快楽主義と技術知
プラトン『ゴルギアス』篇の「アレテー論」への序章
吉田雅章
Hedonism and Techne
An Introduction to 'Virtue' in Plato's Gorgias
Masaaki YOSHIDA
1
「さあ,答えてください。弁論術とは何であるとあなたは主張するのか」 (462B3‑5) というポロスの要求に応じて,ソクラテスは,弁論術が決して技術知と呼べるような ものではなく,快楽を作り出す経験・熟練であり,いわば似非技術たる「迎合」であっ て,政治術の一部の影であると述べている。則ち, 「身体」について,その対象の善 をめざす技術知があるのに対して,あたかも技術知であるかのように振舞う似非技術 たる「迎合」が区別されてあるが, 「魂」についても,これに応じて身体の場合と類 比的に,その善を配慮する技術知があるのに対して,似非技術としての「迎合」があ るとされ,弁論術もまた, 「魂」に関わる「迎合」の一つである,というのがソクラ テスのポロスに対する答えであった。
さてしかし,こうした区別によって,弁論術を政治術の影である似非技術としての
「迎合」に位置づけたことの意味は何であろうか。さらに,弁論術もその一つである
「迎合」は,何故,技術知から区別されるかたちで, 「善をまったく顧慮せず,対象の 快のみを狙うものであって,ロゴスを持たないもの」とされるのか。否そもそも,身 体に関わる技術知が迎合と区別されているように,魂に関わる技術知も「迎合」と区 別させてあると述べられることの意味は何か。こうした区別によって,弁論術を「快 を狙う迎合」としなければならなかった,その問題領域は,この個所には何も示され てはいない。弁論術の「何であるか」に対する,このソクラテスの答えは,以後,対 話の展開に従って,その意味が明らかにされるものであろう。続くポロスとの対話は,
しかしこの問題に正面から挑んだものではない(1)ように思われる。むしろ,カリクレ
スが「自然の正義」を掲げ,最終的に快楽主義を主張することになったその場面こそ, 弁論術の「何であるか」に対するソクラテスの答えの意味が開示されていくところで あったと思われる。
このソクラテスの答えには,表面的に言えば,二つの問題が含まれていると思われ る。一つは「技術知と迎合」の区別の問題であり,もう一つは身体に関わる技術知と 魂に関わる技術知の類比的関係の問題である。しかし,この二つの問題は,それぞれ 独立のものではなく,それらが微妙に絡み合うところに,ソクラテスの答えの意味が ある。本論の目的は,このカリクレスの主張の吟味を通じ,その微妙な絡み合いの解 きほぐすための基礎的作業を行うことにあり,それによって, 『ゴルギアス』篇の取
り扱っている問題の一端を探りあてることにある。
ところで,カリクレスの快楽主義について,注釈者たちは,そのindiscriminate な性格に疑義を呈し,またそこからソクラテスの批判を容易に許さないような堅固な 快楽主義へと修正しようとする試み(2)もある。しかし,私には,そのように徹底した, いわば質的な差異を設けない仕方での快楽主義が検討されたのは,その理由があるよ
うに思われ,むしろそれを明らかにしなければならないのではないかと思われる。確 かにカリクレスは,快楽主義をこのような無条件な仕方で,当初から,突然主張して いるのではない。それはソクラテスとカリクレスの対話の中で,カリクレスの当初の
「自然の正義」の主張の吟味からあらわにされてくるものである。それは,吟味の結 栄,最終的にカリクレスの「自然の正義」の主張の正体として現れてきているのでは
ないか。そこに「技術知と迎合」の区別と「身体と魂」に関わる技術知の類比の問題 が関わっており,このことはプラトンが『ゴルギアス』を書くことで明らかにしよう とした問題が,真実何であったのかということを見極めていく上で重要なことがらで あると私には思われる。したがって,我々はこれを明らかにするには,まずカリクレ スとソクラテスの問答によって,快楽主義がどのように現れてくるのかを,やや丹念 に跡づけてみる必要があろう。
2
我々は,今提示された問題にとって,カリクレスの快楽主義がどのように関わって いるのかを見るためには,先ず彼の「自然の正義」の主張の主要な論点を明らかにす ることから始めなければならない。
カリクレスが主張する「自然の正義」とは, 「より優れた者がより劣った者を支配 し,より多くを取ること」(483C‑D)であり,これは,周知のように,ピュシスとノ モス(自然本性と法)を対立関係において捉えようとする理解に基づいている。彼は,
ポロスが反駁された原因を説明するに際して, 「不正を行うことは,不正を受けるよ りも醜い」というのは,ノモスの上のことであって,ピュシスの上のことではなく, ノモスとピュシスとは,大抵互いに相反するものであると言う。則ち,カリクレスに とって, 「より多くを取ること」が不正であり,醜いと言われるのは,多くの,弱い 人々の立てた法によるものであり,それによって「優れた者,強い者」を隷属し,狗 束しているが,それは自然に反するものである。自然本性からみれば,それは人々の 単なる取り決めに他ならず,むしろ「優れた者が劣った者を支配し,より多くを取る ことが正しいこと」なのである(3)。このカリクレスの主張は,二つの予備的考察(488B2‑
