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近世における近江商人外村宇兵衛家の経営
上 村
雅 羊 享 はしがき 1) 近江商人の個別経営については,これまでかなり研究が押し進められ,わ れわれも松前に進出し場所請負などで活躍した八幡の西川伝右衛門家・岡田 弥三右衛門家や高崎に支店を設けた市田清兵衛家の経営について分析して 2) きた。ここでは,神崎郡五個荘の外村与左衛門家の分家として独立し,江戸 等に支店を設け,呉服・太物町回を取り扱った外村宇兵衛家の経営について 見てみることにする。 外村宇兵衛家については,すでに宮本又次氏によって家訓・店則が研究3) 4)
され,『近江神崎郡旧稿』などにおいても簡単な紹介が行なわれている。ま 1>江頭恒治『近江商人中井家の研究』(雄山閣,1965年),丁吟研究会編『変革期の商人 資本一近江商入丁田の研究一』(吉川弘文館,1984年),西Jllnt男「元禄・享保期におけ る前期的資本の動向一近江日野の豪商,正野玄三家の場合一」(京都大学『史林』第42巻 第5号,1959年9月),末永国紀「第一次大戦期の近江系商人資本の動向一織物問屋・丁 P今の場合一」(京都産業大学『経済経:営論叢』第23巻第1号,1988年6月),同「両大戦 間期の近江系商人資本の動向一織物問屋・丁目の場合一」(同第23巻第2号,1988年9月) などの研究がある。 2)拙稿「近江商人西川伝右衛門家の松前経営」(滋賀大学経済学部附属史料館『研究紀要』 第18号,1985年1月),同「近江商人岡田弥三右衛門家の経営」(同第19号,1986年3 月),同「近江商人市田清兵衛家の経営」(1)(2>(同第21号・第22号,1988年3月・9 月)。 3)宮本又次「近江商人の店制について一外村宇兵衛家の場合一」(『経済史研究』第22巻 第2号,1939年8月)。 4)大橋金造『近江神崎郡志井』下巻(滋賀県神崎郡教育会,1928年)460∼462頁,江南 良三「外村家の一族」(『湖国と文化』第44号,1988年7月)92∼94頁,滋賀県教育会編 『近江人物志』(文泉堂,1917年)557∼558頁。168 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 第1表 外村宇兵衛家の歴代当主 代 名前 生年月日 死亡年月日(享年) 法号 相続期間 備 考 初代 嘉久 安永6・正・26 文政3・8・7(44) 道養 享和元∼文政3 外村与左衛門第6 自浄秋の末子 2代 元成 文化5・3・3 明治23・12・27(83) 豪然 文政11∼明治7 長浜町宇野五郎左 衛門の二男,嘉久の 長女みほと婚姻 3代 元明 天保14・9・20 明治39・5・20(64) 了然 明治7∼明治38 外村宗兵衛義信の 四男,元成の養子 4代 一 Y亭 明治8・1・23 昭和13・9・11(63) 亨然 明治38∼昭和13 元明の長男 5代 元孝 明治29・3・19 昭和56・4・7(83) 和郎 昭和13∼昭和56 元亨の義弟分家外 村吉太郎の長男,明 治41年元亨の養子 となる 6代 孝 昭和6・2・6 昭和56∼ 元孝の次男 (註)「外村氏家乗資料 天」(外村宇兵衛家文書)などよD作成。 5) た,最近では『五個荘町史資料集1』において,外村与左衛門家・外村宇兵 衛家・外村市郎兵衛家の家訓・店則が明らかにされ,外村家一族の研究が大 いに進められることとなった。さらに,外村宇兵衛家の雇用形態については, 安政3年(1856)∼明治42年(1909)の店員名簿を中心に用いてすでに明らか ’6) にしたのであるが,本稿では雇用形態だけでなくできる限り近世における外 7) 村宇兵衛家の経営全般にわたって検討を加えたい。特に,本家である外村与 左衛門家との関係や支店の設置などに注意しながら見て行くことにする。 1 外村与左衛門家との共同経営 8) 初代外村宇兵衛嘉久は,第1表に見られるように,近江国神崎郡金堂村の 近江商人外村与左衛門浄秋の末子として,安永6年(1777)正月26日に誕生し 5)五個荘町史編集委員会編『五個荘町史資料集1一近江商人外村家の家訓・店則集成一』 (滋賀県神崎郡五個荘町,1989年)。なお,外村与左衛門家については『創業280周年記 念誌』(外与株式会社,1980年),外村市郎兵衛家については『創業百十年史』(外市株式 会社,1973年〉の社史がある。 6)拙稿「近江商人外村宇兵衛家の雇用形態」(滋賀大学経済学部附属史料館『研究紀要』 第23号,1989年9月)。 7)なお,外村宇兵衛家の明治以降における経営等については,別稿を予定している。 8)初代宇兵衛嘉久については,「初代宇兵衛嘉久略伝」(外村宇兵衛家文書)という小冊ノ
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 169 た。浄秋は,外村与左衛門家の6代目として,享保7年(1722)8月3日に誕 生し天明4年(1784)7月13日に死亡するまで,享保19年生まれの妻刻意との 間に第2表のように男子8人と女子4人をもうけた。第2表から明かなよう に嫡子・五男・六男・七男・十男・十一女は,いずれも誕生後間もなくある いは幼年で死亡し,しかも二男は,嫡子死亡後与左衛門家の7代目後継ぎと され,実際2年間与左衛門の名跡を継いだが,天明5年(1785)10月24日に33 歳の若さで死亡した。そのため与左衛門家には,四男の与三郎と十二男の与 \子が,昭和44年i嘉久の150回忌に際して編纂された。それは,簡潔にまとめられており, (ノう 次に紹介しておこう。「嘉久翁は外村宗家第六与左衛門浄秋の第八男として安永四年一月 二十六日近江国神崎郡金堂村に生る。幼名を与市と云ふ。生れて入下馴中秋に削る。寛 政四年十六歳にて首服し宇兵衛と称す。享和元年新居を金堂村字中村の地に相して分家 し,享和二年位田村(現在の竜田)松居久右衛門の日なみと結婚す。時に翁二十六歳な み十八歳なり。文化九年長女美保出生文政十一年二世宇兵衛元成の配となる。文化十一 年長男宇蔵出生全十三年天乱す。文化十四年次女わゑ出生天保三年残す。因に嫡室なみ 女は二十六歳にして病妓せられしか,松居久右衛門夫妻嘉久翁後室につき懇篤に配慮せ られ,位田村小杉甚右衛門娘はな女を養女として貰ひ受け,名を浪と改め後室として嘉 二二に配せしめらる。翁は享和元年新宅へ引移られ,婚儀も首尾よく済ませられし事を 先祖高恩の賜を深く感銘され,宗家伝来記を手写せられしに継ぎて左の遺訓を手記せら る参考のために之を録せん。一御公儀御法度の趣堅く相守可雪下事,一信心決定して目 出四二遂報土往生事,一親子兄弟中むつましく暮し可申事,右の条々堅く相月可申もの 也,享和四布子年二月十二日,法名道養俗名外村宇兵衛花押。分家せし後も宗家よりの 懇請に依り,文化九年迄宗家と共同出資して関東呉服京呉服近江布大和木綿類を仕入れ, 之を京阪地方尾州名古屋方面へ売捌き,利益は之を三つ割にして三分の一は宇兵衛之を 収得し,残り三分の二は本家へ憎むることとせり。文化十年宗家の許しを得て独立して 営業することとなりしが,宗家の商権を犯すを慮かり堺紀州に主力を注ぐこととし,京 都にて緋縮緬,墨筆,帯地等を仕入れ始めて和歌山に赴く。同地の呉服屋年行司国分屋 助次郎大和屋五兵衛両氏の格別の御好意に依り,同業十三店へ廻状被下初商内目出度成 立す。爾来家業に精励し独立営業後僅か入年なるに既に資金の数十倍を致し富豪の列に 入れり。嘉久性仁慈に富み,文政元年干与左衛門と謀り金二百両を領主郡山侯に献じ, 年々米十三石の下附を請ひ貧民施与の料となす。又郷里の道路橋梁を修築し公益を計れ り。翁又資性孝順にして温情篤く,ために日戸其至情に頼りて常に翁の新居に起居せら れたり。母氏高齢となられ歩行難i渋せらるるや其意を受け,町明を背に負ひて仏寺に詣 で,或は法話を筆録し帰りて床頭に之を述べらるる等観る者をして感歎措く能はざらし めたり。斯くて母氏は,文化十三年八十三の高齢にて自宅にて残せらる。翁は母氏残後 益々家業に励みしが文政二年十月風邪に罹りて床に就き,一時快方に向ひしが文政三年 入月七日齢四十四歳にて逝去す。法名を道養と云ふ。」とある。
