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辻下   徹

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Academic year: 2021

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アナロジー雑考

Ver 1.0

辻下   徹

アナロジーという言葉は多種多様なことに使われ る。ここでは、言語や思考はアナロジーの大海に浮 かんでいるという立場をとり、それを使うときの問 題点について少し考えてみたい。

◆アナロジーと比喩

具体例・たとえ・隠喩( メタフォー)・モデルなど

「アナロジー」に関連することばがいくつもあるが 、 日本語では「たとえ 」ということばが生きている。

アナロジーは非言語的要素が強い「たとえ」であり、

モデルは組織的に使える体系性を備えた「たとえ 」 であり、隠喩は類似性が自明でない「たとえ」であ るというよう考えることにするが 、それらの間に明 確な境界線はないと考えたい。

「たとえ」は日常生活の中で使われている主要な 知的道具の一つと言えるだろう。たとえば 、何かを 説明するときに「たとえば 」という言葉は欠かせな い。たとえ話は物語りや文学では不可欠な表現手段 でもある。たとえによる表現はしばしば抽象的表現 にはない的確性と効果を持つ。

◆教育での役割

アナロジーは教育に欠かせない道具でもある。小 学校入学時には子供はすでに日常的生活についての 豊かな経験を持っている。小学校教育は、この経験 をフルに利用するために種々のアナロジーを用いる。

しかし 、教育の過程が進むにつれてアナロジーの役 目は小さなものとなっていく。論理的・理論的説明 が中心となり、仕方なしに教育的理由で補助的にア ナロジーを使う、という位置付けになる。大学に入 るとそれはもっと極端になる。

これは当然なことでもある。素朴なアナロジーに いつまでも頼るわけにはいかないことは言うまでも ない。しかし 、素朴なアナロジーを超えるために用 いる知的装置の修得にもアナロジーは不可欠である。

たとえば 、大学の数学で最初に習うの議論の 理解には、ゲームの後手必勝法とのアナロジーが有 効である。「すべての >0 に対してあるδ >0が 存在してある性質Pが成り立つ」という表現は、先 手がど ういう手を打っても、後手がうまい手δを 選べば 、勝てる(Pが達成する)というアナロジー である。

もう一つの例は 、高校でもならうことであるが 、 命題Pが偽ならば命題「P ならばQ」は真である、

という奇妙な「定義」である。論理的推論の規則で あることを「定義だから」という説明で済ますわけ にはいかない。これを納得するには、命題を約束に たとえ、偽を「約束破り」にたとえることが役にた つ。あす晴れたならば海水浴についれていこう、と いう約束をしたとき子供が約束をやぶったといって 怒るのは 、晴れたのに海水浴につれていかなかった ときであり、雨が降ったときは 、もはや約束が守ら れたかど うかという言い方が無意味になる、という べきなのである。同様に 、P ならば Qという命題 は、Pが偽であるときは 、本来無意味というべきで あるが 、これを真と呼ぶことで、古典論理と呼ばれ る、とても使いやすい便利な知的道具が得られるの である。

この道具は、日常生活で潜在的に使っている推論 と異質なものでない。しかし 、対象についての親密 性が日常生活と比べて無に等しいところでの論理的 推論は易しくはない。知的真空状態のところでも論 理的推論は可能でなければならないという思い込み、

教える側・学ぶ側双方での思い込みは 、大きな問題 である。

本特集はおそらく、こういう思い込みが多い現状 下で、アナロジーというものの重要性に学生のみな さんが目を向けるきっかけとなることを意図して組 まれたものと想像される。たしかに、アナロジーは 知的真空状態を多少なりとも解消するのに不可欠に 近いものであり、もっと活用されるべきであるが、最 初に述べたように、ここでは、その使い方について 重点を置くことにし 、最初にアナロジーの発想法的 な使い方について、次にアナロジーの組織的使い方

