑個別的には︑関数関係は成立しないから︑すべてのグループの間で︑自己便益に直結する公共財を︑より
多く要求する傾向を否定することはでぎないだろう︒
しばしば︑民主主義は︑財政を肥大化させる傾向があるといわれている︒このことは︑特に︑公共財に関するコス
ト認識を︑いっそう曖昧にするといわれる︑公債方式による調達方法がとられるとき︑より明確である︒この問題の
根底には︑集合性のなかでのコスト認識の埋没︑そこから生起するフリー・ライダー誘因が横わっていることを看過
してはならない︒
また︑個々の納税者が︑自己の租税支払の使途を︑具体的に特定化することができるならぽ︑いわゆる公共財の機
会費用は︑直戯に認識しうるであろう︒だが︑受益者負担方式の場合を除いて︑納税者は︑自分の租税支払が︑財政
支出公共財全体の︑どの構成部分に関連するのかを︑明確に知ることは不可能である︒現実の財政運営について︑歳
出の監視ということが︑しばしばいわれる︒だが︑この要求の背後にある真の意味は何なのか︒納税者が︑租税の使
141
途について︑厳しい態度を示すのは︑自己便益に連結しない公共財に対する負担という図式が︑意識のなかに形成さ
れているときである︒かれらは︑自己集団の便益に直結するような歳出の増大には︑財政肥大化のなかでも︑寛大に︑
その論理的合理性を主張するであろう︒公共財のコストを︑誰が負担するのか︒公共財のコストを︑他の個人︑ある
いは︑集団に負わせたい︒これが︑合理的行動基準にもとづいた︑納税者にとって︑最も強い誘因となるであろう︒
142
五
公共部門で特定の資源利用を決定するとき︑ある個人または集団が︑私的部門での資源利用を断念するという形
で︑その費用を負担しなければならない︒そして︑このとき︑公共財の決定と費用負担の決定レベルが︑分断されざ
るをえないところに︑集合性の特徴があったのである︒公共財の費用負担の決定は︑すなわち租税構造の決定なので
あり︑この構造は︑それぞれの費用と便益に︑一対一の対応関係を規定することには︑失敗せざるをえない︒公共財
の費用は︑社会の全メンバーが︑普遍的に︑均等負担する必要はない︒誰かが負担すれば︑他の個人はかならずしも
負担する必要はないわけである︒租税構造は︑公共財の給付費用を︑誰が︑どのような形態で︑負担するのかを規定
するのである︒
伝統的財政論は︑租税構造の決定について︑すでに︑﹁応益原則﹂と﹁応能原則﹂という︑規範的な原則を提出し
てきた︒応益原則は︑根底的には︑公共財の給付と︑その費用負担についての︑同時的決定を主張するもので︑経済
主体としての納税者の効率性を目指す原則にほかならない︒これに対して︑応能原則は︑租税負担の分配について︑
財政過程と交換
公正の観点から剛つの解を求めているのである︒しかし︑財政的決定過程を︑投票制度を軸とした︑民主主義の政治
過程とする理論的フレームワークにとどまるかぎり︑課税方式を決定する支配的要因としては︑効率性基準あるいは ︵11︶公正性基準よりも︑むしろ︑投票過程における最大化基準の方が︑つねに優先されなければならないことになる︒
公共財の便益と費用負担には︑直接的対応関係が欠如するから︑租税支払額は︑けっして均等額ではなく︑個々の
納税者︑また︑個々の利益連帯集団にに対して︑異なった額を決定することができる︒投票者−納税者としての個人
の︑自利的動機にもとづいた︑合理性の行動基準から出発するかぎり︑このとき︑自己の租税コストを最小にするた
めの動機をもつはずである︒すなわち︑自己の租税コストを︑他の個人あるいは集団に転嫁しようという︑強い欲求