170 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 第2表 6代目外村与左衛門浄曲の実子 続柄 生年月日(浄秋の年齢) 死亡年月日(享年) 幼名 備 考 嫡子 宝暦元・11・3(30) 宝暦元・11・19(1) 二男 宝暦3・8・12(32) 天明5・10・24(33) 与吉 替名惣十郎,2年間7代目与左衛門名 跡を継ぐ 三女 宝暦5・12・9(34) 文化13・正・26(62) そひ 当村長治凛防へ縁付 四男 宝暦8・10・10(37) 文政5・7・20(65) 与市 替名与三郎二成致別宅候得共,惣十郎 死亡二付本家ヲ納メ,通り名与左衛門 と相成相続有之もの也,8代目与左衛 門となる 五男 宝暦11・2・19(40) 宝暦11・3・8(1) 六男 宝暦13・5・28(42> 明和4・閏9・8(5) 与七 七男 明和2・10・2(44) 明和4・閏9・19(3) 与八 八女 明和5・5・23(47) 文化12・8・17(48) さわ 北町屋村太郎兵衛方へ縁付 九女 明和7・10・3(49> 寛政7・6・13(26) とひ 当村増右衛門方へ縁付 十男 明和9・11・9(51) 安永3・正・8(3) 長吉 十一女 安永4・9・3(54) 安永4・9・15(1) 十二男 安永6・正・26(56) 文政3・8・7(44) 与市 十六才二て元服いたし,替名宇兵衛也 (註) 「一番 先祖代々伝来記」・「外村氏家乗資料 天」(外村宇兵衛家文書)より作成。 母は,いずれも享保19年生まれ,位田村久五郎家より嫁いだ後妻の強意で,文化13年に 83歳で没している。 市の二入だけが残されることとなった。与三郎は,別宅していたが,二男の 惣十郎が死亡したため天明5年与三郎28歳の時与左衛門家を相続することと なった。四男の与三郎が,与左衛門家を襲名したのは,与市が9歳の時であ った。この四男の与三郎と十二男の与市が,後に第8代目外村与左衛門得候 と初代外村宇兵衛嘉久である。このように多くの兄弟のうちわずかに男子は 二人しか残されず,与市は第2表に見られるように父浄秋が56歳の時の子供 であり,しかも兄与三郎とは年齢が20歳近く離れていた。 父浄秋が,兄惣十郎等に末子与市のことなどを託した書置を与市が寛政3 年(1791)に偶然発見し,それを次のように書き留めている。 書置御事 上包に親浄秋様御染筆とあり 一親子兄弟中能く,上を恐れ下をあはれみ,御年貢上納専一之事 一与市未為幼年,兄惣十郎に随ひ,商売渡世随分精に入レ,兄之仰少も違背仕間 敷事
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 171 一与市年廿八歳に成迄,兄惣十郎一所二暮らし,廿入春より身上五ケ年之間仕分 け相訓言申事 一与市家一軒蔵一ケ所,手廻りの諸道具相添虚脱渡候,道具一ツ而も私二持間敷 事 一昨□商元手何程相判,高ハ其時の持高之内十五石二仕分可申事 右之趣急度相等,博変好色酒宴不実半商垣壁ハ・右元金之内勘定引立可国構,息、 災にて精二入相働き申候は・其時の身上宜く取計頼一二,為後日書置二七件(以 上浄秋湿ノ筆) 書前之事 一当年私儀渋紙細工仕婦選,此書置之書付御座候処,何とも不存渋紙のやぶれた る所へ張り,ふと私の目に相見え候二巴,是は何かと思ひ,工事得者加様墨書 付,夫故一度張り候事二候得者少々やぶれ田町,先ハ右之通り為書階下斯候, 恐惇 9) 寛政三辛亥年五月下旬 与 市 この書置には,年代が記されていないが,天明3年(1783)に惣十郎が家督 を相続し,同4年に浄秋が死亡するまでのものと考えられ,わずか7∼8歳 9)「外村氏家乗資料 別記第一」(外村宇兵衛家文書)。外村宇兵衛家には,「外村氏家乗 資料」の「天」「地」「人」「別記第一」「別記第二」の5冊の外村家の家史が存在する。 その成立については,「外村氏家乗資料」の「緒言」に「大正八年,外村宇兵衛元亨君, その曾祖嘉久翁一百年の忌辰に丁るによりて,外村氏二関する家乗を輯録し,記念とし て之を同門の本文諸家に配ち,以て報本反始の一端に資せんとの意あり,諸を予に諮は る」とあり,また前掲「外村宇兵衛嘉久略伝」の元孝の「自序」に「嘉久翁の百回忌法 要が勤まったのは大正六年で,父は非常に感激し,此法要を記念するため,家乗資料の 編纂を思ひ立ち,古文書を提供して国文学者大橋金造氏に之を委嘱した。氏は苦心の末, 外村氏家乗史料天地人三編と資料別記第一第二の二編を完成された。」とある。「外村氏 家乗資料 天」は,緒言と外村四五(外村与左衛門家・外村宗兵衛家・外村宇兵衛家・ 外村市郎兵衛家)の系譜・年表がまとめられている。「外村氏家乗資料 地」は,外村与 左衛門家,「外村氏家乗資料 人」は,外村宗兵衛家・外村t兵衛家・外村市郎兵衛家に ついて,それぞれ各当主ごとにほぼ年代を追って示す編年史料集になっている。年代は, いずれも明治初年頃までとなっている。「外村氏家乗資料 別記第一」は,外村宇兵衛嘉 久と元成,「外村氏家乗資料 別記第二」は,外村宇兵衛元明の事跡について,それぞれ 関係史料を掲載している。嘉久については,ほぼ年代順に配置されているが,元成と元 明については家庭・商業・公務・寺院等の内容ごとに分類されている。これらは,いず れも「外村氏家乗資料 人」とかなり重複する部分が見られる。本稿も,これらの家乗 資料を大いに参考にした。
172 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) である与市の行く末を惣十郎に指示している。そこでは,28歳まで惣十郎と 生計を共にし,28歳になれば独立させるように述べている。ところが,浄秋 が託した惣十郎は,天明3年に33歳で死亡し,四男の与三郎が天明5年28歳 で家督を相続することとなり,彼が第8代与左衛門としてわずかに一人残さ れた男兄弟である十二男の与市の成長を見守ることとなった。 10) そして,与市が16歳で元服して宇兵衛と改名するに至り,しだいに宇兵衛 を独立させる準備がなされた。まず,別宅の準備として,「寛政九丁巳年普請 11) 二而,同年九月十七日棟上ケ」「土蔵,二間二三間」とあるように,寛政9年 (1797)には土蔵が,また「寛政十年午三月五日棟上ケ」「住家,東向,しこ ろひさし,桁行五軒半,はり三間」「表北ノ方三問半之内下問ピサシ,残りハ まなかひさし,南コマ壱問ひさし,但し庭ノ上,西裏目ワ壱間ひさし,北コ マまなかひさし,但しトコノ上,廊下六畳敷一間二三間,水回二間二三間半, 12) 井戸有」とあり,翌年には住居も建:設された。寛政10年12月には,「位田村久 13) 右衛門三三,宇兵衛妻に約束仕候,世話人位田村次郎左衛門殿」とあるよう に,神崎郡位田村の著名な近江商人である松居久右衛門家の娘との婚姻が約 束されており,享和2年(1802)には予定通り松居久右衛門家の娘なみと結婚 したようであり,「享和二壬三年,宇兵衛義二十六歳二相成候二丁,位田村久 右衛門殿娘なみどの嫁に取り,二月三日祝言二三而中村之新屋二住居させ申 14) 候,尤も新屋移りハ旧冬候」とある。そして,「此中村新宅江享和元辛丁丁引 移戌春婚儀も首尾能相調候事,誠先祖御高恩冥加至極難有仕合,依而本家御 10) 「一番 先祖代々伝来記」(外村宇兵衛家文書)。この史料の前半は,寛政9年までの 外村与左衛門家の記録を享和2年に外村宇兵衛嘉久が写したらしく,「右之通本家与左衛 門方記録有之候故写置申候,以上,享和二壬戌年五月十日外村宇兵衛廿六才書之」とあ る。後半は,享和3年∼文化10年における宇兵衛家に関する記録すべき事柄を引き続い て書き綴ったものである。 11)前掲「一番 先祖代々伝来記」。 12)前掲「一番 先祖代々伝来記」。 13)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。 14)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。
