夏徴舒と楚荘王
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第66巻 第1号 Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 66, No.1. 平 成 27 年 8 月 August, 2015. 夏徴舒と楚荘王 竹 内 康 浩 北海道教育大学釧路校史学(東洋史)研究室. Xia Zhengshu 夏徴舒 and Chu Zhuang Wang 楚荘王 TAKEUCHI Yasuhiro Department of History, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 春秋時代の陳で夏徴舒が主君の霊公を殺害すると,楚の荘王は出兵して夏徴舒を殺害し,陳 を楚の県にしてしまうが,家来の諌めを聞き入れて荘王は陳を再び国に戻す。『左伝』等に見 えるこの物語は,県の設置という歴史的な問題に関わる資料として,多くの研究者によって検 討されてきた。また,この物語は覇者の一人とされる荘王が賢者であることを示す話としても 読まれてきた。しかし再検討の結果,事実の認定と人物評価は以下のようになった。夏徴舒の 主君殺害には母の受けた侮辱を雪ぐという復讐(孝)の要素もあり,一方的な悪とは限らない。 また夏徴舒は楚や鄭との会盟にも参加しており,君主として他国に認められた存在であった。 荘王については,領土や女性をめぐる様々な野心の満足が出兵の動機であった。陳が楚の県に なったか否かは,『左伝』の当該記事は後世の潤色が大きく,史実としては疑わしい。. はじめに 『春秋左氏伝』は,宣公十年(前599)に陳において大夫の夏徴舒が君主の霊公を射殺するという事件が 起きたこと,その翌年には楚の荘王が出兵して夏徴舒を誅殺し陳を滅ぼして楚の県にしてしまったこと,及 び荘王が申叔時の諌めをいれて陳を復国させたことを記している。陳における君主と大夫たちの不品行に始 まり,弑君を経て国の滅亡を招来しのちまた国に復するというこの一連の事件は,これまでに主に二つの関 心から注目されることが多かった。一つは,のちの秦の統一へと発展してゆく中国古代史の大きな流れの中 で「県」の設置という支配のあり方の意義を問う言わば歴史的な関心である。もう一つは,事件の陰の主役 ともいうべき夏姫という女性及び彼女を取り巻く男性たちを取り上げて「中国のファム・ファタール」を描 こうとした言わば物語的関心である。 特に歴史学の立場からは前者が重要であり,「県」の設置に関してこれまでに多くの研究がこの事件につ いて言及している(1)。しかし,この一連の事件について再検討してみると,史実の確認や関連人物の立場. 165.
(3) 竹 内 康 浩. についての従来の理解には疑問が生ずるに至った。よく利用される重要資料であるが故に,しっかりと読み 直す作業が必要である。一方,この事件には登場人物たちの愛憎の物語としての要素が強いのも事実であり, そこを無下に切り捨てては人々の行動の動機や態度の理解が難しくもなる。 そこで本稿は,この一連の事件について,まず実際に起こったことの再確認を行い,その上で人物の立場 や心情に踏み込み,この事件の意味するものについてあらためて検討を試みるものである。先に述べた歴史 的関心と物語的関心の両面から事件について叙述しようとする試みである。. 第1章 事件の概要 まず,本稿が検討を加える一連の出来事の概要をたどっておこう。夏徴舒による主君霊公殺害に始まり, 楚の荘王の出兵と夏徴舒の誅殺,荘王が陳を楚の県としたこと,申叔時の諌めをいれて陳を再び国に復した こと,という展開を,以下は事件というように表現することとする。事件については『春秋左氏伝』宣公九 ~十二年及び『史記』陳杞世家に記述がある(2)。以下,より詳しい『春秋左氏伝』に基本的に拠りながら, 辿ってゆくこととしよう(3)。 夏徴舒による霊公殺害の件は宣公十年五月の条に記載されるが,その伏線は同九年冬にある。陳の霊公は, 大夫である孔寧や儀行父とともに夏姫と関係を持っていた。彼らは夏姫の襦袢を身に着けるなどして朝廷で ふざけあっていた。洩冶が霊公を諌め, 「公卿が乱れていては民の手本となりません。さらには不名誉であ ります。女性の下着など,おしまい下さい」と言うと,霊公も「改めることとしよう」と答えた。一方で, 霊公は孔寧と儀行父にその話をすると,孔寧と儀行父は洩冶を殺そうと提案,霊公もそれを止め立てせず, とうとう洩冶は殺害された。 翌宣公十年, 『春秋』経では「五月,癸巳,陳夏徴舒弑其君平国」と記される事件が起こる。『春秋左氏伝』 には次のように記す。 陳の霊公,孔寧・儀行父とともに夏氏に飲酒す。公,行父に謂いて曰く,「徴舒は汝に似る」と。対え て曰く, 「亦た君に似る」と。徴舒,之を病む。公,出づるに,其の厩より射て之を殺す。二子,楚に奔る。 霊公・孔寧・儀行父の三人は,関係のある夏姫のもとに来て酒を飲んでいる。すでに夫を亡くした夏姫は 息子である夏徴舒と共に暮らしており, 「夏氏に」というのはそういう事情である。さてこの三人,酔いも 手伝ってか,不用意で悪質な会話をする。まず,霊公が儀行父に対し「徴舒はそなたに似ているな」と言う と, 儀行父は「殿様にも似ております」と答えた。このやり取りを聞いて夏徴舒はこれを「病んだ」という。 これは「気に病んだ。憂えた」の意としても通じるであろうが,「病」には「恥辱」の意味があり(4),ここ ではその意味にとるのがよいと思われる。なお,『史記』陳杞世家では「徴舒怒る」と書き,侮辱を受けた 夏徴舒の心情としては一層激しい動きを表す。夏徴舒は,帰路に就く霊公を厩で待ち受けて射殺する。孔寧 と儀行父の二人は,その場で討ち漏らしたのかどうかは不明ながら,自分たちの立場を思い,禍が来るのを 恐れ楚に亡命する。ここまでが『左伝』による霊公殺害事件の一連の記事である。 以上の流れに続けて『史記』陳杞世家では「霊公の太子午,晋に奔る。徴舒,自立して陳侯となる」とい う, 『左伝』には見えない記事が付加されている。特にここには夏徴舒の自立(即位)という極めて重大な 行為が示されており,注意が必要である。 『左伝』にこの記事が見えないことについては,先君が乱によっ て弑された次の君主については即位を書かないという『春秋』の書例(5)によるものと考えられ,必ずしも『左 伝』が夏徴舒の即位を否定しているものではない。. 166.
