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ドイツ語における時制意味分析試論(III)--過去形、または物語ることについて(その2)---香川大学学術情報リポジトリ

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ドイツ語における時制意味分析試論(Ⅱ)

一過去形,または物語ることについて(その2)−

湯 浅 英 男 日 次 0.序 1過去形の本質 11.現在完了形との−・般的な意髄論的区分 12.過去形:目撃した出来事を語る時制 13過去形:回想という話者の”mOdus“を担う時制 2。物語る行為 21.物語る行為と時間・語り手。世界 22.物語る行為と過去形の意味(以上,前号) 3い 物語の虚構性と過去形 31K.Hamburgerの「物語の過去形」 32.問題点とその解決のための試み 32..1.従来の批判 322“物語の虚構性と語り手の語用論的前提 323.「物語の過去形」と時間意磯の二重性(以上本号) 4.発話の戦略としての過去形 5 結 び 3.物語の虚構性と過去形 3.1K.ⅡambⅦrgerの「物語の過去形」

本章においては,第1・2章(本誌23号)における過去形の本質および物語

る行為に関する議論を背景に,1950年代以降,KりHambuf・gerを中心に論じ

られてきた物語の虚構性と過去形の関係について,われわれなりの解釈をほど

こしてみたい。K.HambuT・g・erの物語の虚構性と過去形をめぐる見解は「物

語の過去形(DasepischePrateritum)」(DeutscheVierteljahrsschrift27,

(2)

1953,S.329−・357)において発表されたが,現在においても『文学の論理(Die

LogikderDichtung)』(第3版,1977,ただし初版は1957)によって容易に

知ることができる。そこでまず『文学の論理』(第3版)から,彼女のいう「物

語の過去形」を詳細に−・−ただいくらか冗長になるのを覚悟して−一引用・紹 9) 介してみたい。

彼女の理論を・劇言で表現するならば,虚構的(負ktional)な物語(ここでは

3人称を主語として描かれる3人称小説つまり Er・−ErZahlungを指す)にお いてほ「過去形が過去のこと(dasVerg・angene)を表示する文法的機能を失

う」ということである(Hamburger,S‖61.以下,Hamburgerは上記の第

3版,1977を指す)。そしてこ.のことを・証明するために,彼女はドイツの文法

家 Christian AugustHeyseの考えをもち出してくる。つまり,「Heyse

は>話す主体(des redenden S11bjekts)<という概念でもって,発話主体

(Aussag・eSubjekt)を時制定義(Tempusde負nition)の中へ,さらには時間

体系あるいは(同じことではあるが)現実体系(Wirklichkeitssystem)の中

へ.と導入した。逆にこのことは,発話主体が時間の中に存在する発話主体すな

わち現実の発話主体として印づけられている(kenntlich gemachtist)こと

であり,他方そのことば,現在・過去・未来の発話が現実の正真正銘の発話主

体との関係でのみ有意義(sinnvoll)であることを意味しているに他ならな

い」(Ebd.,S。61f.)。彼女ほこの発話主体に対し”Ich−Origo“という概念−

「この概念はJetztとHierと重なるあるいは同一・であるIch(体験((Erlebq nis−))あるいほ発話((Aussage一))のIch)によって占められる零地点(Nulト

punkt),すなわち空間時間座標系の起点(OrIigo des raumzeitlichen Ko−

ordinatensystems)を示している」(Ebd。,S.62)−を用い,フィクション

における過去形の意味を問うのである(以下はebd.S.62庁.)。

今,1‖ HerrXwaraufReisen(Ⅹ氏は旅行していた)という日常的な会

話の−・文と,2.DerK6nig・sPieltejeden AbendF16te(国王は毎晩フルr

トを演奏していた)という,たとえ.ばフリードリッヒ大王についての歴史書

(Geschichtswer・k)の任意の−・文を取り挙げてみると,「この3人称(dritte

Personen)あるいは客観的事実についての陳述は,Heyseの理論によれば,

(3)

》話す主体(すなわち発話主体)の過去の中へ置かれている(geSetZt)《。そし てこのことをわれわれの用語でいうならば,次のようになる。つまり,この2 つの陳述はある現実のIch−Origoを含んでおり,そこからみれば,自らの空間

・時間系の時間座標軸に,述べられた出来事がもつここでは日付が入れられて いないある時間間隔(ein hier undatierter Zeitabstand)が存在している」。 たとえば,「例文1においてIch−Origoは,はっきりしている。つまり例文1で ほ,私が今ここで,Ⅹ氏が旅行していたと報普し,私の今から(vonmeinem Jetzt)Ⅹ氏の旅の時点をふり返って見るのであり,たとえば彼はいつ旅行して いたのかという問にも答えることができるのである」。 また例文2のような歴 史的陳述についても,原則的には例文1と同じように話す主体,すなわちIch− Origoの過去の中へ・と置かれる。いわばそれは歴史書の著者(Verfasser)の 過去である。しかし同時に歴史苔の場合には,その都度の読者の過去の中へも 陳述が置かれていることに注意する必要がある。一・般に現実の報告(Wirk− 1ichkeitsbericht)が書物や日記の形で後世まで残される場合には,その時々の 読者のIch−Origoが元来の報告者のIch−Origoの代わりをする。そして後世の 読者が,報告内容に対し著者とは異なる時間関係に立っているという,まさに そのことによって,その報告はいつ(Wann)という問いが可能な現実の報告で あることが証明される。「いつ(Wann)ということは,その都度報告とかかわ っているIch−Origoからのみ問うことができるのである。すべての過去のこと (最も広い意味では,すべての歴史的なこと)は,すべての同時的なこと及び 未来のこと同様,>私<.と関係しているのであり,たとえ過去,現在あるいは