近世における近江商入外村宇兵衛家の経営 173 第3表 享和2年の外村与左衛門家よりの分与地 字 地目 面積 高 宛口 宇流川南縄本 上田 1反2畝27歩
1石8斗6升7合
1石8斗5升
直田南6二反目 上田 9畝29歩1石5斗9升5合
1石7斗
下反田縄本 上田1反7畝5歩
2石4斗2升8合
2石5斗
宮之前ゑん畠 中畑 1畝10歩1斗2升
庵之後南6弐反目 上田 9畝26歩1石5斗7升8合
1石6斗
平木北之縄本 上田 2反2畝18歩3石4斗5升6合
3石6斗
柳北縄本 上田 1反 6歩1石6斗3升2合
1石7斗
上石井 上畑 27歩9升9合
1斗8升
中村屋敷 居屋敷 1斗 計12石8斗7升5合
(註) 「一番 先祖代々伝来記」・「外村氏家乗資料 人」(外村宇兵衛家文書)より作成。 15) 代々御相続御染筆有之候記録通りヲ其儘二写置候,一々心を付可有披言雨候」 として,宇兵衛はこの度の婚儀が順調に調ったのを先祖の御陰であると感謝 して,本家与左衛門家の次のような「掟」をここで改めて写し取り,肝に銘 じた。 16) 掟 一御公儀様御法度之趣堅相守可申候事 一信心決定して目出度可遂報土往生事 一親子兄弟中むつましく暮可申事 右之条々堅相守可申もの也 享和四甲子年二月十二日 法名道養 俗名外村宇兵衛(花押) 二十八才 また,中村屋敷を含めた本家与左衛門家からの分与地については,第3表 に示したように享和2年に高12石8斗7升5合を譲り受けている。しかも一 筆を除いていずれも上田畑であった。土地以外にも,宇兵衛は商売元手金を 次のように本家から譲り受けている。 一元手金壱千両 但文字金也 15)前掲「一番 先祖代々伝来記」。 16)前掲「一番 先祖代々伝来記」。174 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 右加勢享和元酉冬従本家譲受難有頂戴仕,猶此金子者本家t]1預ケー所二商売仕候 処年々儲高三ツ割壱分我等方へ貰ひ弐分ハ本家へ納申候,依之有金高者別紙の書 17) 付申候也 すなわち,元手金1,000両を与左衛門家より譲り受けたが,まだ宇兵衛は25 歳であり,これで宇兵衛家としていきなり独自の商売を行なうのではなく, この1,000両を本家に預け,本家と共同で商売を行ない,利益の3分の2を与 左衛門家,3分の1を宇兵衛家のものとすることとなった。それでは,本家 の与左衛門家はどれだけの金額で宇兵衛家と共同で商売を行なったのであろ うか,次に見てみよう。 型 疋 与左衛門分 一文銀五百貫目 但六十匁金立二而 宇兵衛へ譲り銀預り分 一同 六十貫目 同断 惣高合五百六十貫目也 三内算用方仕来りの通,此銀子二て商内取引利分帳 面の内 利〆高三ツ割 ニツ分与左衛門 一ツ分宇兵衛 但年々入用早目身持仕,留分の内請取払可申事 右図通割合二而戌亥子丑寅年迄五ケ年之間一緒二何角出精相働き,両家共相続可 三三二様専一二存候,尤も召抱人於有之者,右利分之内にて相渡し可申候,猶又 五ケ年過候節ハ預り銀六十貫目井三ツ割一ツ分通利分五ケ年之問,都合銀高勘定 相済可申候,然上者此方取引先故障無之候様二随分商売大切二相働可被申候,為 後日傍而如件 享和二年壬戌正月 与左衛門 宇兵衛殿 此通証文一通宇兵衛へ遣し置 すなわち,外村与左衛門家500貫目と宇兵衛家60貫目の共同出資による事業 経営を行ない,その利益の3分の2を与左衛門家が,3分の1を宇兵衛家が 取り,その費用は各家が三分より負担するというものであった。共同事業の 期間は,享和2年(1802)より5年間としたが,次のように5年が過ぎた文化 17>前掲「一番 先祖代々伝来記」。 18)前掲「外村氏家乗資料 地」。
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 175 第4表 享和2年∼文化9年の外村宇兵衛家の利益額 年代 年間利益額 期末資産額 享和元 60貫 2 15貫84匁5分 75:貫84匁5分 3 17貫653匁 92貫737匁5分 文化元 15貫419匁5分 108貫157匁 2 16貫183匁6分 124貫340匁6分 3 18貫777匁4分4厘 143貫118匁 4厘 4 27貫278匁1分 170貫396匁1分4厘 5
39貫66匁3分4厘
209貫462匁4分8厘 6 27貫894匁5分 237貫356匁9分8厘 7 27貫890匁 4厘 265貫247匁 2厘 8 51貫859匁9分 317貫106匁9分2厘 9 42貫147匁7分 359貫254匁6分2厘 計 299貫254匁6分2厘 (註) 文化11年3月「干網勘定帳」(外村宇兵衛家文書)より作成。 4年(1807)にはさらに継続する旨申し合わせている。 一我等錐致分家候,本家と一所二商売仕候事廿六才より三十才迄之積二御座候へ 共,今暫本家と一所二可致旨,則兄与左衛門様御申故,随仰三春よりも是迄同 様之筈二二 19) 文化四丁卯二月十四日書 すなわち,享和2年より5年聞の約束で与左衛門家との共同事業を行なっ ていたが,その期限が切れる文化3年になっても事業が順調であったため, 文化4年に入ってももう少し共同事業を続けることを与左衛門家の方から申 し出てきたのである。したがって,享和元年から2年にかけて別宅を設け, 元手金を譲り受け,嫁を取り,土地も譲り受け,宇兵衛家として分家したと はいえ,商売に関してはまだ本家の傘下にあったのである。それでは,本家 の方から共同事業の継続を申し出たほど宇兵衛の経営手腕は卓越したもので あったのか,享和2年から後述するように独立した経営を行なうようになる までの11年間の年々の利益は第4表のようであった。この表によれば,毎年 19)前掲「一番 先祖代々伝来記」。176 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 15∼50貫目程の利益を上げ,しかも利益は年々増加する傾向にあった。文化 9年(1812)には享和元年に譲り受けた元手金60貫目が359貫余にまで増加し たのである。 この間,文化7年(1810)6月23日には,宇兵衛の妻なみが26歳で病死 20) した。そこで,「継室浪女,実父位田小杉甚右衛門娘はなと申者也,掬此方な み妙善事也,六月廿三日に相果候故,後妻を入れさせんと舅久右衛門夫婦懇 篤に御世話藤下,此甚右衛門娘はな女を七月廿三日に久右衛門の娘に貰ふ約 束して,弥々八月十三日二引取り,久右衛門夫婦之中の娘として名を浪と改 21) め,此方継室二相成下」とあるように,後妻として神崎郡位田村の小杉甚右 衛門の娘はなを亡くなった妻の実父である松居久右衛門の養女として貰い, 松居家の娘として外村宇兵衛家に嫁がせることとなった。「後妻之儀彼是相談 仕丁処,三等三十入才,此もの継室三三候様松居久右衛門殿御仲人門下, (文化7年) 22) 則同年十一月三日二貰申候」とあり,文化7年(1810)11月3日に結婚した。 II 外村与左衛門家からの独立 このように文化7年には宇兵衛も34歳になり,後妻も貰い,いよいよ与左 衛門家から独立して事業を行なうようになるのであるが,そこに至る状況を 次の史料により見てみよう。
