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収益事業から生じた所得に課税ではこれらの34 種の事業を行った場合の法人税はどうなるのでしょうか 株式会社のように営利を目的として設立された法人は各事業年度のすべての所得に対して法人税が課税されますが 宗教法人のように公益を目的として設立された公益法人等については 収益事業を行う場合に その収益事業

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Academic year: 2021

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(1)

第 150 号

◇視点「宗教法人の実務を再考する」

◇備後学僧侶逸伝⑪

  鴨川組勝願寺 足利義山

◇連載「ナーガールジュナ」③

◇キッズサンガ

◇NEWS&活動情報

◇予報・インフォメーション

(2)

  収益事業から生じた所得に課税   ではこれらの 34種の事業を行っ た 場 合 の 法 人 税 は ど う な る の で しょうか。株式会社のように営利 を目的として設立された法人は各 事業年度のすべての所得に対して 法人税が課税されますが、宗教法 人のように公益を目的として設立 された公益法人等については、収 益事業を行う場合に、その収益事 業から生じた所得に対してのみ法 人税が課税されます。そこで、収 益事業を行う場合に法人税を納め る義務が生じます。   収益事業に該当の判断は   ( 1) 物 品 販 売   そ の 物 品 の 売 価と仕入原価との関係からみてそ の差額が通常の物品販売業におけ る売買利潤ではなく、実質的な喜 捨金と認められるような場合のそ の物品の頒布は、収益事業には該 当しません。   しかし、一般の物品販売業者に おいても販売されているような性

  最終回は宗教法人と収益事業について触れた。最近はお寺で 「坊主カフェ」 とか 「坊主バー」 、「テンプルスティ」 や「お寺体験」 などと銘打った幅広い活動が増えてきたようだ。こうした活動 や事業と税務の関係はどうなるのだろうか、という疑問をもた れている方もあるのでは?そこで、宗教法人の「法人税」につ いてまとめてみた。 (文責・教区報専門委)

連載「

し ゅ う

き ょ う

ほ う

じ ん

じ つ

さ い

こ う

する」

最終回

 

何が課税され、何が非課税なのか?

質の物品(例えば、絵はがき、写 真帳、 暦、 線香、 ろうそく、 供花、 数珠、集印帳、硯墨、文鎮、メダ ル、 楕、 ペナント、 キーホルダー、 杯、杓子、箸、陶器等)を通常の 販売価格で販売する場合には、そ の物品の販売は収益事要(物品販 売業)に該当します。なお、線香 やろうそく、供花等の頒布であっ ても、専ら参詣に当たって仏前等 に 供 え る た め に 下 賜 す る も の は、 収益事業とはなりません。   (2)墳墓地の貸付け ′宗教法人 が行う墳墓地め貸付は収益事業に 該当しないこととされており、- こ の 墳 墓 地 貸 付 に は、 ・ そ の 使 用 期間に応じて継続的に地代を徴収 す る も の の ほ か、 そ の 貸 付 け 当 初 に「 永 代 使 用 料 」 と し て 一 定 の 金 額 を 一 括 徴 収 す る も の も 含 ま れ ます。   ( 3) 境 内 地 等 の 席 貸 し   宗 教 法人の境内地や本堂、講堂等の施 設 を 不 特 定 又 は 多 数 の 者 の 娯 楽、 遊興又は慰安の用に供するための 席 貸 し は す べ て 収 益 事 琴( 席 貸 業)に該当し、会議、研修等の娯

 宗教法人が行う 34 種類の収益事業

①物品販売業②不動産販売業③金銭貸付業 ④物品貸付業⑤不動産貸付業⑥製造業⑦通 信業、放送業⑧運送業、運送取扱業⑨倉庫 業⑩請負業(事務処理の委託を受ける業を 含みます)⑪印刷業⑫出版業⑬写真業⑭席 貸業⑮旅館業⑯料理店業その他の飲食店業 ⑰周旋業⑱代理業⑲仲立業⑳問屋業㉑鉱業 ㉒土石採取業㉓浴場業㉔理容業㉕美容業㉖ 興行業㉗遊技所業㉘遊覧所業㉙医療保健業 ㉚技芸教授業㉛駐車場業㉜信用保証業㉝無 体財産権の提供業㉞労働者派遣業。

   収益事業には 34 種類の事業が

 お寺、つまり公益を目的とした宗教法人が行 う収益事業は、34 種類の事業(下記)で、継 続して事業所を設けて行われるものをいいま す。なお、これらの事業に係る事業活動の一環 として、付随行為も収益事業に含まれます。 (2)

(3)

楽、遊興又は慰安の用以外の用に 供するための席貸しも、国、地方 公共団体の用に供するためのもの など一定の要件に該当するものを 除き、収益事業に該当します。   ( 4) 宿 泊 施 設 の 経 営   宗 教 法 人が所有する宿泊施設に信者や参 詣人を宿泊させて宿泊料を受ける 行為は、その宿泊料をいかなる名 目で受けるときであっても、収益 事業(旅館業)に該当します。   しかし、宗教活動に関連して利 用 さ れ る 簡 易 な 共 同 宿 泊 施 設 で、 その宿泊料の額がすべての利用者 につき1泊1,000円(食事を 提供するものについては2食付き で1,500円)以下となってい るものの経営は、収益事業には該 当しません。   ( 5) 所 蔵 品 等 の 展 示   宗 教 法 人がその所蔵している物品又は保 管の委託を受けたものを常設の宝 物 館 等 に お い て 観 覧 さ せ る 行 為 は、収益事業には該当しません。   ( 6) 茶 道、 生 花 等 の 教 授   宗 教法人が茶道教室、生花教室等を 開設し、茶道、生花等特定の技芸 を教授する事業は、収益事業(技 芸教授業)に該当します。   こ の 場 合 の 特 定 の 技 芸 と し て は、茶道、生花のほか、洋裁、和 裁、着物着付け、編物、手芸、料 理、理容、美容、演劇、演芸、舞 踊、舞蕗、音楽、絵画、書道、写 真、工芸、デザイン(レタリング を含みます)等があります。   なお、これらの技芸の教授には 通信教育によるもののほか、 免許、 卒業資格、段位、級、師範、名取 等の一定の資格、称号等だけを付 与するものも含まれます。   ( 7) 駐 車 場 の 経 営   宗 教 法 人 が境内の一部を時間ぎめ等で不特 定又は多数の者に随時駐車させる もののほか、月ぎめ等で相当期間 にわたり継続して同一人に駐車場 所を提供する事業は、 収益事業 (駐 車 場 業 ) に 該 当します。   こ の ほ か、 駐 車 場 に 適 す る 土 地 を 駐 車 場 所 と し て 一 括 し て 貸 し 付 け る 事 業 も 同 様 に 取 り 扱 わ れます。   ( 8) 結 婚 式 場 の 経 営   宗 教 法 人が仏前結婚などの挙式を行う行 為は本来の宗教活動で収益事業に は該当しませんが、式後の披露宴 における宴会場の席貸し、飲食物 の提供、 衣装などの物品の貸付け、 記念写真の撮影又はこれらの行為 のあっせん等は、収益事業に該当 します。   主な事業内容と課税、不課税等   葬儀、 法要等に伴う収入(法名、 お布施等)=不課税▽絵葉書、写 真帳、暦、線香、ろうそく、供花 等の販売=課税▽永代使用料を受 領して行う墳墓地の貸付け=「土 地の貸付け」に当たり非課税▽墓 地、霊園の管理料=課税▽駐車場 の経営=課税▽土地や建物の貸付 け=土地の貸付けは非課税、建物 の貸付けは課税。ただし、住宅の 貸 付 け は 非 課 税 ▽ 宿 泊 施 設( 宿 坊 等 ) の 提 供( 1 泊・ 2 食、 1, 500円以下)=不課税▽仏前結 婚の挙式等の行為= a.挙式を行 う行為で本来の宗教活動の一部と 認められるもの(不課税) b.挙 式後の披露宴における飲食物の提 供(課   税) c.挙式のための衣 装 そ の 他 の 物 品 の 貸 付 け( 課 税 ) ▽幼稚園の経営等= a.幼稚園の 経営(保育料・入園料・入園検恵 料・ 施 設 設 備 費 等 は 非 課 税 ) b. 制 服、 制 帽 等 の 販 売( 課 税 ) c. ノート、 筆記具等文房具の販売 (課 税)▽常設の美術館、博物館、資 料館、宝物館等における所蔵品の 観覧(課   税)▽新聞、雑誌、講 話 ・ 法話集、教典の出版 ・ 販売(課 税)▽茶道、生花、書道等の教授 (課税)▽拝観料=不課税。   ( 注 ) 不 課 税 と は そ の も の の 性 質上消費税の課税の対象とはなら ないものをいい、非課税とは本来 的には消費税の課税の対象となる ものですが政策的見地等から課税 されないものをいいます。   消費税及び地方消費税の一般的 な事柄については、税務署備付け のパンフレ、ソト「消費税のあら まし」をご覧ください。   ※「消費税のあらまし」は国税   庁ホームページにも掲載されて   います。

