学 位 請 求 論 文 概 要 書 「 近 世 後 期 の 漢 詩 人 研 究 − 菅 茶 山 を 中 心 に − 」
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(2) 本学位請求論文は︑近世後期から幕末までに活躍した漢詩人の文業を研究したものであ る︒その際︑近世後期を代表する漢詩人である菅茶山︵延享五−文政十︻岩島−−∞当︼︶を その中心に据えた︒以下︑各章の概要を述べる︒ まずは第一部 ﹁菅茶山研究﹂ から述べる︒ 第一章 ﹁菅茶山の政治批判−﹁忌諒に触れる﹂作品をめぐって−﹂ は︑茶山の別集﹃黄 葉夕陽村舎詩前編﹄ ︵文化九刊︶ の成立事情を考察したもの︒茶山は﹃前編﹄の校訂を頼 山陽に一任したが︑従来その編纂態度は明らかにされてこなかった︒しかし︑広島県立歴 史博物館所蔵﹃黄葉夕陽村舎詩草稿﹄ ︵以下 ﹁草稿﹂︶ に見える山陽の書き入れにつくこと で︑その編纂の様子が垣間見られる︒版本には幕府の悪政を諷喩した作品が散見されるが︑ 草稿にはこうした作品が版本の数倍も収められている︒公刊を前にして巧妙に削除された これらの詩には︑﹁忌詩に触れん﹂ などの注意を促す山陽の書き入れが必ず附されていたの である︒茶山の批判は︑主に田沼意次とそれに迎合する福山藩に加えられているが︑後年 福山藩から禄を食むことになった茶山としては︑たとえそれが三十年も前の出来事である にせよ︑主君への批判を公にすることは慎むべきであった︒そうした配慮が︑病的ともい える鋭い神経が政治的統制についても充分働いていたと思しい頼山陽によってなされてい たのである︒また︑茶山が幕政を諷喩する詩を多数詠じていた背景についても考察を試み た︒茶山は青年時代︑西山拙斎を中心としたグループに属していた︒拙斎といえば︑茶山 が敬愛してやまない先輩詩人である︒その拙斎は常々︑幕政とりわけ田沼意次批判を行っ ていた︒茶山が幕政を批判したのは︑拙斎の影響が大きかったといえる︒その証拠として︑ ﹃休否録﹄が挙げられる︒これは田沼批判の集大成ともいえる写本で︑茶山の詩も収録さ れているが︑山陽が危険だとして注意を喚起した作品は︑実はすべてこの﹃休否録﹄にも 収録されているのである︒青年時代の茶山は︑田沼批判を繰り広げる文人たちの中に身を 置いていたのであった︒青年時代の茶山の激情がうかがえるこれらの作品群は︑これまで 平明温雅な詩風とされてきた茶山の詩のイメージからは大きく隔たっており︑そういう意 味では︑新たな茶山像を提示しえたと評しうる︒ 第二章 ﹁頼山陽の茶山詩観1六如批判を通じて−﹂ は︑茶山の詩集に見える六如の評語 を批判する山陽の書き入れに注目したもの︒詩集の評語を通じて︑山陽は茶山の詩作をど のように見るかということをめぐる争いを仕掛けているのである︒山陽が執拗に六如の評 言に対して反駁したのは︑茶山に向って自分こそが茶山詩の理解者たるに相応しい人物だ と名乗りを挙げたかったからだと考えられる︒六知といえば︑茶山が尊敬する先輩詩人で ある︒その六如の評語を否定できれば︑敬愛する茶山からより一層の信頼を得られると山 陽は考えたのである︒版本に徴すれば︑六知を否定する山陽の意見は結果的には受け入れ られており︑そこから山陽に対する茶山の信頼のあっさがうかがえるのである︒ 第三章﹁連作の生成と解体−﹃黄葉夕陽村舎詩﹄の成立事情−﹂ は︑﹃前編﹄における二 つの作品群を取り上げ︑版本の成立事情について考察したものである︒﹁草稿﹂と版本との 比較を試みたが︑ここでも ﹁草稿﹂ に頻見される頼山陽の書き入れに手がかりを求めた︒.
