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戦後農政の展開-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第65巻 第3号 1992年12月 111-137

戦後農政の展開

唯 之

一 戦 後 農 業 と 食 糧 増 産 昭和

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年代前半の日本農業 戦後の占領体制のもとで,農地改革,財閥解体, 労働立法など一連の戦後改革がすすむ一方,壊滅状態の日本経済を復興の軌道 に乗せるべく傾斜生産方式とよばれる政策がとられることとなった。傾斜生産 方式とは,石炭や鉄鋼などの基礎的産業部門に対して資金,資材,労働力を 最優先に投入して基礎的な生産財の生産回復をまずもってはかり,その回復の うえで波及的に逐次,電力,化学,繊維などの産業をたてなおしていこうとい う緊急時の産業政策であった。こうした政策を実施するにあたってまずなによ りも必要なことは資金の政策的裏付けであるが,このために設立されたのが復 興金融金庫であった(昭和 27年)。全額政府出資のこの復興金融金庫が復金債 を発行して調達した資金が,上の基礎的産業部門に融資されることになる。し かし復金債を引き受けたのはもっぱら日銀であり,それが日銀券の増発をもた らし,結果として激しいインフレが日本をおおうことになった。 激発するインフレのもとで危機的状況におちいった日本経済は,占領軍司令 官マツカーサーの経済顧問として来日したドッジ公使の手によって改革される こととなった。すなわち傾斜生産方式のもとでおこなわれた価格差補給金が撤 廃され,借金財政を清算すべく超均衡予算が編成され,また国際社会の一員と して日本経済を自立させるために

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ド ル =

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円の単一為替レートが設定され たのである。これがいわゆるドッジ・ラインとよばれるところの, 24年から 25 年にかけての経済改革であった。ドッジ・ラインの断行によってインフレは収 まったが,金融は逼塞して中小企業の倒産,失業者の激増,輸出の不振といっ

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268 香川大学経済論叢 -112-た深刻な不況にみまわれることとなった。 ドッジ・ラインのもとで,農業への課税は強化され,低米価政策によって農 民収奪は強行される一方,土地改良をはじめとする財政投資も大幅に削減され しかしこうした状況のもとにあっても,農地改革によって地主制の重圧か た。 まず農地の交換 ら開放されて耕地の主人公となった農民たちのエネルギーは, 分合に向かった。交換分合とは,各所に散らばって所有している農家の耕地片 これを零細分散錯圃制といい,日本農業の耕地形態上の基本的特徴の一つで あったーを農家間でお互いに交換し合うことによって 1カ所に集めることをい う。香川県では25,6の両年に実施された交換分合事業によって県全体で農作

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も短縮されたという。 業に要する移動の往復距離が

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万町(約

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キロ) しかし,交換 分合の効果は耕地から耕地への移動距離を短縮させただけの,その意味での省 力化であって,食糧増産に対する直接的効果はない。昭和20年代最大の農業問 題であった食糧増産は, 20年代後半以降本格的に取り組まれることとなる。 万町といえば北海道と鹿児島を往復する距離にあたる長さだが, 昭和25年 5月に勃発した朝鮮戦争は, 昭和20年代後半の農業生産の動向 ドッジ・ラインがもたらした深刻な不況を一挙に吹き飛ばした。戦争遂行に必 要な膨大な特需が日本企業を活気づけ,操業度は上昇して失業者は一掃され, 輸出は増加して外貨収支は好調に転じ,国の財政収支は均衡を回復して安定し, こうして戦後日本経済は再建の途を歩むことになったのである。 このような日 本経済の復興のなかで,農業に重かった課税は25年のシャウプ税制改革を経て 大幅に軽減され,また強権供出のもとで低くおさえられていた米価も,農民の 引上げ要求に応じて26年以降急テンポで上昇していくことになる。また,ドッ ジ・ラインで打ち切られていた土地改良事業も, 26年の「積雪寒冷単作地帯振

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興臨時措置法」を晴矢として次々と制定される特殊地域立法にささえられて急 速に展開することとなった。 以上のような農業保護政策の展開を背景に,昭和20年代後半には日本は絶望 コメの収穫高も戦前の生産水準に回復した。 しか その需給状況は総消費量を満たすにはまだ不足で,不足分は外米輸入に頼 的な食糧危機の状況を脱し, し,

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-113-戦 後 農 政 の 展 開 269 らなければならないという絶対的食糧不足の状態にあった。 26年は食糧輸入の ための外貨支出額は 4億ド/レにも達し,当時の日本経済にとってきわめて大き な負担となった。経済復興をすすめるためにはこの巨額な外貨支出を削減して これを工業用の原料や資源の輸入に固さなければならない。それには何よりも 圏内の自給体制の確立が先決であり,そのため27年度の国家予算に食糧増産対 策費が新設され,

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年度には国民食糧の自給と輸入食糧の削減をうたった食糧 増産計画がたてられた。こうして農民たちは官民あげての食糧増産運動の掛け 声のもとにコメづくりに遇進することとなる。香川県農業に限っていえば, 27 年度米作日本一競作大会で仲多度郡善通寺町の農家が総理大臣賞を獲得し, た

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年に仲多度郡竜川村の農家が西日本一のムギづくりに選ばれるなど,当時 の香川の農村は食糧増産の熱気に包まれていた。農業の生産力的発展をはばむ ま 香川県固有の用水慣行の是正がさかんに論議されたのもこの時期である。 図 l は香川県における 20~45 年のコメの総収穫量の推 農業生産力の進展 図 1 ー総収穫量の推移(昭和 20~45 年) 千トン 170 160 150 140 130 120 110 100 90 80 70 60 50 40 20 総収穫最

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-45 香川県(20-52年)Jより作成 40 35 30 EE林水産i'ir農林水厳然年統計 25

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270 これをみると,敗戦の年はコメの収穫量は実に6万ト ンを割るという惨状であったが,昭和25年には早くもほぼ戦前の水準の 12万 香川大学経済論議 -114ー 移を示したものである。 トン (80万石)にまで回復した。 20年代後半は, 台風の被害のでた29年に収穫は落ち込んでコメの生産は不安定であった ウンカの異常発生した26年 と, が,30年には大豊作の 16万トンを記録,以後30年代はほぼ14"-'15万トンとい このようなコメの総収穫量の大 うコンスタントな水準を維持することとなる。 一部は作付け面積の増加一戦後の開拓・開墾事業 幅な増加をもたらしたのは, により 20年代から 30年代にかけて2,000ヘクタールの水田が増加ーにもよる おもに単収(10アール当たり収量)の上昇であった。図2にみるとおり、 カま, 図2-10 a 当たり収量の推移(昭和 20~45 年) 。 恒 A V Q V A V Q υ A U A り A V A V A υ ハ V A り の υ A U L u n n h v q 合 υ ハ HvnJ

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υ の ノ ω ハ 叫 J v p h v q t υ ハ H V A A ヨ AAanyquqtuqunr 白 nL ワ U T i -A 1 ム 1A 叩 a 当たり収量 45 40 35 30 25 20 喬川県(20-52ifo)Jより作成 農林水産省「段林水産妥当4年統計 10アール当たりの収量は20年代後半は300キロを切ることもあったが, 30年 代にはいると 400キロの水準に達している。国全体でみても, 30年にそれまで 900万トンで推移してきた水準を一挙に 300万トン以上も上積みする 1230万 トンを記録し,以後10年聞は日本のコメ需給はおおむね均衡を保ちつつ推移し

