三五詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川)
詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性 (二)
── 真実主張をともなう欺罔をめぐるドイツの議論を素材として ──
冨 川 雅 満
Ⅰ はじめにⅡ 真実主張をともなう欺罔の基本的問題点
Schröder Schumann
1による問題提起とによる批判
2BGH
一九七九年決定とその後の判例実務の動向
3二〇〇〇年代に至るまでの学説の議論状況
Ⅲ二〇〇〇年代のドイツ判例と学説の推移 4小括(以上、第一二二巻第三・四号掲載)
1BGH
二〇〇一年判決と二〇〇三年判決
⑴ 二〇〇一年判決(詐欺罪肯定)⑵ 二〇〇三年判決(詐欺罪肯定)
⑶ BGHの見解の確認
2両判決に対する学説による批判的分析
研 究
三六 ⑴ 錯誤惹起意図について ⑵ 被害者の答責性と個別事情の考慮 ⑶ 真実主張による欺罔類型での独自基準の必要性
Ⅳ真実主張と欺罔行為の関係性および判断基準に関する検討 3小括 1真実主張は欺罔になりうるか ⑴ 「欺く」の一般的語義について ⑵ 欺罔の構造的分析
2欺罔行為の再定義とその判断基準 ⑴ 許されざる情報格差の利用 ⑵ 欺罔行為の判断基準と客観的欺罔適性 ⑶ 錯誤惹起意図は基準たりうるか
3考慮されるべき個別事情の選択 ⑴ 被害者の心理的動揺 ⑵ 被害者の取引への精熟度 ⑶ 統計的な錯誤者の割合
Ⅶおわりに(以上、次号掲載予定) Ⅵ近時のBGH判決の問題点およびその検討 Ⅴ情報通信技術を用いた事例が問題となった近時のBGH判決 4小括(以上、本号掲載)
三七詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川)
Ⅲ
二〇〇〇年代のドイツ判例と学説の推移前章では、学説での真実主張による欺罔の議論のはじまりと、一九七〇年代から一九九〇年代に至るまでの判例実務における請
求書類似書類送付事例の取扱いを参照してきた。当時、両者は関連づけられて議論されるものではなかったが、請求書類似書類送
付事例で詐欺罪を肯定したBGH
二 Schröder
〇〇一年判決はの立場に依拠しており、請求書類似書類送付事例を真実主張による欺罔と結びつけて、その理論を構成している。その意味で、このBGH判決は、従前の議論状況に新たな展開をもたらしたものと
いえる。本章では、このBGH判決を含めた二つの判例を、そして、これらBGH判決に対する学説の反応を参照することとする。
1 BGH
二〇〇一年判決と二〇〇三年判決
⑴ 二〇〇一年判決(詐欺罪肯定)
BGH第四刑事部は、二〇〇一年に、被告人が、日刊紙に掲載された死亡広告から得られた情報をもとに、当該広告に対する請
求書かのような外観を有する、真実は、被告人の設立した会社の運営するインターネット上での広告掲載を内容とする契約申込書
を故人の親族に送付した事案で、詐欺罪を肯定した(以下、これを二〇〇一年判決と呼ぶ
)((
()。事実審である
LG Bochum
の認定によれば、行為者は、当該日刊紙が発刊された二、三日以内に、請求書に類似した契約申込書を、必要事項がすでに記載された振替依頼
書とともに送付することを計画し、この計画のもとで、実際に、少なくとも一万二、五〇〇通の契約申込書を送付した。書類を受け
取った者の多くがこの契約申込書を、日刊紙に掲載された死亡広告に対する請求書であると考え、被告人の会社による新たな広告
掲載の申し出であると認識できた者はごくわずかであった。
LG Bochum
は詐欺未遂罪または詐欺既遂罪の成立を肯定して、全体として一個の詐欺罪により被告人を有罪に処した
)((
(。
三八
第四刑事部はまず欺罔行為の一般論を展開し、それによれば、欺罔行為とは「客観的に錯誤を惹起ないし維持し、それによって
他人の表象に影響を与えるすべての態度」であるという
)((
(。ここには、明示的に行為者が虚偽を述べた場合はもとより、推断的欺罔
も含まれる。くわえて、過去のドイツ民事判例に照らせば
)((
(、「行為者が申告用紙を送る際に、とりわけ、本件のように、……[中略]
請求書に類型的な要素を組み込み、契約申込みという性質が細字で説明されているといった、契約申込みの性質を完全に隠蔽させ
るほどに請求書要素が全体的印象を形成している場合、この書類には、客観的な社会生活上の通念に従えば、支払い義務が存在し
ているとの推断的な言明が含まれているといえ、この推断的な説明を通じて、行為者は受け手を欺罔している」 )((
(という。
ただし、第四刑事部によれば、他方で、「不用意な人間を、その者自身の不用意さゆえに生じた結果から保護することは、詐欺罪
構成要件にいう保護法益には属さない」のであって、単に被告人の送付した書類が誤解されうるもので、そのことを被告人が認識
していたとの事情だけをもってして、欺罔行為が認められるわけではないという
)((
(。たしかに、行為者が相手方に対して錯誤、ひい
ては財産的損害の発生を期待することは、社会倫理的に非難されるべきかもしれないが、それだけで欺罔行為が認められるわけで
はない。欺罔行為とはドイツ刑法二六三条の「本性をなす犯罪行為(
eigentliche deliktische Tathandlung
)」なのであって、錯誤の存在が欺罔行為を根拠づけるわけではない。欺罔行為が肯定されるためには、「被欺罔者の表象への影響力の行使、つまり、客観的
にみて、受け手に現実の状況に関する誤った表象を惹起するだけの適性を有し、主観的にみても、そのことにつき決定的であるよ
うな行為者の態度」が認められなければならない。換言すれば、「行為者が錯誤を惹起する適性を有した(内容的には正しい)説明
を計画的に組み込み、それと共に『外見上は取引に則した(
verkehrsgerecht
)態度』という外観のもとで受け手の損害をまさに追 求した場合であり、つまりは、錯誤惹起が単なる結果 00000ではなく、行為の目的 00000といえる[傍点は筆者による]」場合に欺罔行為が肯定される
)((
(。それゆえに、欺罔行為を肯定するうえで要求される故意の程度も、行為者が相手方における錯誤を未必的に認識していた
ことでは足りず、直接的故意(
direkter Vorsatz
)が必要であるという。これを当該事案に照らして考えてみると、「被告人の『構想』によれば、まさに、内容的には真実を含んだ書類を通じて、当該書
詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川)三九 類の受け手に錯誤を惹起することを狙っていた」といえる。「たしかに、行為者の作成した書類自体には真実の説明が含まれているが、
この真実の指摘は、……[中略]適法な債権行使として見せかけるための単なる『張りぼて(
Fassade
)』なのである」 )(((から、欺罔
行為を否定する事情にはならない。
さらに、第四刑事部は、かつての一九七九年決定との関係性にも言及し、今回の判決が一九七九年決定の射程を「逸脱するもの
ではない」としている。第四刑事部によれば、一九七九年決定は商取引に経験豊かな者に請求書に類似した申込書が送付された事
案であり、一般人に書面が送付された当該事案とは事実を異にするために、「本刑事部が、この(かつての第五刑事部の)制限的な
見解に従うか否かを保留することができる」とした )(((。その意味では、BGHは、客観的に欺罔行為の存否を判断する際に、「説明の 受け手に期待されるべき(類型的な)注意義務(
Sorgfaltspflicht
)をも考慮している」という )(((。以上の理由から、BGH第四刑事部は当該事案での欺罔行為の存在を肯定した。
⑵ 二〇〇三年判決(詐欺罪肯定)
二〇〇一年判決と一九七九年決定は、被害者が商人かそれ以外の一般人であるかで事案を異にするものであり、二〇〇一年判
決もこの点を捉えて、一九七九年決定と矛盾するものではないことを指摘していた。これに対して、二〇〇一年判決以後、
OLG
Frankfurt a.M.