_騰寵日本三三左衛門6私へ回申鷹致分家候より+_三二も及籍瓢
別段二商ひいたしてハ如何と也,即答如何様二も思召通り二可仕候,何様茂兵 重三兵衛も成人被致民間,来春6別段二商ひ相始語中申候,夫有付いつ方へ何 ヲ売申候而可然哉と三脚所,尾州名古屋ハ従来本家6絹布共売二参野間,望地 へ参候而ハ六二宜かるまじく候ヘハ,大坂6紀揚辺ハ如何でアロと与左衛門6 被申二二付,然ハ其趣可仕候と申,夫6京二て緋ぢりめん板/帯地山相 簿辮二紀州直川三三屋大和屋此三軒へ下し置明テ文化+年三先回迄 登り申候所,大坂本町弐丁目布屋一郎兵衛殿と掛人懇意二而此はなし合仕候 20)前掲「外村氏家乗資料 天」。 21)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。 22)前掲「一番 先祖代々伝来記」。近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 177 所,呉服物紀州表ヲ第一とせず大坂表ヲ第一として,堺等へ取組候方自然と御 相談被下,尤成儀と承知,則紀州ヘハ京物送り置候得とも,先大坂取引先キ厚 頼入申候処,いつれも皆御ひいき二上州もの沢山二御注文被成下,さてさて嬉 敷,併若山へ罷こし彼御三軒へ頼乍下直も売付,早速下り可一存候所,不向之 品もアリ,勿論押付万口御早馬時下候,tR々弱り,直川屋へ色々相頼相談押印 所,国分屋大和屋年行事二筋様相頼,呉服屋へ廻状貰ひ売出し満て売捌事当然 候と素面下,其訓諭両家へ頼入候所,早速御承引被下候,国分屋二て御廻文御 認一二下二月三日二呉服中内大工町宇治屋長蔵殿方へ御寄六下,代呂物直立仕 候而十日迄二不残売捌申候,尤初而之事故,乍不引合相片付候而上州もの注文 平坦受候,猶帰国して,昨年御酒文之直川屋布類荷造等差登,三月五日6関東 へ罷下り大坂堺若山御注文物相調追々差登口候,三ケ所共無御故障皆々相馬当 23) 春よほどの金高商ひ仕候 すなわち,文化9年(1812)の11月20日に,与左衛門より分家してから11年 にもなるので,文化10年より独立して商売をしてはどうかと勧められた。宇 兵衛は,その通りであるが,それではどこから何を売ればよいのかと尋ねた。 与左衛門によれば,尾州名古屋は本家の商圏であるので,それと重複するの はよくないので,大坂から紀州辺りで商売をするのがよいであろうとのこと であった。そこで,宇兵衛は,同年の冬には早速京都で緋縮緬板締帯地等を 仕入れ,紀州へ下したが,呉服物は紀州表を第一とせず大坂表を第一として, 堺等へも取組むべきであるという大坂の布屋一郎兵衛の助言により,まず大 坂の取引先に行き上州物の注文を受け,和歌山では年行司の世話によって全 部売り捌くことができ,上州物の注文も受けた。そして,宇兵衛は,急いで 関東へ下って,大坂・堺・和歌山の注文を仕入れ,無事差し登せ,かなりの 利益を得たようである。 文化10年には,外村家が上州奥州で仕入れた絹布を問屋外であるのに京都 の松阪屋へ売り捌いたという京直売一件が起こった。そこでの結論は,10月 2日掛,「東御奉行佐野肥後守様6被門渡候趣」として,次のようなものであ った。 百姓宇兵衛,百姓之間々二上州奥州へ罷下り,絹布買調持上り,五条高倉東へ入 23)前掲「一番 先祖代々伝来記」。
178 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 松坂屋とみ手代新兵衛へ右品々与左衛門之名前ヲ以売捌段,問屋外二てハ売捌事 不相有段御触之儀も不存候だん申せとも,年来町屋へ取引いたす上ハ存間濃墨無 之,存せさるの言訳立かたく,不將分付過料銭申付ル五貫文 右回通被仰付候,則過料銭五貫文奉差上候而帰村,金堂御役所様へ下之趣奉申上 24) 候 結局,五貫文の過料で許されたのであるが,その過程では与左衛門家と宇 兵衛家に関する尋問が九月に京都の番所で行なわれ,そこでは与左衛門家と 宇兵衛家の関係や商売の仕法など興味深いやりとりが見られたので,次にそ れを見てみよう。 与左衛門代久兵衛を一人歩呼出しにて,金堂村与左衛門代久兵衛,与左衛門の商 売は何する,百姓でござります,其百姓斗か,又外二商売ハ如何,関東へ下り麻 ≠f絹幹候也,さて家内何人,七人と答ふ,商売向者皆宇兵衛取斗仕事と久兵衛6 申上げれは,其時宇兵衛これへと御召にて,御尋には商売ハ如何,百姓,商ひも するか,上州麻井樹幹或ハ奥州二平絹等買入申候,其方ハ松坂中へ絹類売申候 か,如仰色々売ました,何々の品ぢや,碇とも覚えませぬが先小川平絹入平等売 申候,代銀は二三十〆匁も売申候事か,イや銀子にてハ売出中品金子にて,然れ は其代金ハ凡何程の者ぢや,確とは覚不申,両度斗にて凡七百両斗,但五六十両 の違ひハ難斗,其品数ハ何程,是パー向存不陸候,金子の処ハ積りも有之,労あ ら眠覚居候回申上申,此度此松坂屋へ売候事尋ぬるは今般問屋共6依頼,松坂屋 直買致せしを御国味なれはなり(中略),掬与左衛門と宇兵衛とは同居か,当春よ り分家仕候,然らば松坂屋へは誰の名前にて商ひ致せしそ,誰の名前と申事口無 之,現金二受取候事故,仕切も書付も不仕候網代単物と引かへ仕候ま・先方二て 与左衛門と記帳か宇兵衛と記され候哉不奉存候へ共,其名前には不拘皆商ひハ宇 兵衛支配仕候,スリや商ひ旧辞与左衛門の商にて宇兵衛ハ支配人と一身ぢや,商 ひ体ハ右申した通関東絹類京は何方へ遣し候哉,吉兵一正みの忠わたや等へ差遣 し申候,然らば松坂屋へ売るにも不及所,直段が格別違ふか,さのみ違ひ二丁も 無勢,問屋にては直二金二ならぬか,随分内金も借ります,尤問屋定りハ代呂物 遣し売立口せん致勘定,仕切金受取申候筈でごさります,右荷物はどうして登 す,江州へ一旦取り夫よりほうぼうへ遣る哉,飛脚ハ近きと申所へわたし,問屋 へ直入りも有り,調帯私宿へ向け登せ,私上京候節仕訳けて,此問屋へ是,彼問 屋へ是と勘弁之上夫々の問屋へ出し下馴(中略),其方の辺にも年商ひ致す者ある 24)前掲i一番 先祖代々伝来記」。