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271 戦 後 農 政 の 展 開 ~115~ ていく。このような, 30年以降におけるコメの総収量の増加をささえた反収の 上昇は, 20年代後半に蓄積された稲作技術が開花したものであった。 20年代後 半にあたらしく導入された稲作技術とは,第1は新品種の導入,第2は新肥料 の登場と施肥技術の改善,第

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やパラチオン剤などの新しい農薬の普 及,第4は栽培管理技術,とくに保温折衷苗代の技術開発とその普及であった。 こうした一つ一つのあたらしい技術が連鎖反応的に次々と導入され,それらが 全体となって戦後段階の稲作技術体系をつくりあげることになるのである。し かし,香川県の場合,このような稲作技術の展開の基礎に戦後土地改良事業の めざましい進展があったことを忘れてはならない。例えば,昭和30年の時点で 満濃地かさ上げ工事をはじめとする 11の県営土地改良事業が進行中であった が,その増産効果は0..7万トン以上とみこまれていた。絶対的に用水が不足す る香川県にとってコメの収量をのばす前提はまず何よりもかん淑用水を確保す ることであったのである。 戦後のあたらしい稲作技術のうち香川県の農業との関連で言及しておかなけ ればならないのは,水稲の早期栽培である。そもそも水稲早期栽培は戦後間も なく香川県農事試験場で開発されたもので,もし早期栽培が定着すれば,それ は米麦のご毛作から三毛作への輪作様式の変革であり,農地の利用度を一層高 めるものと期待された。というのは,早期栽培によって稲の収穫時期を従来よ り

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カ月近く早く終わらすことができれば,ゆとりができたムギ蒔きまでの期 間を利用して疏菜や家畜飼料作物をつくることができるからである。また,早 期栽培のイネは二百十日以前に収穫可能であるから台風の被害も回避できる利 点もあった。この水稲早期栽培の技術はこれを農林省が西南暖地生産力増強対 策としてとりあげたのを機に全国の農村に急速に広まったが,しかし地元の香 川県では昭和33年に 3,000ヘクタールまで広まったものの,その後は水利慣行 の厚い壁にはばまれて香川の農村に広く定着することはなかった。このことの 詳細については,前稿の「戦後香川の土地改良事業と用水問題」でみたとおり である。 転換期の農業一昭和30年 代 初 頭 一 昭 和 20年代後半以降,国是ともいうべ

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-116 香川大学経済論叢 272 き食糧増産の旗印のもとに国の積極的な保護政策にささえられて順調に発展し てきた日本農業であったが,30年代前後よりあらたな局面を迎え I農業の曲が り角」と当時よばれたところのさまざまな問題に直面することとなった。この 曲がり角論にかかわって『農林白書』が日本農業の直面する諸問題として,農 業所得の低さ,食糧供給力の低さ,国際競争力の弱さ,兼業化の進行,農業就 業構造の劣弱という 5つの赤信号を指摘したのは, 32年のことである。「香川の 農林業J (香川県農林部, 33年)も I香川の農業は日本農業の縮図といわれる が,自然や市場などの条件に恵まれながら耕地面積が狭小で,農業人口が相対 的に過剰である上に,…川刷土地生産力は相対的に停滞しており, さらに生産販 売面での共同態勢が弱いことと相まって一日当たりの労働報酬が低く,農業就 業構造の劣弱化を招いているなど,日本農業の五つの赤信号がそのままという よりはむしろそれ以上に深刻な現象となって現れている。」とのべている。「農 業の曲がり角」が論じられた昭和30年代はじめは, 30年 6月に日本はジュネー ブで「関税及び貿易に関する一般協定J(GATT)加入の議定書に調印を済まし, 貿易自由体制への対応が迫られていた時期であった。この時期,国際的な農産 物価格は世界的な過剰を反映して大幅に低落し,

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年代におげる日本の農産物 の国際比価は完全に逆転ーたとえば31年当時の日本コムギの価格は米国コム ギのおよそ L5倍ーしてしまった。一方,圏内事情に目を転じれば,コメの国 内自給の確保のメドもたってこれまでのように効率を無視した,いわば増産一 本槍の戦後食糧政策の是非それ自体が問われるようになった。さらに30年前後 から重化学工業を中心とした日本経済の高度成長がすすむにつれて,農業就業 人口の減少,兼業の増大という趨勢のなかで都市の勤労者所帯と農家の生活上 の格差が次第に明らかになりつつあった。昭和

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年代後半における農業技術の 向上によって定着したかにみえた戦後自作農体制に限界と分解の兆しが顕在化 しつつあったのである。 こうして昭和30年ころからこれまでの物動計画的な食糧増産にかわってあ たらしい方向をめざした農政の模索がはじまる。その試みの一つは31年にはじ まる新農村建設計画であった。

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273 戦 後 農 政 の 展 開 117 新農村建設運動の発足 国際競争に伍しうる生産性の高い農業の確立と適地 適産をうたった新農村建設計画は,-新しい村づくり」とよばれたように,一定 のまとまった経済地域を農林漁業地域として設定し,この農林漁業地域を基盤 として単独では力弱い農山漁民の力を結集して農山漁村の共同化をすすめ, もって生産性の向上をはかろうという運動であった。全国で約5,000の,香川 県では56の農林漁業地域が設定された。農林漁業地域ごとに市町村長や農林漁 業団体,部落,青年団などの代表者からなる農山漁業振興協議会が組織され, この協議会において住民自らの手で「新しい村づくり」の計画が作成されるこ ととなった。食糧増産時代の天下り式農政と違い,農山漁民の自発的な創意工 夫を積極的に計画の中に盛りこんでいこうというあたらしい発想にもとづくも のであった。 31年にはじまる新農村建設事業は実施期間5カ年で,35年までにはすべての 農林漁業地域を一巡する計画であった。事業費は国から補助金が交付されるほ か,長期低利の融資もおこなわれた。

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農林漁業地域業当たりの事業費は平均 約1,100万円で,その内訳は国庫補助金約415万円,公庫融資約315万円(残 余は地元負担)である。香川県の場合,事業費の総額は累計で約6億 5,000万円 であった。 このような国家の積極的な財政的援助にささえられた新農村建設計画は香川 の農村でもおおいに歓迎され,農林漁業地域の指定を希望する町村が続出した。 それに,当時,新農村建設計画開始の前年に公表された「香}l1総合開発計画」 をどう具体化するかが県政上の重要課題となっていた矢先であったから,当局 にとっても新農村建設事業は総合開発計画を市町村レベノレで実施する絶好の機 会となった。そして新農村建設計画実施初年度の31年,三豊郡の大野原など7 つの地域において新しい村づくりのツチ音が響くこととなった。 新農村建設計画の実施状況香川県における新農村建設計画の実施状況はど のようなものであったか。新農村建設計画のなかでもっとも重点のおかれた事 業は土地整備事業であった。農道工事,ため池や水路の改修,コンクリート畦 畔の造成などがおこなわれ,工事には地元の人々があたった。ミカン園の樹園