未来の出来事が個人的,一身上の私(meinemindividuellen pers6nlichen

Ich)と関係がなくても,それらは私の過去,現在あるいは未来の中へと置か れるのである。.」ある出来事に対しいつと問う可能性が,その出来事の現実性

(Wirklichkeit)と同時に,Ich−Origroの存在(Anwesenheit)−たとえ腰

在的(explizite)に存在しようと潜在的(implizite)に存在しようと−を証 明している。「現実の陳述(Wirklichkeitsaussage)の過去形は,・報告された ことが過去であること,あるいほ同じことではあるが,あるIch−Or・igoによっ て過去であると知られている(gewuBtist)ことを意味しているのである。」

(4)

以上が,現実の陳述に用いられる過去形に関するK”HamburgerIの見解で ある。それでは.虚構の陳述の中の過去形について彼女はどのように考えるので あろうか。彼女は1および2が小説内の文である場合について次のように解釈 する(以下は ebdり S64庁)。たとえば,そのような場合にはユの文に”im Sommer1890“という日付があったとしても,もはや「いつ.」と問うことば できないと考える。「つまりその小説文(Romansatz)からは,日付の規定 (Datumangabe)があろうとなかろうと,私はⅩ氏が旅行していた(aufReisen waY・)ということではなく,旅行している(auf Reisenist)ということを知 る(er董ahren)のである。」(以下,波線部は原文でイタリック体)同じように 2の文がフリ−・ドリッヒ大王についての歴史小説の一・文である場合には,たと え大王が実在した歴史的人物であることを,われわれが知っていたとしても,2 の文は「彼がこうしたことを当時200年前に行なった(オαわ ということではな いる(jetzttut)ということをわれわれに伝達してい く,それを今行なっ て る」。つまり,歴史書の中の文では過去のこと(Vergangenes)が伝達され るが,他方小説文においては,たとえ歴史小説であろうと「ある>現在の<状 況(eine>g・egenWartige<Situation)」が描かれる。このことは結局,「過 去形という文法形式が,伝達される事実の過去性(eine Vergang’enheit der mitgeteiltenFakten)についてわれわれに知らせるという機能を失っている」

ことになる。

このような過去形がもつ意味の変化は,単にわれわれの読書体験から心理 的に明らかにされるものではない。むしろ「純粋な客観的徴候(ein echtes

objektives Sympton),文法(die Grammatik),ことばのふるまい自体

(das Verhalten derSpracheselbst)」が,こうした状況について詳しい手

がかりを与えてくれる。そしてdeiktischな時間副詞と過去形の結合が,K

Hamburgerによって挙げられる代表的な文法的徽候なのである。たとえば小 説においてほ.,”Herr・Ⅹwar・aufReisen“のあとに”HeutedurChstr・eifte

er zumletztenmaldie europaische Hafenstadt,dennmorgengingSein

Schiff nach Amerika(今日彼は最後に,そのヨ−ロッパの港町をさまよい歩

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が続くことができるし,また先のフリー・ドリッヒ大王に関する文についても,

小説の中では”Heute abend wollte der K6nig■Wieder die F16te spielen

(今晩国王は再びフル・−トを演奏するつもりであった)“という文が存在しう

る。つまり,ここではdeiktischな時間副詞(例文では morgen や heute

abendの未来副詞)が過去形と結合しうるという客観的文法的徴候が,「虚構 的な物語の過去形はいかなる過去の陳述(VerIgang・enheitsaussage)でもな い」ということの決定的証拠となる。

また単に未来副詞と過去形の結合だけではなく,deiktischな過去の副詞と 過去完了形の結合も,虚構的な物語の目印として有効である。たとえば”Das

Man6vergesternhatte acht Stunden gedauert(演習ほ昨日8時間続い

た)“という文に過去完了形が使用されているのは,これが小説文だからであっ て,もしも現実の発話であるなら,通常は過去形あるいは現在完了形を使わな ければならない(ただ特定の時間的な副文と共に用いられる場合−たとえば

”DasMan6verhatte gesterngerade acht Stunden gedauert,als ein

Gewitterlosbrach((雷雨が突然やって来た時,演習はちょうど8時間続けら

れていた))“一には,現実の発話であっても過去完了形が用いられる)。つま り,小説においては”MorgenWarWeihnachten(明日はクリスマスだった)“

という文は存在するが,”GesternWarWeihnachten“は決して存在せず,

仮にgesternをそのままにして考えるならば”Gestern War Weihnachten

gewesen(昨日はクリスマスだった)“でなくてばならない。 K.Hamburger はこのような客観的文法的メルクマl−・ルを示したあと,虚 碍の本質について次のように述べる(以下,ebd・S・66f\)0「2つの時制現 象(乃吸血が励仰御馴)の根底には同じ法則が存在している。すなわち物 語られたこと(ゐ∫且rg∂肋♂)は現実のIch−Orig・0 ではなく虚構的なIch− に関係している,要するに虚構的なのである。物語の虚構は,まず

Origines

第一Lにそれが現実のIch−Or痩0を含まず,第二に虚構的なIch−Origines一

つまり作者であれ読者であれ虚構を何らかの方法で体験するIch と認識論的

に,さらには時間的に何ら関係をもたない関連体系(BezugSSyStem)−を

含んでいなければならないという2つのことによってのみ文芸理論上(dich一

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tungstheoretisch)定義されている。」しかも,これら2つの条件は同一Lのこと を意味している。「なぜなら,まさに虚構的なIch−Origines,つまり小説の人物