(4) 夏徴舒と楚荘王. 事件の関連記事は,この年はこの後は見えない。 翌宣公十一年に移る。『春秋』経には「夏,楚子・陳侯・鄭伯盟于辰陵。」という記事が見える(伝はない)。 霊公が殺害され,太子の亡命中であるはずの時期に「陳侯」が現れて楚子・鄭伯と盟を結んでいることは注 目される。この陳侯は夏徴舒であるとみられる(後述)。 そして同年,経には「冬,十月,楚人殺陳夏徴舒。丁亥,楚子入陳,納孔孫寧・儀行父于陳。」という記 事が見える。楚の荘王が出兵して夏徴舒を誅殺するのであるが,その後に荘王がとった陳への措置について の話がむしろ詳しい。伝の文を次に掲げておく。 冬,楚子,陳の夏氏の乱の為に故に陳を伐つ。陳人に謂う, 「動くこと無かれ。まさに少西氏を討たん」 と。遂に陳に入り,夏徴舒を殺し,諸を栗門に轘す。因りて陳を県とす。陳侯は晋に在り。申叔時,斉に 使いし,反えり,復命して退く。王,之を譲めさしめて曰く, 「夏徴舒,不道を為し其の君を弑す。寡人, 諸侯を以て討ち之を戮す。諸侯・県公みな寡人を慶す。なんじ独り寡人を慶せざるは何故か?」と。対え て曰く, 「猶お辞すべきか」と。王曰く, 「可なり」と。曰く, 「夏徴舒,其の君を弑するは其の罪大なり。 討ちて之を戮するは君の義なり。抑も人に亦た言有りて曰く, 『牛を牽きて以って人の田を蹊し, 〔田主,〕 之の牛を奪う』と。牛を牽きて以って蹊する者は信に罪あり。之の牛を奪うは罰はなはだ重し。諸侯の従 うは,有罪を討つと曰えばなり。今,陳を県とするは其の富を貪るなり。討を以って諸侯を召し,貪を以っ て之に帰するは,乃ち不可なることなからんや」と。王曰く,「善きかな。吾れ未だ之を聞かざるなり。 之を反せば,可ならんや」と。対えて曰く,「吾儕小人の所謂の,『諸れを其の懐より取りて之に与える』 なり。 」と。乃ち復た陳を封ず。郷ごとに一人を取りて以って帰し,之を夏州と謂う。故に書して「楚子, 陳に入り,孔孫寧・儀行父を陳に納む。」と曰うは,礼有るを書するなり。 夏徴舒による霊公殺害から一年以上たった宣公十一年の冬に,楚の荘王が夏徴舒討伐の軍を挙げる。経文 では楚人ないし楚子と称するが,伝の文によれば荘王が諸侯の軍を率いて行った共同作戦であることがわか る。挙兵の口実は夏徴舒(少西氏)の乱を収拾することであり,そのため陳人に対してはわざわざ「動くこ と無かれ」 と伝えて警戒心を解かせようとしている。この「陳人」とは誰を指しているのであろうか。『左伝』 に現れる「 〈国号〉人」に関する吉本道雅氏の整理によれば,身分的には国君から士までを含むもので,外 交場面では世族を指すことが多く,戦争に関しては兵員とされる士以上を指すことが多い,という(6)。こ の宣公十一年の記事は,軍の動員という点からは戦争に属すると言えようが,荘王の配慮としては外交に近 いともいえ,まして霊公死去の後,陳の内部がどのような状況にあったのかが不明であるので,なかなかに 決め難い。しかし,夏徴舒討滅だけが目的だという説明で陳の対応に変化が出る(徹底抗戦が回避されるな ど)のであれば,夏徴舒の勢力基盤は脆弱にして国人の支持を得ていないというように考えられるから,あ るいは彼の立場は孤立したものとみるべきであろう。 荘王はいったん陳に攻め込んで夏徴舒を誅殺(車裂に処している)してしまうと,先の言とは異なり,陳 を楚の県にしてしまうという挙に出る。しかし,群臣が慶賀する中でただ一人それを諌めた申叔時の建言に より,非を悟った荘王は陳を再び国として復興させる。そして,陳の各郷から一人ずつ出させて楚に連れ帰 り夏州と呼ぶ地に住まわせた。さらに,事件の原因をつくった孔寧と儀行父の二人を陳に戻したが,それは 礼に適う行為であった,と『左伝』は評価している。 以上が,宣公九~十一年にまたがる陳の君主殺害事件に関する一連の事実である。この事件の主要な人物 である夏姫をめぐっては,荘王が彼女を自分の手元に置こうとするなどしてさらに一波乱あるのであるが(成 公二年の条) , それはもはやこの陳の主君殺害事件からは離れてしまうので,ここではこれ以上は言及しない。. 167.
(5) 竹 内 康 浩. 事件そのものは上記の如く,夏姫という女性と陳国の君主と大夫との間の不品行が原因となって引き起こ された君主殺害が中心であることに間違いはない。表面的また直接的契機としてはそれ以外に言いようがな い。主に『左伝』によってたどったこの事件は,それぞれの局面において道徳的な評価が問題となっている。 発端のところでは男女関係についての乱倫,ついでは主君弑殺という秩序違背,そして荘王の出兵は賊を誅 するという正義,陳の楚県化は正義を損なう貪,陳の復国は義に立ち返るものとして,それぞれ行動の根拠 や評価となっている。しかし,実際に起こったのはどのような出来事であったのかをそれぞれの人の立場に 立って考えてみるならば,また再考の必要もあると思われる。次章ではその検討を試みたい。. 第2章 人々の立場 第1節 夏徴舒の立場 本章では,この事件の主役というべき夏徴舒と楚の荘王,そして事件に関与する人物たちを対象として, 彼らを取り巻く状況や行動の動機について確認したい。まずは霊公殺害に手を下した夏徴舒から見ていこう。 君主殺害という重大事件に彼を駆り立てた動機や状況はいかなるものであったのであろうか。 夏徴舒は陳の大夫である。生年は不明であり,事件を起こした時に何歳であったかはわからない(実はそ の点は重要であるが)。母は夏姫である。父についてまずは問題となる。 上述のように,夏徴舒と夏姫の家で霊公・孔寧・儀行父の三人が酒宴をした際に,霊公が儀行父に対し「徴 舒はそなたに似ているな」と言うと儀行父が「殿様にも似ております」という問答をしている。これは戯言 ではあろうけれども,何らかの真実味を持たせようとするならば,霊公らと夏姫の関係は夏徴舒が生まれる 前からに遡るということになる。そして,実際に夏徴舒が彼らのうちの誰かの子である可能性を示唆してい る。その説を明言するのは竹添井井『左氏会箋』である。該当箇所に「徴舒ハ夏姫ガ生ム所ノ霊公ノ子ナリ」, またこの問答を受けて「徴舒病之」とあることについては「戯レニモ父ガ己ノ子ニ非ズト曰フヲ憂ヒタルナ リ」と記している。夏徴舒が霊公殺害に踏み切った動機は,肉親の関係を否定されたことに対する憂憤であ るとみているのである。この説を採るならば,夏徴舒の言わばアイデンティティー・クライシスが動機となっ 夏徴舒による霊公殺害は君主殺害にとどまらず父親殺害でもあることとなる。 て事件は起こったのであり(7), しかし,経の注疏はいずれもその説を採らない。『左伝』の杜注は「霊公即ち今十五年に位す。徴舒已に 卿たり。年大にして,是れ公子なる嫌無し」と言い,はっきりと否定的である。一国の大夫となっているか らには夏徴舒はこの時決して少年以下ではありえず,それなりの年齢になっているはずであるから霊公の子 ということはない,というのである。その場合,夏徴舒が生まれる,要は霊公と夏姫との関係が生じたのは 霊公即位後だということを前提としているが,特に根拠がある説ではない。想起すべきは,霊公らの不品行 を諌めた洩冶が殺害されたのが宣公九年冬であったということである。もし霊公らと夏姫との関係が長期に わたるものであれば,それをずっと放置しておいて,この段階でわざわざそれを諌めるのはいかにも不審で あり,むしろ関係発生直後に諌めたという方が想定しやすいように思う。 この事件当時は夏姫は寡婦であり,亡夫は陳の大夫であった御叔なる人物であるとされる。この御叔につ いては早くに亡くなったということになっていて(後述),彼の死がいつのことかは不明ながら,御叔の死 後(つまり夏姫が寡婦でいる間)に夏徴舒が生まれたということだけはあり得ないはずである(婚外子であ ることが明らかであるから)。注目すべきは,『国語』楚語上の次のような記述である。 昔,陳の公子夏,御叔の為に鄭の穆公より娶り,子南を生む。子南の母,陳を乱して之を亡ぼさしむ。. 168.