489El, 489E2‑491D3)を経て,最終的には, 「優れた者と私が言うのは,国家公共 のことがらについて思慮があり,しかも勇気がある者のことだ。というのは,この人々 が国家を支配するに相応しいのであり,そして正しいこととは,この人々(支配する 者)が他の人々(支配される者)より多くを取ることである」 (491C6‑D3)というこ
とになる。
さて,このカリクレスの主張のうち,これからの考察の中で重要なのは,次の三点 である。 (1)カリレクスは「自然の正義」というのを持ち出すことによって,人々が
「不正な」とか, 「醜い」という言葉によって自他の振舞を価値づけ,評価しているそ の全体を, 「自然に反する単なる人々の取り決めとして,愚にもつかぬ価値なきもの」
(Td πapa φbolv Ovv鋤μαza &pSpd)7io)P, φλuapia Kal obdev∂<r ttguも492C7‑8)と
するという点であり,さらに, (2)カリクレスの言う「優れた者,強い者」が,現に力 を揮っている者,或いは身体的な力のある者を意味するのでなければ4), 「優れた者, 強い者」とは「弱い者,劣った者」を支配し,より多くを取るべき(相応しい)者と
して語られている(5)ことになり,これは自然本性において「優れた(善き)者」と
「劣った者」の分断を意味することになるという点である。カリクレスにあっては, 人間が,本来的に二種類に分かたれているということになる。そして, (3)本来的に分
かたれている二種類の人間の関係(どう振舞うか)が, 「優れた者」が「劣った者」
を支配し,より多くを取ることとして捉えられているという点である。
ところで,しばしばimmoralismと呼ばれる,このようなカリクレスの主張に対 して,人は果たして何を言うことができるであろうか。我々が確認しなければならな いのは次のことである。よし,カリクレスの主張は受け入れがたいと考えても,我々 が通常「正しい」と呼び, 「美しい(立派な)」と呼ぶものがすべて,ノモス(人々の 人為的な,単なる取り決め)に過ぎず,自然本性に反し,いわば実在性のないもので あるのなら,少なくとも人は,通常,世に認められている,いわゆる道徳的な非難に よって,これを覆すことはできない(6)。 「より多くを取る(余る)こと」は醜いこと
であると難じても,カリクレスにとって,それは単なるノモス上の,いわば絵空事に 他ならない。それらはすべて,実在性をもたないものとして,却下されてしまうので ある。
では,どこからカリクレス説の吟味は可能になっているのだろうか。今見たように,
「自然本性的に優れた者」の,他者に対して「如何に振舞うか」に関する吟味の途は 閉ざされていると思えた(7)。その途が閉ざされている以上,吟味は,カリクレスの言 う「自然本性的に優れた者」というのが一体「如何なる人であるのか」,そのひとは
「どのようなあり方をしているのか」という,その人の「あり方」そのものが問われ なければならないということになろう。
カリクレスの主張は当初から,他者に対して如何に振舞うかという仕方での吟味を 受けつけないものである。というのは,彼の言う「自然の正義」は,ただ法の一切を 単なる人の取り決めであり,価値なきものとするために,つまり人々の語る「正しい, 不正な」という言葉の効力を失わせ,その使用を封じるという,まさにそのために導
入されたのであり,そうすることによって「多くを取ることを正しいこと」として主 張しえたのではあるまいか。だが,その主張によって, 「自然本来的に優れた(善き) 者」が,それに従って生きるその「自然の法」(8)が「何であるのか」が示されたわけ ではないのである。それ故,この「優れた人」の,他者に対する「あり方」ではなく, その人自身の「あり方」が,言い換えれば,その人の「優れていること,善さ」が, 一体「何によるのか」が問われなければならないであろう。ここに,ソクラテスが,
「自然の正義」とは劣った者を支配し,支配者が支配される者より多くを取ることだ と言うが,その場合「自分は自分自身を支配しているのか」 (491D4‑5)と問う問い の意味が知られてこよう。
3
しかし,このソクラテスの問いの意味を,カリクレスは直ちには理解することがで きない。この問いは,二度繰り返され,そして三度目にソクラテスは, 「自分自身を 支配しているか」という問いに,一つの途をつけていくことになる。その途は,
「別に込み入ったことを訊ねているのではなく,多くの人々が言うように,節 制のある人のことであり,自分にうち克ち,自分自身の中の諸々の欲望と快楽を 支配している者のことだが」 (491DI0‑El)
という仕方でつけられ,カリクレスはさらにこれを, 「くだらない連中(秘IOioi)}が指 されていると理解し, 「節制ある者」と等式で結ぶ(9)ことになる。では,以上のよう なソクラテスとカリクレスの間のやりとりの持っ意味は,どのように理解されなけれ
ばならないだろうか。
ソクラテスの場合,等式として成立しているのは, (a) 「自分自身を支配している者」
‑(b) 「節制ある者」 (これをPとする)であり,これは, (c)「くだらない連中」との 間に等式を作らない。一方,カリクレスの場合,彼は(a)の「自分自身を支配している 者」という言葉をまったく理解できずに, (b) 「節制ある者」 ‑(c) 「くだらない連中」
