1.はじめに
ジョン・ロックが『人間知性論』(1690 年、以下『知性論』と略記)(1)で、蓋然性の探究のあり 方を主題として論じるのは、第4巻の後半である。そこでは、確実な知識とは区別された蓋然性の 例が、自然研究や歴史、地理的情報といった幅広い領域から挙げられているが、とりわけ「理性」 と「信仰」の問題を主題とした 18 章においてロックは、「理性」によって得られる確実な知識、「理 性」によってその蓋然性を見いだすべき「伝承的啓示」、そして「理性の上」の事物である「信仰問 題」を論じることにより、確実な知識とだけではなく「信仰問題」とも区別されたものとして、蓋 然性を位置付けている。そもそも本書の意図が、「人間の知識の起源と絶対確実性と範囲とを探究し、 あわせて信念・意見・同意の根拠と程度とを探究すること」であること(1-1-2)を考えると、本章に は『知性論』の重要なポイントが盛り込まれていると言えよう。 従来の研究ではフォン・ライデンが、信仰と理性の問題に対する見解を記したロックの日記を解 説する際に本章に触れ、「ロックの信仰と理性についての見解の源泉を正確に指し示すことは難しい」 と述べながら、グロティウス、カルヴァウェル、ボイルの名を挙げている(2)。なおその日記は、 1675 年から 79 年にかけての、ロックにとっては二度目となるフランス旅行中のものである。本書 (1) 但し実際には、1689 年 12 月に出版された(平野耿「年譜」、日本イギリス哲学会監修、田中正司・平野耿 責任編集『ジョン・ロック研究』[御茶の水書房、1980 年]、19 頁)。『知性論』のテキストは、An EssayConcerning Human Understanding, ed. P.H.Nidditch [Oxford University Press,1975]を使用した。本書からの引用
は、この巻-章-節の番号を( )内に表示する。邦訳は、大槻春彦訳『人間知性論(一)~(四)』[岩波文庫、
1972~77 年]を参照させていただいたが、引用にあたっては、変更させていただいた箇所もある。 (2) Essays on the Law of Nature, ed. W. von Leyden [Oxford University Press, 1988], p.273.
ロックにおける「信仰問題」とは区別された
「理性問題」の意義
―『人間知性論』と『論理学、別名思考の技法』及び
『プロヴァンシアル』との比較を通じて―
の『草稿 A』(3)は 1671 年に執筆されたので、1690 年と刊行年が記載された『知性論』が出版される までに 19 年かかっていることになるが、その間、その日記に見られるように、ロックが『知性論』 執筆の準備となるような思索を続けていたとすれば、彼にとってそのフランス旅行が第4巻 18 章の 主題となるものを考察する一つのきっかけになったということは、十分に考えられる。 ところでフォン・ライデンは先の引用箇所で、アントワーヌ・アルノーとピエール・ニコルの共 著『論理学、別名思考の技法』(1662 年、以下『論理学』と略記)(4)やブレーズ・パスカルの『プ ロヴァンシアル』(1656 ∼ 57 年)(5)には言及していない(6)。そもそも従来は、『知性論』第4巻 14 章以降で展開される蓋然性の問題を、『論理学』やパスカルとの関連から捉えようとする試みが、筆 者の知る限り、あまりなされてこなかったのである。とはいえ、ロックは『論理学』と『プロヴァ ンシアル』とを所蔵していた(7)。そして実はフォン・ライデンも、ニコルの『道徳論』と『知性論』 の特に第4巻 10 章との関係を主題とした別の論文では、ポール・ロワイヤルとロックとの関係が 1930 年代までにも指摘はされていたものの入念には研究されてこなかったと述べ、自身はニコルの 他に、パスカルが提起し『論理学』が引き継いだ問題や『パンセ』と、ロックの日記や『知性論』 との対比をも示している(8)。また彼の指摘以後では、ボノやウェイド、近年ではマッケンナ等が
(3)『草稿 A』のテキストは、Drafts for the Essay Concerning Human Understanding and Other Philosophical
Writings Vol.Ⅰ,Drafts A and B, ed. P.H.Nidditch and G.A.J.Rogers [Oxford University Press, 1990]を使用した。 (4)『論理学、別名思考の技法』のテキストは、Œuvres de Messire Antoine Arnauld, Tome 41[Sigismond D’Arnay
& Compagnie,1780]に収められている“La Logique ou l’art de penser” を使用した。以下、このテキストを L
と略記する。本書からの引用は、この略記号と頁数とを( )内に表示する。なお、本テキストは 1683 年の
第五版を基にしているが、諸版の異同については、La Logique ou l’art de penser , ed. P.Clair et F.Girbal, Seconde édition revue, Second tirage[Librairie Philosophique J. Vrin, 1993]を参照した。 邦訳は、宮原琢磨『哲学
基礎講読 0091』[日本大学通信教育部教材、1998 年]に収められている『論理学、別名思考の技法』を参照
させていただいたが、引用にあたっては、変更させていただいた箇所もある。
(5)『プロヴァンシアル』のテキストは、Pascal Les Provinciales Pensées et opuscules divers [La Pochothèque Le Livre de Poche /Classiques Garnier, 2004]に収められている“Les Provinciales”[éditées par G.Ferreyrolles , d’après l’édition L.Cognet]を使用した。以下、このテキストを P と略記する。本書からの引用は、この略記号と頁数
とを( )内に表示する。邦訳は、伊吹武彦・渡辺一夫・前田陽一監修『パスカル全集 第二巻』[人文書院、
1959 年]に収められている中村雄二郎訳『プロヴァンシアル』、及び田辺保訳『パスカル著作集Ⅲ、Ⅳ』 [教文館、1980 年]を参照させていただいた。なお引用にあたっては、特に中村訳を参照させていただいた
が、変更させていただいた箇所もある。
