生物の持つ多燃料エンジンが働く仕組み
~べん毛モーターのイオン透過機構を解明~
1.発表者: 東京大学分子細胞生物学研究所 准教授 北尾 彰朗 2.発表のポイント: ◆大腸菌が持つべん毛のモーターを構成する固定子にあたるタンパク質複合体が、その内部 に水素イオンを透過させ、モーターを回転させる仕組みの一端を解明しました。 ◆これまで未解明だったべん毛モーターの固定子の立体構造モデルを、実験データと計算機 シミュレーションによって初めて構築しました。 ◆高効率なエネルギー変換の機構を明らかにすることは、エネルギーを有効に利用できる生 物の仕組みを理解する上で重要です。 3.発表概要: 東京大学大学院総合文化研究科の西原泰孝特任研究員と同分子細胞生物学研究所の北尾彰朗 准教授は、大腸菌が持つべん毛のモーター(注1)を構成する「固定子」にあたるタンパク質 複合体の立体構造モデルを実験データと計算機シミュレーションによって初めて構築し、水素 イオン(プロトン、注2)などのイオンが固定子の内部を透過する機構の一端を明らかにしま した。 大腸菌やサルモネラ菌などの細菌は、細胞内外のイオン濃度の差に起因するエネルギーを非 常に効率よく利用して、べん毛のモーターとスクリューにあたるべん毛繊維を回転させ泳いで います(図1)。細菌のべん毛モーターには、プロトンを固定子に透過させて回転のために必 要なエネルギーを作り出すものや、ナトリウムイオンや複数のイオンを利用するものもありま す。しかし、細菌のべん毛モーターの原子構造はこれまで未解明で、イオンを透過する詳しい 仕組みも明らかになっていませんでした。 今回、西原泰孝特任研究員と北尾彰朗准教授は、これまで未解明だったべん毛のモーターの 固定子であるタンパク質複合体MotA/B(注3)の立体構造モデルを構築し(図2)、プロト ンがヒドロニウムイオン(注4)としてその内部を透過する機構と(図3)、プロトンの透過 がモーターの回転方向を一方向に制限するラチェットレンチのような動き(ラチェット運動、 注5)を生み出すことを明らかにしました(図4)。 このような高効率なエネルギー変換の機構を明らかにすることは、エネルギーを有効に利用 できる生物の仕組みを理解するために重要です。 4.発表内容: [研究の背景・先行研究における問題点] 生物の持つモータータンパク質は、細胞内外のイオン濃度の差などといった化学エネルギー を利用して、モーターの回転力を高効率に生み出すことができる優れた機能を持っています。 細菌のべん毛モーターはその代表的なものの1 つですが、多種類・多数のタンパク質で複雑に 構成されており、その機能の発現の仕組みには未解明なことが多く残されています。細菌のべん毛モーターには、大腸菌やサルモネラ菌のようにプロトンを利用するものだけでなく、ビブ リオ菌のようにナトリウムイオンを利用するものや、一部のバシラス属の細菌のように複数の イオンを利用できるものもあることから、複数の燃料を利用できる「多燃料エンジン」である といえます。 今回の研究対象となった大腸菌のべん毛モーター固定子MotA/B は細胞膜に埋もれており、 通常、膜の両側に生じるプロトン濃度の差をエネルギー源としますが、その膜貫通部位はプロ トンだけでなくナトリウムイオンも透過できると考えらえています(図1)。しかし、細菌の べん毛モーターの原子構造はこれまで未解明で、イオンを透過する詳しい仕組みも明らかにな っていませんでした。 [研究内容] 西原泰孝特任研究員と北尾彰朗准教授は、大腸菌のべん毛モーター固定子MotA/B の膜貫通 部位の立体構造を原子レベルで構築するために、先行研究で得られている多数のアミノ酸変異 情報、特に2 つの部位にシステインアミノ酸を導入した時に S-S 結合(注6)が形成される かどうかという情報を用いました。また、アミノ酸配列に基づいてタンパク質が細胞膜を貫通 する部分を予測する方法を用い、さらに原子構造を組み上げ最適な立体構造を予測するために、 分子動力学法(注7)などの大規模な計算機シミュレーションを用いました。その結果、これ まで知られているさまざまな情報を満足する原子レベルでの立体構造を構築することに成功し ました(図2)。 今回の研究で、タンパク質複合体MotA/B は内部にイオンの通り道であるトンネル状の空間 (チャネル)を持つことがわかりました。その途中でチャネルの空間が狭くなっており、イオ ンや水分子の行き来を制限する門のようなゲートがあることもわかりました。さらに、プロト ンがこの部分を透過するには、プロトンと水分子が結合したヒドロニウムイオンとして近づき、 ゲートを開けて通過する必要があることもわかりました(図3)。また、細菌の種類の違いに よって生じると予想されるゲート付近のチャネルの大きさの違いは、それぞれの細菌が利用で きるイオンの大きさとよく対応していることが明らかになりました。