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「芦屋道満大内鑑」子別れの場の独吟曲

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(1)

「芦屋道満大内鑑」子別れの場の独吟曲

一㌧ はじめに

歌舞伎の劇中で演奏される独吟曲・両吟曲には、同じ趣向や場面で使用される曲が、

上演の度に'①曲名も詞章も同じ場合、②曲名は違うが詞章は同じ場合'③曲名も詞

章も異なる場合、の大き‑三種類ある。現在はほとんど①であるが'長唄正本など江

(

) ( )

(

)

戸期の資料を見ると、①の例としては、「無間の鐘」「五大力」「ゆかりの月」など'②

ヽ・Ill

の例

とし

ては

'「

廓夜

桜」

「目

狭笠

」「

対編

笠」

 (

以上

'鞘

当の

場)

 「

春野

辺桜

枚」

「桜

(

)

(

6

)

上岩

藤」

(以

上'

骨寄

せの

場)

など

'③

には

「鏡

山旧

錦絵

」尾

上書

置き

の場

の独

吟曲

'「

屋造酒大内鑑」子別れの場の独吟曲などがある。しかし'これら三つの違いを決定づ

二こけるものは何か'また'②や③も今は大体一つの詞章と曲名に落ち着いているがう そ

の定着の時期はいつなのかt といった'趣向や場面と曲の関わりについては未解明の

部分が多い。そこで、まずは趣向・場面毎の検討を行わなければならないが、③につ

: ca :

いては前回「鏡山旧錦絵」を取り上げて江戸・東京を中心にその変遷過程を調べ'そ

の結果、天保〜寡永期にはすでに現在とほぼ同じ詞章に定着Lt 調子が変わってさら

に短縮したものが今日使用されているt ということがわかった。そこで今回は'同じ

③の内、似たような変遷を辿る「芦屋道満大内鑑」を取‑上げて今日までの具体的な

変遷を見ることにしたい。

二へ 「芦屋道満大内鑑」子別れの場における独吟曲の変遷

「芦屋道満大内鑑」は享保十九年十月大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演され、歌

舞伎ではその翌年の享保二十年二月に京・中村富十郎座で初演された。全五段で、そ

の内よく上演されるのは'四段目の子別れを中心とした部分'つま‑'安倍保名に助

けられた自狐が保名の許婚葛の菓姫の姿を借り'保名との間に一子を儲け、本物の葛

の菓姫が現れたため、泣‑泣‑わが子を残して去る、という場面である。中でも'「恋

しくば尋ね来てみよ和泉なる信田の森の恨み葛の葉」という一首の唄を障子に書き残

す所では'逆さ書き・裏文字・左手書き・口書きなどの曲書きが大きな見せ場になり'

そこに独吟を使っている。

L ii i

i Z

次に'昭和六十年七月国立劇場で'二世中村扇雀(現三世腐治郎)が葛の葉を演じ

た時の上演台本からその部分を抜き出してみよう。

葛の菓 しょせん泣いても返らぬことOせめて名残りに、夫へ一卜筆。そうじゃ

̲,J

独吟(憂きふLは'しげき信田の森の露。こぼれて結ぶ、夢だにも。

この間'道具半まわし。よろし‑憂いのこなし。

独吟(叢らの床の草枕、筆にいわせて置く露の、涙の袖に白菊の、

これにて、葛の葉は硯を取‑'あつらえの歌を書‑。よき時分、

童子'目をさまし、

童子  かかさまいのう。

葛の葉の傍へ行‑を抱きあげて、

独吟(乱れて野辺の噂‑虫も、こがれて燃ゆる狐火や.

尋ね来て見よ'恨み葛の葉。

よろし‑書き終り'

葛の菓 ハア‑0

泣き伏す。

(思わず'わっと泣‑声に'保名'かしこを走り出で'

現在は'ここに「独吟」とある詞章を使っている。ただし、享保二十年に歌舞伎で

初演された時の台帳(阪急池田文庫所蔵 ﹃歌舞伎台帳集成﹄第二巻に翻刻あり) には

独吟の指定が無いので'独吟は再演以後使うようになったのかもしれない。この場面

の独吟の使用がはつき‑わかるのは'初演から約四十年後の安永八年である。そこで'

それ以降の独吟の変遷を見てい‑ことにしよう。

(‑

) 

詞章

の変

遷期

子別れの場の独吟は'江戸・上方の両方で使用されてきた0 1番具体的な資料であ

(2)

る長唄正本は江戸上演のものしか残っておらず、また上方上演の資料は上演年月場所

などが特定できない台帳のみt といった資料的な偏‑や問題があるが、双方の交流の

中で今日の形に定まってきたと思われるので、上方の場合は推定年月を使い、江戸・

上方を合わせて年代順に変遷を見ることにする。なお、めりやすの曲名下の( )内は'

内題及び内題に付随する記載である。

A安永八 二七七九)年九月市村座「芦屋道満大内鑑」

めり

やす

「筆

の跡

」 

(め

‑や

す「

筆の

跡」

)

三下‑「はてとまたいづれかつきぬあふ瀬川袖にもふちとなりやせん 合 涙わ菊の

露ならめいとF,,心の乱れ菊いとし小ぎ‑をふり捨て 合 (硯の水のかわ‑まも流れ

よるへの 合 むつこともア、はつかしやさりともとおもひし中の契りさへ今はたの みもなき身そとおしむ別れの恋し‑はたつねきて見代筆のあと

三世瀬川菊之丞が「しのた森‑(す) のは」を演じた時の長唄正本(日吉小三人民

所蔵 図版A) による。調子は三下り。演奏は、長唄が中村兵治、三弦が初世杵屋正

次郎

・初

世杵

屋巳

太郎

(二

世弥

十郎

) 

であ

る。

B享

和二

 (

一八

〇二

) 

年九

月市

村座

「梓

歌恋

自浪

」第

二番

目「

信田

妻名

残狐

別」

中幕

めり

やす

「葛

裏葉

」 

(め

‑や

す「

葛真

実」

五瓶

述)