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118 香川大学経済論議 274 地造成事業も人気のあった事業の一つで,かん概排水や撒水の事業,農機具の 共同利用をともなって実施された。このほか,農協が農家に種豚を預託して子 豚が繁殖すればこれを農協で販売しようという肉豚貸付施設(屋島農協など), 共同選果で規格を揃え包装・荷造りなども統一して果物の商品価値を高めよう という果樹共同出荷場(綾南地区など),栄養価の高いため池の泥土を客土用に 圃場に運ぶための簡易索道(大川町,府中土地改良区など),水稲早期栽培用の 種籾を電熱で発芽させる種籾催芽所(小豆島の大鐸農協など),花き栽培用の共 同温室(小豆島の池田町)等々,多種多様な事業が実施された。 先に指摘したように昭和 30年代のはじめは,日本経済が戦後の混乱期から食 糧の絶対的不足の時期を経て高い経済成長の軌跡を歩みはじめたことにとも なって日本農業を国内的・国際的にどう位置づけていくかが問われた,まさに 農業の曲がり角の時期であり,したがって農政にとってもあたらしい模索の時 期であった。新農村建設計画はそのような模索の最初の試みであったのである が,しかしそれはなお実験的な試みの域を出るものではなしあたらしい農政体系 として整序されたものとはいえなかった。その完成は農業基本法の制定までま たなければならず,その意味で新農村建設事業は農業構造改善事業の前史に位 置するものであったといえよう。 ニ 基 本 法 農 政 下 の 県 農 業 「農業基本法」の制定 第二次大戦後,廃櫨の中から再建,復興の道をたどっ た日本資本主義は,昭和30年ころから高度経済成長の大躍進期にはいった。農 業の発展も順調であったが,しかし工業の発展には比べるべくもなく,工業部 門と農業部門の聞に顕著な生産性格差,所得格差が形成されつつあった。 35年 当時,工業部門就業者の年間生産所得に対し,農業部門就業者のそれはその3 割にもみたない低い水準にあり,都市生活者の生活が明るく近代化するにつれ て農家の生活は依然として古い伝統的な暮らしぶりの中にあった。農業の立ち 遅れは明白であった。 昭和34年 4月,政府は,現下の農林漁業が直面している問題とその対策を明

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-275 戦 後 農 政 の 展 開 -119 らかにするため,総理の諮問機関として「農林漁業基本問題調査会」を設置し た。翌 35年 5月 I農業の基本問題と基本対策」と題する答申が同委員会から 出され,これを受けて『農業基本法』が 36年 12月に制定された。経済の高度 成長を政府の基本政策とする「新国民所得倍増計画」が決定されたのはときあ たかも 35年 12月のことである。基本法を貫くその基本理念は産業としての農 業の確立であり,まさに基本法の制定は高度経済成長という時代の潮流にマッ チしたものであった。 高度経済成長以降の農政は基本法の大枠のなかで展開することになるが,こ の基本法農政は,農家の所得水準の低さは農業経営における零細性と低生産性 にあるとの認識にたち,農工聞の所得均衡を目標に経営規模の大きな自立農家 を育成して農業所得を高めようというものであった。そして自立経営農家を育 成するために機械化と協業化を推進する一方,コメ偏重をやめ需要の伸びが予 想される畜産や果樹作などの成長作物を基幹作物に選んで生産すること,つま り農業生産の選択的拡大が求められた。なお,さきの「農業の基本問題と基本 対策」によれば,所得水準において町村地域の勤労者所帯と比較されるべき自 立経営農家とは I二人ないし三人の労働単位(青年男子一人に換算した労働力) をほぼ完全に就業せしめうる規模であり,……大体においてー町以上一町五反 未満ないしー町五反以上ニ町未満の層よりも大なる規模の経営に該当するであ ろう」と説明されている。 基本法農政がうたう農業の構造改普・対策とは以上のようなものである。そし てこれを推進するための国の補助事業がいわゆる農業構造改善事業(以下,構 改事業とよぶ)であった。基本法農政の花形として登場したこの構改事業は補 助事業と融資事業からなる。土地基盤の整備および経営近代化施設を内容とす る補動事業は国から事業費の半額が補助される。融資事業は個別経営の改善を 対象とし,その資金に対しては農業近代化資金制度(昭和 36年「農業近代化資 金助成法」制定)にもとづく低利の融資がおこなわれた。 香川県農業基本対策事業審議会の答申 香川県における構改事業実施の基本 方針を策定するため, 37年 2月に香川県農業基本対策審議会が設置された。知

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-120 香川大学経済論叢 276 事の諮問機関であるこの審議会は,香川県経済農業協同組合,香川県農業会, 農林省四国農場試験場,県議会議員,生産農家代表,学識経験者,香川県農村 婦人連絡協議会,香川県土地改良事業団連合会などから構成されるところの, 文字どおり官民あげての全県的な組織であった。最終答申として問委員会が作 成した「香川県における農業の主要問題とその対策の大網J

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月)によ ると,その内容はあらまし次のようであった。 答申は,まず第1に農産物の選択的拡大について,香川県が京阪神の大消費 地や,近年工業発展の著しい岡山県の水島・北九州に近いというこの立地条件 を生かし,香川県農業は果樹・疏菜・畜産を中心とする都市近郊型農業の育成 につとめるべきこと,第2は香川県は零細な農家が多いから一香川県の農家1 戸当たりの耕地面積は全国平均 88アーノレに対しわずかに 50アールー,経営規 模の拡大と協業化を強力に推進すべきこと,第3に土地基盤の整備なしには大 型機械の導入は困難であるから,零細で不整形な間場の整備に重点をおく必要 があることを指摘した。このほか,農産物の出荷販売組織の一元化や,総合農 協を中心とした農業団体組織の強化整備,試験研究機関の充実なども答申の強 調した点であった。 香川県の第一次農業構造改善事業 構改事業は36年度から計画地域を指定 し,

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年度から事業に着手して

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年度に完了した。これを第一次農業構造改善 事業(一次構)とよぶ。

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年かげて全閣を一巡した一次構に引き続き,

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年度 から同じく

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カ年の年次計画で第二次農業構造改善事業(二次構)が発足した。 一次構は全国3,026の地域において事業費約3,300億円を投じて実施された。 香川県では

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の地域もしくは地区で実施,事業費の総額はおよそ

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億円で あった。以下,香川県における

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年度事業実施の丸亀市川西地区と三豊郡山本 地域, 38年度事業実施の大川郡長尾地域の,以上 3つの地域もしくは地区の構 改事業を紹介しよう。なお構改事業の計画対象地には一般実施地域(市・町・ 村)とパイロット地区があり,一般農村地域に対する展示的役割を担わされた パイロット地区に選ばれたのは川西地区と長尾地区であった。長尾町は 38年に も一般実施地域として構改事業を実施している。