(3) まず﹁梅花七首﹂ と題する七絶七首を取り上げた︒七首の特徴としては︑四首目︑つまり 連作の真申の作品が茶山の鬱懐を吐露したものである点︑全体が梅の開花から落花までの 時間軸に沿って排列してある点が挙げられる︒ところが ﹁草稿﹂ では時間の流れが無視さ れており︑また版本では四首目に位置した詩作が﹁草稿﹂ では最後に据えられ︑しかもよ り露骨に鬱屈が表白されている︒山陽の書き入れはこれを穏やかな表現に直し︑連作の最 後に据えるように指示するものであった︒茶山は山陽による字句の改変には同意したが︑ 排列の指示には従わずに︑時間に沿った排列にした︒七首は梅を詠じた作品をただ時間軸 に沿って並べたように見えるが︑実は︑茶山の寓意が込められた作品を目立たせまいとし て︑これを連作の真申に据えたのである︒次に︑﹁草稿﹂ では﹁衡茅﹂と題された七律八首 ︵版本では二首削られて六首︶を取り上げた︒これは﹁草稿﹂ では連作であったのが︑版 本ではその連作が解体され︵排列はもとのまま︶︑首句の二文字を摘んで題にしているので ある︵これを﹁非題﹂と呼ぶ︶︒山陽は忌諒に触れる箇所の部分的修正 ︵①︶と排列の変更 ︵②︶を指示している︒それに対して茶山は①については字句の修正にとどまらず全文削 除に踏み切り︑②については山陽の意見を斥け︑かえって連作そのものを解体し︑更に﹁非 題﹂ の題を付けた︒これは連作を解体することで自らの政治思想を組織立たせまいとする 所業といえるのである︒ 第四章﹁茶山︑道中吟に関する一考察﹂ では︑道の辺で詠まれた茶山の詩作を取り上げ た︒道中の嘱目の景を詠じた︑俳句のような写実的な作品が大半を占めるなかで︑やや趣 を異にする作品群を姐上に載せて︑その原因を考察したもの︒最初に取り上げたのが茶山 壮年期の作を収める﹃前編﹄巻一である︒これには道の辺の光景を詠じながらも煩悶や周 囲との違和感を詠じるという特徴があるが︑それは学業の挫折︑因習に固執する郷土への 嫌悪感に由来することを指摘した︒次に着目したのが︑﹃前編﹄巻四に収められた近畿周遊 の途で詠じられた作品群である︒そこには歴史や過去に目が向けられた詩が多いという特 徴が確認できる︒これは名所旧跡をゆっくりと見て廻りうる漫遊という直接的な原因の他 に︑親友らが軒並み零落した様が︑同じように散っていった往時の偉人らと重ね合わされ たという内面的な原因があったと思われる︒道中での吟を見てゆくことで︑茶山のその時々 の内面がより鮮明にうかがえるのである︒ 第五章﹁茶山が愛した青春像−箕浦子信伝−﹂は︑かつて秋月藩医でもあった箕浦子信 の事蹟を簡単にたどったもの︒箕浦子信は︑菅茶山︑頼山陽︑広瀬淡窓の三詩人とも交流 のあった人物︒山陽の撰文に係る子信の墓銘︑あるいは茶山や淡窓の漢詩等を取り上げる ことで︑細事に拘らない子信の剛毅な性情に迫っている︒茶山と淡窓とが交際するきっか けを作るなど︑子信の果たした役割は看過できないものがあるといえる︒ 第六章﹁頼春水の茶山詩評−﹃黄葉夕陽村舎詩後編﹄の成立事情−﹂ では︑﹁草稿﹂に おける頼春水の書き入れを取り上げ︑﹃後編﹄の成立事情を考察した︒﹁草稿﹂ における春 水の評語の特徴としては︑漢詩集の竜頭評にはあまり例を見ない和文による書き入れを施 していること︑用字・語法について細かく指摘していること︑厳しい評価を下しているこ.
