文化遺産の継承と地域社会 - 栗林「公園」の継承を事例として(前篇)
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(2) 離れた位置に広がる、 図 1 のような総面積約75h aの広大な空間である。 近年、 他の多くの旧大名庭園が旧 態 に復 する 道 を辿 っ ている な か で、 栗 林 公 園 もま た こ れと 同 じ道 を 歩み つ つ あ る が 2、 文 化 遺 産 と しての 継. 承プロセスの 「痕跡」 と思われる図 2 のような箇所が未だ幾つか園内に残存している、 特徴的な事例とい える。. ん箒 話を 橇き・ノ. 〃 . 図1. 図2. 園内飛来峰よりの眺望景観 (筆者撮影). 園内北部芝生広場 (筆者撮影). 栗林公園の歴史に関する先行研究は、 通史として資料集成 『造園史』 3が挙げられるほかは専ら江戸時代 を中心にしたものが多く、 藤田頼重 『栗林公園』 4、 吉永義信 「栗林公園史考」 5、 赤松景福 『栗林公園 誌』 6など、 研究成果の蓄積がある。 これに対し、 文化遺産となって以降に焦点を当てたものとしては非常 に少なく、 特定の改修に焦点を当てその工事内容を解明した真鍋篤行 「明治 ・大正期の栗林公園の北庭改 修 につ い て」 7、 さ ら に通 史 と して野 村 美 紀 「地 域 レ ポー ト : 再発見 ・栗 林 公 園の歴 史」 8が書 か れている。. 本論は、 真鍋や野村の研究と同じ時間軸を設定するものであるが、 特に香川県および高松市の公園制度と 観光政策の在り方に注目しつつ、 この空間に付与されてきた一連の 「機能」 を解明する ことに主眼を置い ている 点 にお い て、 そ の 性格 を 異 に している。 な お、 筆 者 は平 成 17 (2005) 年 に 「栗 林 公 園 にみる 文 化 遺. 産の公園化とその変容に関する史的研究」 9を執筆しているが、 分析軸の設定が明確でないがゆえに、 あく まで通史の城を出ぬ内容に止まっており、 今回全面的に書き換えを行っている。 2. 「公園」 化と二つの機能. (1). 「公園」 の理想と現実. ではまず公園化当初に遡り、 この空間に当時いかなる機能が備わっていたか、 その実態を明らかにして いきたい。 江戸時代に高松藩主が築いた別荘、 すなわち高松藩主の私有地であった栗林荘が、 栗林 「公園」 となったのは明治 8 (1875) 年のことである。 同年に旧藩士の山田勝次が記した 「高松栗林公園碑記」 に は、 こ の 公 園化 に対 する 大き な期 待 と 共 に、 次 の よう な 公 園観 が述べ ら れている。. 方今大愛一新、 文男を理となる、 拗布これ努む。 威ば旁絶域万里の外に創ま“、 法先聖 一成 の後に塞 ず るるのと繁る、 芍る生民に益あ“、 事特に御なれ′ズ 即ちこれに取るあ 晩 - 張で中路ノ. …. …. 翹以 て循勉の資となす。 互っ以 て気体を節宣して疾病を除却すべし。 これ西洋諸国園周遊観の地 を置く 所以なるか。 我ガ減勢府県近 ごろ赤往々公園の段あ“。 公園なるるのば独“官と民とのこれを共にするの 西ち人をして時に遊翔るて労逸を飾るむるところの処な“。 諺あるのみならず、 廻 「我ガ減勢府県近 ごろ赤往々公園の段あ“ 」 とは、 これより少し前の明治 6 (1873) 年、 公園設置に関する 太政官布告が発令され、 それに伴い各府県が公園設置を申請するようになった状況を指していると考えら 艀観の地 」 に匹敵するような 「人 をして時に遊翔るて労 れる。 文明開化の世に相応しい、 「西洋諸国園周遊. -. 30. -.
(3) 片しむる 」 機能をもつ空間が 「公園」 である とするこの公園観は 当時の 特に公園行政関係者の 途を節 、 、 、 1 しか し この よう な機 能 が栗 林 公 園 に備 わるま で には そ の 後 かな り 時 間 ごく 一 般 的 な捉 え 方 であ っ た 1。 、 、 を要 する こ と となる。. 公園化以降の状況について、 香川県地域を代表する地元新聞 「香川新報」12の関連記事を追ったところ、 明 治30 (1897) 年頃までは、 維持管理が行き届かず荒廃しており、 人々の利用もさほど頻繁ではなかった様 子 が浮 か び上 が っ てき た。. 六に も充て数多の樹木を伐採 し建物を玻畭ける筆にて大仁/" 観を損し公園の名あるのみ 〆- 時学校 維新後′. 云宇ば破壊し池永の掃除ば勿論、 樹木にる手を入れざれば貫の不潔言ふべからず左れば にて庭園ば荒れ屋 折角の公園る寂蓼として絶へて遊客の至る無 で今斯くと て年を蓬次げば全た “獺狸の巣窟とや威果 てん と去る十七年の比な“↓宮地の有,古着ば大いに憂憲二ムて何卒して風致を旧多 難に修め永 く維持保存せんる ル社といふるのる出来以后大いに後 のとて # 呆 燐繹を効"へたるに宮地の人々る心有る考ば甚 < 喜び …. 13. 明治23 (1890) 年 5 月 3 日に掲載されたこの記事からは、 制度上公園という存在にはなったものの、 実際 には池水にも樹木にも管理が行き届かず荒廃し、 訪れる者も無く寂蓼としている、 まさに 「公園の名ある のみ」 の空間が継続していたことが分かる。 明治17年頃に有志が甘栄社という組織を作り、 自主的に修繕 を行う よう にな っ た とも 記 さ れている が、 こ れ につ い て は、 同 時期 に北 庭 の 竹 薮 を伐採 して畑 に しよう と. いう話が持ち上がっ ていたという事実もあり M、 おそらく大勢に影響はなく、 碑記に示されていたような 片しむる 」 公園に相応しい設えは全く整っていない荒廃状況がその後も継 「人 をして時に遊鎖して労逸を節 続 してい た の で は ない か、 と推 測 さ れる。. これを裏付ける史料のひとつとして、 明治24 (1891) 年 5 月26日の香川新報に掲載された、 当時の栗林 公園を岡山後楽園と比較評価した記事の一部を引用 したい。. 