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 179 か,ごさります,どういふ者共じゃ,先日野八幡と申あたりハ第一,関東辺二店 を持ち酒屋十一質屋商売杯致し,数多金銭も取扱ひ絹類下直の折を見合居,買付 けてハ京問屋衆へ被差登候,是等ハ定而利分も得可申と存候,我ハ関東にて買物 するには金ハどうするじゃ,近き便に下し升,上州にてハ買物してから金をやる 25) のか,一両も貸しては呉不申,皆現金にて候ヘバ私金子三下ります事もござい升 (下略) また, 然処与左衛門と宇兵衛ハ別々かと御尋被三三旧故,与左衛門之商ひヲ宇兵衛支配 仕候三二て別こてハ無御座,与左衛門ハ病身もの故一向旅行不仕,皆宇兵衛引受 聖明候段申上候ヘハ,スリや与左衛門ニハ商ひハ皆問屋へ出し売捌事と存居候 26) 事,宇兵衛支配二て相斗外へ回申候(下略) すなわち,そこでは宇兵衛は文化10年春より与左衛門家から分家したが, 与左衛門が病身であるので,与左衛門家の商いであるが,宇兵衛が支配人と して商売を取り仕切っている旨を述べた。また尋問の中で,与左衛門や宇兵 衛等の近江商人が百姓として把握されていること,外村家の商売は関東で麻 ・絹類,奥州で平絹等を買い付け,それを江州・京等へ離せて販売し利益を 得ていたこと,関東絹類は現金で仕入れ,その金は自分で持ち下ることもあ ること,関東で仕入れた商品は問屋へ直接送ったり,一旦近江へ激したり, 京都の早早へ寄したりして,そこから各問屋へ送ったこと,日野・入事には 関東辺りに出店を持ち,酒屋・質屋などの商売を行なう者が多くいることな ども明らかになった。 さらに,宇兵衛はこの事件に関して,与左衛門に対し後に次のような釈明 を行なっている。 一文化十癸酉正月より本家与左衛門より商売向支配退役自身商売相始メ申候,然 者京御番所様6御尋三時も一緒と可申候様無之三二御座三三とも,宇兵衛支配 27) 人と仕三三ハ本家方手軽ク相二二程愚案より前回三三二相斗候 25)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。 26)前掲「一番 先祖代々伝来記」。 27)前掲「一番 先祖代々伝来記」。
180 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263一号) 事件のあった文化10年には,宇兵衛は文化10年正月に与左衛門家の支配人 を退役して,与左衛門家から独立して商売を行なっていたというのが正確で あったが,支配人であったとする方が与左衛門家に少しでも迷惑が掛からな くなるのではないかと考え,そのようにしたというもので,本家と分家との 関係がよく表れているように思われる。また,当時病身の与左衛門と37歳の 宇兵衛との関係を見れば,宇兵衛は退役したとはいえ,与左衛門家にとって 彼は実質的には未だ支配人の地位にあったと見てよいであろう。 それでは,独立後略兵衛家の商売は順調に進んだのであろうか。次の史料 によって見てみよう。 一当家商売之儀,文化十年酉春野本家別段相始候以御蔭相応商売相続仕難有奉存 候(中略),然処母老年に及ハせられ御身躰不自由,其上眼病耳ハ遠ク何等御難 儀之次第故,我御側に居て御介抱可致処,他国商売随分旅行せよと老母よりの たまい候而,我も不快故遠国へ罷越事ハ相川京都迄ハ度々罷走,其外近国遠国
取引之翻孫兵衛を差向韻共三関綴直撃至鯛妙明々と老の御つか
れにて何となく御よわり給ひ,既十一月廿入日より御町気重目処,我事京都よ り十二月三日二帰り候処,(中略)翌四日辰刻御往生ましまし候由,我茂竹中公 の御療治に依而痔疾ハ治まる也,老母を送りし故思儘に遠国他国江商売に趣て (文化14年) も不苦,則丑春より京大坂堺紀州東国者上州武州野州へ専馳廻り商売致候,尤孫兵衛難聴膿縮迄五四半之間支配いたし即処鍛退役為致武州甲
州織物商売相野候,我も一両年之処ハ大方全快とハ申なから,下地の疾血折々 吐何となく心細く,我名跡相続人村内より養子致野心かけケれとも,是ぞと思 ひ尽る人も見得す,兼而養子ハ急く事なかれと老母御存命のうちに仰られける 28) 故,時節有へしと待居たり 宇兵衛は,文化11年夏1814)より病気を患らい,また母が老年であったため 遠国へは自分では出かけず,出かけても京都辺りまでとし,近国や遠国の取 引は甥の孫兵衛を差し向けて売買を行なっていたが,文化13年12月4日に母 が83歳で死亡し,宇兵衛の病気も回復したので,翌年から京都・大坂・堺・ 紀州・上州・武州・野州を駆け巡り,精力的に商売を行なった。そして,文 28) 「二 記録」(外村宇兵衛家文書)。この史料は,文化12年∼文政元年の宇兵衛家に関 する事柄について書き留めたものである。近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 181 政元年(1818)には孫兵衛に対し武州・甲州の織物に関する商圏を譲ったもの の,自分の健康にも不安を抱き,養子を:貰うことについて考えるようになっ た。宇兵衛には,文化9年生まれの長女みほ,同11年生まれの長男道善(幼名 , x 宇蔵),同14年生まれの次女わゑの3人の子供がいたが,長男は同13年に3歳 29) で死亡し,次女は天保3年に16歳で死亡した。そこで,養子として次のよう に上州桐生の長沢新介の二男伝次郎が迎えられることとなった。 一上州山田郡桐生町一丁目長沢新介と申絹問屋へ先年より買物二下り世話二成 ル家なる所,町家二二二男伝次郎ト申者年十四才二而位田村松居久左衛門方へ 被預世話相成候処,側壁成ル者なれハ遠国生なれとも養子二して可然との事, 本家初同苗宗兵衛井松居久左衛門右三方6御相談被下候処,我も能存知居養子 二相望こころハ有といへとも余遠国印焼,若近所之者ならは貰ひか・りもやセ んと思ふ折節,右三家より御相談被下候故,貰ひ養子二字論旨松居氏へ相頼任 候処,文政元年寅秋長沢氏6松居氏へもらい,松居久左衛門猶子二被成,文政 二年卯正月九日当方江引取,二月下旬村目無巴町済,三月五日弘め振舞いたし 30) 候,艶言伝次郎行年十六才也,致改名宇蔵,是当家名跡相定候事 宇兵衛は,養子にはなるべく近所の者を望んだが,与左衛門家・外村宗兵 衛家・松居久左衛門家の勧めに従って,上州桐生の絹問屋長沢新介の二男伝 次郎を一旦松居久左衛門家へ迎え,松居家から文政2年目1819>宇兵衛家の養 子とした。16歳の伝次郎は宇蔵と改名し,宇兵衛家の名跡を継ぐことが約束 された筈であった。 31) そして,宇兵衛は,文政3年8月7日に44歳で病死した。彼が,文化10年 に独立してから亡くなるまでの8年間の利益額は,第5コ口ようであった。 年間40貫目から100貫目を越す利益をあげ,しかも年々ほぼ利益を増加させ, 特に母が亡くなって再び精力的に活動を行なった文化14年から文政2年にか けての時期は大幅な利益の増加が認められる。 29)前掲「外村氏家乗資料 天」。 30)前掲「二 記録」。 31)宇兵衛の後妻なみは,慶応元年12月2日に73歳で死亡した(前掲「外村氏家乗資料 人」)。
182 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 第5表 文化9年∼文政3年の外村宇兵衛家の利益額 年代 年間利益額 期末資産額 文化9 365貫358匁7分9厘 10 44貫92匁5分 409貫451匁2分9厘 11 41貫669匁4分 455貫120匁6分9厘 12 51貫149匁 1厘 506貫269匁7分 13 78貫27匁7分 584貫297匁4分 14 74貫932匁4分 659貫129匁8分 文化元 95貫295匁 754貫524匁8分 2 117貫345匁1分 871貫869匁9分 3
68貫5匁7分