という等式(これをQとする)で理解することになるのである。ソクラテスは「私 がそれ(‑くだらない連中のこと)を言っているのではないということは,誰ひとつ 分からない者はいないはずだが」と語って, (b)と(C)との等式を拒否している。したがっ て,ここでのソクラテスとカリクレスのod如wvの理解は, PとQという仕方で,ち ぐはぐになっている。そしてこのPとQとの或る隔たりを生み出しているものこそ, 人間の生のあり方をまったくあべこべのもの(10)として理解させているものと考えられ
るのである。
カリクレスの,このQという等式を成り立たしめているものは何であるかを,も う少し立ち入って検討してみよう。彼は言う。
‑ 「まっすぐに(まっとうに)生きようとする者」は,自分自身の欲望を抑制す ることなく,できるだけ大きくなるままにし,そして欲望が生じるときにはいっでも, それに勇気と思慮をもって奉仕し,これを満たさなければならないが,しかし,この ようなことは多くの人々にはできないことである。何故なら,彼らは無能であり,勇 気がないからだ。他方, 「自然本性的に優れた者,強い者」は,数々の善きものを享 受することが可能であり,またそうすることに何の妨げもないのだから,多くの人々 の法や言葉や非難を自らの主人として,それに隷属するのは,真実「醜いこと,悪し
きこと」に他ならないのである(cf.491E5‑492C4)
さて,以上のところから見れば,カリクレスは, (b)「節制ある者」というのを, (b)′
「節制せざるを得ない者」として捉え,それは多くの人々の無能と勇気のなさによる と考えて,これを「劣った者,弱い者」に帰属させているということになる。他方, この「弱い者,劣った者」と対極に考えられている, 「自然本性的に優れた者,強い 者」は,彼らの勇気と思慮によって,自分のいかなる欲望も満たすことのできる者で あるから, (d) 「節制する必要のない者」であり,善きものの享受‑欲望の充足を差し 控えることは,彼らにとっては却って「醜いこと,悪しきこと」であって,そのため むしろ「節制してはならない」のである。そしてここから,カリクレスは, 「賛沢す
ること,欲望を抑制しないこと,そして妨げられない自由があること」,これらに助 け(勇気と思慮)があれば,これが人の優れていること・徳(アレテー)であり, (このような状態にあることが)幸福であると主張するに至るのである。
しかしここで,我々はひとっ注意しなければならないことがある。それは,カリク
レスの以上のような「欲望の充足」を中心とする主張は,彼が言う意味での「自然本 性的に優れた者」の「まっすぐな生き方」であり,すべての人に関して,主張されて いるわけではない(ll)。それはなお, 「優れた者」と「劣った者」の二分割の中で語ら れていることなのである。
だが我々は,ソクラテスがこのカリクレスの言説を受け止めるとき(492D1‑El), ソクラテスはそのような仕方で受け止めてはいないことに注意する必要があろう。
「そこで,私はあなたにどんなことがあっても,その調子をゆるめないように 願いたいものだ。如何に生きるべきか(πゐ丁β仙zeov)がほんとうに明らかにな るためにね。さあ,言ってくれたまえ,もし誰かがあるべきような人たらむとす れば(el μ6λλel町OtOレdec elvai¥欲望を抑制することなく,それを最大限 にゆるめ,その欲望に何とかして充足を与えなければならず,そしてこれが人の 優れていること・徳であると主張するのかね」 (492D3‑El)
ソクラテスは明らかに,カリクレス説を,特定の「自然本性的に優れた者」に限ら れず,誰であれ人が「(人間として)そうでなければならないような者になるには, どのように生きなければならないか」という問いに向けられた回答として理解してい る(12)。カリクレスの, 「自然本性的に優れた者」について語られる「欲望の充足」を, 普遍的な仕方で,人は「どのように生きなければならないか」という問いへ引き直す
という,このソクラテスの方法は,カリクレス説の取り扱いとして不当なものであろ うか。否,決して不当なものではない。
カリクレスの,人間を本来「優れた者」と「劣った者」とに二分割して捉える主張 が,かりに真実のものとして受け入れられるとしたら,彼の言う「自然本性的に優れ た(善き)者」の, 「その優秀性(善さ)が何であるか」,あるいは「その優秀性が何 によってきたるものか」を明らかにしなければならないだろう。しかし,その「優秀 性の何であるか」は,なんらか,人々に認められるような普遍的な承認を必要とする
ことがらである。そのことが認められて始めて,人間を本来的に二分割して捉えるカ リクレスの主張も認められよう。そしてそのことは同時に,カリクレスがノモスを一 切,価値なきものとして破棄するために,持ち込んだ「自然本性」の概念が,不透明 なものであり,単に想定されただけの裏付けを欠く,根拠のない空手形であるのか, それともカリクレスの主張を真実,説得的なものたらしめる,透明な概念なのかをも 明らかにするであろう。
4
さて,我々が前節で見た(b) 「節制ある者」 (これはカリクレスにとって(b)′ 「節制せ ざるを得ない者」である)の生と(d) 「節制する必要のない者(節制してはならない者)」
の生とを,ソクラテスは,二つの比職(ミュトロゴス)を用いながら, (D)「満たされ ることのない,抑制なき生」と(B)「節度があり,現にあるもので満足し,満ちたり る生」として鋭く対比させ,先の「如何に生きるべきか」の問いを,どちらの生を選 ぶべきか,どちらの生がより幸福な生(善き生)であるかの問いとして問う(493D1‑3, 494A2‑5)ことになる。