(4)

【 足 あ し か が 利 義 ぎ 山 ざ ん と 古 孝 こ う 義 海 か い 】   義山は生家 ・ 光円寺では「 護 ご 法 ほ う 」、 慧海門下で「 大 だい 部 ぶ 」と名乗っていたが 「入門6~7年経た頃、 和上(慧海)   は父(義山)と今一人の門人とを   膝下によび、両人とも 大 おおい に学力の   進歩をみる、わしも満足に思う。   一は 義 ぎ 山 ざ ん とよび他は 義 ぎ 海 か い と名乗り   相 あ い たずさえて宗門の 奴 やっこ になれよ」 其の 11

 

あ し か が

ざ ん

(2)

クローズアップびんご

Gakusou Itsuden

▲「智慧海 鳬水」(芦田組明浄寺)

の名を

けられ

した

と諭され、授けられた名という。 ( 12歳 秋 に 入 門 し 20歳 春 に 得 度 と い うので之と同時期の可能性もあり)   ち な み に も う 一 人 の 義 海 は 百 谷 村 の 人 と さ れ、 鴨 川 北 組 真 光 寺 の 義 海 (現 ・ 古孝隆範氏から4代前の住職) と同一人物とみて間違いない。   義 海 は、 義 山 と 僅 か 6 日 違 い の 文 政 8 年 18251 月 に 生 ま れ、 同 年 輩 で 郷里も近い。 慧海門下で少年期を 共 にし同時期を生きた学僧であった。   義 山 が 亡 く な っ た 明 治 43年 1910に、 後を追うように示寂されている。   義 山 と は さ ぞ や 縁 の 深 い 人 で あったことは想像に難くない。   義海が生まれ、 住持した真光寺は 蓮 如 ゆ か り の「 三 み い 井 寺 で ら の 生 な ま く び 首 」 の 逸 話 で 知 ら れ る 父 親・ 源 右 衛 門 が 晩 年 最 後 に 辿 り 着 い て 往 生 さ れ た 寺として知られている。   境 内 に あ る 源 右 衛 門 の 墓 の 横 に ▲源右衛門の碑  (真光寺境内) 義 山 は 博 は く れ ん 練 教 校 に 寄 宿 し な が ら、 自 坊 の 法 務 も あ る の で 博 練( 新 市 ) と勝願寺 (神辺) との三里 (約 12㎞) の道を毎日のように往来していた。   そ の 途 中 で 堀 越( 加 茂 川 に 隣 接 し て い る 法 ほ う じ ょ う じ 成 寺 字 鳥 と り こ し 越 の こ と か?) と い う 山 道 が、 雨 が 降 る と 赤 土 に 滑 ぬ め り 込 ん で 歩 行 が 困 難 で あ る た め、 義 山 は 道 す が ら 小 石 を 拾 い 集 め て は 少 し で も 道 が 良 く な る よ う 石 を 投げすてるのを日課とした。   足 あ し か が 利 浄 じょうえん 圓 も 義 山 の 門 徒 参 り に 随 行 したとき 小石を拾わされ、 道の水溜 ま り が 平 ら に な る ま で 投 げ 入 れ を 繰 り 返 し、 影 な が ら 人 々 が 喜 ば れ るように努められたと語っている。   と こ ろ で 鴨 こうせん 川 組 そ の 名 は、 義 山 が 京 都 鴨 かもがわ 川 にちなんで名付けた 組 そ 名 めい という。   明治 13年 1880、本山は全 国 18教区に分け教務所 設置し適宜に組を分け ていったと伝わるが、 少なくとも 14年 1881には 鴨 こ う せ ん 川 組 そ の名前が見受け られる。義山にとって も故郷を象徴した特別 思い入れの深い川だっ たようだ。 義山影像の画讃に「六十餘年飛似山」 と自らの生涯を山に譬えられている。 八十七歳で寂される直前には「八十 餘年罪似山」と辞世をされたようだ。 故・ 中 村 元 博 士 は、 慈 悲 の 話 を さ れ る と き、 足 利 義 山 の 歌 を 繰 り 返 し 引 用 さ れ て 万 人 に 通 じ る 義 山 の や さ し い心を褒め讃えたという。 今 回 の 学 僧 逸 伝 は、 前 回 に ひ き 続 い て 明 治 を 代 表 す る 宗 学 界 の 巨 匠・ 足 利 義 山 を 紹 介 し た い。 未 だ 不 完 全 な 取 材 記 事 で は あ る が、 備 後 な ら で は の 義 山 の 逸 話 を 掘 り 下 げ て、 博 練 教 校 の 詳 細 や、 親 し い 方 へ の 臨 終 法 話 な ど 教 区 の 皆 さ ん と 共 に 味 わってみたい。    ( 敬称略)    (文責=教区報専門委) は 源 右 父 子 の 殉 教 の こ と を 顕 彰 し た碑がもうひとつ建てられており、   源 右 衛 門 が 中 国 明 め い こ う 光 房 ぼ う 遺 蹟 に 詣 し、   尾 道 浄 土 寺 で 蓮 如 生 母 に 出 会 い、   永 正 元 年 1504五 月 に 山 主 之 これ を 哀 れ み て   葬 埋 を 修 し た こ と、 正 当 四 百 回 遠 忌   明治 36年 1903秋彼岸会に表文を曰す。 等 が 記 さ れ て い る。 時 期 的 に み て も、 お そ ら く 義 海 が 関 与 さ れ た の だ ろう。 いずれにしても師の慧海より 「 海 」 の 一 字 を 与 え ら れ、 そ の 門 下 において義山 (山) と義海 (海) と 並 び 称 さ れ た ほ ど の 優 れ た 学 僧 の 存在が偲ばれるようだ。   【 鳬 ふ 水 す い の号と 加 か も 茂 川 が わ 】   義 山 は 後 年「 鳬 ふ 水 す い 」 と い う 号 を 専 もっぱ ら 愛 用 せ ら れ た。 「 鳬 」 と は 鳥 と 几( 鳥 が 飛 ぶ 形 ) の 合 字 で「 野 か も 鴨 」 を意味する字である。 つまり、鳬水 と は 芦 あ し 田 だ 川 が わ 支 流「 加 か も 茂 川 が わ 」 を 雅 みやび や か に言った名称であるようだ。   こ の 由 来 を 補 ほ 足 そ く す る 逸 話 と し て、

(5)