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277 戦 後 農 政 の 展 開 -121 [事例 l一川西地区] 讃岐平野のほぼ中央部に位置し,すぐ北に丸亀市をひかえた川西地区は,米 麦中心の営農から養鶏に重点をおく営農への発展を目指した。そのため農地の 集団化事業と区画整理事業, トラクター・コンパインなどの大型機械の共同利 用事業など一連の事業をおこなって水田経営を合理化するとともに,五棟の共 同鶏舎と育雛所のほか,集卵・選卵のための共同集荷所を設置する計画であっ た。また,養鶏数を 37年の1万8,000羽から5年後の42年には10万羽にふや し, 30戸の養鶏専業農家を創出する予定であった。投じられた事業費は補助事 業が土地基盤整備事業約2,546万円,経営近代化施設3,813万円,融資事業が 1,607万円で,総額7,965万円であった。 [事例

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山本岡地域] 丘陵地と農地が相半ばする農山村地域の山本町が選択した基幹作物はミカン と肉牛である。ミカンについては,財田川の右岸および左岸の約90ヘクタール の山林を開墾して6カ所に樹園地が造成された。ミカンの栽培は防除やかん滅 も含め農家が共同であたり,出荷と加工は地域の

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つの農協がおこなう。生産 量は37年の1,200トンから42年にはその約2倍の2,200トンにふやす計画で あった。牛については,あらたに肥育組合を組織し,経営規模拡大のための多 頭飼育化をめざして家畜管理所や共同畜舎が建設された。頭数は37年から42 年までの6年間で1,222頭から 3,300頭にふやす計画で,その飼育経営には水 田農家があたる。これは,水田裏作に飼料作物を栽培して農業と畜産を有機的 に結びつけようとするところにねらいがあった。投じられた事業費は土地基盤 整備事業約1,491万円,経営近代化施設964万円,融資事業749万円であった。 [事例3一長尾地域] 大川郡の西部に位置する水田平坦地帯の長尾地域の構改事業は将基住吉地区 と造団地区の2地区で実施された。市乳を基幹作物に選んだ将基住吉地区の計 画は,水田の区画整備事業をおこなって機械化・省力化をはかり,コメと琉菜 に飼料作物を加えた輪作体系を導入して自給飼料を確保しつつ,共同乳牛舎な どをあらたに建設して規模の大きな水田酪農経営の育成につとめようというも

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-122- 香川大学経済論議 278 のであった。プドウを基幹作物に選んだ造団地区の計画はすでに区画整理済み の水田に交換分合を実施し,また大型農業機械が運行できる農道を整備して稲 作労働の省力化をはかり,その余剰労働力をもってブドウ温室の団地を育成し て主産地の形成をすすめようとするものであった。両地区に投じられた事業費 はそれぞれ補助事業のうち土地基盤整備事業が約2,560万円と 3,858万円,経 営近代化施設が3,267万円と7,441万円,融資事業が600万円と 716万円で, 事業費の総額は両地区あわせて8,157万円であった。 第一次農業構造改善事業の成果一次構で投ぜられた補助事業費の総額は 2,757億円であり,うち土地基盤整備事業が1,592億円,近代化施設整備事業が 1,165億円であった。香川県の場合,補助事業費の総額は36億2,000万円で, その内訳は土地基盤整備事業が20億6,000万円,近代化施設整備事業が15億 6,000万円であった。このような巨額の財政投資により,土地基盤整備事業とし ては大型農業機械の走行が可能な大区画の圃場や農道が整備され,果樹園や草 地などの集団造成が全国の各地,香川県の各地でおこなわれた。また施設整備 事業としては各種の農業機械, ミカン園の共同防除施設,豚舎や鶏舎の近化的 共同利用施設などが導入され,農協の大規模集荷処理施設が設置された。こう した土地基盤整備事業や施設整備事業によって稲作の省力化がすすみ,あたら しい技術が導入され,畜産・果樹・野菜などの産地づくりが広くすすめられた。 このように一次構はハードの施設面では大きな成果をあげたが,しかし,構 改事業の最終目標である自立農家の育成そのことに関してはほとんど成果をあ げることができなかったといわなければならない。すなわち, 35年以降,自立 経営農家は生産増・価格上昇によって漸増し, 42年には全農家戸数の12,,9%を 占めるにいたったが,以後は漸減し 46年にはわすか44%という状況になっ た。香川県の場合, 47年の時点で自立農家数は5,250戸,総農家戸数に占める 割合は7%にすぎない。 基本法制定以来この10年間,なぜ,農政当局が予期したようには自立農家は 育たなかったか。その理由は要するに,農家数が減少すれば農地は専業農家の もとに集積し,したがって経営規模が拡大しておのずから自立農家が育ってく

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i 279 戦 後 農 政 の 展 開 -123 るはずであるが,そうはならずに兼業化が広範に進行したからである。こうなっ た大きな原因の一つは高度経済成長のもとでの急激な地価の上昇であった。地 価が高ければ,農地は流動化しない。基本法農政はその出発点において地価の 上昇という局面への配慮を怠っていたといわなげればならない。 香川県の第二次農業構造改善事業 第一次農業構造改善事業のあとをうけ, その反省と経験のもとに第二次農業構造改善事業が

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年からスタートした。高 度経済成長を背景にその波にのって開始された一次構であったが,二次構は, 高度経済成長そのものがかえって農業の近代化を阻害するようになるという状 況一兼業化の進行,新規就業農業者の激減,基幹的農業従事者にまでおよぶ離 農,地価の高騰や無秩序な農地開発,さらには農民の生産意欲を大きく減退さ せたコメの生産調整等々ーのもとでのスタートとなった。そのうえ二次構に とって都合の悪かったことは, 48年10月にアラブ産油諸国のOPEC(石油輸出 国機構)による原油輸出の禁止 いわゆる石油ショックが勃発したことであり, そのため二次構も一時そのテンポを遅らさざ、るをえなくなった。石油ショック は石油化学工業や石油精製工業を中心とする工業生産だけでなく,農業にも 一施設園芸をはじめ農薬・科学肥料にいたるまでその生産は石油消費のうえに 成り立つ一深刻な衝撃をあたえたからである。香川県の二次構も石油ショック のやわらいだ50年代前半に集中的に実施された。 さて,

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年の「第二次農業構造改善事業促進対策要綱」によると,二次構は, 「経営の規模拡大および生産の組織化を通ず、る農業経営構造の改善を推進」す る構想のもとに I自立経営等規模の大きし生産性の高い農業経営を育成し, これらの経営が地域農業の中核的な地位を占める農業構造の実現」を目標とし てすすめられることになった。こうした二次構の事業上の特徴は,農業生産の 組織化をめざす大型農業近代化施設の補助金の比重をますとともに,その組織 の中核となる個力自立経営育成のために手厚い資金手当てをもって農地の流動 化をはかるという点にあった。農地流動化に関していえば,二次構であらたに 設けられた農業経営整備事業がこれにあたる。しかし,この農地流動化事業で ある農業経営整備事業は, 40年代の後半以降,とくに田中角栄内閣の「列島改

