【修士論文概要】 ソシオロジカル・ペーパーズ第 24 号
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一人称の感情社会学の展開
――〈私〉と音楽と社会をつなぐ「生」の実践――
友田 順也
問題関心と研究目的
本研究の目的は、(1)私秘的な出来事として完結していた中学、高校時代の筆者の感情 経験を再分析することによって、その社会関係を明らかにすること、(2)一人称の感情社 会学研究の可能性を、その方法論的課題とともに示すこと、の二点である。
研究の背景にあるのは、従来の感情社会学が「生きられた感情経験(lived emotion)1」 を主題化することが少なかったことに対する問題意識である。感情社会学という研究プロ ジェクトは、個人が抱く感情がどのような具体性とリアリティをもっているのか、それが どのような過程を経て内閉化されてしまうのかについての考察が不十分であった。そのた め、一意的なカテゴリーの範囲でしか、個別の感情をとらえられなかった。
本論は、こうした問題関心のもとで、ニーズをもつ当事者の視点、すなわち、日常生活 の人間関係の網の目のなかで困難を抱え込まざるを得ない個人という視点から、個人の感 情経験と社会はどのようにつながっているのか、普通教育の枠組みの内外で直面した若者 の生きにくさの内実とはいかなるものかを可視化し、結果として、それらが社会的・文化 的諸要因とどのように絡まり合ってきたのかを明らかにした。また、そうした研究者自身 の感情生活史の再構築、研究者自身による感情社会学実践によるあらたな文化創造の契機 が、いかに既存のアカデミズムに組み込まれうるのかをとらえ、本論を感情社会学研究の オルタナティブを描く実践研究として展開した。
1 デンジン(Denzin, N. K)による「自己感情(self-feeling)」の三層構造を念頭に置いてい る。デンジンによれば、特定の身体に感覚や刺激が与えられ、反省作用が向けられない第 一の層が「感覚的感情(sensible feeling)」、個々人の現前を取り巻く人々に向けられ、状況 についての感情の定義に、他者とのコミュニケーションのなかで反省作用が向けられた第 二の層が「生きられた感情(lived feeling)」、また第二の層を起点とし、感情にかかわる規 範や価値に対する感覚のなかで生じ、主観的な感情の状態とは独立に、意図づけられた対 象として与えられる第三の層が「意図的感情(intentional feeling)」であるという。デンジ ンはこのうち、反省的な意識化のなかでの感情語によるラベリングが含まれた、第二、第 三の層を社会学的な分析対象とみなした(Denzin 1984 ; 崎山 2007)。なお、デンジンが「生 きられた感情経験(lived emotion)」を、感情経験者が個々の「生きられた感情」をとおし て出来事や人々に意味や価値づけをあたえていく過程としてとらえていることを踏まえ、
本論でも感情経験の遡及的な記述、再構成を考察対象に含むことから、デンジンの感情概 念の分類に倣い、これらの言葉を用いることとする。
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24 第1章 感情とは何か
1章では、心理学・生理学の説明と対比させるかたちで、感情を機能、メカニズム、社 会性の3つに分けて整理し、社会学という射程で感情を問うにあたって有効となりうる感 情概念の定義づけを行った。
感情は、周囲や体内環境の変化に対して、大脳辺縁体の一部である扁桃体が有益か無害 かを判断する認知的評価の結果として引き起こされる。感情には人間の生存維持機能に寄 与する働きがある一方で、感情生起の過程になんらかの支障が出る場合、「外在化障害」「内 在化障害」というかたちで様々な症状が引き起こされるという(澤田 2009)。このように、
生理学や心理学の分野では、感情は条件反射的な生理現象として扱われ、もっぱら個人の 脳内で展開されるという、他者による操作不可能性が前提とされている。