たち(Romanpersonen)の登場ないしは予期されている登場(das erwartete

Auftreten)が,現実のIch−Origoが消失し,同時に論理的帰結として,過去形

がその過去機能(Vergangenheitsfunktion)を捨てることの理由になってい

るからである。」 3.2 問題点とその解決のための試み 3.2.1従来の批判 前節で紹介したK…Hambu柑erの考えを要約すれば次のようになるであろ う。 ① 時制(当然過去形も含まれる)は現実の発話主体つまりIch−○Ⅰig■0との 関係において時間的意味(過去形の場合は過去)をもつ。 ⑧ しかし,物語の虚構の中では過去形は過去という時間を表わさない。 ⑧ なぜならこのような時制に関する現象は,物語の中で物語られること (das Erzahlte)が現実のIch−Orig0(つまり作家)ではなく,新たに 現われたIch−Origines(つまり登場人物)と関係づけられるという原則 によって支配されているからである(現実のIch−Orig0はIch−Origines の登場と同時に消失する)。 ①および⑨はいわば⑧のテーゼ\を根拠づけるための解釈と考えられるので, ⑧を中心に検討すればよいように思われる。また④に関しては.,K”Hambur− gerが過去形と未来の副詞の結合という具体的証拠を挙げているので,この問 題を避けて−通ることはできない。まず,KHamburg・erのテ−ゼが発表され てまもなく,つまり1950年代から60年代の初めにかけてなされた幾つかの反論 を紹介しておきたい。 最初にWいKayserの批判を取り上げてみたい。彼の考えは「物語るのは誰 10)

か(Wererzahltden Roman∼)」の中でおおよそ知ることができる。彼は

・まず,「ノJ→説の語り手(derErz畠hler einesRomans)は作者(derAutor) ではない」,「語り手とは作者が変身した虚構の人物(eine g・edichtetePerson)

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である」とする(Kayser,S.452,丘澤訳,S.46参照)。そしてこのような前

提にたって次のように解釈する(以下,Kayser,S.455f.,丘渾訳,S.49f.参

照)。つまり,「小説の語り手は同時に2つの場所に存在し,同時に2つの時間秩

序の中に生きることが可能である」。したがって,過去形と未来の副詞mor■g■en が並存した”Morgengingder Zug…い(明日列車は凝った)“という文につい ても,確かにそれは「法外な文(ein ung・eheuerlicher Satz)」ではあるが, そこでは「語り手は2つの時間秩序に住んでいるのである。つまり,ひとつは 作中人物の時間秩序であり,そこでは列車の出発ほ目前に迫っている。それと 同時に語り手はどこかはるか先で(irgendwo weit voraus)物語の現在(Er− Z畠hlgegenwar−t)の中にも住んでおり,そこから眺める時すべてほ過去なので ある」。以上のことからわかるように,WKayserにおいて虚構的な物語の過 去形は,過去という時間を指示する機能を央っていない。またこのことをK. ffamburgerの①の観点に即して言えば,現実の発語主体だけではなく虚構的 な語り手にもIcトOf・igoの地位を認めていることになる。 次に,「虚構的な語り手」を仮定することばしないまでも基本的には W.

Kayserに近いUいBuschの批判を紹介しておきたい。彼はK。HamburgerI

が例として挙げた”Morg・engingSeinSch旧nach Amerika(明日彼の船

ほアメリカへ発った)“という文について,次のような解釈を示している。つ ■まり,「この文におけるまさにmorg・enとgingの”結合“は,物語ることの 中で,”現在“という物語る状況の時間性と”過去“という物語られる現実の時 間性とが結びついていることを示しているのではないか。そして,過去形ging■

は”現在“の物語る状況に由来し(stammt),deiktischな時間副詞morgen

は,”当時“アメリカヘの航海を”明日“にひかえた物語の人物の”過去“の 現実に由来しているのではないか」と(Busch,S“220)。さらに物語の語り手

についても,「創作する語り手(der dichtende Erzahler)が現実の語り手と して装っている(Fingiertsich)のではないか,そしてわれわれは彼を”あた

かも(als waf・e)“”現実の発話主体“のように受け入れているのではないか」

と(Ebd.)。

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burgerが言うように虚構的な物語に特徴的であるとか,WいKayserが言

うように「法外な文」だとかみなさず,現実の物語る行為の中に日常的に.現わ れうる文だとし,次のような例を挙げる。(この点次に紹介するW.Rasch, S.73も,過去形とdeiktischな時間副詞の結合について,「この結合がいか

なる現実の発話状況においても可能でないとK.Hamburgerが述べる時,そ

れは的を射たものではない」と同様の見解を述べている。)

Ja,das war wirklich ein toller Tag!Ich/Er schrieb noch zehn

Briefe,telephonierte hierhin und dorthin und kam tiberhaupt

nichtzum Kofferpacken,−und dabeiwarich/er so aufgeregt

dennmorg・engingdoch mein/seinZug! (Busch,S‖222f。)

(そうなんだ,本当に大変な日だったんだ。私/彼はなおも10通の手紙 を書いたし,あちらこちらに電話もしたし,荷作りなんてとてもできな かった。−その時,私/彼はひどくいらいらしていたんだ。というのも, 明日には私/彼の乗る列車が発つからだったんだ。)

この例文で1人称と3人称を主語としているのは,K。Hamburgerがおこ

なう1人称小説と3人称小説の区別一つまり前者は後者と異なり現実の発話 主体が存在し,過去形も過去という時間的意味を失わないと考えること−を 意識したものである。また最後の文の”docb“については,それは「ここで欠 けている”既知(bekannten)“のコンテキストの指示にすぎない。そしてこ のようなコンテキストを思い浮かべることは可能であり,その際には,すぐさ まこの小辞を省略できる」と述べる。

次はW■‖Raschの見解である。彼ほまず①に関してK.Hamburgerを批

判する。すなわち,「Heyse自身は.,彼が一正当に(mitRecht)一時制

を閑適づけた”話す主体(dasredendeSubjekt)“がいつも現実の主体(ein

reales Subjekt)でなくてはならないと言っているのではなく,それはK

HamburgerがHeyseの分析に対し付け加えたものである。”現実の発話主

体“は小説には決して存在しないのだから,そのような前提条件のもとでほど んな時間体系(Zeitsystem)も決してありえないであろう」(Rasch,S‥69)。