(6) 夏徴舒と楚荘王. 陳の公子夏とは陳宣公の子で御叔の父に当たり,息子の御叔のために鄭穆公の娘(すなわち夏姫)を娶ら せて,その結果,子南すなわち夏徴舒が生まれたというのである。この文によれば,夏徴舒が御叔を父とし て生まれたとみなすことには問題がないように思われる。『史記』陳杞世家は, 「徴舒は,故の陳の大夫なり。 夏姫は,御叔の妻,舒の母なり。」と明記している。夏姫と霊公らとの関係発生にしても,彼女が寡婦になっ たからとみるのがまだしもありえそうな想像ではないであろうか。 以上から,夏徴舒を霊公の子とみなすことについては甚だ疑わしく,つまり夏徴舒が霊公殺害に踏み切っ たのは父と子の愛憎の問題ではない,とすべきである。しかし,霊公・孔寧・儀行父の三人が酒宴の場で言っ た戯言が夏徴舒を怒らせた原因であることには疑いはない。では何が問題なのであろうか。 この点については,前述の如く, 『左伝』に「徴舒,之を病む」というその「病」とは「屈辱」の意味で あり,霊公らの会話を夏徴舒は侮辱として受け止めたから,ということになる。注目すべきは『史記』十二 諸侯年表である。その陳霊公十五年に次のようにある。 夏徴舒,その母,辱しめられるを以って,霊公を殺す。 夏徴舒が霊公殺害に踏み切ったのは,母が侮辱されたことを理由とする,というのである。霊公と大夫た ちの戯言は, 夏徴舒の父が誰かという問題にとどまらず,複数の男性と(非婚姻で)関係を持った母(夏姫) を侮辱することにも当然なるのであり,十二諸侯年表の記述は道理としては妥当である。誰が父なのかわか らないという意味では夏徴舒自身への侮辱でもあるわけだが,母への侮辱として耐えがたいというのが夏徴 舒の心情である,というわけである。そしてこの説を採るならば,夏徴舒の行為は,確かに君主殺害である けれども,一方では母の受けた屈辱を晴らすという意味では「復讐」に該当することとなる。親の仇への復 讐は,周知のように「孝」の行いとして是認されていたのであった(8)。その意味では夏徴舒は「孝子」と して褒められるべき要素があるということにもなるのである。『春秋』の注疏は全てこうした考えを採るこ とはなく,ひたすらに君主殺害の極悪人としてのみ夏徴舒を評価するのであって,『史記』十二諸侯年表は 特異な立場として注目に値する。 以上のように,夏徴舒をめぐる状況について考えてみるならば,霊公殺害に踏み切った動機は広義の「復 讐」であるとみるのが妥当なように思われる。出生の秘密や父子の愛憎ではなく,自分自身が侮辱され母が 侮辱されたというその想いによると考えてよいように思う。母を侮辱した霊公・孔寧・儀行父のうちでなぜ 霊公が真っ先に殺されたのかについては,前章において紹介した如く,朝廷内においてすらこの三人は公然 と自分たちの不品行を語っていたのであって,それは霊公の主導なしにはあり得ないからである。 次に,霊公を殺害した後の夏徴舒の行動について確認しておく。ここで問題となるのは,夏徴舒が陳侯と して即位したか否かである。即位を明言するのは『史記』陳杞世家である。霊公射殺に続けて次のように言 う。 孔寧・儀行父,皆楚に奔る。霊公の太子午,晋に奔る。徴舒,自立して陳侯となる。 『左伝』 では,宣公十年で夏徴舒が霊公を殺害した直後に孔寧と儀行父が楚に奔ったことは書いているが, 太子の亡命については記述がない。しかし,翌十一年の荘王が夏徴舒を誅殺した直後の部分に「陳侯は晋に 在り」とあり,太子が晋に亡命していたことを記す。『左伝』では約半世紀後の襄公二十五年の条に,子産 の発言の中に,夏徴舒の乱によって流寓していた陳の成公(=太子午)が鄭の尽力で帰国できたことが述べ られている。 『左伝』の知識には太子の亡命は確かに伝わっている。夏徴舒が陳侯に即位したことを言うの. 169.
(7) 竹 内 康 浩. はこの陳杞世家のみで,同じ『史記』でも十二諸侯年表にはその記事はない。蘇轍と全祖望は夏徴舒の即位 をはっきりと否定する( 『史記会注考證』陳杞世家に引く)。しかし,『左伝』に夏徴舒即位の記事が見えな いことについては,先君が乱によって弑された次の君主については即位を書かないという『春秋』の書例に よるものと考えられ,『左伝』が夏徴舒の即位を否定しているとは言えない。 注意すべきは『春秋』宣公十一年経文の「夏,楚子・陳侯・鄭伯盟于辰陵。」という記事である。楚子と 陳侯・鄭伯が盟を行った辰陵の地は夷陵とも言われ,現在の河南省周口市西華県あたり,当時にあっては陳 に属する地である。荘王は,その三年(前608)に鄭とともに陳を伐ち,十年(前604)には鄭を伐つ一方で 陳とは和平し,十三年(前601)には再び陳を伐ち,そしてこの十六年(前598)の辰陵の盟に至る,という 経緯がある。よって,荘王即位後の楚・陳・鄭の関係からはこの時期に盟を結ぶことは自然であり,この記 事自体を誤りとして疑う理由はない(9)。また,盟を結んだ地が陳に属する辰陵の地であるからにはそこに 陳侯が参加することもまた当然であり,むしろ陳侯の参加なくして場所がそこに決まることこそありえない と言わねばならない。こうして見ると,楚子・陳侯・鄭伯が盟を結んだというこの記事を疑う理由はなく, 陳侯の語が誤って紛れ込んだとする理由もなく,霊公の死後から成公の即位の間にも陳侯がいたことは間違 いない,となると, 『春秋』宣公十一年経文の会盟に参加した陳侯は夏徴舒であったとみるほかはない。太 子午は亡命中で即位しておらず陳侯とは称せられないし,彼がこの会盟に参加したところで正当な効力は保 証できない。まして陳国内の場所で会盟を設けることができるはずはない。『春秋』では,もし公が不在で 臣が会盟に参加した場合にはその旨を明記するので,ここに陳侯とあるからには会盟に出たのは陳侯であり, それは『史記』に「自立した」と書かれる夏徴舒以外にはありえない(10)。 この会盟に参加した陳侯が夏徴舒であるならば,楚(荘王)は夏徴舒を陳侯として一度は公認したという ことになる。そして,この時には陳に出兵して夏徴舒を誅するという行為を採らなかったことも,十分に注 意する必要がある。楚(荘王)が夏徴舒を陳侯と公認したことは,のちの楚の出兵に至る状況にますます不 審の念を抱かせることとなる。 『左伝』によれば荘王の出兵は弑君の賊を倒すための「義」の行いのはずで あり,その賊を公認するようなことがあっては名目が立たないからである。 この盟を行った同年の冬になって,楚の荘王が陳に出兵する。霊公の殺害から一年五か月を経過している。 夏徴舒は殺され,『史記』によると栗門(陳の城門)で轘すなわち車裂きにされたというが,『左伝』には轘 とは言わない。 『左伝』の轘の例は桓公十八年と襄公二十二年の二例が見えている。前者においては鄭でクー デターを起こした人物である高渠弥を斉侯が轘したという。主君殺害という罪状はまさに夏徴舒と同じであ る。後者においては,楚の令尹子南の寵臣である観起に対する誅罰として行われている。いずれも臣下とし てふさわしくない行為を行った者であり,その意味では夏徴舒にも轘が加えられた可能性はある。孤立無援 の悲惨な最期というべきであろうか。 その後のこととして, 『春秋』には夏徴舒の子孫として夏齧なる者が見える。即ち,昭公二十三年(前 519)に呉が陳などの連合軍を雞父で破った際に,「陳の夏齧を獲る」との記事があり,伝には夏齧は陳の大 夫であるといい,注では夏徴舒の子孫にあたるという。夏徴舒自身は誅殺されたものの,族殺のような扱い ではなく,子孫は依然として陳において大夫の職に就いていたようである。この点からも,夏徴舒の起こし た事件に対する処罰が彼個人に対する厳罰にて納められたものであることを知る。一族みなが責めを負うよ うな事態ではなかったのである(11)。 第2節 荘王の立場 楚の荘王は,名は旅。穆王の子で,二三年間楚の王として在位した(前613~前591年)。この人物は,春 秋五覇の一人に数えられることもあり,また,その在位中の行跡にて著名な人物である。即位後しばらく政. 170.