しかし、ときとして個人の感情発露は、他者との相互関係を反映する。他者との交流を 重ねていくうちに自らの誤解に気づき、感情の更新をもたらすことがあるように、感情に は他者との関係性という側面を無視することができない。さらに、どのような他者に魅力 を感じ、恐れを抱くのかは、生得的な感情ではなく、むしろ過去にどのような価値観・規 範をもった人と関係をもったかという、後天的な学習の所産であろう。だとすれば、個人 の認知や感情表出の仕方には、社会的文脈と対応しうるのではないか。個人の感情には特 定の社会的な負荷がかかっているのではないか。こうした感情の社会性への問いが、感情 社会学者が前提とする出発点である。
以上の感情の社会性の議論をふまえ、心理学者のスロボダら(Sloboda & Juslin 2001=2008)
による定義に修正を加えるかたちで、感情を「人間の認知能力に基づき、かつ社会的、文 化的、経済的枠組みのもとにおいて形成される、人間の行動を動機付けるもの」として再 定義した。その理由としては、感情概念が社会学の研究対象になりうるためには、感情が 当事者を取り巻く人間社会関係に制約されることを確認する必要があり、さらに感情が複 数の行為者との関係性のあいだで生起する可能性を考慮に入れることで、心理学や生理学 の分野では存在しなかった社会学的な感情を問題化する効果が生まれるからである。すな わち、心理学や生理学の感情の語られ方と対比させる作業においてこそ、社会学で感情を 問う意味は生まれる。したがって、本論で分析概念として感情を活用するにあたり、社会 関係と切り離すことの出来ない感情概念を採り入れた。
第2章 感情社会学の視座
2章では、本論の主題である感情社会学の歴史的展開をたどった。人間の生理現象だと 思われた感情になぜ社会学が着目したのか。本研究の土台として、成立した背景とその研 究成果を概観した。そのうえで、本研究の「一人称」と言う切り口の有効性を「当事者研 究」(浦河べてるの家 2005;綾屋・熊谷 2010)との重なりとともに示した。
「感情社会学」という学問領域は、20世紀後半に登場した比較的新しい研究分野である。
その端緒は、1970年代後半のアメリカを中心としてみられ、感情を重視する当時の時代の 状況は「心の時代の到来」と表現されている(崎山 2005)。感情を社会学的研究において 主題化したポピュラーな著作としては、ホックシールド(Hochschild, A.R)の『管理される
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心:感情が商品になるとき』(1983=2000)が挙げられる。これは、労働形態の主流となり つつあったサービス労働に従事する人々の精神現象を分析したもので、従来顧みられなか った仕事における感情的な要素を「感情労働」として概念化した画期的な書物である。そ の後、アメリカの社会学会で感情部会が発足し、学術雑誌や社会学の年刊論文集で感情社 会学の特集が組まれるようになる。こうして、1970年代後半から1980年代後半にかけて、
感情社会学は隆盛期を迎えることとなった(崎山 2007)。
感情社会学をめぐるこうした動向は、従来の社会学に対する人間の感情への着目を迫る ものであった。これについて、ケンパー(Kemper, Th. D)は、「より洗練度が増した組織的 合理性に対するニュー・エイジ運動に見られるような、自己の表出的側面や自己そのもの への注視、といったような抵抗運動が存在していた。それにもかかわらず多くの社会科学 者は主体の認知的側面のみに注目し、感情はサイコアナリシスや通俗的な文化的人間学と いった疑似科学の領域へと追いやられていた」(崎山 2005: 9)と述べる。抵抗運動という のは、たとえば、フェミニズム論者やエスニック、あるいはセクシャル・マイノリティに 代表される「感情的であること」を刻印された集団からの異議申し立てが活況を呈してい た、1960年代の社会状況を意味する(岡原1997)。そのうえで、ケンパーは、「感情社会学 は、その時代背景に呼応し、合理性対感情性という従来の社会学の単線的な論理に攻撃を 加え、自己の感情経験の抑圧が高まる点に注目することによって成立してきた」(崎山 2005: 10)と推察する。これは換言すれば、感情を社会の周縁に疎外してきた旧来の社会学 に対して、ラディカルな批判を加えるカウンター・アカデミズムとして登場したのが、感 情社会学であったといえる。