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そして,小説の中の発話主体について次のように解釈している。「言語の文

(Satze einer Sprache)というものは,それ自体では(ftirsich selbst)存在

しない。それはいつも話し手を前提とする。もしも文が何か虚構的なことを表 わす時にば,虚構的な話者(ein負ktiver・Sprecher)が仮定されるべきである。 いかなる過去形も話す主体との関係で過去を表示する。そのことがなければ, この文法形式は形成不可能である。話す”現実の発話主体“が存在しないの であれば,その時には見せかけの主体(eing・edachtesSubjekt)が過去形と

共に必然的に仮定される。その結果,虚構の中でほそのことが生起する。」

(Rasch,S76)彼は虚構的な物語やそれが内包する構造について結論的に次 のように述べる。「虚構的な物語は現実に存在する事物(Objekte)についての 陳述ではなく,それと同じ言語的手段を利用しながら,そのような現実の陳述 を偽る。物語の過去形は,このような物語文学の擬似構造(AIs−Ob−Struktur) の言語的実現のためのとりわり−特徴的な手段なのである。」「欠けている現実の 発話体(das fehlende reale Aussageobjekt)ではなく,虚構の擬似構造がそ の言語形式を決定するということは,文芸論理学上(dichtungSlogisch)きわ めて重要なことである。」(以上,ebd.)

次に,KHamburgerの㊤のラディカルな考えを,「現在化(Vergegen−

W畠rtighung)」というより穏当な概念を用いて批判するF。K.Stanzelの見解 について簡単に触れておく(以下,Stanzel,S”3ff.)。彼ほ1人称小説や3人 称小説の区別を越えた小説内の個々の「物語状況(Erzahlsituation)」を問題 にする。つまりノJ\説において,物語る行為(すなわち虚構の語り手の現在)と ストq・リ・−・の時間の間の物語られる虚構的時間的隔たり(dererzahlte丘ktive

Zeitliche Abstand)−彼はこれを「物語の隔たり(die Erzahldistanz)」

と呼ぶ−が,読者の頭(die Vorstellung des Lesers)の中で思い浮かべ

られるような箇所においては,物語の過去形はその過去の意味を完全に保持す る。他方語り手が後退し,登場人物の意識の内容が直接反映しているような箇 所,つまり「登場人物に即した物語状況(personale Erzahlsituation)」にお いては,物語られることば読者の頭の申で現在化する傾向(eineNeigungzur Vergeg・enWartigung)がみられる。このような状況では「物語の隔たり」も,

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物語る行為や時間を指示し物語られることを過去であると特徴づける他の要素 も,読者の心の中で呼び起こ.されず,「その結果,物語の過去形もまた,物語られ ることを現在として想起することの妨げには,もはやならないのである」。した がって未来副詞と過去形の結合も,「物語状況」が物語られることの現在化を 許す箇所においては可能である。「登場人物に即した物語状況というコンテキ

ストでの≫Morgenging sein Flug・Zeug(明日彼の飛行機は発った)≪とい

う陳述は,≫heute(今日)≪すなわち関係する小説の人物が体験する現在 (ErlebnisgegenWart)から体験されたり,あるいは想像されたりする。物語 の形式の中でいわば潜在的(1atent)に保持されているあらゆる物語がもつ擬 似報告的性格(Quasi−Berichtcharakter)は,−・般にそうした文脈において は読者によって実現されないであろう。また次のように言うことができるかも しれない。つまり物語の過去形は,こ・のような所では,読者に暗に(sugg・eStiv) 強要されている時間的定位(zeitliche Orientierung)を通して,その過去の 陳述を小説内で中和(neutralisier・ungr)させたと。」ここでいう時間的定位と は,小説の登場人物がもつ時間的定位のことである。

ここまで紹介してきたWKayser,UBusch,W.Rasch,F‖K.Stanzel

は,多少の違いはあれ基本的にはKHamburgerの「物語の過去形は過去の

時間を表示しない」というテ−ゼがもつラディカルな性格に反発しての批判

であった。しかし,すでに拙論(1980,Sい21,1981,Sり48f■,)でも触れたH.

Weinrichほ,これらの批評家と正反対の立場にある。彼は次のように述べ

る。「つまるところ,Kate Hamburger はたとえば他の批評家たちが考えた ようにあまりに進みすぎてしまったのではなく,逆に十分に進みきれなかった のであるという結論に私は達した。単に≫物語の過去形≪が,すなわち虚構文 学に使用される範囲でのドイツ語の過去形が,K畠teHamburgerIの描く特徴 をもっているのではなく,時制全体が時間に関する情報としてほ適切に記述さ れないような信号機能(Signalfunktionen)をもっているのである。過去形 はとりわけ物語られた世界の時制であり,このような類的特性において(in dieser Klasseneigenschaft),それにふさわしい発話態度に関する情報を聞き 手に伝える。」(Weinrich,S”26f.,脇阪他訳,S,28参照)つまり,H‖Weinrich

(11)

にとって時制は元来時間を意味するものではなく,世界を示す信号にすぎな

い。こ.れはKHamburger以上にラディカルなテMゼと言える。

3.2.2 物語の虚構性と語り手の語用論的前捷

前節においてはKHamburgerのテーゼに対する幾つかの批判Nそのは

とんどが伝統的な時制観をもつ人々からの批判であったが−を紹介してみ

た。しかし本節においては,ひとまずK Hamburgerや他の批評家たちへの

直接的な回答を留保して,物語の虚構性と過去形の関係についてのわれわれの 基本的考えを明らかにしてみたい。 まず,われわれは文学作品というものを言語活動の一・環として考える。した がって−,そこにはR.Jakobsonが提示した発信者・受信者・メッセ−ジ。コ ンテクスト・コーー・ド・接触という6つの構成要因から成るコミ.ユニケ−ション の過程が当然存在する(図8,川本監訳,S.188) コンテクスト メ ッセージ 接 触 コ ード (図8) 今メッセ−ジを作品の中で物語られることとするならば,受信者は読者一叔

