ダグラス汽船会社の臺灣航路について
その他のタイトル The Taiwan Steamship Line of the Douglas Steamship Co.,Ltd.
著者 松浦 章
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 36
ページ 49‑75
発行年 2003‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16219
四
ダグラス汽船会社の憂溝航路について ダグラス汽船会社の華南・憂溝間の航運豪溝航路におけるダグラス汽船会社と大阪商船会社との競合小結
緒 言
第二次アヘン戦争の最中に清朝が英国・フランス・アメリカ・ロ
シアとの間で締結した天津条約によって咸豊十年(‑八六
0)
に豪
溝南部の安平と北部の淡水の二港が対外開放され外国船の来航が見
られるようになり︑さらに同治二年(‑八六三︶には︑安平・淡水
両港の附属港として打狗︵高雄︶と基隆の二港も開放され︑外国商
船の豪溝来航は日に日に増加した︒その後︑同治十年(‑八七一︶
にはイギリス船籍の海寧琥二七七噸の小型汽船であったが安平・淡
水・腹門・油頭・香港を二週間に一航海の定期運航を行い好評を博
緒言
また清朝も憂溝と大陸沿海を結ぶ汽船航路の開設を企図した︒明
治
3 8 年(‑九0五︶の﹃蛋溝産業略誌﹄船舶に︑
劉銘偲ノ来島以来︑島地物産ノ利益ヲ増殖セン為メニハ海運ヲ
開クノ急ナルヲ以テ︑商務局二新タニ汽船ヲ購入シ︑本島ヨリ
香港或ハ上海等ノ地二定期航海ヲ開始シ︑一級汽船会社ノ船舶
ノ如ク普通ノ貨物及船客搭載ノ事ヲ取扱ヘリ︒其船種左ノ如シ︒
名 稲 噸 敷 船 質 製 造 年 月 武 器 及 任 務 海 鏡 木 明 治
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大砲四門運送及通報
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英国
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大砲四門海底電線敷設
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英国
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英国
製
一八八四︶に棗溝へ赴任した 鐵
とあるように︑光緒十年︵明治一七︑ 三
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(1 )
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︒
ダグラス汽船会社の嚢溝航路について
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劉銘健はその後︑商務局を設置し︑憂溝と大陸沿海部を結ぶ定期航
( 3)
路を開設する︒なお斯美は旧名
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hで駕時は旧名
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であり︑美
(4 )
最時洋行
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より購入した汽船であった︒後
述の﹃申報﹄の記事に見られるように︑この壷溝商務局の斯美と駕
時両船と徳記利士輪船公司
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即ちダグラス汽船会社
の汽船が壷溝航路をめぐって運賃の値下げ競争を展開し︑その後に
ダグラス汽船会社が豪溝の定期航路を設立し航運権を寡占するに至
( 5)
った
光緒二十一年(‑八九五年︶に清朝が日本との間で締結した下関 ︒
条約︑中日馬賜条約によって棗溝が日本の統治下に入るが︑その当
時の憂溝の航運は大陸からの帆船やまた壷濁から大陸への航運が中
心であって︑唯一大陸と憂溝を結ぶ定期汽船航路は香港に拠点を置
くダグラス汽船会社の寡占状況にあった︒その状況は︑M臼
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ダグラス会社は淡水•福州・夏門と憂溝府の巡回航路に汽船を
航行させることを試みた︒しかし会社の汽船による有利な貨物
(6 )
輸送に失敗し︑会社はまもなくその航路から撤退した︒
とある︒また
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には
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⁝一八九七年中にイギリスの船舶トン数が現に減少したのは︑
ダグラス汽船会社の汽船の不定期運航によるためである︒同社
( 7)
は外国の運送業を独占している︒⁝
とあるように︑日本の憂溝統治が開始される前にあってはダグラス
汽船会社が大型汽船による豪溝の航運を独占していたと言える︒
豪溝と大陸を結んだ汽船の定期航路を開航するのは一八六三年に
香港で創設されたイギリスの徳意利士火輪公司
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. で︑憂溝と大陸を結ぶ汽船航路の先駆的な会社であった︒
同社は一八六七年︵同治六︶より厩門と憂溝を結ぶ定期航路を運航
し︑その同社の汽船に海澄があった︒一九ニー年当時﹁
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英國ノ汽船会社ニシテ海深︵ハイチン︶︑海壇︵ハ
イタン︶︑海鴻︵ハイホン︶ノニ千噸級ノ船ヲ以テ香港︑福州間ニ︱
(9 )
週二回ノ定期ス外二不定期船ヲ有ス﹂とされ︑一九三六年の﹃海事
要覧﹄にもダグラス汽船会社は三隻の汽船︵合計六千噸︶を用いて
( 10 )
香港・厩門•福州線を運行していることが見える。
そこで本稿は︑日本による豪溝統治前及び統治当初のダグラス汽
船会社の大陸華南・壷溝間の汽船航運がいかに行われていたかを考
察してみたい︒
ダグラス汽船会社の華南・豪溝間の航運
ダグラス汽船会社は一八六三年︵同治二︶に香港で設立され︑香
( 11 )
港から福州の間の各港を航運範囲としていた︒
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八六五年︵同治四︶一0月一九日に七五万弗の資本によってイギリ
スとアメリカの投資によって設立された
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五〇