近代合理主義思想への懐疑をルーツとする感情社会学には、感情の捉え方、問題設定の 方法が多種多様である以上、学者の数だけの視座が考えられる。だが、感情への社会学的 アプローチとしては有力な立場が二つある(山田 1997)2。
第一に、ケンパーによる社会生理学を基盤とした感情の解釈方法である。ケンパーは、
感情を社会的な刺激によって表出されるものとして捉え、感情に対する社会の優位性を基 礎づけた。つまり、社会状況の認知が感情を喚起するとみる立場である。ケンパーは、感 情のアウトプットの基準として、権力と地位および責任主体を挙げている(岡原 1997)。 つまり、人は自己と他者のどちらが責任の程度が重いかを比べて、その大小をテコに安心 感や敵意感情を抱くということである。こうした感情と社会との対応関係を証明しようと するケンパーの感情社会学は、感情が観察可能な存在であることを前提としている理由か ら、「実証主義」の立場をとる(岡原 2008)3。
第二に、ホックシールドによる相互行為論を基盤とした感情の解釈方法である。ホック
2 ほかにも、クルター(Coulter, J)やロウスキ(Loseke, D.R)のように感情経験をめぐる 日常的な実践に着目する立場がある。感情を社会学的な視点から捉える方法を整理した論 考としては、小野(2007)に詳しい。
3 ケンパーにとって、感情の社会性とは、感情経験のはじめの段階でなされる社会関係の 認知の時点に想定されている。すなわち、関係認知のあとの生理的機構を経て、感情経験 が導かれるという捉え方である。こうした説明図式を採用することで、ケンパーは、特定 の感情を経験する際には特定の生理的喚起が伴うと考え、その対応関係を実証的に明らか にしようと試みた(小野 2006: 38)。
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シールドの感情論の特徴は、規則適合的に感情を捉え、社会的な規範が感情を規定すると みる立場である。具体的には、ホックシールド(1983=2000)は、感情形成の要因と過程を「感 情規則(feeling rules)」「感情管理(emotion management)」という概念を用いて説明し、感 情を経験する自己と社会の関連性について主題化した。その例としては、『管理される心:
感情が商品になるとき』で彼女が考察したフライト・アテンダントについての分析が挙げ られる。ホックシールドによれば、フライト・アテンダントは、仕事の世界で「表出すべ き感情」と「表出してはいけない感情」がマニュアルによってコントロールされ、自分の 感情を企業と客に譲り渡しているという。その抑圧環境が、労働者のアイデンティティ・
クライシスをもたらす危険があるという(Hochschild 1983=2000)。これを彼女は「感情労働
(emotion work)」と定義し、サービス業の発展がもたらした「労働現場における自己感情 の疎外化」を批判した。その結果、ホックシールドの批判は、発展を続ける社会と人間の 感情に見られる権力関係に焦点をあてる契機を与えた。このように相互行為場面ごとの秩 序によって、感情を適合させると分析するホックシールドの感情社会学は、感情の生起を 社会的な相互作用の文脈においているという理由から、「構成主義」の立場をとる4。
ケンパーやホックシールドの実証主義、構成主義的な接近法をはじめとする従来の感情 社会学は、心理学や生理学が感情研究を独占してきた潮流に対して、真っ向から対立させ る重要な役割を果たした反面、個人の感情や人格を過剰に固定化してしまった側面がある。
これについては、岡原も、生やその根拠として個人に生きられる感情を相対化し、その構 築性の論理が、個人を文化の代理店としてしかみなさない、従来の感情社会学の学問的姿 勢に疑問を呈している(岡原 2008)。同様に、崎山も感情社会学が感情を過剰に相対化し、
個別の感情の多様性を阻害する危険について、調査モデルの合理的な秩序が、表層の公的 な自己のみに接近し、深層の生きられた自己と感情経験への接近を試みなかったのではな いかと問題視している(崎山 2007)。つまり、従来の感情社会学というプロジェクトは、
調査者と対象者の権力構造を前提とし、結果として感情をある一定の鋳型に埋め込む側面 があった。そのため、生き生きとした感情の力動性を損なう帰結を生んだのである。