この対比された生のうち, (B)に対してカリクレスは「満ちたりたものには,もは や快楽はなく,それは石のような生である。快く生きるとは,できるだけ多く流れ込 むことにある」 (494A8‑B2)と言う。 「あらゆる欲望を持ちながら,これを満たすこ とができ,快を感じながら,幸福に生きること」 (494C2‑3)が彼の回答となるので ある。
しかしカリクレスのこの回答は, 「如何に生きるべきか」 (如何に生きることが幸福 な生を生きることになるのか)との問いに対して,どのような回答になっているか。
ソクラテスは,カリクレス自身が気づいていない,彼の回答の持っ一つの広がりを 指摘しようとする。 「人が折癖に罷って,痔くてたまらず,おしみなく掻くことがで きるので,掻き続けながらその生を過ごす」 (494C6‑8)という人の生を考えた場合, カリクレス自身も認めるように(494D6), 「そのような掻き続けながらの生」も「快 い生」ではある。では「快い生」を生きている以上は,カリクレスの主張に従って,
「幸福な生」を生きていると言わなければならないのだろうか。否むしろ,このよう な掻き続けの折癖病みの生や,或いはこうした生の最たるものである男娼の生は,た
しかに「快い生」ということはできても,とても「幸福な生」であるということはで きないのであって,それは, 「恐るべき,恥ずべき,不幸な(惨めな)生」 (494E4‑5) であると言わなければならないのではないか。
これがカリクレスの「快い生こそ幸福な生」であるとの回答が,何を含むことにな るのかについての,ソクラテスの提示したものである。カリクレスは,あらゆる欲望 を充足し快く生きる「自然本性的に優れた者の生」から「折癖病みや男女呂の生」への, 自らの「快い生」の,あまりの暴落にたじろぎ,唖然としなければならなかった。ソ クラテスが言うように, 「どのような仕方であれ,ともかく快を感じていれば,快を 感じている人が幸福な人であると無条件に主張し,快楽のなかでもどんなのが善い快 楽であり,どんなのが悪い快楽であるかを区別しない」 (494EI0‑495A2)のならば, そこから多くの恥ずべき(醜い)生が結果することは誰しも認めるところであり,カ
リクレスも例外ではなかった。 「こういうところへ議論を持っていって,お前は恥ず かしくないのか」 (494E7‑8)と言って,彼がソクラテスを非難する,この言葉の持 つ意味は極めて重要であろう。というのは, 「お前は恥ずかしくないのか(恥知らず!)」
と言って,相手を問いっめ,答めだてることは,そう言って相手を問いっめ,非難し ている当の本人自身が既に,非難の対象となっていることがらを恥ずべきことと認め ているということであり,そのような生を「幸福な生」であると認めることを恥じて いること(その人における,そのような生が醜いものであるとの把握)を意味してい るからである(13)。
とすれば,このカリクレスの言葉は,折癖病みや男女削こ代表される「快い生」 (m)杏, その他の「快い生」 (n)から,彼自身が何処かで,何らかの仕方で区別していることを 示すものと解されよう。則ち,ノモスの一切を葬り去ろうとしたカリクレスも, 「国 家公共のことがら(Td T寿ぐπ6λe(o<r np&yμaxa)」に比べれば「愚にもつかぬこと (φλvαpta)」について,おしゃべりを続ける(14)と評した,諸々の技術知のあり方が示 される,まさにその場面で,たじろがなければならなかった。カリクレスにとって
「愚にもつかぬ,無価値な」と思われた,そこにも「善,悪」の区別は,我々の生に 関わり,我々の生を決めているものとしてあったのである。
ここでカリクレスが,ソクラテスの問いによって直面させられている問題は,より 具体的には, (a)折癖病みや男娼の「快い生」 (m)と「その他の快い生」 (n)との区別を受
け入れるかどうか,という問題である。
この(m)と(n)とを区別する場合,その強調点は「生」にある。 (m)の生も(n)の生を「快 い」という点では(っまり,欲望の充足)という点では,何ら変わりはないが,折癖 に躍って,掻き続けながら過ごすその「生」から考えるときmの生は「恥ずべき (醜い)生」とカリクレス自身も認めざるを得ないのであれば,当然のことながら, 匝)と(n)との差異を作り出すものは, 「快い」ということではありえない。それ故,こ
の差異を作り出すものを,ソクラテスが明示したように, 「善い」 「悪い」に求める場 合, (m)と(n)の両者を分かつものは, 「快さ」ではなく「善い」ということになるが,
しかしこれでは, (n) 「その他の快い生」が, 「快い」が故に「幸福な(善い)生」で あるとすることとは,確かに相容れないことになる。
ここまでのところで,一つ注意しておくことがある。というのは,今問題として取 り上げた個所は,通常,カリクレスの快楽主義に対する,第一の批判の部分を見倣さ れているが,私は,この個所をそのような仕方で,テキストを読んでいないというこ とである。私にとっては,この個所で,カリクレスの主張がまさに快楽主義として主 張されることになるのは,ソクラテスの明示した「快楽の善し悪し」の区別をカリク レスが否認する点であると思われる(15)。そして,この「快楽の善し悪し」の区別を認