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について、考えてみたい。

◆学習・研究での役割

学習・研究の途中で「たとえ」が決定的な役目を 果たすことは当たり前のことともいえる。未知のも のごと・問題に直面したとき、その把握・解決のた めに親しみのある対象や状況が総動員される。使え るものはなんでも使おうという生命の働きがあらわ れる。そして一見無関係なことがきっかけになって 問題が解決したり未知のものの理解に達すれば 、た とえを使ったことになる。

科学の世界でも、研究プロセスにおけるアナロジー の重要性は経験的に広く認識されている。有効なア ナロジーの発見自身は大きな前進のきっかけになる。

ケクレがベンゼンの環状の化学構造を発見したと き、夢で見た自分自身の尻尾をかむヘビの像が決定 的な役割を果したと伝えられている。この例では 、 ある発見の鍵となることが日常的な体験の大海中の 具体的なものごとの像によって表現されている。し かし 、これは発見のプロセスのエピソード のような もので、意識的にアナロジーが使われたというよう なものではない。

ダ ーウィンは生物の進化を品種改良にたとえた。

これは研究計画全体を支えるほどの大きな力をもつ 組織的なたとえといえる。品種改良は、膨大な経験 とノウハウの蓄積を持つ技術であったに違いない。

進化の様々な事柄をそれにたとえることにより、多 くの着想を得たと想像される。これは研究過程で有 効なアナロジー使用の典型であると思われる。

この種のアナロジーを使うことで楽をすることが できる。しかし「楽をする」という意味は、労力を 省けるというようなことではない。研究者が出会う 困難の中でかなり大きなものの一つとして何を考え るべきかというものがあるが 、そこにアナロジーが 役立つということだ。

少し 脇道にそれ るが 、異なる2つの分野の間に 、 なんらかの類似性が観察されることがあり、やがて その背後にある普遍的な実体が発見されることがあ る。この場合はアナロジーが理論的に解消されたと

言うことができよう。こういった発見は新分野の誕 生のきっかけとなることがある。集合・位相空間・線 形空間・群・多様体等の種々の数学的構造の積構造 の類似性は、カテゴ リーの対象の積概念として実体 化できるという認識は、圏論が独立した数学的分野 として成立する契機となったとマックレーンは書い ている。

しかし 、理論的に解消できるアナロジーは特殊な ものと言えるだろう。多くの場合、アナロジーを理 論的に解消しようとすることは効果的な使い方では ないと思われる。

◆差異と類似点

アナロジーの使い方の問題点を少し考えてみよう。

特定のアナロジーはある時点から無効となること が多い。多いというよりも必ずそうなるというべき かもしれない。一つのアナロジーに固執することや、

アナロジーを通しての推論で満足してしまうのはま ずい。これではアナロジーはプロクロステスの寝台 となり、立ち向かうべき課題の独自性を切り捨てる 道具に堕してしまう。

よく知られているように、ダーウィンは、自然淘 汰というたとえでは、目の進化の説明はできそうも ないことを述べている。進化の理解には自然淘汰だ けでは十分ではないかもしれないということを明確 に表明していたことには驚く。

こういった面を明確に意識することにより、新し い事象に適した固有の理解の仕方を見い出すために もアナロジーが使えるようになる。その場合、アナ ロジーは「 何が違うか 」を考えるために使われる。

これが「比較」という操作と違う点は、比較する場 合には2つのものごとがかなり明確に把握できてい るのに対し 、アナロジーによる差異の認識では、一 方が何ものかはわかっていない、という点にある。

一般に類似性に気付くより差異に気付く方がはる かに難しいと思う。同じと思っているものが違うと いう方が 、違うものを同じと見るよりもはるかに難 しい。このことはアナロジー使用において目を凝ら すべきことは類似性ではなく相違点であることを示

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唆する。

これに少し関連することだが 、アナロジーが役に 立つのは類似点があるからだという考えは有効では ないと思う。アナロジーが役に立つことは類似点の 有無とは関係がないという方が実情にあっている。表 面的な類似点が少ないアナロジーは隠れた類似点を 見い出すのに役立ち、表面的な類似点の多いアナロ ジーは隠れた差異を見い出すのに役立つと思われる。