、彼れ ご引用著注/後楽園フ に比して夏形状如何荒れに荒れたる憲、 桑田雰作の殺風景、 筵で我栗林公園ノ 革生々の不届、 人力車出入の無風流、 否///嫁入の美術らひと云へる高尚優美の思想勅ば翔 る姥程度にあ“や と想像するるの御入か落胆せずにすむべき余ば質に之を管理者のこ・に傍ひ保存著のこ・に傍ぽんとず云々 と 成る八 の 講釈。 15. 既に甘栄社が園内修繕に着手しているはずだが、 にもかかわらずここで描かれている栗林公園は、 園内に 田畑がつくられ、 草が生い茂り、 人力車が道路のように行き交っ ている、 まさに 「荒れに荒れたる憲 」 で ある。 この記者は、 一方で岡山後楽園に対して 「斯く左までと る見えぬ後楽園が世人の耳目を煮〈所以ば 墨膚湾場の行届くが為多に外ならず 」、 すなわち、 それ自体の造形が美しいというよりも、 むしろ維持管 理 が しっ かり と行 き届 い ている か らこ そ、 人々 の 注 目 を集 め ている の だ、 と 評 している。 で は、 明 治30 (1897) 年 頃ま で 荒廃 状 況 にあ っ た 栗 林 公 園 には、 何 ら かの 機 能 は備 わ っ てい な か っ た の. だろうか。 先述したように、 明治10 (1877) 年代の公園は訪れる人も少なく寂蓼とした状況であったと推 測されるが、 明治20 (1887) 年代に入ると、 時折ではあるが、 園内を利用する人々の様子を描いた次のよ うな記事がみられるようになる。 避かに認むる大茶屋内洋装の紳士五/六輩吏座とな“て骨碑を笏ばずあれ ば此 方の池中〃・舟に葎して自ら 壮遊を気取れる書生ある等/夏他国内所々に老廃を布き勃舘を開き酒節を循けっ〕あるば老幼男女数ふる に暇あら ざ“↓中にる二十年前後の束髪男羽織の一群度ば舟に葎し威ば芝生に足差延べて最と快楽に蠣 き合へるば是●ん這国本嫁師範学校女子部に仮ス 学を許されたる女学生のこ・祝と知れた“。 16 既に桜が散った後にもかかわらず、 園内にある大茶屋のなかではカルタ大会が開催され、 池には小舟が浮 か び、 あち こち に毛 酢を 敷い て、 酒宴 を 開い ている 人たち がいる。 老若男 女 様々 な 人たち がお り、 な か に. は県の師範学校の新入生の集団もいる。 この記事からは、 明治20 (1887) 年代になり、 未だ維持管理上の. -. 31. -.
(4) 圧倒的な不備はあるにせよ、 栗林公園が地域住民の日常的な慰楽の場として機能するようになってきたと いう 事 実 が浮 か び上 が っ てく る。. さらに明治24 (1891) 年 6 月 3 日の香川新報には、 旧高松藩主松平家の子息や県知事が出席する園遊会 が開催され、 300余名が趣向を凝らし設えられた 8 つの掛茶屋な どで賑やかに時を過ごした様子が記され ている。 すなわち、 明治20 (1887) 年代に入り、 日常的な慰楽の場として、 時には特別な園遊会の場とし て利用できる、 新たな地域住民の公共空間としての機能が栗林公園に備わってきたと考えられる。 但し、 その賑わいの質からして、 先述したような 「西洋諸国園圀透雛の地 」 に匹敵する 「公園」 というよりはむ しろ、日本古来の 「盛り場」 に近い空間として機能していたといえよう。 また、 先に引用した記事にもあっ たように、 明治20 (1887) 年代の段階で既に県内外において知名度が高く、 多くの観光客を誘引していた 岡山後楽園に比すると、 この当時の栗林公園には観光資源としての機能はあま り備わっていなかったこと が指摘 できる。. ( 2 ) 観光資源としての新たな眼差し 明治30 (1897) 年代に入り、 このような状況にあった栗林公園に大きな変化が起こる。 所管者たる香川 県 17が、 その維持管理に本腰を入れ始めるのである。 明治29 (1896) 年12月26日の香川新報記事 「大茶屋 貸附に就て」 には、 園内の大茶屋に対する借受希望者が近年増加傾向にある背景として、 この当時次のよ う な 動 き が表面 化 してい た こ と が明 ら か にさ れている。. 〆/句園内に腫物館設置、 公園拡張の嶽あ 物燭ば 内外人をして姥庭 笏年度 で引用著注 ! 労治“年度〉 よ“′ に足 を止 め るむる の 法 循 ばら ん と せる に. … 18. すなわち県内外の人々を誘致するための観光資源として相応しい設えを整えるべく、 明治30 (1897) 年度 を機に園内への博物館設置や園域の拡張が予定されていたことが分かる。 そして実際に、 明治30 (1897) 年に県立博物館の設立工事が着工、 明治32 (1899) 年に竣工し、 さらに明治36 (1903) 年の皇太子行啓に 伴う修理 19を経て、 明治44年から大正 2 年にかけて園内北部を中心に大改修工事が実施され、 栗林公園はそ の 様相 を刻々 と 変 え ていく こ と となる。. では何故、 それまでほぼ放置状態であった栗林公園に対し、 この段になって俄然整備に力が注がれるよ うになってきたのだろうか。 この大きな要因のひとつとして、 同時期に県や市が観光施策に意識を向け始 めたことが指摘できる。 正確には、 当時まだ 「観光」 という言葉は県や市の行政で表立っては使われてお らず、 勧業政策の一環として、 なかでも特に共進会や博覧会開催の外延に観光施策が組み込まれている状 況であった。 香川県内の共進会 ・博覧会は、 明治12 (1879) 年の琴平山博覧会以降各地で開催されるよう 0 県庁所在地にもか になるが、 特に明治30 (1897) 年代に入り、 主に高松市内の商工業者を中心として2、 かわらず沈滞状況にあった高松市でスケールの大きな共進会 ・博覧会を開催することへのニーズが高まっ てく る 21 。 