(4) とが挙げられる︒これは茶山とは長年の親友であったことに加えて︑春水は自身の評語が 公にされることをほとんど予想していなかったことに起因すると結論づけられる︒ 続いて第二部﹁和漢比較研究﹂ について述べる︒ 第一章﹁三宅囁山の﹃唐詩選﹄受容﹂ では︑中興俳譜の立役者として知られる三宅囁山 の︑漢詩人としての側面に注目した︒喩山の名を一躍有名にした﹃俳詣古選﹄が﹃唐詩選﹄ および﹃唐詩訓解﹄の大きな影響のもとに成ったものであることはすでに田中道雄氏のご 指摘が備わる︒古文辞学を修めた囁山にとって︑﹃唐詩選﹄は看過すべからざる重要な書物 といえる︒ そこで︑囁山の文学活動の根幹にあった漢詩文から︑﹃唐詩選﹄を受容した作 品を取り上げた︒﹃癖山詩集﹄巻八・五言律詩の部の作品群は︑﹃唐詩選﹄巻三・五言律詩 の部に見える作品の詩題と重なっているので︑その詩作を詳しく読み解くことで︑癖山の ﹃唐詩選﹄受容がどのようなものであったかを明らかにし︑さらにそこから彼の創作の方 法についても考察した︒ 最初に張説の ﹁還至端州駅前与高六別処﹂詩を取り上げ︑晴山 が﹃唐詩訓解﹄や史書を読み込んだ上で原詩にはない情報を追加していたことを明らかに した︒次に陳子昂の ﹁春夜別友人﹂詩を取り上げた︒囁山はこの詩を三首の連作としてい る︒第一・二首はおおむね原詩の内容を踏まえたものであるが︑第三首目は原詩から大き く距離を取った内容となっている︒とはいえ︑晴山は想像力をほしいままにして内容を変 えたのではなく︑﹃訓解﹄や陳子昂の経歴・代表作をしっかりと押さえた上で原詩を改変し ていることを明らかにした︒最後に孟浩然の ﹁臨洞庭﹂詩を取り上げた︒癖山は孟浩然の 詩の内容などから﹃楚辞﹄﹁九弁﹂や﹁漁父辞﹂を連想し︑﹃楚辞﹄に見える詩句を取り入 れて︑孟浩然の詩の世界と融合させるという手法を取っている︒以上の考察をとおして︑ 晴山の﹃唐詩選﹄受容のあり方と︑その創作方法の一端を詳らかにした︒ 第二章﹁江戸漢詩が詠んだ蝶−菅茶山﹁蝶七首﹂を中心に−﹂ では︑茶山の ﹁蝶七首﹂ と題する七首連作の五言絶句を取り上げた︒その際︑﹁草稿﹂との比較をとおして︑版本に 至る過程でどのような推敲が加えられたかにも注目した︒茶山は﹁蝶七首﹂において︑中 国古典詩歌から趣向や表現を借りることはあまりせず︑むしろ日本の俳譜から着想を得て いるが︑このあたりに﹁蝶七首﹂ の特徴があるといえる︒十八世紀も後半になると︑漢詩 は徐々に日本独自の事物まで詠出の対象とするようになってきた︒日本の風土にあった漢 詩が大量に詠まれ︑しばしば漢詩の日本化などと称される現象が見られるようになる︒蝶 を詠むという行為自体は中国の詠物詩の伝統を引き継ぐものであったが︑その詠まれ方を 詳しく見てみると︑そのいくつかは俳語から大きな示唆を受けており︑またそうでなくと も︑類型的表現を極力排した︑俳句を思わせる写実的でさらりとした詩作が多数見受けら れる︒すなわち︑﹁蝶七首﹂は︑極めて日本的な発想法によって︑蝶そのものが詠まれ始め た大きな一歩とすることができるのである︒ 第三章﹁広瀬淡窓︑李白への挑戦−﹁月下独酌﹂論−﹂について述べる︒飲酒詩の代表 作として知られる︑李白の ﹁月下独酌﹂詩の魅力とは︑名月とわが身の影とを友人と見な し︑共に酔中の趣きを尽くす︑という合理的思考の枠を破った着想にある︒中国古典詩歌.