三下り(野辺にさ‑ちぐさにち',Jのおもひぐさ 合 なにしらつゆのおき 合 わ

かれにしきぬぐの 合 と‑はものかはこととはんまたのあふ瀬はさだ 合 めな き 合方 (こゝろは‑もる月はすむ 合 しのぶなみだにしぐれして身をかこちた るそでたもと

Aから二十年ほど経った享和二年の長唄正本 (早稲田大学演劇博物館所蔵 イ11

‑o

t‑

H<

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‑i

cm

‑o

co

cN

ip

q 

図版

B)

 に

よる

。前

年の

享和

元年

に三

世瀬

川路

考を

襲名

たばかりのAと同じ三世菊之丞が「‑ずのはぎつね」を演じた時の曲。調子はやはり

三下りだが'曲名や詞章・合の手の数などはAと違っていて'「鏡山旧錦絵」書置きの

()独吟と同じ‑役者は同じでも曲は作り変えていたことがわかる。長唄は二世芳村伊≡

郎'三弦は錦屋惣治・杵屋政太郎二一世杵屋弥十郎。

C文

政五

 (

一九

二二

)年

九月

市村

座「

芦屋

道満

大内

鑑」

三幕

目「

安倍

野機

屋の

場」

葛の 〜さはきりながら、せめて保名さまへ名残‑の一筆。オ\ そうぢや。

‑これよ‑独吟にな‑、葛の菓'愁ひの思ひ入れ。硯箱を出す。

めりやす(浮世なれ'今はなまなか夢とも消えて'結びし緑の解けかぬる'胸

のしがらみせき来る思ひ、情は仇か添寝のきぬを、そつと其まゝ肌

・ 」/ ‑ き 。

ト浄瑠璃になり

(目覚めし童子を抱き上げO

トこれにて、葛の葉、童子を抱き上げ'口筆になる

めりやすへ袖の犀風にいとふ風も、後に心や引かされて'

うつら ‑ につい時移る、果てしないぞや女気の

(繰‑返し見る葛の菓衣

卜独吟のうち、上の障子へ'いろ ‑ 口筆あって、トド童子が顔を見て

とは云ふものの、これが振‑捨て'なんと古巣へ帰られう。最早別れか。

悲しやなア。

(離れ難なや此方寄れと'抱き上げ抱きつき、抱き締めて'思はず

はつと泣‑声に'保名一間よ‑走‑出で。

Bよりさらに二十年後の文政五年に三世市川門之助が「葛のうらみ狐」を演じた時

の歌舞伎台帳(原本の所在は不明。﹃日本戯曲全集﹄ 二十六巻に翻刻あ‑)。ここに出

ているめ‑やすの詞章も'やはり今までの二曲とは違う。ただし'曲の使い方につい

ては'「目覚めし童子を抱き上げ」 の浄瑠璃で'前半一旬'後半二旬の二つに大きく分

かれているので'二つのうたがっこで分かれるAの「筆の跡」 やBの「葛裏葉」もこ

れと同じような使い方をしたのかもしれない。

D天

保八

 (

1八

三七

)年

三月

前後

(推

定)

 「

芦屋

道滞

大内

鑑」

子別

の段

葛 〜せめて一筆我住家を我子の為に残し置ん

ト是より独吟狐火の寄にて女房どふじを下に寝させ硯箱取此時木なし

にて道具下手へ引此道具の続にてはたやよ‑上手一間のセうじに成

ルトこれより口文字有べし

この

台帳

(松

竹大

谷図

書館

所蔵

 w

‑^

in

‑<

&

<n

‑イ

2)

 に

は、

上演

年月

日・

座名

配役等がないので上演を特定することができない。しかし'各場面の「舞台書き」が

上方で慣習的に使われている「造り物」という言葉で始まっているため'上方と推定

した

。ま

た'

裏表

紙に

は「

天保

八年

丁酉

松鰻

亭」

 の

墨書

があ

り'

「難

波八

幡屋

」「

白井

蔵書」などの印が押されている。この松組亭は当時の上方の狂言作者「松鰻亭助(捕)」

のことであろう。また'印の「難波八幡屋」は、八幡屋の屋号を持ち難波の大夫と言

( 2)

われた二世中村富十郎のことではないか、との見解を児玉竜一氏から御教示いただい

た。その二世富十郎は文政から弘化にかけて少な‑とも三回葛の葉を演じてお‑'天

保八年に1番近い時期では天保九年九月大坂中の芝居で上演しているので'そうした上演のために書き写されたのかもしれない。

(3)

ここには'障子に一首を書き残す時「独吟狐火の寄ニテ」とある。もし二世富十郡

だとすると、例えば天保七年正月大坂中の芝居上演「花魁答八総」 (﹃日本戯曲全集﹄

二十五巻に翻刻あり) で伏姫を演じた時、地歌「梓の露」 の詞章をほぼそのまま使っ

「\ているので、この「狐火」も地歌「狐火」を使った可能性が考えられる。

E天

保十

四 

(一

八四

三)

年九

月市

村座

「画

≡艶

偽毒

(め

り安

「玉

散露

」 

杵屋

勝五

郎述

)

三下‑(,つきふLはしげきしのだのもりの露 合 おちてこぼれてこぼれすへはそで

に 合 ながるゝなみだ川せきとめかぬる 合 思ひをば工、なんとLやうどうLや うぞいナ 合 いへばゑに 合 いはねばはれぬむねのやみ 合 ふでにのこして ことのはの 合 跡をかたみとさぞやさぞたづねたづねんゆくすへはそことしらぎ

く 合 おきまよふ霜のくづの葉うらみかづ ‑   (刊記) 天保十四発卯九月

初世坂東しうかが葛の葉を演じた時の長唄正本 (国立音楽大学附属図書館竹内道敬

寄託文庫 Of OOOVD^) による。表紙が欠けているため演奏者は不明。曲名も内

題のみが判明している。内題下の杵屋勝五郎述とあるのは二世勝五郎のこと。調子は

やはり三下りだが'詞章は異なっている。ただし'冒頭の「うきふLはしげきしのだ

のも‑の露」は現行曲の唄い出しと同じである。

F嘉永五 二八五二)年七月河原崎座「芦屋道満大内鑑」第二番目序幕

めりやす「おく露」 (めりやす「置露」 葛葉舎述 杵屋勝五郎調)