めないとき,それは同時に,技術知の存在を蔑する立場に立つことにもなる。
快楽主義はこのような途を辿って導き出された。それは,カリクレスの当初の主張 に,いわばひそんでいたものであり,問答によって暴き出されたものである。
さて,このような快楽主義に対しては,二つの吟味が行われる(16)が,今我々の問題 に関わりのある第二の吟味を中心にして,簡単に見ておこう。ただ,両者いずれも, 我々における「善い,悪い」, 「快い,苦しい」という言葉の使用をめぐっており,こ
うした言葉によって我々がともかくも,何か一定のことがらを指しうるという,いわ ばぎりぎりの場面での確認であって,決して技術知の成立を根拠にして為されたもの ではないということは確認しておく必要がある。
さて,快楽主義に対するソクラテスの第二の吟味(497D‑500A)は,カリクレスが 主張した「自然本性的に優れた者」の「優秀性(善さ)が何であるのか」の問題に一 つの答えを用意している。
第‑の吟味は専ら, 「快と善」の同一を否定するものであるが,第二のソクラテス の吟味は,ただ単に快と善の同一を否定するというのではなく,明らかに, 「善き人」
をまさに善き人たらしめているものが「何であるのか」という仕方で進められる。則 ち,善き人には,善さことが具わっているから,善き人なのであるが,果たしてその 場合「快を感じる」ことが,人を「善き人」たらしめているものなのかということが 問題になるのである。そのために,カリレクスの当初の「善き人とは,思慮があり勇 気がある人である」という主張が取り上げられ,これが「快を感じること,苦痛を感 じること」との関係で吟味される。その概要は,思慮があり,勇気ある人も,これと 反対の思慮のない,臆病な人も,ともに快を感じる,或いは苦痛を感じるという点で は,変わりはないが(どちらかと言えば,思慮のない,臆病な人の方が,思慮があり, 勇気ある人より快を感じ,また苦痛を感じる),もしこの「快を感じること」が善き 人をまさに「善き人」たらしめているものであるとすれば,思慮のない,臆病な人が 思慮があり,勇気ある人と同時に「善き人」であったり,またそれ以上に「善き人」
であったりすることになるというものである。
以上の吟味は, 「快」と「善」が単に同一でないということに留まらず, 「快」と
「善」の,いわば振舞の異なりを示していると言えるであろう。則ち,この議論で示 されたその要点は, 「善」という言葉が, 「快い」という言葉とは異なり,我々におい て二つの用法を持っており,そのそれぞれによって,我々は別のことがらを指し示し ているということであると思われる。 「善き人」と言う場合と,善き人が,それ故 (それが具わるから)善いと言われる「善さ」と言う意味での「善」である。したがっ て,例えば, 「快く感じる」ことを「善いこと」と言い, 「快く感じる人」を「善さ人」
ということはあっても, 「悪しき人」もまた「快く感じる人」と呼ばれることがある
のなら, 「快く感じる」ということで「人を善くするもの」を指し示すことはできな いのである。したがって, 「快く感じること」は, 「善き人」がそれ故に「善い」と言 われるその「善さ」ではない。それは「快く感じる」こととは,別のものとしなけれ ばならないのである。
こうして,カリクレスの言う「自然本性的に優れた(善い)者」とは,単なる仮構 であったことが判明する。欲望の充足としての快楽は,この「優れた(善き)人」を 優れた(善さ)人たらしめるものではない。そしてこのことは,同時にすべてのノモ スを一切破棄せんがために,導入された「自然本性」という彼の概念も,まったく仮 構されたものに過ぎないことを示している。彼が「或る快楽は善いものであり,或る 快楽は悪いものである」と認めたとき(499B4‑9), 「善い快楽と悪しき快楽を分別す るのは,おのおののことがらの技術者でなければならない」 (500A4‑6)以上は,カ
リクレスもまた,彼の言う「自然本性」が仮構のものであると認め,それぞれの技術 知の示す「自然本性」へ立ち帰らざるをえないのである。
5
では,前節で見たような快楽主義は,当初の我々の問題に対してどのような意味を 持つのか。則ち,以上のような, 『ゴルギアス』篇の検討が,当初提示されたソクラ
テスの「技術知と迎合の区別」にとって,何を明らかにしえたかを,ここで検討して おかなければならない。
快楽主義が技術知の成立する場面をも蔑する仕方で主張されたこと,そしてその快 楽主義の批判が,快楽にその善し悪しがあることを承認した上で,その後,これを分 別するものとしての技術知の存在の確認をもって一応終えられることには,重要な意 味があるように思われる。その点に注目するとき,少なくとも私には,この『ゴルギ
アス』において,身体に関わる技術知と魂に関わる技術知とは,身体に関わる技術知 が迎合から区別されて,対象の善をめざすものとしてあるように,これと類比的に魂 に関わる技術知が,迎合から同様に区別されて,その善をめざすものとしてなければ ならないという仕方では,考えられていないように思われるのである。
我々は,ソクラテスの当初の「技術知と似非技術の区別」に立ち帰って,検討して みる必要がある。この区別の発端は,身体と魂のそれぞれについて,その「善き状態」
があると同時に,善くないのに「善いと思われる状態」 ‑この区別は,医者などの 技術知を持つ者でなければ,容易に気づかないものである‑があり,さらに身体に ついても魂についても,善い状態と患わせるものがあるという指摘(464A1‑Bl)に