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-124 香川大学経済論叢 280 造計画」で燃え上がった土地投機のブームのなかで異常に急騰する高地価が壁 になって進展せず,香川県でも農業経営整備事業をとりあげた地区はほとんど なかった。 ご次構は全国 1,986地区において総事業費約 6,544億円を投じて実施され た。香川県は 25地区で実施,事業費の総額はおよそ 90億 7,000万円であった。 その内訳をみると,土地基盤整備事業が 28億 2,000万円,近代化施設整備事業 はそのほぼ 2倍の 55億 1,000万円となっている。 l地区当たりの平均事業費は 3億6,000万円で,当初計画より 1億円ちかく上回っているが,これは先に指 摘した石油ショックによる建設材料費などの高騰が原因であった。 二次構実施の状況 それでは香川県ではどのような内容の事業が実施された か。以下, 45年実施の高瀬町二ノ宮地区, 49年実施の塩江町安原地区, 51年実 施の牟礼町原地区および高瀬町上麻地区,以上 4つの地区の構改事業を紹介し ょう。 付) 山間丘陵地帯の高瀬町ニノ宮地区ではその立地条件を生かした近代的な集 団茶園の造成が事業の中心におかれた。農地造成改良事業と農地の交換分合 事業を実施して多数のスプリンクラーを設置した大規模な茶園の造成をおこ なう一方,関係農家の共同防除体制を確立すべく二ノ宮地区茶園共同防除組 合がつくられた。この茶園造成にあわせて,集荷加工施設として緑茶加工施 設と茶業センターも建設された。集荷加工にあたるのは,高瀬茶業組合であ る。 (ロ) 安原地区のカーネーション団地は5ヘクターJレの広大な敷地に6棟のガラ ス温室を建設して年間 300万本ものカーネーションを栽培する。事業主体は 香花園とよばれる農事組合法人で,関係農家は

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戸,ただしいずれも高松市 中央農協の組合員であり,安原地区からは遠く離れた地区外の農家である。 あえて地区外の安原地区が団地の敷地に選定されたのは当地区が過疎化でま とまった敷地が取得しやすしまた夏場の花き栽培管理が高冷地の当地区で は容易との判断からであった。香花園のカーネーションの作型はさし芽を 6 月におこなう冬切り型で 5月の「母の日」に出荷の最盛期を迎える。出荷

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281 戦 後 農 政 の 展 開 125 先はほとんどが京阪神地方である。 付 高松市に近い原地区がめざした都市近郊型の農業は,キヱウリの周年栽培 とその主産地化であった。キュウリ栽培に力を注ぐため,牟礼土地改良区が 事業主体となって39ヘクター/レの水田の区画整備をおこなうとともに,トラ クター・コンパイン・田植機などの農業機械を購入して協業体制をつくり, コメ作りの省力化をはかった。園芸施設としては20棟のビニーノレハウスのほ か,育苗ハウスと集出荷場がそれぞれ

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棟建設されている。そしてコメづく りには原農業生産組合が,またキュウリ栽培には原園芸組合がそれぞれあた ることになった。 ド) 高瀬町の上麻地区では14棟の豚舎建設を中心に関連の設施設を整備して 生産性の高い繁殖・肥育一貫経営の養豚団地が造成された。経営の方式は7 農家の協業で,緑カ丘産業(農事組合法人)を設立し,種豚530頭,肉用の 豚3,000頭を飼育する。関係の 7農家は養豚のほか,米とミカン,タケノコ をつくる複合経営農家である。 二次構の完了 香川県の二次構は昭和

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年にすべて完了した。その実施状況 をみると,

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の実施地区のうちその半分の

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地区が三豊地区に集中しており, そのうえ計画地区のうち南川・阿讃山麓・安原の3地区は同じ塩江町に,また 尾賀瀬・北地下・川上の3地区も同じ財田町に含まれるなど,一次構に比べて 実施地区のかたよった改善事業となった。高度経済成長の波に洗われて農業集 落の空洞化がすすんだ都市近郊の農村地帯などのように事業に対してあまり熱 心でない地域と,純農村などの熱心な地域との違いが明らかになり,それがこ のように実施地域のかたよりとなってあらわれたのであろう。なお,二次構が 重点においた大型近代施設の導入は,多くの農民による組織的な利用が前提と なっており,したがって大型近代施設の導入を契機にしてさまざまな形態の農 業生産組織がつくられることとなった。既出の緑カ丘産業や香花園,二ノ宮地 区茶園共同防除組合などもそうした農業生産組織のひとつであるが,農業生産 組織については,兼業化がすすむなかで日本の各地の農村に急速して展開して いった請負耕作という名の経営受委託組織をふくめ,次稿に詳しくのべる。

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-126 香川大学経済論叢 282 基本法農政の成果と問題点 周知のとおり農業基本法は,生産政策,所得政 策,構造政策の3本の柱から成り立っている。それぞれの政策の内容とすると ころは,所得政策が農工聞の所得均衡,生産政策が選択的拡大,構造政策が自 立農家の育成である。この3つの柱のなかでもっとも重要なiものは構造政策で ある。生産性の高い大規模な農家が育つことによって選択的拡大がすすみ,ま た生産性の向上によって農家の高い所得が実現するであろうというのが,基本 法農政の描いた姿であった。たしかに選択的拡大はすすみ,農工間均衡も 40年 代のはじめにはやくも実現したが,肝心の自立専業農家の育成はどうであった カユ。 一次構では期待通りに自立農家が育たなかった反省から,二次構では育成す べき自立農家数が具体的数値として示された。香川県の場合,計画目標1,318戸 に対してその78%の 1,026戸の自立農家が育った。しかし 1,026戸といえば, 昭和55年の農家戸数 7万 1,053戸のわずか 1れ4%でしかない。そもそも基本法 農政という規模の大きな自立農家が順調に育つためには,少なくとも計算上は

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万戸の農家は最終的には

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万戸にまでへらなければならない。

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万戸は極端 だとしても,基本法制定後20年を経過した昭和 55年の農家数が 7万 1,053戸 だというのであるから,これではとうてい農業構造の改善がすすんだといえる 状況ではない。しかもこの間,農地の転用・潰廃がすすんで耕地面積そのもの も減少しているのだから,農家が減ったといってもそのまま農家の規模の拡大 にはつながっていないのである。 自立経営農家の育成にかかわってさらに言及すれば,一次構の実施にもかか わらず自立農家が一握りにすぎなくなった厳しい現実を前に,農林省は“日本 農業の担い手"を中核農家にまで広めざるをえなくなった。日本農政の新しい 戦略目標となったこの中核農家という発想が登場したのは 48年の農業白書で あるが,中核農家とは, 16歳以上 60歳未満の男子で,自家農業に従事する日数 が1年のうち 150日以上にのぼる男子基幹農業専従者のいる農家のことであ る。 48年白書によると,この中核農家の数は 47年現在,総農家戸数の 32%で, わが国農業の生産の65%を担っているという。香川県では中核農家は 48年現