三下りへ嵐ふくしのだの森の八重むぐら 合 茂る野末に置露のかわ‑間もな き 合 おきふLに 合 野分をいとふ月見草おちて 合 こぼれてア、合 つ

ま恋し 合 仇にそい寝の 合 いとし子を 合 ねんねこせ ‑ 合 袖のびやう

ぶにもる風の身にしみそへて 合 する墨の筆にいわせるうたかたのあわれなみだ

の 合 和泉川胸のにごりのうらみ葛の葉  (刊記)嘉永五壬子初秋狂言

三世嵐璃寛が「狐葛の葉」を演じた時の長唄正本(国立音楽大学附属図書館竹内道

敬寄託文庫 図版C) による。三世璃寛は京都生まれの上方役者で'上方で度々葛の

葉を上演している。安倍の童子は江戸生まれの初世沢村由次郎(三世沢村田之助) で

この時八歳。三下りだが、詞章はやは‑異なっている。ただし'詞章の最後の「うら

み葛の菓」という文句は現行曲と同じ。この最後の文句は、ちょうど舞台で「恨み葛

の菓」と書き終わる時に合わせて唄うので、早‑から'障子に書‑文字と同じ文句が

曲の最後に定着したのかもしれない。演奏は'長唄が瀧村音蔵(二世富士田音蔵)'三

味線は二世杵屋勝五郎・岡安源次郎・杵屋歌音蔵である。 G明治十四

璃寛

璃寛

子役

璃寛

璃寛

(一

八八

二年

九月

市村

座「

橘春

狐葛

菓」

そうじゃ ‑     独吟 (浮き伏し  引なかし

手拭を投げる‑   薄ク水の音 見斗

か ゝ さ ま い の う 左で書きはじめるト

恨みと書‑‑

床  はたと捨て 二の句 引ながし三の句 引なかし上ゲ

どろ ‑ 見斗

これは、四世嵐璃寛が葛の葉を勤めた時の付帳(杵屋栄二旧蔵付帳113 杵屋栄

二旧蔵付帳は国立劇場所蔵) による。この璃寛はFの三世璃寛の子でやは‑上方役者。

葛の葉は上方で度々演じた当り役の一つである。この時の付帳にも「嵐璃寛丈(中略)

二番目は葛の菓姫と狐の二役を勤め大好評を博せり」 の記載がある。ここには(浮き

伏し」という冒頭の句しか記載されていないが'Eや現行曲と同じ唄い出しであることが注目される。

H上演年月不明「産屋道満大内鑑」三つ目保名住家の段

〜せめて夫トへ産みの一首そふじや ‑

ト誹のつゐ立を正面に直し硯を引寄こなし有て筆をとり上ル 独吟に

成る

り夕(摺墨の音さへ忍ぶ筆の跡染て箆といとし子の合すへ白露の憂思ひ

別れやつらききぬ ‑ に今更心ひかされて放れがたなき夜ルの鶴

卜此苛のとまり迄に握り筆にして恋し‑ば尋ね来て見よいづみなるト

文字にて書と童子目覚しな‑ゆへつゐ立の傍へつれて行吹キ付て寝

さそふとしても寝ぬゆへゼひな‑抱きあげて筆を口に‑わへて

り夕(焼野の雅子な‑音さへむ‑らの宿に帰る身の

袖は露そふ千枝かもと今は信田の恨み葛の菓

卜独吟とまる迄に口文字にて倍の田の森のうらみ葛の葉と見事に書仕

舞ふて童子をそっと下に置きいろ ‑ こなし有る。

この

台帳

(早

稲田

大学

演劇

博物

館所

蔵 

ロ 

Hォ

LO

'‑

HC

O)

 に

も'

Dと

同じ

‑上

月日・座名・配役等がないので上演を特定することができない。しかし、Dと同じ理

由で上方と推定した。また'この表紙には、「言彦文庫」 の印'裏表紙には「勝諺蔵」

の印がある。この印は明治期に主に関西で活躍した狂言作者の三世勝諺蔵のものと考

えられる。さらに、裏表紙にある墨書の「市川」は'勝諺蔵の作品に度々出演した市

川右団次の可能性があ‑、右団次が明治二十一年九月に大阪角劇場で演じた時の作者

として、この諺蔵の名が番付に出ている (その時は竹柴諺蔵) ので、その台帳の可能

(4)

性もありそうだ。

この詞章も今までのものとは異なっている。ただし'最後の文句「恨み葛の葉」は

三世璃寛のFや現行曲と同じである。なお、この台帳ではt cやDと違い'障子では

3 E

な‑'衝立に文字を書‑時に独吟を使っている。

以上'江戸・上方の独吟詞章の手がかりを残す資料を並べてみた。その結果'明治に入ってもまだ全詞章の固定化を見ることはできなかった。ただし'冒頭や末尾には

天保期あた‑から類型性が見られ'詞章は変遷しながらも'部分的に定着してきたこ

とが伺える。

(2

) 

団十

郎の

「信

田妻

しかし'明治二十四年三月歌舞伎座で「芦屋道満大内鑑」が出た折'葛の葉を演じ

た九世市川団十郎が使用した独吟曲は'その後しばら‑定着し'現在もほぼ同じよう

な詞章を使っている。その団十郎の使った独吟曲はどのようなものだったのだろう。

正本

は未

見だ

が、

台帳

(早

稲田

大学

演劇

博物

館所

蔵 

ハL

O<

」>

‑C

OO

)が

残っ

てい

るの

で'