【 中 ちゅ う き ょ う い ん 教院 の 院 い ん ち ょ う 長 をつとめた】   義山の壮年期を調べると   「 孝 行 者 と い う か ど で 藩 主 阿 あ べ 部 侯   か ら 賞 与 を 二 度 も 貰 も ろ う た そ う な が、   そ の 親 お や お や 々 も 次 々 に 亡 く な っ た 後 は、   教 き ょ う む し ょ 務 所 と か い う も の に 勤 め た り、   京 の 西 に し や ま 山 ・ 備 後 の 博 は く れ ん 練 ・ 安 芸 の   進 しんとく 徳 などの教校に勤めた」という。   こ の 教 務 所 と は、 ど う や ら 政 府 の 教 きょうぶしょう 部 省 管轄下の 中 ちゅうきょういん 教 院 を指すようだ。   維 い 新 し ん 後 の 明 治 5 年 1872、 政 府 は 敬 け い 神 し ん 愛 あ い こ く 国 や 皇 こうじょう 上 奉 ほ う た い 戴 を 教 導 す る た め 「 大 だいきょういん 教院 ( 教 きょうどうしょく 導 職 本部) 」を設置し、 7年 1874には各府県に 「中教院」 を置き、 全 国 各 地 の 社 寺 を「 小 教 院 」 と い う 形で統括しようとした。   こ の と き 義 山 は 小 お だ 田 県 け ん ( 備 中 備 後 6郡の県名) の中教院院長を務めた。   学 識 も 衆 望 も あ っ て 命 じ ら れ た 義 山 だ が、 そ の 背 景 に は 小 田 県 の 仮 か り 庁 ちょうしゃ 舎 が 笠 岡 の 浄 心 寺( 備 中 里 組 ) に 一 時 設 置 さ れ た こ と や、 義 山 の 師・ 泰 た い が ん 厳 が 示 寂 前 年( 慶 応 3 年 1867) 春 に 広 如 宗 主 の 意 向 を う け 朝 廷 に 参 さ ん だ い 内 し、 警護の僧侶を教諭して 王 お う せ い 政 復 ふ っ 古 こ の 朝 ち ょ う し 旨 を 奉 ほ う と う 答 す る な ど 勤 き ん の う 王 色 の 強 い 政 治 的 な 役 割 を 担 っ た こ と なども影響したようだ。   だ が、 こ れ は 全 て の 宗 派 に 祭 祀 や 敬 神 を 教 導 さ せ よ う と し た た め、 海 外 の 宗 教 事 情 に 詳 し い 島 し ま 地 じ 黙 も く ら い 雷 の批判もあり、 主だった浄土真宗の 離脱を経て8年 18755月に廃された。   当 時 は 備 後 の 真 宗 僧 侶 も 教 部 省 よ り 神 職 訓 導、 神 訓 導、 村 々 巡 回 師等を命じられていたようだ。   「 仏 教 諸 宗 や 神 官 達 が 一 緒 に な っ て 何 か 仕 事 を し て い た 教 務 所 と か いうものを 牛 ぎ ゅ う じ 耳 らされていた父」 と 和 わ り こ 里 子 に 語 ら れ て い る よ う 神 官 や 各 宗 派 の 中 間 管 理 的 な 難 し い 立 場 で あ っ た ら し い 義 山 は、 そ れ 以 降 は 福 山 最 善 寺( 大 谷 派 ) の 教 務 所 で事後処理をしていたとみられる。   15年 頃 1882に 三 み 原 は ら 地 方 で 神 社 宮 ぐ う 司 じ の 仏 教 排 斥 事 件( 法 然・ 親 鸞・ 聖 徳 太 子 を 冒 涜 し、 高 楠 順 次 郎 や 日 野 義 淵 が 関 わ る ) が 起 こ っ た 際 は 義 山 が 中 心となって 尾 お の み ち 道 裁判所に提訴した。   後 に 義 山 は、 三 み 原 は ら 在 住 の 婦 人 と 法 ほ う 義 ぎ 上 の 質 問 の た め 書 し ょ か ん 簡 の 往 お う ふ く 復 を し て い る が、 「 た と ひ 神 し ん と う し ゃ 道 者 ま た は 他 た 宗 しゅう の 人 よ り、 い か 様 よ う に 誹 そ し り 惑 ま ど は さ ん と す る こ と あ り と も、 そ れ に 心 の 迷 ま よ ひ て 御 慈 悲 を 喜 ぶ 心 を や め る と 云 う こ と の な き 」 と 特 に 例 を あ げ て 教 示 し て い る。 当 時 の 混 乱 の一端が 窺 うかが われるようだ。 【 本 ほ ん ざ ん 山 の 教 き ょ う こ う 校 ・ 博 は く れ ん 練 教 き ょ う こ う 校 】   明 治 維 新 は 本 願 寺 内 に 寛 永 16年 1639 か ら 続 く 僧 侶 教 育 施 設「 学 が く り ん 林 」 の 近 代 化 も 促 し、 明 治 8 年 1875に は 普 通 学 を 開 講 し、 更 に 翌 年 1876に は 大 中 小 の 教 育 制 度 を 敷 き、 本 山 に 大 教 校 (最高学府) 、 中教校(全国7教区) 、 小 教 校( 各 府 県 ) を 設 置 す る よ う に 学 が く り ん 林 の制度を大改革した。   本 山 の 小 教 校 は 基 本 的 に 各 府 県 に 1 校 と 定 め ら れ て い た が、 進 し ん と く 徳 教 校 は「 福 山 周 辺 か ら 距 離 30里 余 り と 諸 般 不 都 合 の た め 」 義 山 が 小 教 校 別 立 届 出 を し て「 博 は く れ ん 練 教 校 」 と い う 小教校を新設することになった。 ( 記 録 で は 福 山 市 庁 下 教 き ょ う ど う 導 取 とりしまり 締 よ り 本願寺へ 10年 18775月1日付で申請。 )   当 初 は 義 山 の 勝 願 寺 を 仮 教 校 と し て 開 か れ、 同 年 10月 に 道 上 村 浄 光 寺 に、 翌 11 18782 月 に 下 山 守 村 福 泉 寺 へ と 教 場 を 転 々 と し て い た が、 こ の 頃 か ら 高 た か 田 だ 鋳 ち ゅ う ぞ う し ょ 造 所 社 長 の 高 た か 田 だ 嘉 か 助 す け に よ る 助 力 を 受 け 本 格 的 校 舎 を 整 え て 「 明 治 己 卯 1879之 冬、 奮 投 貨 聚 財、 創 そ う け ん 建 博練教校、於 王 お う 佐 さ 山 や ま 麓」となった。   高田嘉助は幕末頃、 福山藩や池田藩 ( 備 前 ) に 命 ぜ ら れ て 大 砲 を 鋳 ちゅうぞう 造 し た が、 そ の 材 料 は 寺 院 よ り 徴 収 さ れ た

備後に

」を

した

数 多 く の 梵 ぼんしょう 鐘 で あ っ た た め に 篤 信 の 真 宗 門 徒 で あ っ た 嘉 助 は 葛 藤・ 苦 悩 し た と い う。 そ れ で 戦 後 は 卓 越 し た 技 術 と 慈 悲 の 心 で 梵 鐘 を つ く る 鋳 造 業 を 神 か や 谷 川 が わ ( 新 し ん い ち 市 町 戸 と で 手 大 お お 佐 さ 山 や ま ) に お こ さ れ た。 同 所 麓 ふもと に 博 は く れ ん 練 が 移 転 さ れた一番の要因は彼の尽力である。   初 代 嘉 か 助 す け の 示 寂 1893後、 百 ヶ 日 に は 多 く の 人 が 集 ま り 博 練 教 校 で 大 法 要 も 営まれた。その後の博練は小教校を 「 仏 教 中 学 」 へ と 制 度 移 行 し て い く 動 き と な り 28 1895に は 大 お お た に こ う ず い 谷 光 瑞 師 も 備 後 に 巡 化( 日 野 義 淵 が 用 係 ) さ れ た が、 結 局 本 山 で 廃 案 と な り、 34年 1901に 学 制 変 更 と経営難を理由に廃教校となった。   実 業 家 と し て 名 を 馳 せ た 二 代 目 高 田 嘉 助 は こ れ を 惜 し み、 父 の 志 を 継 い で 本 山 に 請 こ い、 官 庁 の 認 可 を 受 け て 38年 1905私 財 を 投 じ て 同 教 校 跡に「私立博練中学」を再興した。   博 練 中 学 も 後 に 廃 校 と な っ た が、 大 佐 山 の 近 く 新 市 小 学 校 に は 博 練 や 嘉 助 の こ と を 記 し た 碑 が 建 て ら れているのは必見である。 ▲二代目嘉助の碑  (新市小学校) 碑文に「篤信真宗之教毎以慈悲為明治十三年 本山新設教校也投資助役所謂博練教校」など