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283 戦 後 農 政 の 展 開 -127-在,約14,000戸を数えた。だ、が,その後,中核農家はへりつづけ, 55年には9, 200戸にまで減少した。全国的にもおなじような歩調の減少であった。 基本法農政下のこの20年間,自立農家が育たなかった事実の裏でおこったこ とは兼業化の進行であった。この兼業化の進行を軸として日本農業が基本法農 政の描いた構図とは違った形で大きく変貌したその姿を明らかにすることは, 次稿の課題である。 三 コメの生産調整 食管法とコメ 昭和17年の『食糧管理法』制定以来, 44年に自主流通米制度が 導入されるまで,日本のコメはすべて政府の直接管理下にあった。農家は生産 したコメは固に売り渡さなければならず,これにともなう国の会計は,一般会 計とは別に食糧特別会計で扱われる。農家から買い付ける生産者米価も,消費 者に売り渡される消費者米価も,政府がこれを決定する。生産者にはその所得 を補償する価格を,消費者にはその家計を安定させる価格を,というのが食管 法の建前であるから,政府買入価格が売渡価格を上回るいわゆる逆ざや現象は 避けられないところであった。もし米価の逆ざやで食管会計に赤字が出れば, 一般会計からの財政資金でこれを埋め合わせる。国のもっとも重要な食糧であ るコメはこのようにして国が管理してきたのである。 食管赤字の激増 昭和42年,日本の米作は史上空前の1,445万トンを記録 し,以後3年間, 1,400万トン台の水準を維持した。戦前から戦後の食糧難時代 を経てコメの増産に遇進してきた日本農業がはじめて経験するコメ過剰時代の 開幕である。昭和初期のコメの反収 (10アール当たり収量)300キログラムに 対して45年ごろのそれが430キログラムであるから,驚くべき生産力の上昇で あるといわなければならない。 コメの増産をもたらしたものは技術改良や増産技術だけでない。 35年に生産 者米価決定の原理として政府が採用した「生産費・所得補償方式」は基本法が 金看板とする農工所得均衡を達成するための政策的手段となり,米価は30年代 後半から 40年代の前半にかけて毎年10%近くもの割合で上昇し続けた。この

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~128~ 香川大学経済論叢 284 結果, 35年に 4,162円(10キロ当たり)であった政府買入の生産者米価は43年 にはそのほぼ倍の8,256円にまで上昇したのであるが,このような米価の急上 昇が農家の増産意欲を強く刺激したのである。 昭和40年以降の顕著なコメの増収に対し,消費はそれに応じて伸びないばか りか,むしろ年々確実に低下し続けてきた。 37年に120キログラム近くあった 国民1人当たり年間消費量は42年には100キログラムの水準を割った。人口は 年々増えているけれど,これだけ急速に消費量が減ったのでは米の総消費量も 減少せざるを得ない。その結果が政府管理の持ち越し在庫米の累積であり,大 豊作の42年以降,毎年, 200~300 トンの過剰米が累積し, 45年には720万ト ンという膨大な量の古米が持ち越されることとなった。大量に政府持越し米が 累積する一方で,米価の逆ざやは37年以降恒常的に発生し,しかもその幅が拡 大していき, 45年にいたって食管赤字は3,608億円という巨大な額に達した。 ここに登場したのがコメを政策的に減産する生産調整,いわゆる減反政策であ る。45年から本格的に実施されることとなった減反政策は,以後,-稲作転換政 策J (46"-"50年度), ,-水田総合利用政策J (51"-"52年度), ,-水田利用再編対策」 (53"-"61年度)を経て,-水田農業確立対策J(62"-")に引き継がれた。 第 一 次 減 反 生 産 調 整1年目の昭和45年,政府がたてた減産の目標数量は 100万トンであった。このうち香川県に割り当てられた数量は1万1,300トン で,面積にすれば2,770ヘクタールの水田が減反となる。この2,770ヘクター ノレの水田は県下の総水田面積の約

8%

にあたる。 生産調整の実施にあたって,香川県米生産調整審議会は44年度の収穫と 43 年以前の過去3年間の政府買入数量を勘案しつつ,県下の43の市町に対し減産 目標量を示した(45年2月 9日)。高松市の2,217トンの減産量を最高に,以下, 丸亀市の670トン,三木町の573トン,観音寺市の557トン,善通寺市の483ト ンが続く。減産量の最低は直島町の3..6トンであった。 減反にはコメも何もつくらずに水田を遊ばせておく「休耕田」と,コメ以外 の作物をつくる「転作」とのこつの態様が認められ,減反に応じる農家に対し ては生産調整奨励金が手渡された。もともと減反は法律にもとづく強制ではな

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285 戦 後 農 政 の 展 開 129 いから,収益の安定したコメの減産を農民の自発的協力だけで実現することは むつかしい。全国農民の激しい反ばつが予想されたコメの減反措置が結果にお いては政府のたてた目標どおりに,年によってはその目標を上回って達成され た理由の一つは,この生産調整奨励金という名の補助金の交付であった。生産 奨励金の額は10アール当たりおよそ 3..5万円(香川県平均 3..4万円)で,これ は米作の収益のほぼ6割にあたる。 減反達成率を高めたもう一つの理由は食管制に対する農家の強い危機意識で あった。減反に応じなければ食管制度そのものが崩壊するかもしれないという 切迫した気持が農民を減反に追いたてたのである。昭和44年の自主流通米制度 の導入によって食管制は,事実上,コメの全面管理から部分管理に変質し,ま た46年からは「予約限度制」が採用されて政府が無制限にコメを買い入れるこ とはなくなったが,しかし食管制そのものはやはり,農産物価格が不安定に推 移するなかにあって,稲作農家に安定的所得を保障するただ一つの制度であっ た。しかしながら,食管赤字の累積が顕著になる昭和40年代中ごろ以降,その 食管制の廃止を求める声が財界やジャーナリズムを中心に急速に高まりつつ あった。そして政府も農協も r米過剰が解消しないなら食管制存続はあやうい, 食管を守るためには何としても減反を成功させなければならない」と,減反政 策のすみやかな実施を農民に訴えたのである。 46年 3月,香川県議会が「… もとより稲作は日本農業の基本であり,かっ総合農政の推進がいまだ軌道に のっていない今日,食管制度が崩壊すれば,農業所得の安定に甚大な影響を与 えるのみでなく,わが国農業の将来に対する農民の希望を無惨に打ちくだくと いう結果を招来するであろう。よって本会議は,わが国農業の発展と,本県農 民の生活安定のため,政府に対し,食管制度を堅持する中で強力なる農業政策 実行を要望するものである」との意見書を政府に提出したのは,右のような状 況のなかであった。なお,文面に「総合農政」ということばがあるが,これは コメの生産調整を中心とした当時の農政が総合農政とよばれたからである。 減反の経過 さて,全国に渦巻く農民の不満と不平の中で始まったコメの減 反措置であったが,その結果は目標数量を大きく上回る 139万トンの減反と