次に曲書きの部分を抜き出してみよう。

〜所詮泣ても返らぬ事せめて名残りに只一筆そふじや ‑

ト是より独吟に成‑

唄TっきふLは繁き信田の森の露こぼれて結ぶ夢だにも

もぐらの床の草枕筆にいわせてお‑露の渦は袖に白菊の

ト此内正めんの障子へロ文字を書‑事よろし‑

是が別れかワア、

○ 竹(思わずわっと泣き沈めば伏たる童子が目をさまし

童 かゝさまイのふ

竹(母は驚き抱き上ケ声もしどろに子守唄

葛 

ねん

 ‑

 ね

んこ

ろね

ん 

‑ 

よ 

竹(ねんねが守はどこへ往た山を越へて里へ往った

トよろしくあって又唄に成り

唄(乱れて野辺に泣く虫やたづね来て見ようらみ葛の案

下 よ ろ し く 書 終

今が別れかハア、

「思わずわっと〜 このように独吟の詞章が書き込まれ'同じ時の付帳(杵屋栄二旧蔵付帳 (NOl) にも使用する曲名とキッカケの後'最後に「機屋独吟」として詞章がまとめて記載されている。さらに'当時のものと思われる速記譜が﹃邦楽の友﹄ 昭和四十八年四月号に紹介されてお‑'この時の具体的な音を知ることができる。その速記譜は、譜の中に作曲者として名前の出ている三世杵屋正次郎の長男'三世杵屋彦次郎(後四世正次郎 明治三年頃〜昭和十五年) が書き残したものだそうで'「信田妻」という曲名も記載されている。(以後、団十郎の使った葛の葉の独吟を「信田妻」と呼ぶことにする。)調子の記載は無いが'同誌同年一月号に出ているこの速記譜の解読法に従うと、二上りの開放弦の音が多用されていることがわかる.また'昭和十1年に﹃三味線楽﹄八月号でこの曲が文化譜として紹介された時も'速記譜をこの﹃邦楽の友﹄ に紹介した杵屋栄左衛門氏が復元した時も二上‑になっている。そこで'栄左衛門氏の復元譜を五線譜に直したものを ︻譜①︼とした。

ところで'三味線の調子に注目すると'<mwiJHの正本はすべて三下‑だったが'

この曲は二上りで作曲されている点が大き‑違う。子別れという寂しい場面には'三

下りの方が合っているような感じがするが'なぜわざわざ二上りにしたのだろう。︻譜

①︼ bの部分が「説経ドメ」と呼ばれる旋律型であることに'手がか‑が残されてい

るようだ。

この狐の子別れの場面は、説経として語‑継がれてきた歴史がある。それを役者'

あるいは作曲者が意識した結果'説経の旋律を入れるため'長唄の「説経」 に使う二

( 2)

上りで作曲したのではないか。そしてう その具体的に取り入れた旋律がbということ

になる。なお、明治期に行われていたのは、寛政期頃に再興されたいわゆる後期説経

であるが'当時'長唄で説経を使ったと言われる部分は'再興以前の明和二年に説経

の技法を大き‑取り入れて作曲されたとされる長唄「夜鶴綱手車」 の旋律と共通する

( 3)

ことが多い。「信田妻」 のbも'正本に「セツキヤウトメ」と書かれた「夜鶴綱手車」

a 順e

の最後の手と同じである。正次郎は明治二十年にやは‑説経を取り入れた「横笛」を

1 )

作っているので、説経を使った作曲には習熟していたであろう。

また'二上‑にした結果、もう一つこの芝居に関わ‑の深い旋律が使われている。

それは'︻譜①︼ aの約四小節で、これは陰輝子で使う在郷唄「臼ひ‑たびに」などに

見られる旋律である。在郷唄もこの芝居には不可欠な陰嚇子で」 この明治二十四年の

団十郎は'幕明や人物の出入‑に「隣‑柿の木」という在郷唄を使っている。在郷唄

は普通二上‑なので引用したのだろう。短い独吟曲ながら'こうした象徴的な昔の使

い方に新しさを感じる。

なお、この「信田妻」をどのように劇中で使ったかについては、台帳や付帳、また'

( E

= ) ( 3 )

六二連による「歌舞伎座略評」'杉贋阿弥の記述などを組み合わせることで'かな‑具

(5)

体的に捉えることができる。こうした文献によって、口文字を書かず仕掛けで文字が

出るように工夫したという団十郎の新演出が広‑伝えられているが、そこに使う独吟

までが'それまでの三下りのめりやすとは違った説経風の新感覚のものだったことを

考え合わせると、従来に無い演出や音を要求したと言われる団十郎のイメージがより

鮮明になるような気がする。

(3

) 

詞章

の定

着期

なお、九世団十郎が葛の葉を演じたのは、明治二十四年三月の一回限りだったよ

うだ。それでは'団十郎より後のこの場面の独吟曲は、どうなったのだろう。明治

三十四年五月市村座で二世市川女寅(六世門之助) が葛の葉を演じた時の付帳(六合

新三郎旧蔵付帳 イー0>蝣‑iC‑ 六合新三郎旧蔵付帳は早稲田大学演劇博物館所蔵)'明

治三十五年十一月市村座で五世中村芝翫(五世歌右衛門) が演じた時の付帳(六合新

三郎旧蔵付帳 イーooooin)'明治四十一年十一月歌舞伎座で五世芝翫が演じた時の付

悼(

杵屋

栄二

旧蔵

付帳

 (

NI

NO

) 