をもつことになる︒それは︑ ﹁公共サービスのコスト︵租税︶と︑これらのサービスからの便益の差額が大きくなれ ︵12︶ばなるほど︑個人はますます改善されることになる﹂からである︒現実の民主主義の政治過程では︑特定の個人や利
益連帯集団にとって︑この差額を創出し︑これを増大させる可能性は︑つねに存在しているといえよう︒
政治過程で︑特定の課税方式が決定されたとぎ︑それは二次的な立憲的ルールとして︑すべてのメンバーに︑強制
力を行使する︒そして︑課税は消費者の可処分所得を減少させ︑あるいは︑生産者の利潤を縮小させる︒しかし︑こ
のとき︑各納税者は︑それぞれの効用関数を規定する︑一括した公共財の集合に直面しているのであり︑自己の負担
回避によって︑この集合が修正されることはないと予測している︒いま︑納税者を︑単純化して︑消費者と生産者の
二つのカテゴリーに限定するならば︑かれらは︑二つの経路を通じて︑自己の負担を回避して︑他にこれを転嫁する
ことができよう︒︸つは︑二次的に立憲的ルールとしての租税方式が与えられて︑現実の租税賦課が行われた後に生
じるもので︑伝統的財政論が租税の帰着論として展開してきたものにほかならない︒したがって︑この経路は︑通常
143
は︑生産者が市場の内部で︑他の生産者︑あるいは消費者へ︑負担を転嫁していくプロセスである︒他の経路は︑政 蜘治過程そのものにおける︑選択行動を通じて実現される︑負担回避行動に関連している︒つまり︑これは︑いわゆる
二次的立憲的ルールとしての租税方式を︑投票プロセスを利用することによって︑所属集団に有利に形成していこう
とする︑戦略的集合行動の経路にほかならない︒
このいずれの経路においても︑各々のカテゴリーにおける納税者は︑公共財に関する︑費用最小化という行動原理
に支配されている︒しかし︑ここで費用最小化というとき︑それは︑市場行動における効用最大化︑あるいは︑利潤
最大化という行動基準と結びついた費用最小化とは異質のものである︒つまり︑市場行動においては︑個人の効用関
数︑あるいは費用関数は︑いわば自己完結的︑独立的であるのに対して︑集合的領域では︑これらは︑つねに︑相互
開放的︑相互依存的であって︑納税者間の費用負担額の調整決定は︑ゼロ和ゲームの特質をもつわけである︒
市場経由の負担回避行動は︑租税転嫁論として︑特に︑新古典派の財政論のなかで︑大きな分析的努力が集中され
てきた︒この分析の主たる関心は︑特定の租税の︑市場効率性に及ぼす効果を確認することにあった︒しかし︑それ
にもかかわらず︑この転嫁論のもう一つの目標が看過されてはならない︒それは︑公共財に対して︑誰が支払いをす
るのか︒ある特定の租税方式のもとで︑公共財に対する支払いの最終負担者は誰なのか︒これらの︑最終的な租税の
帰着を明確にすることであった︒もちろん︑転嫁と帰着の分析は︑企業や個人の選択行動を分析するものではあって ︵13︶も︑この分析対象は︑ ﹁公共財の費用の調達︑あるいは︑課税の択一的諸方式の選択を含めた選択行動ではない﹂と
いうことができる︒だが︑それにもかかわらず︑納税者としての各経済主体が︑市場経済行動を通じて︑公共財の租
税支払いを︑他に移転することによって︑負担回避行動が明示的に展開されているという側面を看過してはならない
財政過程と交換
だろう︒ この市場過程による負担回避経路では︑公共財のコストの最終負担者を︑明示的に指定しているのではけっしてな
い︒また︑このとき︑負担回避可能性を支配する要因は︑市場構造︑需要の価格弾力性︑生産過程における費用条