ダグラス汽船会社の棗溝航路について
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は中国名は省港澳輪船公
( 13 )
司である︒さらに
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は香港上海銀行の設立にも関与す
( 1 4 )
る香港在住の有力な企業家であった︒
アヘン戦争後の南京条約締結によって香港がイギリスの統治になると多くの人々が香港に来航したが、Do品百~Lapraik..@その一人で
あった︒彼はスコットランド人で︑香港到着後︑間もなく時計屋を
開業した︒そしてさらに︑汽船会社
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会社︶をp
起業して︑中国及び︑他の西の国との取引のために汽船を所有して
いた︒ダグラスは彼の汽船会社の活動の拠点として土地を購入し︑
その地をダグラス・キャスル
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l e と
命名
した
ので
ある
︒
現在それは香港大学の史蹟
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l e として保存されている︒
年老いたダグラスは︑一八六九年にロンドンで他界した︒彼の事業
は孫息子のジョン
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が引き継いだが︑キャスル
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は︑フランスの
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且
Sに売却されたのであった︒船のクロノメーターを専門にした時計工であった
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は︑アバディーン港に乾ドック設備を
建造する︒そのドックは︑彼によって一八五七年に建設された︒一
八六五年に︑彼の造船所と︑すぐ近くのホープ・ドックの両方は︑
( 16 )
香港・黄浦
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は南京条約締結後︑香港に来航し
たスコットランド人で︑船のクロノメーターを専門にした時計工で
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われ
る︒
五
あった︒その業務の関係と︑香港の立地から汽船航運の将来を見越
し︑ドック会社や汽船会社を起業し︑恰和洋行や太古洋行が企業集
団の一環として行う大汽船会社が注視していない香港から油頭・属
門・福州さらに憂溝を目指す定期航路を開削することになったもの
明治四五年(‑九︱二︶の東亜同文會調査編纂部の﹃第一回支那
年鑑﹄水運︑其三﹁南清沿岸航路﹂に香港ー油頭ー厩門ー福州線の
項目にドグラス汽船会社の名が見え︑四隻の汽船が合計七︐六七六
噸あり︑毎週三回の定期運航を行っていたことが知られる︒ちなみ
に同航路に見える日本の汽船会社大阪商船会社は︑一隻︑一八0九
( 17 )
噸︑二箇月に三回の運航であった︒
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は厩
門
も経由地として﹁英国ノ汽船会社ニシテ海深︵ハイチン︶︑海壇︵ハ
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( 18 )
週二回ノ定期航路ヲナス﹂とされ︑また福州は﹁トグラス汽船会社
船ハ︑海澄︵二'10八噸︶海鴻︵一︐二七0噸︶ヲ以テ一週一回
腹門油頭香港二連絡ス︒茶期ニハ積荷其ダ多ク殆ンド此ノ会社ノ独
( 1 9 )
占的状態ニアリ﹂とされるように︑ダグラス汽船会社は香港から福
州までの定期航路を運航していた︒民国二十四年(‑九三五年︶当時は海陽(総噸数二_二八九、浄噸敷~一三六三)、海澄(総噸数~二0八〇、浄噸敷~ーニ八四)、海寧(総噸数ニ―0八六、浄噸敷~
八三二︶の三隻を香港から油頭︑厩門を経て福州まで定期運航を行
( 20 )
っていた︒昭和十八年︵一九四三︶の東亜海運株式会社の丸秘資料
いる
︒
として刊行した﹃支那の航運﹄には︑
徳記利士輪船公司
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香港汽船
会社中創立最も古く︑日清戦役前南支︑蛋溝線を独占し居たる
も︑日本の嘉溝領有後明治三十二年大阪商船が淡水︑香港線を
開始してより勢力失墜し明治三十五年遂に蛋溝航路より撤退せ
り︒一九三六年六月末に於て四隻九︐︳
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港︑
( 2 1 )
福州線及香港︑油頭線を経営す︒
とあるように︑日本の憂溝統治以降︑豪溝航路から漸次撤退してい
った
ので
ある
︒
それでは︑このような
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C o . が憂溝航路に進出
していた状況について当時の記録から見てみたい︒
上海で刊行されていた﹃申報﹄第五八一八号︑光緒十五年六月初
四日︑一八八九年七月一日の告白欄に次のような広告が掲載されて
輪船往淡水基隆
今有商務局斯美船︑準於初六日︑開往淡水・基隆︑個有貴客欲
装貨︑及搭客等︑由本行代理︑請至帳房︑面議可也︒此飾売
件 洋 行 告 白
とあり︑豪溝の商務局が上海から淡水・基隆に向けて斯美船を航行
する予定であった︒その運輸貨物︑搭乗旅客の代行をしていたのが
売件洋行
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︱八八九年七月六日︵光緒十五年六月初九
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とある︒上海にあった
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社で中国名美最時洋行
が管理した憂溝商務局
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は︑劉銘博が任命した総支配人の支配のもとに今移された
とされるように︑壷溝の商務局は上海ー豪溝[淡水・基隆]の航路
の開設を企図した︒﹃申報﹄の告白には六月初六日︵七月三日︶の斯
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の出航予定であったが︑実際に出航したのは六月十二日