始まる。そして,この「善き状態」と思わせるものこそ, 「快楽」(快いと感じること) であり,技術知のもとにこっそり忍び込んで,あたかも当のそれであるかのような振 りをし,その時々の「最も快いもの」で無知(aレoioi)を狩り欺く,似非技術として の迎合が狙い(464C5‑D3),当の弁論術が提供するものであると言われる。
さて,弁論術が「最も快いもので無知を狩り,欺く」と言われる場合,我々はそこ に「最も快いもの」を提供する弁論家とこれを聴いて喜ぶ聴衆のいることを踏まえて おかなければならない。この両者の関係は,簡単に言えば,弁論家は聴衆にとっで快 いことを語り,聴衆は弁論家に快いことを聴くことを求めるという関係である。この 関係のなかで,ポロスは, 「弁論術は人々を喜ばせることのできるものなら,立派な ものであり,諸々の国家の中で最大の力を持つ善きもの」 (462C8‑9, 466B4‑8)と考 えたのである。
しかし,ソクラテスにとって,この似非技術である「迎合としての弁論術」が,覗 に力を揮うことを可能にしている構造,他の諸々の技術知をも凌駕する力を持つかに 見える構造(つまり,それは先の弁論家と聴衆の関係のなかで生み出される構造)こ そが問題であった。ソクラテスにとって,この構造を現出させているものこそ,快楽 主義(快を善しとすること)だったのである。則ち,快楽主義は, 「迎合としての弁 論術」を揮う弁論家とこれを聴いて喜ぶ聴衆とが,そこに何事かを成し遂げていると 思わせる,当のものである。ソクラテスは,似非技術である料理法と医術知との関係
に触れて,次のように言う。
「もし,料理人と医者とが,子どもと同様に知性のない人々の前で,身体のた めになる(利益になる)食物と害になる食物に関し,一体どちらが目利きなのか を競わなければならないとしたら,医者は餓えて死んでしまうことになるであろ
う」 (464D5‑E2)
医術知が医術知としての存立基盤をなくす場面は, 「身体にとって快いこと」を
「身体のためになること」として,つまり「快」を「善」として,言い換えれば, 「善 いと思われる」ことを「善い」こととして,この両者がいわば癒着した場面であろ う。我々が先に見たように,ソクラテスが,カリクレスの「自然の正義」から, indiscriminateな快楽主義を暴き出したのは,このような技術知の存在さえも否定
され,カリクレスさえも恥じ入らなければならないような場面も超えて,快楽主義を 徹底し,そしてその最後の場面で,なお「快」と「善」の区別がどのように確保され
るのかを見極めることにあったと,私には思われる。
しかしでは,何故,そこまで徹底した快楽主義を検討する必要があったのか。何故, 技術知における, 「快」と「善」の区別によって,快楽主義を郁けるという方法が取
られなかったのか。
我々の先の問題は,ここに関わっている。則ち,今見てきたところからすると,こ の『ゴルギアス』において,身体に関わる技術知と魂に関わる技術知とは,身体に関 わる技術知が迎合から区別されて,対象の善をめざし, 「決と善」を区別しているも のとしてあるように,丁度これと類比的に,魂に関わる技術知がその善をめざし,
「快と善」を区別しているものとしてなければならないという仕方では,語られてい ないように思われるのである。繰り返して言えば, 『ゴルギアス』では,身体に関わっ て,対象の善をめざし, 「快と善」を区別している技術知の存在すら蔑するような, 快楽主義が検討に付され,最後にカリクレス自身も「善い快楽」と「悪しき快楽」の 区別を認めざるを得なくなり,快楽主義が最終的に論破されたときに, 「どれが善い 快楽でどれが悪しき快楽」であるかを判別するものとして技術知の存在が確認される
ことになるのであって,技術知の存在によって,快楽主義が郁けられているのではな
い。
この問題の帰趨を確認するためには,先に見た, 「知性のない人々」の前での「料 理法と医術知」の関係を語る文と同様に重要な,もう一つの文章の持つ意味を顧みる 必要があると思われる。技術知と迎合を区別していくなかで,ソクラテスは,ソフィ
ストと弁論家との区分の混同に触れて,次のように語る。
「そしてまた,もし魂が身体を監督せず,身体が自分で自分を監督し,そして 料理法と医術知とが魂の下に見て取られ,区別されるのでなく,身体自身が自ら
の気に入るもの(身体にとって快いもの)を尺度とするのなら,一一医術知に関 することも,健康に関することも,料理法に関することも区別はなくなり,同じ ところに,すべてのことはごたまぜに,いっしょくたにおかれることになったで あろう」 (465C8‑D6)
この文章の語るところは,厳密に理解されなければならないだろう。則ち,この文 は,身体における「善と快」の区別,並びにこの区分を可能にしている技術知の成立 を根拠にして,これと類比的に魂においても「善と快」の区別,そして技術知の成立 すべきことが主張されているのではない。むしろ身体における「善と快」の区分と技 術知の成立が語るうるためには,その「善と快」の区分を可能にする何か(‑魂)が なければならないこと,それがなければ,一切の技術知が,まさに技術知として成立 しえないこと(つまり,技術知も迎合も区別されないままに,ごたまぜにおかれるこ と)を語っているのである。