件︑租税形態等であり︑具体的な負担回避は︑多数の変数が交錯する︑複雑なプロセスで︑その成否が決まるのであ
る︒だから︑租税の転嫁は︑当事者の負担回避への意思によって︑つねに実現されるわけではない︒このとき︑負担
回避行動は︑与えられた制度的条件 ゲームのルールを受容したうえで︑意図されているのであって︑行動制約とし
てのルールそのものを改変しようとしているのではけっしてない︒
これに対して︑もう一つの負担回避の経路︑すなわち︑政治過程における集合行動を経由するものでは︑負担回避
は︑さらにアクティブな意図にもとづいている︒ここでは︑二次的立憲的ルールとしての租税方式そのものの改変を︑
明示的に意図するのである︒したがって︑公共財のコスト負担者は︑このとき︑意図的に指定されることになる︒も
ちろん︑この行動プロセスは︑公共財のコストのサイドのみが︑孤霊的に扱われるのではない︒便益サイド︑すなわ
ち︑公共財の構成内容もまた︑重要な行動目標となる︒この領域について︑投票極大化原理にもとづいた政党競争モ ︵14︶デルを展開したのは︑﹀馨げ︒塁Uoミコωであったが︑このモデルを︑明示的な最適予算の決定に延長したのは︑凶9二 ︵15︶国巴ω興であった︒ここでは︑公共支出提案と租税負担方式が結合されて︑政党の合理的行動は︑総体予算が投票の
最大数を獲得するように︑公共支出提案によって獲得する投票と租税提案によって失う投票とを比較しなければなら
ない︒つまり︑支出拡大によって獲得しうる投票数を最大にし︑課税によって喪失する投票数を最小にするような支
出項目と租税方式を組み合わせることで︑予算を構成することが︑政党民主主義制度における合理的行動として要求
145
されるわけである︒ 46 ここでの集合的な負担回避行動のモデルも︑根底的には︑口魯ω曾が展開した︑政党競争による最適予算決定モデ ー
ルと︑共通の地盤に立っている︒だが︑予算上の選択が︑支出サイドと租税負担のサイドを︑二元的に解決していか
なければならないとすれば︑予算の両側面を︑つねに包括的にとりあげて︑その最適性の条件を導出しても︑それは
積極的な意味をもちえないであろう︒財政過程では︑特定の公共支出項目に︑特定の租税負担方式が連結されている
のではない︒このとき︑たとえば︑特定の利益連帯集団が︑ある特定の租税負担方式を主張して︑自己の負担回避を
意図するのは︑かならずしも︑ある特定の公共支出項目を︑明示的に意識してのことではない︒租税負担の回避は︑
個人︑そして︑特に集団の︑自利的行動の表徴として︑つねに現実となるのである︒そして︑この点にこそ︑公共財
の選択が主役になる財政過程が︑市場交換過程とは異なり︑いわゆる純粋経済交換を拒否する︑基本的な特徴が存す
るのである︒
山
ノ、
われわれは︑公共財の選択が主役となる財政過程において︑経済的交換が拒否される状況を︑主として︑そのコス
トの側面︑すなわち︑それを客観的に確認しうる大きさとしての租税負担額の側面から考察してきた︒もちろん︑財
政の自発的交換理論や︑最適予算の決定に関する政党競争の投票モデル等は︑明らかに︑政治的決定過程に市場交換
のアナロジーやその変形を適用しようとしたものにほかならない︒だが︑﹁ホッブスのジャングル﹂や﹁共有地の悲
財政過程と交換
轡が・人びとが・自分自身では公共財の供給に失敗する状況の典型を示しているよ転嘩個人の行動動機を自利的
な行動原理に限定するかぎり︑アナーキーの状況における︑人びとの公共財への選好は︑いわゆる︑囚人のディレン
マゲームを創出する︒ここに︑第一次交換としての協力が成立し︑社会的改善が達成されることが想定された︒も