(8) 夏徴舒と楚荘王. 務をとらなかった「三年鳴かず飛ばず」の故事(『史記』楚世家), 「鼎の軽重を問う」の故事(『春秋左氏伝』 宣公三年) ,春秋時代の中でも有名な晋に圧勝した邲の戦い(同宣公十二年)はいずれも荘王にかかわるこ とである。この陳に関わる事件についても,荘王を「賢」とする孔子による評言が残された(『史記』陳杞 世家)こともあって,等閑視できないものである。 夏徴舒の起こした霊公殺害事件は,荘王が出兵することで,陳国の運命をも変える事態へと発展する。陳 の内乱に対して何故に楚が出兵するのかと言えば,孔寧と儀行父の二人が楚に逃げたからに他ならない。実 はこの二人の行動がその後の一度の陳滅亡につながると推測される。というのも前述のようにこの事件のし ばらく前から,楚は陳を攻めているからである。即ち,楚の荘王と陳の霊公は同じ年(魯の文公十四年)の 即位であるが,魯の宣公元年に楚と鄭は陳に侵攻し,さらに宣公八年にも楚は陳を伐っているのである(九 年にも陳を討って鄭を助けたという記事あり)。陳と楚はこのあたりの時期は決して友好的ではなく,むし ろ楚が陳を何度も攻撃する状況なのである。そういう関係にある中で孔寧と儀行父が楚に逃げたのは,国内 の不穏な状況を楚に訴えて陳への攻撃理由を提供することに他ならない。ましてこの二名は乱の原因をなし た者たちであり,我が身の安全を確保し夏徴舒をことさらに悪に仕立て上げてその討伐を主張することは大 いに考えられることである。出兵の正当な理由の確保と,正統なる君主の不在とを言わば「餌」として荘王 を唆した,というところではあるまいか(また,夏姫と荘王を結びつけることが可能な人物でもある)。 しかし,荘王は夏徴舒を一度陳侯として認め,盟を結ぶ。それが夏のことで,同年の冬には,荘王は夏徴 舒を懲らしめるために軍を出す。他国において弑君の事件が起こった際に諸侯が連合して責める(攻める) ケースは実はさほど多くなく,桓公二年と文公十六年の宋の弑君の場合くらいしかない。しかも,桓公二年 の際には,公を殺害した華督父が諸侯に賄賂を贈ったのが功を奏して結局ことは穏便に済ませられている。 そもそも他国から非難されていない弑君の事例こそ多いと言わねばならない(12)。今回の荘王の出兵は,い かにも慣例通りの正義の行いかといえば,実はそうとは言い切れないのである。 『春秋左氏伝』宣公十一年にある,荘王による夏徴舒討伐の記事は, 『春秋』の経文では「楚人殺陳夏徴舒」 と言い,伝においても解経の文では「楚子為陳夏氏乱故,伐陳」と言い,出兵の主体は楚人ないし楚子(要 は荘王)になっている。しかし,伝の文における申叔時の発言中には「諸侯を召す」のように諸侯と共に出 兵したと言い, 『史記』陳杞世家も「諸侯を率いて陳を伐つ」と明記するように,諸侯と共に行った行動と の記述もある。諸侯といえば春秋の列国,斉や晋,鄭その他,頻出する万乗・千乗の国々を想起してしまう が,もしそうした諸侯の軍を率いたのであれば不審な点がある。経文では明らかに楚人ないし楚子(要は荘 王)とのみ言い,そうした列国・諸侯の存在を全く言わないことがその一である。楚以外の列国の行動につ いてはどの資料にも全く記載はない。次に,戦いの後に荘王は陳を亡ぼして楚の県の一つにしてしまうので あり,そのことにつき荘王の発言に「諸侯・県公,みな寡人を慶す」という状況があるのであるが(宣公十 一年) ,楚が陳を県にしたことを列国諸侯が喜ぶ理由は全くないのであって,むしろ反発すべきであると思 われることがその二である。もし,陳の楚県化を慶する諸侯がいるとすれば,それは楚の附庸国などの楚内 部,楚の内なる諸侯であるとしか考えられない(13)。それならば,諸侯がそこに加わりながらも経文が出兵 の主体を楚人ないし楚子と書くことに矛盾はない。後の資料であるが, 『淮南子』人間訓がこの物語を記して, 『左伝』の「諸侯・県公,みな寡人を慶す」の部分を「大夫,畢く賀す」と書いていること,そして申叔時 の建言を受けて陳を復国した後のこととして「諸侯之を聞き,みな楚に朝す」と述べてここで初めて諸侯の 語を用いること,を参考とすれば,荘王が率いた諸侯とは,列国の諸侯ではなく,あくまでも楚の附庸国な どの身内の国をのみ指しているとみるべきである(14)。つまり,この出兵は事実上楚による単独出兵と表わ すべきものである。 『左伝』によると,出兵に当たって荘王は陳人に対して「動くこと無かれ。将に少西氏を討たんとす」と. 171.
(9) 竹 内 康 浩. の言を出している。 『史記』陳杞世家がこの言を「驚くこと無かれ。吾れ徴舒を誅するのみ」とするのは意 味としては同じである。これは荘王が自分の軍事行動の目的を明瞭に示したものであり,あくまでも目的は 夏徴舒の罪を問い彼を誅殺することにある,というわけである。『左伝』に言う陳人はいわゆる国人層に当 たり,ここでも戦いに赴く資格を持つ人々を指す。楚の軍と戦うことになるはずの人々に対して出兵の目的 が極めて限定されたものであることを述べ,干渉の不要を言ったのである。 陳への出兵は大義名分上は成り立つものであるが,夏徴舒誅殺の後,荘王は陳を滅ぼして楚の県としてし まう。完全な侵略者の軍へと変わってしまうのである。『左伝』『史記』両書によっても荘王が初めからそう する予定で出兵したか否かはわからない書き方になっている。しかし出兵のきっかけが孔寧と儀行父の「唆 し」によるものであれば,初めから陳を滅ぼすつもりであったと見ることができる。この件を,後の資料な がら『漢書』五行志は次のように記している。 楚の厳王(荘王) ,陳の為に賊を討つを欲するに託し,陳国は門を闢きて之を待つに,因りて陳を滅ぼ すに至る。陳の臣子,尤も毒恨する(うらむ)こと甚だし。 荘王の言を真に受けて陳の側では門を開いて積極的に迎えたのであるが,国を滅ぼされる結果となり荘王 を甚だしく恨んだというのである。この記事によれば,荘王の行為は明らかに「だまし討ち」ということに なる。 県化について申叔時の諌めを受けて非を悟った荘王は陳を再び国として復興させた,という。この申叔時 なる人物については文献中に記載が少なく, 『左伝』では宣公十年と十五年,成公十五年と十六年に, 『国語』 では楚語上に,見えているくらいである。成公十五年の記載では,「老」であるとしてすでに隠居し申の地 にいる申叔時の予言を記しているが,子反なる人物についての評価や予言を行うなど,『左伝』中にしばし ば見られる孔子や君子の予言と同様な扱いをされ,一国の大夫の扱いとしては過大であって不自然である。 ここで問題としている夏徴舒の事件に関しても,彼一人だけが王に諫言をして行いを改めさせるという筋立 てであり, 「逸脱する王とそれを正す賢臣」というパターンの中での役割を担わされている。しかも,申叔 時の発言中には信や礼を重んずる主張が強く,戦国以降の儒家の思想が盛り込まれているとみられることは 不当ではあるまい(15)。即ち,申叔時は物語の中の賢臣ではあっても,実在性は乏しく,彼の発言はもとよ り彼の諫言を聞いて王が態度を改めたという事実それ自体も疑ってよい。また,申叔時が「牽牛以蹊人之田, 而奪之牛」なる諺風の文句を引いて荘王を諌める場面も意味を解しがたい。この文句は「牛を引いて人の田 を横切ったので(その罰として)牛を奪ってしまう」,要は犯した罪に対して与えられた罰が重すぎるとい う意味であり,申叔時は確かにその意味に用いて荘王を諌めている。しかし,この諺では最初の加害者と被 害者の立場が明白に措定されているのであって,楚の出兵はこの前提に当てはまらない。「牛を連れて他人 の田に踏み込んだ」という行為に擬えることが可能なような行為は陳はしていない。陳の内乱は,楚にとっ ては本来何の直接的関係もないことなのである。夏徴舒が霊公を殺害したことは,楚にとって「自分の田を 横切られたこと」には決して当てはまらないのである。理解に苦しむ比喩と諌めである(16)。 この申叔時の諌めについて,増渕龍夫氏は「氏族的伝統とその秩序を重んずる文化意識の立場から発言」 された「道徳的非難」と評し,その諌めを受け入れて陳国を復した荘王の態度は戦国儒家の覇者観にふさわ しく,歴史事実としては甚だ疑わしいと言う。その上で,一度県化した陳を国に復したことは,「氏族的伝 統のつよい中原の国を滅国兼併の県的支配の方式によって統治することの困難さを暗示しているのではない だろうか」との見通しを述べている(17)。即ち,荘王が陳を国に復したのは実際の支配の困難さに起因する というのである。しかし,荘王が夏徴舒を誅殺したのは冬十月のことであり,孔寧・儀行父の陳への返還も. 172.