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【 博 は く れ ん 練 教 き ょ う こ う 校 の 経 け い え い 営 】   明 治 9 年 1876の 学 制 に よ れ ば 小 しょうきょうこう 教 校 の 校 費 は 末 寺 が 負 担 す る も の で あ っ た が、 12年 18782 月 に「 所 し ょ ぞ く 属 地 ち 方 ほ う 之 門 も ん ま つ 末 協 き ょ う ぎ 議 之上 維 じ 持 可 いたすべき 致 」とされ、 6月 には当時設立の小教校 25校に対し 「金四千円 宛 ず つ ~資本金として~本年 12月 よ り 毎 年 6 月 12月 に 金 150円 宛 ず つ 」 と い う よ う に、 本 山 か ら 下 付 金 を う けて学校経営を行うようになった。   博 は く れ ん 練 教 校 は 備 後 国 東 六 郡 を 所 轄 教 区 ( 進 し ん と く 徳 教 校 は 安 芸 国 一 円 と 備 後 国西八郡) としていたが、 安芸では 崇 そ う と く 徳 教 きょうしゃ 社 を 興 お こ し 安 芸 国 全 土 で 募 金 活 動 や 基 金 設 立 を 行 っ た こ と に 対 し終始、金銭面に苦労したようだ。   ち な み に 学 校 長 に あ た る 総 そ う か ん 監 や 副 ふ く か ん 監 と は、 小 教 校 の 事 務 を 管 理 し、 兼ねて小教校 分域内の学事を奨励振 起を 掌 つかさど るもので、 小分域内の 組 そ ち ょ う 長 よ り選挙 (任期2年) で選ばれていた。   義 山 は 博 は く れ ん 練 設 立 し た 同 年 に 西 に し や ま 山 教 き ょ う こ う 校 教 授 を 務 め た り も し た が、 当 初 から教鞭に携わって 12年 1879に副監。   13年 1880の 開 校 式 に 総 監、 17 1884か ら 進 し ん と く き ょ う こ う 徳 教 校 教 授 と な る が 18 1885に 再 び 総 監 と な っ た。 21年 1888に は 進 徳 教 校 の 義 山 の も と へ 備 後 の 法 中 連 が「 博 練 教 校 が 潰 つ ぶ れ そ う に な っ た か ら 直 す ぐ に 帰 か え っ て く だ さ い 」 と 迎 え に 来 ら れ て 帰国、 三度目の総監を務めたが、   「 潰 つ ぶ れかかった博練教校の校長たる   父の月給は二円であったから、我が   一 家 に は 忽 たちま ち 貧 乏 風 が 吹 き す さ ん だ。   一ケ年分の学資として金二十円を   父からいただいていた私に、また   後から送るゆえ十円だけ貸してく   れと、母から手紙が来た」 と 甲 か い わ り こ 斐和里子 に記される程だった。   博 練 教 校 教 授 を つ と め た 漢 学 者 の 藤 井 葦 川( 片 山 病 の 原 因 究 明 に 尽 く し た 藤 井 好 直 の 長 男 ) は、 博 練 の 貧 ま ず し さ が 甚 はなは だ し く 戯 たわむ れ に 七 言 絶 句 を 作 り「 贈 博 は く れ ん き ょ う こ う 練 教 校 会 計・ 甲 斐 竹 陰 (※ 甲 か い 斐 虎 こ 山 ざ ん のことらしい) (~中略) 貧 乏 神 と 絶 交 す る 他 策 も あ ら ず。 休 や す み に 訝 いぶか し み 頻 し き り に 乞 き つ べ い 米 書 を 修 す る 」 と、 困窮ぶりを 詠 う た われた事もあった。   し か し 彼 の 著『 葦 川 遺 稿 』 に よ る と博練教校 ・ 生徒所編の 「 光 こ う せ ん 闡 雑 ざ っ 誌 し 」 に 余 よ の 詩 を 求 め ら れ た、 と も 記 さ れ て お り、 生 徒 は 貧 し い 中 に も 仏 教 精 神を 育 はぐく んでいかれたようだ。   な お 博 練 の 人 事 は 一 応 真 し ん し ゅ う 宗 学 が く し ょ う 庠 ( 大 教 校 ) か ら 申 し 付 け ら れ る 形 と な っ て い た が、 義 山 以 外 の 総 監 と し て日野義淵、 鈴 す ず 木 き 法 ほ う ち ん 琛 ら。他の宗乗 教授に 那 な す 須 純 じゅんじょう 浄 (沼隈西組大東坊) 、 豊 と よ ひ ら 平 桑 そ う 孤 こ (沼隈南組高泉寺) といっ た人達が関わられたようだ。 【 吾 あ こ 子 や 妻 つ ま に 先 さ き 立 だ たれ】   義山は四男五女に恵まれたが、 長 女 サ ト( 浄 圓 の 母 )、 三 女 ト シ、 長 男義淵にも続いて先立たれている。   『義山法語』 に 「渡辺御後室様へ」 ( 瑞 義 の 妻 ヤ エ や 渡 わ た な べ て っ し ん 辺 哲 信 の 母 に あ た り、 義 山 の 法 友・ 渡 辺 聞 信 の 後 室 サ チ の こ と ) に 宛 て た 手 紙 が あ る の で一部を抜粋して紹介したい。 《 (妻 早 さ 苗 な え 臨終にあひて)   去 さ る 二 月 三 日 老 ろ う さ い 妻 の 危 き 篤 と く の 報 に   接 し、 び っ く り は 致 し ま し た け れ   ども、おくれ先立つは 世 よ のならい   な れ ば と 心 を 落 ち 着 け、 帰 国 を 急   ぎ ま し た。 ( 中 略 ) 四 日 の 夕 暮 れ、   帰 寺 し て み ま す れ ば、 ま だ 精 神 も   確かにて、 「 貴 あ な た 方 もお 帰 か え り 下 く だ さいま   し た か、 ヤ レ ヤ レ 御 ご く 苦 労 ろ う さ ま 様 で ご ざ   い ま し た。 昨 年 の 報 ほ う お ん こ う 恩 講 の と き、   私 が 報 恩 講 を つ と め さ せ て 戴 いただ く の   は、 こ れ が 御 お い と ま ご い 暇 乞 で あ ろ う と 存 ぞ ん じ   まして、 しみじみ 有 ありがた 難 く 嬉 うれ しく 勤 つと め   さしていただきましたが、 やっぱり   そうでございました」 と挨拶を致し   しまして、それから種々の話をする   ので、 皆々大いに喜びました (中略)   病 びょうちゅう 中 数回法話 致 い た し 聞 き か し ました。   その 趣 し ゅ 意 い は「 信 し ん じ ん 心 を 得 え ざれば 往 おうじょう 生   な ら ぬ は も と よ り の こ と な れ ど も、   そ の 信 心 と は、 わ が 心 こころ を 色 々 と 考 え   て 拵 こしら えることではない。 この 浅 あさ まし   きなりにて、 間 ま 違 ち が いなく 御 お 浄 じ ょ う ど 土 へ   参 まい らせんと 待 ま ち 受 う けて 居 い て 下 くだ されば、   それをあてにして 居 お るばかりぞ」   と申し聞かせたりしに、ただ、   「 あ り が と う 存 ぞ ん じ ま す。 」 と 申 し て   称名するのみ、別に苦しげなる様子   もなく息絶えたるは、誠に 仕 し 合 あ わ せ   ものと存じ候。 そのとき 枕 ま く ら べ 辺 に居   並びし 児 じ 女 じょ どもにも、 翁 おきな が遺言かた   がた法話致し聞かせしことにて候。   先年、長男日野義淵が大学病院にて   死去せしときにも、 臨終におよび、   御 お い と ま ご い 暇乞 の読経も 静 しずか にすまして落命   し、 今日またかくの通りうるはしき   素懐をとげしは、妻も子も実に   仕 し あ わ 合 せものと 浦 う ら や ま 山 敷 し く思ひ候也。   あらあらかしこ。 》 「 弥 陀 も ろ も ろ の 仏 子 に 告 げ て の た ま は く、 極 楽 は か の 三 界 に い か ん、 と。 新 往 の 化 生 と も に 報 へ ん と 欲 す る に、 合 掌 悲 咽 し て 言 ふことあたはず」義山謹書 ▲ 『船舟讃』 (御調西組専光寺)