(5) の趨勢を概観すると︑李白以降︑自身の作品に﹁月下独酌﹂ と題することは一種のタブー となっていたことがわかる︒それは ﹁月下独酌﹂ なる詩を詠じた場合︑自らの作品が李白 詩より一段劣るということを︑自らの作品を以て証明する結果となるからであろう︒そう した中で広瀬淡窓が自身の作品にあえて ﹁月下独酌﹂ と題したことには注目される︒実は 淡窓は︑﹁李杜彼を誰とか為さん﹂ ︵﹁論詩︒小関長卿・中島子宝に贈る﹂詩︶と詠じ︑李 白や杜甫に対して並々ならぬ対抗意識を燃やした人なのであった︒本稿は︑淡窓がいかに して李白﹁月下独酌﹂ の奇抜な着想を乗り越えようとしたかを考察したもので︑従来教育 者としての側面が強調されることの多かった淡窓の︑詩人としての一面に焦点を当てたも のである︒淡窓は︑李白の頃にはなかった望遠鏡を覗いて月を眺めるという設定によって 新規性を打ち出している︒それに加えて︑西洋由来の ﹁天動説﹂を取り入れることで奇抜 な着想を生み出した︒すなわち︑我々が月を友とすることで孤独を慰めたように︑月の住 人である婦蛾もまた︑太陽に照らされた地球を友とすることで孤独を慰めたはずだ︑とい うように︒中国古典詩歌の伝統において︑婦蛾はひとり月で寂しく暮らす存在として詠ま れ続けていた︒しかし︑最新の天文暦学の知識を吸収することで︑淡窓は婦蛾が実は孤独 ではなかったのだと道破し︑これまでの伝統を打ち破った︒﹁月から見れば︑地球は月のよ うに見える﹂という淡窓の着想は︑正しく奇抜なものであろう︒このような奇想によって︑ 淡窓は李白の世界に張りあった︒淡窓は︑日本人の作る漢詩など本場中国の亜流に過ぎな いというレッテルを剥がし︑日本にも李白や杜甫に負けない詩人がいるのだということを 訴えているのである︒ 第四章﹁日本の青丘松橋江城の文事−﹁秋懐十首﹂を中心にー﹂ は︑近江出身の漢詩人 松橋江城に焦点を当てたもの︒前半では︑江城の事蹟について︑田中芹披撰文﹁松橋江城 墓碑銘﹂︑依田学海﹃話園﹄中の記事︑および奥野小山撰文の﹃学詩堂詩紗﹄序文を取り上 げた︒江城の人物像を浮き彫りにするために用いた三種の資料はそれぞれ相補う関係にあ るといえる︒初めに草された小山の序文では︑高音部を典範としていたという江城の詩人 としての立脚地が開明され︑次に成った墓碑銘では︑日本の危機に際して詩をもって寄与 することができようという詩人としての自負と祖国を想う熱い気持ちとを知ることができ︑ 最後の学海の随想では︑詩人通有の放逸な一面が暴露されるというように︑それぞれが別 個の江城像に焦点を当てている︒この三種の資料のいずれにも江城が青邸を尊崇していた という記述が見えることに着目して︑後半では江城における青邸摂取の在り方を︑とりわ け ﹁秋懐十首﹂ という江城・青邸どちらの詩作にも見られる詩題を有する作品群をもとに 考察した︒語句や趣向など多くの点で︑江城が青邸を模範としていることを指摘した︒ 第三部は ﹁文人趣味﹂ という視点から論じている︒ まずは第一章﹁近世文人の愛石趣味﹂ である︒愛石趣味は近世期を通じて行われたが︑﹁玩 物喪志﹂などの倫理的規制を強いられる朱子学者は︑石にうつつを抜かしているなどという批難 を受けかねない立場にあった︒彼らの石を詠じた詩︵詠石詩︶には常にその批難をかわすための 弁明が盛り込まれている︒しかし寛政の三博士の一人として︑当時最高の評価を得ていた柴野栗.