には

'す

べて

「信

田妻

」と

同じ

詞章

が記

され

てい

る。

特に'明治四十一年の付帳には「二上り」という調子の記載があるので'団十郎と同

じ曲を使っていた可能性が高そうである。

また'その後大正五年九月新富座で四世中村芝雀が演じた時の付帳(杵屋栄二旧蔵

付帳cMtoCO) には詞章の一部分しかないが'同じ四世芝雀が大正六年十月大阪の浪花

座で

三世

雀右

衛門

を襲

名し

た時

の台

帳(

早稲

田大

学演

劇博

物館

所蔵

 ロ

i‑

t<

LO

>‑

ct

f

ll) には'団十郎の「信田妻」と同じ詞章が出ているので、次にその部分を抜き出

してみよう。

葛  〜いつまでいふてもかへらぬ事せめて名残‑に只一卜筆そふじや ‑

ドク(憂きふしハしげき信田の森の露こぼれて結ぶ夢だにも

ト此内正面の障子へ口文字をか‑

上(もぐらの床の草枕筆にいわせて置‑露の

ト此内童子目を覚し葛の葉の傍へ来て

童子 かゝさま

葛  ヲ、○  ト抱寄せて又文字をか‑

(涙は袖に白菊の

ドク(乱れて野辺に泣‑虫や尋ね来て見ようらみ葛の葉

トよろし‑書終り

今より別れか ハア、、、

(思わずわっと泣‑声の〜 ただし、この台帳をよく見ると'(もぐらの床の〜白菊の」までは竹本で演奏している。独吟曲の詞章を竹本と長唄が掛け合いで演奏するといったことは今日聞かないが'この時期関西では行われていたのか'大正九年二月'京都歌舞伎座で四世片岡愛之助が葛の葉を演じた時も同じように竹本と唄で掛け合ったようである。そして'その時豊竹寿太夫(明治三十七年〜昭和五十一年) が使用した床本(松竹大谷図書館所蔵 W^<m‑<a><N‑ス2) には未があり、竹本の調子はこの独吟の詞章を取り入れた部分だけ「二上‑」となっている。そこで'田中悠美子氏に ︻譜②︼として五線譜で復元していただいた。床本の宋だけではリズムが不明確なので'復元者の想像も入っているということだが'実際に歌舞伎竹本三味線方の鶴津慎治氏に、︻譜①︼ の(むぐらの床の草枕」から○保は袖に白菊の」までの部分に ︻譜②︼ の竹本を入れて演奏を試みていただいた結果、音が自然につながることを確認した。従って'大正九年の愛之助'さらには大正六年や大正五年の芝雀も二上‑の「信田妻」を使った可能性があ‑、もしそうならば、団十郎の 「信田妻」は'団十郎以後東京でもあるいは関西でも'明治中期から大正期にかけて一旦定着したことが考えられる。

(4

)現

行曲

に至

るま

しかしその後戦後までの興行については'国立劇場や早稲田大学演劇博物館に付帳

など独吟の手がかりを残す資料が残っていない。またその間'東京の大きな劇場では

この芝居をあまり上演しなかったようだ。そして団十郎の「信田妾」 の記録も途絶え

てしまう。

ただし既に触れたように'現在この芝居で使っている詞章は団十郎の「信田妻」と

c s>

ほぼ同じで、違いは「こがれて燃ゆる狐火や」を加えた程度である。しかし、調子が

三下りなので節付けはまった‑違う。それでは'この三下‑の方はいつ頃から存在す

るのだろう。

現行の三下りの曲には特に決まった曲名が無い。しかし「鳥羽屋里長長唄十八番集

め‑やす二」 (テイチクレコード) には「葛の葉」という曲名で収録されている (以後

こちらの現行曲を「葛の葉」と呼ぶ)。また、景山正隆氏による解説には、「本レコー

ド所収曲は、杵屋富道の採譜に基づいており、上方系の ﹃葛の菓子別れ﹄ に用いられ

てきたものと思われるが、その成り立ちについてはつまびらかでない」とある。なお、

︻譜③︼はこのレコードから五線譜に採譜したものである。それでは、現行曲が現在見られる付帳の中で一番早‑確認できるのはいつか。それ

は'東横ホールで二世中村扇雀が初役で演じた昭和四十一年六月である (杵屋富造旧

蔵付帳。杵屋富造旧蔵付帳は国立劇場にマイクロフィルムの形で所蔵されている)。﹃季

刊雑

誌歌

舞伎

﹄ 

第三

十三

号所

収「

﹃葛

の葉

﹄ 

細見

」 

(小

池幸

太郎

 昭

和五

十一

年七

月)

(6)

によると'この時扇雀は'葛の葉を当たり役にした三世中村梅玉の型を中村桧若(初

世中村腐治郎の弟子。初世腐治郎の女房役は三十年近‑三世梅玉だった) から習って

いる。また、台本を担当した戸部銀作氏はその型を初世腐治郎の型と表現し、「この先

代腐治郎の型は、中村松若氏が詳細に書き込んだ台本に記録されている。」とプログラ

ムに書いている。おそら‑'松若のまとめた型の記録を基に'扇雀は初世腐治郎や三

世梅玉の型を復活したのだろう。そうした松若の記録は国立劇場にもマイクロフィル

( S)

ムで残っているが'記録の中には杵屋富造が書いたと思われる現行曲と同じ譜も含ま

れていた。昭和四十一年までは後述の別詞章が継続的に用いられており、前記レコー

ド解説に「杵屋富造の採譜に基づいて」とあるので'扇雀初演時に'三下りの「葛の葉」

が杵屋富造の譜により復活されたのではないだろうか。

なお、その譜の詞章を見ると、「こがれて燃ゆる狐火や」は詞章だけが後から書き足

されているので'もともとは団十郎の「信田妻」とほとんど同じだったようだ。また

そこには「成駒家」と記されている.この「成駒家」は、明治二十七年から四十1年

にかけて葛の葉を少な‑とも三回演じたことのある初世と、大正八年から九年にかけ

てやはり少なくとも三回演じたことのある二世と二人考えられるが、三世梅玉は'戦

3

後の「梅玉芸談」で「この曲書きの間は下座の独吟を便ひます。大阪では昔から ﹃‑

さむらの床の草枕筆にいはせて置‑露の涙の袖に白菊の‑‑﹄ に決ったものですが」

と書いているので'初世腐治郎'あるいはそれ以前の四世嵐璃寛あたりからあった曲

と考えることもできるのではないだろうか。Gに挙げた四世璃寛所演時付帳の冒頭詞

章が現行と同じという点にその可能性が伺える。そうだとすると、明治中頃には同じ

詞章が東京でも関西でも用いられ'東京を中心に二上り、上方を中心に三下りといっ

た違う作曲で演奏されていたことになる。前述の大正九年に豊竹寿太夫が演奏した︻譜

②︼ の竹本を、三下りの ︻譜③︼ の該当部分に入れてやはり鶴揮氏に演奏していただ

いたが、その組み合わせも有‑得るとのことだった。

しかし、三下りの「葛の菓」もそのまま定着したわけではない。三世梅玉は明治

三十五年頃から戦後にかけての長い間この芝居を度々演じて当たり役にしているが、

その梅玉自身は'松若の記録中の「高砂家」と書かれたもう一つの譜にある別の詞章

を使っていたと思われる。同じ詞章を'昭和二十二年五月大阪歌舞伎座で梅玉が最後

に葛の葉を演じた時の付帳(梅屋勝之輔旧蔵付帳426 梅屋勝之輔旧蔵付帳は国立

劇場所蔵) から次に抜き出してみる。

・ i    

.      