となる。また発信者も現実の作者と考えるのがふつうかもしれない。実際K

Hambu柑er・はそのような立場をとる。そして同時に虚構的な語り手の存在を 否定する。「公然(offenbar)と考えられているような,作家の投影(eineProjek− tion)として,いやそれどころか≫作家によって創作された人物(Gestalt)≪ (FStanzel)として解釈されうる虚構の語り手というものは存在しないし,ま た,ich(私),Wir(私たち),unSerHeld(私たちの主人公)等々のまき散ら された一人称の決まり文句(Ich−Floskeln)を通してこのような外見(An− schein)が呼び起こされるような場合においても存在しない。”…・1・ただ物語る が存在するのみである。」(Hamburg■eT−, 作家と物語る行為(∫β友邦放g♂肋乃) S.115)

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ところでわれわれは,発信者一受信者の問のコミコ.ニケーションが成立す るためには単に道具や環境が整っただけでは不十分であると考える。すなわち 発信者と受信者は,お互いにコミ.ユニケ岬ションを成立させるために努力する といった,いわばある種の倫理綱領を遵守する必要がある。このような問題を議 論するにあたって最近しばしば引用されるのが,H…PいGriceの「協力の原則 (Cooperative Principle)Jである。それはおよそ以下のようなものである

(初出はLogic andConversation,.Unp11blished manuscript,1967、ここ

では西山,Sい6fから引用)。 「会話には会話に従事している人の間で合意されている−・定の目的ないし方 向がある。話し手は会話のこの目的を達成すべく,又その方向に従うべく 最善を尽さなければならないし,聞き手は話し手のその試みを信じており, 話し手は聞き手のその信念をも十分承知している。」 この原則はさらに次のような4つの準則(maxims)から成る。 「Ⅰ 情報の藍に関して a.必要なだけ十分な情報を与えよ。 b.不必要な情報は与えるな。 Ⅱ 情報の質に関して a.偽と思うことを語るな。 b.証拠の十分でないことは語るな。 Ⅲ 関連性に関して 当面の問題と関連のあることのみ語れ。 Ⅳ 様式に関して一明確に語れ a.分りにくい言い方を避けよ。 b.暖味な言い方を避けよ。 C.簡潔に語れ。 d.順序立てて語れ。」 これらⅠ∼Ⅳは発信者が守るべき語用論的な「誠実さ」の要件であり,単に 会話のみならず,通常の一つまり皮肉や隠喩的表現を除いた−コミニ.ニケ ・−ションにあてはまるものである。そこで物語の虚構性との関係で問題になる

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のは,情報の質に関するⅡaの準則である。今,発信者が現実の作者である場 合を考えてみた場合,虚構的な物語においては作者は現実にはありえないフィ クションを語っているのであり,結果としてⅡaの「偽と思うことを語るな」 いわば「真実を語れ」という準則に違反していることになる。というのも,正

気を喪失レない限り,現実にありえない虚構の出来事を現実の出来事・真実の

出来事と信じて創作する作家はありえないからである。だが,このように作家 が「真実を語れ」という情報の質に関する準則を破っているにもかかわらず, 読者が送られてくるメッセL−ジを誠実に受け取っている,あるいは受け取るこ とができるのはなぜなのか。それは結局のところ,読者がメッセージの発信者 を作者以外の人物,つまり虚構を虚構としてではなく真実として語ることがで 11) きる人物として仮定しているからに他ならない。それがたとえばW.Kayser の言葉をかりれば「虚構の語り手」ということになる(ただ物語がいわゆるノ ンフィクションの場合は,「虚構の語り手.」は必要ないであろう)。物語形式 は,その本質においでたえず発信者∬受信者のコミュ.ニケ−・ションの可能性 を保障する装置一つまり倫理的な存在である語り手・−を,顕在的あるいは 潜在的に存在させていなければならない。 3.2.3 「物語の過去形」と時間意識の二重性 ここで再び物語の過去形の問題に立ち返り,K.Hamburgerのテr‥ぜを検 討してみたい。われわれは前節で,物語におけるコミ.ユ.ニケ・−ションの成立要 件として虚構の語り手の存在を認めた。そこでこのことを前提として,K.. Hamburgerの個々のテーゼに答えておきたい。まず①のテ−ゼに関しては, W…Raschも指摘しているように,時制の時間的意味を必ずしも現実世界に存 在するIch−Of・ig0との関係に限定する必要はないように思われる。それを虚 構の語り手=虚構のIch−Or−igoに関係づけることも可能でばないだろうか。 言語使用者である人間の憩像力は十分そのことを容認してくれるはずである。 このように考えれば,⑧についても,物語の虚構の中で過去形は.その時間的意 味を失うと考える必要はない。つまり虚構の語り手にとっての過去であると考 えればよい。しかしここで考えて’おきたいことは,K Hamburger’のテー・−ゼ

(14)

自体がある意味で過去形の本質一つまり拙論(1983,S.60)でわれわれが述 べた JETZT−ICH−−→DAMALS−ICHという言語主体の主観的・心理的移行 −の・一側面を表わしている,あるいほそこから導き出せるのではないかとい うことである。以下,そのことを少し検討してみたい。 そのために,まずわれわれの考える物語の構造の輪郭を図9のように描く。 ×JETZT−ICH(Auto一っ (図9) この図9の物語の構造について簡単にコメントしておく。ここで立方体の内 部すべてが虚構の世界であり,作者は立方体の外側すなわち現実世界のHier一