︵七
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日︶
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六号
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六年
閏一
一月
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三日
︑一
八九
0年
四
月︱二日付けの第一面に掲載された﹁争利失利説﹂に︑
又接到夏門訪事人一信謂︑得忌利士公司︑往来福州・淡水之輪
船︑因現有棗溝商務局之駕時・斯美両快船往来淡水︑該公司遂
減価
︑以
廣招
徐゜
とあり︑日本の棗溝統治以前に清朝は豪溝に設けた商務局が新たに
汽船斯美・駕時の二隻をもって棗溝の淡水との間で航運を行おうと
したが︑既に運行していた得忌利士公司即ちダグラス汽船会社がそ
れに対抗して運賃の値下げで対抗しようとしていたことが知られる︒ 日
︶四
頁に
︑
五
ダグラス汽船会社の蛋溝航路について
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︱八九一年五月二九日に掲載された﹁南壷
溝﹂
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ダグラス会社汽船は︑英国籍である︒この会社は︑ほとんど淡
水への唯一の汽船会社であり︑そして︑いずれにしても棗溝
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の汽船が非常に所望する茶貨物輸送の障碍にy
なるのである︒独占は︑後者のためのものでなければならない︒
可能な限りの唯一の方法は︑非常にしばしば外国の利益に反撃
するために便利であると考えられた税を処置することによるも
のであった︒⁝淡水から腹門までのお茶に関して︑S
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及び
︑
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を保護するために恐るべき相違がある︒そして︑保護が本
当に外国の荷主に何も行われ得ないならば︑ダグラス汽船によ
拝
って運ばれるお茶に関する重税が軽減されないならi⁝とあり︑ダグラス汽船会社が淡水への汽船航行路を独占していたが︑
その情況を清朝側が覆そうとしていたのである︒清朝側は
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び ︑
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即ち壷溝商務局の斯美琥と駕時琥の二隻を使って淡水から
茶を輸送しようとしていたが︑ダグラス汽船会社がこの航路を寡占
しているため︑清朝側に有利な課税を計画していたのであった︒
一八九八年の﹃豪溝新報﹄第四五三号︑明治三一年三月一八日﹁腹
門近
信﹂
には
︑
ドクラス汽船の黒姻は望観する毎に据腕に堪へざるは壷溝南清
間の航海権に有之候︑豪溝の日本に蹄する当初︑流石世界の視
線を惹きたる日本の事なれば壷溝の経営上最大の要務たる交通
五
機関の事に就ては必然恐るべきものあらんと同社も衷心窃かに
安からざる所あり︒当時の小会社にては到底比敵する事能はざ
るべしとて既に其の準備をも為したるやに及聞候︒然るに三年
の久しき今日に至るまで日本は此有利なる航海権を外國の一小
会社に思ふままに委したれば︑同社は寧ろ其の案外なるる驚き
棚から牡丹餅の考にて︑其後頻りと我物顔に振舞ひ居ること心
外千萬遺憾至極の事に御座︑有利多望なる該航路を度外視し一
方には莫大の損耗を蒙りつつある今日の仕末にて猶は世界的大
日本杯と空威張の出来るものか杞憂罷在候︒
とある︒日本による壷溝統治が開始された当時︑棗溝と大陸の華南
地域を結ぶ汽船航路にはダグラス汽船会社が雄姿を呈していた︒
同年の﹃官報﹄第四四五二号︑明治三一年︵光緒二十四︑一八九
八︶五月六日︑六七頁にも︑﹁﹁ドグラス﹂汽船会社運賃引上ノ件ニ
附キ厩門駐在帝園一等領事上野専一ヨリ去月十六日附ヲ以テ左ノ如
ク報告アリ︵外務省︶﹂として︑厘門にあった日本の領事館の上野専
一ー等領事からの報告を掲載している︒
﹁ドグラス﹂汽船会社ハ其本店ヲ香港二置キ︑同地ヨリ油頭︑厘
門︑福州及憂溝南北各港二於ケル航海ニハ六艘ノ汽船ヲ使用
シ︑他ニ︱ノ競争者ナキヲ以テ此間二於ケル航業ハ全ク該社ノ
独占事業卜稲スヘキ現況ナリ︒然ルニ現今石炭其他ノ債格大二
上騰セシヲ以テ︑同社汽船ノ運賃ハ淡水︑厩門間及支那沿海各
港二於テハ︑本月二十日ヨリニ割五分ノ割合二引上タルコトニ
決定セシ旨︑本日営港同社代理店ヨリ広告セリ︒
とある︒ダグラス汽船会社の経営状況に関するもので︑同社は香港に本店を置き、香港を起点に油頭•履門・福州の大陸華南沿海主要
港と豪溝とを結ぶ航路に六隻の汽船を投入しこの航路を寡占してい
たのであった︒そのため燃料費の高騰から運賃の値上げを容易にお
続いて︑同年の﹃官報﹄第四五八五号︑明治三一年︵光緒二十四︑
一八
九八
︶一
0月 一
0日︑一四八頁には︑﹁﹁ドグラス﹂汽船会社事
業景況﹂が掲載されている︒﹁﹁ドグラス﹂汽船会社ノ事業景況二附
キ腹門駐在帝國一等領事上野専一ヨリ去月十五日附ヲ以テ左ノ如ク
報告アリ︒本年五月六日︑本欄内参看︵外務省︶﹂と上野専一領事の
報告
であ
る︒
英商﹁ドグラス﹂汽船会社ハ香港︑油頭︑厩門︑福州︑淡水︑
豪南各地方二定期航海ノ基礎ヲ固メ︑右諸港間ノ事業ハ殆卜同
社ノ独占二帰シ居リシ事情ハ既二是マテ屡次報告セシカ如シ︒
而シテ同社ノ資本ハ一株五十弗ニテ総株数二万株ヨリ成立スル
一小会社ナリト雖モ︑同社支那南岸航業二対スル直接競争者ナ
キト久シキ間ノ経験トハ著シク︑同社ノ事業ヲ振興セシメ随テ
其収益モ比較的二多ク︑本年上半季ノ決算報告ハ︑蓋シ本月二
十七日香港本社内二開ク通常総会後二発表セラルヘシト雖モ︑
本地在留ノ同社株主ノ内話二撼レハ︑本年ノ事業モ案外二好都
合ニシテ︑一株二附キ洋銀六弗ヲ配当スル見込ニテ︑即チ年一
こな
って
いた
︒
割二分ノ配当ノ外︑尚ホ多額ノ特別配当ヲモ為ス筈ナリト云ヘ
リ︒右ノ外収益中ヨリ洋銀五万八千弗ノ積立金ヲ為スヘキ見込
ナル
趣聞
知セ
リ︒
とある︒ダグラス汽船会社は香港を起点に油頭・腹門・福州・淡水・
台南に汽船による定期航路を有し︑資本金は一株五十弗で全株数ニ
万株の会社でそれほど大きな会社ではないが中国華南一帯の航運業
において独占状態にあるため好況を呈していることが報告されてい
﹃官報﹄第四四五二号︑明治三一年︵光緒二十四︑一八九八︶一〇 る ︒