    ̲  

       

  T r  

    1 .

(野末の革の葉か‑れに ‑ずの怨の怨めし‑

.

, .

.

.

, 1

1

. ,

,

I .

ちなみにこれは'長唄「大神」 の詞章によ‑似ているので'そこから抜粋して仕立

て直したものだろう。ただし、節付けは「大神」とまった‑違う。なお、次に「葛の菓」

の詞章を昭和六十年七月国立劇場上演台本から抜き出したが'半分ほどは詞章が良く

似ている。そこで'三味線の旋律についても、同じ部分に線を引き、共通の旋律に同

じ番号を対応させてみた結果'「葛の菓」とほとんど同じ節付けであることがわかった。

(憂さふしはしけき信田の森の露 こぼれて結ぶ夢だにも

欄 ⁝ 醐 姻 紺 州 川 鍋 紺 州 紺 火 絹 加 納 純 絹 ㍍ み 葛 の 葉

なお 梅玉 の後 も' 梅玉 の型 を受 け継 いだ 三世 中村 時蔵 は昭 和二 十七 年六 月大 阪歌 舞 伎座 (杵 屋富 造旧 蔵付 帳)

、同 年八 月明 治座 (﹃ 劇評

﹄昭 和二 十七 年九 月所 収の 大木 豊 氏に よる 劇評

「葛 の菓

」に 冒頭 の詞 章あ

‑) で、 四世 中村 富十 郡は 昭和 二十 九年 十月 中座 (梅 屋勝 之輔 旧蔵 付帳 co Oo oo )で '六 世中 村歌 右衛 門は 昭和 三十 1年 十二 月歌 舞 伎座 (杵 屋栄 左衛 門氏 の﹃ 演劇 要録

﹄ノ ート 杵屋 栄植 民所 蔵) で、 それ ぞれ 梅玉 と同 じ曲 を使 って いる

。 その 状況 が、 昭和 四十 1年 の東 横ホ ール で三 下り の「 葛の 葉」 が復 活し て以 来1 変L t その 後は '扇 雀( 現腐 治郎 )以 外の 役者 も使 うよ うに なっ て、 今で は現 行曲 とし てす っ かり 定着 した よう だ。 以上 '「 芦屋 道滴 大内 鑑」 の子 別れ の独 吟の 変遷 を見 てき た。 これ らを まと める と' 次頁 の表 のよ うに なる

。 表中 '型 の欄 に、 詞章 のタ イプ をア ルフ ァベ ット で表 しま とめ てお いた

。こ れを 見 ると '1 番か ら5 番' つま

‑、 詞章 のタ イプ で言 うと aか らe まで が詞 章の 変遷 期' 3砺 E 次に '7 番か ら1

3番 まで の‑ の続

‑詞 章の 定着 期が あっ て、 単発 的に 別詞 章g が現 れ るが 'そ の後 しば らく さら に別 のh が続 き最 終的 に‑ に一 句加 わっ た詞 章J が現 行詞 章と して 定着 した こと がわ かる

。 こう した 詞章 の変 遷を

「鏡 山旧 錦絵

」と 比べ ると '長 い変 遷期 の後 定着 した とい う 点が 共通 して いる

。し かし '「 鏡山 旧錦 絵」 では '1 度定 着し た詞 章に 短縮 化以 外の 変 化は 無か った が、

「芦 屋道 満大 内鑑

」で は' さら に別 の詞 章が 定着 Lt また 元に 戻っ た とい う点 が違 って いる

。ま た、 調子 は、

「鏡 山旧 錦絵

」の 場合

、詞 章の 走着 後本 調子 と 三下

‑の 二曲 が'

「芦 屋道 満大 内鑑

」の 場合 '二 上り と三 下り の二 曲が 作ら れた とい う 点が 共通 して いる が、 二種 類と も残 って いる のは

「芦 屋遺 漏大 内鑑

」の 方だ けで ある

(7)

表 「芦屋道満大内鑑」子別れの場の独吟曲

20 19 18 17 16 15 14 13 12 ll 10 9 8 7 b 5 4 3 2 1

昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 大 大 大 明 明 明 明 明 秦 天 文 享 安 上