の第一刑事部と第二刑事部は、書面の受け手が商人であったことを理由に下級審が捜査手続の停止命令および公判手続の拒否命令を下したことに対して検察官が即時抗告を申し立てた事案で、二〇〇一年判決に依拠したうえで、詐欺罪の十分な
犯罪行為の嫌疑があるとしてこの即時抗告を許容した
)((
(。
これら下級審刑事部の決定に加えて、ついにBGH自身も商人を対象とする請求書類似書類送付事例にて詐欺罪を認めた。BG
H第五刑事部は、被告人が、外観は公官庁の登記簿登録に対する請求書に類似した、真実は被告人の運営するデータバンクへの登
録を促す契約申込書を送付した行為につき、
LG Potsdam
が詐欺罪を否定した事案で、二〇〇三年に、当該行為が詐欺罪に該当す四〇
ると判断した
)((
(。
LG Potsdam
は、契約申込書の受け手には「平均的な用心深さを用いること(だけ)で、少なくとも公的機関による請求書が問題となっているわけではないことが認識可能」であって、とくに商取引に経験豊かな者には、「書類の裏面も疑いをもって読み、契
約申込書であると認識すること」が期待されうるし、期待されなければならないとして、当該申込書が欺罔行為となるだけの適性
を有していないと判示したが、BGH第五刑事部は、この
LG Potsdam
の見解を「説得的ではない」と述べたうえで、「[被欺罔者が: 筆者補足]、軽信的であったこと 000000000、十分に注意深く調査すれば欺罔を認識できた 00000000000000000000といった事情は、……[中略]欺罔行為を排除するものではない[傍点筆者]」とした
)((
(。そのうえで、先の二〇〇一年判決に依拠して、「錯誤惹起が単なる行為の結果ではなく、その
目的といえる場合」には欺罔行為が肯定されるとして、当該事案での被告人の態度はこの基準に従えば欺罔行為にあたるとした。
ここで重要なのは、請求書に類似した契約申込書の受け手が商人であった場合にも、欺罔行為が肯定されるとしている点である。
第五刑事部によれば、欺罔行為の判断にあっては、「単に受取人の取引経験のみを考慮すべき」ではなく、「当該書類が無作為に偶
然に選出された受取人らに送付されたわけではない」こともあわせて考慮すべきであるという )(((。すなわち、被告人は、事前に商業
登記簿に登録した企業を意図的に選択しており、これらの企業には、当該登録に対する請求と思料するだけの背景事情が存在する。
くわえて、当該書類の処理は事務員によってなされるものと見込まれ、受取人がルーティンワークのなかで不注意であることは当
然ともいえるので、書面の宛先が商人であるとの事情は欺罔行為の想定を排除しないという。また、かつての一九七九年決定につ
いても、これが商業者を相手方とする請求書類似書類送付事例において、故意の欺罔行為が一律に否定されるべきことを示したも
のとして理解されてはならないとした。
ここで、BGHは相手方が商人である場合であっても、類型的な注意義務の高さだけをもってして欺罔行為が否定されるわけで
はないことを確認した。BGH
二
〇〇一年判決および二〇〇三年判決を通じて、請求書類似書類送付事例において欺罔行為が肯定されうること、そして、商人に対する取扱いについてのBGHの態度決定が明らかとなったといえる。
四一詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) ⑶ BGHの見解の確認
ここで、前章小括で挙げた四つの問題点、すなわち、①真実主張による欺罔と罪刑法定主義との関連性、②自己答責性の捉え方、
③商人と素人との取扱いの相違、そして④行為者の錯誤惹起意図のうち、両BGH判決に関連する④、②、そして③の点に関する
BGHの見解を、その理由を踏まえて、いまいちど確認する。
まず、④錯誤惹起意図について、BGHが行為者の錯誤惹起意図と欺罔行為概念とを密接に関連づけていることは、前述の
二〇〇一年判決からも明らかである。すなわち、「錯誤惹起が単なる行為の結果ではなく、行為の目的である」といえる場合に、欺
罔行為が認められるとしているのであり、その限りで、相手方に対する錯誤を行為者が未必的に認識しているだけでは足りず、確
定的に認識している必要があるという。このような見解は、すでに確認した
Schröder
の見解にならうものであり、Schröder
も、行為者が自身の説明によって相手方に錯誤が生じることを目的としている場合には、欺罔行為が認められるとしていた
)((
(。
もちろん、第四刑事部は、行為者の主観面を重視する前提として、欺罔行為の客観面を考慮していることを指摘しているのであっ
て、その意味でもっぱら主観的側面をもってして、欺罔行為の存否を判断しているわけではない。すなわち、「客観的にみて、受け
手に現実の状況に関する誤った表象を惹起するだけの適性(
objektiv geeignet
)」(客観的欺罔適性)と、それについて「主観的に みて決定(subjektiv bestimmt
)」的であること(主観的決定性)が重要であるとしている。この、客観的欺罔適性と主観的決定性という二つの側面が認められて、はじめて欺罔行為が肯定されるとするのである。とはいえ、かりに「書類の受け手が注意深く調
べた際に、当該書面の真実の性質を、請求書ではなく、契約申込書であると認識しえた場合であっても」、客観的な欺罔適性は否定
されないとしているのであるから、その重点は、結局のところ主観的要素にあったとの分析も可能である
)((
(。ドイツ学説上も、BG
Hの見解は欺罔行為概念を主観化する傾向にあり、二〇〇三年判決において同基準が維持されていることからも、この傾向はその
後のBGHにおいて引き継がれていることが指摘されている
)((
(。
ついで、
Schumann
が強く主張した②被害者の答責性についても、BGHはその立場を明らかにしている。かつて、Schumann
は、四二
「ただ考えられうるにすぎないリスクすべてから個々人を守ることは刑法の使命ではない」として、「自身の無能力さや自身の評価
の過ちから個々人を保護するものではない」と主張した
)((
(。この点、BGHも「不用意な人間を、その者自身の不用意さゆえに生じ
た結果から保護することは、詐欺罪の保護法益には属さない」として、この考えに理解を示している。くわえて、二〇〇一年判決が、
「客観的な欺罔行為を認めるには、説明の受け手に期待されるべき(類型的な)注意義務も考慮する」としていることからも )(((、BG
Hは欺罔行為を肯定する際に、被欺罔者の落ち度、つまり、答責性の要素を考慮していることが窺える。しかしながら、結論とし
ては、たとえば、二〇〇一年判決は、当該事例では被欺罔者の錯誤は「行為者の答責領域に分類される」として欺罔行為を肯定し
ていることから、かつて、
Schumann
が主張したように、自己答責の原則に照らして真実主張による欺罔で可罰性が概して肯定されえない、と考えているわけでもない。二〇〇三年判決が「軽信的であったこと、十分に注意して調査すれば欺罔であると認識で