本論の「一人称の感情社会学」は、岡原と崎山の緻密な感情社会学史の分析と、感情に 対する臨床的な志向性に依拠しつつ、〈私〉という固有の存在とその感情の主体性に重きを 置く立場をとる。あの日あのとき、〈私〉はどうしてあのようなネガティブな感情を抱いた のか。〈私〉はどうしてあの楽曲のとあるフレーズを聴くと、いつも当時の自分を思い出し
4 ホックシールドにとって、感情の社会性とは、個々人がある状況において解釈実践を行 う際に、何が適切な経験かを決定づけるために参照する社会的期待や文化的規範に想定さ れている。つまり、生理的機構ののちになされる認知的評価に基づく解釈実践が、感情経 験を導くという捉え方である。こうした視点を採用することで、構成主義的アプローチは、
規範に基づいて自らの感情を構成する際の行為者の認知構造に焦点をあてることになった
(小野 2006: 38)。なお、「構成主義(constructionism)」という言葉は、「実証主義(positivist)」
のケンパーによるレビューを参照した崎山(2005)や、小野(2006)による訳語を本論に おいて採用している。というのも、岡原(2008)が指摘するように、「構築主義」という訳 語では、感情社会学が身体の一次性を認め、実態としての本質を前提とするため、社会学 全般で使用される「(広義の)構築主義」と齟齬をきたすからである。関連する補足として、
クルターのように、構成主義は認知理論に与するべきではないという考えから、「より強い 構成主義」(崎山 2005)にたつエスノメソドロジー派のアプローチもある。
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て感傷に浸る気持ちになるのだろうか。当時の〈私〉の感情を振り返ることは、改めて社 会のあり方を問うことにつながるのではないか。そして〈私〉の問いは、実は少なくない 他者が同じくしてもっている疑問なのではないか。そのような疑問を抱く者同士がつなが る手立てを探ることができないだろうか。こうした問いに向き合うべく、本論では、過去 の筆者をインフォーマントにみたて、当時の〈私〉が愛聴した音楽の歌詞に織り込まれた 言葉と自らの経験に意味を与えなおす内省によって、従来の感情社会学においてとらえら れなかった「ホモアフェクトス(homo affectus)」(岡原 1998)像の豊かさを描く実践を試 みた。
第3章 〈私〉の感情履歴
3章では、筆者の中学、高校時代の感情経験がいかなるものだったか、音楽の歌詞や一 次資料(総合学習のワークシート、卒業アルバムに記載の他己評価にかんする記述、友人 とのメールのトランスクリプト)を用いた内省によって振り返った。感情の事例を検討す るにあたり、分析データとして音楽を採用した理由は、「音楽は感情の言語である」として 音楽心理学の領域で注目されてきたことから5、今回の研究主題である感情社会学の分野に おいても、音楽は感情分析に有効な資料として活かせるのではないかと考えたからである。
さらに、感情研究を主題とした著作は数多くみられるが、音楽を切り口とした社会学的観 点から、当事者の感情履歴について論じた著作は見当たらなかった。過去の〈私〉が楽曲 の中で描かれた詩的世界に自分の姿を重ね合わせて「共感」し、曲調や旋律の響きに「感 動」した体験のなかに、実は社会につながる回路があるのではないかと推察し、感情研究 の展開可能性を鑑み、本論では音楽を分析データのひとつとして位置付けた。
楽曲の世界観や歌詞のフレーズに示される感情語を手がかりとした〈私〉の感情生活史 の再構築によって浮かび上がってきたのは、当時の筆者が自分の生き方に対して抱いてい た悩みや不安の切実性であった。具体的には、中学生の〈私〉は、「頑張る自分」と「本当 は頑張れない自分」とのあいだで揺れ動く感情と、それでも周りからの「○○らしい」基 準に適応させるべく「偽りの自己」を演じようとがむしゃらに振舞う疲労感をもっていた。
高校生の〈私〉は、中学時代から無理に自己を演じ続けていた反動の結果、初めて体験し たどうしようもない抑うつ感と、無気力に対する周囲の冷たいまなざしとのあいだで揺れ 動く感情をもっていた。