し︑原初的契約という虚構の世界を仮定するなら︑これは︑つねに︑社会的完全合意のもとに成立することになる︒
だが︑第二次的な市場交換は︑理想的な価格メカニズムが有効に機能するかぎり︑人びとにパレート的改善をもた
らすことを約束するのに対して︑この第二次交換を︑公共財の選択のフィールドに限定するとぎ︑ここでは︑純粋経
済交換は拒絶されて︑市場交換のアナロジーは挫折しなければならない︒公共財の社会的便益は︑もはや正確な価格
をもちえず︑その費用負担も︑便益受容に直結しないため︑市場が消滅するからである︒だから︑財政過程における
公共財ゲームについて︑これを︑経済的交換の概念で定式化することは︑理論の虚構性の問題を容認したとしても︑
その妥当性を失うであろう︒
むしろ︑アナーキーの状況で︑公共財の供給に失敗するとき︑そこに︑契約的ルールの設定に協力して︑打開策を
求めていくレベルは︑一つの社会的交換なのであり︑公共財の供給という︑共同目標においては︑人びとは共通し
て︑社会的統合を達成しているといえよう︒だが︑公共財の決定レベルでは︑不平等︑社会的連帯集団への分化︑あ
るいは権力の分化︑紛争等を派生し︑まさに︑非経済的な︑社会的︑政治的諸要因と深く関わってくることになる︒
その意味では︑財政過程の分析を︑単に︑経済的側面のみに限定して定式化するのではなく︑この選択過程から派生
してくる︑さまざまな非経済的要因をも包括した︑社会的交換の観点から︑とらえ直すことの可能性と必要性がある
のではないか︒
147
ただ︑社会的交換理論は︑社会学的︑心理学的アプローチが主体となっており︑市場経済交換の理論とは︑その精
緻さの程度も︑また分析のフレームワークそのものをも異にしている︒すなわち︑市場経済交換を︑分析の主たる対
象とする経済理論が︑経済交換を支配している原理︑そのメカニズム︑そして︑そこから︑明確な解を導出していく
という︑精緻化された理論構成を展開しているのに対して︑社会交換理論は︑社会的︑非市場的交換のメカニズムの
仕組や働きそのものを説明しようとしているのではない︒また︑そこには︑論理的整合性と精密性の要求をみたす分
析手法が準備されてもいない︒だから︑この理論は︑特定の交換対象について︑社会交換プロセスを通じて︑特定の
明確な解を予測しようとするものではけn︑してない︒交換に関する社会学的アプローチと経済学的アプローチのギャ
ップは︑このように︑補填されないまま残されているのである︒
だが︑公共財が主役どなる財政過程は︑すべてが非経済的要因で構成されているのではない︒本来︑希少財をめぐ
っての選択行動こそ︑経済の原初的出発点であったはずであり︑公共財は︑この︑経済の本質的な部分を構成するは
ずであった︒その意味において︑財政の経済分析や公共財に関する経済分析が残した︑多くの理論的成果は︑高く評
価されなけれぽならない︒また︑℃障σ浮Oげ98やO脚80巳ω島Φ目7Φoユ︒匹霞℃o憂涛の展開にみられるように︑
政治過程の分析に経済分析手法を適用していく手法もまた︑ここでのギャップを補填することを意図したものとし
て︑期待が持たれるであろう︒社会交換理論は︑明示的に公共財の領域を対象とするものではないし︑また︑いまの
ところ︑精緻な分析手法をもってもいない︒それにもかかわらず︑財政過程は︑多分に︑社会交換がカバーする部分
を含んでおり︑その意味で︑経済学的ア︒フローチと政治学︑ならびに社会学的アプローチの︑協同的手法を必要とす