こ れ に押 さ れる 形 で、 明 治32 (1899) 年 の 香川 県 会 に お い て、 明 治33 (1900 ) 年 に 高 松 市 で 二. 府九県 (大阪 ・京都 ・兵庫 ・奈良 ・和歌山 ・岡山 ・広島 ・徳島 ・愛媛 ・高知 ・香川) による臨時共進会を 開催する という建議案が可決、 さらに高松市会での議論を経て、 何度か双方において検討が繰り返された 結果、 最終的に明治35年、 二府十六県 (京都 ・大阪 ・富山 ・石川 ・福井 ・静岡 ・愛知 ・三重 ・滋賀 ・兵 庫 ・岡山 ・島根 ・広島 ・山口 ・愛媛 ・高知 ・徳島 ・香川) が参加する第 8 回関西府県連合共進会が高松城 2 跡 で 開催 さ れる に至る 2。. 3 『錦桧讃岐名所』 24 『讃岐名所圓桧』 25 『讃岐名所蔦 この共進会の開催に前後して、 『讃岐名勝地誌』 2、 、 、 6 『た かま っ』 27 『讃 岐 案 内』 28等 香川 県 内の名 所 案 内 が続々 と 刊 行 さ れている こ の な か に は行 政 眞』 2、 。 、 、. が編纂したものも含まれており、 特に関西府県連合共進会開催と同年に発行された 『讃岐案内』 29は、 香川. -. 32. -.
(5) 県内務部第四課が共進会の開催に際し香川県の現状を紹介すると共に、 県内の社寺名勝古跡を宣伝するこ 0 そして このような名所案内の巻頭に園内写真 とを意図し編纂したものであることが明記されている 3。 、 が掲載されたり、 単独で 『栗林公園桧晝』 31が発行されるなど、 県内の名所のなかでも特に重点を置いて宮 伝 さ れてい た も の の ひと つ が、 そ れま で は県 外 での 知名 度 がさ ほ ど高く な か っ た 栗 林 公 園 であ っ た。 以 上. のことから、 明治30 (1897) 年代の栗林公園には、 「公園」 化以降最初に備わった 「地域住民の公共空間」 としての機能に加えて、 県や市の勧業政策、 特に共進会 ・博覧会の開催と連動する形で、 県内外の人々を 誘引する観光資源としての機能が期待されるようになり、 併せてそれに相応しい整備が行われるように な っ た とい える。. 3. 希少な都市の公共空間- 観光行政黎明期の栗林公園 既存の自治体史32では、 いずれも高松市の観光行政が本格化した時期を、市当局の勧業社会課に観光専門. 職たる 「勝地紹介係 (昭和10 (1935) 年に観光課に昇格、 勧業社会課より独立)」 を設置した昭和 5 (1930) 年に、 さらに香川県の観光行政が本格化した時期を、 県庁内に 「観光課」 を設置した昭和 11 (1936) 年に 設定している。 この分類に倣い、 以下、 県や市が観光施策に意識を向け始めた明治30 (1897) 年代から大 正末期までを 「観光行政黎明期」、 県と市の双方において観光行政が本格化する昭和初年から - 旦弱体化す る第二次世界大戦直前までを 「観光行政推進期」 と称する。 本章では、 まず 「観光行政黎明期」 における 栗 林 公 園 に付 随 してい た 機 能 につ い て、 明 ら か に していく こ とと する。. ( 1 ) 勧業振興のイベ ント会場 明治32 (1899) 年に竣工した県立博物館は、 その後 「観光行政黎明期」 における栗林公園の機能を特徴 づける重要な要素となっていく。 明治30年代後半から、 この県立博物館を中心とする共進会や品評会等の 開催について書かれた香川新報記事が頻繁にみられる。 その数は、 明治37 (1904) 年の県下各群市連合第 一回重要物産共進会、 明治38 (1905) 年の香川県第一回重要物産共進会、 明治年の 「第 3 回香川県麦わら 真田競技会、 明治42 (1909) 年第一回四国果物品評会、 明治44 (1911) 年第一回高松市物産品評会をはじ め、 枚挙に暇がない。 このような臨時の催しに加えて、 博物館内には県内の産物 (工業 ・農業 ・水産の部 に分けて陳列) が美術品等と共に常時陳列されており、 いわ ば常設の博覧会場としての役割も果たしてい 3 県立博物館の設置に伴い 県や市の勧業政策を担うイ ベント会場としての新たな機能が栗林公園に た3。 、 付与されたといえよう。 当時の高松市街地 (およびその近隣錐) において、 不特定多数の人々 を収容でき、 イベント会場として 利用可能な公共性のある空間は、 「公園」 たるこの栗林公園を 除け ば、 図 3 に示したように高松城丑のみ 5 松平家の私有地 であっ た。 この高松城丑は明治22 (1889) 年に旧藩主松平頼壽に払い下げられて以降3、 であったが、 明治35 (1902) 年に第 8 回関西府県連合共進会が図 4 のようにここを会場として開催されて 以降、 明治38 (1905) 年の市内小学校連合運動会、 明治42 (1909) 年の県主催第 1 回畜産共進会、 明治43 (1910) 年の 築港10周年宇高連絡線開通祝賀市内小学校連合運動会をはじめ、 臨時のイベント会場として しばしば機能していたことを記す記録がみられるようになる。 このような機能は、 戦後正式に 「公園」 と なるまで続いており、 高松城丑は制度上 「公園」 となるかなり以前から 「公園」 に準ずる空間として機能 していたことが指摘できる。 従って、 事実上、 都市公共空間 (正確には公共空間と準公共空間) が 2 つし か存在しない、 という限られた条件もあり、 栗林公園には、 勧業政策推進上重要なイ ベント会場としての 機能が付与されたと考えられる。 さらに、 栗林公園がこのような博物館を備えている、 という事実は、 明治35 (1902) 年開催の第 8 回関. -. 33. -.