(10) 夏徴舒と楚荘王. 年内のことで,要は陳を県として実質的に統治した期間はほとんどなく,支配の困難さと言えるほどの実態 はないのではないか。国人層の反抗のような具体的な行動があればそれを『春秋』が書き逃すこともないよ うに思われる。そもそも,当時の陳の氏族的支配の状況なるものが不明であるというべきであろう。因って, 何故荘王が陳を改めて国に復したのかについて資料的には確かな判断はできない。 あらためて陳に対する荘王の対応を述べた文を見るならば,荘王の行動の目的は道徳的立場から説明され ていることが明らかである。陳への出兵即ち夏徴舒という罪人の誅殺については,申叔時は「君之義」(『左 伝』 ) 「以義伐之」 ( 『史記』 )と言い,荘王の出兵は「義」と評価されるものなのである。ところが陳の楚県 化という行いは 「貪」というマイナスの評価をせざるを得ないものであり,陳を復国させることで荘王の「義」 は貫徹できるというのが申叔時の諌めの趣旨である。つまり,この道徳的な立場・根拠なくして行為の発動 はなく,こうした道徳的な要素が戦国時代以降の思想を踏まえているとするならば(18),実はこの陳の楚県 化~復国という出来事それ自体が春秋時代の事実として存在したとはもはや言えないとせねばならない(上 記のように増渕氏もそのことを認めている) 。特に陳を復国させたことについては道徳的理由以外に理由は なく,そして復国がないならばそもそもの県化もないはずだからである。では,荘王の出兵が「義」による ものでなければ他にいかなる理由によるものであったのかが問題となるが,この点については次節で改めて 推測を試みたい。 夏徴舒誅殺ののち,荘王は夏姫を自分の手元に置こうとする(『左伝』成公二年)。乱のもととなったこの 女性を引き取っては,荘王の「正義」に傷がつくことになる。申公巫臣の「君,諸侯を召して以って罪を討 つ。今,夏姫を納むるは,その色を貪るなり。色を貪るは淫なり。淫は大罰なり」という諌めを受けて,荘 王はそれを断念する。これもまた「逸脱する王とそれを正す賢臣」というパターンであって,説話風である ことは否めない。王が断念すると子反(公子側)が我が物としようとするが,これも申公巫臣の諌めを受け て断念する(その後については次節で述べる)。 夏徴舒及び夏姫をめぐる荘王の一連の行動を見るならば,実際には正義を実現しようという意思が荘王に はない,ということに注意すべきである。陳に出兵して一度は陳を楚の県に編入してしまう(とされる), 騒乱の原因を作った女性を自ら納めようとする,といった行動はむしろおよそ正義に反するというべきで, 荘王の野心を露骨に表すものに他ならない。 「鼎の軽重を問う」の話とも符合する,野心実現を目指す覇者 的行動として一貫するものと言えよう。 第3節 夏姫の立場 陳の霊公殺害事件においてきっかけとなっているのは夏姫の存在である。但し,彼女自身が積極的に悪事 を働いたという痕跡は資料としてはなく,彼女にまつわりつく男性たちが自ら災いを招いているというのが 率直な印象である。 夏姫は, 鄭の穆公の娘であり(『左伝』宣公九年の杜注),鄭の霊公の妹に当たる。彼女については『左伝』 成公二年において,申公巫臣の言として次のような記述がある。 是れ不祥の人なり。是れ子蛮を夭せしめ,御叔を殺し,霊侯を弑し,夏南を戮し,孔・儀を出だし,陳 国を喪ぼす。何ぞ不祥なること是の如きや?人の生きるは実に難く,其れ死を獲ざることあらんや。 夏姫のせいで多くの人が命を落とし,果ては陳国が亡ぶに至ったという。『左伝』には彼女について「三 夫を殺す」との記述もあり(昭公二十八年) ,極めて悪いイメージを伝えている。子蛮については未詳。兄 である鄭の霊公のこととも(19),夏姫の最初の夫だともいわれるが(20)(「三夫」を「子蛮・御叔・巫臣」に. 173.
(11) 竹 内 康 浩. 当てる説もある) ,いずれも確証はない。夏南は子である夏徴舒のこと。孔・儀は孔寧と儀行父である。御 叔が夫であることは,先にも引いた「昔,陳の公子夏,御叔のために鄭穆公より娶り,子南を生む。子南の 母,陳を乱して之を亡ぼし,子南を諸侯に戮さしむ。」という『国語』楚語上の記述に明らかである。もし 御叔以前に夫がいればこの書き方はあり得ないように思われ,子蛮を最初の夫とする見方はその意味でも成 り立たないと思われる。この記事により,夏徴舒の父が御叔であることも認めてよいと思われる。上引の成 公二年の文に「御叔を殺し」とあるが,彼女が夫殺害を行ったという意味ではなく,単に御叔が早死にした という意味とされる( 『左伝』 『国語』注) 。霊公と夏徴舒・孔寧・儀行父の行く末については,彼女がそう いう方向に仕向けたという言い方は可能であろうが,関係者を破滅させようという意図は彼女にはもとより ありえなかったと言わねばならない(利益がないからである)。その意味で,わが子を即位させるために陰 謀をめぐらせた晋の驪姫の例( 『左伝』僖公四年)などとは大いに違う。のちに『列女伝』において孼嬖と して殷の妲己や周の褒姒ら亡国の因をなした女性と並べられ悪女の仲間入りとなるのは,後世の道徳家によ る勝手な評価であるかもしれない(21)。 陳をめぐる一連の事件の後も,夏姫は『左伝』の中に現れる。まず,事件の後の彼女の処遇について見て おこう。成公二年には,荘王が夏徴舒を誅した際に,夏姫を「納」しようとしたことを記す。「納」は『左伝』 では,誰か人物を国などに入れる,あるいは結婚のどちらかの意味であり,ここでは王の立場より言えば結 婚は考え難く,要は自分の手元に置いておこうという意志であろう。しかし,申公巫臣によって「色を貪る と大罰を受ける」と諌められ,王は断念する。次に子反が彼女を得ようとするが,申公巫臣によって「是れ 不祥の人なり」と諌められ,こちらも止める。荘王は彼女を連尹襄老なる人物に与える。しかしこの連尹襄 老は宣公十二年(夏徴舒誅殺の翌年の六月)の晋との邲の戦いで戦死してしまい,遺骸は晋にあって戻って こない。この状況下に,夏姫は襄老の息子の黒要と淫することとなる。そして次には巫臣が彼女との結婚を 企てる。巫臣は彼女に一度出身である鄭に戻るように言い,また襄老の遺骸の返還も請け負い,鄭に工作す る。こうした巫臣の計画を夏姫は荘王に話し,荘王は巫臣に確認してそれを許す。最終的に巫臣は全財産を 持って鄭へ行き,一度斉へ逃げることを思うが,結局は晋に逃れてそこで任用されることとなった。 この一連の流れの中で夏姫の位置を見るならば,巫臣が彼女を鄭に一度返すまでは,夏姫は実は楚にいた ことがわかる。荘王が連尹襄老に夏姫を与えたこと,夏姫が連尹襄老の子と淫すること,荘王に巫臣の計画 を話すこと,これらはいずれも夏姫が楚にいたのでなければ起こりえないことである。つまり,荘王は彼女 を手元に置こうとして結局は断念したというように成公二年の記事では見えるけれども,既に実際に彼女は 楚に連れて来られていたのだということである。それは当然,荘王の思惑に出づるものとせねばならない。 以下,人物たちの行動の動機という点から,物語的に一つの解釈を試みたい。荘王は,夏徴舒をひとたび は陳侯として認め盟約も結んでいる。しかし,その後,陳への侵攻をもくろむこととなり,夏徴舒を誅殺し 陳を楚の内に組み入れる結果となる。その動機が夏姫を手に入れることとみれば,こうした食い違う態度も 理解が可能になるように思われる。文字の誤りもあって不確かな資料ではあるが,『漢書』谷永伝の応劭及 び顔師古の注を参照すると,荘王は夏姫を一度は手元に置いたものの「覇者」としてのさらに大きな野望実 現のために夏姫と手を切った,というような展開の物語の伝えが存在していたと推測される(22)。従来問題 とされてきた,陳を楚の県としたということについても,『淮南子』人間訓は「卒を遣わし陳を戍らしむ」 と表現していて,楚の県にしたとは言っていない。県化と考えると支配のあり方の問題,政治や社会に関す る制度の歴史的な展開の問題となるわけであるが,兵を出して占領下に置く(戍る)というレベルのことと 考えると,それは軍事的な作戦後の一時の措置にとどまるものであって,必要がなくなれば解除して問題は ない。荘王は(本心は)夏姫を得るために陳に出兵し,曲がりなりにもその君主を殺害するという非常事態 を招いたためにその事後処理のため軍をとどめて陳を占領下に置きつつ,夏姫獲得という動機をひとまずは. 174.