939貫875匁6分 計 571貫598匁6分1厘 (註) 第4表に同じ。 宇兵衛嘉久が死亡した後の字兵衛家の商売については,第5表の文政3年 の利益額の落ち込みからもある程度想像はできるが,「先宇兵衛死去後,宇蔵 #手代治助にて一両年商ひ致候へども,甚不勘定日道理而巳多く御座候二郎, 32) 無実商ひ相野ミ金子取集め,一家中にて金子相廻し置網」とあるように,宇 兵衛家の養子となった宇蔵等による商いでは,不勘定となり,むしろ独自の 商いを行なわずに外村一族で資金の運用を計るのが得策であるということに なったようである。 また,宇兵衛の養子となった宇蔵は,経営手腕だけでなく,「先代没後間ナ 33) ク病気ニテ帰郷離縁」とあるように,病気であったこともあり,次のように 文政9年(1826)には宇兵衛家から離縁されることとなった。 34) 養i子離縁落付手形之事 一其御村方外村卯兵衛養子に当町長沢新介憧卯蔵,其御村方松井久左衛門殿媒を 以て差遣し申候処,今般及離縁引取申候,然上者当町宗門人別π差加江申候 間,其御村方宗門人別御差除き可被成候,為後日落付一札如件 32)前掲「外村氏家乗資料 人」。 33)前掲「外村氏家乗資料 天」。 34)前掲「外刺氏家乗資料 人」。文政九戊十二月 江州神崎郡金堂村 御役人衆中 近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 183 酒井石見守領分 上州山田郡桐生新町 名主 高上又左衛門印 これによって,宇兵衛家は一旦途絶えたかに見えたが,宇兵衛嘉久が残し た長女みほに養子を得ることによってこの危機を乗り切ることになったので ある。 III 2代目宇兵衛元成による支店設置 宇兵衛家は,また新たな養子を迎えることとなった。「宇兵衛方養子之儀, 三七左衛門殿仲人被成下,長浜魚屋町山屋五郎左衛門殿より文政十二年約束 (文政11年) 致し,子二月目婚礼共相済ませ申候」「長浜東魚屋喜五郎左衛門惇文吉儀養子 35) 二仕,名跡相続為致申度野壷遣候」とあるように,文政11年に長浜の灰三五 郎左衛門の二男文吉21歳と宇兵衛嘉久の長女みほ17歳との間で婚礼が行な
36) 37)
われ,ここに2代目宇兵衛元成が誕生したのである。 35)前掲「外村氏家乗資料 別記第一一」。 36)妻みほは,天保15年7月11日に33歳で死去した。後妻には,嘉永2年に神崎郡川並村 の塚本久蔵の二女さと22歳かなった(前掲「外村氏家乗資料 別記第一j>。さとは,大 正4年9月7日に88歳で亡くなった(前掲「外村氏家乗資料 天」)。 37>宇兵衛元成の事績ついては,3代目宇兵衛元明が,家督を相続した明治7年3月頃次 のように述べている。「父君,原姓ハ宇野氏,長浜ノ人ナリ,廿一歳ノ時入ツテ外村氏ヲ 書淫,通称宇兵衛ヲ冒ス,、諦ハ元成,面心忌屋,家ノ第二世而開店ノ祖ナリ,母二事へ 孝養備二至リ,百事謹厚,家ヲ承クルヤ,上野国桐生町二開店シ,廿八歳ニシテ関東諸 州二絹布ヲ販売ス,.肝四歳東都堀留町二店ヲ設ケ,越エテ早年桐生町ノ店ヲ廃ス,珊八 歳橘町二支店ヲ置キ同業ヲ営ム,遠ク祝融ノ炎ヲ慮り,四十二歳ノ時堀留町本店ヲ伊勢 町二移ス,後四十八歳ノ時両店ヲ合併シテ,更二新大坂町二開店シ,東都商業ノ基礎全 ク成ル,五十九歳京都堺町通大坂材木町二開店ス,而東西二店ノ経営ハ店長二委任シ, 宅二丁リテ仏ヲ信ジ由水二遊ブ,間々草木ヲ愛シ書画ヲ翫ビ,酒茶ヲ嗜ムト錐モ楽ミ テ謡セズ,父君性温和謙倹篤行,常二忍i肘ヲ旨トス,往時領主柳沢侯ヨリ称姓侃刀大保 長一本紙ヲ許サレ,真蒔絵料紙硯箱ヲ賜フ,又田幕徳川家ノ命ニョリ五千金ヲ献ズ,大 政奉還ノ時国恩ヲ思ヒ巨多ノ金員ヲ献ズ,維新二際シ大蔵省ヨリ通商司中二選バレ,基 金壱万参千円ヲ出ス賞若干アリ,然レトモ敢テ其志ニアラズ,明治華甲豊年第二月廿八 Hヲ以テ家名ヲ譲り右内ト称ス,時二年六十有八,身体四二饗礫タリ,今や不肖家ヲ承 クルニ方リ,其功績行状ノ賢実ノー斑ヲ記ス,庶幾ハr一姪兄弟嗣孫胆二銘シテ父老腿業 銀難ノ古ヲ忘ル・母レ」(前掲「外村氏家乗資料別記第一」)とある。184 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) それでは,宇兵衛元成の商売は,嘉久の商売とどのように異なっていたの であろうか。宇蔵による商売は,前述したようにあまり芳しいものではなか ったが,「商売相戸山度候処,先宇兵衛紀州大坂へ関東物売買,其特牛綿等も 被致候処,肝心紀州大坂持下り近年甚不引合,其上若年者遣し候て被是非々 々不都合の儀出来(中略),然処,此度宇兵衛商売追々勘弁いたし候へども, 未だ若年三二大坂商ひ不面白被存候二軸,上州桐生町二於て田村勝蔵回外松 屋久助殿御世話にて,我等方と半乗合にて,文政十一戊子九月より糸質店を 38) 出し,則宇兵衛#手代重助子供嘉蔵三人下し相七二事」とあり,元成も始め は関東で仕入れた商品を紀州・大坂へ持ち登る商いが不勘定であり,あまり 興味もなかったので,文政11年(1828)9月から上州桐生町において,田村勝 蔵三等と共同で糸質店を経営することにした。これが桐生店の始まりである。 このように元成は,嘉久の行なっていたような関東からの商品を上方へ持ち 登る商いから関東に店舗を構え商売を行なう経営への転換を試みようとした のである。 そして,ついに江戸店を設けることになるのであるが,その過程は次のよ うであった。 一当店之儀,天保六軒未春より御当地江呉服物持下り商内相始,瀬戸物町伊勢屋 五兵衛方旅宿二相定春秋両度罷下り平内致居,然ル処天保九年戊戌四月十七日 午歌扇田原町弐丁目より出火にて類焼依而取引先人形町通性乗物町伊勢屋伊 兵衛殿方暫之中相頼致旅宿,同年十月本銀町大塚屋安兵衛方江罷越,天保十二 辛丑年まて旅宿にて商内致居候之処,場所柄不弁利非常凌方無覚束,就者兼6 世話致遣置堀留弐丁目入郎兵衛丁寧i平鋼廿六日引越同居朋,1差出測左二 宇兵衛江州住宅二付 一生三江州神崎郡金堂村 地借呉服渡世 店支配人 市郎兵衛 地請人元浜町源助店喜右衛門 一生国江州神崎郡七里村 召仕 清 八 一生国江州甲賀郡石部駅 召仕 貞 助 一生国江州犬上郡四十九院村 召仕 音 吉 前顕四通天保十三壬寅春人三差出置,尤清八義其節上州桐生店へ罷越居,音吉義 38)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。
近世における近江商入外村宇兵衛家の経営 185 39) ハ在国 すなわち,天保6年(1835)より江戸への呉服持ち下り商いを始め,最:初は 瀬戸物町の伊勢屋五兵衛方を旅宿にして春と秋の年2回下っていたが,同9 年4月の火災で類焼したため,新乗物町の伊勢屋伊兵衛方を暫く旅宿とした。 そして,同年10月には本則町の大塚屋安兵衛方へ移り,天保12年まで旅宿で 商売をしていたが,便利が悪かったので同年12月に堀留2丁目に店を構えた。 その時の店支配人は,宇兵衛と同じ近江国神崎郡金堂村の市郎兵衛であり, 他に店員として神崎郡七里村の清入,甲賀郡石部駅の貞助,犬上郡四十九院 村の音吉がおり,いずれも近江出身者であった。 なお,堀留町店は,天保14年に八郎兵衛より100両で譲り受けた。その時の 売渡証文は,次のようなものであった。 40) 売渡申証文繕事 一建家一ケ所 但間口三問半 奥行段間 畳建具其外造作向一式共 一土蔵一ケ所 但京間二間三間 卜者我等所有之建家土蔵共,此度貴殿方へ金百両二売渡,代金不残随二請取候処 実正也,然る上ハ此家蔵高儀面付諸親類ハ不及申,外6彼是違乱申者一切無御座 候,万一故障申者有之候ヘバ加判之者罷出將明,貴殿へ少も御苦労相懸申間敷 候,為後日売渡証文傍而如件 天保十四癸卯年 売主 入山兵衛印 証人 七右衛門印 前書之通相違無御座候,傍而奥印弓田 家主 安右衛門印 布屋卯兵衛殿 (天保14年) 桐生店については,「同年閏九月我等下向之瑚,国許におみて遂示談上州桐 生店不引合転付,引平等申旨喜助#伝兵衛両人内申含,入質相承形質而已質素 39)「記録」(外村宇兵衛家文書)。この史料は,「天保十四年癸卯二月綴之」とあり,天保 14年から主として宇兵衛家の江戸店に関する事柄か記されている。最終的には明治42年 までの記述が存在するが,安政3年までの事柄が中心であり,それ以降はわずかに過ぎ ない。前掲した「二 記録」は,文政元年までしか記述されておらず,また内容的にも, この史料と連続するものではない。 40)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。