後でいくつかの「大きな」アナロジーを考えると きに、これらの点について考えたい。

◆表現法として

アナロジーは表現手段としても使われる。比喩は 重要な伝達手段である。

話し手が伝えたい内容を聞き手が受け入れる素地 がまだなく、「じかに 」表現してもほとんど 相手に とって何の意味もない場合には、比喩は不可欠であ ろう。この場合には、聞き手には意味がないか矛盾 しているとしか思えない比喩( 隠喩)が有効となる。

話し手への信頼が聞き手側にあるときは 、自分の理 解の仕方では把握できないようなことを話し手が言 おうとしていることに気付き、やがて理解に達する 可能性が生じる。しかし 、この場合には肝心な点は 信頼の有無かもしれない。

仏典はたとえに満ちているが多くは明快なたとえ だ。これに対し禅の公案や、聖書のたとえには謎め いたものが多い。働いた時間に関係なく同じ報酬が 与えられるというのは普通では許しがたい不公平と 思われるのだが 、これよって全く違った意味の「報 酬」があることに読者が目を向けるようになるとす れば 、そのたとえは、それに同等と思われる明快な 哲学的説明では達成できないものを達成することが できたということになろう。

しかし 、学問的知識の表現方法としてはアナロジー にはさまざ まな問題がある。むしろ、アナロジーに 頼らない知識こそが学問のし るしであると考えられ ることもあるようだ。「それはアナロジーに過ぎな い」は学問では典型的な批判である。

しかし 、しばしば大規模なアナロジーが分野の基

盤となっていることがある、実際にはアナロジーで あると意識されていないことが多いが。そこで、組織 的なアナロジーの例をいくつかあげて、アナロジー とモデルの境界はそれほど 明確ではないことを見て みたい。

◆数学にある比喩

これは奇妙に聞こえると思うが、「数学的対象」と いう言葉にはアナロジーが潜んでいる。「対象」は、

机・犬・人間・太陽など 日常色々な状況を通して不 変にふるまうものについて使う言葉だ。数学研究の 過程を通して不変にふるまうものがあるとき、それ を日常的な対象になぞらえて「数学的対象」という のである。このたとえを無批判に押し進めると「数 学的対象はどこにあるのか」という問いが意味があ るかのように思ってしまう。しかし 、この問いを問 う時はすでに数学的対象というたとえが無効となる 地点に達している。それにも関わらず、その問いに 答えようとするとき、イデア界という新しいたとえ を導入することになる。

イデア界というたとえは、数学を研究するときに 自分が何をやっているのかということを了解するの に、かなり有効である。しかしこのたとえには余り 強調されない点がある。それは、人間はイデアを不 完全にしか把握できないとされている点である。た とえば 、人間の描く三角形は三角形のイデアには決 して同じにはならないとされ る。通常の見方では 、 三角形のイデアは人間の手では描けないが理論的に は把握できるということになっているが 、「理論によ る把握」というもののが手で描くのと大差ないとい う見方もできる。イデア界のたとえをこのように解 釈し 、それを「人間側のことば 」だけで表現すれば 、 どの時代になっても数学的知識の不定性は、知識内 容だけでなく知識形態まで含めて、なくなることは ないということになろう。

このように考えると、数学研究は、自然科学の場 合と同様、人間が知り尽くすことはありえないイデ アについての終わることのない探究の道程であると いう立場が生じる。不思議なことに、これはイデア

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という考えを無意味とする構成主義の立場と似たも のとなるようであるが 、構成自身の概念すら不完全 である、という点で徹底したものとなる。

もう少し具体的な例として、数学的対象を集合と みるアナロジーを考えよう。これは外延的立場と呼 ばれ、現代数学の特徴をなすものの一つである。「外 延的」という言葉は耳慣れないかもしれない。犬と は何かと問われた時、古今東西の犬のすべてを列挙 すれば 解答となると考えるのが外延的立場である。