こうした内省的記述の成果として、(1)「感情労働」「バーンアウト」のような「硬直し たカテゴリー思考」(綾屋・熊谷 2010)では説明しきれない、個別の感情がもつ切実性と 多様性、(2)帰責先を個人に向かわせるレトリックのような、困難を抱えた当事者の感情 経験の主題化を阻む社会的なバイアスの影響、の2点を示した。
5 音楽が持つ特質のひとつに「感情的性格」が挙げられる。音楽の感情的性格の質と量を 示す概念を「感情価(affective value)」と呼び、こうした音楽の感情価が人間の認知に与え る影響について心理学的に分析した研究としては、谷口(1998)に詳しい。音楽と人間の 感情の相関に言及した論考としては、國安(2005)、スロボダとオニール(Sloboda & O’neil 2001=2008)が挙げられる。また、計量分析をとおして感情反応と音楽の歌詞の関連要因を 明らかにした実証研究として、森(2010)がある。
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28 第4章〈私〉の感情の社会性
4章では、筆者の感情と社会の関係について、人間関係というミクロな相互行為レベル を出発点に、最終的には時代性というマクロなレベルに拡張するかたちでの分析を試みた。
具体的には、中学、高校時代の筆者の感情経験の背後に、どのような社会的な条件づけ があったのかを、(1)感情表出しにくい友達関係、(2)感情が自己回帰する社会的な背 景、の2点から検討した。
(1)については、筆者と同年代の若者の友人関係とパーソナリティの特性を、「新しい
『やさしさ』」(大平 1995)と「優しい関係」(土井 2008)に見出し、当時の筆者が学校の クラスメイトと深刻な感情を共有できなかった社会的要因について、「感情表出しにくい 友達関係」の考察を通した検討を試みた。様々な統計や質問紙調査、子どもの様子につい ての語りから明らかになったのは6、若者独特の人間関係の技法が、お互いの「本音」を知 りあう旧来の親密さとは必ずしも合致しない点であった。だがそれは決して仲間に冷たい というわけではなく、とりあえず一緒に群れたり、互いに思いやったりしながらも、プラ イベートな距離感という秩序は保つという独特な「優しい関係」であった。
社会的な役割関係や利害関係に支えられたものでもない、ただ群れているだけの不安定 な「優しい関係」においては、個人のままならない感情の表出リスクは必然的に高まる。
「互いの本心に無関心でいるルール」を保つことで、「互いに傷つくリスク」を減らしてい るわけだから、受け止める側にもエネルギーを必要とするような深刻な感情の表明は、こ うした「優しい関係」において許容できることではない。その事例として、高校時代の筆 者とクラスメイトのメールのやりとりを取り上げ、そこから実際に筆者が深刻な悩みを共 有しづらい状況に置かれていた点を確認した。
(2)については、「個人の感情が自己回帰する過程」と、「個人の感情が自己回帰する 社会的な背景」の二項目に分けて検討した。
第一に、ニーズをもつ当事者の置かれる状況が、ときに不利な立場に予め置かれる点に ついて、ロウスキ(Loseke, D.R)の「リアリティ定義の競合(reality-definition contests)」
(Loseke 1987)と「カウンタークレイム」(草柳 2004)という概念を手がかりに指摘した。
個人の「問題経験」が無効化される過程には、①リアリティ定義の競合、②カウンターク レイムの応酬という、主に二つの段階が想定される。まず、困難を抱えた個人は、専門家 や無数の第三者との相互関係によって、「公的な問題なのか私的な問題なのか」を枠づけら れる。その後、たとえ自発的に当事者が「問題経験」の語りをしたとしても、待ち受けて いるのは「カウンタークレイム」による「クレイム」の相殺処理である。それを象徴する ひとつの事例として、不登校期の筆者に克服努力を迫った身近な他者の言動と、19歳の筆 者の日記を振り返り、個人の問題経験や感情のリアリティさが、周囲との社会的相互作用 によってときに過小化されてしまう問題点を明らかにした。
第二に、ギデンズ(Giddens, A)やベック(Beck, U)が指摘した「再帰的近代化」という 時代性に着目し、現代人が置かれている社会状況を概観した。その中で明らかになったの は、「再帰性」という時代背景が個人のリスク化と感情管理の高度化をもたらしていること
