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古代の「武士」と中世武士藤田 佳希

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Academic year: 2022

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二〇一六年度早稲田大学史学会大会報告一一一 エジプト中王国時代の装身具利用  ―出土遺物と図像資料からみた副葬品選択の一側面―大学院学生  山崎世理愛

▽総会  第一会議室

▽公開シンポジウム「海域からみた東アジア」

  報告①「南海交易からみた琉球列島」早稲田大学  田畑  幸嗣   報告②「海を渡った平和への祈り―大徳寺伝来五百羅漢図顛末―」

早稲田大学  近藤  一成   報告③「東シナ海域のなかの近世琉球」

長崎歴史文化博物館  深瀬公一郎

▽懇親会  森の風 ▽部会発表要旨〔日本史部会〕

古代の「武士」と中世武士

藤 田   佳 希

  武士には様々な定義が存在するが、先行研究における共通見解を示せば、中・近世の職業戦士、もしくは天慶の乱鎮圧者の子孫であり、その成立は中世に求められる。しかし、「武士」の語は武士成立以前の古代の史料にも見え、これは中世武士の先駆である可能性が指摘された。近年の研究ではこの可能性は否定され、古代史料に見える「武士」は単純に武官を示し、中世武士とは全く関係がないとされた。だが、史料上に見える全ての「武士」が先述の定義に当てはまるわけではなく、社会的身分としての武士を表さない「武士」も見える。この場合の「武士」は、観念としての武士と呼ばれ、単に武を持つ者とされる。観念としての武士には辟邪性という特徴があり、辟邪性とは邪を払って聖なる王権を守護することを意味する。辟邪性は滝口武士や天慶の乱鎮圧者に見られると言われるが、その成立については不確定である。そこで本報告では、古代史料に見える「武士」と中世武士を辟邪性の観点から見ることで、先行研究では否定された両者の接点や辟邪性の成立を明らかにしよう

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史観第一七六冊一一二

とした。

  はじめに、古代の「武士」について考察した。史料上の「武士」の初見は『続日本紀』であり、ここでは「武士」と称された人々が褒賞されている。彼らの氏族性を見ると、「武士」は軍事的な武芸を用いる者であると分かる。他にも「武士」の用例は『万葉集』にも見え、『続日本紀』の「武士」と同様の存在であるが、「武士と 言はるる人は  天皇の  神の御門に  外の重に  立ち候ひ  内の重に  仕へ奉りて」と詠まれ、宮内外を警固する姿が詠われている。古代の「武士」には、宮中警固を通して、王権を守護するイメージが存在していたと言える。宇多朝になると、御所近辺の警固を担当した滝口武士が創設され、「武士」は官職を示すようになった。『日本紀略』においては、滝口武士は「武士」、中世武士は「武夫」や「武勇人」など称され、「武士」は滝口武士を表す時のみに用いられた。このことは滝口武士が王権の守護者として特別視されていたことを示す。

  中世武士は史書においては「武士」と称されなかったが、物語では「武士」と称された。すなわち、中世武士を表す「武士」は『宇津保物語』が初見である。しかし、物語中に示された武士像は王権の守護者ではなく、鳥や獣を殺して食らう恐ろしい姿であった。このような中世武士に辟邪性を与えたのは大蔵氏である。大蔵春実は藤原純友の乱において奮戦し、その活躍が『純友追討記』に描かれた。さらにその孫の大蔵種材は、刀伊の入寇において女真族を撃退 する活躍を見せ、当時の上級貴族からも「無止武者」と称賛されるに至った。大蔵氏は藤原純友の乱や刀伊の入寇での活躍を通じて、賊徒や外敵という邪を払う姿が中央貴族により意識され、中世武士に邪を払うイメージを付与するのに役立った。その後、大蔵氏は戦乱において大功を挙げることがなかったため、その存在も意識されなくなったが、武士の辟邪性は清和源氏が担うこととなった。  清和源氏(河内源氏)の武士源義家は前九年・後三年合戦での活躍を通じて王権の守護者としての評価を受けたが、一方で多くの罪なき人々を殺害した残忍なイメージも存在した。しかし、「天下之固」たるイメージは孫の為義に引き継がれた。これと同じく、頼光流清和源氏にも辟邪性が存在した。源頼光の子孫頼兼・頼茂父子は鎌倉期に内裏を警固する大内守護に任じられた。このことから、王権守護のイメージが祖先の頼光や頼政にまで及び、彼らは妖怪を退治して王権を守る物語の主人公とされた。特に、延慶本『平家物語』に載る鵺退治の説話には、頼政が武士誕生の由来を王権守護に求める台詞がある。ここに王権守護と辟邪は組み合わされ、武士の辟邪性が具体的に創出されたと言える。  古代の「武士」が孕んでいた王権守護のイメージと中世武士が持つ邪を払うイメージは長い歴史の中で受け継がれ、物語で集大成を見ることとなった。古代の「武士」と中世武士は、その担い手が異なるため、一見すると両者に関連性が無いように思えるが、辟邪性という観点から見れば、両者には連続性があると考えられる。

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