(6) W. von Leyden, op.cit., p.273. 但し、ロックによるニコルの『道徳論集』翻訳を解説した箇所では、ニコルの
紹介として『論理学』(共著)や『プロヴァンシアル』(ラテン語訳を担当)といった書名が挙げられている
(W. von Leyden, op.cit., p.252)。
(7) The Library of John Locke, ed. J.Harrison and P.Laslett, 2nded. [Oxford University Press, 1971], 『論理学』−
no.1803, no.1803a, p.178, 『プロヴァンシアル』− no.2030, p.191. なお、所蔵の『論理学』(フランス語)は第
4版であるが、本論文で使用しているテキストとの異同については、注(4)を参照。
(8) W. von Leyden, ‘Locke and Nicole ‐ The proofs of the existence of God and their attitude towards Descartes ‐’,
Sophia16, 1948, pp.41-55 (esp. p.42, p.48, p.55). なお、フォン・ライデンは本論文の 42 頁でパスカルが提起し
た問題として『真空論序言』(フォン・ライデンは 1647 年とする)冒頭を挙げ、それを『論理学』が終わり
の方で引き継いだと述べるので、この問題は『論理学』の最後の第4部で論じられる理性に基づく「学的知
識」と権威に基づく「信念」(例えば、歴史)との区別であると思われる(L354-355 及び 395-396 を参照)。
『パンセ』の読解によってロックに及ぼされた影響を指摘する(9)。さらにロックと『論理学』との関 係については、両者の観念の問題を取り上げた研究が近年行われている(10)。しかしそれらはいずれ も『知性論』第4巻 18 章の主題を、『論理学』や『プロヴァンシアル』との比較において考察した ものではない。そこで本論文では、『論理学』における奇跡の証言に対する理性の役割の問題や、そ の著者たちの影響を反映しているパスカルの『プロヴァンシアル』における「事実問題」と「信仰 問題」との区別という角度から、『知性論』第4巻 18 章の「信仰問題」とは区別された「理性問題」、 特に蓋然性の問題に光を当て、比較することにより、ロックが主張する蓋然性の探究における意義 の一端を見いだしていきたい。 以下では、まず『草稿 A』のうちに見られる「蓋然性」への言及が『知性論』のどの箇所に当た るのかを示し、『草稿 A』では既に、「蓋然性」が「事実問題」と「感官の発見を越えるもの」とに 分けられ、奇跡は前者に加えられていることを見る。次に、ロックがフランス旅行中につけた日記 の中に『知性論』第4巻 18 章のもとになっていると見られる記述があること、またその旅行中のロ ックと『論理学』や『プロヴァンシアル』との関係に言及する。その上で『論理学』や『プロヴァ ンシアル』を取り上げてロックの『知性論』との類似点と相違点とを検討し、前述の課題を考察す る。
2.
『草稿 A』の「蓋然性」
まず、『草稿 A』で「蓋然性」について述べられているのは、「蓋然性」にはさまざまな程度があ ること(32 節、4-15-2)、「蓋然性」の定義(33 節、4-15-3)と根拠(33 節、4-15-4)、事実問題に関 する「蓋然性」の程度(33 ∼ 36 節、4-16-6~9)、奇跡の本来の場合(37 節、4-16-13)、感官の発見 を越える「蓋然性」(38 節、4-16-12)、そして「正しくない同意」の原因を主題とする箇所である能な「知識」と事実問題や歴史に依拠する「意見」とが対比的に論じられている(An Early Draft of Locke’s
Essay together with Excerpts from his Journals, ed. R.I.Aaron and J.Gibb [Oxford University Press, 1936],
pp.116-118)。また国内の研究では、野田が特に神の存在証明を巡るニコルとロックとの関係を指摘している(野田
又夫『ロック』[講談社 人類の知的遺産 36、1989 年]、98-102 頁を参照)。
(9) G.Bonno, Les relations intellectuelles de Locke avec France [University of California Press,1955], esp. pp.59-62, pp.244-247. I.O.Wade, The intellectual origins of the French enlightenment [Princeton University Press, 1971], pp.485-509. A.Mckenna, De Pascal à Voltaire [The Voltaire Foundation, University of Oxford, 1990], pp.450-502.またロ ジャーズも簡単にではあるがニコルの『道徳論』と『パンセ』がロックによる人間の知識の範囲への考察に 及ぼした影響に触れている(G.A.J.Rogers, Locke’s Enlightenment [Georg Olms Verlag, 1998], pp.37-38.)。国内
の研究では、永岡が「イギリス「経験」論とジョン・ロック「政治」哲学」の中で『パンセ』に言及し、「心
情」を重んじたパスカルとロックとの類似性を示唆したエアロンに触れながら、ロックがパスカルの言う 「繊細の精神」の理解者であったと述べている(永岡薫、『聖学院大学総合研究所紀要』No.15[1999 年]、
127-130 頁、エアロンの示唆は、R.I.Aaron, John Locke (Third Edition) [Oxford University Press,1971], p.300 を参 照)。
(10) M.B.Bolton, ‘The Epistemological Status of Ideas: Locke compared to Arnauld’, History of Philosophy Quarterly Vol.9, no.4,1992, pp.409-424.
P.Schuurman, ‘Locke’s Logic of Ideas in Context: Content and Structure’, British Journal for the History of Philosophy 9 (3), 2001, pp.439-465.