(6) 山の詠石詩にはそうした弁明が見られない︒例えば他人の石を横取りしたことを嬉々として詠じ ているというように︑自分の愛石ぶりを包み隠すことなく表明している︒こうした栗山詩の特殊 性は詩集の刊行を期してなかったことに由るものと思われる︒栗山には詩作を公にする意思がな かったからこそ︑石ころに現を抜かす様子を平然と詠じえたのである︒公にすることを前提にし た栗山の文集には︑打って変わって儒者としての規範音義︑批難を受けないで済ますための弁明 が多く見えることがそのことを裏付けていよう︒近世期における愛石趣味の一斑を瞥見すること で︑江戸時代に共通する儒者の規範意識をうかがおうと企図したものである︒ 第二章﹁菅茶山の題画文学−﹁呼起の賛﹂を手がかりに−﹂は︑画布には描き出されて いない要素を引き出し︑呼び起こすのが画讃のあるべき役割であることを説き︑菅茶山の 三首の画讃に就いて︑そのあるべき役割が達成されている事を具体的に説明したものであ る︒普通︑題画詩に就いては︑不即不離という視点のみから論じられるのであるが︑本稿 では︑山科道安の﹃椀記﹄から得た呼起理論を茶山詩に当てた点に特色がある︒ 第三幸司四略図賛﹂の意味−菅茶山の題画文学−﹂は︑岡本豊彦画・菅茶山賛﹁四略図﹂ を取り扱ったもので︑茶山の賛が従来の伝統と相違している点に着目し︑そこから茶山の 内面に迫ったものである︒岡本豊彦の画には囲碁に興じる四老人の姿が描かれている︒こ の四人が﹁四暗﹂と称される隠者である︒四略は秦の圧政を避けて︑商山に隠遁した︒秦 が敗れ天下が定まったとき︑漠の高祖は四略を召した︒しかし︑礼儀作法に頓着せず︑士 を軽んじるという高祖の人となりを忌避して︑四老人はあえて商山を出ようとしなかった︒ しかし︑漢の帝室が継嗣問題に揺れたとき︑四暗老人は下山して︑問題解決に尽力した︒ その後︑四陪老人は瓢然として再び商山に帰ったという︒つまり︑画では下山する前の四 略の姿が描かれていたことになる︒一方︑賛には︑下山した後の四略の活躍を暗示した内 容となっている︒要約すると︑今は﹁無用﹂に見えるこの四老人も将来は﹁有用﹂な存在 となるだろう︑というものである︒画と費は不即不離の関係にあらねばならず︑同じ四暗 老人に纏わる内容であっても︑画と賛とでは時間やシチュエーションを変化させ︑奥行き を持たせることが要請される︒鑑賞者は︑画を観ては四老人の閑適の状を思い︑賛を読ん では下山後の彼らの活躍に想いを馳せることができる︒ところで︑隠者として見た場合︑ 四暗老人は伝統的に批判されることの多い存在であった︒批判の矛先は︑皇位継承問題に 首を突っ込んだことが隠者らしくないという点に向けられている︒それにもかかわらず︑ 茶山が四略を﹁有用﹂としたことには注目される︒なぜなら︑茶山といえば隠遁に対する 憧憶を常に抱き続けた詩人であったからだ︒その一方で茶山は︑塾の後継者問題に終生︑ 頭を悩ませていた︒そのような茶山にとって︑皇位継承者問題を解決した四時老人は羨望 の対象であり︑見習うべき手本だったといえる︒茶山が四暗老人の本意にあえて背き︑こ れを﹁有用﹂なものとした理由はここにあろう︒この画賛は表面上は四暗老人に関する文 言に終始しているが︑その内側からは︑学問の必要性を痛感していた茶山の塾への思いと︑ 後継者探しに難渋する茶山の屈託とが両つながらに渉み出ていると考えられるのである︒.