(12) 夏徴舒と楚荘王. 満足させたので,次なる野望のために夏姫を手放し,用済みの陳も元通りに復国させた,という流れで見れ ば自然なものとして理解できるのではないか。さらに,『左伝』に「郷ごとに一人を取りて以って帰し,之 を夏州と謂う。 」とある夏州の設置についても,この段階においては荘王の手元にとどまっている夏姫のた めの采邑のようなものとみれば,その意味を理解しやすいのではあるまいか。陳という国の存亡に関わって 作られた州であるのに陳州ではなく夏州であるのは,夏徴舒を誅した戦勝記念(杜預の説。前述の如く,記 念するほどの大した戦いではない)ではなく,州を作る目的こそが「夏」と深く関わっているからと考える のが自然であると思われる。 以上が,最初に述べたような歴史的関心と物語的関心とを合せた,本事件に関する解釈の試みである。事 件を「愛憎劇」とみることではいかにも小説流の読み方の次元にとどまることとなったが,それ故に誤りで あるとも言えまい。仮説として示しておきたい。. 第3章 夏徴舒と荘王 これまでの検討を踏まえて,あらためて事件の経緯についての確認と夏徴舒及び荘王に対する評価を行い たい。 事件は,陳の国において,大夫の夏徴舒が君の霊公を殺害したので楚の荘王が出兵して夏徴舒を誅殺し, 荘王は陳をひとたび滅ぼしてしまうのだが臣下の諌めをいれて再び陳を国として復する,というところを骨 子とする。君主弑殺を行った罪人である夏徴舒を義を重んずる荘王が懲らしめ,陳の楚県化については行き 過ぎを認めて復国させた,という勧善懲悪のストーリーが描かれ,『左伝』や『史記』は荘王の賢者なるこ とを称賛する文辞を連ねている。しかし,上の検討によれば,そうした見方・解釈が適切ではないことは明 らかになったと思われる。 夏徴舒については,確かに弑君という重大な犯罪に手を染めたのは事実である。しかし,その原因を作っ たのは紛れもなく殺された霊公であり,本人の不品行はもとより,夏徴舒とその母(夏姫)に対する甚だし い侮辱行為を行ったことが事件の原因となっていることは明らかである。『春秋』経文に「陳夏徴舒弑其君 平国」と書かれていることは, 『左伝』宣公四年に「凡そ君を弑するに,君と称するは,君無道なればなり」 との解釈があることよりすれば,平国(霊公)にこそ問題があったことを『春秋』の立場も認めるものであ ることを示す。そして夏徴舒の行いが『史記』十二諸侯年表に言う通りの「母が侮辱されたため」という理 由であれば,彼は親の仇を討ったとも言いうるのであって,むしろ「孝」として良い方向に解釈することす ら可能である。なお, 『漢書』古今人表を見ると,霊公・孔寧・儀行父・夏姫の四人は下の下すなわち愚人 と評されているのだが,夏徴舒の名がそこに見えていないということに気が付く。恥ずべき不品行の故に四 名が愚人とされるのは当然であるが,君主殺害という極悪な行為を行った夏徴舒が表に載せられていないこ とはいかにも不審ではある。しかし注意すべきは,古今人表は,弑君という悪事を行った者に対して原則的 には厳しい評価を下しながらも,君主殺害に至った事情を勘案しつつ評価を行っていることである。決して 君主殺害の下手人全員が愚人とされてはいないのである。殺害された君主自身に大きな問題があった場合に は,君主は愚人とされながら下手人は上のランクに評されていることもあるのである(23)。したがって,夏 徴舒についても,彼の行為が母の受けた屈辱を晴らすという「孝」の行いと認められるのであればそこに情 状酌量の余地を認めつつ,一方で君主殺害に関しては貶めねばならない。しかし,この一件以外に夏徴舒に は何の事績も伝わっておらず,賢愚の間に位置づけるその判断が困難であれば,夏徴舒に対する評価を放棄 する(表から外す)という選択肢もありえたのではないか。このような想像も,できないことはない。弑君 の大罪を犯しながらも古今人表に夏徴舒の名が見えないことは,そのような事情でも推すほかはあるまい。. 175.
(13) 竹 内 康 浩. 要は一方的に彼を断罪できるほどには,彼は「悪」一辺倒ではないのである。 太子の亡命もあり,夏徴舒は陳侯として自立する。夏徴舒は楚及び鄭との会盟に参加しており,荘王も彼 をひとたびは君主として認めているのである。ましてこの会盟は陳の地で行われているのであるから陳侯た る夏徴舒が主導していたとも思われ,そうであれば当初は夏徴舒は弑君の罪を問われず正式な陳の君主とし て認められたと見なければならない。しかし,霊公弑殺は夏徴舒の私的な理由(母の仇討)によるものであっ たため, 国人の支持を得られなかったのであろう。態度を翻した荘王によって夏徴舒は容易に討ち果たされ, 車裂きにされてしまう。しかし,逆にあまりに個人的理由であった故か,夏氏を挙げての誅滅とはならず, 前述のように夏氏はその後も陳の大夫として続いていたのである。総じて,夏徴舒の立場は,弑君という行 為によってひたすら罪人とだけみなすべきものではなく,その動機には同情に値する部分もあった。また, 弑君より一年五か月ほども夏徴舒討伐が行われることもなく,陳侯として会盟に参加していることからすれ ば, 実は他国からも認められた存在であったとすら言いうる。『春秋』には弑君の事例が多数見えているが, それが必ず非難され責任を問われているかといえば,実はそうではない。特に他国から干渉がない場合は黙 認や追認を受けたということであろうし,責任を追及しながらも賄賂によって結局認めた例すらある。もと より弑君は悪ではあろうけれども,現実的状況に応じて受容されることはむしろありえた。荘王の出兵は, 春秋時代において当然の慣行というわけでもなく,もとより悪を懲らしめる正義の軍隊として称揚すべきも のでもない。 荘王については, 『左伝』や『史記』の見方とは異なり,その野心家としての姿こそが明らかとなった。 荘王は,即位以来何度か陳を攻めているのであり,夏徴舒を誅することを名目に出兵しながらも実際には陳 を滅ぼして楚の支配下に置くなど,もともと陳を狙っていたと言って過言ではあるまい。また,夏姫を自分 の手元に置こうと企てた(ないし置いた)ことは,道徳的な節度が荘王にはもとはなかったことを雄弁に物 語るものである。総じて荘王の言動には野心家的な傾向のみが感じられ,賢者とか義を重んずるとかいった 風はむしろ認められない。 『左伝』などが荘王を持ち上げようとするのはかえって理に背き,いかにも不適 切と言わねばならない。結果的には,夏徴舒は荘王の野望の犠牲者であったという言い方も成り立ちえよう。 そして『左伝』宣公十一年の記す陳の楚県化はいかにも後世的要素の強い説話の中で語られており,如上 の考察を経てみると,県についての歴史的展開について考察する際には,今後はこの資料は除外した方がよ いと考えられる。仮に『左伝』の言う如くひとたび県とされたのであったとしても,その策は短期にて終了 しており,そもそもほとんど実質を伴ったものではなかったはずである。 このようにみてくると,この事件は,愚かな君主の殺害,他国への侵略,という春秋時代に頻繁に起こっ ている出来事の一つということになろう。発端である君主の無道を「乱倫」という見地でいえば春秋時代に 数多あるもので,特別なものではない。弑君もまた数多あり,何か理由をつけての他国への侵略に至っては それこそ無数である。以上のように,まずは事件の経緯と夏徴舒と荘王に対する評価をめぐっては, 『左伝』 の評価に疑問を呈し修正を加える結果となった。. おわりに 最後に一言せねばならない。 上の如き検討を経て,重要な問題に気付くこととなった。即ち,『左伝』を素直に読むならば事件の経緯 や人物の評価についてひとまず了解された気にはなるのであるが,やはりそれは『左伝』流の理解を受容し たということであり,甚だしくは『左伝』の有する偏向によって先入観が刷り込まれてしまったという危険 性である。そしてそれは『左伝』に付された注釈についても同様である。『左伝』に見える個々の事実を,. 176.