このことは、チャネルの 大きさが、どのイオンを透過させるか(イオン選択性)を決定する重要な要素であることを示 しています。 さらに、長時間の分子動力学シミュレーションからは、プロトンが透過・結合することで、 MotA/B 膜貫通部位の立体構造が変化することがわかりました。今回のシミュレーションにモ ーター回転子と相互作用すると考えられるMotA/B の細胞質ドメインは含まれていません。し かし、細胞質ドメインが膜貫通部位の立体構造変化に応じてそのまま位置を変化させると考え ると、細胞質ドメインはプロトンの透過によってモーターの回転方向を一方向に制限する大き なラチェット運動を生み出すような動きをすることが示唆されました(図4)。 [社会的意義・今後の予定] 今回、これまで得られていなかった細菌べん毛モーター固定子の原子レベルでの立体構造モ デルが得られたことは、今後のべん毛モーターの研究戦略に大きな影響を与えると期待されま す。本成果ではプロトンを透過する仕組みだけでなく、重要なアミノ酸を変えることで利用で きるイオンの種類が変わるという多燃料エンジンとしてのべん毛のモーターの性質の一端が初 めて明らかになりました。 生物が持つリニアモーターでは、これまでラチェット運動の利用されていることが示唆され てきましたが、回転モーターでこれが具体的に示されたのは初めてのことです。細菌のべん毛
モーターのような高効率なエネルギー変換メカニズムを明らかにすることは、エネルギーを有 効に利用できる生物の仕組みを明らかにする上で重要です。
5.発表雑誌:
雑誌名:「Proceedings of the National Academy of Science of the United States of America」 (オンライン版:6 月 9 日)
論文タイトル: "Gate-controlled proton diffusion and protonation-induced ratchet motion in the stator of the bacterial flagellar motor
著者: Nishihara Yasutaka and Akio Kitao* DOI 番号:10.1073/pnas.1502991112 6.注意事項: 日本時間6 月 9 日(火)午前 4 時(アメリカ東部夏時間:8 日(月)午後 3 時)以前の公表は 禁じられています。 7.問い合わせ先: 東京大学分子細胞生物学研究所 准教授 北尾 彰朗(きたお あきお) TEL 03-5841-1461 TEL/FAX 03-5841-2297 E-mail [email protected] 東京大学大学院総合文化研究科 特任研究員 西原 泰孝(にしはら やすたか) TEL 03-5841-1472 8.用語解説: (注1)大腸菌のべん毛モーター: 細菌のべん毛モーターは、図1左のように多種類・多数の タンパク質からなる複雑な構造を持っています。モーターの内部で回転する部分は回転子と呼 ばれます。一方、細胞膜に固定されている部分は固定子と呼ばれ、大腸菌の場合、タンパク質 MotA と MotB の複合体(MotA/B)です。
(注2)プロトン: 水素原子が電子を失って正の電荷をもった1H+イオンのことです。 (注3)モーター固定子タンパク質複合体MotA/B: 1 つの MotA/B 複合体は、4 分子の MotA と2 分子の MotB から形成されます(図1右)。1 つのべん毛には回転子の周りに 10 個程度 のMotA/B 複合体が存在していると考えられています。
(注4)ヒドロニウムイオン: 水分子にプロトンが結合して形成された正の電荷をもった H3O+イオンのことです。
(注5)ラチェット運動:ナットやボルトを締めたり緩めたりするために使う作業工具である ラチェットレンチのように、両方向の回転の動きから、一方方向のみの動きを生み出す運動の ことを言います。 (注6)S-S 結合: 2 つのシステインアミン酸が持つ硫黄原子(S)2 つが結合して形成され る化学結合のことです。比較的距離が近いアミノ酸ペアの間でしか形成されません。 (注7)分子動力学法: コンピュータを用いて、分子運動の模擬計算機実験を行い、分子の性 質や立体構造などを推定する方法です。タンパク質を構成する原子の位置を予測したり、タン パク質の振る舞いを予測したりすることができます 9.添付資料: 図1 細菌のべん毛モーターの模式図(左)と固定子にあたるタンパク質複合体の模式図(右) 図2 膜に平行な方向から(左)とペリプラズム側から(右)見たモーター固定子タンパク質 複合体MotA/B の立体構造
図3 分子動力学シミュレーションによって明らかになったべん毛モーター固定子MotA/B内 部でのプロトンの透過過程