月一四日︑二ニ︱頁には︑﹁厩門港船舶出入状況本年七月中属門港
船舶出入状況二附キ同地駐在帝國一等領事上野専一ヨリ本年八月九
日附ヲ以テ左ノ如ク報告アリ︒本年八月十七日︑本欄内参看︵外務
省︶
﹂と
して
︑こ
れも
上野
領事
の報
告で
ある
︒
⁝本月初旬︑棗溝二於テ硫黄採掘二従事セル馬場禎四郎ナル者︑
主卜為リ棗溝︑腹門間ノ通商日二月二発達スルヲ見テ︑外國船
ノミニ依頼スルノ不利ナルヲ察シ︑一汽船会社ヲ新設シテ北辰
館卜琥シ︑毎月三回淡水ヲ起点トシ香港ヲ終点トセル一航路ヲ
開キ往復共二腹門二寄港スルコトニ定メタリ︑而シテ隆盛丸ヲ
以テ専ラ之二嘗ラシメシ︑其第一航路ハ染月十二日ニシテ︑翌
十三日嘗港二入著セリ︒積荷ハ頗ル多額ニシテ一般人民ノ気受
宜シキカ如シ︒此有様ニテハ前途大二望ヲ属スルニ足ルヘシ︒⁝
とある︒棗溝の経済発展を予想した馬場禎四郎が北達館と言う汽船
五四
いる
︒
ダグラス汽船会社の壷溝航路について 会社を設立し︑台湾北部の淡水を起点に属門を経由して香港と結ぶ汽船航路を開設したことが報告されている︒
﹃官報﹄第四四五二号︑明治三一年︵光緒二十四︑一八九八︶一〇
月二二日︑三一六頁に﹁履門港船舶出入状況本年九月中︑厘門港
船舶出入状況二附キ同地駐在帝國一等領事上野専一ヨリ本月八日附
ヲ以テ左ノ如ク報告アリ︒本月十八日︑本欄内参看︵外務省︶﹂と上
野領事が厘門港の船舶の出入の状況を報告している︒
⁝本邦人ノ組織二成レル北辰館汽船会社二於テモ新二汽船勢徳
丸ノ航行ヲ見ルニ至リ並二本邦船舶ノ出入割合二頻繁ナリシモ︑
又其原因ナリ︒⁝其他ハ北辰館定期船勢徳丸ハ茶入袋︑石炭及
雑貨ヲ搭載シテ淡水ヨリ入津シ︑営港ヨリ輸出ノ重要品ハ水仙
根種子︑紙ノ類ナリ︒尚ホ同社二於テハ油頭ニモ寄港セシメテ
運輸ヲ便ヲ計リッツアレハ︑一タヒ支那商佑間二信用ヲ得タラ
ンニハ対岸貿易上少カラサル便宜ヲ輿フルナルヘシ︒
とあり︑北達館汽船会社による貨物輸送が好調であることを伝えて
﹃壷溝日日新報﹄第一〇一琥︑明治三一年︵光緒二十四︑一八九八
年︶九月二日付け六頁に掲載された廣告に北辰館輪船公司による航
運状
況が
知ら
れる
︒
弊館是迄汽船隆盛丸ヲ以テ︑淡水・厘門・香港間ノ定期航海相
営居候虞︑本月早々ヨリ汽船勢徳丸︵船長西井新吉噸敷一︐
四四八︱二︶ヲ増加シ︑更二寄港場所ヲ拡張シ︑淡水︑属門︑
五五
油頭︑香港間ノ定期航海二相改メ候間︑此段廣告仕候也︒
九 月 北 辰 館 輪 船 公 司
とあるように︑北辰館輪船公司はこれまでの隆盛丸に加え明治三一
年(‑八九八︶九月より勢徳丸一四四八トンを導入し淡水から福建
の腹門︑廣東省の油頭そして香港への定期航路を拡大していたこと
が知
られ
る︒
﹃官報﹄第四六二二号︑明治三一年︵光緒二十四︑一八九八︶一︱
月二五日︑二四九頁に︑﹁北辰館汽船壷溝香港間航路開始北辰館汽
船壷
溝香
港間
航路
開始
ノ件
二附
キ香
港駐
在帝
國二
等領
事上
野季
︱︱
一郎
ヨリ本年月十四日附ヲ以テ左ノ如ク報告アリ︵外務省︶﹂が掲載さ
れ ︑
池頭・属門諸港経由嘗港豪溝間ノ航路ハ年来﹁ドーグラス﹂商
会ノ所有汽船ノ往復スルモノナレハ︑旅客輸出入貨物共二悉ク
該汽船便二頼ルノ外ナキヲ以テ自然此間ノ航海権ハ同商会ノ独
占二帰シ︑他二競争者ナキニ由リ貨物ノ運賃等モ割合二高ク︑
内外ノ荷主並二旅客等ハ大二困難ヲ感シ居タルニ︑本年七月二
至リ在憂溝馬場某北辰館ノ名ニテ淡水︑油頭︑厘門︑香港二汽
船航海ヲ開始シ︑敢テ﹁ドーグラス﹂商会卜競争セルモ荷主及
旅客ノ便益ヲ圏ランタメ︑運賃ノ割合ヲ低下シ視線隆盛丸ヲ以
テ先ツ第一回航海ヲ試ミタルニ︑従来﹁ドーグラス﹂商会ノ独
占二飽キタル一部ノ荷主等ハ進テ貨物ヲ積載シ旅客等モ喜テ乗
船スルニ至リ︑意外ノ好況ヲ示セリ︒但シ隆盛丸ハ其後船難二
遭遇シ大破損ヲ生シタルヲ以テ︑更二勢徳丸ヲ以テ之二代へ目
下猶ホ事業ヲ継続シッツアリ︒
ダグラス汽船会社の寡占状況にあった華南・蛋溝間の汽船航路に
日本の北辰館汽船会社が参入し︑北辰館汽船会社が好評を博してい
ると報告されている︒しかし︑北辰館汽船会社の汽船自体に若干の
問題があったことが知られる︒
華南の油頭を含む中国沿海部と豪溝とを結ぶ汽船航路に関しては︑
日本の憂溝統治初期の明治三一年(‑八九八︶︱一月に刊行された
﹃壷溝協會會報﹄第二号に掲載された杉村溶氏の﹁豪溝と支那沿岸の
関係
﹂に
詳し
い︒
⁝厩門が無ければ憂溝は完全なものではない︒厩門も亦壷溝が
無ければ︑今日まで繁昌しては居らぬ︒今後壷溝に人工を加ふ
ればいざ知らず︑今日迄の所では離る可らざる関係である︒安
平︑打狗︑基隆︑淡水何れも皆な港が不充分であるから︑此港
に依て欧羅巴や亜米利加と直接に商売をすることは出来ぬ︒否
でも應でも厩門を以て豪溝の門戸としなければならぬ︒そこで
腹門と憂溝との接続はどうかと云へば︑今は英吉利商人から成
立った会社の﹁ドウグラスコンパーニ﹂と云ふ汽船会社があり
て︑それが一手で占めて居る︒此会社が丁度棗溝に通ふに適当
な船を特別に掠へて︑香港を起点として油頭・厩門を経て淡水
に至る航路を三艘の汽船でやって居る︒其外に一艘は香港から
油頭・厩門・安平・打狗の間を往来して居る︒それから後の二 艘は香港を起点として油頭・腹門を経て福州へ通ふ︒以上六艘の船でやって居る︒此の会社の船が一本の道になって︑此船に便らなければ棗溝から外国に出ることは出来ない︒それで厩門に行って東へ行くのも厩門で積替へ︑西へ行くのは厘門で卸すのもあらうが︑多くは香港に行って積替へる︒斯う云ふ大陸との関係を持て居るのです︒今ドウグラス会社の事に及びましたから︑序に会社の成立ちを蕊に述べようと思ひます︒彼の会社は余りおおきくない会社で︑元と英国の茶商人等が集まつて百萬園の資本金を以て営業をしてあの辺の航海を一手に占めて居るので︑其の運賃も随分高い︒香港から淡水ヘ一噸の運賃が七弗︑船客が四十五ドル︒随分高い運賃であるのに︑何故競争が起らぬか此は不審である︒不審であるが其不審は聞くと解けるのである︒元来豪溝には良い港はない︒淡水も河へ這入らねばならぬから底の浅い船でなければならぬ︒安平・打狗も港が悪い︒そこで憂溝に適当の船を持へてやらねばならぬ︒それに就ては彼の会社に相応の利益が無いと特別に船を持へることが出来ぬ︒所で支那の商売をする英国人等が皆株主であるから︑株主総体で彼虞には競争船をやらぬ様にして︑是非会社を成立たせようと云ふ内々の申合せである︑故に運賃が高いと言はれ乍
( 2 6 )
ら︑今日まで一手で営業しつつある︒
と報告されているように︑ダグラス汽船会社の優位は揺るぎがたい
状況にあった︒このように︑日本の汽船会社が進出する以前にあっ
五六
ダグラス汽船会社の壷混航路について ダグラス汽船会社が一八六三年︑一八六四年当時︑香港を起点にどのように嚢潰との間で航運活動を行っていたかの具体的資料として香港で刊行されていた︿ゴ