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130 香川大学経済論叢 286 なった。 39%もの目標超過達成である。香川県の場合,全国平均をやや下回る ものの, 130%という高い達成率であった。そして達成面積3,610ヘクタールの 転作内容をみると,休耕が2,040ヘクタールで,転作は1,539ヘクターノレであ る。「コメがつくれないなら,いっそ田んぽに雑草をはびこらせて奨励金をもら えばよい」というのが香川農民の大方の対応であった。全国的にはこの傾向は もう少し強く,休耕78%という割合であった。 生産調整2年目の46年,減産目標数量は45年度の2倍を上回る 230万トン に決まった。香川県の目標数量は2万7,400トンで, 45年に比べ2..4倍の大幅 増となった(面積にすれば45年度の2,770ヘクタールに対して 6,600ヘクター ル)。香川県の減産率は全国平均より高いが,これは, 46年から都道府県割当量 決定の基準として将来の農業の地域分担の軽重を示す農業生産の地域指標があ たらしく採択され,香川県は減産率の高い都市近郊地域に区分されたからであ る。転作が困難な水田単作地帯の東北地方などは農業指標が高く減産率は低い。 なお46年度から,単純休耕と転作の聞に奨励金の格差がつけられることとなっ た。休耕に対する奨励金はまったくの不生産的支出であるうえ,たんに休耕す るだけでは減産の目的を達成しにくいとの判断にもとづく処置である。さらに, 単純休耕に対する奨励金そのもの48年で打ち切られることとなった。 減反実施の3年目(47年),減産の目標総量は前年度に比し215万トンと全体 で15万トン減りながら,温暖な気候の香川県はコメ以外の転作が容易との農林 省の判断から, 47年香川県産米減産量は前年度と同じ2万7,400トンの割当て となった。この年の香川県の減反は前年の不作が響き,目標数量達成率を 10% 近く割った。とくに高松市や丸亀市,善通寺市などの都市近郊地域の減反は大 幅にダウンし,達成率は70%台の低い水準にとどまった。 コメ生産の抑制は米価の面からも押しすすめられた。昭和30年代後半から 40年代はじめにかけて大幅に上昇し続けていた米価は44年度は据えおかれ, 45年度0..2%,46年度3.0%と一転して厳しく抑制されることとなったのであ る。 食糧危機と生産調整 政府の減反措置は50年代も続く。そして,のちにみる

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(ha)

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戦 後 農 政 の 展 開 図 3~香川県生産調整実績の推移 仁コ転作 休耕

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年度) rui'l和53寺!支における水111利用再編成対策の経過と昭和 54年度の推進についてJ(香川県,昭和54)より作成 131~ ようにコメの生産調整は

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年からあらたな段階に入るのであるが,ここで図

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年から

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年までの香川県の生産調整実施面積の推移を示そう。この図に よると

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年から生産調整が大幅に緩和されている。これはもちろん全国規模で 生産調整目標数量が大幅に削減されたためであるが,この大幅削減の背景のひ とつに,ソ連の大凶作に端を発し,アメリカ政府が緊急の農産物輸出禁止の非 常措置ーいわゆる

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月のニクソン声明ーをとるにいたった

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年の世界的 食糧危機があった。日本国内で「食糧安保論」が真剣に論議されるようになっ たのはこのころからである。 食糧危機が世界的規模で進行する一方,日本国内ではコメの消費量がここ数 年横ばい傾向にあり,しかも政府手持ちの古米在庫もようやく底をつきはじめ たため,もはや大幅な生産調整の必要なしとの判断から政策当局は生産調整の 緩和に踏み切ったのである。しかし,

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年にはふたたびコメの消費量に減少が 目立つようになるとともに,皮肉にもこの年,コメは大豊作となった。 農林水産省の計算によれば,昭和

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年度の国民のコメ需要

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万トンに対 し潜在生産力

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万トン。生産調整がおこなわれないなら

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万トンものコ

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-132- 香川大学経済論叢 288 メ過剰となる。しかも将来に向かつてのコメの需給ギャップは解消するどころ か,拡大傾向にあった。これに対し国民1人当たりコメの年間消費量は今後と も減少が予想される。事実,昭和 50年以降,コメの潜在生産量は 1,300万トン を上回る水準で安定する一方,消費量は 37年をピークに減少の一途をたどり, 63年にはついに 70キロ台を割ったのである。 第二次減反の性格 昭和 53年から第二次生産調整が開始された。第二次生産 調整は「水田利用再編対策」と名付けられ,およそ 10カ年計画で押しすすめら れることとなった。計画期間は 3期に分けられ,第

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期は 53年から 55年の 3 カ年であった。 第二次減反におけるコメ過剰問題に対する政府の認識は,臨時の緊急避難的 性格が強かった40年代の第一次減反の場合とは違って,それが日本の経済と農 業の構造に深くかかわる構造的問題であるだけでなく,その解決に長い歳月を 必要とするであろう,という厳しいものであった。この点は,水田利用再編対 策にみられる次のようなあたらしいねらいや着想に明らかである。 まず,水田利用再編対策と名付けられたこの第二次減反は,その名称の通り たんにコメを減らすだけでなく,昭和 30年以降低下の一途をたどっている飼料 作物・ダイズ・ムギなどの自給率のこれ以上の低下を抑えるためコメから畑作 物への転作を誘導して水田利用再編・作物再編をはかろうというねらいがあっ た。そして対策を効果あらしめるために,第一次減反のときのように単純な休 耕には奨励金をだすことは一切せず,かっ奨励金を出す場合も作物別に奨励金 の格差を設ける措置がとられた。「香川県水田利用再編対策実施方針」によると, ダイズや飼料作物などの特定作物の転作奨励補助金は一般作物の4万円に対し て 5万 5,000円であった。 さらに,水田利用再編対策には水田利用再編・作物再編にとどまらず,これ によって農業構造の改善をはかろうとしたところに,第一次減反にはなかった あたらしい構想があった。基本法農政がその育成をうたったがしかし失敗に終 わった自立農家にかわって,将来の日本農業の中心的担い手となるべき中核農 家を育成するため,ここに農地利用を集中させようという構想である。そして,

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289 戦 後 農 政 の 展 開 -133ー この農業生産の中核的担い手である中核農家の規模拡大政策を効果あらしめる ために,集落ぐるみの計画転作に対しては奨励金を上乗せする優遇措置が講じ られることとなった。おなじく「香川県水田利用再編対策実施方針」によると, 特定作物の場合は 10アールあたり 1万5,000円,普通作物の場合は1万円の奨 励金がそれぞれ追加になる。なお,転作が困難な兼業農家の農地を農協が預っ て転作を斡旋する農協管理転作が第二次減反からあたらしく登場したが,斡旋 の相手は中核農家であり,これも中核農家の規模拡大をねらったものである。 以上のほか,減反目標が未達成の場合には政府買入数量から減反未消化分を 差し引くというあたらしい方針も打ち出された。生産調整奨励金というアメに 減反未消化分の差し引きというムチを交えながら,第二次減反政策はスタート したのである。 第二次減反の開始 52年11月19日,農林省は53年度水回転作目標面積を 都道府県に通告した。全国の減反面積は39万ヘクタールという広大なもので, 香川県の53年度減反面積4,130ヘクタールは前年度に比して約1叶5倍の増加 である。 厳しい割当量となった53年度生産調整に対し,前川知事は52年11月20日 の『四国新聞』の紙面で「今回の米需給均衡化対策は農業者にとって,極めて 負担が大きく残念だが,米の過剰在庫がこのまま推進すれば,食管制度の崩壊 につながると思われるところから国に対していうべきことはいいながら食管制 度の維持を前提として協力せざるをえないι…。」と,食管制度堅持の立場から 減反協力の談話を発表した。食管赤字が顕著となった45年以降,食管制度に対 する世論の風あたりはますます強く,食管制崩壊の危機意識はいよいよ農政当 局にも農民サイドにも深く浸透しつつあったが,そのような環境の中での知事 談話であった。 11月22日,香川県水田利用再編対策推進協議会がスタートした。協議会は農 業協同組合連合会,土地改良事業団連合会,農業会議,市長会など県下の主要 な農業団体などから構成される組織で,全県的立場から生産調整を推進する。 また,香川県水田利用再編対策本部が県庁内に設置され,現場での減反の普及