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清廉で誠意ある学僧として名を馳せた日野義淵

【 日 ひ の 野 義 淵 え ん という人物】   義 山 の 生 涯 を た ず ね る と 日 ひ の ぎ 野 義 淵 え ん の 名 が よ く 見 受 け ら れ る の で、 簡 単 に 紹 介 し た い。 彼 は 義 山 の 長 男 と し て 勝 願 寺 に 生 ま れ、 府 中 明 浄 寺 の 養 子・日野姓となる。西山教校卒業。   質 素 で 謹 厳、 廉 潔 な 人 物 と し て 知 ら れ、 明 浄 寺 住 職 を つ と め た 折 に は 「法事に行っても米一合、 茶葉一回分 しか受け取らない」とも評された。   や が て 副 住 職 に 寺 務 を 任 し、 妻 子 を残して単身上京し本山に出仕。   利 か が 井 い 明 みょうろう 朗 ら を 助 け て 教 校 副 幹 事 や 文 ぶんがくりょう 学 寮 理事など優れた功があった。   帰 郷 の 際 に は 仏 教 会 の リ ー ダ ー と して活躍し、 『反省会雑誌(中央公論 の前身) 』編集長など諸々に携わる。   若 く し て 執 しゅぎょう 行 ( 今 の 総 務 ) と な る が、 人 々 が 土 み や げ 産 な ど 持 参 さ れ て も、 「 そ の 土 地 の 産 物 で 廉 れ ん 価 か な 物 の み は 御 礼 を い う て 頂 戴 し て い た が、 た と ひ 土 産 の も の で も 高 価 な 品 や 反 た ん も の 物 な どは 断 だ ん 乎 こ として受け取らなかった。 」   ま た 中 々 の 勉 強 家 で 公 用 を は た し た 後、 夜 更 け も 読 書 や 英 語 の 勉 強 を 続 け た。 和 里 子 が 「 お 兄 さ ん は も う 英 語 な ど 御 勉 強 な さ る に は 及 び ま せ ん で し ょ う 」 と 言 う て も「 執 行 連 中 の う ち で 新 しんもんさま 門 様 ( 光 瑞 ) か ら 来 た 外 国 電 報 を 読 み 得 る の は わ し 一 人 じ ゃ、 も っ と やって 貰 もら わねばならん」と通われた。   か く 過 度 に 心 身 を 使 い 過 ぎ た 為 か 肋 ろ く ま く え ん 膜 炎 を 患 い、 「 こ の 人 を こ の ま ま 使 役 す る の は 油 の 切 れ た 灯 と う し ん 心 を か き た て る よ う な も の じ ゃ」 と 法 主 に 言 上 さ れ る 師 も あ り、 帰 国 し て 静 養 し て い た が、 宗 教 法 案 の 問 題 が 起 こ っ て 「どうしても日野を出馬させねば」 と い う 事 に な り、 家 族 や 師 の と め る の も 聞 か ず 痩 そ う 躯 く を 東 京 に 運 ん だ。 悪 戦 苦 闘 の 末、 解 決 し て 帰 京 し た ら 中 央 中学 (※博練も含む仏教中学設立など) の 件 で 揉 め て お り「 つ い で に 校 長 に な っ て 整 理 し て く れ 」 と 頼 ま れ 彼 は 即座に受諾。一命を賭けて明治 33年 1900 3 月 1 日 か ら 文 学 寮 長、 中 央 仏 教 中 学 設備委員、仏教高等中学長を務めた。   こ う し て 病 床 最 後 ま で 清 廉 潔 白 な ま ま 覚 悟 と 誠 意 を 貫 か れ て 同 年 4 月 12日 示 寂。 葬 儀 に あ た り 院 号 「誠満院」と 輔 ほ き ょ う 教 を追贈された。   彼 は 高 た か く す 楠 順 じ ゅ ん じ ろ う 次 郎 を 見 出 し た 人 物 で も あ り、 留 学 か ら 帰 き ち ょ う 朝 凱 旋 さ れ た 折 は 備 後 言 葉 ま る だ し で「 日 野 先 生 が 御 存 命 な ら 一 番 に 悦 よろこ ん で つ か あ さ り やすのになァ」 と述懐されたそうだ。 【 義 ぎ 淵 え ん の 臨 り ん じ ゅ う 終 に際して】   義 淵 の 清 廉 さ は 義 山 ゆ ず り の も の であったようだ。臨終に際して義山 と や り と り さ れ た 内 容 が 和 里 子 の 『落葉かご』に詳しく書かれている。   も う 歩 行 が 出 来 ん の で 毎 日 人 力 車 で   登 校 し て は 無 能 な く せ に ス ト 好 き な   不 良 教 員 を ド ン ド ン 免 職 し だ し た。   「 も う 三 人 免 職 す る と 学 校 の 衛 生 掃   除 も す む 」 と 私 に 漏 ら し た 翌 朝、 腰   を か け る 力 も な く な っ た と 見 え、 車 の   下 の 段 の 足 で 踏 む あ そ こ に ペ タ っ と   膝を組んで 「サァ走ってくれ」 という。   こ れ ま で 父 は 度 々 静 養 せ よ と 薦 め て   居たが、いつも「ハイもう2~3日で   済みますから」と言うて聞かなかっ   た が、 今 朝 は「 お 前 は 大 病 じ ゃ か ら   のう、しっかり養生せねばいかんの   じ ゃ、 よ く な っ た ら な ん ぼ で も 御 ご 報 ほ う し ゃ 謝   が 出 来 る か ら の う 」 と 手 を と っ た ら   素直に 「ハイ」 と言って車をおりた。   即日 担 た ん 架 か で京都大学病院に入院   した。が、快くなるかわりに段々   その日が近づいてくるばかりである。   私の報告を聞いた父は「お 和 わ り 里 、 御 ご   苦 労 ろう じゃがすぐに病院へ引き返して   くれ。そして父が一度 見 み ま 舞 いに来る   と 言 ゆ うて 居 お られます、と兄に 言 ゆ うて   みてくれ」 (花見時で人出が多いゆえ   父上は外出なさらぬよう御注意申せ   と 兄 は 何 べ ん も 言 ことづて 伝 し て い た )( 略 )   私 は か け て 行 っ て そ れ を 伝 え て 兄 に   懇 願 し た。 そ し た ら 眼 に 涙 を た め て   寝ながら挨拶して「ありがとうござ   いますが、決して来ていただくに及   びません。 くれぐれも申し上げます。   決 し て 来 て い た だ く に 及 び ま せ ん。   と申し上げて来い」という。 (略)   また引き返して 其 そ の 由 よし 、父に伝えた。   「さうであったか、そうであらう」   と満足げに御念仏せられたが、   「お 和 わ り 里 、御苦労じゃが、もう一ぺん   病院へ行って、兄の眼のよう届くと   こ ろ に こ れ を 張 り 付 け て や っ て く れ 」   と 渡 さ れ た 其 の 紙 を 握 り し め て 走   った。兄が今向かっている其の壁に   ペタっと張り付けたのが、半紙一枚   にカタカナで墨黒々と書かれたる     「マイルハカラヒヲ スルニアラズ。   マ イ ラ セ テ ク ダ サ ル ヲ マ ツ バ カ リ ナ リ 」        の大文章である。           兄はそれを見て           うち笑みながら           御念仏した。           それから三日後           に数珠を手にし、           読経しながら往           生せられた。   ▶ 義山扇面(鴨川組勝願寺) 「参る計らいをするにあらず、 参らせてくださるを待つばかりなり」 (取材協力・資料提供)     鴨川組勝願寺様、鴨川組浄光寺様、鴨川北組真光寺様、芦田組明浄寺様 (引用文・主な参考書籍)    『義山法語』 、『一枝群茎』 、『高松悟峰和上語録』 、『草かご』 、『落葉籠』 、『近代真宗の展開と安芸門徒』 、『真宗論題叢書四』など 帰国、 三度目の総監を務めたが、   「 潰 つ ぶ れかかった博練教校の校長たる   父の月給は二円であったから、我が   一 家 に は 忽 たちま ち 貧 乏 風 が 吹 き す さ ん だ。   一ケ年分の学資として金二十円を   父からいただいていた私に、また   後から送るゆえ十円だけ貸してく   れと、母から手紙が来た」 と 甲 か い わ り こ 斐和里子 に記される程だった。   博 練 教 校 教 授 を つ と め た 漢 学 者 の 藤 井 葦 川( 片 山 病 の 原 因 究 明 に 尽 く し た 藤 井 好 直 の 長 男 ) は、 博 練 の 貧 ま ず し さ が 甚 はなは だ し く 戯 たわむ れ に 七 言 絶 句 を 作 り「 贈 博 は く れ ん き ょ う こ う 練 教 校 会 計・ 甲 斐 竹 陰 (※ 甲 か い 斐 虎 こ 山 ざ ん のことらしい) (~中略) 貧 乏 神 と 絶 交 す る 他 策 も あ ら ず。 休 や す み に 訝 いぶか し み 頻 し き り に 乞 き つ べ い 米 書 を 修 す る 」 と、 困窮ぶりを 詠 う た われた事もあった。   し か し 彼 の 著『 葦 川 遺 稿 』 に よ る と博練教校 ・ 生徒所編の 「 光 こ う せ ん 闡 雑 ざ っ 誌 し 」 に 余 よ の 詩 を 求 め ら れ た、 と も 記 さ れ て お り、 生 徒 は 貧 し い 中 に も 仏 教 精 神を 育 はぐく んでいかれたようだ。   な お 博 練 の 人 事 は 一 応 真 し ん し ゅ う 宗 学 が く し ょ う 庠 ( 大 教 校 ) か ら 申 し 付 け ら れ る 形 と な っ て い た が、 義 山 以 外 の 総 監 と し て日野義淵、 鈴 す ず 木 き 法 ほ う ち ん 琛 ら。他の宗乗 教授に 那 な す 須 純 じゅんじょう 浄 (沼隈西組大東坊) 、 豊 と よ ひ ら 平 桑 そ う 孤 こ (沼隈南組高泉寺) といっ た人達が関わられたようだ。   しまして、それから種々の話をする   ので、 皆々大いに喜びました (中略)   病 びょうちゅう 中 数回法話 致 い た し 聞 き か し ました。   その 趣 し ゅ 意 い は「 信 し ん じ ん 心 を 得 え ざれば 往 おうじょう 生   な ら ぬ は も と よ り の こ と な れ ど も、   そ の 信 心 と は、 わ が 心 こころ を 色 々 と 考 え   て 拵 こしら えることではない。 この 浅 あさ まし   きなりにて、 間 ま 違 ち が いなく 御 お 浄 じ ょ う ど 土 へ   参 まい らせんと 待 ま ち 受 う けて 居 い て 下 くだ されば、   それをあてにして 居 お るばかりぞ」   と申し聞かせたりしに、ただ、   「 あ り が と う 存 ぞ ん じ ま す。 」 と 申 し て   称名するのみ、別に苦しげなる様子   もなく息絶えたるは、誠に 仕 し 合 あ わ せ   ものと存じ候。 そのとき 枕 ま く ら べ 辺 に居   並びし 児 じ 女 じょ どもにも、 翁 おきな が遺言かた   がた法話致し聞かせしことにて候。   先年、長男日野義淵が大学病院にて   死去せしときにも、 臨終におよび、   御 お い と ま ご い 暇乞 の読経も 静 しずか にすまして落命   し、 今日またかくの通りうるはしき   素懐をとげしは、妻も子も実に   仕 し あ わ 合 せものと 浦 う ら や ま 山 敷 し く思ひ候也。   あらあらかしこ。 》

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ナーガールジュナ

龍樹菩薩

最新の研究によって知られる

 

連載

 

第3回(最終回)