(6) . . 麦 バ 琶 琵 き き ン さ ききき 箋 ぬ が ぎ き嘉さ さ ギ ん ふ. 図4. 明治35 (1902) 年第 8 回関西府県連合共進会 手引書 (大矢順一郎氏蔵) 出典 :香川県立歴史博物館総合案内 , 2005. 図3. 明治29 (1896) 年の高松市街図に筆者が加筆. 西府県連合共進会に前後して続々と刊行された香川県内の名所案内においても積極的に宣伝されている。 例え ば、 前章で紹介した県編纂の『讃岐案内』36では、 栗林公園を著名な庭園史家の小澤圭次郎による評論、 山田勝次による碑記、 さらに黒木欣堂による評論を引用することで紹介しているが、 この黒木による 評論. には 「皇度維新之初。 定メテ公園 人為ス。 …. (中略) … 近年新二煙物図書の二館を新に設け、 以て. 民の耳目を僚 む。 」 37との記述がみられる。 また 『錦桧讃岐名所』 38においても、 栗林公園が図 5 のように 古来の庭園景観と博物館の 2 部構成で描かれている。 公園内に博物館を設置するという行為には、 当時の行政において流布 ・定着していたと考えられる、 以 下 の よ う な 「公 園」 イ メ ー ジ が 強 く 反 映 さ れ て い る。 モ デル と な っ た 欧米 各 国 の 情 報 に 基 づ き、 理 想 の. 「公園」 とは 「博物館」 や 「動物園」 「植物園」 「図書館」 などが存在し、 時には 「博覧会」 がそこで催さ 9 それゆえ特に明治期において公園と博覧会や博物館との関係は密接であ れる場として理解されていた3。 り、 博覧会のために新しく敷地を造成し、 その機会に公園ができることもあれ ば、 既に存在していた公園 0 これは大名庭 で博覧鶏会が開催される、 あるいは博物館が設置されるといっ た現象が各地でみられた4。 園を基盤とする公園に関しても同様であった。 田中正大は、 金沢の兼六園や岡山の後楽園において、 栗林 公園より先に博物館 (あるいは物産陳列所) が設置されたことを指摘し、 「る と富永時塘内の上野公園に 鞏っ て、 文男閉花の公園となったように、 かつての大名庭る、 煙物館が主要部を占めてばじ 国立腫物館が理 あ て、 笏治 の 公 園 と な っ た と いえ よ う 」 と 考 察 して いる 41 。 図 6 に示 した 明 治37 (1904 ) 年 頃、 す な わち. 博物館が完成して間もない頃の栗林公園の姿を描いた図面には、 博物館に加えて、 その周辺に図書館42や喫 茶室という文字が散見できるが、 博物館を中心として、 その周辺部が田中の言うところの 「文明開化の公 園」 と しての 姿 に新 しく 整備 さ れてい た の であ り、 こ こ にき て、 明 治 8. (1875 ) 年 の碑 記 に書 か れてい た. 「西洋諸国園圀遊観の地 」 に匹敵す理想的な 「公園」 としての設えをようやく備えた、 とみなすことがで きる。 それゆえに、 園内への博物館設置は、 宣伝効果の高い要素とみなされ、 積極的にpR されたと考えら れる。. -. 34. -.