(39~42 節、4-20-1~15)。ここで見られるように、事実問題の「蓋然性」の程度と感官の発見を越える 「蓋然性」とについては、『草稿 A』と『知性論』とでは、論じる順序が多少異なっている。『草稿 A』 では、事実問題の「蓋然性」を四つの程度に区別し(33 ∼ 36 節)、これに奇跡の本来の場合を加え (37 節)、その上で感官の発見を越える「蓋然性」の検討(38 節)へと移っているが、『知性論』で は、「蓋然性」には事実問題に関するものと感官の発見を越えるものという二種類があることをまず 認めた上で(4-16-5)、事実問題の「蓋然性」の四つの程度を検討し(4-16-6~11)、次に感官の発見 を越える「蓋然性」を考察し(4-16-12)、そして「事実の不思議さが、これに与えられる公正な証言 への同意を減じない一つの場合」として「奇跡の本来の場合」に言及する(4-16-13)。さらに『知性 論』の方では、『草稿 A』にはなかった次の節(4-16-14)で、「信仰」において「理性」が果たすべ き役割の問題に言及して 18 章を予告する。なお、『知性論』で展開された「蓋然性」の四つの程度 には、『草稿 A』33 ∼ 36 節になかった節が二つ付け加えられるが(4-16-10~11)、これらは伝承の証 言の「蓋然性」が低いことを論述した箇所であり、同じく『知性論』で展開された 18 章の「伝承的 啓示」の議論に関わるものである(11)。
3.ロックのフランス旅行
次に『知性論』第4巻 18 章のうち、前述のフランス旅行(1675 年 11 月∼ 79 年4月)中の日記 の記述が見られる箇所を挙げる。まず、1676 年8月 24 日の記事である。これは最初の一文が 18 章 1節に、残りの文は大部分が2節に組み込まれている。前者には、「私たちはどこまで理性によって 導かれ、どこまで信仰によって導かれるべきか」という表現が、また後者には、「信仰問題で理性の 上」や「信仰と理性の厳密な境」という表現が含まれる(12)。また翌 25 日の記事は前日よりはるかに 長文であり、その一部は5節の後半と 10 節の結びに組み込まれている。前者には、「信仰は、私た ちの知識に矛盾するどんな事物も私たちに承服させることがけっしてできない」と強調した部分が、 また後者には「知識の境界標」「理性の根底」という表現が含まれる(13)。ロックがこの時期に知識あ るいは理性と信仰との境界という問題で思索を深めていたことは、ここから読み取ることができる。 またこの旅行中の『論理学』との関係については、シュヒュルマンによると、ロックは『論理学』 のラテン語訳をフランスに行く前に既に読んでいたが、フランス語の原書の方はフランスで購入し たことが 78 年の日記に見いだされる(14)。そしてフォン・ライデン等が指摘してきたように、ロック は本書を高く評価する記述を 78 年3月7日の日記に残している(15)。ところで本書は、その著者たち 自身が「第一序説」で述べている(L110-111)以上に、パスカルの影響を色濃く反映した作品であ (11) なおロックは、「正しくない同意」の原因については『草稿 A』でかなり詳しく論じており、『知性論』で取 り上げられる四つの原因、すなわち、「証拠の欠如」(4-20-2~4)、「証拠を利用する技能の欠如」(4-20-5)、 「証拠を利用する意志の欠如」(4-20-6)、「蓋然性の正しくない尺度」(4-20-7~15)がここで既に検討されて いる。(12) W. von Leyden, Essays on the Law of Nature, p.275. (13) W. von Leyden, Essays on the Law of Nature, pp.276-277. (14) P. Schuurman, op.cit., p.450.
る(16)。パスカルやパスカルに関連する作品としては、ロックは前述の『プロヴァンシアル』(そのタ イトルは 78 年の荷物のリストにも見いだされる)(17)の他、『パンセ』の二つの版を含む数点を所蔵 していた(18)。『パンセ』はパスカルの死後、『論理学』の著者たちが編集し刊行した作品であるが、 『プロヴァンシアル』の方は、パスカルが生前、後述のように彼らを擁護しようとして彼らの協力を 得ながら執筆した作品である。したがって『プロヴァンシアル』は、『論理学』とは逆に、彼らの影 響や協力を反映した作品なのである。こうした事情に加え、前述のようにこの旅行でロックが理性 と信仰の問題の考察を深めていたならば、従来の研究が指摘する『パンセ』だけでなく、『プロヴァ ンシアル』で論じられる理性と信仰の問題にもロックが関心を寄せていたことは、十分に考えられ る。 ところで、前述のようにロックは『草稿 A』で「奇跡の本来の場合」を事実問題に加えていたが、 『論理学』においても、「事実の真理」という表現が奇跡の証言を論じた章に見られる。そこで以下 では、まず『論理学』から見ていくことにする。
4.
『論理学』における「事実の真理」としての奇跡
4 部構成の『論理学』の中で、証言が信念の根拠として取り上げられ、その吟味の方法が論じら れるのは、第4部である。そこではまず、どんな論拠も必要としない「直観知」や確実な論拠に基 づく「学的知識」と区別された権威に基づく「信念」(L354-355)が、さらに「神への信頼」に基づ くものと「人間への信頼」に基づくものとに分けられる(L395)。そして、「人間への信頼に依拠する(15) R.I.Aaron and J.Gibb, op.cit., p.107 に見られるロックの記述に基づくフォン・ライデン の指摘は、Locke and Nicole, p.42. 同様の指摘は他に例えば、G.Bonno, op.cit., p.93. また、マニュスクリプトに直接基づいた近年の 研究では、P. Schuurman, op.cit., p.450.