  (一) 『般若経』のおしえ   いよいよ今回は龍樹の教えにせ まっていきます。これまでみてき たように、龍樹は『無量寿経』な ど の 浄 土 経 典 よ り も む し ろ、 『 般 若経』 (『般若心経』ではありませ ん)の教えに基づいた記述を多く 残しています。   『 般 若 経 』 に 説 か れ る 教 え は、 一 言 で い え ば「 空 の 思 想 」 で す。 その中に出てくる「色即是空、空 即是色」の文句は有名です。お釈 迦さまの説かれた教えの中で最も 重要なのは「縁起」の教えである といわれますが、龍樹は「縁起と は 空 の こ と で あ る 」 と い い ま す。 つまり、 「縁起」 の教えが 『般若経』 の中では「空」として説かれてい るということです。お釈迦さまの 説法は対機説法といわれ、聞き手 に応じて説き方を変えたといわれ ま す が、 『 般 若 経 』 の 聴 衆 に 対 し ては「縁起」のことを「空」と説 かれたのです。   (二)空とは?   では具体的に「空」とはどうい うことなのでしょう。   ま ず は じ め に 問 題 と な る の は、 私たちが日常用いる「ことば」で す。もしことばがなければ、他人 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が と れ ず、 社 会 生 活 が 成 り 立 ち ま せ ん。 わたしたちは世の中のものをすべ てことばによってとらえて生活し ています。しかしことばでそのも の が 語 り 尽 く さ れ る わ け で は な く、それはそのものの一面を表現 しているに過ぎません。ことばと いうのはものごとを仮に定義する もの、といえます。   そうした不完全なことばという 手段によって、わたしたちはいろ んなことを考えます。仮の定義に よって思考するわけですから、現 実とは多少ズレた認識が生まれる ことになります。実はわたしたち が 見 る も の や 考 え る こ と は、 す べ て こ う し た 仮 の 設 定 に 基 づ い て お り、 も の ご と の あ り の ま ま の 姿 を 正 し く と ら え て い る と は 言 い 難 い の で す。 こ と ば に よ っ て も の ご と を 固 定 的、 限 定 的 に と ら え て し ま っ て い る、 と い う こ と も で き る でしょう。   事 件 現 場 で 犯 人 を 目 撃 し た 人 が、 頭 の 中 で は は っ き り と 犯 人 の 姿 か た ち を 覚 え て い る の に、 こ と ば に す る と「 三 十 代 く ら い の 小 太 り の 男 」 程 度 の 表 現 に し か な ら な い こ と は よ く あ り ま す。 さ ら に、 そ れ を 聞 い た 人 は、 自 分 な り の 小 太 り の 男 の 人 物 像 を、 そ れ ぞ れにふくらませていくことでしょ う。   このようなことばの限界につい て は、 お 釈 迦 さ ま も よ く 自 覚 し て い ま し た。 さ と り を 開 い た 後 も、その内容を大衆に説くことを ためらわれたのです。さとりの内 容をことばでは十分に説明し尽く すことはできないからで、誤解を まねくことを心配されてのことで した。それでも真理に至るために は、ことばに頼らざるをえないの です。わたしたちは、ことばの限 界を自覚した上で、正しいものご との姿をとらえていかなければな りません。   実際のものごとの姿は、他と関 わり合いながらたえず変化してお り、とらえた瞬間にはすでに次の 姿へと変化しています。人間でい えば、身体はたえず細胞が入れ替 わっており、一時として同じ身体 はありませんし、心や好みもさま ざ ま に 移 り 変 わ り ま す。 「 本 当 の

▲インド風景

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自分」などと言いますが、一体ど れが本当の自分なのでしょう。実 際 は 本 当 の 自 分 な ど な い の で す。 時の流れや、あい対する人などに 応じて、それぞれに違った自分が いるはずなのです。   ですから、どんなものにも恒久 不 変 の 実 体 と か 自 我 と か 本 質 と い っ た も の は な い こ と に な り ま す。こうしたものごとのありのま まの姿が「空」と言われるのであ り、それは「縁起」と同じことだ と龍樹は言うのです。   (三) 空の教えから得られるもの   浄土真宗では仏教的な知識より も、阿弥陀如来の本願や極楽浄土 へ の 信 仰 を 重 視 し ま す。 そ れ は、 本当に救われていくには何よりも まず浄土往生への信仰を確立する ことが大切だという宗祖の強い思 いがあります。   し か し 一 方 で、 お 釈 迦 さ ま は、 苦しみの最大の原因は「無明」で あると言われました。ものごとの 道理を知らないことから苦しみが 生まれる、と言われたのです。お 釈迦さまの言われるものごとの道 理 と は、 「 縁 起 」 で す。 も の ご と は す べ て 他 と 関 わ り 合 っ て お り、 な に 一 つ と し て 独 自 に は 成 立 せ ず、たえず移り変わってゆく。そ の状態を、固定的なものや絶対的 なものは何もない、 という意味で、 「 空 」 と も い う の で す。 空 と は そ こに何もない、という意味ではな く、目の前のものごとの、ありの ままの状態を指していったことば なのです。   空 の 智 慧 を 身 に つ け る こ と が、 無 明 の 闇 を 破 る に は 欠 か せ ま せ ん。 固定的な色メガネを通さずに、 ものごとのありのままの姿を、本 当の意味で見ることができるよう になれば、尽きない苦悩も少しは 減ってくることでしょう。    (備中里組浄心寺   津田明雅)   キッズサンガは「ご縁のある大 人たちが   すべての子どもと接点 を持ち   子どもとともに   阿弥陀 さまのご縁に遇っていこうとする

KIDS SANGHA

キッズサンガ

運動」です。750回大遠忌以降 は、特に「日常生活でのご縁づく り」 、「平素の法務、法要、行事で のご縁づくり」 を重点項目として、 ひき続き推進されております。   備後教区のキッズサンガの取り 組みとしては、これまでに組単位 で企画される「平和の鐘」や「夏 休み勉強会」などの行事が実施さ れ、 また、 教材としては「ぬりえ」 が好評を博してきました。   この度、教区キッズサンガ推進 委 員 会 で は、 「 日 常・ 平 素 」 と い う方向性を踏まえて、さらなる運 動 の 推 進 を は か る た め、 「 キ ッ ズ 袋」を作製し、既に各寺院にお届 け中です。ここでは、この袋の活 用方法のヒントをご紹介させて頂 きます。   まず、袋の表に、法語を載せて おります。   手をあわせ   「ナモアミダブツ」って   いってみよう   なんだか   こころが    おちつくよ   「ナモアミダブツ」 はほとけさま   かなしいときも   うれしいときも   さみしいときも     たのしいときも   いつもいっしょの   ほとけさま   だいじにおぼえておきましょう   「ナモアミダブツ」はね     ほとけさまなんだってこと…

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  必要最小限の文章量ではありま すが、子どもたち(周囲の大人も 含む)に伝えていきたい浄土真宗 の 教 え、 「 お 念 仏 申 す と こ ろ に、 阿 弥 陀 さ ま が す で に ご 一 緒 で あ る」ということを、あきらかにし ております。   次に、具体的な活用の仕方です が、単なる封筒ですので、そのま ま子どもたちに配布するのでは効 果はさほど期待できません。そこ で、   ①中に何を入れるか   ②どのような場面で子どもたち   に配るか について、順にご説明します。   中に何を入れるか?   中に入れるものは、基本的には 各寺院においてご用意頂くことに な り ま す。 ( 組 単 位 で ま と め て 発 注し、各寺院に配るのも良い方法 です)子どもに配るものであるこ と、また、ある程度の数が出てい くことから、おのずと単価の安い ものになろうかと思われます。教 区キッズサンガ推進委員で出た案 の中で、袋の中に入れるものとし て適当ではないかと思われるもの を、以下ベスト5で紹介します。   サマースクールや子ども会を開 催 し て お ら れ な い 寺 院 に お い て も、日常の法務の中で子どもと接 する機会があります。お礼参り等 で保護者につれられてお寺に来る 時や、ご門徒宅での年忌法要など です。   お寺にお参りにきた時   本堂や広間でお茶をお出しする ところに、事前に封筒に中身をい れて準備しておけば、いつでも手 渡すことができます。大人が話を している間も、それで遊んでくれ ます。   ご門徒宅での年忌法要の時   まず、法要前、お茶をよばれて いる時などに、子どもさんをつか ま え ま す。 そ し て、 「 こ れ か ら お つとめをするけど、さいごまでお 利口にしていたら、これをあげる からね。中身はヒミツだよ」と話 をして、中身の入った袋をお仏壇 に お 供 え し ま す。 お つ と め が 終 わったら、 「最後までよくがんばっ たね。これは阿弥陀さまからのお 単 価 は 約 二 十 七 円。 教 区 で お な じみの煎餅です。 単価はサイズにもよりますが、約三十円。しゃ ぼん玉同様、専門の小売店やネット通販で入 手可能です。大人のいるところで渡せば、す ぐに遊び方を子どもに教えてくれます。 単価は約 25 円。専門の小売店のほか、 ネット通販でも購入できます。小学校 高学年の子もよろこんで遊びます。特 にお寺の境内は、しゃぼん玉を飛ばす 格好の場所です。 えんぴつ、蛍光ペンなどの文具、ゴム風 船、あめ玉などのおかし‥。サマースクー ルや子ども会で記念品を渡す際にもキッ ズ袋を利用できます。