Jetztの地点に位置している。また過去形の本質であるJETZT−ICH→DA−・

MALS−ICHについても,それが立方体の内側にある以上,JETZT,DAMALS

という時間あるいはICH という存在はすべて虚構的意味しかもたない。さら

にJETZT−ICHがDAMALS−ICHに完全に移行した後は,DAMALS−ICH

のみがストーリ・−が展開される場面(Szene)に,いわば「観察する主体(be−

Obachtendes Subjekt)」としてpこれはKHamburg−erが Heyseから

引用した「話す主体(redendes Subjekt)」と対比的に述べたものである一

位置することになる。その際DAMALS−ICHが当時の出来事の連鎖を観察す

る視角は,JETZT−ICHが現在において−進行しつつある出来事の連鎖を観察す る視角(この場合には現在形が用いられる)と平行関係にあると言ってよい。 そしてわれわれの解釈の鍵は,「JETZT−ICH−→HierI−Jetztの世界」と平行 関係にあるこの「DAMALS−ICH−・・−−ヰDort−Damalsの世界」の視角の時間的 意味での二重性である(図10)。

(15)

DAMALS−ICH JETZT−ICH

Hier−Jetzt

の世界 Dort−Damals の世界 (図10)

そこでまず端的に,K.Hamburgerが②のテーゼの証拠として挙げた過去

形と未来副詞の結合(たとえばMorg・engingdeT Zug)を解釈してみたい

が,その前に今述べた過去形がもつ時間的二重性について具体的に説明してお く。すでにわれわれは過去形の使用において−,言語主体(物語でほ虚構の語り

手)のJETZT−ICH が DAMALS−ICH へ移行することを了解済みであ

る。だが移行後のICH自身からみれば,いわゆる DortpDamalsに位置する

ICHがDort−Damalsに生起する出来事をながめているという意識ではなく, Hier−Jetztに位屈する工CHがHier−.Ietztに生起する出来事をながめている のだということを忘れてはならない(過去の記憶はいわば「現在」の集積なの

である)。つまり図10で示した「DAMALS−ICH−→DorトDamalsの世界」の

視角における”DAMALS/Damals“は,「話す主体」(物語ではあくまで虚構 の語り手)からみて「当時」という時間的意味をもつのであって,「観察する 主体」(=DAMALS−ICH)からすれば,それほまさに「今。現在」なのであ

る(言うまでもなく,”Dort“もまた「ここ」という意味になる)。過去形がも

つ時間的二重性とは,このような過去であって同時に現在でもあるという言語 主体(語り手)に内在する時間意識の二重性を指している。そこで話を元に戻

すならば,K.HambuTgerの「過去形は過去という時間を表示しない」とい

う②のテ・−ゼも全くの誤りとほみなせなくなる。たとえばMorgen g■ingder’ Zugという文も次のように解釈できるであろう。すなわちmorg・enは主観的

(16)

心理的移行を果たした後のDAMALSTICHからみた未来時を表わし,ging一と

いう過去形は,いわば「話す主体」(=虚構の語り手)の現在からみた過去と

いう時間を意味する。そして同時に,過去形はDAMALS−ICHにおける現在

(あるいはもっと厳密に言うならば,DAMALS−ICHとの同時的関係)を表わ

す。このような考え方は先に紹介したW‖KayserやU.Busch等の見解と

あまり変わらないと言える。しかし他方で,過去形の本質であるJETZT−ICH

→DAMALS−ICHを仲介すれば,K‖HamburgerIとその批判者たちの間が

理論上それほどかけはなれたものではないことを示してくれる。

ここまでのところで,われわれはK Hamburgrerの②のテ・−ゼが過去形の

本質であるDAMALS−ICH−→JETZT−ICHという主観的心理的移行と深い

関わりがあることを述べたつもりである。しかし彼女のテ」−ゼ自体にも,すで

に紹介した他の文法家の批判にあるとおり誤りが確かに存在する。たとえげ

Buschの提示した例に典型的にみられるように,現実の陳述と虚構,1人称

小説と3人称小説あるいは環境描写と登場人物の出現後の展開等の,いわゆる

「文学の論艶」から導き出される区別への疑義である。「過去形が過去の時間

を表示しない」ということがたとえ過去形の一・側面を表わしているとしても,

そのことば物語の虚構に限定されるわけではない。「物語る」という行為にお

いては,それが現実であろうと虚構であろうと常に同様の現象が見られるので

ある。ここではBuscllのように過去形と未来副詞の結合が現実の発話の中に

も現われる例を呈示す・るのではなく,歴史的現在(historisches PrIaSenS)の

問題に関してそのことを示してみたい。31.の申では紹介しなかったが,K.

Hamburgerは物語において過去形が過去を指示しない証拠として歴史的現在

をも取り上げている。彼女は小説の申で用いられる歴史的現在を「過去に起こ

った出来事を≫それがあたかもわれわれの目の前に存在するかのように(asif

theywerepresentbeforeoureyes)≪現在化する(ver’g’eg’enWartige)」

という伝統的解釈(つまり時間的解釈)に疑問をもち,「物語の虚構における

歴史的現在の時間的解釈は誤まっている。なぜなら過去形もまた全く過去を指

示しないからである」と述べる。さらには「歴史的陳述において現在形は,そ

こでは正真正銘の過去機能(echte Verg■angenheits董unktion)を保持してい

(17)

る過去形とは.異なった時制である。それに対し叙事詩(Epos),小説の申で は,現在形は過去形と異なる,つま.り異なったように機能する時制では/ない」 とし,歴史的現在と過去形が,物語の虚構の中では時間的に同一・であることを 強調する(以上,HamburgerS。89f‖)。しかしわれわれほ,現実の発話の中 にも過去形と同じように機能する歴史的現在が現われることを,トーマス・マ ンの『魔の山』の中から1つ例を挙げて示してみたい。 例5