C h i n
1 ea M a i
l
﹀の船舶入港出港覧から作成したのが︻付表
I I ︼である︒同表によると主にサラマンダー
(S
al
am
an
de
r)
船︱
10トンの英国籍汽船を使って驀湾・香港間
の航運活動が行われていたことが明確に知られるのである︒
棗溝航路におけるダグラス汽船会社と
大阪商船会社との競合
ダグラス汽船会社の豪溝航路の寡占状況に対して︑その状況を打
開する動きが日本側から行われる︒日本の汽船会社による憂溝航路︑
華南航路が開かれるのである︒
それは︑﹃大阪毎日新聞﹄第五五四四号︑明治三二年(‑八九九︶
四月九日に掲載された﹁南清航路最初の成績﹂の記事に見られる︒
大阪商船会社が去る二日より南清航路を開始し︑舞鶴丸は香港
を隅田川丸は淡水を同日を以て解親したること既記の如くなる
が︑此程香港出張所より商船会社に達したる報道に依れば舞鶴
丸の同航路に於ける成績は頗る良好なりし由にて︑同船は香港
より油頭︵スワトウ︶︑腹門︵アモイ︶港を経て淡水に帰航する
ものなるが香港よりの積荷非常に多く︑辿ても船館のみにては
にあ った ので ある
︒
たイギリスのダグラス汽船会社が壷溝と大陸を結ぶ航路の寡占状態
五七
積切れざる為め客室に迄荷積せし程なりしと︒同航路には従来
ドグラス会社の定期船往復しつつあるが該定期船と舞鶴丸とが
同時に香港に入港したるに拘らず︑該定期の方は平素の三分の
二許の積荷なりしのみにて舞鶴の方のみ斯かる成績を見しは右
ドグラス会社は従来同航路独占の姿にて貨客に対する扱振り等
動もすれば粗略に流るる誹もありし折柄︑商船会社船は非常の
勉強を以て之に対抗せしかば︑かくは同港の歓迎を受けたるも
のならんか︒積荷の重なるものは米︑樟脳︑阿片等なりしが︑
就中米の数量最も多きを占めたりと︑但し隅田川丸の方は未だ
何等の報道に接せずと云ふ︒
とある︒大阪商船会社が舞鶴丸と隅田川丸の二隻の汽船を用いて︑
豪溝の淡水と腹門︑油頭を経由して香港に至る航路を開設するので
同社による汽船航運状況に関して︑﹃大阪毎日新聞﹄第五五五七
号︑明治三二年(‑八九九︶四月二二日付けの﹁中橋大阪商船会社
長の 談﹂ によ れば
︑
去る二月十八日を以て南清航路井に豪溝航路等に付き豪溝視察
の途に就きし大阪商船会社長中橋徳五郎氏が一昨日午前福岡丸
にて帰阪したることは昨紙記載の如し氏が往訪の社員に語りた
る談 片左 の如 し︒
◎南清航路隅田川︑舞鶴の二船は本月二日淡水︑香港を互ひ
に出発して初航をなしたるが︑舞鶴丸は香港より満載の好況を
ある
︒
以て初航の途に就き︵右は当時の本紙上に既記せり︶隅田丸は
乗客僅に二十五人ありし外︑貨物は悉無の有様にて淡水を出発
せり︒尤も隅田川丸の不況は淡水港に於る貨物取扱の未だ完備
せざると製茶時節の到来せざりしに由るならん︒元来同航路の
運賃は之を競争者ドーグラス会社のものに比し低廉なるのみな
らず︵尚引下げの計画あり︶︑三井物産会社の貨物取扱に盛疲せ
るあり︒大にドーグラス会社に拮抗せん積りあれども何分守旧
頑迷の支那人相手なれば漸を以てするに非らざれば到底其効な
かるべし︒ドーグラスは資本金百萬園を以て成立し︑当初は汽
船三隻を使用せしが順次増加して今は五隻を以て淡水香港間及
び福州間をも航海し淡水港頭常に同社の船舶をみざることなし︒
去りながら元と淡水︑香港間は両社七隻の汽船を以てして相当
の利益を見る程多額の貨物なき虞なれば︑到底両社の両立する
を許さざれば双方の競争は勢ひ避く可からず︒ドーグラスに取
りては十二萬五千圃の補助を受くる商船会社は随分の強敵なる
べし
︒
とある︒大阪商船会社の中橋徳五郎社長は同社の褒溝航路による状
況を︑これまで豪瀾航路を寡占していたダグラス汽船会社に対して
大阪商船会社は充分対抗できる汽船会社であることを述べている︒
ダグ ラス 汽船 会社 の名 は︑
﹃憂 湾日 々新 報﹄ 第二 九七 号︑ 明治
︱︱
︱ニ
年︵光緒二十五︑一八九九︶五月二日の﹁輪船競利﹂に︑
得忌利士新租花旗之海澄輪船︑日昨由腹門開来淡水︑適我大阪 商船会社之隅田川丸輪︑亦由腹開馳来淡︑彼行遂廣告通衝云゜毎搭一名僅収小洋五角︒又太古洋行新購小輪二艘︑曰順登︑曰順利︒専走腹門・石砥内海両埠頭其他行之小輪︑毎客一名︑照章収小洋一角︑他彼則廣告云︒只収小洋五占︑然則他輪之搭客不見少︑而彼輪亦不加多抑又何也︒
とあり︑﹁得忌利士﹂即ちダグラス汽船会社はアメリカから新汽船
﹁海澄﹂を導入して︑夏門・淡水航路において往来することになり︑
日本の大阪商船に対抗しようとした︒また﹃嚢湾日々新報﹄第三二
三号︑明治三二年︵光緒二十五︑
大坂商船會社︑於日前︑饗我稲江各商人︑得忌利士経有輿聞︑
大有寒心︑誠恐貨物盛付該會社運載︑且愚淡水桟房︑輿各商曾
有麒甑︑遂不免抱一鬼胎︑現経擬議︑亦欲如該會社饗各商人︑
只日 期尚 未詮 定耳
゜
とあるように︑大阪商船会社が新航路開通に向けて台北の稲江の商
人を招いて饗宴を行ったことに対して︑ダグラス汽船会社は顧客を
取られることを危惧したのであった︒
さらに︑大阪商船会社とダグラス汽船会社の激烈の競争が開始さ
れることになる︒﹃大阪毎日新聞﹄第五五七四号︑明治三二年(‑八
九九︶五月九日の﹁大阪商船封ドグラス会社の大競争﹂の記事には︑
従来ドグラス会社独占の航路たりし淡水︑香港間に大阪商船会
社が汽船二隻を以て定期航海を開始せし以来常に好成績を奏し
一八 九九
︶六 月一 日﹁ 大為 寒心
﹂
五八
ダグラス汽船会社の棗溝航路について 就中淡水︑厩門間の如きは目下豪溝の製茶時季に際し居ることて厩門より豪溝に渡航するもの多く随て過日帰航せし隅田川丸の如き乗客五百二十人の多数に上りたること既記の如くなるが商船会社の成績此の如くなるに就てはドグラスも黙視すべきに非らず早晩競争の起るは必至の勢ひと思はれたるが果して昨今厩門淡水間に激烈の運賃競争を惹起し従来乗客一人に付二厠のもの漸次引落して遂に五十銭迄に為れり︒大阪商船にては彼にして尚競争せんには其半額二十五銭迄下引げん意気込なりと右は只厩︑淡間のみなれども両社の意持は尚他の航路にも及ぽすならんと言へり︒扱てドグラス会社にては大阪商船の競争起りてより同社株は次第に債格を下げ︑一時五十八弗︵五十弗払込︶のもの昨今五十五弗を呼ぶに至り︑尚ほ低落せん模様あり︒而して同社株主は大方荷主なるを以て同社今後の景気に依りては或は売退きするものも現はれ︑従て同社は得意先を失ふ虞れありと云ふ︒因に豫てより大阪商船会社淡水出張所の在りて南清航路新造船二隻の設計等に従事し居りし︒小西監督課長は去る六日帰社したれば是より右図面調製に取掛る由︒
とある︒ダグラス汽船会社が独占していた棗溝と福建間の定期汽船
航路に大阪商船会社が隅田川丸を投入して競争を開始した︒隅田川
丸の乗客数が五二0名になるためダグラス汽船会社も驚異を感じて
いたことが知られ︑特に運賃の値下げ競争が予測された︒