きたこと」をもって欺罔行為が否定されるわけではないとしていることからすれば、説明の受け手に要求される注意義務の程度には、
具体的状況に応じて相違があるとしているのであろう。
その説明の受け手に要求される注意義務が、その人の属性によって変化が生じうるのかどうか、すなわち、③商取引経験の有無
によって相違があるのかどうかについて、BGHはどのように考えているのであろうか。ここまでの学説・判例上の議論においては、
これを重視する見解と両者に特別な相違を設けない見解とが存在していた
)((
(が、二〇〇三年判決をみる限りは、BGHは後者を採用
しているように思われる。すなわち、請求書類似書類送付事例において詐欺罪を否定した裁判例や二〇〇三年判決の原審である
LG
Potsdam
が、商取引に経験を有する者にはその経験に乏しい者よりも、類型的に高い注意義務があることを理由に欺罔行為を否定していたのに対して、BGHは「単に受取人の取引経験のみを考慮すべきではなかった」としているのである。このような考え方は、
Mahnkopf/Sonnberg
が主張した考えに部分的に近いものであるし)((
(、それ以上に、
Garbe
の見解を基礎にしているものである。すで にみたように、Garbe
は「刑法二六三条は特定の人的グループへの制限を知らない」として、軽率な商人が被欺罔者である場合にも欺罔行為が肯定されうることを認めていた。
四三詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) このように、主観的要素を重視する傾向と、被害者の答責性を具体的事情に照らして個別に検討する見解は、BGH
二〇〇一年
・
二〇〇三年判決によって、BGHの立場として明確に記されることとなった。その意味で、この両判決はドイツの判例実務を方向
づけるものとして重要な意義をもち、その後も裁判実務ではこの見解が維持されることとなったのである。その後の判例の動きに
ついては、Ⅴ章で取り上げることし、まずは、ここまでのBGHの見解が学説上どのように受け止められたかを参照する。
2両判決に対する学説による批判的分析
⑴ 錯誤惹起意図について 前述の両BGH判決に対するもっとも強い批判 )(((は、BGHの見解が行為者の錯誤惹起意図を欺罔行為の判断に際して重視してい
る点にみられる。二〇〇一年判決および二〇〇三年判決において詐欺罪が肯定されたことにつき結論において賛意を示している論
者のなかでも )(((、その基準としての妥当性には批判的な者が多い。たしかにBGHは、行為者の主観的事情のみならず、客観的欺罔
適性も考慮するとしているが、学説の多くは、BGHの見解において両者は並列されているのではなく、むしろ錯誤惹起意図が第
一義的に考慮されていると分析している。このことは、たとえば、BGHが自身の見解を
Schröder
の見解に依拠させている点からも明らかであり、あるいは、「客観的欺罔適性と主観的決定性という二つの要件を満たす行為者態度は、『被告人によってその手配
が命じられた書類の受け手が入念に調査した際に書類の真の性質を請求書ではなく申込書として認識しえたであろう場合であって
も』存在しうる」としている点からも読み取られる )(((。とすれば、「たしかに、第四刑事部は二〇〇一年判決での事実認定が『欺罔行
為の前提となる行為の主客両面』を裏付けていることを表現している」ものの、「しかしながら、本刑事部は実際には基準として被
告人の主観的な目的を考慮している」といえる
)((
(。
このような欺罔行為概念の主観化について、たとえば、
Krack
は、詐欺罪が成立するためには、自己または第三者に利益を得さ せる目的を内容とする、いわゆる利得意図(Bereicherungsabsicht
)が主観的構成要件として要求されているところ、この利得意四四
図が認められる場合、通常は錯誤惹起意図も肯定されるのであって、欺罔行為の存否を判断する基準として錯誤惹起意図は有効に
働きえないとして批判を加えている。すなわち、「意図とは、最終的な行為者の目標と並んで中間的な目標をも包括している概念で
あるから、被害者の錯誤が行為者の計画からして利得に至る途上での必要的な中間目標である以上、錯誤惹起に向けられた意図は
通常は認められる」というのである
)((
(。かりにこのBGHの見解に従った場合、詐欺罪が否定されるべき代表的な事例としてしばし
ば取り上げられる、市場価格よりも高額で品物を購入した事案 )(((で詐欺罪を肯定することになる。というのも、売り手はまさに意図
的にその買い手の錯誤を惹起しているからである。
また、二〇〇一年判決の論証を精査すると、BGHの欺罔行為概念と判断基準とのあいだには矛盾が生じているとの見方もある。
BGH第四刑事部は、欺罔行為を「客観的に錯誤を惹起してないし維持させて、それによって他人の表象に影響を与えるすべての
態度」と定義していたが
)((
(、この定義においては欺罔行為は行為者の主観的側面に左右されるものではない。それにもかかわらず、「錯
誤惹起が単なる結果ではなく、行為の目的である」といえる場合に、行為者態度を欺罔行為とすることができると主張することに
つき
)(((
(、「なにゆえに、特定の目的によって行為者態度が構成要件に該当する欺罔行為となりうるのかは、まったく理解できない」と
批判されている
)(((
(。
たしかに、欺罔行為の存否を判断する際に、行為者の主観的事情を考慮することそれ自体は否定されるものではなく、ドイツの
多数説からも支持されている )((((。欺罔行為とは、「いわゆる『客観と主観との意味統一』として理解され」るもので、「説明者が、自
身の主張が真実ではないことを知らない場合には、……[中略]刑法二六三条にいう欺罔行為は存在しない」。しかし、同時に、「欺
罔行為概念にとって主観的要素が決定的な要素となるにしても、それは客観的な観点が背後に潜んでしまうことを意味するわけで
はない」のである
)(((
(。
四五詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) ⑵ 被害者の答責性と個別事情の考慮
二〇〇一年判決が商人を相手方とする事例についてその態度を保留したのに対して、二〇〇三年判決では商人に対する行為にも
詐欺罪が肯定された。このことからは、商取引の経験の有無が詐欺罪の成否について影響を与えるか否かについて、これを消極的
に解する方にBGHが舵を取ったとみるのが素直な捉え方である。ただし、二〇〇三年判決が「単に受取人の取引経験のみを考慮
すべきではなかった」と述べていることは、二〇〇一年判決が一般論として「客観的な欺罔行為を認めるには、説明の受け手に期
待されるべき注意義務も考慮する」としていることからすれば )((((、受け手の商取引の経験の有無が被害者の答責性を考慮する際の一
要素にすぎないことを意味していることになろう。BGHは被欺罔者の注意義務を考慮することにつき一定の理解を示しながら、
個別事案においてこれが欺罔行為を排除するまでには至らないとしたのである。
被害者の商取引経験の有無については、たとえば、