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さがりだよ」と言って袋を渡しま す。子どもが想像したものと違っ ていても、我慢した末におさがり をもらえた、という経験と記憶が 尊いご縁となっていくことでしょ う。   以上が「キッズ袋」の主な活用 方法です。封筒の中身も、渡し方 も 各 寺 院 の 自 由 で は あ り ま す が、 ( 6~9月 ) ( 6~9月 ) 9 月 2 日   賦 課 基 準 調 整 小 委 員 会 3 日   勤 式 練 習 会 4 日   ビ ハ ー ラ 実 践 学 習           ( ビ ハ ー ラ 花 の 里 病 院 ) 5 日   法 式 法 務 専 門 委 員 会 6 日   常 備 会 10日   平 和 の つ ど い           ( 福 山 リ ー デ ン ロ ー ズ ) 11日   教 堂 常 例 法 座 11日   広 報 伝 道 部 会 13日   公 聴 会 14日   中 四 国 真 宗 青 年 の つ ど い               ( ~ 15日   鞆 の 浦 ) 16日   東日本大震災現地学習会並     びに千鳥ヶ淵戦没者追悼法       要( ~ 18日   東 北 ・ 東 京 ) 20日   門 徒 推 進 員 念 仏 奉 仕 団               ( ~ 21日   本 願 寺 ) 25日   門 信 徒 部 会 26日   連 区 実 践 運 動 協 議 会                 ( ~ 27日   山 陰 ) 30日   賦 課 基 準 調 整 等 常 任 委 員 会 10月 1 日   連 区 青 年 布 教 使 研 修 会                 ( ~ 2 日   山 陰 ) 1 日   勤 式 練 習 会 2 日   仏 婦 寺 婦 実 践 運 動 研 修 会 キ ッ ズ サ ン ガ の 運 動 に、 「 組 内 全 寺院が申し合わせをし、各寺院が 支え合う」という方針があること から、中身や渡し方について組単 位で協議する機会を是非持って頂 きたいと願っております。組内共 通 の 取 り 組 み と な れ ば、 「 地 域 の どこへ参っても○○がもらえるら しい…」という口コミが広がるか もしれません。    

鞆の浦でブッセ~

    【 仏 青 連 盟 】 毎 年 一 回 行 わ     れる中四国ブロック真宗青 年のつどいが、備後教区担当によ り 9 月 14日、 15日 と 開 催 さ れ た。 舞台となる鞆の浦に中四国地区か ら仏青世代約 50名が集った。   この度は、教区仏青連盟では新 しく神田翔太委員長が就任し、教 区仏青の再スタートをとの思いで 企 画 し た 大 会 で あ っ た が、 教 区 内 若 手 僧 侶 た ち の サ ポ ー ト を 受 け、 盛 会 に 終 わ っ た。   沼隈南組善行寺 (熊 谷和順住職)を会場に、中村好孝 さん (岡山龍谷高校専務理事) と、 梵大英さん(三次組専法寺)が講 演。宿泊は、仙酔島に渡航し、国 民 宿 舎 に て 合 宿 気 分 を 満 喫。 翌 日 は 塩 つ く り 体 験 か ら オ プ シ ョ ン の カ ヌ ー、 遊 覧 船 な ど、 盛 り だ く さ ん の 大 会 となった。 ◀梵大英さん  

布教団たより

  【 布 教 団 】 備 後 教 区 布 教 団 は 2 年に一回の研修旅行を8月 21日か ら 23日まで2泊3日の予定で開催 した。今回は大谷光瑞(鏡如)上 人ゆかりの大分から博多へと回る コース。 13人が参加した。一日目 は 本 願 寺 鎮 西 別 院 か ら、 「 九 州 御 坊」と呼ばれ九州門末の崇敬を受 け て い た 四 日 市 別 院 へ 参 拝 し た。 次いで、別府市内の大谷公園を訪 問。この公園は昭和 23年 10月、鉄 輪温泉で遷化された大谷光瑞・第 22世 門 主 を 記 念 し て 設 け ら れ た。 園内には光瑞門主の業績を讃えた シルクロード探検隊の記念碑があ り、その遺徳を偲んだ。翌日は別 府 別 院 へ 参 拝 し、 大 谷 光 瑞 記 念 館 を 訪 れ た。 次 い で 他 宗 教 研 修 と し て 福 岡 県 久 留 米 市 の 浄 土 宗 大 本 山 善 導 寺 を 訪 問した。

News

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3 日   法 式 法 務 専 門 委 員 会 4 日   臨 時 教 区 会 7 日   岡 山 同 宗 連 研 修 会 8 日   中 四 国 仏 婦 大 会( 松 江 ) 9 日   三 者 懇( 広 島 ) 10日   特 別 布 教 大 会( 世 羅 真 行 寺 ) 11日   教 堂 常 例 法 座 12日   全 国 真 宗 青 年 の つ ど い               ( ~ 13日   熊 本 ) 15日   寺 族 婦 人 連 盟 三 役 会 18日   寺 族 婦 人 会 連 盟 役 員 会 19日   連 区 仏 壮 会 員 研 修 会                 ( ~ 20日   四 州 ) 24日   後 期 勤 式 研 修 会 25日   門 信 徒 の つ ど い 26日   門 推 連 区 実 践 運 動 研 修 会               ( ~ 27日   山 陰 ) 28日   僧 侶 研 修 会( 世 羅 組 善 行 寺 ) 30日   ビ ハ ー ラ ・ 門 推 合 同 実 践 学 習                       ( 藤 江 壮 ) 11月 6 日   ビ ハ ー ラ 備 後 役 員 会 7 日   中 四 国 講 社 ・ 講 員 研 修 会       ( ~ 8 日   か ん ぽ の 郷 庄 原 ) 11日   教 堂 常 例 法 座 12日   勤 式 練 習 会 13日   環 境 問 題 現 地 学 習 会                     ( 伊 方 原 発 ) 18日   法 式 法 務 専 門 委 員 会 26日   ビ ハ ー ラ 実 践 学 習  

各組同朋僧侶研修会始まる

  【 同 朋 社 会 部 】 こ の た び 備 後 教 区同朋部会におきましてテキスト 『 過 去 帳、 又 は こ れ に 類 す る 帳 簿 の開示問題に学ぶ』を作成し、各 寺院へ配布されました。そのテキ ストをもとに各組にて同朋僧侶研 修会が開催されております。教区 より各組へ講師を二名派遣し、僧

 

平和のつどい

  【 同 朋 社 会 部 】 第 18回 平 和 の つ ど い が 9 月 10日、 福 山 リ ー デ ン ローズにて開催された。参加者は 約240名。   全戦争犠牲者の追悼法要を菊池 宗城教務所長を調声に組の代表に よって勤められた。東北教区相馬 組善仁寺の杉岡誠住職を招き「全 戦争犠牲者を偲んで   平和を築く 道」~原子力災害の今~と題して 講演を行った。また、雅楽演奏な ども行われた。

 

台風で足止めも・・

   

福島県を訪問

  【 教 区 】 毎 年 9 月 18日 に 勤 修 さ れる千鳥ヶ淵(東京)の法要参拝 に併せ、福島県を訪問する2泊3 日の行程で団参を募り、 27名が参 加した。参加者の多くは、仏教婦 人会員、ビハーラ会員、総代世話 人、門徒推進員等、被災地の復興 支 援 に 思 い を 寄 せ る 面 々 で あ っ た。   台風の影響で途中約8時間の足 止めのため、初日の行程であった 福島県海岸沿いの見学がキャンセ ルとなった。しかし、 参加者の 「な んとしても現地に足を運んで様子 を見てみたい」との思いで、二日 目に東京を出発し会津若松市の沖 井玲爾本光寺住職のご案内により 仮設住宅を訪問。ここは、教区仏 教婦人会連盟で昨年度より支援活 動を行っている施設であり、各仏 教婦人会から送った Tシャツが仮 設住宅居住者によって見事に布わ らじに再生されている場所だ。案 内のもと作業風景と仮設住宅の現 状 を 見 学。 そ の 後 茶 話 会 を 行 い、 居住者の人たちとふれあった。 「震 災当初に比べると生活費や物資の 面ではだいぶ支援されてきた」と 居 住 者 の 方 は い う。 「 た だ、 福 島 に来て、 福島の現状を見てほしい。 今はそれが一番の願いですね」と いう言葉が印象的であった。   最終日は千鳥ヶ淵全戦争死没者 追悼法要へ参拝し、ハードなスケ ジュールではあったが、実りのあ る団参となった。   青年布教大会   布教団では8月 30日、御調東組 金剛寺(金岡親量住職)にて、青 年 布 教 使 ら 6 名 が お 取 次 ぎ し た。 出講者は、佐々木弘海(鴨川北組 照 専 寺 )、 福 間 玄 猷( 三 次 組 源 光 寺) 、 藤井義英 副団長(比婆組 西 教寺) 、苅屋光影 (深津組 光行寺) 、 大 塚 裕 玄( 奥 組 泉 瀧 寺 )、 岡 部 正 顕   (沼隈南組 南泉坊)※敬称略   特別布教大会   布教団では 10月 10日、世羅組真 行寺(是山宗憲住職)にて、布教 団員6名がお取次ぎした。出講者 は、 箱田義信(沼隈南組 西光寺) 、 法 宗 正 勝( 三 谿 組 明 玄 寺 )、 栗 原 一 乗( 世 羅 組 浄 楽 寺 )、 平 山 義 隆 ( 深 津 組 光 榮 寺 )、 千 葉 隆 誓( 芦 田 組 光 明 寺 )、 那 須 英 信 副 団 長 (沼隈南組 善正寺)※敬称略 侶や寺族を対象に過去帳やそれに 類する帳簿の取り扱いについての 学びを深め、個人情報保護などの 視点においても具体的な内容と対 応についての研修がすすめられて います。