》(.)Aber was denn nun weiter?《

》Ich stellte mich an die Wand《,SagteJoachim,》inanstan−

dig・er Haltung・,und verbeugte mich etwas,als sie beimir

waren,−eSWargeradevor dem Zimmer der kleinen Hujus,

Nummer achtundzwanzig\Ich glaube,derGeistlichefr’euteSich

daBichgrtiBte;er・danktesehrh6nich undnahm seine Kappe

machen sie auch schon halt,und der Mini−

ab”Aberzugleich

mit dem RaucherfaB klopft an,und dann klinkt

StrantenJunge

er auf undlaBt seinem Chef den Vortrittins Zimmer. Und

nun stelle dir vor und male dir meinen Schrecken aus und

wo der Priester den

In dem Augenblick,

meine Emp丘ndungen!

da drinnen ein Zete,rmordio

FuB tiber die Schwelle setzt,geht

空襲einGekreisch,duhastniesoetwas geh6rt,dreト,Viermal

hintereinander,unddanach einSchreienohnePauseundAbsatz,

aus weitof董enem Munde offenbar,ahhh,eSlag einJammer

darin und ein Entsetzen und Widerspruch,daB esnicht zu be−

schreibenist,und so ein greuliches Betteln war es auch zwi−

Wird es hohlund dumpf,als

und auf einen Schlag

SChendurch,

ob esin die Erde versunken ware und tief aus dem Keller

kame.《

(18)

例5は,ヨ・−−アヒムが,亡くなったフふスという少女の部屋に司祭たちが入 っていく様子を,ハンス・カストルプに対し語った場面であるが,過去の出来 事を過去形を用いて継起的に物語っていく行為が単に虚構的な物語(厳密に言 えば物語の地の文)に限らず,実際の話しことばの中にも見られることを端的 に示している(ヨーーアヒムの言葉の前半部)。と同時に,現在形が過去形と自然 に交替し,過去形を使用している時と全く同じように過去の出来事を次々と物 語っていく様子が見てとれる(下線部の歴史的現在)。つまり現在形は,本来過 去形によって遂行される物語る行為を代行して−いる。そしてK Hamburger・ も言うとおり,本来このような歴史的現在は話者(例5ではヨーーアヒム)がと くに意識して過去の出来事を現在化し生き生きと語ったものではない。それで はなぜ,いつ,物語る行為の中で過去形は現在形に取って替わられるのであろ うか。これはすでに示した図10によって説明可能である。つまり現在形と過去 形の本質的違いは,観念的主体ICHがHier・−Jetztの世界にとどまるか,あ るいほDort−Damalsの世界に移行するかにある。したがって話者の観念的主

体ICHが自らの記憶=Dort−Damalsの世界に没入し,その地点からその場

で展開される出来事の連鎖を観察して−いる場合には,過去形が用いられる。し かし話者が記憶=Dort−Damalsの世界へ移行しているという意識を喪失した

時には,「DAMALS−ICH→Dort−Damalsの世界」の視角は「JETZT−・ICH

→Hier−Jetztの世界」の視角と重なり,たとえ過去の出来事を物語る場合で も現在形(つま.り歴史的現在)を用いるのである。 われわれはここまでK.Hamburgerの最も重要な㊥のテ・−ゼに関して2つ

の点一つまり,そのテ・−ゼが過去形の意味論的本質JETZT−ICH→DA−

MALS−ICHの一側面を体現しているということ,したがって−彼女の指摘する 幾つかの徴慎も虚構的な物語だけではなく,現実・虚構を含めた物語る行為一 般の中に現われうること−を中心に述べてきた。そこで残った⑨のテーゼに

ついても簡単にコメントしておきたい。⑨に関してKHamburgerが主張し

たいことは,虚構的な物語では,過去形は現実のIcb−Or・ig0(つまり作家)と の意味論的関係を断ち切られ,その結果過去形は過去という時間を表示しない ということである。しかし虚構の中では,過去形がもつ時間的意味を含めてすべ

(19)

てのメッセ・−・ジが現実のIch−Orig・0との意味論的関係を喪失することば,自明 の前提である。その上でわれわれは,その代償としてメッセ・−ジが虚構的な Ich−Orig・0(語り手)と擬似的な意味関係を結ぶと考える。したがって−語り手 が登場人物の一人である場合に限って,物語られることが,当時の状況へ移行し た語り手DAMALS−ICH=Ich−Or・iginesの・一・^と関係づけられると言えるか もしれない。だが一・般的に言えば,語り手は超越的な観察者(=「 ̄観察する主 体」)とみなされるべきであり,またたとえそのような場合であっても,過去 形は虚構的なIch−Origoにとっての過去だけではなく,観察する主体のJetzt =観察される(ひいては物語られる)登場人物・出来事・状況のJetztを指示 すると言えるのである。 以上,「物語の過去形」をめぐる K、Hamburgerの主要なテーゼについて われわれなりの検討を加えてきたが,結局のところ,過去形の本質である

JETZT−ICH−→DAMALS−ICHという言語主体(物語の場合は語り手)の主

観的心理的移行を媒介として,−・方で彼女のテ」−ゼの・−・面の正当性を認めっ

つ,他方でW.Kayser,u Busch,W‖Rasch等の批判を受け入れるといっ

た折衷主義的解釈に終わってしまったように思われる。だが個々のテーゼや批 判が過去形の何らかの意味論的側面を言い表わしている以上,それもやむをえ

ないことである。そこで最後にはなったが,K Hamburgerの批判者として

挙げた何人かの文法家の見解について,ここでどく簡単に検討しておきたい。 すでに K.Hamburg・erのテーゼを検討する過程で明らかになったように,

W,Kayserが虚構の語り手を想定している点,U…BuschがK.Hamburger・

のおこなった現実と虚構の陳述,1人称小説と3人称小説の区別を無効なもの とみなした点,さらにはW.、Raschの,文学では現実の発話体系と異なる虚構 的な擬似構造が言語形式を決定しているという見解等々を,われわれは根本に おいて受け入れることになった。そこで,残ったF.K一StanzelとH..Wein−

richの見解についてだけ触れておく。まずF。K Stanzelの中心的概念「登

場人物に即した物語状況」について考える。これは1人称小説・3人称小説 の区別なく,語り手の現在とストー・リ−の時間との隔たりが読者の意識の中で 想起されない,つまり現在化が起こっているような状況を指すが,われわれの