(14) 夏徴舒と楚荘王. 加えられた評価の部分を洗いなおし,まさに出来事の流れにおいて確定しなおす作業の重要性が痛感される。 『左伝』をはじめとする伝の解も,そして経と伝に対する後世の注釈も, 「礼」に関わる人々の行動について, かなう行為や逸脱する行為を細かに評してゆき,それはいかにも三代にまで遡って聖人によって「礼」が定 められかつそれがきちんと伝わってきて世のスタンダードになっていたとの歴史的前提に基づいているよう に見える。しかし,そうした尚古主義的歴史像はもはや成り立つものではない。実際には,「礼」であれ道 徳であれ, 要は人々の行動原理と様式は,むしろ歴史的に形成され変化もするというのが適切な認識である。 したがって,逆に,春秋時代人の行動それ自身から当時における「礼」や道徳を探ってゆくのが正当である と言わねばならない。弑君は多いけれどもそれはあるいは国の存続を図るためには容認せられるものであっ たのかもしれず,また男女間の「不品行」も家族や家系存続をめぐる観念の違い(形成過程)を示すもので あるかもしれない。後世儒家の言う「礼」観念を基準としない,春秋時代の実相の探索が,今後の課題であ り作業である。. 注 1:主に日本の学界におけるこの方面の研究の紹介と問題点については,籾山明「春秋・戦国の交」(『古代文化』46-11, 1994年),吉田章人「日本における近年の春秋史研究の現状と課題」 ( 『歴史学研究』830,2007年)にまとめられている。主 な先行研究はそれらに掲げられているので,紙幅の都合もありここには特に列挙せず,それらに譲ることとする。なお,そ の後,土口史記氏は『左伝』の「県」について検討し,動詞の「県」は対象の邑をそのまま「某県」なる行政単位へ編成す ることを意味したかどうか疑わしいとし,楚においては「楚の県鄙(=属邑)とした」という意味にとどまるものと考える べきであろう,と論じている(土口「春秋時代の領域支配」 『東洋史研究』第65巻第4号,2007年) 。またさらに,秦漢代の 郡県制のイメージを春秋・戦国期にも当てはめるような見解の問題点を指摘する(土口「 『県』の系譜」 『日本秦漢史学会会 報』10,2010年)。 2:また事件の一部については『淮南子』人間訓にも記述がある。なお, 『詩経』陳風の株林と澤陂の二編も関係する内容を 持つと解釈されているが(詩序),事件の具体的な内容を扱うものではなく,そもそもそういう伝統的解釈は牽強付会にす ぎないと判断されるので,ここではそれらの詩については取り扱わない。むしろ,本稿の結論よりすれば,取り扱ってはな らない類のものである。 3:『春秋公羊伝』は荘王による夏徴舒誅殺に関しては詳しい解経の文を記すも,事件そのものについては説明はない。 『春秋 穀梁伝』もほぼ同様である。したがって,宣公九年から十一年にまたがる一連の経過を確かめるには『春秋左氏伝』を用い るほかはない。 4:『儀礼』士冠礼,「賓対曰,某不敏,恐不能共事,以病吾子」 ,注に「病猶辱也。 」という。また, 『礼記』儒行, 「今衆人之 命儒也妄常,以儒相詬病。」,注に「詬病猶恥辱也。 」という。 5:魯において荘公が死に子般が後を継ぐも共仲(慶父)によって殺され,閔公が即位する。その閔公元年の経文に即位の記 事はなく,伝文は「元年春,即位を書かざるは乱の故なり」という。その閔公が死に,出奔した僖公が次に即位するが,僖 公元年の経文に即位記事はなく,伝文に「即位を称せざるは公出るが故なり」という。国内に乱れがあり,それを書くのを 避けるのは礼に適い,かつ即位に際しての礼にかけるところがあったからという理由である。 公位の継承に当たってイレギュ ラーな事情があると即位を書かないという『春秋』的な義例が存在するのであり, 即位記事がないことは「即位していない」 ことを意味するとは限らないのである。 6:『左伝』に現れる「〈国号〉人」に関する吉本道雅氏の整理によれば,身分的には国君から士までを含むもので,外交場面 では世族を指すことが多く,戦争に関しては兵員とされる士以上を指すことが多い,という(吉本「春秋国人考」 ,同氏『中 国先秦史の研究』京都大学学術出版会,2005年,所収) 。 7:後世の例ではあるが,不品行な関係から生まれた,誰が親かわからない子に対して「王八蛋」なる罵詈の語があることは 仁井田陞氏が指摘する(仁井田『中国法制史研究 法と道徳』第三章 旧中国人の言語表現に見る倫理的性格。東京大学出 版会,1964年)。霊公らの会話が,夏徴舒と母に対する手ひどい侮辱となることは,容易に理解される。 8:竹内康浩『中国の復讐者たち』(大修館書店,2009年) 。母が妾によって侮辱されたので妾を刺殺した,明代の少年の事例 を紹介しておいた(128~130ページ)が,それも「復讐」行為と認知されていたのである。 9:鄭がこの「夏,楚子・陳侯・鄭伯盟于辰陵。」の盟に背いたことが, 宣公十二年に楚による鄭の包囲と鄭の降服へと発展し,. 177.
