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<温州開元寺調査記>

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Academic year: 2021

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<温州開元寺調査記>

著者 藤善 眞澄

雑誌名 阡陵 : 関西大学博物館彙報

巻 34

ページ 6‑7

発行年 1997‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00024149

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く温)小 l 開元寺調査記>

日中関係史の研究に手を染めていると、 中国 の沿海地域,ことに遣唐使船の発着した江南か ら浙江省一帯にかけては,やはり気になるエリ アである。これまで上海から乍浦、杭州、紹興、

寧波と海沿いに数回にわたり訪れている。また 南の福建省の履門や福州、泉州などへは、おお よそ二十年近く前、団長に東大教授で今はなき 三上次男先生をいただき、本学の大庭脩教授を 秘書長とする一行七名の中に加わり、杭州から 名だたる瞼峻の武夷山系を越えたことがある。

ところが寧波ー福州の間、つまり浙江東南部と 福建東北部のあたりは、杭州や寧波などに優る とも劣らぬ日中関係史を彩った舞台でありなが ら、いくら食指を動かしても手のとどかない、

いわば垂涎の地域であった。三門あり臨海あり、

黄岩そして温州・瑞安がひかえている。最近で は解放政策のお蔭で温州みかんの古木が温州の 内陸部より紹介されるまでになった。この機会 を一日千秋の思いで待ち焦がれていたのである。

幸いにも平成七年度の文部省国際学術研究

「浙江と日本」の恩恵に浴し、その調査地域を 寧波から湿州までに絞り込み、研究分担者の宮 下三郎社会学部教授、内田慶市・松浦章両文学 部教授の四名で平成七年十月九日、上海へ飛ん だ。翌日、蓋湖硼頭で海馬(快速艇)に乗り込 み、約二時間半ほどで鎮海に到着。列車と比べ てあまりの速さと、かねて縦断してみたいと念 願していた杭州湾の治々たる景観に感嘆しきり の船旅とあいなった。

鎮海より寧波・天台山・臨海・黄岩・温嶺な ど、とりわけ「諸蕃志」の著者、南宋の趙汝造 の墓誌が発見された臨海については詳しく紹介 したいのであるが、紙数の関係もあるので一切 を他の機会にゆずり、今回の調査では最も南に 位置する温州の開元寺に限って報告しておきた い。

十月十三日早朝に天台山をマイクロバスで出 発、午後八時過ぎに混州の甑昌飯店に到着した。

翌朝、温州市の東南部にある南白象鎮に向い、

白象寺塔の遺址を調査する。つい最近、 崩壊し

藤 善 員 澄

た塔の茎壇から現存最古の部類とみられる木版 の陀羅尼経が発見されたニュースに接していた からである。白象寺塔は温瑞塘河に面した小高 い場所に、再建のメドもたたず某台をさらした まま放置されていた。ちなみに「温州導浙手冊

J

(一九九四年)には七重の見事な「南白象鎖古 塔」の偉容が掲載されている。

午後からは温州港をへて温州の北を流れる甑

江に浮かぶ江心嶼を見学する。ここに建つ江心

● 

寺は唐の咸通年間(八六〇一七三)の創建にか かり、五代呉越国の忠鯨王銭弘倣が師と仰いだ 名僧徳紹が住した寺である。彼は天台山国清寺 の普寂に相談をもちかけられ、忠蘇王に中国で は唐末の兵乱や廃佛のため散侠して残っていな い天台教籍を、高麗と日本から購買して欲しい と頼んだ。王は徳詔の要請を受けると、黄金五 百両を託して村上天皇に天台教籍の五百余巻を 書写してくれるよう求め、これを受けて天歴七 年(九五三)に延暦寺僧の日延が遣唐法門使と なって送りとどけることになる。まことに日中 文化交流にも大きな足跡を残した人物なのであ る。江心寺の東には南宋の烈士文天祥を祭る祠 もあり、彼の 「北より帰りて江心寺に宿る」の 詩碑が建てられていた。