(16) 著者たち自身は「第一序説」で言及していないがパスカルの影響が見られる重要な箇所としては、例えば、 本書最終章の第4部 16 章(L408-412)で論じられる未来の出来事に対する確率の問題である。また塩川も、 本書には「そこかしこにパスカルとの思想交流の跡が刻まれている」と述べる(塩川徹也『パスカル考』
[岩波書店、2003 年]、157 頁)。
(17) J.Lough, ‘Locke’s Reading during his Stay in France (1675-1679) ’, in The Library 8 [The Bibliographical Society, 1953], p.245. また、J.Lough, Locke’s travels in France 1675-1679 [Cambridge University Press, 1953], pp.203-204 も参照。
(18)『パンセ』の二つの版とフイヨー・ド・ラ・シェーズの『パスカル氏のパンセについて』(Harrison and Laslett,
op. cit., no.2222, 2222a, no.2223, p.204)、確率の問題を扱った『数三角形論』(刊行年、蔵書とも 1665 年、
Harrison and Laslett, op. cit., no.2224, p.204)。また、ニコルの『王子の教育について』(刊行年、蔵書とも 1670
年、Harrison and Laslett, op. cit., no.2085a, p.195)と『道徳論集』(刊行年は 1670 ∼ 78 年、蔵書は 1671 ∼ 79
年のさまざまな版、Harrison and Laslett, op. cit., no.2040, 2040a, 2040b, p.192)とに収められた「大貴族の身分に
関する講話」は、パスカルが行った講話をニコルが再現してまとめたものである(Blaise Pascal :Œuvres
complètesⅣ, texte établi, présenté et annoté par J.Mesnard [Desclée de Brouwer, 1992], pp.1028-1034. 邦訳及び解説
は、塩川徹也訳『メナール版 パスカル全集 第二巻』[白水社、1994 年]、462-475 頁及び田辺保訳『パスカ
ル著作集Ⅰ』[教文館、1980 年]、255-265 頁、356-359 頁を参照)。なお、ロックは『道徳論集』のうち、
「神の存在について」「人間の弱さについて」「平和を保つ仕方について」を英訳している。ジーン・ヨルト
ンはその開始時期を、1675 年末か 76 年と推定する(John Locke as translator, ed. J.S.Yolton [Voltaire Foundation, University of Oxford, 2000], p.7)。
出来事への信念において、理性を正しく導くためのいくつかの規則」(L397)が、その 13 章で考察 される。そこでは、「一つの出来事を真であると判断し、これを信じるか否かを決める」ための規則 として、その出来事に伴う「内的事情」と「外的事情」とのすべてにわたって注意することが挙げ られる(L399)。「内的事情」とは「事実そのものに属するもの」、「外的事情」とは「証言によって 私たちを信じるように仕向ける人たちに関するもの」(L399)、つまり、証人に関する事情である。そ して次の 14 章で、この規則を奇跡の証言にも適用するべきことが主張される。『論理学』の著者た ちは、奇跡の証言に対する態度としては、「神の力と善意」といった「常套句」にとびついて「どん な奇跡にも疑いを差し控える人びと」も、また以下の「常套句」を用いて「自分たちにはすべての奇 跡を疑うだけの精神力が備わっている、と愚かにも思い込む人びと」も、「ともに間違っている」と 言う(L401)。後者の「常套句」とは、モンテーニュが奇跡の証言の伝承を語った次の一節である。 (前略)最初にこの不思議の発端に目を驚かした人びとは、その物語を触れ歩くうちにいろいろ の反対に出会うので、そのどこが人に得心させにくいところであるかを悟る。そしてその場所を 何かの嘘でふさぐ。最初に個人の間違いが大衆の間違いを産むと、こんどは大衆の間違いが個 人の間違いを産みだす。こんなふうにして奇跡という建造物は、手から手へとわたる間にいつの 間にか堂々たるものになってしまう。だから最も遠い証人が最も近い証人よりもそのことに詳 しくなり、最後に聞いた人の方が最初に見た人よりもそれを確信することになる。(L402) (19)。 この「常套句」に対し『論理学』の著者たちは、「この談話は正しく、またすべての噂話から身を 守るために有益であろう」と認めながら、「そこから、奇跡について話されるすべてを疑ってかかる べきだと一般的に結論するのは行き過ぎである」と述べる(L402)。彼らによれば、人間には、「ま ったく信用できない事物を信じる愚かな単純さ」もあるが、「狭い知性の限界を越えているものをす べて虚偽として非難する愚かな思い上がり」もあり(L402)、すべての奇跡を疑う人びとは後者に含 まれる。こうして彼らは、「すべての奇跡を信じるにせよ、また、これをことごとく否定するにせよ、 常套句によって結論するのは不合理である」ということ、そして「奇跡は、特殊事情と、報告する証 人の誠実と識見との両面から吟味されるべきである」ということを主張する(L403)。その上で彼ら は、アウグスティヌスが語った次のような奇跡を例に取り上げながら、前章の規則を適用する。 滞在中のミラノ市で実現した奇跡、一盲人の眼が開いた出来事は多くの人びとの知ることとな った。なぜならば、ミラノ市は大都会であり、当時皇帝がそこに居られ、殉教者プロタシウス とゲルヴァシウスの肢体のまわりに集まった大群衆がその奇跡を目撃したからである。(L403)
(19) モンテーニュからの引用は、以下のテキスト及び翻訳とも照らし合わせた。 Montaigne Œuvres complètes ,
ed. A.Thibaudet et M.Rat [Gallimard,1962], pp.1004-1005. 関根秀雄訳『モンテーニュ随想録 全訳縮刷版』
[白水社,1958 年]、1429-1430 頁。モンテーニュからの引用部分は、この関根訳を参照させていただいたが、
彼らがこの証言を信用する理由は、以下の二点にまとめられる(L404)。(1)公衆の面前で起き たことについて嘘をついたとしても、多くの目撃者によって嘘と立証されてしまい、嘘はキリスト 教の名を汚すだけであるから、賢明な人ならばわざわざ嘘をつくはずがない。(2)アウグスティヌ スほど、こと宗教に関して嘘を忌み嫌った人は他にいない。 まず(1)では、この出来事が多くの目撃者の前で起きたという「特殊事情」と、この事情の下で 嘘をついたとしても多数の目撃者により嘘と立証されてしまうという、この出来事そのものに伴う 「内的事情」とに加え、嘘はキリスト教の名を汚すだけであるという、賢明な人ならば理解している 前提が、証言の信用理由を構成している。このうち、最後の前提は、賢明な人には共通に理解され ている、ということであろうが、これは次章冒頭でその意義が強調される「共通事情」にあたるも のと考えられる(20)。したがって(1)では、「特殊事情」と「内的事情」と「共通事情」とが、この 証言に対する信用の理由を構成していると言える。但しその「共通事情」は、証人が賢明であるこ とを前提としている。そこで(2)では、アウグスティヌスという証人自身の信用性つまり「外的 事情」を、もう一つの信用の理由としてもちだす。とはいえ、ここではむしろ、アウグスティヌス に信頼を寄せる彼らの神学的立場にもかかわらず、(2)だけを信用の理由としていないところに彼 らの主張の意義がある。というのも彼らは、「出来事の諸事情はばらばらに分割されるのではなく、 総合的に吟味されるべきである」ことを強調し(L405)、次章であらためて、「共通事情」や「特殊 事情」をも吟味の対象にする意義を論じているからである。彼らは、このように奇跡の証言を受け 入れることを「事実の真理に関してなすべき判断」と表現し(L404)、奇跡についてであってもそれ が人間の証言である限り、各人が理性を働かせて、証人自身の信用性だけではなく、さまざまな事 情を勘案して受け入れるべきであることを主張する。
5.