Schneider
によれば、BGHが前述のように行為者の主観面を欺罔行為の判断基準としている場合、これを考慮しないのが首尾一貫した結論であるという。「欺罔行為において錯誤惹起時の行為者の意図が基準
とされる場合には、行為者が商人を相手方としているのか、それとも消費者を相手方としているのかは重要ではない」のである
)(((
(。
商人と素人で欺罔行為の肯否を区別しないことそれ自体に対しては、学説上もこれを支持する見解が多い。たとえば、二〇〇三
年判決が「『請求書に類似して作成された書類』が実際には『事務員』によって『処理』され、経験豊かな商人自身によっては『処
理』されていないとの事情を考慮している」と指摘していることからすれば、書面の受け手が商人であるか、素人であるかによっ
て欺罔行為の肯否が分かれると考えた場合に、「詐欺(既遂)罪の存在に関する判断は、当該書類の送付者が影響を与えることので
きない偶然に左右される」ことになり、妥当ではなく、その点でBGHの判断は評価できるという
)(((
(。また、二〇〇一年判決および
二〇〇三年判決の事案で詐欺罪を否定すべきとする論者であっても、詐欺罪の成否において考慮される被害者の注意義務とは、「単
にある程度の注意深さを前提としているのであり、ここにいうある程度の注意深さとはすべての消費者が請求書の支払いを行う前
に期待できる程度の注意深さ」なのであるから、商取引の経験の有無は、それだけで欺罔行為の存否を判断する決定的な要素であ
四六
るとはいえないとして、この点に限ってはBGHの判断を支持している
)(((
(。あるいは、「被欺罔者の共同過失が通常よりも高く認めら
れるとの事情は、量刑 00のレベルで[傍点は原文イタリック強調]」考慮されるのが適切であって、犯罪の成否に影響しないとの見解
もみられる
)(((
(。
これに対して、たとえば、
Krack
は、二〇〇一年判決の事案で行為者の答責性を基礎づける要素として被害者が商取引に不慣れであったことを挙げ、たしかに、請求書に類似した契約申込書を送付するとのやり口は「数十年前からよく知られているものであ
る」が、商取引経験に乏しい素人はこのような手法に熟知しているとはいえないのに対して「商人は、この策略が広く知られてい
る以上、その策略から比較的容易に自己を防御できる」といえ、両者に要求される注意義務の程度に相違を設けようとしている
)(((
(。
さらに、被害者の注意義務において問題となりうる事情としては、被害者の心理的状態、つまり、とくに二〇〇一年判決の事案
のように、近親者が死亡した直後であって被害者が精神的に動揺していることも挙げられうる。そのような動揺下にあっては、当
該書面を精査してその真の性質を認識することが困難であるといえ、したがって、被害者の注意深さが阻害され、被害者の答責性
が軽減されると考えることもできる。
この点、二〇〇一年判決でBGH第四刑事部は、「受け手の個々の心理的状況は決定的ではない」ではないとして、被害者の精神
状態は欺罔行為の根拠とならないとしている。同様に、
Pawlik
も、「被害者の精神状態が弱っていることについて、行為者はその責任を負うべきではなく、そのような状況の利用は根本的に暴利罪[ドイツ刑法二九一条:筆者補足]の問題であり、詐欺罪の領
域には含まれない」とする。
Pawlik
によれば、「すでに相手方が錯誤していた場合に行為者がこの錯誤の責任を原則的に負うことがないのと同様に、相手方の心理的な例外状況は行為者が責任を負わない状況」であり、たしかに、「そのような精神状況を理由に
して、相手方が行為者の提示した事実を不適切な方法で解釈する蓋然性 000が高い[傍点部は原文イタリックで強調]」とはいえるが、
しかしながら、蓋然性の高さだけを理由に詐欺罪が肯定されてはならないという
)(((
(。
これに対して、「被害者は、近しい家族の死によって普段とは異なり、論理的思考が困難な状況であって、当該書類が巧妙に作成
四七詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) されていることとあいまって、当該書面が契約申込書であるとの真の性質を解明するほどに詳しく調べることができなかった」と
して、被害者の心理的動揺は、欺罔行為を基礎づける事情として考慮に値するとする論者もいる。これによれば、とくに、親族の
死亡にともなって債務が生じた場合には、「故人の相続人は、死亡広告に対する新聞社からの請求といったものを、少なくとも故人
に対する畏敬の念から、即座に履行しようとするであろう」というのである
)(((
(。
⑶ 真実主張による欺罔類型での独自基準の必要性
ドイツの判例・通説に従えば、推断的欺罔の存否は、行為者態度に説明価値が認められるか否かによって決定され、この説明価
値の存否は行為者態度を社会生活上の通念に従って客観的に評価することで判断される。真実主張による欺罔の類型でも、BGH
はこの評価基準に基本的には則っているものの、通常の推断的欺罔の事例よりも、行為者の主観的事情を強く考慮している。しかし、
学説においては、そもそも請求書類似書類送付事例に特殊な考慮を加えることに否定的な見解もあり
)(((
(、その見解からすれば、本事
例は、通常の推断的欺罔の事例として解決されるべきことになる。そもそも、「『真実主張による欺罔』というカテゴライズを設け
ることで、この類型に特別な性質が備わっているかのような特徴づけを行うことは誤りである」という
)(((
(。
では、請求書類似書類送付事例で通常の推断的欺罔の判断枠組みを用いた場合、行為者の錯誤惹起意図を考慮せずとも、欺罔行
為は肯定されるか。この点につき、
Geisler
は、たしかに請求書類似書類送付事例では書面それ自体をみれば行為者は真実を述べているといえるが、ここで重要なのは、行為者の全体的な態度がなにを示しているのかの評価であるという
)(((
(。すなわち、「外見は、す
でにしてその内容に影響を与える」ものであるから、「当該書面の有する全体説明価値は不可分であり、このことに鑑みれば、書
面の外見とその内容の二つの相反する印象は、真実と異なるものと評価できる」のであり
)(((
(、したがって、行為者の送付した書面は、
行為者の主観面を考慮せずとも、客観的にみて虚偽の事実主張といえる
)(((
(。
これに対して、請求書類似書類送付事例の特殊性を認めたうえで、通常の欺罔行為の判断とは異なる、かつBGHの採用する主
四八
観的判断基準とも異なる特別な基準が必要であることを主張する論者もみられる。
たとえば、
Hoffmann
は、これまでの真実主張による欺罔および請求書類似書類送付事例に関連して学説から提示された見解を詳 細に分析した結果、従来の推断的欺罔の一般的原理だけでは、当該事案類型をうまく処理できないとの結論に至っている )((((。すなわち、従来、推断的欺罔の文脈で論じられてきた事実的観察方法や規範的観察方法に焦点をあててみると
)(((
(、「事実的観察方法からは、一方