それ故,ここでは,技術知における「善と快」の区別を支えとして,快楽主義を否 定することはできないのである。そして我々は,弁論術が他の諸々の技術知を凌駕す るものとして主張され,そこに弁論術の大きな力があると,ゴルギアスによって見倣 されていることを思い出す必要があろう。つまり,弁論術の中には,当初から技術知
を否定する場面が含まれていたのである。
さて,もし「快楽こそを善」とする快楽主義が,我々の生において取らなければな らない途なら,身体における「快と善」の区分,技術知と迎合の区分さえなくなるの である。則ち,快楽,そして欲望の充足こそを善とするという仕方で,我々が立法す る喝合,それは同時に我々を,身体における「快と善」の,そして技術知と迎合の区 分さえ見分けのつかないものにすることになる。このような状態が現出するのは,
「知性のない者(dv6符丁0ぐ)の前で」,或いは「魂が監督せず,見て取ることなく, 区別しない場合」であるとソクラテスは表現した。それは魂が知性vour)なきも のとなる時である。もし,それが知性なきものとなるとき,一切がごたまぜになり,
ロゴス(言葉,理)を失うような,そのようなものとして「魂はある」ということが, ここで確認されているのである。
快楽主義が徹底されなければならなかったのは,まさに「魂」のこのような行方を 確認するためのものであった。
6
以上の考察は未だ, 『ゴルギアス』篇の基本的な問題の枠組みの一つを見出したに 過ぎない。技術知と迎合の間を選り分け,明るくしたのは,問答によるソクラテスの
「愛知の営み」である。快楽主義の批判の後,その「愛知の営み」は政治活動と対比 され,そして再び取り上げられる「技術知と迎合」の区別と微妙に重なり合いながら, 展開されることになる。
今我々は,その点に関して,次の一つのことは確認しておく必要がある。快楽主義 の批判が終えられると,再び技術知と似非技術である迎合との区別が取り上げられ, 一体「魂」の場合にも,この区別はあるのかを問うかたちで議論は進められるが,こ のときその議論の全体は,魂に関わる技術知については,現在の政治家のなかにも, またこれまでの政治家のなかにも,迎合ではない真の技術知をもっていた人は,結局 何処にも誰一人として見出せないのであり,むしろそれはすべてが似非技術たる迎合 に他ならないことを示すことへと向けられている。しかし,この現在と過去の政治家 について,彼らが真の技術家であったか否かを吟味していく中で,もしそれが技術知 であるなら,それは如何なるものでなければならないかが同時に示されることになる。
則ちそれは, 「どのようなことを語りかけるにしても,またどのようなことを行うに しても,市民たちの魂ができるかぎり優れたものとなるように,そして聴く人々にとっ ては快いことであろうが,不快なことであろうが,その人の同胞の市民たちの魂に, 正義が生じ,不正は取り去られ,節制が生まれ,放噂は取り去られるように,いっも
そのことに心をむける(7zpd<r zobzodteivObvUxtov)」ような営みであるという仕 方で語られている。 (503A‑B, 504D‑E)。
しかしこのことは,丁度身体において,医術や体育術があるように,我々の魂にも, そうした技術知がなければならないということを語っているのだと受け取ってはなら ない。何故なら,今引用された,その営みの全体は,まさにソクラテスの「愛知の営 み」の関わっていたもの(521D)だったのである。この重なりと微妙なずれは,ど のように理解しなければならないのか。
『ゴルギアス』篇の問題の全容が一体何であるのかをひとつひとっ明らかにしてい くなかで問われなければならない問題であり,そのことが今後の課題である。
〔註〕
(1)続くポロスとの対話は,弁論術が「果たして迎合(凡0λα凡elα)か,もっと大きな力を持っものではな いか」と切り出すことによって,以後, 「大きな力」を持っのはどういう場合かという方向に展開されて,
「快を狙う」という側面は背後に退いている。 『ゴルギアス』篇の中で,ポロスとの対話を持っ意味,特 に474C‑476Aのエレンコスの持っ意味については,別に論じる必要がある。
(2) C. H. Kahn : Drama and Dialectic in Plato's Gorgias, Oxford洩udies in Ancient Philo‑
sophy I (1983), p. 104; G. Klosko : The Refutation of Callicles in Plato's Gorgias, Greek &
Rome XXXI (1984),pp.126‑139を参照Kahnは次のように述べている。 ̀The most difficult question is why Plato makes Callicles an indiscriminate hedonist rather than a more selec‑
tive pursuer of preferred passions, like the timocratic or plutocratic man of RepublicVIII;*
なお,修正の試みについては, Kloskoの論文を見られたい。
(3)以上は,カリクレスの演説のうち, 482C‑484Cの個所の要点である484C‑486Dの部分は快楽主義の 吟味の後に問題になることであるので,省かれている。
(4)先に予備的考察と呼ばれた個所の第一の考察で,この点が検討されている.