『論理学』とロックとの比較
まず、『論理学』ですべての奇跡を疑う人びとの「常套句」として引用されたモンテーニュの一節 には、「奇跡という建造物は、手から手へとわたる間にいつの間にか堂々たるものになってしまう」 ので、「最も遠い証人が最も近い証人よりも詳しい」といった事態になることが述べられていた。こ れに対しロックも、伝承の蓋然性が低いことを『知性論』第4巻 16 章で強調している。但しそれは、 本論文の2節で言及した、『草稿 A』33 ∼ 36 節にはなかった二つの節(4-16-10~11)においてであ る。ロックはその 10 節で、「伝承が多くの手を次々に通れば通るほど、伝承がそうした手から受け 取る強さと明証はますます少ない」と述べ、さらに次のように続ける。 (20)『論理学』では、前章(13 章)の「外的事情」と「内的事情」の他に、出来事への信念の吟味において 「共通事情」や「特殊事情」をも考慮する意義が、次章(15 章)の冒頭から論じられる(L405-408)。但し 「特殊事情」という表現は既に本章に見られるので(L403,405)、これと対になる「共通事情」も、本章でそ の存在が前提されていると言えよう。千年前には最初の保証者と同時代の理性的な者にとって確からしいとまったく見えたことがな かったものが、今は、ただいく人かの人が最初の保証者から順々に言ってきたからというだけ で、あらゆる疑問を越えた絶対確実なことと力説される。こうした根拠で、そもそもの初めに は明白に虚偽あるいは十分疑わしかった命題が、蓋然性の逆の規則によって、拠り所のある真 理と通用するようになり、最初の作者の口からは信用をまず見いださない、あるいは、信用に まず値しないものが、時代を経るとだんだん尊ぶべきものになると考えられ、否定できないと 力説されるのである。(4-16-10) このように、伝承による証言の蓋然性が低くなるという問題の認識では、両者は共通している。 ところが『論理学』では、すべての奇跡の証言をこうした常套句によって疑うことを批判し、「特殊 事情」・「内的事情」・「共通事情」・「外的事情」を勘案して伝承による証言の蓋然性を吟味する ことで、「噂」と「奇跡」とを切り離すことを主張していた。一方『知性論』のここの引用も、蓋然性 の見極めのためには「勤勉・注意・正確が要求される」(4-16-9)例として取り上げられた箇所であ る。但し、ロックが伝承の蓋然性の低さを強調するこの 10 節と次の 11 節とにおいては、「奇跡」に 対する言及はない。彼は『草稿 A』や『知性論』でも「奇跡の本来の場合」を認めているので、『論 理学』の著者たちが批判する「すべての奇跡を否定する人びと」には含まれないが、「奇跡」を『論理 学』よりずっと限定していると考えられる。というのも、後述のように「奇跡」は彼の「信仰問題」の 核心と言えようが、『知性論』第4版(1700 年)に追加した第4巻 19 章では「理性」と「聖書」と を人間にとっての「誤りない規則」として強調するので(4-19-16)、『知性論』に限って言えば、ロ ックは「奇跡」を聖書に記されたものに限定しているように見えるからである(21)。 ロックが伝承による啓示を論じるのは、18 章である。まず、同章2節で「理性」を、「心がその自 然の機能を使って、言い換えれば、感覚あるいは内省で得ておいた観念から導きだすことによって到 着するような、そうした命題ないし真理の絶対確実性あるいは蓋然性の発見である」と定義した上 で、次の3節以下で、啓示と言われるものでもそれが「伝承的啓示」(4-18-3,4,6,10)であれば、「理 性」によって吟味するべき「理性問題」 (4-18-6,8,9) であるという主旨の論を展開する。では、「伝承 的啓示」が「理性問題」ならば、「信仰」はどのように定義されるのだろうか。ロックは同章2節で 前述の「理性」の定義に続けて、「信仰は、このように理性が導きだすことによって作りだされたの ではなく、ある尋常でない伝達の仕方で神から来たとする提出者の信用に基づいて作りだされた、 ある命題に対する同意である」と定義する。つまりこの「信仰」という同意においては、「ある尋常で ない伝達の仕方」が「神から来た」という信用の根拠である。またロックは、「事実の不思議さ」が 証言への同意を減らさない場合に言及し、「そうした超自然的出来事が、自然の経過を変える力をも (21) なお、『遺稿集』(1706 年)に収められた『奇跡論』の方では、「奇跡により立証されて現われる限られた啓
示とは、モーセとキリストの啓示である」と明言している(John Locke Writings on Religion, ed.V. Nuovo
[Oxford University Press,2002], pp.45-46、服部知文訳『キリスト教の合理性 奇跡論』[国文社、1980 年]、
つ者の志す目的に適する場合、その場合は、こうした事情のもとではその出来事が通常の観察を越 え、あるいは、これに反対であることがどんなにでも多ければ多いほど、出来事は信念を招来する にますます適すると言えよう」と述べ、これを「奇跡の本来の場合」とする(4-16-13)。こうしたこ とから、ここでロックは「信仰」を、「奇跡を行うことのできる者が提出する命題への同意」と定義 していると考えられる(22)。つまり『知性論』では、「奇跡」を行う者が提出する命題への同意に基づ くのが「信仰問題」である。 ところが前述の『論理学』で見たアウグスティヌスは、自ら奇跡を行うのではなく、『知性論』の 表現を借りれば、「言葉で、つまり私たちの想念を互いに伝える通常の仕方で」(4-18-3)奇跡を証言 する。そして、このように言わば人間の証言として伝えられる啓示を、『知性論』では「伝承的啓示」 と言う(4-18-3)。ロックによれば、他者証言は「理性」によって吟味するべき蓋然性の根拠の一つ なので(4-15-4)、彼の主張に従えば、アウグスティヌスの証言は「伝承的啓示」として「理性問題」 に含まれることになる。これに対し『論理学』でも、伝承による奇跡の証言に対して、常套句に頼 るのではなく、理性を行使して出来事や証人の諸事情を総合的に吟味するべきことが強調されてい る。塩川が指摘するように、確かにこうした主張は「正しさの根拠を神や教会の権威にではなく、 証言の信憑性に求めている」点で「合理的である」と言えるだろう(23)。そしてこの合理的側面に関 しては、人間の証言に対するロックの態度にも共通のものが見られる(24)。しかしながら、これを奇 跡の問題として見た場合、両者の間には大きな違いがある。