(20)

立場から解釈しなおすならば,過去形が内在する時間意識の二重性,つまり 「話す主体」からみた過去という意識と心理的移行を果たした「観察する主 体」からみた現在という意識において,後者が前者よりも相対的に優位な状況 を,彼の言う「登場人物に即した物語状況」とみなすことができる。つまり彼 にとって問題となるのは,過去形を用いた物語るという行為において,現在と 過去(あるいほ同時と以前)という言語主体に潜在的な二重の時間意識のう ち,どちらが文脈(つまり「物語状況」)によって優勢に立ち現われるかとい うことであり,このことが彼の過去形や物語に対する基本的見方になってい る。このように考えれば過去形と未来副詞の結合だけではなく,体験話法m つまり過去形であっても直接話法にすれば現在形にかわるような話法−が現 われる箇所等も,「登場人物に即した物語状況」の典型的な目印となるのでほ ないだろうか。最後にH.Weinrichの見解についても一言述べておきたい。 彼の考えによれば,過去形は過去という時間ではなく「物語る(Erzahlen)」 という発話態度を表わし,「物語られた世界」の信号となる。しかし「物語る」 という言語行為自体が本来物語られる出来事や事態との相関の上に成立してい る以上,「物語る」という発話態度も全く発話内容の時間的性格と無関係でほ ありえない。したがって,たとえ過去形の信号機能ほ認めたとしても,それに よって指示されるものが言語行為者との時間関係を完全に払拭していない限 り,過去形が時間を表わしていないと断言できるかほ疑問である。 注 本稿における注・図・例は本誌前号(その1)からの通し番号とする。 9)K。HamburgeI−は『文学の論理』初版への批判に対して「再び,物語ることについ

て(Noch einmal−VOm Erzahlen)」(Euphorion59,1965,S 46−71)で反論し,

第2版はそれを含めた形で雷き改められている。第3版は第2版の最終章を除いただ けのもので,第2版以降の批半胴こは触れていない。彼女は,新たな批判に対する議論 をあきらめざるをえなかった理由として,まず廉価な研究番を作るという技術的理由 を挙げる。そしてさらに次のような理由を述べている。つまり原則的には,初版に関 してEuphoTionの論文の中で批評家たちに対しなされた態度表明,さらには第2版 の中での返答(Entgegnungen)や修正(Verbesserungen)以降,「今日において もはや何ら本質的に新しいこと(wesentlich Neues)を付け加えることはないであ

(21)

ろうし,また私には,その本で述べられたジャンル上の理論的見解(diegattungs− theoretischen Positionen)が,新しい文学上の諸現象を通して無効になってしまっ たとは思われない」(第3版の前書き)と。この言葉は彼女の自説に対す−る自信のほ どをよく示している。 10)「物語るのは誰か」は元来1957年デ宣ッセルドルフで行なわれた講演の原稿であり, 同年DieneueRundschau68に掲載されている。こ.=1では丘渾訳を−・部変更しな がら引用した。 11)この点Kayserも的確に指摘している。「父親も母親も昔話を語る時には変身(sich verwandeln)しなければならないことを知っている。彼らは大人の,物語をよくわ きまえた態度を捨て,不可思議な出来事を伴った詩的世界が現実であるような人間 (Wesen)へと変身しなければならない。たとえうその普請(L也genmarchen)を 語る場合でも,語り手(Erz為hleI)はその現実性を信じている。信じているがゆえに 語り手はうそがつけ・る。作者はうそがつけない。ただ上手か下手に書くことができる のみである。」(Kayser,S451,丘繹訳,S.46参照)つまり子供や読者に語る言語主 体はその内容を決して疑ってはならない。W”Kayserが「信じているがゆえに語り 手ほうそがつける」と述べているのも逆説的な言い廻しであって,語り手白身は「う そ」をついていると思ってはいない。ただ第三者から客観的にみれば「うそ」だとい う話なのである。また「作者はうそをつくことができない」というのは,作者はメッ セ−ジが 「うそ」であるということを知っている以上,コミユ・ニケーションにおける 直接的な発信者にはなりえないことを意味している。 引 用 文 献

前号の引用文献及び本号の本文。注の中で詳しく記したものについそは省略する。

Busch,U:Erzahlen,behaupten,dichten,in‥Wirkendes Wort12,1962,S217− 223 Hamburger,K∴DieLogikderDichtung,3Aua,Stuttgart1977” KayserW:Wer erzahltdenRoman?,in‥DieneueRundschau68,1957,S・444 −459 :「物語るのは誰か」丘渾静也訳(『現代思想』3月号,1978,S40−53) 西山佑司:「アイロニ・−の言語学」(『理想,』2月号,1983,S2−15) Rasch,W:ZurFragedesepischenPrateritums,in‥WiTkendesWort,Sonderheft 3,1961,S68−81

Stanzel,FK:EpischesPraeteritum,erlebte Rede,historisches Praesensin: Deutsche Vierteljahrsschrift33,1959,S∴卜12

湯浅英男:「ドイツ語における時制昔味分析試論(Ⅱ)一過去形,または物語ることにつ いて(その1)−」(『香川大学−般教育研究』第23号,1983,S49−73)

参照

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