(5) 490A2: zouzov apxeiu del; 491Dl: zotixovr γdpπpoo海ei zcou πdλecou apxttv.なお,上記の Kahn (p.98‑100)も参照されたい。
(6) 『国家』第1巻, 348E5‑349A2を参照。そこにおいて,トラシュマコスの言説に対してソクラテスは,
「そうなると,今やいっそう手強い。それに対して人は何かを言えばよいか,容易なことではない。だっ てもし君が,他の人々と同様に,不正はためになる(得になる)と主張しながら,しかしそれは悪徳で あり,醜いことであると同意するのだったら,普通認められていることに従って(推αzdzd voμir6‑
μeLJα),何か言うこともできたであろう。しかし今や君が,不正は美しくも強くもあると主張し,その 他我々が正義に与えていることがら一切を,不正に付け加えるだろうことは明らかだ」と言う。
(7)第二の予備的考察では, 「優れた人」が「思慮ある人」でもあるということがソクラテスの示唆に従っ て認められた上で, 「思慮ある者」が,技術知の場面において, 「より多く取ること」がどのような意味 を持っかが検討されるが,これは検討半ばにおいて中断される。何故,中断されることになるのか。そ
のことの意味は極めて大きいと考えられる。 『国家』第1巻の,前註(6)に続く349A‑350Cにおいては,
「より多く取ること」が技術知の場面で考察されているのである。
(8) 483E3において, 「優れた者」は「法にも従っている,しかしその法は自然の法であって,我々が立て る法ではない」と言われている。
(9)が161<Kという言葉は,プラトンの対話篇のうちに,さほど登場しない言糞であるが,ここと同様の 用法(名詞形)が『国家』第8巻(560D2)に見られる。
(10カリクレス介入の最初の言葉, 「もしソクラテスが真剣で,語っていることが真実だとすれば,我々人
間の生はまったくあべこべになっていて,そうしなければならないこととは正反対のことを行っている ということになろう」 (481C1‑4)を参照。
(IDこの点において,カリクレスの「欲望の充足」を中心にする言説は, 『国家』第2巻における,トラシュ マコス説の再興として述べられるグラウコンの「不正擁護」の説(358E‑360D)の場合とは異なってい
るように思われる。というのは,グラウコンの場合には, 「ギュゲスの指輪」のような,何であれそれを 行う自由が与えられるとき, 「欲望の充足」という点では,正しい人も不正な人も,本来変わらないもの として述べられているからである。しかし,カリクレスの場合も,次に見るように,ソクラテスはそれ を「人は(誰であれ)如何に生きるべきか」という問いとの関係において考察するようになる。
zl<7という不定詞が「誰であれ誰か」を指すものであることは,言うまでもないことであろうO 「如何 に生きるべきか」という場合にも,そこに省略されている主体は, 「人間は誰であれ」である。なお, カリクレスの演説を受けて,考察は「人はどのような者であるべきか」 (πoldvzi.vaXP婚eんaL T∂レ apdpa, 487E9)に向かうべきであると述べられている。したがって,ソクラテスは当初から,人は「如 何に生きるべきか」,人は「如何なる者であるべきか」を問うているわけであるが,問題は,カリクレス の主張の,一体どの場面でこのことが可能になるかということであろう。
R. McKim : Shame and Truth in Plato's Gorgias, Platonic Writings/Platonic Readings (Ed. C. L. Griswold, Jr), Routledge, (1988), pp. 34‑48, esp., pp. 41‑2を参照。
(14)予備的考察の第二の部分で,技術知の関わる場面をソクラテスが取り上げたとき,カリクレスはこう 言って,軽蔑する。
(15)このように理解する理由についていくつか述べておきたい(a)先ずテキストの読みの問題であるが, (D495C1に「君が真剣なのだと考えて,ロゴス(読)を取り扱って(検討して)みようと言われている
ところからすれば,ここから快楽主義の検討が始まっていると考えられること, (2)「快楽の善し悪し」を 明示する文章(494E9‑A2)は, 「もし無条件に〜と主張する人があれば,その人が」というように,直 接カリクレスを指す文章ではなく,誰でもそのように「快いことが善」という人があれば,という文車 であり,上に述べたように, 「快いことが善」という主張がどこまでの広がりを持っかを示唆すると理解 する方が自然であること, (3)この後(494A2‑4),直ぐにカリクレスに対して, 「快と善とが同じである」
と主張するのか,それとも「快楽のなかにも善くないものがある」と主張するのかと,両方の選択肢を 提示して,選択を求めている点である。 (b)『ゴルギアス』の問題そのものからの理由は,本文に述べる通
りである。
(16)快楽主義の第‑の吟味については,伊東斌「プラトン『ゴルギアス』における快楽一善考察のため の予備的段階‑」 (『哲学論文集』第6輯, 1970, pp.43‑60)を参照されたいo
(1991年10月31日受理)