で被害者が抱いた真実とは異なる印象がみられ、他方で、この印象と矛盾する真実の表現が存在する場合に、誤った印象がまさし
く説明価値にとって決定的であるとする理由が依然として不明確で」あり、「規範的観察方法からは、真実が明示的に説明されてい
る場合に、それにもかかわらず、虚偽の事実が共に説明されていると判断されるべき理由が未解決」になるという。つまり、事実
的観察方法に従えば、虚偽の事実主張(請求書類似書類送付事例でいえば、請求書であるとの外観)と真実の事実主張(契約申込
書であるとの表示)の両者が読み取られうる場合、このどちらの事実主張が説明価値として行為者態度に認められるべきかは明ら
かではなく、規範的観察方法に従えば、真実が適示されているにもかかわらず、虚偽の指摘が行為者態度によって「共に説明され
ている」と判断する理由が明らかではないというのである。
また、
Hoffmann
によれば、前章で確認したGarbe
の全体印象説は社会生活上の通念やリスク配分を考慮する点で従来の見解を基礎にし、かつ、発展させたものであり、その意味で妥当な方向性を示すものとはいえるが、この見解も真実主張による欺罔の類
型において欺罔行為の存否を判断する必要条件とはなるものの、十分条件ではないという。なぜならば、この見解もまた、「請求書
要素が存在することを示すだけでは、書面の受け手が用心深く読めば契約申込みという真実の言明を認識しえたという事情を克服
していない」から、つまりは、なぜそのような全体的印象に対する受け手の信頼が保護されるのかを明らかにしていないからであ
るという
)(((
(。
Hoffmann
がいうには、一般的に自己の自由な財産処分行為のために十分な情報を獲得することはその処分行為者のリスク領域に存するのであり、このリスクから処分行為者が解放されるには特別な理由を必要とする。請求書類似書類送付事例を具体例に挙
四九詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) げれば、行為者が、なんらかの請求書ではなく、現に被害者が受けた給付に対する請求書であるかのような外観を作出することで、
送付書面と「先行する取引上のコンタクトとを関連づけている」場合に、この特別な理由が認められるといえる。くわえて、請求
書であるとの被害者の信頼は具体的な取引関係に基づくものでなければならず、「取引上のコンタクトが現実に根差すもの」でなけ
ればならないという。たとえば、事前に行われた給付に対する請求書であるかのような外観がみられ、現にその請求書が受領され
ておらず、時間的にも先行する給付と密着している場合に限って、その書面の受け手は当該契約申込書を、その受領以前に自身が
受けた給付に対する請求書として信頼することが許される。それゆえ、
Hoffmann
によれば、LG Frankfurt a.M.
の一九九九年判決 )((((とBGH
二
〇〇一決定とでは、前者においては、登記簿への登録がすでに一年以上も前のものであったのに対して、後者では死亡広告の二、三日後には当該書面が送付されているという事情の相違が認められ、この相違は欺罔行為の肯否に決定的に作用すると
いうのである
)(((
(。
Pawlik
も、説明の受け手の期待・信頼が正当なものとして評価されるか否かによって、欺罔行為の存否が判断されるとしている。Pawlik
によれば、推断的欺罔は、行為者による説明が不十分・不完全であることから、その説明の受け手が説明の不足分を自ら補完することによって錯誤に陥るという構造を有している。しかしながら、請求書類似書類送付事例においては、当該書面が請求書
ではなく、契約申込書であることが明記されており、それゆえに、行為者の説明は不十分・不完全なものではない。とはいえ、文
書を読む際の人の理解の過程を詳細に分析してみると、人が文書を読む際には、つねにその内容について一定の推測を働かし、す
なわち、一定の期待をもって読みすすめるものであるから、たとえその文書に不足性がなかったとしても欺罔行為が肯定される余
地はあると
Pawlik
はいう。たしかに、「文言を最後まで読むまでは、依然として意味の変動は生じうるのである」から、「この可能性があるにもかかわらず、その文言全体をそれ相応の注意深さを持って読むことを放棄した者は、一見して、自己のリスク負担に
おいて行動している」ともいえる。しかしながら、「文書を読む際に、……[中略]文字どおりにあらゆる可能性を念頭に置く必要
はない」のであって、読み手が文章を読むにつれて抱いた「期待……[中略]が過小に評価されえない場合」で、「読み手の理解の
五〇 過程が具体的な行為連関に組み込まれる場合」には、その読み手の期待は刑法的評価においても重視されるべきであるという )((((。こ
のような読み手の期待した意味内容がその後も文書の終わりまで継続(期待の継続性)し、かつ、首尾一貫した内容を有している
(期待の整合性)限りでは、刑法上の保護に値する。この継続性と整合性への期待を、行為者が「規範的に重要な(すなわち、法的
に許されない)方法で裏切る場合に、その裏切りは詐欺罪にいう欺罔行為として肯定され、従来の意味での推断的欺罔と評価される」
のである
)(((
(。
3小括
本章では、二〇〇〇年代初期のBGH判例とそれに対する学説の反応を概観してきた。
前章で確認したように、BGH
二
〇〇一年判決以前の判例実務は請求書類似書類送付事例での詐欺罪の成立に否定的であって、詐欺罪を認めたのは下級審裁判所にとどまっていた。これに対して、BGH第四刑事部は、請求書類似書類送付事例において詐欺
罪が肯定される可能性を認め、その根拠を
Schröder
の見解に求めた。そこでは、被害者に一定の注意義務が求められるとの考え方に理解を示しながら、「錯誤惹起が単なる結果ではなく、行為の目的である」といえる場合には、たとえ行為者が真実を指摘してお
り、被欺罔者にこの指摘が認識可能であったとしても、行為者の欺罔行為は排除されないとされた。
被害者の注意義務について、とりわけ、商取引経験の有無がどのような影響を与えるか否かについて、つづいてBGH第五刑事
部は二〇〇三年判決で、この要素が詐欺罪を否定する際の決定的事情とはならないことを示した。第五刑事部がいうには、行為者
が契約申込書を、すでに類似の給付提供を受けており、それゆえに先行する給付に対する請求書を期待する理由のある者にだけ送
付していたことから、商人に対する行為にも欺罔行為が認められるという。くわえて、
か Mahnkopf/Sonnberg
つて、が指摘したように、企業内部の構造に着目すれば、請求書は必ずしもその正当性が精査された後に処理されるのではなく、ルーティン的に処理さ
れるのが通常であって、請求書類似書類の受け手が商人であったとしても、その不注意さは欺罔行為を否定しないとしたのである。
五一詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) この二つの判決において、BGHは、欺罔行為の判断において、行為者の錯誤惹起意図の存否に重点を置いていたが、この見解