和 些 型 型 型 型 型 正 正 正 袷 堕 堕 堕 治 永 煤 政 和 永

四■十 幸 ‡ 辛 辛 ≡ +

九 ■⊥一 五

十四 幸 辛 辛 十

五 十

五 ノ、

九 七 七 ノ、 五 四 四 四 四 午

六 ±

十 八 六 五 I

千 九 十 十

五 九 七 九 九 九 九 月

蝣fc 敬 中 明 大 大 南 京 浪 新 敬 市 市 敬 市 河 市 'j 市 市

樵 舞 座 袷 阪 阪 座 都 花 富 舞 村 村 舞 秤 原 村 秤 秤 村

ホー

伎座 座 敬

伎舞

歌舞

伎座

敬舞

伎 座

座 座 伎

座 座 座 伎

座 座 崎

座 座 座 座 座

葛 橘 寧 信

芦 芦 芦 芦 芦

芦 芦 芦 芦 芦 芦 芦 芦 芦

=て

芦 芦

屋追 屋

追 崖

道 屋

追 屋

追 の

莱 屋

道 崖

追 尾

追 屋

追 屋

追 崖

道 屋

追 崖

道 香

孤 屋

追 & 屋

道 田

秦 屋

満 満 潤 満 潤 捕 満 棉 潤 満 潤 潤 満 葛 満 偽 潤 名 追潤 名

大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 莱 大 ‑I室 大 残 大

内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 内 孤 内 翠

鍾 鑑 鑑 鍾 鑑 鍾 鍾 鑑 鑑 鑑 鑑 鑑 鑑 #*Jm 鑑 別 鑑

おく

玉敬

SI

葛慕

莱 筆

の跡

曲 名

めり

やす

めり

やす

めり

早す

めり

やす

めり

やす

曲 檀 名

+ f h h h h h g f f f f f f f e d C b a 壁

2 6 4 3 3 3 3 4 3 4 5 5 2 9 4 3 1 、3 3 3

葛 の 莱

扇 敬 富 時 時 梅 梶 餐 雀 芝 芝 芝 女 団 棉 棉 し 門 路 菊

雀 右 千 蔵 蔵 玉 玉 之 右 雀 節 翫 寅 十 塞 寛 つ 之 考 之

3日

贋治

那 衛

門 郎 助 衛

門 日

雀3

右衛

5日

敬右

衛 門

5日

敬右

宿 門

6日

門之

那 か 助 丞

3日

路考

付 付 付 刺 付 付 芸 床 J■[】 付、 付 付 付 育 付 正 正 ■台 .'」 正

輿

悼 帳 帳 秤 帳 帳 読 本 樵 帳 帳 帳 帳 帳

付帳

記董池

PET

帳 本 本

塞紙

帳 本 本

独吟

部杏

竹本

で演

独吟

部を

竹本

で演

秦 璽

早は

√■■■一

7E 上

0

王 り

幸 り

章 り

章 り

章 り 備

三へ まとめ

以上'子別れの場の独吟の変遷を'長唄正本・歌舞伎台帳・陰磯子の付帳などの資料を用いて近世・近代・現代を通して見てきた。その結果'現行曲の成立時期は確定 できないが、天保期あた‑から江戸・上方双方の交流の中で詞章が徐々に定型化し'遅‑とも明治二十四年には'現行詞章が成立したことがわかった。

この天保期というのは'「鏡山旧錦絵」 の尾上書置きの独吟詞章が固定した時期と同

じである。この頃から独吟・両吟曲にはそれまでの詞章を流用する傾向が出てきたの

(8)

だろうか。最初に挙げた③のタイプを他にも調べ、固定化の時期やその理由について

さらに検討を加えなければならない。

また、詞章と音楽の関係では、現行曲と梅玉の独吟で'詞章が違う部分にも同じ節

付けが行われていることがわかったが'これは'詞章の変遷期の音楽面を考える上で

参考になる。詞章は違っても'節付けは似た部分があったかもしれない。子別れの独

吟でも、例えばEに「述」とある二世杵屋勝五郎はFのタテ三味線でもあ‑EとFの

作曲に関わった可能性があるが'句数もほとんど変わらないので同じような旋律を用

いたかもしれない。

反対に'同じ詞章でも二上‑の「信田妻」と三下りの「葛の葉」 のように節付けの

違う曲の存在が確認できた。この二つの曲名は正式名称ではな‑半ば便宜的なもので

あるが、節付けの違う曲には異なる曲名をつける、といった感覚は江戸期も同じだっ

たかもしれない。従って'②のタイプ、つまりへ詞章は同じでも曲名が違うものにつ

いては、節付けが違っていた可能性が考えられるのである。独吟・両吟曲だけではな

い。例えば宝暦四年初演の「英執着獅子」と同じ詞章は安永二年に「英風流石橋」と

いう違う曲名で再演されているが'舞踊曲にも同じことが考えられる0

長唄の場合'残された譜は限られていて'音楽面まで遡って考えることはなかなか

難しい。そこで、正本研究、趣向や場面などを中心とする台帳の研究'明治以降を中

心とする付帳研究'さらに'伝承された音楽そのものの研究'これらを総合して初めて'

江戸期の長唄が音楽面でも少し解明されてい‑のではないだろうか。その最初の段階

としての趣向・場面毎の検討を'今後は独吟・両吟曲の①や②のタイプについても進

めていきたい。

付記 本稿は'楽劇学会第十二回大会(平成十六年六月十九日) において「歌舞伎に

おける独吟曲の変遷 ‑ ﹃芦屋道満大内鑑﹄ の独吟曲を中心に ー 」と題して行っ

た口頭発表をまとめ直したものです。ご意見を賜った児玉竜一氏をはじめ'多‑

の方にお世話になりました。この場を借りて'御礼申し上げます。

注(

‑)

 「

無間

の鐘

」 

(「

けい

せい

むけ

んの

かね

」享

保十

六年

1月

中村

座'

「け

いせ

いむ

けん

かね」宝暦元年九月中村座、「むけんの鐘」宝暦八年一月中村座'「無間鐘」宝暦九年1月市村座、「むけんの鐘むかし州」明和元年一月市村座)。まった‑同じ曲名ではないが'すべて「むけんのかね」 の語を含んでいる。

(2

) 

「五

大力

」(

寛政

七年

1月

都座

、寛

政九

年1

月桐

座'

享和

三年

六月

市村

座、

明治

元午

中村

座・

守田

座)

0

(3) 「ゆか‑の月」(寛政十年三月桐座'文化四年四月市村座'文化六年九月中村座'安

政元 年三 月中 村座 )0 (4 ) 

「廓 夜桜

」  (天 保六 年三 月森 田座 )「 目狭 笠」  ( 嘉永 四年 1月 河原 崎座 )「 対編 笠」  ( 万 延元 年閏 三月 守田 座)

。 (5 )「 春野 辺桜 狭」 (天 保八 年三 月中 村座 )「 桜尾 上岩 藤」 (弘 化二 年三 月河 原崎 座) 0

ただし'詞章が一部分異なっている。

(6 ) 

「う わ帯

」( 寛政 三年 1月 中村 座)

「鏡 山」 (寛 政五 年1 月河 原崎 座)