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連区仏教壮年会研修会

  【 仏 壮 】 第 10回 第 4 連 区( 中 四 国)仏教壮年会員研修会が 10月 19 日、 20日と香川県丸亀市の本願寺 塩屋別院で開催された。当教区か らは石井輝美理事長ほか 30名の仏 壮 会 員 が 参 加 し た。 「 現 代 社 と 仏 教」というテーマで武蔵野大学教 授の山崎龍明師が講演された。                 ( 寿 園 ・ 相 扶 園 ) 29日   教 堂 報 恩 講 法 要 12月 4 日   仏 婦 連 盟 会 員 研 修 会 7 日   仏 壮 連 盟 役 員 会 10日   憲 法 問 題 に 関 す る 研 究 会 11日   教 堂 常 例 法 座 12日   布 教 団 三 役 会 13日   グ リ ー フ ケ ア に 関 す る 研 修 会 17日   布 教 団 役 員 会 20日   組 長 会 20日   賦 課 基 準 等 調 整 委 員 会 26日   第 4 回 真 宗 講 座 26日   広 報 伝 道 部 会

 

教区僧侶研修会

  【 広 報 伝 道 部 】 10月 28日、 教 区 の僧侶研修会が世羅組善行寺(真 澄慎一住職) を会場に開催された。 今年度の僧研は門戸を拡げる意味 で初めて福山の教務所以外の会場 をお借りしての研修会で 79名の参 加をいただいた。   講師には本願寺勧学の浅田恵真 (正博)和上を招き、 「叡山浄土教 の展開」という講題のもと、 午前 ・ 午後に分けて講義をいただいた。   和上によると、比叡山に伝わる  

原爆被爆者の声を聞く

  【 仏 婦 連 盟 】 仏 婦 連 盟( 三 島 当 子委員長)では、 10月2日寺族婦 人会連盟と合同で実践運動研修会 を開催。今回は呉原爆被爆者友の 会の樽本叡さんを講師に「被爆者 の一人として~平和を願う」と題 し て 講 演 い た だ い た。 参 加 者 は 120名。  

長期的な震災支援を継続

  【仏婦連盟】   今回の会員研修会 は、 12月4日三宮亨信師(仏教婦 人 会 総 連 盟 講 ) を お 招 き し、 「 震 災支援について」をテーマとし開 催した。午前の部において「①忘 れないで②長期的な支援とは」と いう2つの問題提起を受け、参加 者約140名が9班に分かれて討 議を行った後、午後、各班のまと め を 発 表 し た。 「 忘 れ な い た め に も、 情 報 に 耳 を 傾 け 続 け る こ と 」 「 現 地 に 足 を 運 ん で み ること」 「今 浄 土 教 は 大 き く 分 け て、 「 止 観 念 仏( 己 心 の 弥 陀 思 想 )」 と「 五 会 念 仏( 西 方 の 弥 陀 思 想 )」 の 二 つ の流れがあること、その浄土教が ときに混同されるなかで、どのよ うに展開して伝わってきたか、と いう内容を、天台宗の僧侶の方と の出会い・体験を通して、参加者 にも分かりやすく、かつ興味深く 講義してくださった。   また、恵信僧都源信の影響や宗 祖親鸞聖人の和讃の味わいなども 詳しく含めてお話しされた。   参加者からは「世羅で開催され たから、 近くて助かった」や、 「良 いご縁で勉強になった」という声 もあり、盛況につとまった。 し て い る 支 援 を 続 け て い く こ と 」 「 無 理 は せ ず、 で き る こ と を 続 け る こ と 」 等、 様 々 な 意 見 が あ っ た。今後も、教区仏教婦人会では Tシャツ送付の支援を継続してい く予定だ。  

今後の教化活動を模索

  【 門 信 徒 部 会 】 教 区 内 の 各 種 教 化団体や門徒推進員らが集い、 「こ れからの教化団体のあり方につい て 」( テ ー マ ) 考 え よ う と、 10月 25日、 「 教 区 門 信 徒 の 集 い 」 が 開 かれ、約 35人が参加した。今回の 集いでは、現在の寺院環境を見直 し、今後の教化活動を模索し、さ らに仏教の宇宙観について考えて みようと計画された。   集いは午前 10時に開会。午前 10 時 30分から、所轄の門信徒部会の 担当者より集いの願いを聞き、班 別に分かれてそれぞれの所属の寺 院 や 団 体 の 問 題 点 な ど 出 し 合 い、 活発に意見していた。   午 後 か ら は 元 国 立 天 文 台 台 長 で、 広 島 大 学 学 長 室 特 任 教 授 の 観 山 正 見・ 安 芸 教 区 長 圓 寺 住 職 を 講 師 に「 仏 教 の 宇 宙 観 」 に つ い て 研 修 を 深 め た。

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真 宗 講 座

 

会場 備後教堂

  

第 5 回 「起

きかんしょうしん

観生信」~仏さまの智慧と慈悲~

   とき 2014年2月 19 日(水)1時~4時

  

第6回 「選

せんじゃくほんがん

択本願」~法蔵菩薩の願心~

   とき 2014年6月4日(水)1時~4時

   ※ 6 月6日の予定でしたが法統継承式の為、

    4日に変更いたします。

インフォメーション

 

~皆様をお待ちしております~

 

環境問題現地学習会

  【 同 朋 社 会 部 】 第 10回 環 境 問 題 現地学習会が 11月3日、愛媛県西 宇和郡伊方町にて開催され、四国 電力伊方原子力発電所の視察、ま た地元で長年反対運動をされてい る近藤誠さん・斎間淳子さんらに お話を伺った。

 

講社講員研修会

  【 講 社 】 中 四 国 ブ ロ ッ ク 講 社 講 員研修会が 11月7日、8日と「か んぽの郷庄原」で開催された。当 教区からは三谿組最勝講から 24名 の講員が参加した。三次組專正寺 の深水正道師を講師に招きご法話 をいただき、本願寺からは和治教 文執行が基調講演を行った。  

報恩講を盛大に勤修

  【 備 後 教 堂 】 備 後 教 堂 で は 11月 29日、会奉行の勤式指導員(藤田 徹 信 ) を は じ め、 有 志 の 仏 華 会、 門 徒 推 進 員( 桜 田 淑 子 代 表 )、 雅 楽会(竹政信至会長) 、ボーモリー ズ(苅屋光子代表)等、関係者の 協力のもと、一大行事である報恩 講 法 要 を 厳 粛 か つ 盛 大 に つ と め、 教区内外より例年以上の約140 名が参拝した。   講 師 は 内 藤 昭 文 本 願 寺 派 司 教 で、 「 智 慧 と 慈 悲 」 と い う 講 題 で ご法話をされた。   併 せ て「 住 職 在 職 30年 表 彰 = 対 象 5 名 」「 住 職 在 職 50年 表 彰 = 対 象 1 名 」 「 90歳 僧 侶 表 彰 = 対 象 11名 」 が 行われた。  

さらなる宗門の

    

発展に向けて

  【 教 区 】 9 月 13日、 備 後 教 堂 に て松永大徳総務、 山下義円副総務、 他 職 員 3 名 出 向 の も と「 公 聴 会 」 が開催された。   次 年 度 に 執 り 行 わ れ る「 法 統 継 承 式 」 に つ い て の 報 告、 「 御 同 朋 の 社 会 を め ざ す 運 動( 実 践 運 動 ) に つ い て の 意 見 聴 取 が 行 わ れ た。 教 区 内 役 職 者 を 対 象 と し、 74名が参加した。

今後の予定

1月 8日   教務所仕事始め 11日   教堂常例法座 21日   門信徒部会 27日   得度のための講習会 2月 5日   同朋三者懇(尾道) 11日   教堂常例法座 12日   寺婦連盟研修旅行         (~ 13日   東京) 12日   勤式練習会 13日   矯正教化管区支部研修会          (岡山刑務所) 19日   第5回真宗講座 3月 4日   勤式練習会 11日   教堂常例法座

本願寺ご住職並びに浄土真宗本願寺派ご門主の法統継承式

6月5日(木)午後3時半

 

御消息発布式(於

 

御影堂)

 

※即如ご門主御消息

6月6日(金)

10時

 

法統継承式

 

第一部(法要)

(於

 

阿弥陀堂・御影堂)

 

引き続き

 

法統継承式(式典)

(於

 

御影堂)

参照

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