には強い批判が向けられていた。この批判は、錯誤惹起意図が欺罔行為を適切に制限する基準たりえないこと、あるいは、BGH
の欺罔行為の定義とその判断基準とが矛盾していることに向けられていた。
商人と素人との区別については、学説のなかでも見解が分かれていた。これを消極的に解する見解として、
Pawlik
は、詐欺罪において被欺罔者に期待されている注意義務とは、すべての消費者に期待される程度で足りるから、商人であることが強調されるべ
きではないと主張し、
Schneider
も、商人であっても企業においては実際の請求書の処理は単なる事務員によって処理される可能性があり、この事情は偶然に依存するものであって、行為者が影響を与えないものであるから考慮すべきではないと主張していた。
あるいは、考慮するにしても量刑のレベルにとどまると主張する論者として、
Geisler
がいたのであった。これに対して、
Krack
は、商取引経験の有無が行為者と被害者との答責性の衡量に影響を与えるとした。Krack
によれば、請求書に類似した契約申込書を送りつける手法がすでに以前より広く知られている方法であって、商人はこのような方法から自身を防
御できうるのであるから、商取引経験の存在が被害者の答責性を強める要素になると考えていた。
さらに、被害者の心理的動揺も被害者の答責性を軽減する方向で考慮されると
Krack
は考えたのに対して、Pawlik
はそのような例外的な心理的状態の発生は行為者の責任に含まれないとしていた。
BGH
二
〇〇一年判決が請求書類似書類送付事例を解決するにあたって、真実主張による欺罔との概念を肯定したことについて も、やはり批判が向けられていた。それによれば、二〇〇一年判決が依拠したSchröder
の見解を採用せずとも詐欺罪を肯定するこ とは十分可能であって、むしろ真実主張による欺罔に特別な性質を認めるべきではないとGeisler
は批判したのである。これに対して、
Hoffmann
やPawlik
は当該事案の特殊性を考慮したうえで、独自の基準を用いることを主張していた。両者はと もに、請求書類似書類送付事例で受け手が当該書類を請求書だと信頼・期待したことの正当性に着目した。Hoffmann
によれば、被害者が詐欺罪によって保護されるためには、被害者が抱いた信頼が一般的なものをこえて、具体的な取引関係を基礎にしていなけ
五二
ればならないという。ここでは、被害者が受けた現実の給付と、行為者による書類の送付とが時間的に接着しており、かつ、いま
だ現実の給付に対する請求書を受け取っていなかった場合にのみ、被害者の信頼は刑法上の保護に値するというのである。
Pawlik
は、人が現に文章を読む際の理解の過程に着目して、書類の読み手の抱いた意味内容の継続性・整合性の期待が規範的にみて許されない方法で裏切られた場合に限って、推断的欺罔が肯定されると考えた。
以上のように二〇〇〇年代のドイツ判例と学説の流れを確認してきたが、BGHが請求書類似書類送付事例にてその態度を明確
にすることで、学説においても、真実主張による欺罔への各論者の態度決定が次々と行われることとなった
)(((
(。ここで、各論者によっ
て主張された基準や、BGHに向けられた批判・議論を精査し、真実主張による欺罔をどのように解決していくことが妥当と考え
られるかについて、次章で私見を踏まえて検討する。
Ⅳ
真実主張と欺罔行為の関係性および判断基準に関する検討ここまで真実主張をともなう欺罔に関するドイツにおける議論を、おもに請求書類似書類送付事例を題材として参照してきたが、
本章では前章までで明らかとなった問題点、すなわち、①真実主張による欺罔と罪刑法定主義との関連性、②自己答責性の捉え方、
③商人と素人との取扱いの相違、そして④行為者の錯誤惹起意図についての検討を行い、私見を示す。これらの検討にあたっては、
そもそも欺罔行為の概念規定にも踏み込むことが求められよう。
1 真実主張は欺罔になりうるか
⑴ 「欺く」の一般的語義について
前章で確認したように、行為者が真実を述べた場合であっても詐欺罪の可罰性が肯定される余地は否定されないとの結論は、す
五三詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) でにBGHにおいて確認されたものであり、判例・学説上定着したといえよう。しかしながら、翻って、
Schumann
によれば、そ もそも行為者が真実を主張した場合を詐欺罪で捕捉することは、罪刑法定主義に抵触するという )((((。ドイツ刑法二六三条に規定される「虚偽の事実の見せかけ」、「真実の歪曲」および「隠蔽」という行為類型に真実主張による欺罔を含ませることは、罪刑法定主
義に照らして、なお可能といえようか。わが国においても、とりわけ憲法三一条が刑事手続の法定主義、適正手続を保障すること
の関係から罪刑法定主義が要請されており、刑法二四六条が詐欺罪の行為類型として「人を欺くこと」を要求していることからす
れば、真実主張による欺罔と罪刑法定主義との関係性は問題となる。刑法二四六条にいう欺罔行為が肯定されるためには、まずもっ
て、行為者による欺罔が認められなければならない。
この問題を考えるうえで、まず欺罔の一般的語義を手掛かりとすることが考えられる。たとえば、ドイツにおいても、
Grau
が、「真実の歪曲」もしくは「隠蔽」の語義を手掛かりとして、真実主張が詐欺罪にいう欺罔行為に該当するかを検討している )((((。
Grau
によれば、「『歪曲』や『隠蔽』といった言葉は日常的な言語慣習からは『本来の形から変えること』や『変更すること』ないし『背景に隠すこと』、『目立たなくすること』といった意味を持つものであるから、『真実』がまったく存在していないことが必要ではな
いことは明らかであろう」という。それゆえに、真実主張を介して相手方に錯誤を生ぜしめた場合を欺罔行為と解することは、ド
イツ刑法二六三条の文言上排除されていないという
)(((
(。
しかし、このように法律の文言の語義から、その意味内容を明らかにしようとする試みは、レトリックに固執するものであって、
真実主張と欺罔行為の関係性を考える基盤を十分に提供するものとはいえない。たとえば、大辞泉には、刑法二四六条にいう「欺く」
の類語として、「騙す」「偽る」といった言葉が挙げられており )((((、それぞれの語義の相違については、「欺く」、「騙す」、「偽る」は、
いずれもうそを信じさせる点で共通するが、「騙す」はうそを本当と思い込ませる行為に重点が置かれ、「欺く」は信頼に反する行
動に対して用いられることが多く、「偽る」は、事実と異なることを故意にいう意が強いという。かりに立法者がこれらの言葉を積
極的に区別していたとすれば、他の2語とは異なり、「欺く」には、うそを述べることや事実と異なることを言うといった要素が含
五四
まれていないのであるから、真実主張であっても、詐欺罪にいう欺罔ということができよう。
しかし、周知のように、裁判実務においては、詐欺罪の構成要件該当行為は、「偽る行為」であると表現されることも多く )((((、少な