(7) . . . /ぞ る ぎ き れな れ さ す 劣 れ、 ‐ . . ふも マ!. . . 讓 藝 図5. 図6. 明治34 (1901) 年錦桧讃岐名所の一葉 (高松市歴史資料館蔵). 明治37 (1904 ) 年 頃の栗林公 園. 岩佐辰蔵描 讃岐高松栗林公園真景 (栗林公園観光事務所蔵) 出典 : 中西勉 『造園史』, 2004. (2 ) 大改修と観光振興 この間行われた幾つかの整備のなかでも、 特に明治44 (1911) 年から大正 2 (1913) 年にかけて実施さ れた改修工事は、 その詳細が連日香川新報で大々的に報道されてい る点で出色である。 往時は御殿の裏庭 で主に藩主の鴨猟場として利用されており、 畑や竹薮などが散在し荒廃が著しかった北庭を主な対象に、 宮内省内匠寮技師の市川之雄に委託し、 彼の手による図 7 の設計図に基本的に沿う形で基本的に大規模な 改 修 を行 い、 図 8 の よう な姿 へ と 変化 さ せ た。. 3 ヴェルサイユ高等専 市川之雄は、 33年間宮内省にあって造園事業、 園芸の仕事に携わった人物である4。 門学校教授アンリ ・マルティネー による設計図をもとに、 宮内省内匠寮頭福羽逸人と共に施工監督に当 たった図 9 の新宿御苑 (明治35 39年) をはじめ、 大面積の庭園に洋風を主体として設計 ・施工したと評 4 このように洋風造園に関する専門的知識 を備 される、 明治大正年間の宮廷造園の多く を手掛けていた4。 えていた市川は、 栗林公園の設計を行うに当たり、 そのコンセプトを 「栗林公園′ 〆"軟泉の美幽濠閑雅にし. て有石に富み趣味高尚情愛比類稀なる景家を有ず。 然れどる畢貢名園たるのみ未だ以て名公園と務する摩 5 すなわち栗林公園は名 「庭園」 であるが 現段階では名 「公園」 とはいえない 誉を挿するに足らず 」 4、 、 、 と したう え で、 そ の 意味 する と こ ろ を 次 の よう に解 説 している。. 今月に在て公園を閉殺せる以上ば時代の需要 を充ずに足るへき施設なかる 町ら ざるや言を僕た ざる所な 艀園たるの施設たる “御る公園なる るのば一部高尚士人の為多に段くるに非らず者若貴男女雅俗奏楽の遊 べく単に風 景の美 を以 て公園の嘉男 7 れ“とするか如きば謬 であやま り も亦甚ると云ふ けるi素よ“美. ば公園の主体にして衛生的設備と利徳の按配宜しきを得て逍運に宜しく遊戯に町に運動競技に通 的景趣 . ′ すべく威ひば操庭乗車の練習等心身の逸楽中不勉不識の彬に智育体育の稗補たるべく又園内の大道路ば 自由に車馬を許し歩行に難むるのに御ならしむ等公園の要ある所以な“46 今の 時代 にお い て 「公 園 」 と は、 単 に 風景 が美 しい という だ け で は、 そ の 機 能 を満 たす こ と が でき な い。. 美を満たした上で、 老若男女が共に集い楽しむことができるような、 逍遥や運動、 遊戯等の施設を設ける ことが必要不可欠だ、 というのである。 事実、 図 7 に示した市川による設計図は、 新たに設けた正門から 園内に通じる広幅員のアプローチや逍通園路、 運動場、 遊戯場など、 この彼の思想が具現化したものであ ることが指摘できる。 これにより、 先述した博物館の設置を経て漸次整いつつあった 「西洋諸国園周遊観 の地 」 に匹敵す理想的な 「公園」 としての設えが、 一気に強化された、 といえよう。. -. 35. -.
(8) では、 そもそも何故このような大改修が実施されるに至ったのか。 明治42 (1909) 年 8 月の香川新報に、 この改修に至る簡単な経緯が説明されている。. 土近に紹 去る35年本嫁に開かれる第 8 回関西府滌穆礬合奏進會が更に速 彰 介する機會とな 効彌来設備に遺憾な 〆 く今や天 下の名公園として屈指さる 撃と」至れ“然るに園内北部の樹林′. … (中略) … 漸次荒廃. 影 分にて句寮技節市" / に帰せんとず是に嫌当局者ば大々鈎施設を為ん事とる宮内省内麹寮福- " 逸人氏の沼 之雑氏来高設計する事に決る47 この記事からは、 明治35 (1902) 年の関西府県連合共進会開催以降、 行政や商工業者による宣伝活動が効 を奏し、 県内外での知名度が高まりつつあった栗林公園に対して、 その 「観光資源」 としての機能をさら に強化するべく、 整備不十分な箇所の改修が図られたことが伺える。 公園の大改修については、 既に明治 8 大正天皇の行啓に 30 (1897) 年代の段階で高松市内の商工業者を中心に強い要望の声があがっていた4。 9 県や市はもちろん 実業界も栗林 よる影響でさらにこの場所の知名度が高まっていく状況に後押しされ4、 、 公園の観光資源としての機能にさらなる大きな期待を寄せるようになり、 この度の大改修実現に結 びつい たと考えられる。 同様の期待は、 竣工を記念して書かれた次の記事においてより明確にみることができ る。. ヌハの知る如くにして 栗林公園の由来′ 、 真美景ば全国に乏な 晩 姥特殊の性質を帯ぶる栗林公園ば、 之 を管理する - 嫁の私 す町きるのにあら ずる て更に全国民、 又延ひて外人 にる之を賞せしめ ざる べから ず。 本嫁ガミ 今回北庭を愛修したるる魔精神に塞げるるのと云ふ ける。 而して、 若し、 本嫁の繁栄策の 玉なるるのガミ 益々多くの遊覧客を導くにあ “とせ′ズ 蛯名公園をるて絶え ず久々の要求する庭に夏物ま るむることを努め ざる けらず で中路ノ 嫁の繁栄、 高松の繁栄ば、 姥公園と子繋 どかんヴレリ する庭六な る る のあ ら む。 吾入 ば北庭 の 愛 修 を祝 す。 50. 最後の部分のみを抜粋したが、 この記事は、まず都市における公園の機能についての論考から始まる。 「繁 華なる大都會」、 特に欧米諸国の都市や東京においては公園のニーズ が高く、 その設置が進んでいるが、 こ 火の煮 攻に2疲れたら身神を癒さんとする場合、 又′ 〆悠壌"なる一月の激務 れは 「繁 準藝鴛 奮端 ガ會に在する人々ガミ 繁 茗る 友す迄 家を率ゐて家庭の秀彦薬を/屋外に慾にせんとする時、 劣 ガ復 すに公園の存汐沈鬱庚を感じるかばことに深込 1 しかし 高松のような小規模の都 なる 」、 つまり都市住民の慰楽の場としての機能が重要 だからである 5。 、 さて更に特殊の意味を発見 せずんばあらず 」 と 市においては必ずしもそうではなく、 「吾人ばン実参 蛾公園に家. 群蘂覆鬘議 事 難 離 餐 磁 轆 競觴 蕊 鰯 . 図8 き斧ゑ#‘. 大正 3 (1914) 年頃の栗林公園 岩佐辰蔵描 苗 栗林公園真景 (高松市歴史資料館蔵). 図7. 市川技師設計栗林公園北区改修平面略図 出典 : 明示42 (1909) 年 11月 14日 香川新報. -. 36. -.