る分野となるであろう︒公共財の選択過程は︑社会的分化︑権力の分化︑集団的凝集をもたらし︑これらは︑官僚機
148
贈鋼
構や集団交渉力等と交錯しながら︑対立︑協力のプロセスを経て︑再び選択過程にフィードバックしていくフィール
ドにほかならないからである︒もちろん︑それぞれ異なった分析手法をもった領域の学際的協同は︑けっして容易な
作業ではない︒それには︑克服しがたい大きな困難をともなうであろう︒それにもかかわらず︑そのことを十分認識
したうえで︑非経済的社会交換と経済的交換の分析上のギャップを埋めていくことが︑財政過程の選択行動を定式化
するうえで︑必要な作業工程ではないのかというのが︑われわれのここでの主張なのである︒
財政過程と交換
註︵1︶ 頃卑興呂冒しd冨〜肉執き§題§職㌧ミミ§⑦︒ミミトさ一巳①艀り℃﹂︵間場.居安.塩原共訳﹁交換と権力﹂新曜社︑昭和
五十六年︑ 一︒ヘージ︶
︵2︶ このような︑社会的結合についての概念化は︑O①霞σqoρ出︒ヨp霧によってなされたものである︒また︑このような観
点からの社会的交換の説明については︑勺08﹃客・白丁鴇8.鼻二〇︐︒︒︒︒塗︵前掲訳書︑七九ページ以下︶を参照︒
︵3︶ しかし︑このことは︑社会交換理論が明示的に︑経済的交換の領域を研究の対象にしているという意味ではない︒むし ろ︑社会交換理論が対象とするのは︑非経済的な交換行動の社会学的な考察とい・兄るであろう︒
︵4︶国§=§・び肉垂魯ミ偽ミ智§罵︒ミ・・ぎ象§ミ包㊤・︒ご蜀§Nピ魯づΦ﹃㌔︒ミ帖切ら︾驚軌︽恥︑二二︑§黛︑ω§㍉貸馬馬︑
∩﹁黛ミ肋ら詞 H㊤刈ω・
︵5︶蜀§・ピ・匿︒・﹄ミ§・§箕こ貯≧§ミミ旨旨・o寿§§馬恥し㊤︒︒ピω・蜀
︵6︶ この分野において︑特に︑民主主義の意思形成過程を投票行動によって定式化したのが︑︾昌夢︒昌曳∪︒≦昌ωであった︒か れは︑政治過程における民主主義システムが︑基本的には︑極大化原理によって機能しているという想定のもとに︑投票交
換についての︑経済理論にもとつく合理的モデルを提出したのである︒しかし︑ここでは︑交換の意味は︑経済的交換より
も︑さらに広義に適用されている︒
.(V︶ 拙稿﹁財政理論と政治行動﹂.早稲田社会科学研究︑第二六号参照︒
149
︵8︶ 閃鴇餌昌NHOげ昌05ρ・帥.O二ω●O・
︵9︶︒︷﹄︒器夷量・ω魑閑§壽§:・琶:・曼:;①窪Φ︒q︒h§β巨卜・⑦﹄肉的馨§︒婁睾巨励
げ楓一碧B①ω﹈≦●切ロ︒げ昌帥旨凶昌qO.男︒月ず跨ぎざ団㊤刈帥.
︵10︶ 一曽ヨ︒ω﹈≦.しd蝿︒げ㊤昌坦POo設自嵩犠O隷ミ9讐︸蕊§嶋ミ遂§肉8醤︒ミ苛↓︾き遷旧H㊤①O噂︒げ薗艮.心・
︵11︶ このような観点から︑租税構造の決定のプロセスを検討しているものとして︑国§侮p︒一一しU9︒﹃江︒芦肉8ミ︒ミqさ§§欺§︒︒
駄勺︒ミ普ミ︑o§3H㊤お︾℃霞けヨ.がある︒
︵21︶ 閃㊤昌ら潜=口⇔餌﹃二〇け計O℃■O詳二〇﹂QO①.
︵13︶ 匂曽ヨOoα﹈≦.じσ虞Oず曽コ拶PO8聾織蕊職O魯ミら80PO詳己噂︒㎝b⊃︐
︵14︶ ﹀昌曄︒昌Uo≦旨9﹄謡肉8蕊︒ミ苛↓⇒§遣ミb恥ミ︒ミ自己噛H8刈・︵古田精司監訳﹁民主主義の経済理論﹂成文堂︑一九八○
年︶︵15︶ 国四ユ鵠90ω05ごσ①﹁﹀昌ω響N①Nρ﹁目げ①oユ︒住霞ω即自ω拶ロωαqゆσo戸言鱒国.目一票ヨF国.出鋤=①が︵=屋ゆq.ソしu無㌣叙讐N袋︑
↓隷馬O︑暗概馬︑§謎篭詩魯馬醤冨ミい鴫鳥守恥3一り㊦刈●oDω・Qo①1①α・
︵16︶ Oh・﹈≦言ゴ9巴日餌団δ5︾嵩犠︑6電貸蕊織60§馬︑貸識︒斜Hり刈①讐Oゴ溝O戸ド