さて翌十五H、いよいよ温州開元寺の探索に とりかかる。この寺は東晋の太寧五年(咸和二 年、 三二七)李整という者が自宅を喜捨した崇 安寺がルーツだと伝えられる。「温州府志

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には 瑞安門と望江門街の東辺にあり、南には文廟(孔 子廟)があったと書いてあるが地名も街路もす っかり様変わりし、あらかじめ旅行社を通じて 依顆しておいた調査も無駄であった。やむなく

目標となる積谷山を訪ねることにする。南朝宋 の文人として有名な謝霊運が永嘉(温州の!日名)

太守に左遷された時、この小山を逍遥しながら 詩を賦したといわれ、山頂には留雲亭があった。

現在は中山公園の一部となっており、公園路を はさんで北には華蓋山が連なり、温州市街の東 に緑色の彩りをそえている。

ここまで来れば開元寺址は近いはず、そう見

6‑

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当をつけて公閲路を西に進みながら尋ね歩く。

けれども知らぬ存ぜぬの人ばかりで一向に埒が あかない。昔を知るお年寄を探すうち、ふと高 い士壁に仕切られた一郭を見つけた。その傍の 小巷を入り聴きとりを開始して間もなく、とあ る家で近隣の事情に詳しい施永森という七九才 の老翁を紹介された。彼の言によると高壁が旧 開元寺境内の名残りで、一九五0年代初めまで は寺院があり、その後、 浙南日報、温州日報な どの所在地となったという。一部を転用したと いう渦州展覧館に入り内部を勝手に覗いて驚い た。表からは分からないが屋根や柱が寺院の構 えそのままである。明らかに

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日開元寺の遺構を 転用したもの。施氏の説が正しいことを証拠だ てている。 「温州府志」に「旧志に云う、府城内 の修礼坊に在り」とみえる修礼坊の地でもある。

これほどまで開元寺にこだわる理由は、入唐 僧の智証大師円珍ゆかりの寺だからである。

円珍は仁壽三年(八五三)、陰暦の七月十六 日、弟子の豊智と閑静に通訳の丁満ら俗人1i名 を加えた一行八名で、唐の商人欽良暉達の唐舶 に乗り込み、博多を出帆した。そして長崎の五 島は奈留島に寄港。八月九日に出港し、十五日

ふなびとこぞり

には屑州の連江県に到着している。「合船て 喜び蘊り、死しそ韮乍を得たるが如し」(「円珍 伝」)とあるが、ここから海ぞいに迂回して福州 に向い、長官のはからいによって福州開元寺に 宿泊が許された。それから一箇月余り、九月二 十日に福州を発ち、再び海路をとり海口鎮、江 口鎮をへて安固県、現在の瑞安に達し、十月末 に温州、当時の永嘉郡に入ることができたので ある。

長官の裟開は一行を快く迎え、開元寺に宿泊 させたが、その寺こそ先に突きとめた公園路に 面する区域というわけである。円珍らの滞在は 一週間にすぎなかったけれども、臨壇大徳の宗 本をはじめ多くの知人を得た上に、彼らから四 十七部にのぽる経疏類を寄贈されるなど、忘れ ることの出来ない寺の一つとなった。帰国後も 交渉を持ちつづけた座主徳円と親しくなったの

も貴菫な財産となった。

近年の寺域でさえ偲ぶよすがとてない今とな っては、円珍当時の規模など想像もつかないが、

その一隅とおぼしい場所に仔み東の華蓋山、積 谷山を望見しながら、少くとも両山の眺めだけ

は昔と変わらないのではなかろうかと、想いを ー一四0年余り前に馳せることであった。

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LIIJ!!!!l!!ll!!I  旧温州開元寺の内部遺構

現湿州展覧館

温州景徳寺遺址

国共合作の行われた場所でもある。

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