くとも「欺く」と「偽る」とは積極的に区別されていない。それゆえに、語義に照らして欺罔行為の概念規定を行うだけでは、真
実主張が欺罔行為に含まれうるかという問題は解決されえない。
⑵ 欺罔の構造的分析
むしろ、重視されるべきは、欺罔の実質的な意味内容である。欺罔の構造を実質的に明らかにし、この構造に基づいて欺罔行為
概念を規定することから、真実主張による欺罔が観念的に是認されうるかを探る。
そもそも行為者のどのような態度を指して、欺罔と呼ぶことができるのか。この点、BGHによれば、欺罔とは、「客観的に錯誤
を惹起ないし維持し、それによって他人の表象に影響をあたえる、あらゆる態度」を指すという )((((。端的にいえば、相手方に錯誤を
惹起させる態度が欺罔であるとされている。わが国の最高裁では、「財産処分行為の判断の基礎となるような重要な事項を偽る」行
為であるとされ
)(((
(、どのような事実につき虚偽が認められれば欺罔行為が肯定されるかだけが問題とされているようにも思われるが、
学説上は、これに加えて、相手方に錯誤を惹起させる行為であることが必要とされており
)(((
(、近時のゴルフ場利用の事例で最高裁も、
とくに反対意見が、「欺く行為は、偽る対象と偽る行為との二つの要素から」成るとしている
)(((
(。最高裁にいう「偽る行為」の一般定
義は明らかではないものの、相手方に錯誤を惹起させるものであることは必要とされよう。では、どのような行為者態度が、相手
方に錯誤を惹起させる行為となりうるか。
この点、参考となるのが、詐欺罪のもつコミュニケーション犯罪(
Kommunikationsdelikt
)としての特徴である。すなわち、Tiedemann
によれば、「欺罔行為要件は、コミュニケーションを介した他人への影響づけを示す要件であって、この要件によって詐欺罪はコミュニケーション犯罪として位置づけられることになる」という
)(((
(。つまり、「被害者の判断を決定づけた理由が、もっぱ
五五詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) ら行為者による対象の操作に基づく場合、偽造という別途独自の構成要件が問題となる」のであって、これは詐欺罪の予定する可
罰性範囲には含まれない
)(((
(。詐欺罪は、行為者による被害者の表象への影響力の行使を特徴とする犯罪であって、この影響力の行使は、
行為者と被害者とのあいだにコミュニケーションが存在することを前提とするものである
)(((
(。
このような視座は、欺罔の構造を分析するうえで示唆的である。すなわち、行為者と被害者のやり取りのなかで、行為者が意図
的にコミュニケーション内容に齟齬をもたらすこと、より具体的には、行為者と被害者とのあいだに情報の量的・質的格差を生ぜ
しめ、この情報格差を利用することが欺罔なのである。行為者だけが知っており、被害者の知らない事実を行為者が優越的・独占
的に利用するからこそ、被害者において現実と表象とのあいだの不一致、すなわち錯誤が生じる。このような情報の優越的利用によっ
て、行為者は他者の表象に影響を及ぼすことが可能となる
)(((
(。この情報格差の利用こそが「欺罔」であって、欺罔行為の事実的側面
をなしている。
ここで、情報格差が生じているかどうかは、当然に相手方の知識や理解力に応じて判断されることになる。問題となる事実につ
いて、行為者が相手方に通知していない場合であっても、相手方がすでにそれを熟知していれば、行為者に情報の優位性は認めら
れず、情報格差の利用がみられないのであるから、欺罔が存在せず、欺罔行為の事実的構造が欠けていることになる。
Schröder
も、詐欺罪は表現犯罪(
Äußerungsdelikt
)であるとして、欺罔といえるか否かは、説明の受け手の理解能力に応じて評価されるべきことを指摘していた
)(((
(。つまり、欺罔行為は、「もっぱらその客観的な真偽だけをもって評価されるべきではなく、受け手の理解や批
判能力が考慮されて」評価されるべきなのである
)(((
(。
このような欺罔の構造からすれば、行為者が虚言を述べることは情報格差を利用する典型的な場合であるといえるが、必ずしも
虚言の存在が必須なわけではなく、行為者による真実の秘匿であっても欺罔といいうる。それどころか、コミュニケーションおよ
び情報のやりとりが口頭・書面のみならず、身体の動静やコミュニケーションのコンテクストを通じても行われることからすれば、
行為者が真実を述べている場合であっても欺罔といいうる。行為者が真実の告知をしている一方で、その告知が相手方に認識され
五六
ないように偽装を行っている限りでは、行為者と相手方とのあいだにコミュニケーションの齟齬、情報格差は生じうるのであって、
行為者による情報の優越的利用という現象が看取されうるからである。そもそも、コミュニケーションにおいて情報量が多いことが、
必ずしも相手方のより合理的な判断に資するわけではない。場合によっては、情報が過多であるがゆえに、その情報の受け手の合
理的な判断を阻害することも、また考えられるのである
)(((
(。とすれば、行為者が真実を述べているとしても、この真実を他の多くの
情報に紛れ込ませている場合には、行為者と相手方とのあいだに情報格差を認めることは可能であろうし、この情報格差を利用して、
相手方を錯誤に陥れることは考えられる。
2欺罔行為の再定義とその判断基準
⑴ 許されざる情報格差の利用
真実主張をともなう欺罔が詐欺罪にいう欺罔行為になりうるにしても、その可罰性の限界についての基準はなお問題となる。行
為者による情報格差の利用(欺罔)は、欺罔行為の前提とはなるものの、十分条件となるわけではない。たとえば、行為者がもっ
ぱら真実を告知しているにとどまり、この告知を隠蔽するだけの偽装を行っていない場合、たとえ相手方がこの告知を認識せず、
実際に重要事実について錯誤しているとしても欺罔行為が肯定されるわけではない。たしかに、相手方が真実を認識していない以上、
行為者と相手方とのあいだに情報格差は生じているといえるし、行為者がこの情報格差が生じている状況を認識して、これを利用
することはありえよう。しかしながら、単に情報格差の利用が認められるだけで行為者の欺罔を詐欺罪にいう欺罔行為とするには
不十分であって、やはり行為者の欺罔が規範的にみて許されないものでなければならない。その意味で、詐欺罪にいう欺罔行為とは、
「許されざる情報格差の利用」と定義されよう。
当然に、ここで「許されざる」という規範的評価を導く指針が問題となる。この指針は、コミュニケーション犯罪と並ぶ詐欺罪
のもうひとつの特性から導かれる。詐欺罪は、その可罰性の条件として被害者の交付・処分行為を要件としているが、この要件は、
五七詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) 詐欺罪が「公正な取引を確保することによって、財産を保護しようとする」構成要件であることを示すものであり
)(((
(、それゆえに、