続いて︑﹃大阪毎日新聞﹄第五五八0号︑明治三二年(‑八九九︶
五九
五月一五日の﹁商船会社の南清航路に就て﹂によれば︑
在厩門の社友より寄せたる近信中に日く︑厩門淡水間の航路は
従来ドグラス会社の独占にて貨客の取扱等随分不親切なりし為
め︑清商等も彼是不快の念ありし際︑今回商船会社の南清航路
開けてドグラスと対抗するに至りしかば嘗地方の人気は頓に商
船会社に集まり初航路の如き非常の盛況を呈せり︒其結果ドグ
ラスは少なからざる影響を蒙むり︑今は競争の止を得ざるに至
りしより︑姦に奮然運賃の大割引を始め︑市中の各虞に其由を
掲示するなどをささ怠る所なく︑遂に去月二十三日ドグラスの
海澄と商船の隅田川丸が併行して淡水に登航する時の如き︑ド
グラスは淡水乗客の切符を五十銭の大廉価にて賣出せり︒然る
に荘に本邦船の為め甚だ遺憾なるは其船体極めて小にして︑嘗
航路の如き天候常なく頻頻強風激浪の天変ある所には危険少か
らざるのみならず︑之が為め空しく航行時間を長くすることあ
り︒現に隅田川丸初航海の際にも斯る天変ありて︑普通十八時
間の航程に二昼夜の長時間を費し︑乗客は船量の為め非常の困
難を感じたりと云ふ︒之れに反してドグラスは海澄︑海門など
何れも新造堅固の大船にして斯る天変に遭遇するも危険少なく︑
亦航海時間を遅延するの憂ひも少なし︒是れ本邦船が明かに一
歩を彼に譲る所にして︑今後速かに彼と対抗して遜色なき大船
を此航路に廻すに非れば︑仮令一時は人気を博しても久しから
ずして乗客貨主共に安全と速達が得たさに多少の不快あるにも
拘はらず︑再びドグラスに蹄すること必定なり︒要するに此航
路に於て充分奏効せんには船体の改良は第一の急務にして︑尚
ほ其他希望の点は船長以下各船員に充分適任者を選ぶこと︑貨
主及び支那船客を一層丁寧に取扱ふこと︑船長等は努めて外国
人と交際を親密にすること︑会社に於て詳かに支那南岸の商況
を視察し︑本邦商人をして此方面の貿易に一層注目せしむるの
資となさんと等なり云々︒
とあり︑大阪毎日新聞社の腹門の社友からの報告として︑腹門・淡
水間の汽船航路においてダグラス汽船会社は新造の大型船を投入し
てきた︒これに対して大阪商船会社の同航路に投入した隅田川丸は
船舶の積載量からもダグラス汽船会社のものに劣っていたのである︒
一九
0
年︵明治三三年︶頃のダグラス汽船会社の運航状況とし0
て保有船舶並びに香港から豪溝淡水までの貨物運賃に関しては︑
﹃棗
溝協
會會
報﹄
第一
六号
に見
える
︒
﹁賞
業問
答﹂
汽船
の各
運賃
︑﹁
厘門
より
淡水
﹂
﹁ドグラス﹂汽船會社なるものあり︑六隻の汽船を有し︑香港︑
油頭︑厩門︑福州間を航行す︑船名井運賃左の如し︒
壇一︐一八三噸香港・福州間に用う︒六隻中の
巨撃
也︒
南澳
の継
船に
して
︑新
造な
りと
云ふ
︒
南澳は嘗て海壇沖にて沈没す︒或は
云ふ︒海賊の為めに掠奪せらると︒ 海 海
澄未詳 三〇仙四〇仙
海 門
ホル
モサ
海 龍
セー ルス
弗 八二〇噸七八三噸六七六噸六三六噸 香港•安平間香港・淡水間香港・淡水間同上航路に用う︒三隻中最も鮮麗な
り︒
三弗
四弗
七弗 海産物毎撞
一五
仙
一五
仙
三〇仙 六
〇
雑貨毎噸
三弗
四弗
一 弗 半 四
〇 仙
とあり︑ダグラス汽船会社の香港と華南航路に投入された船舶名と
香港から廣東省の油頭︑福建の厩門・福州︑壷溝の淡水に至る貨物
の輸
送運
賃が
知ら
れる
︒
﹃憂溝協會會報﹄第二五号︑明治三三年(‑九
00
)
I 0
月二
0日
発行の﹁雑報﹂に﹁ドクラス汽船会社﹂として次の記事が掲載され
てい
る︒
尚時々臨時船を発することあり︒警へば製茶時期︑米穀収穫
季節
等の
場合
の如
し︒
香港より各港に至る運賃左の如し︒
港 名 マ ッ チ 毎 箱 反 物 毎 噸
至油頭
至腹門
至福州
至淡水七弗
七弗
︵ 訂︶
七弗
同汽船会社が近来悲運に陥り︑遂に去月の総会に於て︑損失の
報告を為せしことは︑別項記載の如くなるが︑今ま同社成立よ
り︑今日に至れる略歴を述べんに︑今を距ること四五十年程前
ダグラス汽船会社の憂溝航路について に方り︑香港に一個の時計商店あり︑ドクラス商会と琥して︑其営業繁盛を極め︑忽ち産を興して有数の大商店とはなりぬ︒然るに其後二十年を経て︑店主ドグラスは︑故ありて郷里倫敦に師住せり︒其香港を去るに臨み︑年来忠実に営業を補佐したる︑店員数名に遺贈するに︑数十萬元の資本を以てしたれば︑彼等は店主の恩に感じ︑之に報いんが為め︑相談して有利なる業を興さんと企て︑遂にテールス外︱二の汽船を購ひ︑香港︑淡水の間に汽船業を始めたり︑現存せるテールス琥こそ︑賓に此時の紀念なれ︒然る程に営業は日に発達して︑前途の企望洋々たりしかば︑其航路を︑福州︑安平等に延長せんと企圏し︑今を距ること十七年前︑更に株式組織とし︑ドグラス汽船会社と稲して︑汽船数隻を増加し︑遂に香港︑壷溝︑福州間に於ける航業を専有するに至れり︑其株主は第一ドグラスブレーク商会にして︑之に亜くものは恰和洋行︑嘉士洋行︑徳記洋行等なりき︒此際の契約にてドグラスラブレーク商会は︑汽船会社永続中総支配役となり︑其報酬として年額一萬元を受け︑且つ香港の代理店となり︑代理店手数料として︑荷客運賃の上り商の三割を受け︑他の恰和︑嘉士︑徳記等の諸洋行︑油頭︑夏門︑福州︑淡水及び安平等の代理店となり︑其手数料として︑各々荷客運賃の上り高の二割を受くべし︑又たドグラスラブレーク商会初め他の三洋行は︑夫々自己の営業あるを以て︑其商品は悉く安債なる割引運賃を以て︑運送することを定めたり︒
六
かうて南清一帯及憂溝の諸航路を専有して︑利を占めしに我大
阪商船會社と激烈なる競争を試み︑外人の株主中︑二様の意見
を生ずるに至れり︑一は商船會社と平和の契約を結び︑航路の
一部を譲りて︑家久に航海業を営まんといふ者︑一は利益の見
込なき時は︑目下の営業及船舶一切を︑賣却せんといふもの是
なり︑殊に支那人の株主は将来を慮りて︑頻りに不安の念を生
じ︑其極後説を唱ふるもの多きに至れり︑然れども大株主ドグ
ラスラプレークを初め各洋行は︑代理店の手数料及び其他より
得る利益多ければ︑株式より生ずる損失は︑峯も之を念頭に置
かず︑是を以て今俄かに其業務を他に賣却するを欲せず︒毎総
会多数を以て︑支那人の株主及小株主の業務賣却説を否決せり︒
然ば株主より生ずる利益を享有するのみにて︑他に荷物運搬上
の利益を有せざる小数株主が︑今日其株式より一の利益を見ざ
るのみか︑損失を生するに至りて︑不平に堪へざるは営然の事
( 28 )
とい ふべ し︒
とあり︑大阪商船会社が華南航路に参入して間もなくダグラス汽船
会社は苦境にあった︒そこで同社の来歴が述べられ︑経営状況並び
に運賃の価格競争に困惑していた状況が知られる︒
さらに︑﹃憂溝協會會報﹄第二五号︑明治三三年(‑九0
0)
1 O
月二
0日発行の﹁雑報﹂に﹁ドクラス汽船会社の損失﹂として次の