186 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 二相守居候様申付」「桐生質店請質而已相守居候処,喜助伝兵衛取斗を以,同 (天保14年) 年極月木村半兵衛方へ有質其外諸道具とも金千六拾両也にて相譲り引渡置, 伝兵衛義者出府いたし夫より帰国仕,喜助者木村半兵衛方と乗合にて,右質 (弘化元年) 41> 店江出勤高点引合自儘に致置,晶晶正月帰村いたし,直様永田暇遣し候」と あり,桐生店は不勘定であったので,天保14年(1843)12月に桐生質店を有質 諸道具とも1,060両で木村半兵衛へ売却している。 橘町店の開店については,始め元成の預かり知らぬことであった。その間 の事情については,次のようであった。 (弘化2年) 一上州新田郡山之神村下野屋持橘町壱丁目角家土蔵,当正月下旬八郎兵衛一巨之 了簡を以,去二月十七日致開店,弟庄兵衛と申もの二相任当店より多分之代呂 もの為持遣し,不其上元手金迄も差入手広二商願いたし候義,右者全我等江山 相願任当役之威,店中江茂不遂示談,我意之振舞私欲之至,今般下向致見聞不容 易次第,直様右店取上ケ可申所存之処,馬喰町四丁め伊勢屋弥兵衛殿鉄砲洲丸 屋久兵衛殿,右両人被立入段々被相詫,此方持店二致暫見送り呉候様相頼二 付,無余義聞済遣し,我等方持店二無相違思召次第進退可被成条之一札取之先 見送り置門門 但し右一札此度国許へ持登り候 42) 弘化二巳六月十五日記之 すなわち,橘町店は店員の八郎兵衛が,弘化2年に店中の同意も得ず独自 に開店した店であり,直ぐにでも取り上げようとしたが,伊勢屋弥兵衛・丸 屋久兵衛のとりなしで,主人である宇兵衛に一札を差し出すことでしばらく の間そのまま様子を見ることとなった。その際に宇兵衛家へ差し出された一 札は,次のようなものであった。 43) 入置型一札之事 此度橘町壱丁目河岸角家二而呉服太物商売出店目病候二面,店名前之儀私江良書 附#店支配之儀者,我等弟正兵衛江御八二被成下富有承知仕候,然ル上者商内万 端出情仕,御下知之通急度相守可申候,若思召二相叶不申候節者,如何様とも思 41) 百f掲 「言己金乗」。 42)前掲「記録」。 43)弘化2年3月「橘町店支配に付入置一札」(外村宇兵衛家文書)。
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 187 召通り可被成候とも,其節一言之違有申間敷候,全貴殿御持店二相違無御座,為 後証之一札依而如件 弘化二年巳三月 八郎兵衛印 正兵衛印 布屋宇兵衛殿 このように橘町店は,一旦は入郎兵衛・正兵衛に委任された形であったが, 次のように結局宇兵衛家のもとに取り上げられることとなった。 一橘町角店之儀,既二曲四月中取上ケ開申空処,前顕之通只管詫入候写糊見送置 候処,弥以不取締之廉々有之により店取上ケ可申旨申渡,八郎兵衛通勤遠慮申 付置,諸帳面取調可申,依之伝兵衛兵助今日より遣し置候 (弘化3年) 44) 午正月七日 そして, 一橘町方有代零物帳面等取調中,店は格子を〆置,現金商内而已致居,万端取究, 名前之儀布屋与一郎と相論店支配伝兵衛江申付,旧正月廿八日店開商内相始, 45) 此方6兵助遣し,二二久助と申者召抱,人請一札三新三方にて取置之候 このようにして,橘町店は不取り締まりであるというので,弘化3年(1846) 正月には店の帳面等の取り調べを行ない,八郎兵衛から布屋与一郎名前に替 え,伝兵衛支配として新たに開店したのである。 ここに至って,宇兵衛家の江戸店は,堀留店と橘町店の2店舗となったの であるが,嘉永2年(1849)には伊勢町に新たな店を入手し,堀留店を移すこ とにした。その間の事情は,次のようであった。 46) 家土蔵買得之事 (天保13年) 去寅年6堀留弐丁目二十四候処,引続類焼も有之,又一隅間取も不都合故,能売 居家土蔵有之等割・転宅致度一同申居候処,伊勢町川岸伊勢屋猪兵衛方家土蔵売 物二相為重由二而,松ゐ支配人善兵衛殿口入可致旨勧呉候鳥付,嚢中相談之上, 土蔵壱ケ所二上十分二者無之候得とも,買得可致と決心致,竹河重左衛門殿方へ 相談致候所,高直成事被申居熟談六ケ敷依之四ッ谷伊勢屋治兵衛殿#新宿三徳 44)前掲「記録」。 45)前掲「記録」。 46)前掲「記録」。
188 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 殿支配人吉郎兵衛殿両人相頼候処,急度調可申間,両人被為任呉候様被仰下,任 其意十段之義可然御取斗御相談被下候やう為任置候処,六月中直段か也行届取極 り可申之処,兎角外二差支御座候趣申立延引被成候処,漸入月中旬相談調,則八 月十九日甚左衛門町豊田屋三五郎宅にて取引致ス そこで,取り交わされた売渡証文は,次のようなものである。 47) 売渡申建家土蔵旧事 一間口四間半 奥行六三半 建家壱ケ所 但し本文間口之内壱丈太兵衛殿御支配地面剛建込有之候 一間口尋問弐尺 奥行三年半 土蔵壱ケ所 但し土蔵戸前口6建家江取付,南方江切廻し廊下便所附有之 右建家土蔵我等所持二有之候所,畳建具造作一式有形之儘代金弐百弐拾両二相 定,此度貴殿江売渡右代金不残請取申処実正也,然ル上者向後貴殿所持二紛無御 座候,尤書入引当等之義一切無御座,右売渡之儀二付諸親類者勿論何方6も違乱 申者決而無御座候,若異儀忍者有之候ハ・連印之拙者共何方迄も罷出,急度將明 貴殿江少茂御苦労掛申間敷候,為後日売渡証文イ乃而如件 売主 堀江町四丁目五人組一日 嘉永二酉年八月十九日 証人 伊勢町清助店 立合人 前書虚血相違出御座,依之奥印致候,以上 家主 同 布屋宇兵衛記 すなわち,堀留道止は,類焼を受け, 猪兵衛印 文兵衛印 新右衛門印 源右衛門印 太 二幅 また店の間取が都合悪かったので適 当な売家があれば,移転するつもりでいたところ,伊勢町の伊勢屋猪兵衛方 が売りに出ているというので,嘉永2年8月19日にこれを220両で購入した。 48) 伊勢店の開店は,「十月九日十日店開致,得意先其外懇意先相三振舞致」とあ るように,翌10月に入ってからである。 47)前掲「記録」。 48)前掲「記録」。
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 189 IV 江戸店の整備 支店の改組については,安政2年(1855)から新たな動きが見られるように なる。「安政二卯年三月一日堀江町四丁目ヨリ出火,南風烈敷橘町支店与一郎 49) 方類焼」とあり,安政2年3月1日に橘町店が類焼にあった。 そこで,
學犠禦鳳町ノ談予。有之処支店織二駒留駐テ当地所閉店臓
総而新築合併引致事二陣シ,支店二二而万事引請新築相始メ劇団一億無比貝焼大幅江肺中土餉凡力へ土震ひ落死人怪我人慶事