6 井田(1998)、小林(2001)、NHK放送文化研究所編(2003)、速水(2006)より。
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であった。ここでいうリスクとは、治安が悪くなったとか危険が増したということを意味 するのではなく、生活のあらゆる局面で自己決定が求められるようになったことで、選択 に失敗しないように(あるいは失敗したとしても)自助努力の機会が増えたということを 意味したものだった。
それに加えて、社会の個人化は持続的な人間関係の形成を困難にしており、そのような 他者とつながりにくい社会の中で個人は、その場の雰囲気や空気に合わせた「適切な感情 管理」が求められやすくなったのではないかと指摘した。最後に、こうした時代性と連動 するかたちで、筆者が取り上げた4つの楽曲や、90年代以降に支持を集めた歌手や楽曲の 歌詞に「不安定な自我」や「自分探し」への志向が表れている事実から7、ポピュラー音楽 と時代性(社会)の相関を確認した。
以上のように、〈私〉の感情の社会性の検討によって明らかになったのは、決して感情は 一個人で完結するものではなく、人間同士の相互行為の秩序や、対人レベルを超えたマク ロな時代性に適うかたちで、「適切に」条件づけられていることである。その中で音楽は、
資本主義的な企業戦略の操作という限定付きではあるけれども、基本的には個人の感情に 寄り添う形で消費されている。したがって、音楽は社会と個人の感情をつなぐ文化的装置 として位置づけられることが確認された。
終章 一人称の感情社会学の展望
終章では、研究者自身の感情経験の吐露を出発点とした社会学実践がどのような方途に 開かれているのか、その方法論的課題とともにまとめ、「生」の実践としての一人称の感情 社会学研究の展望を述べた。
3・4章で試みたように、研究者自身の感情経験の吐露を出発点とし、どのように社会 が〈私〉の感情を規定し、〈私〉が社会を意識するのかを内省的に記述する試みは、エリス
(Ellis, C)のいう「感情的社会学(emotional sociology)」の実践のひとつであったといえ る。
エリスは、生きられた感情経験を発見的に理解するために、①感情を感情的に探究する こと、②自分の感情を社会学的分析対象として観察すること、③日常生活の文脈の中で感 情が語られるありように集中すること、の3つの方途を指摘した(Ellis 1991b)。2章で論 じたように、従来の感情社会学は、感情を言説化し合理化し、ひいては感情の生き生きと した力動性を排除する暴力によって成立してきた。調査モデルの合理的な秩序を優先し、
7 たとえば見崎は、90年代から00年代に多くの若者から支持を集めたMr. Childrenの歌詞 世界を「自分探し系」と評している(見崎 2002)。他方で稲増によれば、90年代末期に一 世を風靡した女性ダンスユニット・SPEEDが、男性ファンだけでなく女性ファンに多く支 持されている事実に着目し、「自分の意志で自分の生き方を選択している」という「自我の 強さ」を投影する「個人」としてのアイドルへと、支持される傾向が転換したという(稲 増 1999)。こうした変容は SPEED に限らず、同時期に流行した安室奈美恵や浜崎あゆみ が、かつての疑似恋愛対象としての歌手というよりはむしろ、いわばファッションリーダ ーやオピニョンリーダーとして支持されていたことからも、不安定な社会で揺らぐ自我を 基底から少しでも安定させてくれるような外部準拠基準として消費されるようになった、
90年代以降のポピュラー音楽全体の動向として指摘できる。
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調査対象者の表層の自己のみに接近するあまり、深層の生きられた自己と感情経験を度外 視するという帰結を生んだ。これに対してエリスは、その代替案として、個々人の「生き られた感情」に密着する方法であり、それに積み重なる記憶、身体的経験を重視する「感 情 的 社 会 学 」 を 提 案 し た の で あ る8。 感 情 に つ い て の 自 己 と の 対 話 で あ る 「 内 省
(introspection)」を重視する意味では、本論で展開した一人称の感情社会学と親和性をも つ。