詐欺罪は取引という局面において問題とされることが前提とされている。この詐欺罪の取引犯罪という特性からしてみれば、取引
上一般に許容されている態度は、刑法の謙抑性・補充性に基づき、詐欺罪の可罰性を限界づけるうえでも考慮されるべきことにな
る。一般的に、自由競争経済においては、取引当事者間ですべての情報が共有されることは求められておらず、そのような情報の
全面的な共有は、現実的にみても不可能であろう。したがって、経済取引に際しての情報の秘匿が許容される場合は一定程度存在
する。この情報の秘匿が許容される限界は、取引当事者の自助努力から導かれる )((((。というのも、自由競争経済においては、自己の
利益を追求することそれ自体は、なんら非難されるべきことではなく、むしろ、取引参加者相互の利益追求の努力がなされること
こそが取引経済においてのひとつの基盤であって、それゆえに、一方当事者が自己に有利な状況を作出することや利用することは、
それ自体として否定されるものではないからである。したがって、他の取引参加者においても、自己の利益の保持が求められており、
この努力を怠って損害が生じてしまった場合には、その損害は自己の答責領域に属する。この自己利益の保護努力の有無が、一方
当事者の情報秘匿の許容性を限界づける。このような自己防御の努力は、コミュニケーション犯罪である詐欺罪にあっては、行為
者との情報格差を埋める作業、すなわち、被害者による情報収集措置であると考えられる
)(((
(。したがって、行為者による欺罔が規範
的にみて許されないといえるのは、被害者が情報収集の努力を行ったにもかかわらず錯誤に陥った場合、または行為者が被害者に
よる情報収集を、その功を奏すことがないように阻害していた場合であるといえよう。
以上のような考えからすれば、本稿が冒頭に問題意識として掲げた、詐欺罪の成否の判断と被害者の確認措置との関係性も明ら
かとなる。行為者による情報格差の利用が規範的にみて許されないものかどうかを判断するうえで、被害者の情報収集努力が考慮
される以上、行為者が秘匿した事実につき、被害者が確認措置を講じていたか否かは欺罔行為の判断材料となる。欺罔行為を「許
されざる情報格差の利用」と捉えることで、被害者の確認措置が欺罔行為の肯否に影響を与えることの基盤が提供される。
五八
⑵ 欺罔行為の判断基準と客観的欺罔適性
以上の規範的評価は、その内容からみれば、BGHのいう客観的欺罔適性
)(((
(と言い換えることが可能であり、さらには、わが国で
も一般にいわれているような、「詐欺罪にいう欺罔行為は、一般人を錯誤に陥れるものでなければならない」 )(((
(との考えとの類似性を
指摘できる。つまり、被害者の情報収集の努力が尽くされているにもかかわらず錯誤に陥った場合や、被害者による情報収集措置
が行為者によって阻害されている場合には、行為者による情報格差の利用は、客観的にみても、相手方を錯誤に陥れるだけの適性
を有したものといえる。簡潔にいえば、詐欺罪にいう欺罔行為とは「許されざる情報格差の利用」であり、「客観的欺罔適性を有し
た情報格差の利用」なのである。
このことから、客観的欺罔適性の有無がいかにして評価されるべきかが明らかとなる。客観的欺罔適性にあっては、被害者によ
る情報収集措置の程度と、行為者による偽装の程度の比較衡量が重要となる。とりわけ、行為者が真実を述べている場合には、行
為者が明示的に虚言を述べている場合や、真実をもっぱら秘匿している場合よりも、被害者における真実発見が容易であって、そ
れゆえに、情報収集も容易であると思われる。とすれば、ここで欺罔行為を肯定するためには、行為者において真実の隠蔽のため
の偽装が強度に行われている必要がある。
請求書類似書類送付事例に鑑みれば、書面の受け手が契約申込書という真実の性質を発見するのを阻害するように、請求書とし
て見せかける偽装がどの程度行われていたかが問題となる。ここでは、
Garbe
の全体印象説が参考になろう。すなわち、行為者の送付した書面が、契約申込書としての性質を隠蔽するほどに、請求書としての印象を形成している場合、言い換えれば、当該書面
が全体として請求書としての印象を惹起させるものである場合、行為者態度には客観的欺罔適性が認められる。ただし、ここでは
書面それ自体の偽装のみならず、書面を受け取った際の状況も問題となる。というのも、コミュニケーションは、コンテクストに
おいてその内容が変化しうるからである。たとえば、
Garbe
は、請求書としての全体的印象が形成されているといえるためには、①必要箇所への記載がすでになされている振替依頼書が添付され、②銀行口座が指定され、③支払うべき価格の内訳が詳細に説明
五九詐欺罪における被害者の確認措置と欺罔行為との関係性(二)(冨川) されており、④すでに給付がなされたかのように注文番号が記述され、⑤契約申込書に通常みられるようなあいさつといった定型
句が欠けており、⑥提供される給付の詳細な説明がないことを挙げている
)(((
(が、これら書面それ自体の形式に加えて、行為者が提供
する契約内容に類似した給付が、書面を受け取った時点と時間的に近接して提供されていることが必要であろう。およそ請求書だ
と思料するだけの合理的理由が存在しなければならない。その意味で、
Hoffmann
が指摘するように、類似給付が、書面を受け取った時点よりも1年以上も前に提供されている場合には、行為者の態度に客観的欺罔適性は認められない
)(((
(。時間的にあまりにかけ離
れた給付に対する請求書が送付されている状況にあっては、そのコンテクストからして、受け取った書面が自身がすでに受け取っ
た給付と異なるものであるとの理解がなされるのであって、それゆえに、書面の受け手においてさらに情報を収集することの誘因
が存在する。行為者が提供する契約内容に類似した給付が、書面を受け取った時点と時間的に近接していたとの事情は、行為者が
いつ書面を送付するかを選択できるのであるから、行為者態度に基づくものであって、被害者とのコミュニケーション内容に影響
を与える事情である
)(((
(。
⑶ 錯誤惹起意図は基準たりうるか
さて、BGHは、客観的欺罔適性と並んで、主観的決定性を欺罔行為の判断基準として挙げていた
)(((
(。構成要件該当行為の有無を
判断するに、客観・主観の両面を基礎にするという考えは説得力があるもののようにも思われるが、実際のところ、ここでのBG
Hの判断基準はその見た目以上には説得的ではない。というのも、BGH自身が「錯誤惹起が単なる結果ではなく、行為の目的」 )(((
(
といえる場合に欺罔行為が肯定されると言い換えていることから、ドイツ学説上も、BGHにおいては行為者の主観的側面が欺罔
行為を判断するうえでの決定的な要素とされていることが指摘されていたことはすでに確認したとおりであり )((((、客観的欺罔適性と
いうタームが実質的な欺罔行為の限界づけを行う要素として機能していないように思われるからである。
では、この主観的決定性という要素は、詐欺罪の可罰性を適正に判断するための基準として有為なものであろうか。この点につ