(9) . 嗽. な 舷 さ,. . 図9 “G en era1 P 1an o f th e I m p eria1 Sh頃 uku G ard en ,. T okyo ". 出典 :椎原兵市 (1938) :『現代庭園図説』 :現代庭園図説刊行会. 肺林公園ば 高松の公園 否ノ したうえで、 栗林公園に付与すべき特殊な機能を 「乃ち、 木 、 ノ粥茗の公園にあら 、 ずん て、 〃本 の 公 園たる こ と にあ “ 」 と 定義 して いる 52。 先 に引用 した 記 述 は、 こ の 内 容 をよ り 具 体的 に. 解説したものである。 ここでいう栗林公園に付与すべき特殊な機能とは、 すなわち、 県内外より多くの遊 覧客を誘致するための観光資源としての機能だと指摘できる。 大改修と同時期、 竣工と共に正門通りとなる公園北門外には、 従来の 「公園焼紀太平店」 に加えて高松 3 さらに園内の敷地を有料で貸与し売店や貸席の営業を許可したた 土産物、 酒屋、 飲食店等数戸が出店し5、 め、 園内各所に留春亭や吹上亭など新しい茶屋が多く新設されたM。 また、 竣工式当日は、 園内に装飾電燈 が取り付けられ、 門外にも多くの露店が店を構え、 非常に賑やかな様相を呈していたという。 式典で披露 された県知事の挨拶でも、 改修を経て、 県内人はもとより、 県外人も多く来遊することに対する強い期待 が述 べ ら れている。 こ れら は、 当 時の 行 政や 商 工 業 者 の 間 で、 い か にこ の 改 修 による 「観 光 資 源」 と して. の機能強化が期待されていたかを端的に示しているといえよう。 改修後の栗林公園は、 県や市が地域振興策としての観光施策にさらに力を入れ始めるようになったこと から、 今まで以上に積極的に宣伝されるようになっ ていく。 北庭改修が完成した大正 2 (1913) 年には高 5 大正 3 (1914) 年には公園紹介図を製作し 高松港の連絡船待 松市が名所案内 『高松しるべ』 を発行 5、 、 6 さらに大正 4 (1915) 年には 栗林公園の紹介用写真を作成し 大正の御大典の 合所に掲示している 5。 、 、 ため各地から京都に人が集結する機会を狙って、 彼らが必ず立ち寄る大阪、 神戸など鉄道本線の主要駅や 門司、別府な ど主要港の待合所にその写真を発送する 57など、工夫を凝らした誘致活動を展開している。 そ の結果、 改修以降の栗林公園には、 全国各地から観光団が、 さらに内外の皇族 ・貴族が続々と高松を訪問 8 さらに大正11 (1922) 年には 史蹟名勝天 した記録が残っており、 その大半が栗林公園を訪れている 5。 、 然記念物保護法により、 栗林公園が名勝に指定されたことで、 かねてより評価されていた歴史的庭園美の 質の高さに国によるお墨付きを得、 それによって観光資源としてさらに知名度を上げたと考えられる。 昭 和 3 (1928) 年に市内で開催された産業博覧会59の会場選定の際、 高松城跡周辺60と栗林公園との 2 候補が 争った結果、 栗林公園には 「会場に当てなくても随分各地から寄り集る処である」 61として、 前者に決まっ たという経緯がある。 これは、 既にこの時期には栗林公園が県内外から多くの人々 を誘引する観光資源と して確 固 たる 地位 を築 い てい た こ とを 示 す 証左 とい えよう。. では 「観光行政黎明期」 以前、 明治20 (1887) 年代からこの空間に付随していた、 地域住民が日常的な 憩楽の場として、 時には特別な園遊会の場として利用する 「地域住民の公共空間」 としての機能は、 この. 一. 37. -.
(10) 間も継続していたのだろうか。 日常的な利用状況を示す明確な史料は数少ないが、 大改修時に整備された 園内の運動場や遊戯場を地元の小学校が林間学校や運動会に使用 したことを示す史料がみられること、 さ らに明治40 (1907) 年頃から園内にあったとされる県営の動物 園も、 地元住民の利用に供されていたと推 測できることから、 この 間新たに付与された勧業政策を担うイベント会場としての機能や、 強化されて い っ た 観 光 資 源 と しての 機 能 ほ どの比 重 はな い にせ よ、 こ の 間も 継 続 してい た と 考 え ら れる。 ま た、 園遊. 会の開催を示す史料は明治35 (1902) 年の関西府県総合教育大会の園遊会、 明治39 (1906) 年の凱旋歓迎 大祝賀会をはじめ、 時折みることができる。 但し、 県内住民にとどまらず、 園内あるいは高松城跡におい て 開 か れるイ ベ ン トと関 連 して 開催 さ れる ケ ース、 ある い は観 光 客 をも てな す た め に 開催 さ れる ケ ース が 増 加 してお り、 県 外の 人々 をも 含 むよ り広 大 なス ケ ー ルの も の へ と 変化 してい た こ と が指摘 できる。. 4 公園のなかの公園 - 観光行政推進期の栗林公園 (イントロダクショ ン). これに続く 「観光行政推進期」 での栗林公園の機能については、 「後篇」 において詳しくみていくため、 本稿ではその導入部のみを記すこととする。 