記事 が掲 載さ れた
︒
創設以来姦に数十年︑南清諸港及蛋溝等の各航路を独占して︑
客 出 港
貨物
入 港 客 貨 物
久敷利益を襲断せしかのドクラス汽船会社も近来我大阪汽船会
社の劇甚なる競争に逢ひて社運もた前日の如くならざるやに聞
きたりしが︑九月二十九日同会社第十七回株主総会に於ける同
社総支配人の諸報告中左の言ありたり︒以て其現況の一斑をト
すべ きな り︒
保険料金相談委員の報酬監査員の給料及総経費を支出して六
萬五千四百八弗七十九仙の損失となるを以て︑積立金を拾六
萬五千七百七十八弗五十九仙に減額して︑同金額の補填を為
さざる可らざるに至れり︑総支配人及相談役は大に此の甚し
き悲運の結局を悲む︒是全く保護金を受けし棗溝線なる日本
汽船の反対に立ち︑最極貼の低率運賃に規定して之を継続せ
( 2 9 )
しに崎せずんばあるべからす︒
とあり︑ダグラス汽船会社は大阪商船会社との運賃値下げ競争の中
で経営が苦況に陥り︑再建策を検討する事態に至ったのである︒と
りわけ日本政府から補助金を得ている大阪商船会社と競業するのは
極めて困難であった︒
﹃豪 溝協 會會 報﹄ 第一 11 0号
︑明 治三 四年 (‑ 九0
‑︶ 三月 二0 日発
行の雑報の﹁憂溝属門間航路及貨客﹂によれば︑
驀溝腹門間の航路貨客に付︑大阪商船及ドグラス会社の一月中
の統 計左 の如 し︒
名 H
包c
巨 品
H邑
n u n
Fo
rm
os
a
H a i t
a n
T h a '
e s
噸 敷
︱ 二 六 七 六 三 六 六 七 四
︱
︱ 八 ニ
︱
︱ 九 九
往復ノ時期及度敷
一定セサレトモ︑大概一週間乃至九日間ニ︱回嘗
港卜以上各港トヲ往復セリ︒即チ淡水︑安平︑福
州ハ大抵一週間ニ︱回︒油頭経由香港ハ九日間二
( 30 )
一回 ナル カ如 シ︒
とあり︑明治三五年(‑九0二︶当時︑ダグラス汽船会社はH姜巨品
即ち 海澄
︑
H
旦
n目は 海門
︑F or mo sa はホ ルモ サ︑
H巴t目
は海 壇︑
ゴ
1a' es の五 隻の 汽船 を用 いて 香港 を起 点に 華南
︑棗 溝航 路を 運航 し
船 航 会社名
路
ドク ラス
五八
︐四 八七 個 六 五 人 四 六
︐ 一 六 二 個
とある︒明治三四年(‑九
0‑
︶一月一箇月のみの数量であるが︑
出港において乗客数において大阪商船会社とダグラス汽船会社の間
では大差がないが︑積載貨物数では一四倍も大阪商船会社がダグラ
ス汽船会社を圧倒していたことが知られる︒
﹃通商彙纂﹄明治三五年(‑九0二︶第二三二号︑に掲載された在
腹門帝国領事館報告として﹁腹門港出入船舶並其航路﹂の一︑外洋
航汽 路に
︑ 商
船
七一人
一七
︐一 五八 個 一︐ 一八 四個
二九一人︱
ニ︱ 人
﹁ダ グラ ス﹂ 汽船 会社
︵英 翻︶
目下淡水︑安平︑福州︑香港︑油頭間ヲ往来セリ
右各航路二対スル汽船ハ一定セス
六
てい
た︒
ダグラス汽船会社の蛋溝航路について ﹃壷溝協會會報﹄第五四号︑明治三六年(‑九0
三︶
︳︱
‑月
二
0日
発
行の雑報の﹁南清航路の収支﹂によれば︑
現時大阪商船会社対岸航路は淡水香港線︑安平香港線︑香港福
州線︑福州三都澳線︑福州興化線︑腹門石砥線︑履門同安線の
七線にして島対岸間の航路ドグラス汽船海龍琥一艘を以て香淡
間を航行せるのみにて島航海は僅に餘端を保つに過ぎず一時中
絶の姿なりしも聞く所に依れば近日再び航行を始むるとのこと
なるが︑格別の事もあるまじく然るに対岸航路に於ては香港福
州間は不相変同汽船会社の勢力中々盛にして今や島香港間の航
路に於て大阪商船に一歩を輸したりと雖も香福線は容易に譲る
ことなく功を京隅に失したるも桑輸に収めんとする意気込あり
て未だ俄に安ずるべからざるに似たり︒福州興化線は招商局汽
船の航行するあり︒又厩門沿海は各洋行の小汽船競争の姿なれ
( 3 1 )
ば尚今後各線とも競争は持続せらるべしと云ふ︒
とあり︑大阪商船会社がダグラス汽船会社を憂溝航路からほぽ駆逐
して優位に運航していた状況が見られる︒
﹃通
商彙
纂﹄
明治
三九
年(
‑九
0六︶第二五号に明治三九年三月二
七日付けにて在福州帝国領事館報告として﹁福州方面二於ケル各種
汽船航路概況﹂の﹁一本邦汽船航路﹂①香港上海間航路に︑
福州香港間ノ航路ハ常二片荷勝ニテ香港ハ清國へ輸入スル各國
貨物ノ取次地ナルガ故二︑香港ヨリ嘗地へ輸送セラルル外國雑
六 貨ハ可ナリノ数量二上リ︑且嘗港ノ入ロハ頗ル不便ナレバ︑香港ヨリ嘗港ヘノ運賃モ自然良好ナリト雖トモ︑其蹄荷トシテ嘗地ヨリ香港へ輸出スル貨物頗ル少ナク︑夏期僅カニ茶ノ一種アレトモ是ハ欧米向ノモノヲ香港二於テ積更ヘノ目的ヲ以テ輸送スルモノナレバ︑若シ運賃高ケレバ寧口茶ノ目的地へ向フ汽船ヲ直接寄港セシムルノ便利ナルニ如カズ︒随テ此運賃ヲ自ラ制限ヲ被ル謁ナリ︒然ラバ属門油頭ハ如何卜云フニ︑嘗港卜産物ノ交換セラルルモノ少キノミナラズ︑之等二港卜香港トノ関係モ略営港卜香港間ノ関係卜相似タレバ︑此航路ハ香港ヨリ営港二来ル場合コソ相嘗ノ貨物ナキニ非ルモ営港ヨリ香港へ向フ貨物上記ノ如クナレバ︑到底収支償ヒ難キ性質ノモノナリト云フ︒況ヤ此航路ニハ従来﹁ドグラス﹂會社ガ久シク海壇︑海澄ノニ船ヲ以テ敏速二航行シ︑外國商人ノ貨物ハ多ク﹁ドグラス﹂船二依ル姿ナルガ︑之ニテモ尚﹁ドグラス﹂社ハ収支動モスレバ償ハズ︑早晩此航路ヲ廃スルノ止ムヲ得ザルニ至ルベシトノコトナレバ︑商船會社ノ如キハ僅二政府ノ補助金二依テ此航路ヲ
( 32 )
持続シ居ルノ姿ナリト云フ︒
とあり︑ダグラス汽船会社は福州に居住する外国商人の間で香港ま
での航運に利用されていた︒ただ︑香港から福州までの積荷は多い
が︑逆に福州から香港への貨物が少なく汽船航運業としては有利な
航路ではなかった︒さらに同報告の﹁一外國汽船航路﹂には︑
現在嘗地方ヲ航行スル外國汽船ノ航路は前記ノ福州香港間︵﹁ド
グラス﹂︶會社上海福州間︵招商局及印度支那航業會社︶及夏期
二限レル三都航路ノ三航路ニシテ其他ハ内河航行規則二依ル航
路ナ
リ︒
① 福 州 香 港 航 路
此航路ハ﹁ドグラス﹂會社ノ営業スル虞ニシテ嘗地二於ケル代
理店ハ義和洋行ナリ︒同會社ノ此航路二使用スル汽船ハ海壇︑
海澄ノニ隻ニシテ︑各総噸敷約千五六百噸︑十二哩ノ速カヲ有
シ︑毎四日目毎二香港福州ノ両地ヲ登スルノ仕組ニテ船操ノ都
合宜シキ為メ商船會社二比シ貨物ヲ得ルコト蓬カニ多シト云フ︒
然レトモ此航路ハ前記セル如ク片荷航路ナレバ収益少ク︑夏期
ヨリ秋二掛ケテハ代理店ナル義和洋行ハ英國商丈二外國商人ガ
香港へ積替ノ目的ヲ以テ送ル茶ノ輸送ヲ引受クルコト多ク︑商
船會社二比シ有利ノ地二立テ居レトモ︑尚年々ノ収益極メテ少
ク早晩會社解散ノ運命二逢著スベシト一般二信ゼラルルノ虞ナ
( 3 3
リ )
とある︒香港・福州間の汽船航運業は︑香港から福州向けの貨物が