(7) 第四章﹁見えるものと見えないもの−画と賛の交響−﹂ では︑渡辺小筆自画賛﹁紅紫牡 丹之図﹂および蹄斎北馬画・菊池五山賛﹁螢狩美人図﹂ の二作品を取り上げ︑画と賛との 関係を考察した︒特に後者の作品では︑蛍狩りをする美女が宇治川の戦いで先陣争いをし た佐々木高綱と梶原景李の見立てであることを︑題画詩を読み解くことで明らかにしてい る︒題画詩を読まずに絵画を鑑賞することは不可能であるとして︑漢詩文を切り離しがち であった従来の研究の在り方について批判的に言及した︒ 第五章は﹁文人・浅野梅堂の誕生I﹁安政六年・山水自画賛図﹂を手がかりに−﹂と題 する論考である︒浅野梅堂長所︵一八一六−一八八〇︶は︑幕臣と文人の両面を有する人 であった︒播磨赤穂侯の支族として生を受けた梅堂は︑三五〇〇石を領する︑堂々たる上 級旗本である︒その一方で梅堂は︑七︑八歳の頃より漢詩や和歌︑発句を案じ︑仕官して からは俸禄の大半を書画骨董につぎ込む文雅の士でもあった︒その梅堂が三五〇〇石を領 する上級幕臣としての仮面を脱ぎ捨てて向島に隠遁したのが慶応三年のこと︒以降︑専ら 文雅の営みを事とする生活を開始するが︑実際は収集品を﹁一ツ皆ニッ皆今日ノ活計朝暮 ノ莫炊二困迫シテ薪塩二換﹂えるという︑赤貧洗うが如き暮らしぶりであった︵﹃寒繁瑛綴﹄ 巻六︶︒本稿は︑梅堂が骸骨を乞うて︑文人としての歩みを始めるに至った心境を︑梅堂自 身が制作した絵画とそこに書き付けられた題画詩からうかがおうとするものである︒本稿 で取り上げた﹁安政六年・山水自画賛図﹂ ︵早稲田大学中央図書館所蔵︶ の画幅上部余白に は︑左︵五絶︶・中央︵五古︶・右︵七絶︶に三首の漢詩が書き付けられているが︑中央の 詩と左右の詩とでは構図や筆致に明らかな差異が認められる︒中央の詩は細筆もて四角張 った梓書が神経質そうに小さく並んでいるが︑左右の詩はやや太めの筆を用い︑裕連な草 書体の文字で大きく綴られている︒これは中央の詩と左右の詩とでは制作時期を異にして いることを示唆しよう︒実際︑左右の詩には梅堂退隠後の号とされる﹁梅堂﹂ の印章が押 されているが︑中央の詩にはそれが見えない︒つまり︑梅堂は安政六年に画を制作し︑そ の直後に中央の題画詩を書き記した︒その後︑恐らくは慶応三年以降︑退隠した梅堂は再 び画幅を取り出し︑新たな感興をもって左右の詩を書き足したのである︒本稿では︑山水 画とそこに書き付けられた制作時期の異なる三首の漢詩に考察を加え︑たとい窮乏はした にしても︑内面は悠々自適の晩年を過したとされる梅堂の内面の葛藤に迫ったものである︒ 以上が学位請求論文の概要であるが︑総じていえるのは︑作品の大体を理解して事足れ りとするのではなく︑一つ一つの作品を丁寧に解釈しながら論を進めているということで ある︒文学史の大まかな流れからは無視されがちな部分にあえて着目することで︑文人た ちの多様な活動を明らかにし︑それがひいては文学史の見直しを迫ることにつながると考 えたためである︒.
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Matsui 2006, Text D)が Ch/U 7214