しかし、こうした当該行為者の感情経験の内省的記述を重んじる手法には、いくつかの 方法論的困難が伴う。たとえば、岡原は、調査者とインフォーマントが相互行為的内省を 促進することについて、調査者・被調査者の関係の平等性と、調査に付随する介入、記述 という暴力性に無自覚であると批判している(岡原 1998)。さらに、崎山も、対象が感情 経験であるがゆえに、感情的社会学が尊重するはずの言語化されえないアモルファスな感 情経験が、描写・記述と言う水準にそぎ落とされてしまう感覚をわれわれがより強く持つ 可能性にふれ、生きられた感情経験「そのもの」を決して扱えない困難さを指摘している
(崎山 2008)。
生きられた感情経験の希求は、それは裏を返せば、社会学が、その対象を言語で把握し きれない生理的基盤や身体の一次性へと無限に拡大するアポリアを内包することを意味す る。本論で試みた一人称の(生きられた)感情経験の社会学的探究にも、感情語による記 述の暴力性と感情経験の多声性との、こうした対抗関係を構造的に含みもつ方法論的課題 があるのである。
2章で整理したように、感情社会学の歴史を、合理性への懐疑やマイノリティらによる 異議申し立てに政治、経済、階級、文化などがどのように影響を与えていたか、そこに従 来の社会学と感情の権力関係がどのように反映されていたかをみることによって理解する ならば、これからの感情社会学研究の内実は、その社会における「生」への志向に応じて 描き出されるものとなる。
感情社会学者の学問活動が制度的な「知」の再生産を志向するのならば、感情社会学の 未来は規格化の機能をよりいっそう強めていくだろう。学ぶべき内容が予め確定され、そ の研究方法が組織される。また調査は一定の方法論的手続きに従って機械的に行われ、調 査者は外部からの観察・介入・記述という姿勢を決して崩さない。つまり、「優れた」感情 社会学的分析と、その事例研究が蓄積されていくだけの未来である。だが、研究者自らが 具体的な状況の内側にたったときに意識される感情を問い直す機会をもたずに、「知」の上 澄みに腐心するならば、その帰結はおそらく、かつて感情社会学を批判した人々が危惧し たとおりになるであろう。
8 エリスは、Hayano(1979)、Van Maanen(1988)などのエスノグラファーらの功績に依拠 しつつ、自己内省や他者との内省が解釈的素材を生み出し、生きられた感情経験の理解に とって有益であることを示した。たとえば、日誌や雑誌、作文は自己内省を施すことによ って、フィールドノートやナラティブとして主観的な感情の展開過程の分析に生かせると いう(Ellis 1991a: 23, 29-31)。こうした解釈的データの考慮すべき論点(たとえばデータの 信頼性、妥当性、一般化可能性など)に言及しつつ、「自己エスノグラフィー」を経験的資 料の収集・分析方法のひとつとして正当化、拡張する論考を展開したものとしてはEllis &
Bochner(2000=2006)に詳しい。
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フォーマルな教育階梯をのぼる単線的な学び(=近代教育制度)のもとで、「成功者」と なるのは、専門職としての評価基準に順応できる人に限られる。この場合、「成功者」とは、
大学教育で伝達されるより高度な専門的知識や価値体系を受け入れることによって、社会 上昇を達成する専門職者のことである。
「知」の多寡による社会上昇を是認する社会では、学問にそれとは異なる目的を設定す る人々は忌避されかねない。たとえば、身体・知的障がい者や、精神病者、各種の依存症 患者、差別の被害者などの、既存の制度の枠組みの中で従属的な位置に置かれ続けてきた 人々がもちうる、「社会変革」としての学問姿勢である。こうした人々が既存のアカデミズ ムを自明視せず、自らの生活課題の根源を理解し、社会的な問題と結びつけ、その変革を 目指す表現の主体となるためには、既成の体制に従属する感情社会学を相対化するような 活動、すなわち「生きること」と結びつける感情社会学が承認される社会が構想されなけ ればならない。