『論理学』の方では、通常の他の証言と 同様の、理性による証言の吟味に基づいて、信仰の根拠となる奇跡(25)を信じる可能性が開かれてい るのに対し、ロックは、奇跡を「尋常でない伝達の仕方」であると捉え、これを聖書に限定したと 考えられる。つまり前者は、『知性論』の表現を用いれば、「理性問題」に含まれる「伝承的啓示」 によって「信仰問題」である奇跡を受け入れうると主張するのに対し、後者は「伝承的啓示」と「信 仰問題」とをまったく区別するのである。 (22) 服部は前注(21)で掲げた訳書に付した解説(249-251 頁)や以下の論文で、ロックの宗教思想において 「奇跡」が重要な役割を果たしていると述べている。「ジョン・ロックと宗教」、前掲『ジョン・ロック研究』、 261-286 頁。この点は、今後さらに検討したい。 (23) 塩川徹也『虹と秘蹟』[岩波書店、1993 年]、182-183 頁。また飯塚は、ジェズイットの規範文献であるイグ ナチオ・デ・ロヨラの『霊操』における「この私に白と見えるものが黒であると教会が決定するならば、われ われは常にそう信じる用意がなければならない」という規則との対比において、ジャンセニスムの事実問題 に関する「合理性」を指摘する(飯塚勝久『フランス・ジャンセニスムの精神史的研究』[未来社、1984 年]、 30-31 頁及び 136-141 頁、このロヨラの規則は、門脇佳吉訳『霊操』[岩波文庫、1995 年]、292 頁を参照)。 確かにこの点で両者は対照的で、『論理学』では例えば聖体の秘蹟においても、感覚によるパンの丸みや白 さについての「事実を曲げない報告」と「神的信仰」とは対立しない、と主張されている(L396-397)。 (24) 伊藤は、ロックが『論理学』から学んだのは「「プロバビリティー」が我々の認識の重要な部分を構成する ということである」と述べた上で、この学びによって、ロックは「プロバビリティー」という言葉を中世的 な「権威」に基づく蓋然性(換言すれば、宗教的な権威によって我々が依拠しうるものとして是認されている 意見)とせずに、論証的には確実なものになっていない「信念」あるいは「意見」という意味で用いた、と 示唆している(伊藤邦武『人間的な合理性の哲学』[勁草書房、1997 年]、3頁及び 30-32 頁)。 (25) 第4部 12 章では、「奇跡」そのものは、「私たちが信じるべき真理を私たちに啓示したのは神自身であるこ と」を信じるように強いる「十分な証拠」であるとされている(L396)。
ところで、ロックにおいてはこのように、奇跡は「信仰問題」であり「理性問題」と区別された が、それらはいずれも「事実問題」である。また『論理学』では、理性による吟味を通じた奇跡の 証言の受容を、「事実の真理に関してなすべき判断」と表現していた。著者の一人アルノーは、当時 関わっていた宗教論争で「事実問題」と「権利問題」の区別という論法を用いたので、この表現もま た、「事実問題の真理」を意味するものと考えられる。そしてこの論争でアルノーを擁護し、各人の 感覚や理性に基づく問題と聖書や教会の決定によって判断する問題との区別を「事実問題」と「信 仰問題」との区別という形で表現したのが、パスカルなのである。
6.パスカル『プロヴァンシアル』
アルノーとパスカルとをつなぐポール・ロワイヤルは、当時コルネリウス・ジャンセニウスの思 想を支持するジャンセニスムの拠点と見なされていた。1653 年、ジャンセニウスの著作を要約する ものとして告発されていた五つの命題が異端宣告を受けると(26)、アルノーは、「権利問題」として教 皇が五つの命題を異端として決定することはできるけれども、「事実問題」としては、それらの命題 がそのままの形で、ジャンセニウスの著作の中には存在しないという反論を提出した。しかし 1656 年1月、これが退けられると、当時ポール・ロワイヤルの人びとと親交を温めていたパスカルが、 アルノー擁護のため『プロヴァンシアル』の執筆を開始し、翌 57 年1月には第 17 の手紙を、さら に同年3月には第 18 の手紙を、森川の指摘によればアルノーからの影響を受け、またアルノーやニ コルの協力を得ながら執筆し続け、「信仰問題」と「事実問題」との区別を主張することになる(27)。ま ず、第 17 の手紙でパスカルは、さまざまな事例を引き合いにだして次のように述べる。 教会は神の権威により信仰問題を決定し、これを受け入れるのを拒む者はすべて破門しますが、 事実問題に関しては、教会は同じように神の権威を用いることはないのです。その理由は、わ れわれの救済は、われわれに啓示され、伝統によって教会中に保たれている信仰と密接に結び ついており、神によってはまったく啓示されない他の個別的事実によるものではないからです。 (中略)それ故、信仰問題の決定にあっては、神はその過つことのない霊の助けによって教会を 導かれるのですが、一方事実問題にあっては、神は教会が元来その審判者である感覚と理性と (26) 但しこの教皇インノケンティウス 10 世による宣告では、五命題が異端であるとされたものの、五命題と著 作との関係は必ずしも明確に規定されていない。『プロヴァンシアル』の執筆に至る経緯については、特に 以下の文献を参照。塩川徹也、前掲『パスカル考』、191-200 頁、森川甫『パスカル『プロヴァンシアルの 手紙』−ポール・ロワイヤル修道院とイエズス会−』[関西学院大学出版会、2000 年]、93-98 頁及び 105-106 頁、田辺保『パスカル伝』[講談社学術文庫、1999 年]、288-337 頁(特に 288-290 頁及び 332-337 頁)、宮原 琢磨「アルノーの生涯とポール・ロワイヤル修道会」、前掲『哲学基礎講読 0091』、23-35 頁。 (27)『プロヴァンシアル』執筆開始後の 1656 年 10 月、新教皇アレクサンデル7世が五命題をジャンセニウスの 意味において断罪することを明確に打ちだした新勅書を発布し、ジャンセニスムの立場がいっそう悪化する 中で、第 17 及び 18 の手紙は書かれた。前注(26)で挙げた塩川、森川、田辺、宮原の諸文献を参照。本文 中で触れた森川の指摘は特に前掲 106 頁。なお、田辺は前掲 333-337 頁で、第 17 及び 18 の手紙を執筆した 当時のパスカルにおける、アルノーやニコルとは異なる独自性にも注目している。によって振舞うにまかせておられるのです。すなわち、信仰に関して教会に教えを垂れうるの は神のみですが、命題がその著書の中にあるか否かを知るためには、ジャンセニウスを読むよ りしかないのです。