多いのに対して︑福州から香港へのそれは少なかった︒そのためダ
グラス汽船会社は海壇と海澄との優秀な汽船を保有していたものの
政府の援助を得ている大阪商船会社との競争には不利であった︒
その後︑ダグラス汽船会社は間もなく壷溝航路から撤退したが︑
再び憂溝航路の復活を計画していた︒
さらにダグラス汽船会社と大阪商船会社との競業は激烈化し︑明 治三九年(‑九0六︶八月一三日発行の﹃通商彙纂﹄明治三九年第
四八号に︑﹁福建憂溝間ノ我ガ航路二対シテ﹁ドーグラス﹂会社ノ競
争開始﹂の記事が掲載されている︒
従来淡水ヨリ厩門ヲ経テ香港二至ル航路ハ︑先年大阪商船会社
ガ﹁ドークラス﹂会社卜競争ノ末︑該会社船ヲ駆逐シテ以来商
船会社ノ独占二帰シタルノミナラス︑商船会社ハ昨年ヨリ淡水・
厘門・福州ノ三港ヲ一周スル三角航路ヲ開始シ︑是亦該社ノ独
占タリシガ︑近来商船会社ハ従来ノ使用船大仁丸︑大義丸ノニ
隻ヲ引揚ゲ北清へ廻ハシ︑之等ヨリ小形ナル馬山丸︑城津丸ヲ
以テ代船トナシタル為メ︑従来ノ荷客運搬カヲ減少シタル為メ
カ︑此機二乗シ﹁ドーグラス﹂会社二其持船海門競︵総噸数九
百噸内外︶ヲ履門ヨリ淡水二回シ競争ヲ開始セシ由ハ︑此程信
聞セシ所ナリシガ︑該社ハ右海門眺ノ航路ヲ更二延長シ夏門ヨ
リ福州ヲ経テ淡水二回航シ︑更二厘門二帰航シテ香港二至ル計
画トナシタルト見へ︑右第一航海トシテ海門琥ハ本月十一日福
州ヨリ淡水へ向テ出帆シタリ﹁ドーグラス﹂社ノ此ノ度ノ計画
ハ永久的計画ナリヤ︒又ハ十分ノ用意ヲ以テ商船会社卜対抗ノ
意想ヲ以テ開始シタルモノナルヤ︑現今ノ情態ニテ未ダ其真想
ヲ窮知スル能ハズト雖トモ︑場合ニョリテハ商船会社ノ香港航
路及三角航路モ多少ノ影響ヲ蒙ルヲ免レザル可ク︑之レニ対シ
テ商船会社モ已二用意ヲ為シ︑従来月三回ノ香港航路及ヒ三角
( 3 4 )
航路ヲ等シク四回二増加シテ対抗ノ準備ヲナシタリト云フ︒
六四
ダグラス汽船会社が再び棗溝航路に参入することを伝えているの
であるが︑﹃壷湾日々新報﹄第二四七九号︑明治三九年(‑九0六︶
八月四日付け﹁福州通信︵三十九年七月三十日発︶﹂によれば︑
海門琥の淡水直航中止ドグラス会社汽船海門琥は大阪商船会
社と競争して淡水直航路を開始し︑大阪商船の貨客を吸収せん
と尽力せしが︑海門琥は出帆の広告を為したる翌日卒然是を取
消し︑更に厩門︑油頭︑香港行に改正したり︒其後探聞する所
に撼れば︑同船は淡水に於ける代理店より出茶見込なしとの電
報に接し︑俄に航路を変更したるものにして︑今や福州︑淡水
間の於ては競争すべき擬勢を見受けず︒只淡水︑腹門間及香港︑
福州間は依然として対抗を試みつつあり︒
とあるように︑ダグラス汽船会社は再び壷溝航路の復活を希求して
いたが︑憂溝淡水より積み込む予定の茶葉貨物の量が予想のように
集荷出来なかったため欠航にしたことが報じられている︒
大阪商船会社が棗溝航路に参入してくる経緯を﹃大阪商船株式会
社五
十年
史﹄
によ
れば
︑
明治二九年(‑八九六︶五月一日に大阪壷溝線を開始する︒
明治三0年(‑八九七︶四月一日より蛋溝総督府の命令航路を
開始
する
︒
とあ
る︒
ダグラス汽船会社の蛋溝航路について 豪溝直航線寄港地一神戸・宇品・門司・長崎・基隆一使用隻数言隻一航海回数=︱ヶ月三回一 沖縄経過豪溝線
六五
寄港
地一
①神
戸・
鹿児
島・
大島
・沖
縄・
基隆
②神戸・門司・三角・沖縄・基隆
③神
戸・
鹿児
島・
沖縄
・八
重山
・基
隆一
使用隻数一四隻一航海回数=一ヶ月三回一
豪溝東廻沿岸線
寄港地一基隆︑蘇澳︑花蓮港︑卑南︑南湾︑車城︑打狗︑
安平
︑彰
湖島
︑基
隆一
使用隻数西隻一航海回数︱︱ヶ月三回一
壷溝西廻沿岸線
寄港地一基隆・彰湖島・安平・打狗・東城・花蓮港・蘇
澳・
基隆
一 使用隻数乞隻一航海回数︱︱ヶ月三回一
基隆支線寄港地一︵基隆塗葛窟線︶基隆・淡水・大安・塗
葛窟
一
使用隻数︱二隻一航海回数一四回一
明治三一年より新造船壷中丸︑豪南丸の二隻を憂溝航路に使用
明治三一年三月より宇品経由神戸基隆線を開く沖縄経由神戸
基隆線を打狗に延長
明治三七年(‑九0四︶日本郵船株式会社も豪溝総督府より航
海補助金を受けて神戸基隆間の航路を開設︒
( 35 )
明治三八年四月淡水福州線︵四十二年一月廃航︶を開始
とさ
れて
いる
︒
この時期に︑憂溝航路に大阪商船会社が投入した汽船は︑﹃創業百
年史資料﹄﹁船舶所有船舶一覧表﹂によれば︑次の各船である︒
大仁丸一五七六総トン明治三三年九月進水川崎造船所 大義丸一五六八総トン明治三三年︱二月進水大阪鉄工所 馬山丸︱二四四総トン明治三九年六月二五日竣工
三菱長崎造船所
城津丸︱二四四総トン明治︱二九年六月二日竣工
( 36 )
三菱長崎造船所建造
大阪商船会社が︑憂溝航路を憂溝総督府の援助を得て開設した根
拠は︑豪溝総督児玉源太郎が発布した﹁命令書﹂であった︒
第二
号﹁
命令
書﹂
第一号壷溝総督府ハ壷溝卜清國東部地方間二於ケル運輸交通
ノ利便ヲ圏ルカ為︑其会社へ左ノ定期航路ヲ為スコトヲ命ス︒
淡水ヨリ腹門︑油頭ヲ経テ香港二至ル航路︑三月ヨリ八月マデ
ハ毎月往復四回九月ヨリニ月マデハ毎月往復三回︵以下略︶
明治三十二年三月二十七日
( g
壷溝総督児玉源太郎
とあるもので︑明治三二年(‑八九九︶棗溝総督府は豪溝と中国大
陸沿海地域を結ぶ定期汽船航路の開設を望み︑台湾北部の淡水と福
建の厘門︑廣東省の油頭を経由して香港に至る運輸交通手段の確保
を切望していたのであった︒
その結果︑大阪商船会社は︑しかし︑ダグラス汽船会社は︑豪溝航路を放棄しても香港を起点 領憂前より英商ダグラス汽船会社が壷溝南支那間の航運権を独占し︑領棗後も尚引続き香港・油頭・厩門・安平間に定期航路
( 38 )
を経営して大いに活躍して居た︒
と︑蛋溝航路とりわけ壷溝から香港に至る定期汽船による華南航路
の開設と運航に積極的に乗り出すことになる︒そして︑
総督府も亦対岸に於ける我国汽船の航路網開設の緊要たるを認
め︑三十二年三月命令航路として淡水香港線を営社に指令した︒
荘に於て嘗社は同年四月より同航路を開設してダグラス汽船と
激烈なる競争を開始したるが︑引績き同総督府の命令航路とし
て三士二年四月安平香港線︵現在の高雄広東線︶︑同年五月福州
三都澳線︵三十八年三月廃航︶︑同年十月香港福州線︵大正四年
三月廃航︶︑三十四年三月福州興化線︵明治三十八年三月廃航︶
を開航し︑以てダグラス汽船の勢力圏内へ徹底的に進出した︒
⁝流石のダグラス汽船も嘗社の威力に抗し得ず︑先づ安平香港
線を放棄し︑三十五年末には遂に淡水香港線を中止するの已む
なきに至り︑南支那航路に於ける営社の基礎は愈々翠固となっ
( 3 9
こ ︒ )
t
とあるように︑大阪商船会社は壷溝総督府の後援を得て壷溝から中
国大陸華南沿海部を結ぶ航路を拡張し︑ついにダグラス汽船会社は
明治
一二
十五
年(
‑九
0二︶末には棗溝航路を放棄させるに至たるの
であ
る︒
六六