この間、 国策として国際観光が推進されるようになった時代 状況を受けて、 香川県と高松市、 双方において従来以上に観光行政の比重が高まっていく。 鉄道を中心と する観光用の交通体系整備と共に、 新たな観光資源の整備も進み、 さらに新たな種類の 「公園」 として広 範囲に渡る瀬戸内海国立公園が誕生する。 このような状況のなかで、 かつて高松市における代表的観光資 源であった栗林公園は、 単独で機能するのではなく、 国立公園を背景に、 他の観光資源と繋がる広域観光 ネ ッ トワ ー ク の 一 部 に組み 込ま れる よう にな っ てい っ た と 考 え ら れる。. 大正 7 (1918) 年 5 月 10日の香川新報に、 国立公園の父と言われ、 瀬戸内海国立公園の成立およびその 整備方針にも多大な影響を与えた田村剛の寄稿が掲載されている。 「高松を中心とする一大廻 勤遊公園を設 置すべし 」 と題したこの論稿のなかで、 田村は点在する既存の公園をネッ トワーク化する 「廻遊公園」 の 必 要 性 につ い て、 以 下 の よう な 強い 主 張 を展 開 している。. 近年の特殊の文物の進花につれて従来の市内公園や市外公園ば単純に公園として経営してばとても成功 艀公園でなく 〆 るないるのであることば余が屡々論じて居る筵 であって、 将来の度 型葱鈎公園′ 余の所諺廻遊 ‘ てばな らぬ 62. さらにこれに続けて、 特に高松を中心に考えると、 その周辺には観光資源 (景勝地) が丁度良い距離を置 いて散布しており、 これらを互いに連ねて回遊的な設備をするだけでも 「優に内外の観光客を誇愛する実 力 を持 っ て居 る 」 と、 この 地 にお ける広 域 観光 ネ ッ トワ ー ク の 実 現可 能 性 を 高く 評価 して いる 63。. この田村の構想は、 その後現実に形になっていく。 図10は、 昭和 5 (1930) 年刊行の香川県による名所 案内 『讃岐 - 風光と産業』“に掲載された案内図である。 この図には海路、 陸路、 空路各々の交通手段が付 記 さ れてお り、 当 時既 に広 域 観 光 ネ ッ トワ ー ク を意 識 した ルー ト が形成 ・ 提 示 さ れてお り、 そ の 一 部 に栗. 林公園が組み込まれていることが伺える。 では、 このような変化が、 栗林公園に対する評価にいかなる影 響 を 及 ぼす こ と に な っ た の か。 こ の 点 につ い て は、 引 き 続 き 次稿 にて考 察 してい き た い。. -. 38. -.
(11) . . . . ヒル 図 10. 昭和 5 (1930) 年 『讃岐風光と案内』 より案内図 (一部筆者により加筆). 1. 平成20 (2008) 年 7 月発行の 『ランドスケープ研究』 流172. N o .2における特集 「地域における歴史的風致とラン. ドスケープ」 には、 都市計画研究者、 造園学研究者のみならず奈良文化財研究所、 国土交通省、 さらに地方自治 体のまち づくり行政担当者など、 多様な立場の人間がこの 「歴史まち づくり法 (通称)」 に関する論考を寄せてお り、 各々の立場に根ざした期待と現段階での課題が詳細に示されている。。 2. 平成20 (2008) 年現在、 園内の多くで既に江戸時代の絵図に基づく復元整備が実施され、 かつ英語表記をP arkか ら G ard en にする、 と いう 話 も 浮 上 して い る。. 3. 中西勉 (2004) : 造園史 (非売品)。 香川県栗林観光事務所主幹の中西氏が、 退官記念に作成した引継書である。. 4. 藤田勝重 (1974) :栗林公園 :学苑社. 5. 吉永義信 (1965) :栗林公園史考 :東京家政学院大学紀要 4 号 , 43 - 51. 6. 赤松景福 (1932) :栗林公園誌 :赤松景福. 7. 真鍋篤行 (2001) :明治 ・大正期の栗林公園の北庭改修について :高高史学第 3 号 , 54 - 69. 8. 野村美紀 (2008) :再発見 ・栗林公園の歴史 (地域レポート) : 香川経済研究所調査月報N o .253 ,. 9. 井原緑 (2005) :栗林公園にみる文化遺産の公園化とその変容に関する史的研究 :ラン ドスケープ研究 流1.68N o .. 2 - 9. 5 , 389 - 394 10. 山田勝次 (梅村) 撰 :高松栗林公園碑記 :高松栗林公園之碑 (栗林公園内に現存)。 下線は引用者. 11. 当時の日本国内にお ける公園観に関しては丸山宏 (1994) : 近代日本公園史の研究 :思文閤 出版、 白幡洋三郎 (1995) : 近代公園史の研究 - 欧化の系譜 - :思文閤出版に詳しい。. 12. 現在の四国新聞の前身。 明治22年 4 月 10日に創刊され、 昭和 16年 2 月 4 日に四国民報と合併 して香川日日新聞と 改称、 さらに四国新聞となる。. 13. 栗林公園 :明治23 (1890) 年 5 月 3 日香川新報. 14. 同上. 15. 岡山公園と栗林 :明治24 (1891) 年 5 月26日香川新報. 下線は引用者. -. 39. -.