(P582-583) パスカルはこうして、問題の五つの命題がジャンセニウスの著書にあるか否かは「信仰」が関わ らない問題、すなわち「事実問題」であるとし、「事実問題」は「感覚と理性」に基づくと主張する(28)。 また次の第 18 の手紙では、以下のようにも述べている。 もしも超自然的事物に関してなら、われわれはこれを感覚と理性とによってではなく、聖書と 教会の決定とによって判断するでしょう。もしも啓示された命題でなく自然的な理性にふさわ しい命題であれば、理性がその本来の審判者でありましょう。そして最後に、事実問題ならば、 当然その認識に当たるべき感覚を信頼することになりましょう。(P614) ここでは、聖書と教会の決定とによって判断する「超自然的事物」という「信仰問題」の他に、 「事実問題」の審判者とされていた「感覚と理性」が二つに分けられ、「感覚」の方に「事実問題」 という表現が当てられている。これは、「信仰」、「理性」、「感覚」が「それぞれ別々の対象をもち、 その領域内ではそれぞれ確実性を有する」(P613)ことを強調するためであるが、同じ手紙でこれに 続く以下の引用では再び「神の言葉」と「感覚あるいは理性」とを並べて、それら「二種類の真理」 は一致する、と主張するのである。 たとえ聖書であれ、そのある叙述の逐語的な、文字どおりの意味が感覚あるいは理性の確実に 認識するところと相容れない場合には、感覚あるいは理性を否認し、それらを聖書の外面的な 意味の権威のもとに屈従せしめようとしてはならないのです。むしろ、聖書を解釈して、そこ にこの感覚的真理と一致する他の意味を求めなければならないのです。なぜならば、神の言葉 は、事実そのものに関して過つことなく、感覚や理性による報告もそれぞれの働く領域では確 実であるが故に、この二種類の真理は一致しなければならないからです。聖書は多様に解釈し うるのに対して、感覚の報告するところは一様ですから、この問題においては、聖書の正しい 解釈として感覚の事実を曲げない報告と合致した解釈をとるべきです。(P614-615) 以上のようにパスカルは、「信仰問題」と「事実問題」とを区別しながら、聖書の解釈ですら感覚 (28) ル・ゲルンは、これが『真空論序言』(ル・ゲルンは 1651 年とする)でパスカルが展開した「権威」による 学問と「感覚あるいは推論」による学問との対比に基づくものであることを示唆する(Pascal Œuvres
complètes Ⅰ, ed. M. Le Guern[Gallimard,1998], p.1272.)。またパスカルにおける「権威」を巡っては、塩川が 前掲『パスカル考』の、特に 85-99 頁及び 143-167 頁で論じている。これらはパスカル解釈としては重要な ので、今後の課題の一つとしたい。
や理性を用いて行う「事実問題」の確実な認識と一致するべきであると述べる。まして、ジャンセ ニウスの著作に問題の五つの命題が存在するか否かは、感覚や理性を用いてその書物を読みさえす れば決着がつくような「事実問題」である。「この世のありとあらゆる権力をもってしても、権威に よって事実問題を承服させることは、いわんや変更させることはできません」(P616)、と主張する パスカルにとって、この問題は、教会が神の権威を用いる性質のものではないのである。
7.
『プロヴァンシアル』とロックとの比較
まず、パスカルが感覚と理性を「事実問題」の根拠にしている点を、『知性論』第4巻 18 章の 「理性」と比較しよう。前述のようにそれは、「感覚あるいは内省で得ておいた観念から導きだすこ とによって到着するような、命題ないし真理の絶対確実性あるいは蓋然性の発見である」(4-18-2) と定義されている。つまりロックにとっても、「理性問題」は「感覚と内省」の働きによるのであり、 この点はパスカルの「事実問題」と同じである。次に、パスカルは感覚や理性もそれぞれの領域で は確実性を有することを主張し、聖書の解釈にあたっても感覚や理性の確実な認識を否認するべき でないことを述べる。これに対してロックも、「信仰は、私たちの知識に矛盾するどんな事物も私た ちに承服させることが決してできない」と言う(4-18-5)。「知識」は前述の「理性」によって獲得する ものであるが、「神のみ業の最も卓越した部分すなわち私たちの知性」(4-18-5)と表現するロックに とって、「理性」もまた「神」に由来するものなので、それを覆すことは、「神」が「滅びゆく獣より 光の少なく、指導の少ないような状態に人間を置く」ことになってしまうのである(4-18-5)。この ようにロックは、「理性」の働きに独自の確実性があることを主張し、これと矛盾するものは認めな いという点でも、パスカルと同様である(29)。またパスカルは、聖書そのものは信仰問題としながら、 その解釈の多様性を認めている。一方ロックにとっても、前述のように聖書は理性とともに「誤りな い規則」であり(4-19-16)、啓示に述べられている言葉の理解は理性の役割である(4-18-8)。そして 実は、やはり『草稿 A』にはなかった『知性論』第3巻の一節では、聖書そのものに誤りはないけ れども、読む者はその理解で誤りやすいという問題を指摘し、自らの解釈の押し付けを自制するよ う、注意を促している(3-9-23)。 最後に、両者の相違点を挙げる。パスカルにおいては、超自然的な事物は聖書と教会の決定による とされていた。これに対しロックも、前述のように「奇跡」を認め、「死者が再び立ち上がって、生き るであろうこと」が「理性の発見を越えているので純粋に信仰問題であり、理性は端的にはこれと無 関係である」と述べて(4-18-7)、理性を越える超自然的な事物の存在を認めるが、そうした「信仰問 題」に対して教会の決定をもちだすことはない。パスカルにおいて教会の決定が「伝承によって伝え られる教会の正式な決定−たとえば普遍公会議の議決事項、教皇の勅書等−の総体を指す」(30)とすれ ば、ロックにおいてそれにあたると考えられるのは「伝承的啓示」である。というのも、ロックによ (29) なお、ここで 18 章5節から引用した三つの表現は、本論文3節で述べたようにフランス旅行中の日記の中 に既に見られる。 (30) 塩川徹也、前掲『パスカル考』、155 頁。れば「信仰」は「ある尋常でない伝達の仕方」を信用の根拠とする「同意」であるが(4-18-2)、「伝 承的啓示」の方は、「言葉で、つまり私たちの想念を互いに伝える通常の仕方で」他の人びとに伝え られるからである(4-18-3)。したがって、パスカルにとっては「信仰問題」であった教会の決定が、ロ ックにとっては「理性問題」となる。前節で見たように、パスカルにとって「われわれの救済は、わ れわれに啓示され、伝統によって教会中に保たれている信仰と密接に結びついている」 (P582-583) の であるが、ロックにおいて理性を越えた「信仰問題」に関わるのは、聖書だけである。