この立場では、あるものが犬かど うかを判定するの に、そのものが犬の基準を満たすかど うかというや やこしい問題に関わらなくでも、単にその列挙の中 にその犬が登録されているかど うかを判定するだけ でよいことになる。このようにして、犬であるとは ど ういうことか(内包)に悩むことは不要となり、犬 全体の集合という「物」だけで話しを済ませること ができるようになる。かなり無意味に見えるこの考 え方は数学では実に便利なもので、この外延主義と いう知的加速装置は私たちをかなり遠くまで連れて 行ってくれるのである。しかし 、この無理な連れて 行きかたが置き去りにした諸問題が持つ重要性が次 第に浮上しつつあると感じられる。

もう一つの例として、証明を計算にたとえるアナ ロジーを考えよう。「計算」という言葉は今では広い 意味での記号変形にも使われ 、コンピュータで実行 可能な操作とほぼ同義である。その意味では力学系 の挙動も特殊な計算である。証明は論理式と呼ばれ る特殊な記号列の特定の規則的変形と「みなせる」

ので計算に他ならないということになる。

これもアナロジーであることが忘れられがちであ る。証明を計算として見ることは実に有効な見方で あるが 、このアナロジーがどこで効かなくなるかと いう点に注意を怠るとミスリーデ ィングになるおそ れがある。

学生のころ、ある証明の全貌がつかめず、その「証 明図」を詳細に書いてみた経験があるが 、それは証 明の了解に役に立たなかった。証明を外からいくら 詳細に描いても仕方がないという感じであった。こ ういうと証明というもの本質は主観的なものだ主張

しているように思われるかもしれない。しかし 、主 観的/客観的という言葉は、証明を考えるときには 有効に機能しないようである。証明の性格を明確に するのに効果的なもう一つのアナロジーは隠し絵で あろう。隠し絵の中に隠された絵を見るということ は全く明瞭な経験である。それが見えることと証明 が理解されることとは非常に近いといえる。

◆科学における比喩

数学を離れるとアナロジーの役割は重要性を増す。

物理で用いる数学的モデルは大規模なたとえと言 うことができる。世界は力学系であるという数学的 たとえは、いくつかの事象について予言力を備えて いたために世界の全体がそこにすべてとらえられた かのよう思われて世界観が大きく変化したのではな いかと想像される。

脳や心の機能を説明するときに情報処理の用語が しばしば使われる。これらの表現手段があまりに便 利なために、これがアナロジーだということは意識 しにくい。先に述べたように差異の発見はもっとも 困難な類の発見であるが 、脳の働きの理解には情報 処理と何が違うかという点の詳細な分析が今後重要 になると思う。実際、自明な差異もある。情報処理 という概念装置で鍵となる「処理の目的」に対応す る脳内事象は何かと問うときはすでにアナロジーの 有効性の限界に達していると感じる。しかし 、それ を承知の上で敢えて問い続けるということも戦術と しては十分ありうることは言うまでまい。

生物を機械( 力学系)にたとえるアナロジーは古 くから使われている。機械の概念自身が進歩するご とに、このアナロジーは新たな有効性を獲得すると 思われる。最近では、分子生物学による生物のミク ロな機構についての知見の止まることを知らない増 大と、コンピュータサイエンスによる機械概念の進 化とにより、このアナロジーが無効となる地点は中々 想像しにくい。

機械というアナロジーの有効性の限界の一つは 、 なんらかの規則が無制限に適用され続けられるとい う、いわば機械概念自身の核心が、生物のあり方(だ

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けでなく現実の機械)と調和しない点にある。機械 を<理想機械>と間違える工学者はいない。生物を 理解するには、規則に従って変化するものという(力 学系や確率過程などの )数学的アナロジーがどこで ど ういう風に無効になるか 、という点に注目するこ とが必要と思われる。

紙数も尽きたので 、類似を見い出すよりも差異を 見い出す方が難しいことと、類似性の大きなアナロ ジーは差異の方に重点をおくことで生きるという2 点をくり返して、終わりにしたい。

参照

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