(12) 16. 栗林公園 :明治23 (1890) 年 4 月 15日香川新報. 17. 明治22年に、 それまでの山田香川郡から、 当時 3 度目の独立を経てようやく政情が安定した香川県へ所管換がな さ れる。. 18. 大茶屋貸附に就て :明治29 (1896) 年12月26日香川新報. 19. 野村美紀 (2008) :再発見 ・栗林公園の歴史 (地域レポート) : 香川経済研究所調査月報N o .253 , 2 - 9 に詳しく、 これによると10月 10日. 13日の行啓で園内の掬月亭を宿泊所として利用 したため、 掬月亭を中心に園内の整備 ・. 改修が行われた。 また、 はじめに行啓が予定されていた明治33年においても同様の整備が行われていたという。 20. 当時の高松市では、 明治22 (1889) 年に設立した高松商工会議所、 明治27 (1894) 年に設立 した香川県実業会 (明治30 (1897) 年に高松支部発足) をはじめ幾つかの実業連合団体が組織され、 商工業繁栄を意図した多様な 活動を展開していた。 (高松百年史編集室 (1988) :高松百年史上巻 :高松市 , 218 - 227). 21. 高松百年史編集室 (1988) :高松百年史上巻 :高松市 , 247 - 249. 22. 同上. 23. 広井鏡涯 (1899) :讃岐名勝地誌 :宮脇開益堂. 24. 宮脇仲次郎 (1901) :錦檜讃岐名所 :宮脇開益堂. 25. 宮脇仲次郎 (1901頃) :讃岐名所圓檜 :宮脇開益堂. 26. 宮脇仲次郎 (1901頃) :讃岐名所蔦眞 :宮脇開益堂. 27. 高松市役所編 (1901頃) : たかまっ :宮脇開益堂. 28. 香川県内務部第四課 (1902) :讃岐案内 :宮脇開益堂. 29. 同上. 30. 同上 , 1 - 2. 31. 宮脇仲次郎 (1902頃) :栗林公園檜晝 :宮脇開益堂. 32. 香川県編 (1988) : 香川県史. 近代 2 :四国新聞社、 高松市役所編 (1933) :高松市史 :高松市役所、 高松市史編. 集室編 (1969) :新修高松市史 3 :高松市役所、 高松百年史編集室編 (1988) :高松百年史 33. 上巻 :高松市. 県立博物館は、 この間明治39 (1906) 年 8 月香川県物産陳列所と改称、 さらに大正10 (1921) 年 4 月香川県商工 陳列所と改称するが、 物産展示な どの常設展示は継続して行われていた模様である。 ちなみに、 その後昭和 13 (1938) 年 4 月に香川県商工奨励館と改称して、 現在に至っている。. 34. 栗林公園が位置する栗林村は、 大正10 (1921) 年11月に高松市域へ組み込まれる。. 35. この払い下げの経緯に関しては、 野村美紀が当時の松平化家扶の書簡から、 利用方法がないことを理由に願書提 出を見合わせようとしていたこと、 そして、 松平家が願書を提出したのは他国人の手に渡したくないとする心情 面を重視した結果であり、 払い下げの時点では具体的な利用計画はなかったことを明らかにしている。 (野村美 紀 (2003) : 「松平頼壽と被雲閤」 香川歴史学会大会報告). 36. 香川県内務部第四課 (1902) :讃岐案内 :宮脇開益堂. 37. 同上 , 159. 38. 宮脇仲次郎 (1901) :錦檜讃岐名所 :宮脇開益堂. 39 (1994) : 近代日本公園史の研究 :思文閤出版 , 47 - 64 40. 高橋理喜男 (1966) : 公園の開発に及ぼした博覧会の影響 , 12 - 24. 41. 田中正大 (1982) :日本の公園 :鹿島出版会 , 149 - 150. 42. この図書館は、 博物館の一部に旧藩時代の藩学講道館所蔵の図書数千巻を引き継いで開設することになったもの だが、 明治40年 (1907) 1月に廃止された。. 43. 市川の業績に関しては、 中島卯三郎 (不明) :市川 之雄氏の逝去と其の業績 : 造園研究第13輯 , 57 - 64、 佐藤昌. 一. 40. -.
(13) (1977) :日本公園緑地発達史. 下 巻 : 345 - 404 に 詳 しい。. 44. 同上. 45. 栗林公園北区改修概略説明 :明治42 (1909) 年11月 11日香川新報. 46. 同上. 47. 栗林公園北庭修築計画 :明治42 (1909) 年 8 月20日香川川新報. 48. 明治32 (1899) 年の香川県実業会高松支部の総会における議案に、 「栗林公園大修繕の件を地方庁に建議する事」 があがっている (高松百年史編集室編 (1988) :高松百年史 上巻 :高松市 , 224). 49. これについては、 野村美紀 (2008) :再発見 ・栗林公園の歴史 (地域レポート) :香川経済研究所調査月報N o.253 , 2 - 9 に詳しく、 行啓後には来園者が急増し、 博物館には 1 日に 3 千人余りの人が訪れ、 行啓後に出版された案内 図では、 宿泊した掬月亭やお手植えの松が協調して示されていたという。. 50. 公園改修竣工 :大正 2 (1913) 年 4 月 1 日香川新報. 51. 同上. 52. 同上. 53. 正門前の出店準備 :大正 2 (1913) 年 4 月 1 日香川新報. 54. 中西勉 (2004) :『造園史』 (非売品) , 180. 55. 高松百年史編集室編 (1988) :高松百年史 上巻 :高松市 , 506. 56. 公園紹介画掲示 :大正 3 (1914) 年 4 月 1 日香川新報. 57. 栗林公園写真発送 :大正 4 (1915) 年11月 7 日香川新報. 58. 市の事務報告には、 幾つかの観光団に対し、 栗林公園内掬月亭で茶菓によるもてなしを行ったり、 その際に絵葉 書 を 配 っ た な どの 記 録 が残 さ れて い る。. 59. 当時、 第 1 次世界大戦後の世界的不況と関東大震災により大不況に陥っていた国内産業の打開策として、 大正14 年頃から博覧会開催の動きが各地で強まってきていた。 高松も同様である。. 60. 高松城跡の西の丸跡を貫いて大正14 (1925) 年に開通した皇太子殿下御成婚記念臨海道路. 61. 全国産業博覧会場記念道路附近に決す :昭和 2 (1927) 年 5 月22日香川新報. 62. 田村剛 (1918) :高松を中心とする一大廻遊公園を設置すべし :大正 7 (1918) 年 5 月 10日香川新報. 63. 同上. 64. 香川県 (1930) :讃岐 - 風光と産業 : 香川県. -. 41. -.
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