8.結び
本論文では、『草稿 A』にはなく『知性論』で展開された箇所と、『草稿 A』の後のロックが理性 と信仰の問題について思索を深めた時期に接した『論理学』や『プロヴァンシアル』とを比較した。 まず『論理学』との比較から確認しよう。両者の類似点としては、伝承による証言は蓋然性が低く なるという問題の認識が挙げられる。そこで両者は、伝承による証言を鵜呑みにするべきではない という主張では一致する。しかし、『論理学』では理性による証言の吟味を奇跡についての証言にま で適用し、これに基づいて奇跡を信じる可能性が開かれているのに対し、『知性論』では、「伝承的 啓示」を理性によって吟味するべき証言すなわち「理性問題」とする一方で、奇跡を「理性問題」 とは異なる「信仰問題」として扱う。ロックは奇跡を聖書に限定していたと考えられるのである。 このように、両者には奇跡の範囲において違いが見られた。また『プロヴァンシアル』との比較で は、両者が、感覚や理性はそれ自身の領域では独自の確実性を有するのでその確実な認識を否認す るべきではないと主張している点と、聖書の解釈は多様でありうることを認めている点とで、類似 している。しかし、『プロヴァンシアル』が教会の決定や伝統を「信仰問題」に含めているのに対し、 『知性論』ではこれにあたるものを「伝承的啓示」と呼び、それを「理性問題」として「信仰問題」 とは区別している点に違いがあった。 どちらにおいても、信仰の領域に踏み入る前に、伝承による証言や書物の解釈の蓋然性を、まず 理性によって吟味するべきであると主張している点には、類似が見いだされる。ロックが両著作に 接した時期を考慮すれば、『知性論』第4巻 18 章の、特に蓋然的な「理性問題」の考察におけるそ うした類似点に関しては、両著作からの示唆が認められる、と言えるだろう。これにより、従来は 十分な注目を浴びてこなかった『論理学』やパスカルとの関係において『知性論』成立の一つの契 機を見ることも、可能になると思われる。 しかし一方で、奇跡や教会に対する態度では両者に相違が見られた。前者は「伝承的啓示」によ って奇跡を受け入れるのか否か、後者は教会の決定や伝統を「信仰問題」とするのか「理性問題」 とするのか、という相違である。どちらも、ロックが「信仰問題」を限定し、言葉で伝達された「伝 承的啓示」を「信仰問題」とはまったく異なる「理性問題」と見なしたことから生じたものである。 もっとも前者では、『論理学』においても、アウグスティヌスによる奇跡の証言への吟味の仕方に見 られるように、人間から人間へ言葉で伝達される証言に対する態度としては、証人の信用性を証言 受入れの根拠に加える一方で教会の権威には訴えない、という合理的検討が示された。これに対し後者では、教会の権威に依拠した「伝承的啓示」が問題である。ここではロックとパスカルや『論 理学』との相違をより鮮明に捉えるため、話題を後者に絞ろう(31)。なお、教会の権威に依拠する 「伝承的啓示」には、『論理学』の著者たちも、理性にではなく信仰によって臨む。彼らは、「信仰問 題において、普遍的教会の権威は完全に決定的である」(L347)と述べ、教会の権威に離反しない限 り過ちに陥らないことを主張する(L347)。『論理学』の著者たちやパスカルにとっては、言葉によ る伝承であっても、教会の権威に依拠する「信仰問題」ならば過つことはないのである。これに対 しロックは、「理性もしくは聖書がある説あるいは行動を明確に是とする場合、私たちはこれを神的 権威をもつものとして受け入れてよい」(4-19-16)と述べ、神の権威は認めながらも、教会の権威を 「伝承的啓示」や「信仰問題」への対応において依拠すべきものとは見ない。確かに『論理学』やパ スカルは、聖書と教会の権威とに依拠する「信仰問題」の他に、理性を行使すべき「事実問題」の次 元を置いた点で合理的であったが、ロックは彼らの言う「信仰問題」から教会の権威を外し、その 権威に依拠する伝承を理性が探究の労をとるべき言語伝達の問題とした。ここに、ロックの蓋然性 の探究における意義の一つがあると考えられる。 (たきた やすし・日本大学非常勤講師)
The Significance of Locke’s ‘Matter of Reason’ :
Locke, the authors of La Logique ou L’art de Penser and Pascal on Reason and Faith Yasushi Takita
The similarity between Locke and contemporary French thinkers is that both assert that the realm in which reason should play an active role must be distinguished from that in which things can be considered as a matter of faith. The difference between them, on the other hand, lies in their views on the traditional revelation based on the authority of the church: Locke considers the revelation to be a matter of reason because it relies only on the words that lead to the probable interpretation, while the French thinkers treat it as a matter of faith because they believe the authority to be entirely decisive. Thus, this paper is an attempt to reveal the significance of Locke’s matter of reason as contradistinguished from his matter of faith.
(31) 権威を巡るロックと『論理学』やパスカルとの相違という問題認識は、一ノ瀬正樹氏との議論の中で深めら れるきっかけを与えられた。記して感謝したい。