也 一当店新築未出来ナン共,十一月十五日当町へ移店,則当店支店合併二相成ル 一安政三辰年,両店合併営業二月十五日ヨリ始ム,依テ支店与一郎名前ヲ除キ候 事 一伊セ町店者,寺本仁右衛門殿へ売却致,但シ地震二而土蔵壁土フルイ落,家モ 50) 損シ労代金百五十両也 すなわち,伊勢町店と橘町店との合併話があったところに橘町店が類焼に あい,それを機に新大坂町に地所を求め,安政2年11月にはまだ新築できて いなかったが,両店を合併し,翌年2月15日から営業を始めた。伊勢町店は, 地震による損傷が見られたが,寺本仁右衛門へ150両で売却された。新大坂 町店がここに設置することによって,この店が外村宇兵衛家の江戸での拠点 として変わることなく,以後重要な役割を演じることとなるのである。また, 51) 新大坂卑語が開店した安政3年には,外村宇兵衛家では「家訓」と「条目」 が定められており,この年は外村宇兵衛家の経営にとって画期となった時期 であった。 また,この時期を機に退職する者も見られた。次に示すのは,橘町店に勤 “49)前掲「記録」。 50)前掲「記録」。 51)その内容については,前掲『五個荘町史資料集1』に全文掲載されているので参照さ れたい。190 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) めていた安兵衛が,両店の合併直後の安政4年2月に退職した例である。 52) 一札之事
_礒去ル弘化三二年中三二店。七ケ年季継公二罷出目処雛轟繭
両店御合併相成,私義引続御奉公仕罷在候得共,追々手閾且年季御奉公之年限 も相立候二付,私実父存生中契約之越後屋五兵衛跡退転仕居候二付,実父念願 之通り又兵衛家名相続仕度,此度永之御暇門下置旧七七願上候処,御聞済相成 為御呼分金百四拾両半平褒美金四拾五両,合金百八拾五両一下置附田奉請取 候,私義別段勤而無御座処,過分之御手当頂戴仕厚難有仕合奉存候,自今以後 右金子ヲ以商内元手画工,家業実直相営家名相続仕,御厚恩忘却仕間敷候,イ乃 之御礼証文四二 安政四巳年二月 安兵衛.事 改名 又兵衛㊥ 布屋宇兵衛様 安兵衛は,新大坂店開店後も暫く勤めていたが,家名相続のため給金140両 と褒美金45両を貰い退職することとなった。 (空山) 江戸店については,以後新大坂店が拠点となるのであるが,「慶応二年 月京 53) 都堺町三条上大阪材木町二開店」とあるように,慶応2年目1866)には京都に 54) 支店を設けたようであり,これによって宇兵衛家の東西の拠点が確立したの であった。 最:後に,宇兵衛家の属した商人仲間について,少し見てみよう。宇兵衛家 も江戸に支店を設け,経営規模が拡大するにつれて同業者の仲間に加入する ようになったようである。例えば,「国産布類井面呉服持下り商人仲間」とし て,川並村の塚本茂右衛門,町屋村の市田太郎兵衛,位田村の松居久左衛門 ・松居惣右衛門,七里村の平田源次,山路村の櫛田九兵衛,稲葉村の渡辺清 十郎,大町村の小西源次郎,京都の布屋治右衛門とともに,「右仲間群衆より 52)安政4年2月「安兵衛暇願に付給金等受取一札」(外村宇兵衛家文書)。 53)前掲「外村氏家乗資料 別記第一」。 54)京都店が設置されたのは,慶応2年からのようで,慶応3年正月「丙寅勘定附立帳」 (外村宇兵衛家文書)に「京店かし」として2,629両余がはじめて計上されている。近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 191 運上として壱ケ年金弐拾両宛,塩川岸呉服会所江相納来り候」とあるように, 宇兵衛を含む10人で毎年20両ずつ運上金を,天保12年(1841)の株仲間の解散 55} まで納めていた。 そして,嘉永4年(1851)の株声聞の再興に際しては,次のようにして仲間 に加入した。 一嘉永四亥年三月九日,諸問屋仲間再興被仰出候事,右二付同年四月中町年寄舘 御役所へ天保十二丑年記諸国直仕入営業致候もの被召出,仕入金高書抜買三相 添掛り名主方へ可差出候様被仰付旧事,其後取調相成呉服ものハ壱ケ年仕入高 平均壱万両二相成下二付,呉服問屋元組ハ加入相成候 一木綿導者仕入高平均壱ケ年八千両余植付元組へ加入不相成,木綿仮組へ差加へ 56) 被仰付候事 そこでは,呉服の仕入高が1か年平均1万両に達していたので,呉服問屋 元組へ加入することができたが,木綿類の仕入高が1か年平均8,000両に過ぎ なかったので,元組へは加入できず,木綿仮組への加入となった。これによ って,宇兵衛家の呉服・木綿類の取扱高がほぼ推定できるであろう。そして, (安政2年) 「同年入電七日,木綿問屋白子組へ加入相成候事」とあるように,安政2年 (1855)には木綿問屋白子組へ加入することができたのである。 むすび 以上近世における外村宇兵衛家の経営について見てきたが,次のように要 約することができよう。 第1に,初代外村宇兵衛嘉久は,安永6年(1777)に近江国神崎郡金堂村の 近江商人外村与左衛門浄血の末子として生まれた。寛政9年(1797)には新宅 の準備に取り掛かり,享和元年(1801)には与左衛門家より元手金1,000両を 譲り受けて分家した。しかし,この1,000両(60貫目)を本家に預け,本家の 500貫目との共同出資による事業経営を行ない,その利益の3分の2を与左衛 門家が,3分の1を宇兵衛家が受け取ることとした。共同事業の期間は,享 55)前掲「記録」。 56)前掲「記録」。
192 井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号) 和2年(1802)より5年間としたが,5年が過ぎた文化4年(1807)にはさら に継続する旨申し合わせた。そして,毎年ユ5∼50貫目程の利益を上げ,文化 9年(1812)には享和元年に譲り受けた元手金60貫目が359貫余にまで増加し たのである。 第2に,文化9年になると,宇兵衛はそろそろ事業も独立して行なうよう に本家の与左衛門から勧められた。そして,尾州名古屋は本家の商圏である ため,それと重複するのはよくないとして,大坂から紀州辺りで商売をする のがよいということとなった。宇兵衛は,そこで京都や上州から呉服類を仕 入れ,大坂・堺・和歌山へ嚇せ商売を行なった。そして,嘉久は文政3年(1820) に亡くなるまで,毎年40貫目∼100貫目程の利益をあげ,939貫余にまで資産 を増大させた。特に精力的に活動を行なった文化14年から文政2年にかけて の時期は大幅な利益の増加が認められたのである。 第3に,文政11年には,2代目宇兵衛元成が,長浜の商家から養i子として 迎えられた。元成も始めは関東で仕入れた商品を紀州・大坂へ持ち登る商い を行なったが,不勘定なため上州桐生町において,田村勝蔵氏等と共同で糸 質店を経営することとした。この桐生店を始めとして,元成は,嘉久の行な っていたような関東からの商品を上方へ持ち登る商いから関東に店舗を構え て商売を行なう経営への転換を試みようとした。そして,天保6年(1835)よ り江戸への呉服持ち下り商いを始め,最初は瀬戸物町の伊勢屋五兵衛方を旅 宿にし,その後新乗物町や本管町へ移り,天保12年まで旅宿で商売をしてい た。しかし,便利が悪かったので同年12月にはついに堀留2丁目に店を構え た。天保14年には不勘定のため桐生店を売却し,弘化2年(1845)には閉店を 開店し,江戸店を2店舗とした。嘉永2年(1849)には伊勢町に店を設け,堀 留店を移した。 第4に,このようにして設けた江戸店は,安政2年(1855)の橘店の類焼を 機に伊勢町店と橘町店とが合併し,新大坂町に新たな支店を設け,翌年から 営業を始めた。新大坂町店がここに確立することによって,この店が外村宇 兵衛家の江戸での拠点として変わることなく,以後重要な役割を演じること
近世における近江商人外村宇兵衛家の経営 193 となった。また,新大坂町店が開店した安政3年には,外村宇兵衛家では「家 訓」と「条目」が定められ,この年は外村宇兵衛家の経営にとって画期とな ったのであった。 〔付記〕本稿は,滋賀県神崎郡五個荘町史編さんの過程で収集された外村宇兵衛家 文書をもとに作成した。ここに,同文書の所蔵者である外村宇兵衛家ならびに 史料収集に尽力された五個荘町史編さん室・編集委員の方々に感謝するしだい である。