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~134 香川大学経済論議ー 290 活動や転作作物栽培の技術指導にあたることとなった。 12月7日,県から各市町にそれぞれ転作目標面積が内示された。市岡別配分 の決定にあたってはそれぞれの市町の水田面積の広さのほか,排水条件,自主 流通米比率,水稲被害率,市街化区域の面積などをその根拠として算出された。 この点,少し説明を加えれば,(1)まず排水条件の良好な水利施設の整った水田 は乾由化が容易で,したがって畑作へ転換しやすく,

(

2

)

自主流通米比率が高い 地域は売れるコメのつくれる稲作適地であるから減反を抑え, (3)水稲被害率の 高い地域の水田も,市街化区域内の水田も,稲作をすすめるには不向きである, ということである。 市町の減反目標面積をみると,高松市の697司ヘクターノレを最高に,以下,丸 亀市の218ヘクタール,善通寺市の212ヘクタール,三木町の209ヘクターノレ, 坂出市の 176ヘクターノレ,満濃町の 172ヘクタールが続く。市町段階でも水田 利用再編対策推進協議会が組織され,農協・農業委員会などの農業団体の全面 的協力のもと,末端農家への減反面積の割当てが52年の暮れから 53年のはじ めにかけておこなわれた。 農家の対応 それでは次に, 46年以来もっとも厳しいものとなった今回の減 反を県下の農家はどう受けとめたか,その声を,-県下に減反の波すっぽり」と 題した53年1月1日付けの『四国新聞』の紙面から紹介しよう。 農業をやっていて,部外者から“農家は田んぼに草をはやしていても,国 の補償金で食っていけるからよい"といわれるのが残念だ。その補償にして も全部の補償ではない。農家に生まれ,小さいときから土で生きてきた。 減反にもこれまで協力しできながら,まだニ,三割もの転作をしなければ いかんという話だが,もう少し将来に対する見通しが出てこないと,次第 に追い詰められて,農業には夢も希望もなくなってしまう。 昭和46年以来,コメの生産調整は続けられているが,水田が宅地や樹園地に 変わらないかぎり,コメの潜在生産量は減らない。他方,コメの需要量は減り 続け,その需給ギャップは拡大するばかりである。上の高松市の専業農家の声 は,そのような動向の中で政府はコメの減産を強制するが,ではいったいコメ

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291 戦 後 農 政 の 展 開 135 は今後どうなるのか,その長期的展望が示されないまま減反政策に協力せざる をえない農民の苦悩と焦慮をよく語っている。 水田利用再編対策において将来の展望が欠けているのは減反のコメだけでな く,転作の畑作物の場合もそうである。転作による畑作物ごとの目標数量もあ たえられていなければ,水田利用再編対策の第1期が完了する 3年後に特定作 物がどうなるのかは,奨励金の保障のことも含めて明らかでない。高松南部農 協の幹部は畑作物の先行きを心配する一方,農家においですらコメの消費が減 退しつつある憂うべき状況を指摘して, 国の減反についての要綱を見たら,全体によいことづくめ。しかし,そ の麦が売れるのかどうか, ドル減らしで外麦や牛肉が輸入される心配があ る。それでも国内の麦が飼料用にさばけたらよい。裏作の麦をどうするの か,はっきりした絵をえがいてもらいたい。減反の問題自体,農民は国の いう通り協力してきた。それでもなおお米が余ったというのだから,国も よく考えてもらわなければ。朝食がパンという農家も多くなっているが, 米の消費拡大という点などで,私たちも自覚しなければならない点がある のだがω と語っている。 減反の成果と今後 上に紹介した農民の声からもうかがわれるように農民の 反ぱっと不安の中ではじまった第二次減反であったが,香川県の場合,転作目 標面積

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ヘクタールに対してその実績はなんと

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ヘクタールを記録 し,

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もの超過達成となった(全国平均は

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。転作を実施した農家は稲 作農家の

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に近い約

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戸であり,

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兼農家や飯米農家まで含めた広 範な減反の実施となった。転作作物は一般作物の野菜がもっとも多く,これに 特定作物のダイズと飼料作物が続く。 水田利用再編対策における転作目標面積は

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年以降も増え続け,同対策の最 終年度である

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年度には香川県の減反面積

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ヘクターノレ,国の減反面積 60万ヘクタールに達した。60万ヘクタールの水田といえばわが国の総水田面積 のじつに

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にあたる。そして,

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年から

6

1

年まで各年とも転作目標は国の

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← 136 香川大学経済論叢 292 場合も香川県の場合も 100%を超えて達成された。 水田利用再編対策は昭和61年で終わった。しかし米の需給ギャップは縮小す るどころか,いっそう拡大の傾向にある。そのため62年から水田利用再編対策 を引き継いで「水田農業確立対策」が実施されることとなった。実施初年度の 転作目標面積は61年度をさらに 17万ヘクターlレも上回る 77万ヘクターノレで ある。これは日本の水田の3分のlにあたり,九州、1,中国,四園地方の水田す べて合わせた面積を超えている。 参 考 文 献 (1) i県政概要1(県,昭和25) ( 2) i農地開拓年報1(県,昭和29) ( 3) i香川県総合開発計画書J(県,昭和31) (4) i香川県の農林業J(県,昭和33) (5) r農業構造改善事業の概要と本県の現況J (県,昭和39) (6) r農業構造改善事業の概要J(県,昭和 44) (7) r昭和53年度における水田利用再編対策の経過と昭和 54年度の推進についてJ(県,昭 和54) (8) r第2次長業構造改善事業J (県,昭和54) (9) r第2次農業構造改善事業の歩みJ(県,昭和57) (10) r昭和59年度水田利用再編対策の実施状況・昭和 60年度水田利用再編対策の推進方 向J(県,昭和60) (11) 各年次『農業センサス』 (12) i四国新聞』 (13) ,月刊香川1.1に掲載の次の論説 1.. r香川県総合開発の基本構想J(8巻 10号,昭和 31) 2. r新農村対策あれこれJ(8巻11号,昭和31) 3 r山本町の農業構造改善事業の現況を聞くJ (16巻 7号,昭和 39) 4 r転機に立つ農業ー総合農政を展開しようJ (23巻 5号,昭和 45) 5.. r成果をあげる第二次農業構造改普ー事業J(28巻3号,昭和50) (14) I農業香川1.1に掲載の次の論説 1れ 「自立経営農家を描いてみるJ(14巻 4号,昭和 37) 2. r自立経営農家になるための経営規模はどのくらい必要かJ(17巻1号,昭和40) 3.. r第二次農業構造事業についてJ(22巻 l号,昭和45)

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293 戦 後 農 政 の 展 開 -137ー

4 米の生産調整についてJ(22巻 4号,昭和45)

5. 水田利用再編対策の考え方・進め方J (30巻 3号,昭和 53)

(注記) 本稿の「三 コ メ の 生 産 調 整 」 は 香 川 の 歴 史1(第10号,香川県史編さん室,平 成2年)に投稿した問題の研究ノートに加筆修正したものである。

参照

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