制度的な「知」の再生産に相対するものとして、「社会学の文法」とは異なるやり方で行 われる、「生」の実践としての感情社会学に注目するとき、感情社会学研究の未来は、多様 な感情経験が響き合う文化実践のなかで育まれるだろう。本論で分析した筆者自身の感情 生活史の事例は、愛聴したパーソナル・ソングを用いた感情履歴の再構築によって、中学・
高校時代それぞれの社会の文脈で展開された悩みや不安、孤独の意味をとらえなおそうと する「生」の実践の一つである。こうした実践が、より開かれた場で社会的に承認される とき、一人称の感情生活史を、新たな公共圏を形成する可能性を秘めたものとして捉える ことが可能である。
たとえば、岡原は、大学の『生と感情の社会学』という講義で、自らの「生」の全体性 を他者と共有する取り組みを積極的に取り入れている。この取り組みでは、ほぼ無作為に 分けられた6名程度のグループで、各人が事前に用意したライフストーリーを互いに伝え 合うことから始まる。グループ内で、どの人の生を取り上げるかを決めさせ、数日で、そ の人への聞き取りや自分への振り返りを経て、グループでプレゼンテーションを行うとい うものである。プレゼンの際には、ひとり芝居や寸劇、朗読、映像なども取り入れ、言葉 だけでなく身体で感情を提示する形式を尊重しているという(岡原 2013:100-102)。大学 の場以外の実践としては、市民団体やNPOの組織学習として、他者と自らの困難や生きに くさを語り合う草の根的な活動に焦点をあてるもの、職業訓練や企業の人材教育として、
感情労働のフィードバックに焦点をあてるものなど、多種に考えられる。
こうした他者の感情的な「生」のありようを聞き、自分を通して、さらに他の人に伝え ていく空間は、マイノリティが自らの感情経験を省察的に吟味する実践の場になりうる。
それは、感情経験を再構成する者自身による新たな知識の再発見・再構築を可能にする場 でもある。そこから草の根的な運動が起こっていけば、支配的な感情言説に対抗していく 新たな公共圏に発展する契機につながる。つまり、「生」を志向する感情社会学研究には、
このように多層的に、そして多岐にわたって社会に浸透し定着していく可能性があるので ある。
もっとも、学問活動における「知」と「生」への志向のせめぎあいは、必ずしも相反す るかたちで展開されるわけではない。小倉の表現を借りるならば、「知」の生成と「生きる こと」は、むしろ「地続きの土壌」にある。たとえ同じカテゴリーに属しているという意
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味での当事者性や、同一の理念を共有していなくても、「いかに生きるか」という次元では、
さまざまなことが自分と地続きになり、だれもが当事者になるからである。だれもが自ら の存在可能に向かって懸命に生きようとする生き方の次元にまで降りていけば、「知」を生 み出すあらゆる学問活動は、マイノリティにとっても、マジョリティにとっても、生き方 に切実にかかわってくるものとして受け止められる。したがって、学問主体たる研究者が、
研究する以前にひとりの生活者であるという姿勢で、「いかに生きるか」という実践的な問 いをもって「知」が生成される現場に参与すれば、思想やパースペクティブの境界を越え た相互了解の可能性が開かれていくであろう(小倉 2014)。
「人それぞれ」の社会で一人ひとりが「『孤』人化」しないためには、本論で行ったよう に、凝り固まった研究者像や知識人像をいったん脇に置き、固有の「生」を志向する一人 称同士がつながり合っていく方途を探ることが出発点になるのかもしれない。人知れず辛 い思いをしている人たちが置かれている「絶望と不信の蔓延」から「感情の公共性」(岡原
2008)9や「希望のネットワーク」(河添 2008)へと転換させていく過程は、人々の日常生
活に根差した多層的な感情経験のなかに息づいている。そしてそれらに基づく「生」の実 践が、感情社会学研究をよりリアルなものとして再構築していくための手がかりとなるは ずである。日本における感情と社会をめぐる議論は、今後もニーズをもつ当事者の感情経 験の社会的位置づけについての議論と密接に関わりあって展開していくと思われる。さま ざまな「生」の実践としての感情社会学研究が日本社会にいかなる変化をもたらすのか、
今後続けて検証していく必要があるだろう。
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