「わ かれ の雪

」( 塞 政七 年1 月河 原崎 座)

「爪 紅粉

」( 寛政 九年 三月 都座 )「 袖の 海」 (文 化三 年四 月中 村座 )

「女 気」 (文 化十 一年 三月 市村 座)  「 華ぐ もり

」  (嘉 永六 年三 月中 村座 )。

(7) ただし'現在は曲名を持たない独吟曲・両吟曲も多い。これは長唄正本の出版が激減し'やがて出版されな‑なった明治以降の傾向である。

(8 ) 

「歌 舞伎 にお ける 独吟 曲の 変遷  ‑  め

‑や す﹃ 花曇

﹄を 中心 に」 早稲 田大 学﹃ 研究 セ

ンター紀要Ⅲ﹄平成十五年三月。

(9 ) 

「鏡 山」 (寛 政五 年一 月河 原崎 座) と「 わか れの 雪」 (寛 政七 年一 月河 原崎 座) は演 者

が同じにもかかわらず曲名も詞章も異なっている。

(S ) 

﹃歌 舞伎 台帳 集成

﹄第 九巻 所収

「傾 城天 羽衣

」  の解 題で は、 巻末 に「 天保 八丁 酉林

鐘 難波叶橋 桧鰻亭 八幡屋」などとある国立国会図書館所蔵本を「八幡屋の貸本用の書写」とLt 八幡屋を貸本屋として扱っている。

(3 )  地歌

「狐 火」  の 詞章 は以 下の 通り

○きつねび まへうた   本てうし

つきはつれなやt はやあかつきのかねのこゑ、合 さらば ‑ の'こゑもたえゆ‑小

田の原'合 お‑りかへせば、ひえのやまかぜ身にしみて、合 なたねの花のうらがれ'合 けさのわかれに、つきをたもとに残いて'合 あるかなきかの'しゆびを恩ふがいのちさ、合 恋のをぐるま、まはるをのこのあれかLt合 心をのせてあはふ

に、合 かぎ‑ある身の'かぎ‑をしらで'合 かひもなきよをうちなげき'なんのいんぐわにしやばにきて、いきてそはるゝ身ではなし、合 つきを見ぼやと、合 ちぎりし人も'合 こよひそで、をやし、ぼるらん 合

○きつねび        本てうし

あだしこの身をや、けふ‑となさば、合 せめてくるわのさとちかく'合 くるわの

や'‑るわのせめて、合 せめて‑るわのさとちか‑'合 なにをおもひにや、こがれてもゆる'合 のべのきつねびさよ更て、合 きつねびや'きつねびのべの'合 野

辺のきつねびさよふけて         ﹃歌曲時習考﹄文政版(文政元寅秋九月)

(2 )  杉贋 阿弥

﹃舞 台観 察手 引革

﹄  (大 正七 年  玄文 社) 所収

「善 いも 悪い も所 謂珍 型」 に'

慶子中村富十郎(初世)が衝立に口書きをしたことが触れられている。(3) 説教を取‑入れる場合'例えば義太夫は本調子二二下‑の場合もあるが、長唄は二上‑に限られている。ただし'理由は不明とされている。

(3) 明治三年に三世杵屋勘五郎が作曲した「望月」では「月をともねの〜旅路のとこの」の部分'同年二世杵屋勝三郎が作曲した「安達ケ原」では(ながらへてあけ‑れ隙な

(9)

き」の部分に「夜鶴綱手車」と共通の三味線の手が使われている。

(ほ)稀音家義丸﹃道行物﹄(平成八年十l月邦楽社)「夜鶴綱手車」の解説に「段切は﹃説

教ドメ﹄とあ‑、特殊な終止形で'長唄ではこの曲のみかと存じます。」とある。や

はり三世正次郎が作曲した「桧の翁」の段切もbの後半と似ているがtbの旋律全部

を共有する段切は現存曲では珍しい。

(16こ「横笛」では(何か恨みん〜蔭言も」の部分に「夜鶴綱手車」と共通の旋律を使って

いる。

(」)「名代の口文字は今回ハエ風しられて子供を抱てから障子を白眼と掛煙硝がパッと立

と裏から自然と顕はれ升たハ能ムり升た」(﹃歌舞伎新報﹄第二三九号明治二十四

年四月)

(S)「九代目は﹃信田の森の﹄までをマトモに書き'童子が泣‑ので両手に抱上げ'二重

下手から蛇と振返ると'仕掛で﹃うらみ葛の葉﹄と障子に出ました。」「善いも悪いも

所謂珍型」注参照。

(19)他に'団十郎の「信田妻」では「渦ハ袖に」が現行曲では「涙の袖に」、「乱れて野

辺に泣‑虫や」が「乱れて野辺の噂‑虫も」になっているという違いがあるが'こう

した細かい違いは'多‑の資料に見られる。

(2)杵屋富造(明治三十五年〜昭和五十二年)は'大正・昭和期の上方歌舞伎嚇子方。

はじめ義太夫三味線方を志したため'大正七年頃歌舞伎の三味線方に転向してから

も、義太夫で覚えたイロハ譜で三味線の手を書き留め、付帳などにたくさんの譜を残

した。この松若の記録中の譜もイロハ譜で書かれている。

(3)「﹃葛の葉﹄の曲書き」﹃文楽j昭和二十二年三・四月合併号「梅玉芸談」o改稿されて

単行本﹃梅玉芸談﹄(誠光社昭和二十四年刊)に所収。

(S)前記「梅玉芸談」に「昨年の顔見世の時は﹃草の戸に野辺に繁れる八重もぐら露に

しめりてはら‑と散りて果敢な‑消ゆる身の‑よを用ひました。」とある。

(図版B) (図版C)

(10)

【譜①】 「信田妻」 (『邦楽の友』昭和48年4月号所収 杵屋栄左衛門氏復元譜より)

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J ‑* ‑ア+ I‑ l u l ■T

M 1

【譜②】竹本復元譜(田中悠美子氏復元)

(11)

もヤー3‑ きつ‑ね〆‑で‑

′ヽ  √ヽ       √ヽ  へ

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