(15) 竹 内 康 浩. さらにいわゆる邲の役へとつながっていくこととなる。その意味では大変に重要な役割を果たした盟約であり,この記事自 身が誤りとは考えられない。 10:平㔟隆郎氏が夏徴舒を陳侯として数えている(『新編史記東周年表』東京大学出版会,1995年, の「附図 各国世系 陳」 634ページ)のは正しいと思われる。なお,平㔟氏は『 『春秋』と『左伝』 』 (中央公論新社,2003年)にて,夏徴舒による弑 君と荘王による誅滅に関する『公羊伝』の記事の意味するところを解説している(第一章第三節) 。伝の書き方から事件の 背後の状況を読み取ることができるとする例示である。書籍編纂のコンセプトを明らかにせんとする氏の叙述と,私が小論 で試みようとしていることとの間には方向性の違いがあるが,当該資料に関する一見解としてここに言及しておく。 11:衛は盟約違反の責任を晋に追及され,大夫の孔達を殺して晋に申し開きをするが,衛では孔達に功があったことを思い, その子を公女と結婚させて父の大夫の地位を継がせたという( 『左伝』宣公十四年) 。これは一種の「詰め腹」の例ではある のだが,一方において外交上の問題に発展する大きな罪を背負おうとも子孫には累を及ぼさないということがありえた例で もある。 12:魯の隠公殺害については他国からの非難の記事はない( 『左伝』隠公十一年~桓公元年) 。また,鄭の昭公殺害についても 他国からの非難の記事はない(『左伝』桓公十七年) 。また,魯の桓公殺害に関しては,下手人の公子彭生を殺すことで非難 をかわし事を済ませている(『左伝』桓公十八年)。 13:宣公十一年の「諸侯」について,安倍道子氏は「必ずしも楚の属国の諸侯とは限らず,楚国内の諸侯と考え得る余地も残 されているように思われる」と述べている(安倍「荘王期における楚の対外発展」 『東海大学紀要文学部』第36輯,1981年)。 なお,本稿が取り上げた事件については,安倍氏は「春秋楚国の申県・陳県・蔡県をめぐって」 ( 『東海大学紀要文学部』第 41輯,1984年)で詳しく検討している。 14:ほぼ80年後に当たる昭公二十三年に楚と呉の戦いを記しているが,呉の公子光が「諸侯の楚に従うものは衆きも,みな小 国なり。楚を畏れて已むを獲ざるなり」と述べている。荘王の際の諸侯もそういう小国を指していると考えられる。 15:楚王は本来「不穀」と自称するのであるが,この説話では荘王は自らを「寡人」と称している。これはこの段の記述が戦 国期に入ってからのものであることを示していよう。この点については,野間文史『春秋左氏伝』 (研文出版,2010年)の 第二章,第五章を参照のこと。 16:申叔時の諫言を入れて荘王が非を悟り,陳の復国を考えたのに対し,申叔時が応えて「吾儕小人所謂『取諸其懐而与之』 也。」と言う。この「取諸其懐而与之(諸を其の懐より取りて之に与えるなり) 」という句も,申叔時の「吾儕小人所謂(我 らつまらぬ者の言うところの)」という言葉よりすれば当時の諺や常套句のように見えるが, 字面よりすれば単に 「懐からとっ て人にくれてやる」というほどの意味しかない。王に対する発言として何もこのような言い方をわざわざする必要はあるま い,と思われる。ところで,『左伝』襄公三十一年に, 「叔仲帯竊其拱璧,以与御人,納諸其懐而従取之,由是得罪。 」なる 記事があり,魯において叔仲帯が襄公の宝である壁を盗み自分の御者に与えたがそれをまた取り上げしまい, そのことによっ て叔仲氏は魯で嫌われるようになった,という。これは普通の伝の文ではあるけれども, 「納諸其懐而従取之」という部分 が注目される。というのも,これは先の申叔時の言う「取諸其懐而与之」の「取る」と「与える」とを逆転させた表現と見 えるからである。襄公三十一年の出来事は,「盗んだ物を他人に与え,のちにそれを奪い返した」という状況であり,その 後半の「いったん与えた相手の懐から奪い取った」という部分を「納諸其懐而従取之」という字面で表現する。この立場を 逆転させ, 「いったんもらったけれどもまた相手に戻す」ということを共通の字句で表現すると,申叔時の言う「取諸其懐 而与之」がそれに当てはまることになる。あるいは物の与奪に関する当時の言い回しに「取諸其懐而与之」という表現が存 在していたのかもしれない。しかも,申叔時のいう「取諸其懐而与之」とは, 「もともと自分の物ではなかったものではあ るけれども,いったん我が物としてそれを他人に与えることで,あたかも良いことをしているかのように思われること」 , そういうニュアンスまで含んだ表現なのかとも推測される。参考までに述べておく。 17:増渕龍夫「左伝の世界」(『世界の歴史 3 東アジア文明の形成』筑摩書房,1968年) 。なお,県の設置の問題について は同氏『中国古代の社会と国家』 (弘文堂,1960年。新版, 岩波書店,1996年)第3篇古代専制主義の成立とその経済的基盤, 第2章先秦時代の封建と郡県,により詳しい考察があり,詳論はそちらを参照すべきであるが,増渕氏による本稿が問題と している資料の解釈と判断は「左伝の世界」が要領よく明快にまとめているため,ここではこちらを掲げておく。 18:いわゆる上海博楚簡に『鄭子家喪』の一篇がある。鄭の子家が死に,その葬礼をめぐって楚の荘王が子家がかつて主君霊 公を弑殺した罪を問い,鄭に出兵したことを記している。荘王は子家の弑君について 「天下の礼を覆す」 「鬼神の怒りをなす」 といった激しい言葉で非難しており,そこに見える荘王はいかにも正義の実現者たる姿であり,同じく弑君の夏徴舒を誅す る『左伝』の荘王像と重なる。上海博楚簡の年代はおおむね戦国中期から後期とみられているので, 『左伝』の話もその時 期と大差のない頃のものと考えられよう。上海博楚簡『鄭子家喪』については, 小寺敦氏の「上海博楚簡『鄭子家喪』訳注」 (『東京大学東洋文化研究所紀要』第157冊,2010年)を参照した。また,この『鄭子家喪』においては,歴史的事件の時系 列と因果関係を改編し,楚(荘王)が諸侯の中心的存在(覇者)としての役割を果たしていることをアピールしているとす. 178.
(16) 夏徴舒と楚荘王. る,西山尚志氏の論がある(西山「上海楚簡『鄭子家喪』に見える歴史改編」 『中国出土資料研究』15,2011年) 。 19:『左伝』杜預注は子蛮を鄭の霊公とするが,『左伝』昭公二十八年に夏姫につき「子貉の妹なり」とあって,霊公の名は子 貉である。 20:楊伯峻『春秋左伝注』の説。 21:孼嬖なる語は「寵愛する夫人」の意に解されているが,山崎純一氏が「禍をおこさせる妖女・毒婦」といった意味に解し ているのが適切であろう(山崎『列女伝 歴史を変えた女たち』五月書房,1991年) 。 22: 『漢書』谷永伝所載の建始三年の谷永の疏文の中に「楚の荘,丹姫を忍びて絶ち,以って伯の功を成らしむ」とある。楚 の荘王は丹姫との関係を断ち切ることで覇者となりえた,という。この文につき,応劭は「楚の荘王,丹姫を得て三月朝を 聴せず。保申諌め,忍びて絶ちて復は見ず。乃ち政事に勤め,遂に盟主となる」との注を付けている。顔師古は「丹姫は是 れ楚の文王の姫なり。荘王,申公巫臣の諌めを用い,夏姫を納めず。 『谷永集』は丹字を夏に作る,是なり。今,此の伝は 丹に作る,転写の誤りなり。応氏は就きて謬り釈す,本実に非ざるなり。 」という。谷永伝に「楚の荘,丹姫を忍びて絶ち」 という丹姫が夏姫の誤りであることは,『谷永集』によって確認もしている顔師古の言によって認めてよい。文王は荘王の 四代前に当たり(在位は紀元前689~677年),『左伝』にはその即位も死の記事もない。丹姫なる女性についても他書に一切 記事は見えない。保申は文王の時の人であるようだが( 『漢書』古今人表) 『左伝』や『史記』には名も事績も一切見えない。 , 但し,保申の「申」が,荘王を諌める申公巫臣の「申」と重なることに注目すれば,これは一つの話の異伝ではないかと想 像される。即ち,楚の某王が申某(某申)なる臣下の諌めをいれてある女性への執着を絶って覇者となった,という話であ る。『漢書』谷永伝の「楚の荘,丹姫を忍びて絶ち, 以って伯の功を成らしむ」という文は, 不審があるのは女性名だけであっ て,覇者としては(文王より)荘王がふさわしいこともあり,顔師古が『谷永集』によって確認もしているので,荘王と夏 姫の話であると認めてよいと判断される。となると,応劭が楚の荘王に関わる話として, 「丹(=夏)姫を得て三月朝を聴 せず。」という記事を入れたのも,彼なりの何らかの基づくところがあったのかもしれないという想像はあり得よう。 23:例えば,晋の霊公と趙穿では,霊公は下下(愚人)で趙穿は下中。斉の荘公と崔杼では,荘公が下下(愚人)で崔杼は下 上である。. (釧路校教授). 179.
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